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【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

クレオパトラ Vs ローマ帝国_1/5 /史跡真相=004

2022-08-12 05:35:16 | 史蹟彷徨・紀行随筆

ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事=平成4年08月12日<ⰧⰊⰧ

☆★ サルの言いつけで三河の狸親父が関東地方全域の支配者に(1590年)。そして、時は流れ、のび太行きつけの三河屋でコカ・コーラが1本しか売れず、その王冠が一時はウン千万円の値がつく(1975年)。☆★ キツネ目の男がグリコ・森永事件の事件終息を宣言(1985年)。ちなみに、この事件に巻き込まれていたハウス食品の社長は事件終息を先代である父の墓前に報告しに行く途中、日航機事故=御巣鷹の尾根=で死亡。運が悪すぎる…☆★ 四万十川の水まで温まりアユも水煮になり兼ねないくらいの猛暑で、真夏の暑さにしても限度があるだろ!って誰もが思った日(2013年=日本国内観測史上最高の41.0度)。…今年を経験する以前のお話

本日記載附録(ブログ)

クレオパトラ7世フィロバトル;古代エジプト、プトラマイオス朝のファラオ(最後の女王)

ガイリス・ユリウス・カエサルやマルクス・アントニウスらとのロマンスで知られ、「絶世の美女」とも

紀元前51年、クレオパトラ18歳の時、遺言によって弟プトラマイオス13世と共同で王位に就く

【この企画はWebナショジオ】を基調に編纂(文責 & イラスト・資料編纂=涯 如水)

イチジクに忍ばせていたコブラに乳房を噛ませて自殺したとも…

◇◆ クレオパトラの激動の生涯と逸話絶世の美女が歴史に残したものとは?=1/5= ◆◇

クレオパトラ(正式名称はクレオパトラ(クレオパトラ7世)は、世界三大美女の一人で世界の歴史上で最も有名な女性。エジプト・プトレマイオス朝の最後のファラオ(王)です。カエサル(Caesar=英語での読み方はシーザー)、アントニウス(Antonius)という二人の英雄と結婚したことでも知られています。

英雄2人を惑わせたのだから魅力的な女性であったことは確かでしょうが、絶世の美女であったかどうかは議論されたまま謎に包まれています…。このクレオパトラがどのような人物で、どのように生き、どのように世界の表舞台で輝いたのか、その生涯をカエサルやアントニウスとの出会いと併せて解説します。

クレオパトラってどんな人?主な逸話
 ◎ 遺言に基づき弟のプトレマイオス18世と結婚して共同王位(ファラオ)に就く、クレオパトラ18歳 プトレマイオス10歳
 ◎ 戦闘中のアレクサンドリアに潜入するため自身を絨毯に包ませカエサルへの贈り物とする
 ◎ 人を魅了して子を成す2カエサルとアントニウスという時の英雄
 ◎ 彼女にぞっこんだったアントニウスからローマ帝国の一部であったトルコ南部をプレゼントされる
 ◎ ゆかりの深いトルコにはクレオパトラ島など彼女の名を冠した地名がいくつもある
 ◎ 自殺したアントニウスの後を追って自らを毒蛇に噛ませて死亡
 
また、フランスの有名な哲学者パスカルは、著書“Pensées(パンセ)"の中で、歴史におけるクレオパトラの活躍を称して以下のような名言を残しています。 『”Cleopatra's nose, had it been shorter, the whole face of the world would have been changed." / 「クレオパトラの鼻が低かったら、全世界の様相は違ったものになっていただろう」

エジプトの王家に生まれたクレオパトラ 
クレオパトラは、紀元前69年エジプトのアレクサンドリアにて、父プトレマイオス朝ファラオのプトレマイオス12世と母クレオパトラ5世の元に生まれました(ちなみに母と父は兄妹で結婚しています)。プトレマイオス朝はエジプトであっても、ギリシャ人血筋です。

元々ファラオの地位の為の親子兄弟での骨肉の争いが絶えない家系でしたが、クレオパトラが18歳の時の父親の死に際し、8歳年下の弟のプトレマイオス13世と姉弟で結婚し共同でファラオに就きます。

市民に溶け込むためにエジプト土着の宗教を信仰したりしましたが、共同王位についていたプトレマイオス13世の不信を買い、またクレオパトラはローマ主義であったため市民からの反乱にも遭いシリアに追放されます。

紀元前48年21歳の時、クレオパトラはエジプト東部国境の町ペルシウム(ペルシオン)で交戦の為に備えます。そこに、ローマ内戦のファルサルスの戦いに敗れポンペイウスがカエサルから逃げてきますが、彼はエジプトにたどり着く前にプトレマイオス13世の部下によって殺されてしまいます。しかし、そこでポンペイウスを追ってやってきたカエサルがアレクサンドリアに上陸するのです。

・・・・・・明日に続く・・・

⨂⨁ 参考資料: 皇帝に成り損ねたカエサル =4/8= ⨂⨁

疑いを晴らしたのは、女性からのラブレター!
…カエサルが陰謀に加担したとする政争に巻き込まれ、その疑いについて彼を追及する会議が開かれた。相手はカトという政治家で、後にカエサルと戦うこととなる人物です。カトの追及の最中、カエサルに部下がある手紙を取り次ぐ。それを見たカトは、「その手紙こそが陰謀へ加わった証拠だから、今ここで開けて見せてみろ」と迫り、無理やり手紙を開封させた。

果たして内容は・・・・・なんと、その手紙はカエサルの愛人セルウィリアからのラブレターだった。しかもセルウィリアはカトの異父姉に当たる女性で、カトの面目は丸つぶれ。カトは「この女たらしめ!」としか言えず、追及することもできなくなってしった。議場は爆笑に包まれ、カエサルへの疑いは立ち消えてしまった。

ちなみにこのセルウィリアという女性、この時はまだ別の男性と結婚していた。つまり、カエサルとは不倫をしていたんです。しかも、カエサルが夫のいる女性と不倫をしていたのは、この時だけではない。!!?

当時のローマは恋愛に関してかなり大らかだったようですが、それにしてもカエサルの女性関係は派手でした。記述が残るだけでも結婚は3度、愛人は8人いたそうです。元老院議員の3分の1が彼に妻を寝取られたという噂まで立ち、彼のあだ名は「ハゲの女たらし」だった。

第1回三頭政治の主役となる
疑いの晴れたカエサルは、前61年にヒスパニア・ウルステリオル属州総督(今のスペイン付近)となり、現地の異民族の平定に功績を挙げた。そして翌年、念願の最高職・執政官(コンスル)となった。この時、彼は有力者だったポンペイウス、クラッススと手を結ぶ。そして3人でローマの政治を取り仕切る、「第1回三頭政治」という体制を生み出した。これは、依然として発言権が大きい元老院に対抗したもので、カエサルはこの体制の中で大きな改革を成し遂げていきます。

3人は互いに足りないところを補う形で権力の頂点にいました。ポンペイウスはすでに戦いで絶大な功績を挙げており、軍事面では他に比類なき武将でした。しかし元老院に優遇されずに不満を持っていたのです。

カエサルは、執政官となったもののポンペイウスほどの功績はなく、民衆からの人気に頼っていました。もう一人のクラッススはいちばん年上でもあり、とにかく莫大な経済力を持っていた。こうした得意分野を持ち寄ることで、彼らは元老院を牽制した。  ・・・・・・明日に続く・・・

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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

森のなかえ

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禁を犯したカエサルの決断_3/3 /史跡真相=003

2022-08-11 05:35:42 | 史蹟彷徨・紀行随筆

ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事=平成4年08月11日<ⰧⰊⰧ

☆★ ベルリンオリンピックで試合を観戦していた一個人の前畑ガンバレが、公共の電波に乗るアクシデント(1936年)。いや、作家マーガレット・ミッチェル、風と共に去る(1949年)。…ともにフェィクだね。☆★ ロナルド・レーガンがラジオ演説前の予習で「今から5分後にソ連攻撃を始める」と口走って、ボケているんじゃないか?と全世界から訝しがられる(1984年)。☆★ 初の4日間開催となったコミックマーケット3日目で待機列が実に3時間以上炎天下にさらされて、熱中症で危篤状態になる人も。これも全部来年の東京オリンピックのせいだ(2019年)。

