「ジャパニメーション」という言葉が出てきてから久しいが、
アニメがすっかり日本の文化の一つとして海外からも認知されているのは
周知の事であろう。しかしここ数年前、いや結構前から実はアニメ産業も
すっかり国内では空洞化しているようである。
ここでそれを知らせる記事がすでに3年前に発表されていた。
日本のアニメーションが、世界を席巻している。ご存じの通り、
スタジオジブリ制作の『千と千尋の神隠し』は世界中から賞賛され、
この三月に行われる米アカデミー賞長編アニメ部門の最有力候補である。
一般の方からすれば、隆盛を極めていると見えるに違いない。
しかし、業界ではその将来を不安視する声がむしろ大勢なのである。
アニメーションは、アニメーターという職人の細かな手仕事の積み重ねの産物で、
極めて製造業に近い。ラフなスケッチ画(原画)をもとに、
きっちり線引きされた多くの動画を作成、一枚一枚色を塗って仕上げたものを
撮影して編集する。最近ではデジタル制作による省力化に取り組んではいるが、
人手による作業がいまだに多く、人件費がかかる。
そのため、円高が進行した八〇年代半ばから、他のものづくり産業と同じく
簡単な工程作業を人件費の安い海外へと移してきた。
今では日本のアニメとはいっても、国内では最初の企画と原画を描くところまで。
その後の動画と仕上げの工程はほとんど海外に依存している。
特に依存しているのが韓国ソウルだ。アニメーター数はもはや東京よりも
ソウルの方が多く、その多くは彼らの存在なしには制作できない。
いざ朝鮮半島に何かあれば、日本のテレビアニメの多くが
放映休止に追い込まれることは間違いない。
問題はこの部分である。国際化時代のものづくりのあり方としては、
簡単な製品はアジア諸国に任せ、国内では研究開発や高付加価値型製品の
製造に特化する、との考え方が主流だ。
しかし、実際に現場で産業振興に携わってみると、
ことはそう簡単ではないのである。
アニメ制作においては、腕のいい核となるアニメーターがラフなスケッチを描き、
それを若いアニメーターたちが丁寧に線引きしていく工程がある。
動画の作業だ。ちょうど塗り絵の本にある線だけの絵を作っていると
思っていただければよい。この工程は単純といえば単純だが、
先輩の描いた線をなぞっていくことは、若いアニメーターにとっては
修行の場であった。
この工程を海外に出しているということは、国内から若手の修行の場を
奪っていることを意味する。言い換えれば、せっせと海外に修行の場を
与えているということに他ならない。たとえ単純な工程ではあっても、
そこから技術が流出していく。
実際、早くからこの工程を委託してきたソウルでは中堅アニメーターが育ち始め、
少なくとも(企画/演出面を除き)絵を描くという部分の能力では、
もはや日本をしのぐとまで言われている。業界の抱える不安のひとつが
この韓国台頭の脅威だ。
ものづくりの現場が先細っていく中で技術大国であり続けられるのか。
こうした不安を持っているのは、なにもアニメ業界だけではないだろう。
工場や工程の海外移転は、技術の流出を伴う。産業の裾野も狭くなる。
しかし、たとえ技術は高くない分野であっても、
幅広い裾野があってこその技術立国ではないのか。
こう考えると、これまで言われてきた“高付加価値化分業論”では済まされない、
新たな理論構築が不可欠となる。そのためには、様々な産業に携わる多くの人々
の英知を集める場を作る必要があるだろう。
こうした場で将来への明確な指針を見い出せなければ、
日本経済の復活などあり得ないはずだ。
(2003年3月15日付け朝日新聞「オピニオン」掲載原稿引用)
このように日本の若き夢見るアニメーター達も夢だけでは生活できず、
次々と好きな世界を諦め、転職を余儀なくされているとも聞く。
これでは名ばかりの「ジャパニメーション」である。
日本文化の保護という観点からして何とかならないものだろうか・・・。
