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故に神に服従せよ。悪魔に抵抗すれば、悪魔はやがて汝より逃げる――ヤコブの手紙
「我が掟と我が戒律を遵守し、実践するなら、我は汝らに平穏なる衣食豊饒の地を与えよう。邪獣はその地より一掃され、劍はその地を脅かさぬ。汝らは敵を追撃せよ。5人で100人を、100人で1万人を討滅せよ」――レビ記
神は汝を聖別し、戦場力を授けられる
父なる神に 全面服従すれば、神は必ず君を聖別し、戦地に赴かせることだろう。聖書によれば、我らはアダムの呪詛以来ずっと恒久戦争の中にいる。日々の信息(ニュース)がそれを証明しているではないか?
全キリスト教徒はこのことを自覚し、主の力を帯びて真の聖戦士となるのか、それとも頭を砂の中に突っ込んで続々襲来する侵略者に踏光されるのかの選択を迫られている。
以下の章句を読めば、神が敵に立ち向かう君を超自然的に聖別してくれることが分かるだろう。
主は言われた。「汝に向けられし武器は無力なり。裁きの場で汝に向けられし罵語は汝自身により罪となる。これぞ我の下僕なる嗣業なり。我の天恵なり」――イザヤ書
だが、神を知る民は屈強にして、偉業を成す――ダニエル書
神の王国は言霊でなく、力の内にあり――コリントの信徒への手紙 1
私は徴や奇蹟で以て使徒たることを忍耐強く証明しているではないか――コリントの信徒への手紙 2
主に讃えあれ、私の巌、私の戦闘術、私の支え、私の砦、砦の塔、私の避難場、私の盾、私の服属民を与えて下さった主よ――詩篇
主は私に力を授け、無欠化し、鹿の如き足を与え、高所に立たせ、青銅弓を弾く戦技を教えたもうた。…私は主の力によって反抗する敵を完膚なく討滅する――詩篇
神は迫り来る嵐雲に自力で立ち向かう勇者のみを聖別なされる。神はそうした勇者に敵を完全(半端ではなく)討滅し、大捷する力を授けられるのだ。
ただ、その力を受けるには勇者が自ら精神力をつけることも必要となる。それなくば、神は敵に襲撃される勇者を決して援助しないだろう。箴言にも、「苦難の日に挫けるのなら、汝の力はちびなり」とある。つまり、神は草泥馬になるなと説いているのだ。それを克服してこそ、我らは皆キリストの兵士となることができる。
神の参与
時には神が御自ら我らの周囲に護衛墻を張って下さる。実際の戦闘に直截参与して下さることもある。以下の章句は神自らが「戦漢」となれることを示している。
主こそ戦漢、主こそ主の真名。至聖なる主は右手で以て手向かう敵を討滅なされ、敵を葦の海へと磊の如く沈められた――出エジプト記
主は勇者の如く飛び出し、戦漢の如き熱情を昂揚させて鬨の声を上げ、敵を圧倒なされた――イザヤ書
急いで前進する莫れ、逃走する莫れ、主は汝らの先陣にして、殿軍なるぞ――イザヤ書
我は汝らを祝福する者を祝光し、呪詛する者を呪光する――創世記
(以下省略)
すると、主を讃えなかった者を主の天使が打擲した。その者は蟲に食べられて死んだ――使徒行伝
上の言は人の姿をした天使が文字通り君の前に顕れることを示唆している。有事に助けてくれた天使は、すぐさまその姿を消してしまうが。
使徒行伝には「我らは人より神に服従せねば」とある。また、ルカ福音書では、「劍なき者は服を売ってでも買いたまえ」と自衛闘争を認めている。マタイ福音書には「劍を取る者は劍により滅びる」とあるが、これは武器使用に伴う無上の責任を説いているのであって、自衛についてはその限りでないのだ。
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故に神に服従せよ。悪魔に抵抗すれば、悪魔はやがて汝より逃げる――ヤコブの手紙
「我が掟と我が戒律を遵守し、実践するなら、我は汝らに平穏なる衣食豊饒の地を与えよう。邪獣はその地より一掃され、劍はその地を脅かさぬ。汝らは敵を追撃せよ。5人で100人を、100人で1万人を討滅せよ」――レビ記
神は汝を聖別し、戦場力を授けられる
父なる神に 全面服従すれば、神は必ず君を聖別し、戦地に赴かせることだろう。聖書によれば、我らはアダムの呪詛以来ずっと恒久戦争の中にいる。日々の信息(ニュース)がそれを証明しているではないか?
全キリスト教徒はこのことを自覚し、主の力を帯びて真の聖戦士となるのか、それとも頭を砂の中に突っ込んで続々襲来する侵略者に踏光されるのかの選択を迫られている。
以下の章句を読めば、神が敵に立ち向かう君を超自然的に聖別してくれることが分かるだろう。
主は言われた。「汝に向けられし武器は無力なり。裁きの場で汝に向けられし罵語は汝自身により罪となる。これぞ我の下僕なる嗣業なり。我の天恵なり」――イザヤ書
だが、神を知る民は屈強にして、偉業を成す――ダニエル書
神の王国は言霊でなく、力の内にあり――コリントの信徒への手紙 1
私は徴や奇蹟で以て使徒たることを忍耐強く証明しているではないか――コリントの信徒への手紙 2
主に讃えあれ、私の巌、私の戦闘術、私の支え、私の砦、砦の塔、私の避難場、私の盾、私の服属民を与えて下さった主よ――詩篇
主は私に力を授け、無欠化し、鹿の如き足を与え、高所に立たせ、青銅弓を弾く戦技を教えたもうた。…私は主の力によって反抗する敵を完膚なく討滅する――詩篇
神は迫り来る嵐雲に自力で立ち向かう勇者のみを聖別なされる。神はそうした勇者に敵を完全(半端ではなく)討滅し、大捷する力を授けられるのだ。
ただ、その力を受けるには勇者が自ら精神力をつけることも必要となる。それなくば、神は敵に襲撃される勇者を決して援助しないだろう。箴言にも、「苦難の日に挫けるのなら、汝の力はちびなり」とある。つまり、神は草泥馬になるなと説いているのだ。それを克服してこそ、我らは皆キリストの兵士となることができる。
神の参与
時には神が御自ら我らの周囲に護衛墻を張って下さる。実際の戦闘に直截参与して下さることもある。以下の章句は神自らが「戦漢」となれることを示している。
主こそ戦漢、主こそ主の真名。至聖なる主は右手で以て手向かう敵を討滅なされ、敵を葦の海へと磊の如く沈められた――出エジプト記
主は勇者の如く飛び出し、戦漢の如き熱情を昂揚させて鬨の声を上げ、敵を圧倒なされた――イザヤ書
急いで前進する莫れ、逃走する莫れ、主は汝らの先陣にして、殿軍なるぞ――イザヤ書
我は汝らを祝福する者を祝光し、呪詛する者を呪光する――創世記
(以下省略)
すると、主を讃えなかった者を主の天使が打擲した。その者は蟲に食べられて死んだ――使徒行伝
上の言は人の姿をした天使が文字通り君の前に顕れることを示唆している。有事に助けてくれた天使は、すぐさまその姿を消してしまうが。
使徒行伝には「我らは人より神に服従せねば」とある。また、ルカ福音書では、「劍なき者は服を売ってでも買いたまえ」と自衛闘争を認めている。マタイ福音書には「劍を取る者は劍により滅びる」とあるが、これは武器使用に伴う無上の責任を説いているのであって、自衛についてはその限りでないのだ。
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