本日記載附録(ブログ)

ガイウス・ユリウス・カエサルがルビコン川を渡る“逆境を跳ね返した決断”

「賽は投げられた」、「来た、見た、勝った」、「ブルータス、お前もか」と独言し

「身の安寧に汲々としているようでは生きている甲斐がない」と公言、歴史を開く

【この企画はWebナショジオ】を基調に編纂(文責 & イラスト・資料編纂=涯 如水)

◇◆ 死に方を問われ、「思いがけない死、突然の死こそ望ましい」と…=3/3= ◆◇

 スペインのポンペイウス軍を鎮定して後顧の憂いをなくした後、カエサルはギリシャに入り、何度かの合戦を経て、紀元前48年、ファルサルスの戦いで決定的勝利を得る。ポンペイウスはカエサルの追撃をなんとかかわし、エジプトに逃れるが、そこで若年のファラオ、プトレマイオス13世の命を受けた刺客に殺された。

凱旋
 ポンペイウスの死によって、内戦はほぼ終息した。カエサルはなおも抵抗を続けるごく小数の残党を手早く片づけ、投降する者たちにはゆるしを与えた。紀元前46年、ローマに帰還し、今度は凱旋将軍としてしかるべき祝福を受けた。

   その後はローマの独裁官(ディクタトル)となるが、その任期は10年と、従来は非常時に限って必要と考えられていた役職の任期としては、前例がないほど長かった。この新たな権力を使い、カエサルは首都ローマと帝国全土の行政に改革の大なたを振るう。そして紀元前44年の初頭、ついに終身独裁官となり、事実上の王となった。

 暗殺
 1人の人間がそれほど強大な権力を持つことに反発する者たちは、当然ながら少なくなかった。カエサルの友人マルクス・ユニウス・ブルートゥスを含む60名の元老院議員から成るグループが、カエサル暗殺の謀議を巡らし始める。運命の3月15日、カエサルは元老院で、このはかりごとに加わった大勢の議員たちの手で刺し殺された。

   下手人のなかには、ブルートゥスの姿もあった。ちなみに、カエサルがいまわの際に何か言い残したとしても、当時の記録には残っていない。「ブルートゥス、お前もか」という有名なセリフは、シェイクスピアによる創作である。

カエサルの遺産は、妹の孫で養子でもある18歳のオクタビアヌスが受け継いだ。この青年は、養父の死後に続発した内乱で、非情さと狡猾(こうかつ)さを見せつける。やがて、紀元前31年、宿敵マルクス・アントニウスをアクティウムの海戦で破ると、アウグストゥス・カエサルの名でローマ史上初めての皇帝になり、帝政が始まる。

 ルビコン川を渡ったとき、カエサルがローマの最高指導者になろうとしていたかどうかを知るすべはない。ポンペイウスを倒したことで強大な力を手にしたのは確かだが、その力をどうしたら最も有効に活用できるかという悩みは最後まで消えなかった。

1つだけ確かなのは、ルビコン渡河によって、カエサルは帝政ローマの成立に至る一連の出来事の口火を切ったということだ。このとき生まれたローマ帝国は、さまざまに形を変えながらも、以後1500年もの長きにわたって命脈を保つことになる。
出典:書籍『逆境だらけの人類史 英雄たちのあっぱれな決断』

 追伸 : ポンペイウスの首級
カエサルがポンペイウスを追ってエジプトにやってきたとき、14歳になるかならないかの若いファラオ、プトレマイオス13世はポンペイウスの首を差し出した。当時エジプトの支配を巡って姉のクレオパトラと争っていたプトレマイオス13世は、ポンペイウスを殺せばカエサルが喜び、強力な後ろ盾になってくれると考えたようだ。

だが、カエサルは喜ぶどころか激怒した。ローマの執政官をこともあろうに暗殺し、あまつさえその亡骸を冒涜(ぼうとく)するとは何事だ、というわけだ。結局カエサルがプトレマイオスではなくクレオパトラと手を結んだことは、あまりにも有名である。

次回は“絶世の美女が歴史に残したものとは?”に続く

⨂⨁ 参考資料: 皇帝に成り損ねたカエサル =3/8= ⨂⨁

亡命後の生活、ローマに戻り冴える弁舌
彼が逃れた亡命先は小アジア(アナトリア)でした。ここは現在のトルコのアジア側の半島部で、黒海やエーゲ海、地中海に囲まれ、文化と交易ルートの重要拠点でもあった。その小アジアもまたローマの属州であり、カエサルはここで任務に就いています。

そして前78年、彼を粛清しようとしたスッラが死去したことで、ついにローマへ帰れることになった。帰国後の彼は、巧みな弁舌を生かして名を挙げていく。カエサルの弁舌は、たとえ最高職の執政官(コンスル)でさえも容赦しません。当時は属州を治めるに当たって脅迫や収賄が横行していたのですが、カエサルはその当事者たちを容赦なく告発したのです。その対象には執政官(コンスル)さえも含まれていたのですから、カエサルの勇気も大したものです。

しかし、彼の鋭すぎる弁舌は相手から恨みを買うこととなった。そのため彼は報復から逃れるためにローマからまたも逃亡します。行き先はエーゲ海に浮かぶロドス島でした。しばらくの間、彼はそこへ身を隠すこととなったのです。

カエサルの帰国、待ち受ける政界の荒波
ほとぼりが冷めた頃、カエサルは再びローマへ戻って来る。彼の最終的な目標は執政官(コンスル)。そのために彼はまず軍団司令官となり、次に財務官をつとめ、そしてついに元老院議員としての議席を得る。このためには買収工作などの陰謀も用い、同時に敵を追いつめる告発の手を緩めなかった。やはり、のし上がるためには多少のダーティーな手を使わざるを得なかったのでしょうか。同時にド派手な公共事業も立ち上げ、自分の存在感を高めていったのです。

元老院議員となったカエサルが次に目指したのが、最高神祇官という役職でした。最高神祇官とは文字通り神官職ですが、これになることで権威を高めることができたのです。そのため、上を目指すものにとっては必ず通らなければならない役職でした。

カエサルは、この職を多額の借金で賄ったお金で買収します。彼は本当にこのチャンスに賭けていて、この職に選ばれなければ国外退去をする覚悟を決めていたという。しかしまたもカエサルにピンチが待ち受けていた。政争に容赦なく巻き込まれ、陰謀への参加を疑われてしまい、またも少々の隠棲生活を余儀なくされた。しかし、ここで彼が政界へ復帰する際に役立ったのが、彼の積極的な女性関係だった。・・・・・・明日に続く・・・

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  = カエサル戦記:内乱の一世紀『スパルタクスの反乱』 =

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森のなかえ

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禁を犯したカエサルの決断_2/3 /史跡真相=002

2022-08-10 05:35:28 | 史蹟彷徨・紀行随筆

ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事=平成4年08月10日<ⰧⰊⰧ

☆★ 最初の神からの啓示を与える大天使にして魔界天使ジブリールがムハンマドの前に現れ、目前にしたムハンマドがハァハァー (610年)。☆★ 進水したばかりのスウェーデン海軍の戦列艦ヴァーサが海の底へ出航(1628年)し、230年の時を経て帰還を果たす。&so、16世紀に冒険に出たマゼランがようやく金星に到着(1990年)。☆★ 国際宇宙ステーションでロシアの宇宙飛行士が結婚(2003年)、花嫁は宇宙へ行けなかったため衛星通信を通じて愛を誓った。

本日記載附録(ブログ)

ガイウス・ユリウス・カエサルがルビコン川を渡る“逆境を跳ね返した決断”

「賽は投げられた」、「来た、見た、勝った」、「ブルータス、お前もか」と独言し

「身の安寧に汲々としているようでは生きている甲斐がない」と公言、歴史を開く

【この企画はWebナショジオ】を基調に編纂(文責 & イラスト・資料編纂=涯 如水)

