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【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

タタールが夢見た大洋_16_

2015-09-09 18:52:29 | 歴史小説・躬行之譜

○◎ 更なる西へ、バルト海へ、アドリア海へ ◎○

タタール(モンゴル軍)のキプチャク草原への侵攻は 1229年、スブタイとジュペ゛の指揮の下、偶然にブルガールに侵略する事で始まる。 もちろん、この侵攻は、1221年に開始されたチンギス・ハーンの中央アジア親征の一環であった。 中央アジアの中枢トランスオクシアナを支配するホラズム・シャー朝への詰問に端を発する戦いであった。 交易を協定しようと送り込んだジンギス・ハーンの通商交渉隊をハラズム・シャー朝の地方官吏が簒奪したことへの報復であった。 ホラズム・シャー・アッラーウッデーン・ムハンマド゛皇帝は帝都が落城する前にカスピ海西岸方面に逃亡したのである。

ジンギス・ハーンの命を受けたハ-ンの武将スブタイとジュベがホラジウムシャー皇帝を追撃したが、見失う。 他方 ホラジウムシャー皇帝は幾ばくかに従者と共に、カスピ海の孤島に逃れていたが、命運尽きて死亡していた。 スブタイとジュベはカスピ゜海を一巡して帰還するが、その帰路途中にて ジュベは病死してしまった。 この大草原への記念としてジュペ将軍はジンギス・ハーンに白馬100頭を送ったと言う。 白馬一頭は100頭の馬に相当するので、王者が乗りこなす馬なのである。 蒙古軍団は次なる侵略、蒙古高原の南に位置する黄河流域の金帝国への征服に引き上げた。 

そして再び、1232年に、モンゴル騎兵軍がバシキリア南東部を征服し、ヴォルガ・ブルガール地方の南部をも侵略の触手をのばし、手に入れた。 このタータール(モンゴル軍)侵攻の危機にあたって内戦を続けていたヴォルガ・ブルガールの武将や首長たちは、共通の敵に対して連合を組むことに失敗していた。

そこへ 1236年の大規模侵攻が、バトゥ率いるヨーロッパ遠征軍がイリ渓谷の本陣を売り払い、進軍を開始した。 まず ヴォルガ・ブルガール地方に襲い掛かり、首都ビリシャルに45日間にわたる攻城戦を展開、これを陥落させ市民数万と守備軍を全員処刑した。 さらに ブルガール、スアル、ジュケタクをはじめ、主だった都市や要塞を モンゴル軍団は陥落させて破竹の勢いで進軍していく。

住民の多くは殺されるか奴隷に売られていった。 ブルガールの武将たちは次々とモンゴル軍に帰順した。 しかし タタール(モンゴル軍)がヴォルガ・ブルガール地方を離れてルーシ(ロシア)侵攻に着手すると、帰順したはずのヴォルガ・ブルガールの武将らは反乱を起こした。 バヤンとシクのブルガール将軍は反乱を起こし、ルーシ方面に西走した。 また 東部戦線のキプチャク・オルベルリ部の首長バチュマンもヴォルガで盛んに反乱を起こした。 しかし、西部に回り込んだバトゥとモンケ、地理をよく知るスブタイが東部よりの包囲網を引き、首長バチュマンはバトゥ、モンケ、スブタイらに制圧される。

この一連の侵攻制圧でヴォルガ・ブルガール地方はジュチ・ウルス(キプチャク・ハン国、金帳汗国)の一部に編入され、ジュチ・ウルスの支配下でいくつもの公国に分割されてしまった。 以降 これら小さな公国はおのおの自治を享受し、ジュチ・ウルスへの貢納を行う属国となった。

バトゥ・スブタイに率いられた35,000人の弓騎兵からなる蒙古西征軍はヴォルガ川を越え、1236年の秋にヴォルガ・ブルガールの侵略を終了し、大草原をさらに西方へ移動を開始。 この後 一年に及ぶ戦いで、ブルガールやビラルといった城砦都市は陥落し、キプチャック草原の勇猛な騎馬民・キプチャク人は包囲殲滅され、西部域のカスピ゜海から北カフカスまでの諸民族までもが征服され、帰順した。

この年(1236年)以後、ヴォルガ・ブルガール人、キプチャク人、アラン人の抵抗は根絶され、 キプチャク平定後の1237年11月、バトゥはウラジーミルのウラジーミル・スーズダリ大公国大公ユーリー2世の宮廷に使者を派遣し、蒙古帝国に服従するよう求めた。 その返事とあいぜんごして、一ヵ月後、タタール(モンゴル軍)はリャザン公国の首都リャザンへの攻城戦を開始した。

6日間に及ぶ激戦の末、リャザンは陥落し完全に破壊された。 この戦いの知らせを受けたユーリー2世は息子たちをモンゴル軍討伐にリャザン赴かせたが、討伐軍は完敗を喫した。 コロナムとモスクワを焼き払ったタタール(モンゴル軍)は、1238年2月4日にウラジーミルに対する攻城戦に着手する。 熾烈な攻城戦となり、3日後、北東ルーシの大国であるウラジーミル・スーズダリ大公国の首都ウラジーミルは陥落し徹底的に破壊された。 大公の家族は燃える聖堂の中で全員殺され、かろうじて北へ逃げ延びた大公はヴァルガ川の北で新たに軍を編成してタタール(モンゴル軍)に再度立ち向かったが、3月4日のシチ川の戦いで完敗し戦死している。

バトゥゥ軍による1238年のスーズダリ略奪。 その悲惨さは 16世紀に書き写された年代記の細密画にて伝えられている。 バトゥはこの後、広いルーシ(ロシア)のステップ地帯を完全かつ効率的に攻略するため、軍をより小さな部隊に分けた。 タタール(モンゴル軍)の各部隊はルーシ各地へと散り、国土を略奪し 荒廃させていく。 ルーシ北部の14の都市 - ロフトフ、ウグリチ、ヤロスラヴリ、コストロマ、カシン、スクニャティノ、ゴロデツ、ハールィチ(ガーリチ)、ベレスラヴリ・ザレスキー、ユーリエフ・ボリスキー、ドミトロフ、ヴォロコラムスク、トヴェリ、トルジェークは破壊と略奪に晒された。

一方でモンゴル軍を苦しめたのはコゼリスクという小さな都市で、年少の公ヴァシーリーおよび住民は7週間にわたって激しく抵抗した。 タタール(モンゴル軍)はは4,000人の犠牲を出し、バトゥは このコゼリスクを忌まわしい町だと漏らしている。 他方、ルーシの都市の中で、蒙古軍による破壊を免れたのは モンゴルルに服従と貢納を約束した西部の大都市スモレンスクと、森林や湿地、春の悪路によって守られた北西部の大都市ノウゴロチド゛とブスコスだけであった。

荒廃したルーシ南部のステップ地帯の住民は、ヴァルガ川とオカノ川に囲まれたルーシ北東部の、土壌の貧しい森林地帯へと移り住んでいった。 ルーシの伝説上の町・キーテジ゛は、タタール(モンゴル軍)はを避けるために住民全員とともに湖に沈み、以後その姿を見せることがなくなったと言い伝えられている。

蒙古軍の殺略・破壊・略奪の恐怖は 矢のように四方に飛んだ。 “タタールのくびき”です。

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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

森のなかえ

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