○◎ 更なる西へ、バルト海へ、アドリア海へ ◎○
ルーシを支配していたキエフ大公国は 11世紀頃から 国内の権力闘争で分裂の兆しが見え始めた。 一旦は統一を取り戻したムスチスラフ1世が1132年に没すると、ますます分裂の傾向が鮮明になり、首都キエフも破壊され国土の中心であったドニエブル川流域は荒廃していった。 このような時代に、東方から未知の大軍が到来し、きわめて暴力的な侵略を開始したのです。 当時のルーシの年代記作者は、この悲劇を「われわれの罪のせいで・・・・」と書きしるしている。 そして、「見知らぬ民が現れた。彼らの故郷も、彼らがどこから来たかも、彼らの神は何者なのかも知る者はなかった。 神だけが知っていることであり、もしかすると 賢者は本を読んで知るかもしれない。」と 追記している。
まさしく 蒙古軍の襲来は 晴天の霹靂であった。 後に〝タタールの軛“と恐怖する暴風が吹き荒れたのである。 1220年代のはじめ、ルーシ諸侯は、まず キプチャク草原の遊牧民族・クマン人の戦士たちからモンゴルの到来を知らされた。 クマン人(キプチャク平原に居住する西部のキプチャク人)は ルーシの辺境の集落を略奪するため ルーシ諸侯とは 盛んに対立していた時代もあったが、当時は両者の関係は平和であり、クマン人は隣人に警戒すべき敵=タタール=の到来を知らせている。
ルーシ諸侯にすれば、クマン人の居住区域は東方への緩衝遊牧地帯であったが 「この恐ろしい異邦人はすでに我々の国を奪おうとしている。 もし諸君が我々を助けに来なければ、明日には諸君らの国が奪われるだろう。」 と 東方からの凶暴な侵略を知らせていた。 これに応え、ルーシ諸公のうち、ムスチスラフ・ムスチスラヴィチおよびムスチラスフフ3世が連合軍を組み、 クマン人と東へ向かい侵略軍を迎え撃った。
これが1223年の〝カルカ河畔の戦い“です。 チンギス・ハーンの「四狗」の内の二人、ジュペとスブタイは中央アジアのイスラムシャー王朝のムハンマド゛皇帝を追討して、カスピ゜海西岸を北上していた。 ルーシ連合軍は東へ進み、アゾフ海の北岸、カルカ河畔で ジュペとスブタイのタタール(モンゴル軍)を迎え撃った。 スブタイは事前にクマン人の一部や「ブロドニキ(放浪民)」と 総称される特定の領主を持たないルーシ人を味方に引き入れていたが、数量ではまだまだ劣っていた。 しかし、もともと急造の連合軍である上、大軍である驕りもあってキプチャク・ルーシ連合軍は 偽って退却を始めたタタール(モンゴル軍、この戦法が蒙古軍の常道)に対し安易に攻撃をしかけ、 戦線が延びきってしまった。
タタール(モウゴル軍)は 逆に 包囲し 大勝を得た。 数で優勢だったルーシ連合軍はタタールの前に大敗したのは 蒙古軍団の戦法にはまったからなのです。 手痛い敗北をくらったルーシ諸侯は、この戦いから蒙古軍団の戦法を学ばず、ルーシ諸侯の記憶に留まらなかったのです。 この“カルカ河畔の戦い”の後、蒙古軍団はルーシ連合軍を追うのをやめてヴォルガ・ブルガールヘと向かい、 病を得たジュペ将軍の支援を亡くしたスブタイ将軍は〝クルネクの戦い“でブルガールに敗れ、やがて東へと去ってしまった。
蒙古帝国の脅威は、何時しか忘れ去られ、ルーシの諸公はまた前のように互いに抗争を続けた。 その13年後、再び蒙古軍団が より若き指導者・バトゥが率いるタタール(モウゴル軍)が再び東の地平から姿を現した。 しかも 今回は前よりも大軍で、前よりも容赦がなかった。
1237年秋、バトゥ指揮のヨーロッパ遠征軍は ルーシ(ロシア)方面に侵攻。 12月下旬にはリャザン、コロナムが劫略された。 1238年に入り、2月にはウラジミール大公国を攻略し3月にはウラジーミル大公ユーリー2世と交戦し、〝シチ川で戦い“ 完膚なきまでもこれを討ち破って戦死に追いやった。 ルーシ北部諸国の多くが征服される一方で ノヴィゴロド公国のアレクサンドル・ネフスキーや ガリーチ公ダニールらの帰順を受けている。
この征服戦でまだ小村であったモスクワも攻略された。 その後遠征軍は南に進路を転じてコゼリスクを陥落させ、カフカス北部方面へ一時撤退、諸軍を休養させた。 この年の4月から翌1239年にかけてはカフカス北部の諸族の征服を行っている。
この頃 司令官バトゥは、グユン、ブリらと論功行賞などで激しく対立。 その報告を受けた蒙古帝国第二代皇帝・オゴディが 実子・グユンとトルイ家のモンケに 帰還命令をくだし、急ぎ召還させた。 モンケはグユンのお目付け役の意を含んでいた。 帰還命令が降ったグユンとモンケは、1239年の秋には遠征軍を離れて蒙古高原のモンゴルル本土へ出発している。
当時 キエフは大公位を巡って ルーシ諸国全体が争奪を激しくしており、モンゴル軍の侵攻に対処できなかった。 また モンゴル側ではコルゲンがコロムナの包囲戦で戦死している。
1238年の夏、南へ転じたバトゥはクリミヤを襲い、さらに東部のモルドヴィア、ルーシ東部、ヴォルガ・ブルガリアールも破壊した。 1238年の冬にはモンゴル軍は一旦休養のため 北カフカスに移り現地の諸民族の征服を行っている。
1239年の冬には再びルーシ南部へと進み、チェルニーヒウ公国の首都チェルニーヒウとベスヤースラウ公国の首都ベスヤースラウを陥落させ略奪し、ルーシの有力国家であった両国を滅ぼした。
1240年初春には、ヨーロッパ遠征軍は ルーシ南部に侵攻し、ルーシ南西部に向かったバトゥ軍は1240年の11月28日から12月6日にかけてキエフを包囲した。 これを完全に破壊してキエフ大公国を名実ともに滅亡させた。
最後のキエフ大公ダヌィーロ・ロマーノヴィチは本拠地であるルーシの強国ハールィチ・ヴォルィーニ大公国を守るため頑強に抵抗したが、バトゥ軍に中心都市であるハーおよびヴォロディームィル・ヴォリィーヌスクィイを占領された。 その結果、ルーシ諸国をほぼ破壊したモンゴル軍は、「地果て海尽きるところ」まで行くことを決意し、ハールィチ・ヴォルィーニの地で分かれてハンガリーとポーランドへと侵入して行く。
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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽 憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・
森のなかえ
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