◇◆ 死に方を問われ、「思いがけない死、突然の死こそ望ましい」と…=2/3= ◆◇

 複数の属州の総督になることで、カエサルは4個軍団を指揮できるようになった。以後10年にわたり、カエサルはこの兵力を使ってガリア地方の残りを平定、それによって巨万の富を築き、ローマ市民から絶大な人気を博するようになった。紀元前53年にクラッススが死ぬと、ポンペイウスはまだガリアにいるカエサルを出し抜くチャンスと見て、それまで対立していた元老院の政敵たち(いわゆる元老院派)と手を結んだ。

ガリア征服を成し遂げたカエサルの国民的人気を重々承知していたポンペイウスは、元老院派と結託し、カエサルを呼び戻すよう元老院に圧力をかける。それまで回避してきた訴追を受けさせようというのである。カエサルとしては意気揚々と凱旋を果たし、再び執政官に任命されるつもりだった。そうなれば今後も訴追を受ける恐れはなくなる。

ところが紀元前50年、元老院はポンペイウスが望む通り、カエサル召還の命を発した。もしカエサルがこの命令に従っていたなら、おそらく反逆罪という重罪に問われ、政治生命はいうに及ばず、文字通りの命さえも危険にさらしていただろう。

渡河の決断
 要するに、元老院がカエサルを追い込んだといってよい。ローマの法に従い、将軍としての野心も政治家としての野望も捨て、死刑を宣告されるかもしれない裁きに身を委ねるか、それとも、配下の兵が自分の命令に従い、まだ忠誠を示してくれるうちに、戦って血路を開くか—―ルビコン川の堤に立つカエサルが迫られていたのは、明らかにこの二者択一だった。

   もっとも、一個軍団を引き連れてきたところからして、カエサルの腹は最初から決まっていたようにも見える。

 カエサルはその著書『内乱記』のなかで、ルビコン川を越えたことには触れてさえいない。彼はただ、「ポンペイウスと元老院から不当な扱いを受けたため、第13軍団をガリア・キサルピナのラベンナからイタリアのリミニに進軍させた」とだけ記している。ルビコン渡河をあえて伏せることによって、もしかしたらカエサルは、自分が(軍団を率いてイタリア入りすることで)ローマの法を破ったという事実を──たとえ、同時代人には明々白々だったとしても──認めまいとしたのかもしれない。

『内乱記』は、一連の出来事を正確に書き表そうとする試みというよりは、自己正当化のためのものという色合いが濃い。カエサルは、自分をローマに盾突く反乱軍のリーダーではなく、ポンペイウスによる独裁支配からローマを解放する英雄として描いているからだ。

 カエサル率いる一個軍団6000の兵がローマに向かって進軍するなか、ポンペイウスははるかに大きな兵力を有しているにもかかわらず、都を放棄してイタリア南部まで撤退することを決める。カエサルが追撃すると、ポンペイウスは再び戦いを避け、さらにギリシャまで逃れる。これを追う前に、カエサルは腹心のマルクス・アントニウスにローマを任せ、ポンペイウスが別の兵力を配備しているスペインに駒を進める。

・・・・・・・・・明日に続く・・・

⨂⨁ 参考資料: 皇帝に成り損ねたカエサル =2/8= ⨂⨁

元老院派と平民派の対立
当時のローマは、市民による選挙政治を目指す平民派と元老院派が争っていた。元老院は国家統治における最重要機関で、ローマ建国以来の有力な貴族(パトリキ)を議員として選びました。終身である元老院議員は、為政者への助言機関としての役割を持つのみで、直接権力を持つはずはなかったのですが、実際には政治をコントロールするまでの力を持っていた。そのため、家系で元老院議員をたくさん輩出すれば、特権階級への道が開けたわけで、狙えるものなら誰だって元老院議員を志向した。

とはいっても、元老院議員への道は狭く険しいものでした。17歳以降、10年以上の軍事経験が必要とされ、それなりに戦場で活躍し、見識が豊富でなければ元老院議員に成れなかった。

さて、カエサルの青年時代、当時争っていた平民派と元老院派ですが、平民派の中心人物ガイウス・マリウスはカエサルの義理の叔父でした。そのため、カエサルも自動的に平民派であると世間には認識されることとなります。そして、前84年、父の死去に伴い16歳で家長となったカエサルは、翌年に最初の結婚をします。ここから彼の人生が動き出していくのです。

粛清の窮地から亡命へ
ローマの情勢は相変わらず不安定でしたが、元老院派のスッラがついに権力を握ることとなり、平民派への粛清が始まる。当然、平民派とみなされていたカエサルも窮地に陥ります。ただ、この時彼はまだ18歳。実際、大した政治活動もしていなかったので、周囲は彼を何とか助けようと声を上げました。その声に押されたスッラは、渋々カエサルを助命したのです。

しかし、スッラはカエサルの資質を見抜いていたようでした。助命を願う周囲に対して、彼はこう言った「君たちにはわからんのか?あの若者(カエサル)の中には多くのマリウスがいるんだぞ」。マリウスとはカエサルの義理の叔父にあたるガイウス・マリウス。平民派の筆頭であった人物でした。時の権力者だったスッラの目は、カエサルの中でまだ目覚めていない才能を見抜いていたのでしょう。

カエサルを助命する代わりに、スッラはカエサルに離婚を命じました。カエサルの最初の妻は平民派の大物の娘だったからです。しかしカエサルはこれを拒否し、その結果、国外へ亡命することとなった。   ・・・・・・・明日に続く・・・

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  = カエサル戦記:内乱の一世紀『スッラの内戦』【古代ローマ】 =

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禁を犯したカエサルの決断_1/3 /史跡真相=001

2022-08-09 05:35:29 | 史蹟彷徨・紀行随筆

ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事=平成4年08月09日<ⰧⰊⰧ

☆★ イタリアはピサの大聖堂で鐘楼となる塔が着工(1173年)、しかし建築最中から傾き始め地盤の軟弱さを計算に入れない欠陥建築だったことが判明することに。☆★ テニアン島を飛び立ったB29がコクラに核物質を大喰らいしたデブを投下しようとするが、曇っていたので標的をナガサキのミツビシに変更。でも外れて天主堂の近くで炸裂した(1945年)。☆★ 冷戦時代に一強を誇ったアメポチ政党が、結成後38年で初めて野党に転落(1993年=細川護熙内閣が発足。38年ぶりの非自民政権)。

本日記載附録(ブログ)

ガイウス・ユリウス・カエサルがルビコン川を渡る“逆境を跳ね返した決断”

「賽は投げられた」、「来た、見た、勝った」、「ブルータス、お前もか」と独言し

「身の安寧に汲々としているようでは生きている甲斐がない」と公言、歴史を開く

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◇◆ 死に方を問われ、「思いがけない死、突然の死こそ望ましい」と…=1/3= ◆◇

「ルビコン川を渡る」という表現は、後戻りのきかない道へと歩み出す、その決断を下すことを意味する。
 「一線を越える」とか「背水の陣を敷く」などともいう。ルビコン自体は、大した障害ではない。アペニン山脈に水源を発して東に流れ下るイタリアの小さな川で、リミニとチェゼーナの間を通ってアドリア海に注ぐ。渡るのは簡単で、それは紀元前49年1月10日も同じだった。そのとき、ユリウス・カエサルは配下の一個軍団を従えてこの川の北岸に立ち、次の一手を決めあぐねているように見えた。

 カエサルが迫られていた決断は、どうやって対岸に渡るかということには関係なかった。すぐそばに橋が架かっていたからだ。彼を立ち止まらせ、思案に暮れさせていたのは、この川が象徴するものだった。ルビコン川は、当時カエサルが統治を任されていたローマの属州ガリア・キサルピナ(アルプスのこちら側のガリアの意)と、ローマおよびその周辺の直轄領から成るイタリア本土とを隔てる境界線だったのである。将軍が軍を率いてイタリア本土に入ることは、ローマの法律で明確に禁じられていた。

 その禁を、今まさにカエサルは破ろうとしているのであり、彼自身、それがどういう結果を招くか重々承知していた。ルビコン川を渡ることは、カエサル本人はもちろん、彼につき従う者も死罪に問われることを意味していた。従って、もし軍団を率いて川を渡るならば、かつての盟友で今や不倶戴天(ふぐたいてん)の敵となったポンペイウスが指揮を執る軍勢を打ち破ってローマを掌握するしかなかった。それができなければ、刑死は免れない。自らの決断の重さにしばらく思いを巡らしてから、カエサルはルビコン川を渡る。ローマ内戦の火蓋が切って落とされた。