何とかしてほしいと願っている。
アニメがすっかり日本の文化の一つとして海外からも認知されているのは
周知の事であろう。しかしここ数年前、いや結構前から実はアニメ産業も
すっかり国内では空洞化しているようである。
ここでそれを知らせる記事がすでに3年前に発表されていた。
日本のアニメーションが、世界を席巻している。ご存じの通り、
スタジオジブリ制作の『千と千尋の神隠し』は世界中から賞賛され、
この三月に行われる米アカデミー賞長編アニメ部門の最有力候補である。
一般の方からすれば、隆盛を極めていると見えるに違いない。
しかし、業界ではその将来を不安視する声がむしろ大勢なのである。
アニメーションは、アニメーターという職人の細かな手仕事の積み重ねの産物で、
極めて製造業に近い。ラフなスケッチ画(原画)をもとに、
きっちり線引きされた多くの動画を作成、一枚一枚色を塗って仕上げたものを
撮影して編集する。最近ではデジタル制作による省力化に取り組んではいるが、
人手による作業がいまだに多く、人件費がかかる。
そのため、円高が進行した八〇年代半ばから、他のものづくり産業と同じく
簡単な工程作業を人件費の安い海外へと移してきた。
今では日本のアニメとはいっても、国内では最初の企画と原画を描くところまで。
その後の動画と仕上げの工程はほとんど海外に依存している。
特に依存しているのが韓国ソウルだ。アニメーター数はもはや東京よりも
ソウルの方が多く、その多くは彼らの存在なしには制作できない。
いざ朝鮮半島に何かあれば、日本のテレビアニメの多くが
放映休止に追い込まれることは間違いない。
問題はこの部分である。国際化時代のものづくりのあり方としては、
簡単な製品はアジア諸国に任せ、国内では研究開発や高付加価値型製品の
製造に特化する、との考え方が主流だ。
しかし、実際に現場で産業振興に携わってみると、
ことはそう簡単ではないのである。
アニメ制作においては、腕のいい核となるアニメーターがラフなスケッチを描き、
それを若いアニメーターたちが丁寧に線引きしていく工程がある。
動画の作業だ。ちょうど塗り絵の本にある線だけの絵を作っていると
思っていただければよい。この工程は単純といえば単純だが、
先輩の描いた線をなぞっていくことは、若いアニメーターにとっては
修行の場であった。
この工程を海外に出しているということは、国内から若手の修行の場を
奪っていることを意味する。言い換えれば、せっせと海外に修行の場を
与えているということに他ならない。たとえ単純な工程ではあっても、
そこから技術が流出していく。
実際、早くからこの工程を委託してきたソウルでは中堅アニメーターが育ち始め、
少なくとも(企画/演出面を除き)絵を描くという部分の能力では、
もはや日本をしのぐとまで言われている。業界の抱える不安のひとつが
この韓国台頭の脅威だ。
ものづくりの現場が先細っていく中で技術大国であり続けられるのか。
こうした不安を持っているのは、なにもアニメ業界だけではないだろう。
工場や工程の海外移転は、技術の流出を伴う。産業の裾野も狭くなる。
しかし、たとえ技術は高くない分野であっても、
幅広い裾野があってこその技術立国ではないのか。
こう考えると、これまで言われてきた“高付加価値化分業論”では済まされない、
新たな理論構築が不可欠となる。そのためには、様々な産業に携わる多くの人々
の英知を集める場を作る必要があるだろう。
こうした場で将来への明確な指針を見い出せなければ、
日本経済の復活などあり得ないはずだ。
(2003年3月15日付け朝日新聞「オピニオン」掲載原稿引用)
このように日本の若き夢見るアニメーター達も夢だけでは生活できず、
次々と好きな世界を諦め、転職を余儀なくされているとも聞く。
これでは名ばかりの「ジャパニメーション」である。
日本文化の保護という観点からして何とかならないものだろうか・・・。
何とかしてほしいと願っている。