今回は「見えそうで見えない」チラリズムについて語ろう。
モロ出しでそのものをバーンと見せられるよりも、見えそうで見えない状態、しかし完全に見えないわけではなく時々チラっとだけ見える、という状況に興奮する日本人男性はたいへん多い。
これには男性の想像力が大きく働いている。妄想力と言い替えてもよいだろう。「夜目遠目傘の内」という諺があるが、男性は無意識のうちに「見えそうで見えない部分」を自分にとって都合の良い想像で補ってしまう性癖がある。なので暗いところにいる女性/遠くから見る女性/傘をさしている女性は美人に見える、という話だ。私がよく利用しているボジョレヌーボーというソープランドでも、女の子の顔を葉っぱで微妙に隠して写真に撮影するという方法で巧妙に綺麗に見せている。チラリズムもこれと同じで、男性の想像力が性欲を大いに刺激するのだ。
しかしこれも前回の恥らい同様、生まれ育った文化によって大きく左右される現象である。日本人はチラリズム感度がおそらく世界で最高度に発達した文化に属しているが、アメリカ人は逆にこの感度がかなり低い。
日本語と英語を比べてみるとその理由がよくわかる。
日本語には「間」を重視する余白の美学がある。日本語で読者に感銘を与える手法の一つに「接続詞を省く」というものがある。「悲しかったので泣いた」と書くのはいまいちとされ、「電報を見た。涙が出た。」というように文と文を切り離すことで間に余白と余韻を作ることが美しいとされる。読者はこの間に想像力を働かせ、イメージが鮮烈となる。俳句も基本的にこれと同じ構造を持つ。
しかしこのスタイルは、読者の精神構造がだいたい均質で、誰もがだいたい似たような想像力を働かせてくれる、という日本に特有の前提の上にのみ成り立つ。一方、人種のるつぼと呼ばれ、移民からなる文化集団がいくつも共存しなければならないアメリカでは、そんなことをやっている暇はない。アメリカ英語のコミュニケーションは、相手に想像力を働かせるスキを与えず、こちらの言い分を100%正確に相手に伝えることを目的としている。正確に伝わらなければどんな事故につながるかわからないからだ。
つまり日本人は、日々の生活の中で想像力を鍛えられている。これがチラリズムの魅力を陰から支え、またアダルトビデオにおけるモザイク職人の重要性を高めているわけだ。
モロ出しでそのものをバーンと見せられるよりも、見えそうで見えない状態、しかし完全に見えないわけではなく時々チラっとだけ見える、という状況に興奮する日本人男性はたいへん多い。
これには男性の想像力が大きく働いている。妄想力と言い替えてもよいだろう。「夜目遠目傘の内」という諺があるが、男性は無意識のうちに「見えそうで見えない部分」を自分にとって都合の良い想像で補ってしまう性癖がある。なので暗いところにいる女性/遠くから見る女性/傘をさしている女性は美人に見える、という話だ。私がよく利用しているボジョレヌーボーというソープランドでも、女の子の顔を葉っぱで微妙に隠して写真に撮影するという方法で巧妙に綺麗に見せている。チラリズムもこれと同じで、男性の想像力が性欲を大いに刺激するのだ。
しかしこれも前回の恥らい同様、生まれ育った文化によって大きく左右される現象である。日本人はチラリズム感度がおそらく世界で最高度に発達した文化に属しているが、アメリカ人は逆にこの感度がかなり低い。
日本語と英語を比べてみるとその理由がよくわかる。
日本語には「間」を重視する余白の美学がある。日本語で読者に感銘を与える手法の一つに「接続詞を省く」というものがある。「悲しかったので泣いた」と書くのはいまいちとされ、「電報を見た。涙が出た。」というように文と文を切り離すことで間に余白と余韻を作ることが美しいとされる。読者はこの間に想像力を働かせ、イメージが鮮烈となる。俳句も基本的にこれと同じ構造を持つ。
しかしこのスタイルは、読者の精神構造がだいたい均質で、誰もがだいたい似たような想像力を働かせてくれる、という日本に特有の前提の上にのみ成り立つ。一方、人種のるつぼと呼ばれ、移民からなる文化集団がいくつも共存しなければならないアメリカでは、そんなことをやっている暇はない。アメリカ英語のコミュニケーションは、相手に想像力を働かせるスキを与えず、こちらの言い分を100%正確に相手に伝えることを目的としている。正確に伝わらなければどんな事故につながるかわからないからだ。
つまり日本人は、日々の生活の中で想像力を鍛えられている。これがチラリズムの魅力を陰から支え、またアダルトビデオにおけるモザイク職人の重要性を高めているわけだ。
多少書くことを生業としているにもかかわらず、
文学的な素養のない私ですが、
行間、間の空気は大切にしています。
日本語って難しいけれど、
面白いですよね。