それまでの経緯
 ガイウス・ユリウス・カエサルは紀元前100年、かつての富と権勢の大半を失った古い貴族の家柄に生まれた。将軍として名を成し、一族に昔日の栄華を取り戻すことを早くから目標に掲げていたようだ。紀元前60年までには、傑出した武将としてローマ軍で頭角を現し、幾多の戦功によって政治家としても脚光を浴びるようになっていた。さらに野望を推し進めるため、カエサルは自分と同じように軍人として成功し、政治家に転身したポンペイウスおよびマルクス・リキニウス・クラッススと協定を結ぶ。この同盟関係は、のちに第1回三頭政治と呼ばれるようになった。

 放置すれば最大のライバルとなっていたであろう2人と手を結んだかいもあって、カエサルはローマの執政官(コンスル)に選出される。これは、共和政ローマで選挙によって選ばれる公職で最高位に当たる。この選挙においては贈収賄や不正が横行し、またカエサルが執政官の任期1年を務める間、その手法に対する疑念が駆け巡った。

 しかし、執政官には在任中、たとえ罪を犯しても告発されない特権が与えられている。また、任期満了が近づくと、ここでもポンペイウスとクラッススの助力によって、カエサルには3つの属州の総督権が認められた。すなわち、ガリア・キサルピナ、ガリア・トランサルピナ(アルプスの向こう側のガリアの意で、今のフランス南部を指す)、それにアドリア海を挟んだ東岸のイリュリクムである。属州総督には執政官同様の特権が与えられていたので、カエサルは政敵がどうにかして彼に受けさせようとしていた訴追を免れ続けた。

・・・・・・・・・明日に続く・・・

⨂⨁ 参考資料: 皇帝に成り損ねたカエサル =1/8= ⨂⨁

古代ローマを語る上で必ず登場するのがカエサルです。軍人としても政治家としても才能を発揮し、古代ローマをまとめ上げ、やがて来たるローマ帝政の基礎を築いた。しかしその志半ばにして暗殺されるという悲劇により、人生の幕を下ろしたのです。そんなカエサルは偉人らしく女性にモテまくったということですが、いったいどんなところが魅力的だったのか。エジプトの女王クレオパトラのロマンスなど、数々の色恋と戦いに彩られた彼の人生・・・・・・・・。

カエサルの正式名は、ラテン語でガイウス・ユリウス・カエサル。ジュリアス・シーザーと呼ぶこともるが、これは英語読みの場合。また、カエサルという名称は、後にローマ帝国の君主号となった。曰く カエサルの後継者・オクタヴィアヌスもカエサルと言う名を持ち、後継ぎにこの名を付けという。やがて皇帝そのものを示す言葉となる。ちなにに、この影響はヨーロッパ各国にまで及び、ドイツ語で皇帝を意味する「Kaiser(カイザー)」やロシア語の「Tsar(ツァーリ)」はすべてカエサルに由来している。

名門だが没落貴族の息子
前100年、カエサルは同じ名を持つ父親と、数々の高官を輩出した家柄の母との間に生まれた。父はローマの属州総督を務めており、母の先祖の高官は執政官(コンスル)であったため、かなりの名門の貴族(パトリキ)です。

因みに、「属州」とは、ローマと同盟関係の都市以外でローマの領土となった所で、時代によって違うがローマ市民と属州民などで権利や身分の差が生まれてた。また、執政官(コンスル)は共和政だった古代ローマにおける最高職で、政治と軍事両方における最高責任者でした。とはいっても独裁を防ぐために、定員は2名。そして貴族(パトリキ)とは、古代ローマ建国の際に功績のあった人物に連なる家柄の人々のことで、社会的な身分として非常に高い地位でした。

こうした要素が重なったカエサルの家は、まさに名門中の名門といってもいい。しかし、彼が生まれた頃には没落し、彼の幼少時の記録すらほとんど残っていない。加えて、当時のローマは戦乱続きでもあり、内情がとても不安定だった。  ・・・・・・・明日に続く・・・

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  = カエサル戦記#5:スパルタクスの決断【内乱の一世紀】 =

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石の絞首台/ストーンヘンシ21/21 ; 歴史深層(041)

2022-08-08 05:35:50 | 史蹟彷徨・紀行随筆

ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事=平成4年08月08日<ⰧⰊⰧ

☆★ この日になって暑中見舞いを出そうなんて考えない様に。今日から出すなら残暑見舞い。されるならばと人々が「ハハハハハハハハハハハハ!(888…)」と笑いすぎて横隔膜が崩壊する事態が続出する日。☆★ 前日のガダルカナル島への殴り込みに対し、日本軍がソロモン海で夜討ち。日本は勝った筈が、例によって全力を挙げて見逃し更にフロリダ諸島を奪われる羽目に(1942年)。☆★ 例の「公共放送をぶっ壊す」とほざいた政党の党代表が総務省に「NHK受信料の徴収方法に異議あり!!」と提訴。令和一発目の野党の裁判沙汰である(2019年)。

本日記載附録(ブログ)

グレートブリテン・アイルランド連合王国南部₌ソールズベリー₌の北西近郊に在る環状列石

最も有名な先史時代の遺跡である。この直立巨石はBC2500年~BC2000年の間に建立された

夏至の日、ヒール・ストーンと呼ばれる6mの玄武岩と、中心の祭壇石を結ぶ直線上に太陽が昇る

【この企画はWebナショジオ】を基調に編纂(文責 & イラスト・資料編纂=涯 如水)

◇◆  ストーンヘンジの起源に新説、石はリユース品だった =3/3=  ◆◇

直径や石の並び、素材も同じストーンサークルが見つかる

 今回の論文の著者らは、これを強力ではあるが暫定的な説だとしている。この説に賛同する他の専門家もいる。ウェールズにあるカーディフ大学の考古学者リチャード・マジウィック氏は、ストーンヘンジの基になる石が少なくとも1つはウェールズにあったという考えには「かなり説得力がある」と述べている。

 しかし、まだ十分な証拠があるとは考えていない専門家もいる。

「ジェフリー・オブ・モンマスが書き残した口承の証拠を探すというのは興味深いアプローチですが、これまでにワイン・マウンで発見された痕跡は、この時代のストーンサークルから想定されるものとは一致していません」と、英ボーンマス大学の考古学者ティモシー・ダービル氏は話す。「この主張を立証するためには、明らかにもっと調査が必要です」

異なる地域の人々がストーンヘンジに集まっていた

 ストーンヘンジに現存する44個のブルーストーンのうち、ワイン・マウンにあったと自信をもって言えるのは(今のところ)1個だけだ。このことから研究チームは、これらのブルーストーンが、この地域の複数の場所から持ってこられた可能性があるとしている。もしそうだとすれば、ストーンヘンジはそこへ移住してきた人たちにとって特別な重要性を持っていたことが考えられる。なぜだろうか?

 複数のDNA調査により、5000年前にソールズベリー平原周辺に埋葬された人々は異なる起源を持っていたことが明らかになっている。石造りの墓を建てるウェールズ西部やアイルランドから来た人々もいれば、死者を長い墳丘墓に埋葬するイングランド東部から来た人々もいた。「これらの地域はまた、伝統的に生と死の様式が異なっていたと言えます」とパーカー・ピアソン氏は話す。

ストーンヘンジはこれらの地域のちょうど中間に位置している。そのため、新石器時代の異なる集団の人々が文化的な違いを統一させることができる一種の「中立地」として機能したのではないか。パーカー・ピアソン氏はそのように考えている。

 マジウィック氏が率いた最近の研究も、この考えを支持している。ストーンヘンジ近くの新石器時代の遺跡「ダーリントン・ウォールズ」で、多数の豚の骨が発見された。化学分析の結果、豚は英国全土から運ばれ、大規模な饗宴で消費されたことが明らかになった。ブリテン諸島の人々が、自分たちのアイデンティティと経験を共有するために集まったのだ。

