核・戦争のない世界!!

2024-07-09 09:01:05 | Weblog
「戦後50周年の終戦記念日にあたって」(いわゆる村山談話)
                             1995年8月15日

先の大戦が終わりを告げてから、50年の歳月が流れました。今、あらためて、あの戦争によって犠牲となられた内外の多くの人々に思いを馳せるとき、万感胸に迫るものがあります。

 敗戦後、日本は、あの焼け野原から、幾多の困難を乗りこえて、今日の平和と繁栄を築いてまいりました。このことは私たちの誇りであり、そのために注がれた国民の皆様1人1人の英知とたゆみない努力に、私は心から敬意の念を表わすものであります。ここに至るまで、米国をはじめ、世界の国々から寄せられた支援と協力に対し、あらためて深甚な謝意を表明いたします。また、アジア太平洋近隣諸国、米国、さらには欧州諸国との間に今日のような友好関係を築き上げるに至ったことを、心から喜びたいと思います。

 

南京大虐殺 
 
南京大虐殺(マギーフィルム) パネー号撃沈
        
        
 重慶爆撃               

 

原爆投下や東京大空襲ばかり取り上げて、 日本のテレビや教科書が重慶爆撃を取り上げないのは問題だと思います。 (視聴者のコメント)

  




 原爆    

 
 
【歴史】なぜ原爆ができたのか
 
どうして長崎に原爆投下されたのか
1945年8月9日、長崎は快晴無風の状態でした。その中で、島原半島上空をB29が北進しているとの情報が入りました。そして午前11時2分、異様な閃光とすさまじい爆風が長崎市街を覆いつくしました。
閃光と爆風の原因は、アメリカ軍の爆撃機が長崎上空の高度9,600メートルで投下したプルトニウム型原子爆弾「ファットマン」でした。原爆が爆発したのは上空約500メートル付近と考えられています。
爆発と同時に数千℃もの高温の火球が発生し、瞬間的に膨張しました。爆発からわずか10,000分の1秒で火球の大きさは30メートル、温度は30万℃に達します。原爆直下の地表は3,000~4,000℃もの高温で焼き尽くされました。
爆発時に発生した巨大なエネルギーは地上のあらゆるものを吸い上げ、上空へと巻き上げました。その時生じたのが原爆の象徴ともいえるきのこ雲です。約8分30秒後、きのこ雲の高さは9,000メートルに達しました。*10)
 
 
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原爆が使用されたのはなぜ?

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日航123便の怪(1985年8月12日)
 
     
 
●東京帝国大学伝染病研究所
伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より
 ●東京帝国大学伝染病研究所『実験医学雑報』
・東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?
・1934年6月、宮川米次と阿部俊男は何をしに満洲国へ行ったのか?
・満洲衛生技術廠とは、一体何をやっていたところなのか??
・東大伝研は731部隊と連携を図っていなかったのか??
・伝研で毒ガスの講演?毒ガスへの対処法も考えることになるのか??
・小島三郎の渡満では、満洲衛生技術廠や大連衛生研究所にもいったのだろうか?
・1933年頃から細菌兵器開発の一環として、「満洲」の背蔭河では人体実験が行なわれているが、そこでも赤痢菌の研究が行なわれていたのだろうか?35年の川崎市の爆発赤痢は、人為的に行なわれたものなのか?それとも自然流行なのか?
・1936年5月に浜松一中で大福餅事件、37年9月に大牟田で爆発赤痢事件が起きているが、これなども細菌兵器・研究の一環として軍医学校や伝研の関与による仕掛けられたものか、自然に発生したものか究明する必要がある。
・1936年5月と37年9月の両事件に、小島三郎が出張しているが、果たして何をやったのであるか??
・河本禎助も毒ガスの研究をしていた。
・1938年6月1日の伝染病研究所で石井の厚意によって上映された映画には、731部隊の生体解剖でも映っていたのでであろうか? 精神的緊張裡とは、何のことだろうか?
 ・実験医学雑報20巻 第7号(1936年) 本所職制改正 この度本所では職制を次の如くに改正し7月より実施することとなった。 *特別研究室とは何だ??
・中込亘は、731部隊で細菌に感染して死んだのだろうか?
 
雑報6号(23巻、1939年)
伝染病研究所創立41周年記念日に当り医学界を展望して所感を述ぶ
                     宮川米次
 
 (へ)脊髄前角炎の予防法
脊髄前角炎の病原体たるウィルスは鼻腔より脳底に侵入するものと信ぜられる実験的所見は非常に多い。然らばこの鼻腔に何か特殊の化学薬品を塗布することによって、予防的効果を挙げ得るや否やに関して可なり研究せられたものであって、1936年Armstrong&Harrison の所見に相次いでSabin、0Iitsky&Cox. Schultz&Gebhardt,Peet,Echols&Richter等の報告がある。1%の硫酸亜鉛溶液を臭覚域に塗布すると.猿に於いては約1か月間は本病毒を鼻腔に送入しても、善く感染を防止せらることが出来る事をば認めている。1938年.Lee Skahinian,Bacher Mc Naught&Newell等はこれを人体に応用した。臭覚域に塗布するのには、相当の技術を要するものであると言っている。要するに鼻腔上気道に塗布することが肝要で、脳底への進路を塞ぐのである。流行時に於いては相当確実なる方法であると言う。使用量は10歳以下の小児には0.2㏄、10-14歳のものは0.4㏄、成人には0.25㏄で充分である。この腫の方法は至極簡単であり、技術さえ適当であれば、何等の害はないということである。日本に見らるる夏期脳炎の普通の感染、伝播経路は、三田村博士等の説の如く蚊の媒介によるものとしても、実験的には比較的容易に鼻腔より感染させることが出来るのであるから、この種の薬剤に予防力ありや否やは検して置きたい事柄であると思う。
 
 
 
 
 
 
●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より) 吉田裕監修  
2001年ピュリッツァー賞受賞 
※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。
 
好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!
 戦後補償問題に国家無答責という天皇主権の明治憲法下の原則を適用するな!!   
 
第3部   陛下の戦争
1931(昭和6)年―1945 (昭和20)年  
 
第7章 満州事変
 
数週間後、天皇は、第2師団長の多門二郎中将と事変の緒戦に参加した朝鮮軍混成第38旅団の司令官依田四朗将軍をわざわざ褒章したのである。将軍たちはちょうど、広島県宇品港に着いたところだったが、天皇は、嘉賞(かしょう)の言葉を伝えるために侍従武官を遣わした。後に、天皇は多門と依田を宮中晩餐会に招くことになるが、そこでは彼らふたりと他の将官に対して菊の紋章の入った下賜品が与えられた。もちろん、このような下賜品は皇室行事として宮中の標準的な手続きであるが、この場合は、大元帥が上級将校らの行為を認め、誉め称えていることを意味していた。雷光のごとき速さで死傷者もほとんど出さずに、彼らは天皇が責任を有する明治時代の値民地遺産を拡大したからである。
 
 

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