【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

現代の探検家《植村直己》 =017=

2017-09-06 06:30:00 | 浪漫紀行・漫遊之譜

○◎ Great and Grand Japanese_Explorer  ◎○

探検家になるために必要な資質は、臆病者であることです =植村直己

= Webナショジオ_“河江肖剰-新たなピラミッド像を追って”より転載・補講 =

 自分が主役になるよりは常にメンバーを影でサポートするような立場でいたい ☠ 

◇◆ 冒険家の食欲 =4/6= ◇◆

クジラやアザラシの皮下脂肪脂肪をちょっとつけて生肉をよりおいしく食べる方法も、エスキモーのやり方にならったものだった。

 先に書いたように、植村が犬橇旅行で多く用いたのは、まずアザラシで、ついで自分で釣りあげたオヒョウであった。しかし『冒険学校』では、さまざまな動物や鳥類を食べた体験が語られていて、なかなか興味深い。 次にその一部を紹介しよう。

 まず、カリブー。 これは「一万二千キロの旅」で彼自身が銃で仕止めた。 《カリブーの解体は最初に腹を割るわけですけど、アザラシと違って皮下脂肪が少ないので、ちょうど着物を脱がせるように、簡単に皮がむける。 (中略)それで皮をむきますと、ちょうど蜂の子のような白い寄生虫が、ビッシリとくっついています。 肉と皮の間に寄生して、やがて羽化して飛び立っていく寄生虫なんです。 なかにはすでに羽のついたのもいます。エスキモーがこれを食べるところを見ましたけど、さすがに私は気持悪くて食べられなかったですね。

カリブー。 これは「一万二千キロの旅」で彼自身が銃で仕止めた。 肉はエスキモーの人たちが食べるうちではジャコウ牛に次いでうまいと思います。 私はふだんレバーは嫌いで食べないんですが、獲りたてのカリブーのレバーは食べられました。 ビタミンが足りなかったので、体が自然に要求するんでしょうか。(中略)
 獲りたての生温かい肉はそうおいしくないです。 やはり、冷凍した生肉を口の中に入れ、アイスクリームのように溶けだすのがいちばんうまく、量も多く食べられます。》

 次はいちばんうまいという、ジャコウ牛。 「一万二千キロの旅」でアンダーソン・ベイで越夏中、オホッカヌアに手伝ってジャコウ牛を獲った。

《肉は完全に牛肉の味。 ヤク(筆者注・ヒマラヤの家畜)なんかと同じで非常にうまい。 おそらくエスキモーが食べる中では、最高の肉の部類に入るでしょう。これもやはり、生で食べたり、塩水でブロックをグツグツ煮て食べます。》

 エスキモーが肉に火を通すときは、もっぱら塩味で煮るのに限る。 けっして焼かない。肉の焼ける匂いを、きわめて敏感に嫌う。植村は初めのうちシオラパルクで肉を焼いたことがあり、周囲に嫌がられた。 そして彼も生でなければ煮て食べるようになった。

 クジラは、グリーンランドのシオラパルクと、アラスカのポイント・バローで猟に参加した。 シオラパルクのクジラは体長5メートルぐらいの小さい種だった。  クジラは捨てるところがない。 エスキモーは、とくに皮の部分をていねいにはがして、大切に保存する。 貴重品扱いだ。 マッタと呼び、日の出の祭りとか、子どもの誕生パーティーなどの特別の日の御馳走である。

《彼らは子供を村全体の共有物、と考えているところがあって、自分に何人子供がいても、他人の子供を平気でひきとり、大切に育てます。 ですから、子供の誕生パーティーは盛大にやります。 そのときの御馳走として、このマッタが出るわけです。 子供の誕生日が来ると、客を呼んで、お茶を飲ませ、お菓子を出し、肉を腹いっぱい食べさせて帰らせます。遠慮するのは失礼なんです。》

 植村の目は、食にまつわる習俗にまで、よく届いているといえるだろう。

 現地の人びとと同じものを食べて生きのびる。植村が自覚的にとったこのやり方は、北極圏の旅から始まったのではない。じつはずっと早く、あの1000日の世界放浪(1964年~68年)の時代に試みた、アマゾン川6000キロのイカダ下りのとき、まさに食料は現地調達だった。

主食は、ペルーではバナナ。バナナは青いのが4段から5段ぐらいになっていて、まだ糖分が少しも入っていない。これを水で煮て食べると、サツマイモみたいな感じになった。時間がたつと、少し黄色くなる。 それを薄く輪切りにして、油で炒めるといっそううまかった、と語っている。

=補講・資料=

不可能への挑戦 登山家メスナー(追考 1/3)

どんなに切りたった岩の壁面にも、頂上制覇につながる登攀ルートがあり、登山家はそれを「ライン」と呼ぶ。ラインホルトにも、人生を切りひらいて、進むべき道をはっきりと示すラインがあった。それは1970年、ナンガ・パルバットを目指すジーギ・レーブ追悼記念遠征隊への参加だ。パキスタン北部のナンガ・パルバットは標高8126メートルで、世界に14座ある8000メートル超の山のなかで9番目の高峰である。

 初登頂を果たしたのは、オーストリアの登山家ヘルマン・ブールで、1953年のことだったが、それまではいくつものチームの挑戦がことごとく失敗に終わり、多くの犠牲者を出していた。「あのころ、技術的にいちばん難しい登攀は、どこかの山頂に到達することではなくなっていた。少なくとも私の周囲では、ナンガ・パルバットの南にあるルパール壁が最大の難関だとみられていた」とラインホルトは回想する。

 遠征隊を率いたカール・マリア・ヘルリヒコッファー自身は登山家ではなかった。だが、異母兄弟であるヴィリー・メルクルがナンガ・パルバットで生命を落としていたため、白鯨を追い求めるエイハブ船長さながらに、ナンガ・パルバットへの復讐に燃えていた。

 荒天のなか7350メートル地点にキャンプが設営され、ロープが固定されたのは1970年6月26日だった。ここはメルクル・クーロアールとも呼ばれていて、垂直方向に伸びる長い峡谷が頂上へのルートになっている。すでに一度アタックが中止になり、予定は何週間も遅れていた。そしてラインホルトとギュンター、それにゲルハルト・バウアは、クーロアールのふもとにある第5キャンプの3人用テントで、最終アタックに備え、入念な計画を練っていた。

 翌日の天気予報がわかりしだい、ベースキャンプから第5キャンプに向けて信号弾を飛ばすことになっていた。悪天候の予報だと赤い炎、好天の予報であれば青い炎が焚かれるのだ。赤ならば、ラインホルトが単独で頂上をめざし、青ならパーティーで出発することになっていた。夜8時、空に光ったのは赤い炎だった。 ・・・・・つづく

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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

森のなかえ

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