石に刻まれた先祖の記憶

 特定のブルーストーンがなぜウェールズからソールズベリー平原に運ばれたのかは、定かでない。しかし、世界の反対側にある岩が、そのヒントになるかもしれない。

 1990年代にパーカー・ピアソン氏は、マダガスカルの巨石建造物の研究者と一緒に仕事をしていた。マダガスカルでは、現在もそうした建造物が造られている。石は先祖のためのものだと、マダガスカル人研究者は説明した。木は腐るが、石は永遠に残る。巨石は死者を象徴するために、そして彼らの記憶を永遠に生かしておくために用いられるのだ。

 同じことが、ウェールズから運ばれたブルーストーンにも当てはまるかもしれない。ストーンヘンジに設置されたこれらのブルーストーンは、その時代に建てられた多くの墓と同様に、やはり永遠の存在である太陽の動きに合わせて配置された。ストーンヘンジは、多くの文化が集まる場所であるだけでなく、記憶のモニュメントでもあったのかもしれない。

私たちは彼らと5000年の歳月を隔てて生きているが、先人を不滅のものにしたいという彼らの思いには容易に共感できる。ブルーストーンは3トンもあるが、私たちが亡き人から受け継ぐ写真、手紙、小物などの小さな形見と同じだったと言えるのだ。

 そして、古代ブリトン人がそうしたように私たちも、そうした大切な品々を引っ越し先に持って行くだろう。

「先祖が何者であり、その結果として自分が何者であるかを示すものを、私たちはともに持って行くのです」とパーカー・ピアソンは語る。

文=ROBIN GEORGE ANDREWS/訳=桜木敬子

・・・・・・・明日よりの新節に続く・・・

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= Ancient Aliens: Mysterious History of Stonehenge   = 

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◎_今日の足跡が記録帖_◎ 2022/08/07(日)

2022-08-07 05:35:41 | 史蹟彷徨・紀行随筆

ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事= 平成4年08月07日 ⰧⰂⰧ

  「耳の日」「虫歯予防デー」「目の愛護デー」程知られていないが、本日は鼻の日。

 1801年- 富山元十郎らが千島列島のウルップ島に「天地長久大日本属島」の標柱を立てる。&so、日本初の正確な地図が江戸幕府に献上(1821年)されるが、制作を指揮した本人はその席に立ち合えぬまま十万億土に旅立った後だった。

  多摩川に「タマちゃん」現れ人気者に。-2002年-その後、姿を消したので彼方此方アザさラシすれど行方不明の賞金首に!!?

Beethoven: Symphony No.7 In A, Op.92 - 2. Allegretto
 

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石の絞首台/ストーンヘンシ20/21 ; 歴史深層(040)

2022-08-06 05:35:38 | 史蹟彷徨・紀行随筆

ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事=平成4年08月06日<ⰧⰊⰧ

☆★ カール大帝によってでっち上げられた「ローマ帝国」が、ローマ帝国の面影はおろか神聖もなくしたフランツ2世がコルシカの山師の蹂躙によって800年以上の歴史に幕を下ろす(1806年)。☆★ 戊辰戦争における官軍の英霊をもって、朝敵の怨霊を調伏する目的で靖国神社を鎮座せしめる(1869年)。☆★ スイス在住のソフトウェア技術者・ティムが「こんなの作ったんだけど結構面白いwww」とインターネット上でWorld Wide Webを公言(1991年)。

本日記載附録(ブログ)

グレートブリテン・アイルランド連合王国南部₌ソールズベリー₌の北西近郊に在る環状列石

最も有名な先史時代の遺跡である。この直立巨石はBC2500年~BC2000年の間に建立された

夏至の日、ヒール・ストーンと呼ばれる6mの玄武岩と、中心の祭壇石を結ぶ直線上に太陽が昇る

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◇◆  ストーンヘンジの起源に新説、石はリユース品だった =2/3=  ◆◇

直径や石の並び、素材も同じストーンサークルが見つかる

古代の伝説に手がかりが?

 考古学を支える科学の進歩のおかげで、過去数十年でストーンヘンジがどのように造られたかについての可能性は絞り込まれてきている。夏至と冬至に合わせて石が配置されていることからは天文学的な関連が、また多数の火葬人骨からは死者や祖先崇拝とのつながりが示唆されている。

 ストーンヘンジは短期間で完成したわけではない。5000年前に建設が始まり、その後何百年もかけてさまざまな形に変化していったが、最終的には2種類の石から造られている。馬蹄型に並ぶ中央の巨石部分と外側の円を構成するのは、20トンもの板状のサーセン石(砂岩の一種)。それらの間に円弧を描くように配置されているのが、ブルーストーンである。

 解析により、サーセン石はストーンヘンジ近くのウェストウッズから採取されたと示唆されている。対してブルーストーンは、300キロ近く離れたウェールズ南西部のプレセリ山地から、はるばる陸路で運ばれてきたと考えられている。パーカー・ピアソン氏らは最近、ウェールズの2つの採石場で、ストーンヘンジのブルーストーンと完全に一致する特徴を発見した。

ブルーストーンがたどった旅路は、とある古い伝説を思い起こさせると論文の著者らは指摘する。12世紀にジェフリー・オブ・モンマスが著した『ブリタニア列王史』によると、魔術師のマーリンが、アイルランドの古代のストーンサークル「ジャイアンツ・ダンス」をばらばらにし、1万5000人を使役してソールズベリー平原に造り直させたという。

 この興味深い伝説は、現実にはほとんど根拠がないとされている。しかし、ブルーストーンの採石地がアイルランドに近いウェールズであるという事実は、伝説に一抹の真実が含まれているかもしれないとの思いを一部の研究者に抱かせた。

 ストーンヘンジの前身が、西のどこかにあるのだろうか? パーカー・ピアソン氏の調査チームは、挑戦せずにはいられなかった。考古学者、地質学者、航空写真測量の専門家、そして年代測定の専門家からなるチームは、過去10年の大半を費やしてそれを解明しようとしてきた。

ストーンヘンジの前身を探して

 ワイン・マウン遺跡は、2010年にストーンヘンジとの関わりが指摘されたものの、現在はさほど注目されていない。4つのブルーストーンが円弧らしき形に配置されているだけだ。2011年には、考古学者らがリモートセンシング技術を使って遺跡の地下を探索したが、興味深いものは何も見つからなかった。

 研究チームは直感を信じて2017年にワイン・マウンに戻り、弧の両端に小さな溝を掘ったところ、かつて立石があったことを示す2つの穴を発見した。「もしかしたら私たちはついに正しい道を歩んでいるのかもしれない、と思った瞬間でした」とパーカー・ピアソン氏は振り返る。

 やがて研究チームは、この土地には磁性や導電性をもつ岩石が少なく、リモートセンシングの装置が設計通りに機能しないと気付いた。「最新のハイテク技術では無理だったのです」とパーカー・ピアソン氏は語る。「昔ながらのやり方で、すべて手作業で行うしかない、ということになりました」

くぼみと石の断面が一致

 何カ月もかけて土を掘り、質感や色、地形にわずかな違いがないか調査した結果、さらに多くの穴が発見された。これらの「石のソケット」は、元々は直径110メートルの円の一部となっていた。ストーンヘンジを囲んでいる溝と同じ直径だ。もし、ワイン・マウンの石がすべてソケットに立ったままであれば、夏至の日の出に合わせて配置されていることになる。やはり、ストーンヘンジと同じだ。

 次に研究チームは、遺跡から採取した木炭の放射性炭素年代測定と、光刺激ルミネセンスを用いた土の分析を行った。これにより、ソケットに詰まった石英に富んだ土が最後に日光に当たった時期を知ることができる。その結果、ワイン・マウンは5000〜5600年前に建設されたらしいことがわかった。ストーンヘンジよりも前である。

 では、ワイン・マウンの石はどこへ行ったのか? ストーンヘンジにあるブルーストーンの一つが手がかりとなった。ワイン・マウンのソケットの一つと断面が一致する石があったのだ。さらに、ワイン・マウンのソケットの底にある石の破片は、ストーンヘンジ特有のブルーストーンと地質学的に一致していた。専門的には、無点紋のドレライト(粗粒玄武岩)と呼ばれるものだ。

