【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

小説・耶律大石=第一章_19節=

2015-04-04 18:32:10 | 歴史小説・躬行之譜

 その夜半、耶律大石は二つの文を認めた。 燕京にいる友・安禄明へ と 興慶のセデキ・ウルフ宛の文であった。 安禄明への文面は短く、耶律時が阿骨打の動向偵察に赴いている。 ついては、燕京にいる耶律遥に居庸関の旧臣が隠れ屋にて時との連絡を繋ぐ事の依頼であった。 他方、興慶へはチムギ子飼いの畢厳劉が携える長文であった。 燕京に居るチムギの尊父石抹言と政商・安禄衝の助言を受け入れ、天祚皇帝の西夏への亡命を諾でもなく否でもない状態で領内最北の荒地に仮寓させている事への正式な礼状と、遼帝国の崩壊は現実であるが しかし 遼帝国の最後の統帥として、今後採るべき遼・耶律家の再興は故地の草原に立ち戻って図る旨が記されていた。  

 五日後の1123年9月15日、畢厳劉が西夏の都興慶から帰任した。 思いがけない西夏王国丞相セデキ・ウルフの返書をたずさえ、また 丞相夫人からチムギ宛てに送られた小荷物を抱えての帰着であった。 礼状として差し出した書簡に返書として綴られたウルフ氏の文面には、互いに認識なきもの同士であるが 大志を抱くもの同士が抱く聡語があった。 書面に眼を透視ながら、大石は決意した北帰行への不安が安らぐのを覚えた。 無論、その詳細は漠としたものであったが、 小荷物はチムギの姉・パチグルが送った冬用の衣服であった。

  そのころ、 東方の居庸関、金軍が巡回する軍用基地の近くにある営北溝村で隠住する耶律喜孫のあばら家に耶律時と遥の兄弟が密会していた。 耶律喜孫は北遼の旧臣、金の召集に応じず、この寒村に封領地があり移住していた。 無論、耶律大石の金軍からの脱出劇にこの三名が主役を演じたのであるが、久方の再会にも関わらず金軍内での噂として話し出した耶律喜孫がもたらした情報は重要であった。 逃亡した遼の天祚帝の追撃軍を親征軍として編成した阿骨打皇帝が会寧(上京会寧府) を出たのが一ヶ月ほど前のこと。 しかし、なぜかは部堵濼(ウトゥル、現在の瀋陽付近)で進軍を止め、留まっていると言う。 時の判断は早い、居庸関から部堵濼まで早駆で三日である。 阿骨打の動静を確認することが先遣隊の第一義的任務である。 確認できないまでも金軍中枢の動向が判読できると判断して、明朝 単独で偵察に出る事にした。 弟の遥には燕京に立ち戻り帝都の動きを探る事を命じ、異変があれば張家口・長城大境門北側に設けた基地に集結する事を命じ、部堵濼で探りえた情報を持って自分は大境門基地に戻ると伝えた。  

 阿骨打の祖父は生女真・完顔部の族長烏古廼(景祖)、父は族長を継いだ劾里鉢(世祖ガリベチ。 烏古廼の次男であり、阿骨打も次男であった。 生母は女真挐懶(ダラン)部の首長の娘である翼簡皇后であった。 完顔部=満州のワンギヤ部の前身で、慣例としてワンヤンと読む=は女真人のうちからは間接統治を受ける生女真(セイジョシン)の一部族であり、松花江の支流按出虎水(アルチュフ川)の流域(現在の黒竜江省ハルビン市)に居住していた。 

  阿骨打の先祖は完顔部の族長として遼から節度使の称号を与えられ、遼の宗主権下で次第に勢力を拡大した。阿骨打は完顔部の族長・節度使を務めた父、叔父の盈歌(穆宗)、兄の烏雅束(康宗)を補佐して完顔部の勢力拡大に功があり、このころまでに完顔部は生女真をほとんど統一していた。 1113年、兄が死ぬと阿骨打が完顔部を継ぎ、都勃極烈を称した。 翌1114年、遼に対して挙兵し、遼の拠点寧江州(現在の吉林省)を攻撃し、これを占領した。 更に 猛安・謀克の制を立てて、女真人を軍事的に組織した。 また阿骨打自身は雄々しい容貌を持ち、身の丈八尺の偉丈夫で、寛大で厳格かつ寡黙な男性で、女真族の理想的な君主であったという。

 

