「戦後50周年の終戦記念日にあたって」(いわゆる村山談話)
1995年8月15日
敗戦の日から50周年を迎えた今日、わが国は、深い反省に立ち、独善的なナショナリズムを排し、責任ある国際社会の一員として国際協調を促進し、それを通じて、平和の理念と民主主義とを押し広めていかなければなりません。同時に、わが国は、唯一の被爆国としての体験を踏まえて、核兵器の究極の廃絶を目指し、核不拡散体制の強化など、国際的な軍縮を積極的に推進していくことが肝要であります。これこそ、過去に対するつぐないとなり、犠牲となられた方々の御霊を鎮めるゆえんとなると、私は信じております。
「杖るは信に如くは莫し」と申します。この記念すべき時に当たり、信義を施政の根幹とすることを内外に表明し、私の誓いの言葉といたします。
南京大虐殺
原爆投下や東京大空襲ばかり取り上げて、 日本のテレビや教科書が重慶爆撃を取り上げないのは問題だと思います。 (視聴者のコメント)
原爆
国によって大きくわかれる原爆投下への評価
原爆投下は、軍事的な目的に加え、戦後の国際秩序を睨んだアメリカの戦略の一環とも指摘されています。アメリカは、ソビエト連邦とともに連合国としてドイツや日本と戦いましたが、特にヨーロッパにおいて戦後の主導権をめぐって対立を深めていました。アメリカは原爆の威力をソビエトに見せつけ、軍事的優位を示そうとしたと考えられています。
また一般市民への無差別攻撃は、当時としても戦時国際法違反として問題視されるものでした。当時の日本政府は「無差別性、残虐性を有する本件爆弾を使用せるは人類文化に対する新なる罪悪なり」「非人道的兵器の使用を放棄すべきことを厳重に要求す」とアメリカに抗議しています。
一方で、アメリカや、日本の統治下や占領下にあったアジアの国々などでは、原爆が戦争を終わらせ、結果として多くの人の命を救った、原爆が日本の支配から解放したと、多くの人が考えています。
原爆が使用されたのはなぜ?
●東京帝国大学伝染病研究所
●東京帝国大学伝染病研究所『実験医学雑報』
・東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?
・1934年6月、宮川米次と阿部俊男は何をしに満洲国へ行ったのか?
・満洲衛生技術廠とは、一体何をやっていたところなのか??
・東大伝研は731部隊と連携を図っていなかったのか??
・伝研で毒ガスの講演?毒ガスへの対処法も考えることになるのか??
・小島三郎の渡満では、満洲衛生技術廠や大連衛生研究所にもいったのだろうか?
・1933年頃から細菌兵器開発の一環として、「満洲」の背蔭河では人体実験が行なわれているが、そこでも赤痢菌の研究が行なわれていたのだろうか?35年の川崎市の爆発赤痢は、人為的に行なわれたものなのか?それとも自然流行なのか?
・1936年5月に浜松一中で大福餅事件、37年9月に大牟田で爆発赤痢事件が起きているが、これなども細菌兵器・研究の一環として軍医学校や伝研の関与による仕掛けられたものか、自然に発生したものか究明する必要がある。
・1936年5月と37年9月の両事件に、小島三郎が出張しているが、果たして何をやったのであるか??
・河本禎助も毒ガスの研究をしていた。
・1938年6月1日の伝染病研究所で石井の厚意によって上映された映画には、731部隊の生体解剖でも映っていたのでであろうか? 精神的緊張裡とは、何のことだろうか?
・実験医学雑報20巻 第7号(1936年) 本所職制改正 この度本所では職制を次の如くに改正し7月より実施することとなった。 *特別研究室とは何だ??
・中込亘は、731部隊で細菌に感染して死んだのだろうか?
雑報6号(23巻、1939年)
伝染病研究所創立41周年記念日に当り医学界を展望して所感を述ぶ
宮川米次
3、興味ある細菌学的所見
ジフテリア菌に関する研究
(ホ)「ジフテリア」菌より偽性ジフテリア菌を生じ得るや
Leviatha1(Z.Hyg.106,1926)の研究によって、真性ジフテリア菌を、人工的操作によって偽性菌たらしめ得るという所見は多くの人々によって研究せられた所であった。別項に述べた通り、人工的に可なり変形を為してもその毒性は却々に変わらない特性を有しているものであるが、Max Waldhecker(C.f.Bac.142,1938)は培地に色々の試薬を加えて、Levinthalの所見を追試したが、却々所期の所見を得られなかった。然るにやはり氏の言の如く家兎の血清を加えて培養すると、12本の中より2本に於いて、、偽性菌を発見することが出来、世代を重ねても性状に変化はなかったと言うている。興味ある事実であって、果たして真なりとせば、真性菌より偽性菌が出来ると言うことになるのである。。健康者の咽頭等に見らるる偽性菌の意義に特別の注意を払う必要があることともなり、追試してみる価値があると思う。
●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より) 吉田裕監修
2001年ピュリッツァー賞受賞
※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。
好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!
戦後補償問題に国家無答責という天皇主権の明治憲法下の原則を適用するな!!
第3部 陛下の戦争
第7章 満州事変
Ⅱ
上海の戦闘を通じ、そして戦闘の後でさえ、日本の将兵は、けっして降伏しないという日露戦争後に確立した教義の効力を病的なまでに実証した。1932年2月、中国軍に捕らえられた空閑(くが)昇少佐は捕虜交換で日本に帰還したが、捕虜になったことの償いに自殺をした。荒木陸軍大臣は空閑の軍人精神を賞賛し、彼はのちに靖国神社に祭られることとなった。これ以降、生きて捕虜となった士官は、しばしば、あからさまに自殺を強いられることとなった。多くの本、映画、舞台劇が上海の前線でみずからの命をささげた「人間爆弾」や「肉弾」を賞賛した。
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