 過去に行われたストーンヘンジの人骨の分析では、死者のなかにウェールズ西部の出身者がいたという化学的証拠が見つかっている。これらのデータを合わせると、ドラマチックで予想外のストーリーが見えてくる。ワイン・マウンのストーンサークルは、それを造った人々の手で解体され、石の一部はソールズベリー平原に運ばれて、同様の設計のストーンヘンジの材料として使われたのだ。

・・・・・・・明日に続く・・・

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= Ancient Aliens: Mysterious History of Stonehenge   = 

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◎_今日の足跡が記録帖_◎ 2022/08/05/(金)

2022-08-05 05:35:02 | 史蹟彷徨・紀行随筆

ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事= 平成4年08月05日 ⰧⰂⰧ

 アメリカのセックスシンボル、マリリン・モンローが36歳の若さで変死(1962年)。彼女とのアーン♥♥が噂されていたジョン・F・ケネディ大統領は、彼女のパンティーのサイズを決めたことに関して口を閉ざしていたが、翌年暗殺され、真偽の程は今日に至るまで不明。

 毛沢東同志が年甲斐もなく壁に自分のアジ演説論文『司令部を砲撃せよ - 私の大字報』を落書きする(1966年)。

 1984年 - ロサンゼルスオリンピックで、オリンピックで初めての女子マラソンを実施。

Smetana: Má Vlast - 2. Vltava
 

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石の絞首台/ストーンヘンシ19/21 ; 歴史深層(039)

2022-08-04 05:35:35 | 史蹟彷徨・紀行随筆

ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事=平成4年08月04日<ⰧⰊⰧ

☆★ 修道士ドン・ペリニヨンが発酵で溜ったガスで澱を取り除くことを思いつき、シャンパンを発明(1693年)。☆★ 上地令でミソをつけた水野忠邦が、オランダ国王からのカイコクノススメの対処から老中に呼び戻される(1844年)。☆★ 三木総理が、検事総長の声を聞き分けられない程耳が悪いことが判明(1976年=ニセ電話事件)。一つ誤えると、ロッキード事件が闇から闇へ…。

本日記載附録(ブログ)

グレートブリテン・アイルランド連合王国南部₌ソールズベリー₌の北西近郊に在る環状列石

最も有名な先史時代の遺跡である。この直立巨石はBC2500年~BC2000年の間に建立された

夏至の日、ヒール・ストーンと呼ばれる6mの玄武岩と、中心の祭壇石を結ぶ直線上に太陽が昇る

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◇◆  ストーンヘンジの起源に新説、石はリユース品だった =1/3=  ◆◇

直径や石の並び、素材も同じストーンサークルが見つかる

世界で最も有名な遺跡の1つ、英国のストーンヘンジ。4600年前にイングランド南部のソールズベリー平原に造られたこの遺跡は、今も多くの謎に包まれている。

 最新の研究で、このストーンヘンジの始まりについて新たな物語が提唱された。2月12日付けで学術誌「Antiquity」に発表された論文によると、ストーンヘンジはオリジナルな創造物ではなく、ウェールズにあるさらに古い遺跡がその前身であるかもしれないというのだ。

 その遺跡とは、ウェールズにある「ワイン・マウン」というストーンサークル(環状列石)。ストーンヘンジと同等の大きさで、石の配置と太陽との関わりも似ている。さらに、一部は同じ材料を使っているようにも見える。ストーンヘンジとの違いと言えば、現在のワイン・マウンには石がほとんどないことだ。

 研究チームは、ワイン・マウンの建設者たちはが約5000年前にこれを解体し、その石の一部を280キロ東のソールズベリー平原まで運び、ストーンヘンジの建設に使ったのではないかと推測している。彼らは何のために、恐ろしく手間がかかり、実用的でもないそんな作業を行ったのだろうか?

 そのカギになるのが、ストーンヘンジに移設されたとされる重さ3トンの石「ブルーストーン」だ。古代ブリトン人にとって、ブルーストーンは「貴重品だっただけでなく、自分たちが何者であるかを示す本質でもあったのでしょう」と、今回の論文の筆頭著者である英ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)のマイケル・パーカー・ピアソン氏は語る。氏の研究にはナショナル ジオグラフィック協会も支援している。

 ワイン・マウンでの発見は、実に刺激的な仮説につながると氏は考えている。ストーンヘンジのブルーストーンは、この地に移住してきた彼らの先祖やその記憶を示すものだったという説だ。新石器時代のブリトン人は、文字通り先祖の重みを背負って大地を横断していたことになる。

 しかし、現段階で結論を出すのはまだ早いと、論文の著者らも認めている。「ストーンヘンジについていつも面白いと思うことの一つは、おそらく永遠に答えの出ない問いがたくさんあることです」と、「レスキュー英国考古学トラスト」の副会長ケイト・フィールデン氏は言う。なお氏は今回の研究には関わっていない。「私は、謎があるということが好きです」

・・・・・・・明日に続く・・・

…… …… 参考資料: トーンヘンジの石柱、採石場を特定、研究発表(2/2) …… ……

陸路で290キロ離れた採石場、学術誌に論文を発表

どうやって切り出し、運び出したのか?

 採石場周辺には自然に形成された柱状の岩があり、石切り作業に従事した先史時代の人々はいくらか楽ができただろうと考えられている。「彼らは石柱同士の間に走っているひびに木のくさびを打ち込みさえすれば、あとは雨で木が膨張して、石柱を1本ずつ切り離してくれるのを待てばよかったのです」と、英サウサンプトン大学のジョシュ・ポラード博士は言う。「切り離された石柱は次に、土と石でできた土台まで下ろされます。この『荷の積み降ろし区画』から先は、採石場の外へと続く通路に沿って引きずられていくわけです」

 最終的には、80個のブルーストーンがストーンヘンジまで運ばれた。2トンの石柱を距離にして300キロ近く移動させるのはかなりの大仕事だが、インドでは同程度の大きさの石を、木を格子状に組んだ道具を使って、わずか60人ほどで運んでいたことがわかっている。

 石を採石場から運び出すのは、力と器用さの両方が必要とされる作業だ。出口に続く通路(幅わずか1.8メートル)は狭すぎて、木材を敷いた上に石を載せて転がす方法は使えない。考古学者らは、古代の人々が縄、てこ、支点を利用して石を木製のそりに乗せ、それを山裾まで引っ張るか、滑らせたかしたのだろうと考えている。「この作業には二つのチームが必要です。一方のチームが坂の上で縄を引っ張りながらゆっくりとそりを下ろし、もう一方が1メートルほど下で待機して、それを受け取るのです」とパーカー・ピアソン氏は言う。

 採石場の作業員の食事は肉が中心だったと考えられるが、周辺の土壌は酸性度が高く、骨や角などは一切残っていない。見つかるものといえば焼きグリの残骸くらいだが、これは新石器時代には重要な食料であった。パーカー・ピアソン氏は、少なくとも25人が石切りの作業に従事しており、近くにあった居住地から毎日徒歩で通っていたのだろうと考えている。

 パーカー・ピアソン氏のチームによる調査は、ナショナル ジオグラフィックの科学調査支援プロジェクトとして実施された。

・・・・・・明日に続く

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= Why is Stonehenge So Important?  = 

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◎_今日の足跡が記録帖_◎ 2022/08/03/(水)

2022-08-03 05:35:41 | 史蹟彷徨・紀行随筆

ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事= 平成4年08月03日 ⰧⰂⰧ

   クリストファー・コロンブスが、大西洋を兎に角横断すればインドへ着けるというぴーな発想から航海に出発(1492年)。無論、その途中にアメリカ大陸があるなど知る由も無かった。

 1958年 - アメリカ海軍の原子力潜水艦「ノーチラス」が世界で初めて潜航状態による北極点通過を果たす。

   千葉県君津市のお寺でペットとして買われていたトラが成長し過ぎて野に放たれてしまい、以後27日間にわたり地域住民を恐怖と混乱に陥れる(1979年=神野寺虎脱走事件)。

VLTAVA (MOLDAU) - SMETANA - ORGAN OF ROCHDALE TOWN HALL
 

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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

森のなかえ

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歴石の絞首台/ストーンヘンシ18/21 ; 歴史深層(038)史深層(038)

