カフェ・デ・キリコ

キリコの徒然

米田佐代子さんの「森のやまんば日記」2022年1月2日

2022-01-03 08:33:22 | Weblog
「行き着くところまで行ってみる―2022年のご挨拶
投稿日: 2022/01/02 作成者: yonedasayoko

 昨年秋から、このブログが書けなくなりました。読んでくださっている方もあり、「どうしたの?」と心配してくださる方もいて、個人的には「だいじょうぶ。生きています」とお返事してきましたが、そのいきさつをブログという公開の場で披露できる状態ではありませんでした。思えば2021年は「阿修羅のごとき年なりき」と振り返りたい思いです。年明け間もなくの2月初め、89歳だった姉が心不全で急逝しました。すでにコロナ禍による医療ひっ迫で、救急車は来てくれたものの馴染みのある病院はすべて満杯で入院させてもらえず、救急車があちこち探してやっと受け付けてくれる病院を確保、「地獄でホトケ」の思いで駆け込み、「ここにはいたくない。おうちに帰る」と叫ぶ姉を看護師さんたちがなだめすかしてストレッチャーに載せていく後ろ姿に「すぐにお迎えに来るから」と声をかけたのが最期、入院してから4日目の朝でした。その間面会は一切できず、異変の知らせで駆け付けた時はもうすべてが終わっていたのです。それから数か月、おひとりさまで遺言書も残さなかった姉のさまざまな手続ききを一手に引き受けて駆け回りながら、ひとりの人間が生きた痕跡が跡形もなく消えていくのをあまりにも理不尽なことのように思いつけて、彼女の「生きたあかし」を小さな冊子にして残してやりたいと思い始めたのはもう9月になってからでした。

 けれども、11月20日に『らいてう没後50年』の記念イベントをする予定があり、わたしは「基調報告」をしなくてはなりません。高良留美子さんから引き継いだ「女性文化賞」も選定しなくてはならない。有名な作家やアーティストの方がたにわたしごときが賞をさし上げるのはおこがましいから「地域で生活者として普通に暮らし、女性として自分の思いを発信している方を見つけ出すためには現地をあるかなくてはならないのですが、コロナのおかげでそれもままならず、それでも10月初め、なんとかこれはと思う方に信州まで会いに行ったその3日後、夫が突然倒れて入院、半身まひ状態に陥る‟事件”が起こりました。

 以来3か月、「正月には帰宅できるかも」という期待もむなしく、彼は病院で年越ししています。ここ何年かかかって調査と執筆に明け暮れ、出版社と「今年中に書きあげて出版する」約束を交わしていた矢先でした。はじめはコロナのせいで面会禁止でしたが本人の意識は明瞭で、医師立会いの下でやっと会えた時、真っ先に発した言葉が「オレの原稿がメモリーに保存してあるか確かめてほしい」ということだったのです。89歳の彼が驚異的にリハビリに取り組んでマヒした手が動くようになり、嚥下障害も発語障害(構音障害というのだそうな)もかなり克服してきたのは、原稿を完成させたい一心だったのでしょう。わたしは医師にも、看護師さんや療法士の方がた、介護担当の方にも彼の思いを訴え、個室に移れば面会可能と聞いて個室をお願いし、「週2回2人まで」という約束を守りながら、A4判で百数十ページの原稿を片っ端からプリントして病室に持ち込み(パソコンを持ち込む余地がなく、本人もまだキーボードが打てる状態ではない)、「どんな字でも鉛筆で書きこんでくれれば打ち直すから」と言ってあります。スマホはおろか、ガラケーの携帯さえ持ったことのない彼に携帯を持たせ、かけ方を教え、「かかってきたら、ここを押せば受信できる」と教えて何とか通信できるようになりました。病院の方たちはみんな親切で、看護師さんや療法士の方はもとより、受付の方までわたしが行くと「転ばないように気を付けてね」と言ってくれます。わたしは面会のない日も一日おきに病院へ通い、洗濯ものを届けたり手紙をことづけたりしています。

 そして今年の女性文化賞は、無事に長野県飯田市の相沢莉依さんという方にさしあげることができました。11月13日には地域のみなさんが「祝う会」をひらいてくださり、わたしも行くことができました(このことも後で書きたい)。けれども、そのとき恒例になった副賞のリトグラフを制作してくださる高良留美子さんの娘さんである竹内美穂子さんも来てくださったのですが、一緒に泊まった宿でその夜高良留美子さんの病状をうかがい愕然としました。退院しておひとりで暮らしていると聞いてお元気と思っていたのですが・・・。それから1か月後の12月12日、高良留美子さんは卒然として逝かれました。竹内美穂子さんのお話では、のこされたメモに「行き病めど 生き充ちていま ここに立つ」とあったそうです。わたしは、高群逸枝の晩年の作とおもわれる「満ち足りて枯れけむ花の心ぞも」という俳句とらいてうが戦時下1942-3年ごろ疎開先の戸田井で詠んだのではないかと思われる「生き生きてまた秋風の中にたつ」という句を思い出しました。老境にあって「充ち足りて」と自己の生をふりかえり、しかもそれを「立つ」と表現する意思の深さを感じたからです。わたしはこのように「充ち足りて」「立つ」ことができるだろうか?

