先の大戦が終わりを告げてから、50年の歳月が流れました。今、あらためて、あの戦争によって犠牲となられた内外の多くの人々に思いを馳せるとき、万感胸に迫るものがあります。
敗戦後、日本は、あの焼け野原から、幾多の困難を乗りこえて、今日の平和と繁栄を築いてまいりました。このことは私たちの誇りであり、そのために注がれた国民の皆様1人1人の英知とたゆみない努力に、私は心から敬意の念を表わすものであります。ここに至るまで、米国をはじめ、世界の国々から寄せられた支援と協力に対し、あらためて深甚な謝意を表明いたします。また、アジア太平洋近隣諸国、米国、さらには欧州諸国との間に今日のような友好関係を築き上げるに至ったことを、心から喜びたいと思います。
●東京帝国大学伝染病研究所『実験医学雑報』
・東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?
・1934年6月、宮川米次と阿部俊男は何をしに満洲国へ行ったのか?
・満洲衛生技術廠とは、一体何をやっていたところなのか??
・東大伝研は731部隊と連携を図っていなかったのか??
・伝研で毒ガスの講演?毒ガスへの対処法も考えることになるのか??
・小島三郎の渡満では、満洲衛生技術廠や大連衛生研究所にもいったのだろうか?
・1933年頃から細菌兵器開発の一環として、「満洲」の背蔭河では人体実験が行なわれているが、そこでも赤痢菌の研究が行なわれていたのだろうか?35年の川崎市の爆発赤痢は、人為的に行なわれたものなのか?それとも自然流行なのか?
・1936年5月に浜松一中で大福餅事件、37年9月に大牟田で爆発赤痢事件が起きているが、これなども細菌兵器・研究の一環として軍医学校や伝研の関与による仕掛けられたものか、自然に発生したものか究明する必要がある。
・1936年5月と37年9月の両事件に、小島三郎が出張しているが、果たして何をやったのであるか??
・河本禎助も毒ガスの研究をしていた。
・1938年6月1日の伝染病研究所で石井の厚意によって上映された映画には、731部隊の生体解剖でも映っていたのでであろうか? 精神的緊張裡とは、何のことだろうか?
・実験医学雑報20巻 第7号(1936年) 本所職制改正 この度本所では職制を次の如くに改正し7月より実施することとなった。 *特別研究室とは何だ??
第7章 満州事変
厳しく管理された公人としての生活を送ってきた天皇と皇后は、内大臣牧野、その秘書官長河井、侍従長鈴木の意見に従い、第1子である6歳の照宮を皇居内の別の建物で生活させるために宮殿の外へ出すことにした。夫妻はともに照宮を手放すのが残念だったが、それを要求する宮中の伝統を否定しようとはしなかった。
こうした雰囲気のもとで皇后は1932年末のある日、流産をしてしまった。その後、昭和天皇は君主としての責務を果たすために側室を置くことを求められた。かつて学習院院長や宮内大臣をつとめ、明治天皇、大正天皇に仕えた長老の伯爵田中光顕は、東京および京都でふさわしい側室を求めた。10人の姫君が選れ、さらに3人ヘと絞られ、そのうちの(おそらく、もっとも美しい)ひとりが宮中に招かれ(皇后陪席の下で)昭和天皇とトランプをしたという話である。 一夫一婦主義の昭和天皇は、おそらく、彼女にそれ以上の関心を持たなかったと思われる。1933年初頭、皇后は再び懐妊し、同年12月23日、皇太子明仁を出産した。彼らの私的な危機は去ったのである。
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