2022-08-02 05:35:32 | 史蹟彷徨・紀行随筆

ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事=平成4年08月02日<ⰧⰊⰧ

☆★ 全世界の変態が大喜びしながらも、無地か縞パンかキャラ入りかで論争しまくるパンツの日。「パン(8)ツ(2)」が認定されるならばと「ハ(8)ーブ(2)」にしてハープの日、ビーズの日、オートパーツの日、帆布の日、ハラスメントフリーの日、ハブの日、云々etc☆★ 士農工商を廃止して平等を謳った筈の明治政府が、国民を3等級に選別(1869年)。☆★ 核開発を促す提言書をフランクリン・ルーズベルト大統領が受け取り、(訳も解らずに署名しただけの)アインシュタインが賛成しているなら好いか、と原子爆弾開発にGOサインを出す(1939年)。

本日記載附録(ブログ)

グレートブリテン・アイルランド連合王国南部₌ソールズベリー₌の北西近郊に在る環状列石

最も有名な先史時代の遺跡である。この直立巨石はBC2500年~BC2000年の間に建立された

夏至の日、ヒール・ストーンと呼ばれる6mの玄武岩と、中心の祭壇石を結ぶ直線上に太陽が昇る

【この企画はWebナショジオ】を基調に編纂(文責 & イラスト・資料編纂=涯 如水)

◇◆  ストーンヘンジ期のブタ宴会、全島イベントだった =2/2=  ◆◇

全域から人が集まる初の「汎ブリテン島」集会と判明、英国

研究者たちは今回、4カ所の新石器時代後期の遺跡(ダーリントン・ウォールズ、マーデン、マウント・プレザント、ウエスト・ケネット・パリセード・エンクロージャー)から出土したブタの骨131点について同位体分析を行った。結果、そこで食べられたブタの大多数が、現地で育てられたものではなく、ブリテン島各地から連れてこられたものであることが明らかになった。その距離は少なくとも50kmで、550km以上のこともあり、ウェールズやスコットランドから連れてこられたブタもいた。

 新石器時代の祭祀場にブリテン島全土から人々が集まってきていて、なかにはかなり遠くからも来ていたことは、宴が開かれた祭祀場が、地元や近隣の会合だけでなく、歴史上最初の「汎ブリテン島」イベントの会場だったことを示している。

映画に出てくるようなブタではない

 この結果は、ブタにより人間の移動を推定する手法について、研究者たちに再考を促している。ストーンヘンジの人骨のストロンチウム分析を行ったベルギー、ブリュッセル自由大学の博士研究員クリストフ・スノーク氏は、今回の研究には関与していないが、「本当に驚きました」と言う。スノーク氏は、ブタの骨のストロンチウムだけでなく、複数の同位体の分析が行われ、ブタが飼育されていた場所や餌について深い洞察が得られたことを賞賛する。

 例えば、ダーリントン・ウォールズのブタは、ストロンチウム、酸素、硫黄の同位体分析結果から、さまざまな環境で育っていたことが明らかになった。しかしその一方で、炭素同位体の分析結果からは、餌は同じようなものだったことが分かった。これはダーリントン・ウォールズの宴の規模の大きさを反映しているとマジウィック氏は信じている。

つまり、地域で残飯を与えられたブタをかき集めたのではなく、ブタの大群を森で餌を食べさせながら移動させたのだ。

「宴に参加した人々は、儀式のために、はるばるブタを連れてきたのです」とマジウィック氏は言う。

『Lesser Beasts:A Snout-to-Tail History of the Humble Pig(劣った獣:つつましいブタたちの全歴史)』の著者であるマーク・エシッグ氏は、この結果は理にかなっていると考える。「ブタの群れを移動させることなどできないというのは間違った思い込みです」とエシッグ氏。19世紀の米国では、ブタをケンタッキー州中部からサウスカロライナ州沿岸部までいつも歩かせていたと指摘する。

「新石器時代のブタは、現代の映画に登場するような外見ではなく、イノシシのように痩せていて脚が長かったのです。徒歩で長旅をできるだけの敏捷性と元気がありました」

文=Kristin Romey/訳=三枝小夜子

明日” ストーンヘンジの起源に新説、石はリユース品だったに続く・・・

…… …… 参考資料: トーンヘンジの石柱、採石場を特定、研究発表(1/2) …… ……

陸路で290キロ離れた採石場、学術誌に論文を発表

 英国の考古学者チームが2019年2月に学術誌『Antiquity』に発表した調査結果により、ストーンヘンジに使われている石の一部がどのように採掘・輸送されたかが明らかになった。

 調査チームによると、5000年ほど前にストーンヘンジの建設に使われた特徴的な「ブルーストーン」が、英国ウェールズにある新石器時代の採石場2カ所で切り出されたことを示す数々の証拠が発見されたという。

 かつてストーンヘンジに立っていたと推定される約80個のブルーストーンのうち、現在残っているのは43個。ブルーストーンはストーンヘンジの内側に馬蹄形に配置され、外側をそれより巨大な砂岩の柱にぐるりと囲まれている。研究者らは採石場から発掘された遺物を精査し、先史時代の人々がブルーストーンを切り出した時期とその方法を特定した。

広大な施設が築かれていた

 ブルーストーンの採石場は、ストーンヘンジから陸路で北西におよそ290キロ離れたウェールズのプレセリ山地にある。ブルーストーンの重さは1~2トン、高さは最大で2.4メートルほどだ。

 これらの採石場で見つかる火山岩や火成岩の特徴は、ストーンヘンジの内側に馬蹄形に並べられているブルーストーンと、ぴたりと一致する。地質学者によると、採石場一帯はブリテン諸島の中で唯一まだら模様のドレライト(粗粒玄武岩)が見つかる場所で、ストーンヘンジのブルーストーンにも多く用いられているという。

採石場では、石器や土台、木炭、焼けたクリの実の他、採石場からの出口だったらしい道などが見つかっている。「ブルーストーンのおおよその産出地は以前からわかっていましたが、今回の研究で特筆すべきは、実際の採石場が特定できたことです」。プロジェクトの統括者で、ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン教授のマイク・パーカー・ピアソン氏はそう語る。「ここには土台、傾斜路、荷の積み降ろし区画など、広大な施設が築かれていました。露頭のくぼみには、木製のくさびを打ち込んだ跡も確認できます」

 木炭と焼けたクリの実から放射性炭素年代測定を行ったところ、新石器時代に当たる5200~5400年前に、この採石場で人の活動があったことが明らかになった。一方、ストーンヘンジが建てられたのは、5000年前よりは後のことと考えられている。これらを考え合わせると、一つの疑問がわいてくる。切り出された石は400年もの間、いったいどこにあったのだろう。

「これはとても興味をそそられる問題です。新石器時代の人々が500年近くかけて石をストーンヘンジまで引きずっていった可能性もなくはありませんが、あまり現実味がありません。むしろ、石はまずどこか採石場の近くにあるモニュメントで使用され、のちにそれが解体されたときに、ストーンヘンジのあるウィルトシャーへ運ばれたと考えるほうが妥当でしょう」とパーカー・ピアソン氏は言う。

・・・・・・明日に続く

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= Stonehenge: Scientists Discover Origin of Iconic Sarsen Stones = 

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◎_今日の足跡が記録帖_◎ 2022/08/01/(月)

2022-08-01 05:35:53 | 史蹟彷徨・紀行随筆

ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事= 平成4年08月01日 ⰧⰂⰧ

   空気マニアのジョゼフ・プリーストリー、何か清々しい空気を発見。これが酸素であることを知る由もなかった(1774年)。

 甲子園球場が完成(1924年)。以後、2022年現在までに未成年達の穢れを物ともしない死闘や、更にはトラキチたちが観客席で応援だか罵声だか判らない興奮する様が繰り返されている。

   アドルフ・ヒトラープロデュースのベルリンオリンピックが開幕(1936年)。何かと物議をかもす聖火リレーはこの時に始まった。&so、ヒットラーに犯され、ハイパーインフレに悩まされていたハンガリー、紙切れ同然の旧通貨に代わり額面を40穣 (4×1029) 分の1にした新通貨を発行(1946年)。

Smetana: Vltava (The Moldau) - Stunning Performance
 

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◎_今日の足跡が記録帖_◎ 2022/07/31/(日)