   1115年、阿骨打は按出虎水で皇帝に即位し、国号を大金と定め、按出虎水にある会寧(上京会寧府)を都とし、「収国」の年号を建てると、同年遼の・天祚帝率いる大軍を破った。 北の遼に苦しめられてきた北宋は阿骨打の威勢を聞いて遼を挟撃しようと図り、1120年、金と海上の盟といわれる同盟を結んだ。 これにより阿骨打は遼との決戦に臨み、同年遼の都上京を占領し、さらに燕京(現在の北京)に迫った。 翌 1121年、遼の天祚帝は燕京を放棄して西走し、遼の支配は殆ど壊滅した。 

   一方、宋軍は方臘の乱など国内の内乱鎮圧に振り向けられていたため到着が遅れ、阿骨打は北宋との盟約に従って燕京を攻め残した。 その後、宋軍が到着して燕京に攻めかかるが、弱体化した宋軍は耶律大石の率いる遼の残存勢力に連敗したため、宋軍の司令官童貫は金に対して燕京を落とすよう要請し、金軍が燕京を攻略した。 金の将軍達はこのまま燕京を金の領土にすべきだと主張したが、阿骨打は盟約を尊重して燕京以下六州を北宋に割譲し、代わりに燕京の人民を全て連れ去った。 またこの代償に、金は遼にかわって宋から歳幣に銀20万両・絹30万匹・銭100万貫・軍糧20万石を受けることになった。 

   1123年、夏の蒸し暑さが終わるころ 阿骨打は逃亡した遼の天祚帝を追撃する親征の軍を発した。 長春、通遼を経過して瀋陽へと軍団を率いて南下して行った。 瀋陽から西に向かい、朝陽に抜け赤峰へ、シュリンゴロの大草原南縁を西走すればウランチャブ(鳥欄察布)に至る。 万里の長城が北側を平行して西行する経路であり、草原の道が続く。 天祚皇帝を討ち取り、雪辱を与えた上に西夏に金の武力を誇示できうる進軍は誠に容易であった。 万里のち長城の北域は、 もはや 阿骨打皇帝が支配する地域である。 通過する村落の長たちが献上品を差し出し、伽する娘が絶える事はない。 

 しかし、阿骨打の親征軍が部堵濼(ウトゥル、現在の阜新市付近)に差し掛かった9月中旬、進軍は停止した。  阿骨打帝が体調を崩したのである。 その事は、極秘にされた。 秘密を維持する為に伽する女性は隔離された。 親征軍の行軍であり、占い師を兼ねる医術師が二三名同行している。 だがしかし、彼らで処置できる病ではないようである。 回復祈願の祈祷を執り行う事はできない。 自領内とはいえ、宋や西夏の密偵の眼を防がなければならない。 草原地帯に二千名近い完全武装の軍団が野営する。 騎馬遊牧民は羊などを帯同して進軍するゆえ、水さえあれば兵糧の心配はない。 しかし、予期せぬ停滞は四日に及び、軍団の中心に立てられている大斧が槍飾りの阿骨打が御霊は移動する事がなかった。 そして、五日目の9月19日 阿骨打の御霊が倒され、四名が一団となった騎兵が四方に走り去った。 

 

  耶律時が居庸関営北溝村を離れたのは二日前のことである。 彼は北遼の旧臣・耶律喜孫が得た≪阿骨打皇帝の親征軍が部堵濼(ウトゥル)で進軍を止め、留まっている≫情報の確認に街道を早駆けして来た。 昨夜は承徳城と朝陽城の中間であろう凌源邑の交易宿に泊まり、風聞を探った。 昨日の昼前には朝陽城を通過し、阜新城の交易宿にて金軍が進軍せずに野営しているとの噂を確認している。 今朝早く阜新城を出立し、瀋陽への街道を東に急いでいた。 部堵濼へは愛馬に鞭打てば6時間程度の襲歩で到達できるであろうと草原の道を快走して行く。 

   時が進もうとする街道を金軍の将兵が遮断していた。 金の伝令を装う時は、襲歩で金軍の集団に分け入った。 が、忽ち 五六騎の将に取り囲まれ 問答無用でおしかえされた。 「伝令、この状況下、 誰も 受ける者は居るまい。 伝令の任に就いていようとも これ以上進めば矢が迎えるぞ。 文があれば置いていけ、無ければ去れ」  「将、何か変事が・・・・・」  「伝令がごとき下郎、直ちに去れ!!!!」

  時には成すすべが無い。 しかし、この厳重な構えは何なのか・・・・・・・  諸将は軍旗を翳していないが・・・・・

 ・・・・・続く・・・・・・

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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

森のなかえ

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