 これに加えて、昨年1年間は思いもかけないことに、じぶんを語りなおす必要に迫られました。信濃毎日新聞が、らいてうの家が信州にあること,若き日のらいてうが悩み深い青春の一時期信州松本市郊外に滞在し、そこで自然と対話したことが『青鞜』の原風景となったということ、そしてわたし自身が敗戦後間もない長野市で新制高校生活を体験したことなどを合わせて「米田佐代子の人生とらいてうと信州」をインタビュースタイルで9月から12月まで12回にわたって連載するという‟大事件”に巡り合いました。取材執筆したのは文化部の河原千春記者です。彼女はすでに信州佐久出身の女性史家もろさわようこさんのインタビュー記事を長期連載し、昨年末『志縁のおんな』(河原千春編)として刊行されています。その合間に、信州出身でもないわたしをつかまえて「しつこい(これは讃辞)」取材攻勢をかけ、わたしの書いたもので入手できるものはほとんど読んだという勉強家で、わたしのアルバムを丸ごとコピーするという「身ぐるみはがされるような」思いをしましたが、わたしが信頼感をもって「これはあなたが書く原稿で、わたしが書くのではないから」とゆだねた記事です。12回連載したと言っても字数は足らず、わたしが書けばちがったアプローチになったかもしれませんが、これは若い女性記者が、「平塚らいてうを雲の上の人にしない」というわたしのスタンスを理解したうえで、らいてうが戦時下に日本の戦争の本質を見抜けなかった錯誤と、そのことに悩みもがいた日々、戦後どのようにそこから立ち直っていったかを、じぶん自身が時代と向き合うところから読み取ろうとする模索を書いてくれたことに感謝しています。12回分A3でないと入らない大きさですが、ご希望の方にはコピーをお送りします。宛先を書いてコメント欄にどうぞ。コメントは公表しません。

 そしてもう一つ、このことともかかわりますが、今年のわたしの課題はこれまでの「通説」的でないらいてうを書くことです。わたしが夫の原稿の完成を応援したいのは、研究者の端くれとしてこれまで手掛けてきたらいてうを、新しく見直したいと思っているからでもあります。そして彼はわたしに「あんたもらいてうを書かなくちゃだめだ」というのです。そのためにも不可欠なののは、最近らいてうの戦後日記で脚光を浴びたのですが、らいてう手書きの日記やダイアリーメモ、書簡、手記などがご遺族の奥村家とわがらいてうの会に分かれて所蔵されており、これを整理公開してらいてう研究に役に立てたいというのがわたしの悲願でした。昨年、奥村家から申し出があり、両者はもともと奥村家で保管していた資料であること、自伝編集中の小林登美枝さんが必要な分をご自分の手元に置かれ、それがらいてうの会に渡った経緯からいって、両者は「一体」のものであることを認識したうえで、これを公的機関に委ねて整理公開の手続きをとるのが良いのではないか、というご提案がありました。今その手続きが進行中です。じつは昨年らいてうの会の定款が改正され、会長制ではなく代表理事制になることになり、わたしは昨年秋に会長を退任する予定でしたが「没後50年」行事もあり、年度途中で会長退任よりも2022年度を迎える通常総会で退任するのが妥当ではないかと考えてわたしから申し出たのです。それまでに『らいてう資料』の整理公開の道をつくってから退任したいと思っています。

 自由人になったら「らいてう」を書きたい。あるいはもう遅過ぎたかもしれません。でも信毎の連載の最終号には、わたしの談としてかつてらいてうが語ったように「行き着くところまで行ってみる」ほかないと書かれてしまいました。見出しは、なんと「残りの人生、声上げ続ける」というのです。昔八坂スミさんという歌人がおられて「一票が 反戦平和につながれば 私は生きる 這いずろうとも」とうたって評判になったことがあります。わたしはまだよろめきながらでも自力で歩けるし、河原記者の記事によれば「目も耳も衰えてきたけれど口は達者」なのだそうです。彼女はわたしが言わなかったことを忖度して書くような人ではありません。わたしはたしかにそう言ったのです。「人間は死ぬまでは生きている」というのがわたしのモットーです。2022年はエレベーターのない3階のマンションに夫を迎え入れ、2人して一本指ででもキーボードを打って、思うことを書こう。「生きて」「立って」やがて「みち足りて枯れる花」になろう。今年も女性文化賞を出すゾ、いやその前に姉の「生きたあかし」を作らねばならぬと思いつつ。

 以上、長いブランクから立ち直りたいと思っているわたしからのご挨拶です。みなさまどうぞお元気でお過ごしください。2022年1月2日

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 お久しぶりです。
今回もまた、添付させていただきましたm(__)m
 有難うございます。

わたしも……<脊柱管狭窄症>で、ヨロヘタですが
 「一票が 反戦平和につながれば 私は生きる 這いずろうとも」に支えられています。   デ・キリコ