2022-07-31 05:35:02 | 史蹟彷徨・紀行随筆

ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事= 平成4年07月31日 ⰧⰂⰧ

  どうでもいいが、今住吉祭、住吉大社の例祭・パラグライダー記念日・蓄音機の日・クールジャパンの日・GLAYの日…因縁謂れはもっともだが…今日を8月31日と間違えて夏休みの宿題をすませたおマヌケな貴女には後1ヶ月のアバンチュールな日々が待ち構えている……

 フランスの作家サン=テグジュペリが飛行機の『夜間飛行』で“星の王子さま”とこに向かいに行って、そのままいなくなる(1944年)。……自家用飛行機とは作風からは飛翔し過ぎだが。 

  照明に照らされながらもサラブレッドが大井競馬場で夜の闇を走らされサービス残業を強いられたんだ!!(1986年=トゥインクルレース開始)。

Smetana Die Moldau(Má Vlast) Rafael Kubelík/Czech Philharmonic Orchestra
 

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石の絞首台/ストーンヘンシ17/mn ; 歴史深層(037)

2022-07-30 05:35:46 | 史蹟彷徨・紀行随筆

ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事=平成4年07月30日<ⰧⰊⰧ

☆★ こんなクソ暑いのに、今日の記念日はなんと筋肉の日。筋肉ひとつでボディビル界の重鎮(アンバサダー)となり映画俳優から外国の州知事にまでのし上がった生きる伝説の生誕日を讃えてのこと。☆★ 日本人を助けてあげたのでお引き取りを、とやって来た黒船に対し、お断りしますと大砲の弾で返事する(1837年=モリソン号事件)☆★ この国の政権与党が自由と民主主義の政党を名乗るなど片腹痛いとばかりに日本共産党が自由と民主主義の宣言を採択(1976年)。

本日記載附録(ブログ)

グレートブリテン・アイルランド連合王国南部₌ソールズベリー₌の北西近郊に在る環状列石

最も有名な先史時代の遺跡である。この直立巨石はBC2500年~BC2000年の間に建立された

夏至の日、ヒール・ストーンと呼ばれる6mの玄武岩と、中心の祭壇石を結ぶ直線上に太陽が昇る

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◇◆  ストーンヘンジ期のブタ宴会、全島イベントだった =1/2=  ◆◇

全域から人が集まる初の「汎ブリテン島」集会と判明、英国

    4500年前の宴の食べ残しであるブタの研究から、意外なことが明らかになった。ストーンヘンジ周辺にある先史時代の祭祀場に、ブリテン島全域から人々が集まっていたのだ。この論文は学術誌「Science Advances」誌に3月13日付けで掲載された。

 新石器時代後期(紀元前2800年~前2400年頃)には、ブリテン島南部のダーリントン・ウォールズ(ストーンヘンジを築いた人々が住んでいたと考えられている場所)やマーデン(ブリテン島最大の環状遺跡)などの祭祀場で大規模な宴会が開かれていた。

 ダーリントン・ウォールズの発掘調査では、冬の間に大規模な宴が開かれ、大量の豚肉と少しの牛肉を焼いて食べていたことが分かっている。発掘された8500点の骨を分析した結果、ブタとウシの割合は10:1だった。

 この地域のほかの祭祀場遺跡からもブタの骨が大量に出土していることは、新石器時代後期のブリテン島南部で、ブタ宴会の習慣が広まっていたことを強く裏付けている。こうした宴の目的が、(コミュニティーのバーベキューパーティーのように)地元の人々の親睦を深めることにあったのか、あるいは、近隣との同盟関係を強化することにあったのかはまだ分かっていない。

 そこで今回、ブタの骨を新たに分析したところ、予想外の結果が判明した。祭祀場とそこで振る舞われたごちそうが、ブリテン島の巨大な交流網のかなめになっていたのだ。ここまで交流が深く、社会が複雑だったとは、誰も予想していなかった。

ブタの骨は語る

 科学者たちは近年、人間や動物がすんでいた土地の情報が分かるストロンチウム同位体分析によって、宴に参加した人々の広がりを特定しようとしている。ストーンヘンジで火葬された人間の遺体と、ダーリントン・ウォールズから発掘されたウシの骨についての分析結果は、どちもかなり遠いところから(なかには今日のウェールズにあたる場所から)祭祀場にやって来たことを示唆していた。

 けれどもこれまで、ブタの骨の同位体分析を行おうとする研究者はいなかった。牛は遠くから連れてこられるのに対し、長距離の移動が苦手なブタは祭祀場の近くで飼われていたはずで、祭祀の参加者がどこから来たかを知る手がかりにはならないと考えられていたからだ。しかし、ブタを遠くから連れてくることは本当に不可能なのだろうか?

「正直なところ、豚の骨を分析して、人間の移動について何も分からなかったらどうしようと思っていました」と、論文の筆頭著者で英カーディフ大学の考古科学講師のリチャード・マジウィック氏は打ち明ける。

・・・・・・・明日に続く・・・

…… …… 参考資料: ストーンヘンジに集い祝宴を開く古代人(2/2) …… ……

今回の発見は、イギリスのシェフィールド大学の大学院生サラ・ヴァイナー氏の研究が基になっている。ヴァイナー氏の指導教官で動物考古学者のウンベルト・アルバレッラ氏は、「今回の化学分析は、先史時代の牛の出身地をピンポイントで示せるほど精密ではないが、ストーンヘンジ以外のイギリスのどこかから人々が家畜を連れてやって来たことは証明された。人々は、非常に広い範囲から集まっていた」と話す。

 さらに、古代の村から出土した牛骨を調査したところ、生まれたばかりの子牛がいないことが判明した。「家畜を飼育している場所であれば、その子どもの骨が大量に見つかるはずだが、まったく見つからなかった。だから、ここは生産する場所ではなく消費する場所だったのだと考えられる。ここは特別な目的のための場所だったと言える。人々が集い、おそらく恐ろしいほどの量のごちそうを並べて祝宴を開いていたのだろう」とアルバレッラ氏は語る。
 アルバレッラ氏の参加するストーンヘンジ・リバーサイド・プロジェクトのリーダーで考古学者のマイケル・パーカー・ピアソン氏は、「ストーンヘンジとダーリントンウォールは同じ環状構造を持つ遺跡だが、一方は石造りの柱、もう一方は木柱とその素材が示すように意味合いは異なる。祖先崇拝を尊ぶ古代ブリトン人にとって、木は生者の領域を象徴し、石は祖先の死者に結びつくものだ」と話す。
 最近ダーリントンで発見された先史時代の何百という住居跡は、特定の季節に限定された村であったと考えられている。古代多神教徒の巡礼者が冬至と夏至を祝うために訪れたのだという。

 先史時代のゴミ捨て場は、豚や牛の骨、壊れた陶器など、石器時代の祝宴の証拠にあふれている。「巡礼者たちは出身地方ごとに村の中に割り当て区域を持っていた」とする新しい学説も発表されており、家畜の化石の研究がさらに進めば、この学説を支持するものとなるかもしれない。

「現時点までの研究はまだ断片的なものだが、陶器の種類が住居跡の区域ごとに異なっているように思われる。まだ仮説にすぎないが、牛の出身地から解明できるかもしれない」とアルバレッラ氏は語る。人の歯は火葬のために残っておらず、牛の歯が貴重な手掛かりなのだという。

・・・・・・明日に続く

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= Ancient Aliens: The Purpose of Stonehenge = 

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◎_今日の足跡が記録帖_◎ 2022/07/29/(金)

2022-07-29 05:35:59 | 史蹟彷徨・紀行随筆

ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事= 平成4年07月29日 ⰧⰂⰧ

  パリのど真ん中に凱旋門が完成(1836年)。ナポレオン・ボナパルトが自分の勝利を記念して建設を始めたのだが、その当人は10年以上も前にあの世へ逝っていた。

 北京近郊で、大日本帝国の下僕だった中国人が、日本が数日前にやらかした誤爆にブチ切れ。デマにも煽られ、日本人や日本兵をぶっ殺す暴挙になる(1937年=通州事件)。

  イギリスのチャールズ王太子がダイアナ妃とめでたく結婚(1981年)、日本のワイドショーが2人・特にダイアナ妃を追っかけ始める。

Smetana: Vltava (Moldau) Solti BRSO
 

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