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【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

550年後、目覚めた英国王=31=

2016-01-30 11:55:22 | 歴史小説・躬行之譜

○◎ 「忠誠がわれを縛る」 ・ リチャード3世 ◎○

 ◇◆ 戦場・ボズワースへの道のり ◆◇

 ノーサンバランド伯の軍隊は、8月19日になって、ようやくノッティンガムの国王軍に合流してきた。 リチャード3世はこれ以上、遅れることができなかった。 サー・ロバート・ブラッケンベリーとノーフォーク公ジョン・ハワードが、レスターで待っていたからである。 そこでリチャードは、8月19日ないし20日にノッティンガムを発ち、その日の日没までにレスターに入った。 そして、ここで国王軍を結集し、戦闘態勢をととのえるつもりだった。
 レスターに集結したのは、ノーフォーク公とその息子サリー伯トマス・ハワード、ノーサンバランド伯ヘンリー・パーシー、リチャードの姉エリザベスの息子リンカン伯ジョン・ドゥ・ラ・ポール、2代シュルーズべリー伯ジョージ・トールバット、サー・ロバート・ブラッケンベリー、それに北部、南部からの諸侯や騎士だった。 ケント伯エドマンド・グレイ、ウェストモーランド伯ラルフ・ネヴィル、ダドリー卿ジョン・ダドリーらもいた。 そうそうたる面々だった。 しかし、合戦時の戦闘能力があてにできる者たちとばかりともぎらなかった。

 ここで各陣営の兵の数であるが、資料によってかなり幅がある。 たとえば、国王軍は少なく見積もった数字では7千、多いものでは17万にもなる。 ヘンリー軍については、それぞれ5千と7万、スタンリー軍については3千と2万になる。 兵の数を多く見積もったものには、誇張されたものが多いという。 とくに国王軍の数字については、ヘンリー軍の奮戦ぶりを強調するあまり、かなり過大に記されているとも言われている。 実際のところは、国王軍が約1万2千、ヘンリー軍とスタンリー軍がそれぞれ約5千ずつだったとするのが妥当なようである。

  国王軍のほとんどがレスターに集結していたが、スタンリー兄弟はまだやってこなかった。 リチャードは、スタンリー卿に国王軍へ合流するようにと伝令を飛ばした。 しかしスタンリー卿は、リチャードの要求をはぐらかしつづけた。 かれは、息子のストレインジ卿が人質となっているので、あからさまにヘンリー側に寝返ったと取られてはまずかった。 しかし、それをカモフラージュするように、積極的にリチャード支持で動くそぶりも見せなかった。 スタンリー卿は、いつまでもあいまいな態度をとりつづけ、リチャードをいらつかせていた。

  スタンリー卿のどっちつかずの態度にいら立っていたのは、リチャード3世だけではなかった。 ヘンリー・テューダーも、最後はかれの支持にまわるとしながらも、ここにきてまだ単独行動をとるスタンリー卿の態度には、不安を感じていた。 しかし、スタンリー卿の腹のうちは決まっていた。 かれは、ヘンリー軍とほぼ同数の5千の軍勢をひきいていた。ヘンリー軍と連合すれば約1万となり、戦いようによっては、リチャードの国王軍に十分、対抗できる兵力だった。 国王軍につけば、その兵力はヘンリー軍の3倍以上になる。 そうなれば、数で劣るうえに寄せ集めの軍隊であるヘンリー軍は、ひとたまりもないだろう。  スタンリー卿は、ここで風を読もうとしていた。

 リチャードの王冠には、以前ほどの輝きがない。 反対勢力の反乱と、肉親殺しなどの邪悪な噂は絶えない。諸侯や国民は、かれから距離を置きはじめていた。 いずれ、リチャードの王権は崩壊するだろう。 風は、ヘンリー・テューダーに有利に吹きはじめている。 スタンリー卿は、自分がどう動くかによってこの戦いは決すると確信した。 だとすれば、先の見えたリチャードについたとして何になるか。 それよりも、ヘンリーについたほうがよっぽどいい。 リチャードは生真面目すぎて、操りにくそうだ。 それにくらべると、亡命生活が長かったヘンリーは気が弱く、御しやすそうだ。あとはキングメーカーとして、自分をもっとも高く売れる機会を待つだけだ。 スタンリー卿は、リチャードとヘンリーがヤキモキしているのを知りながら、ひとりパワー・ゲームを楽しんでいた。

   だが、この時代を生き抜くためには、あいまいな態度をとることも、政治的な意味合いでは必要だった。 スタンリー一族の長である、奸智にたけたスタンリー卿トマスは、リチャードだろうがヘンリーだろうが、自分をもっとも高く売り込み、スタンリー一族が生き残る道を探っていたのである。 それにしてもスタンリー卿の動きは、リチャード側についた者を疑心暗鬼にさせていた。そのため、2年前のバッキンガム公の反乱のときに公を裏切ったかつてのかれの家臣や北西部の有力者のなかには、国王軍から離れて、ヘンリー側に寝返る者もでてきた。

  また、スタンリー卿の動きは、リチャード側のみならず、手勢を引きつれてヘンリー軍に駆けつける者にも戸惑いをもたらしていた。 「スタンリー卿は何を考えているのだ。いったい、どっちにつくつもりなのだ」と。 一方、ヘンリー軍は、8月20日もしくは前日の19日に、リチフィールドに入ったようである。 スタンリー卿にひきいられた軍の動きには、リチャードも気になっていた。 スタンリー卿は、ヘンリー軍の先払いをするかのように、少しずつその前を進んでいた。 スタンリー軍がリチフィールドからアザーストーンに移動すると、そのあとにヘンリー軍が入った。 何かがおかしかった。

 8月21日、南部からの援軍を加えた国王軍の大部隊は、ヘンリー軍の野営したアザーストーンへとつづくローマ街道を、ベックルトン、カークビー・モラリーを経て、サットン・チェイニーへと進んだ。 偵察からは、「ヘンリー軍はアザーストーンを発ってボズワース原野の西部、ホワイト・ムーアズへ進んできた」との報告があった。 サットン・チェイニーの村に入ったリチャードは、そこのセント・ジェイムズ教会でミサを挙げると、村の西にある高台に野営した。 

 

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森のなかえ

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