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【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

バス席を決然と譲らぬパークス3/3; 歴史深層(017)

2022-08-27 05:35:48 | 史蹟彷徨・紀行随筆

ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事=平成4年08月27日<ⰧⰊⰧ

☆★ 日光街道沿いに鉄道/現伊勢崎線が開通する(1889年)。その後、『らき☆すた』や『クレヨンしんちゃん』でお馴染みの路線となる。☆★ 1階をスカスカにしてその上に規格化された建材を組み立てた上に屋上に広場を造るという安易さ極まりないモダニズム建築の巨匠として有名なル・コルビュジエが死亡する(1965年)。☆★ 5か月前にハブに噛まれて死んだ筈の車寅次郎が、突然柴又の団子屋に現れる(1969年)。

本日記載附録(ブログ)

公営バスの車中、白人に席を譲るジム・クロウ法違反の容疑で逮捕され収監された

この事件が契機にモンゴメリー・バス・ボイコット事件が勃発、公民権運動の導火線となった

市内のすべての黒人がバス・ボイコット運動に呼応、ローザは文化的象徴と見なされて渦中に

【この企画はWebナショジオ】を基調に編纂(文責 & イラスト・資料編纂=涯 如水)

公民権闘争の重要な節目に、「公民権運動の母」と呼ばれたローザ・パークスの…

◇◆ 人種差別の渦の中、席を立つのを拒みバス席を譲らぬパークス =3/3= ◆◇

バス乗車ボイコット運動
 ローザ・パークスは訴訟を進めることを決意する。黒人コミュニティーは、彼女が出廷する12月5日の月曜日に合わせて公共バスの乗車ボイコットを計画し、ほとんど全員がこれに参加した。裁判はわずか5分で終了。パークスは人種隔離に関する都市条例違反で有罪を宣告され、罰金10ドルと訴訟費用4ドルの支払いを命ぜられた。

 その日の夜、黒人コミュニティーのリーダーたちが一堂に会し、ボイコットの期間延長とモンゴメリー改善協会の設立を決定する。この新たな組織の会長に投票で選ばれたのが、ジョージア州アトランタ出身でバプテスト派の26歳の牧師、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアだった。

 このバス乗車ボイコット運動は381日間続き、公民権の名の下での多くの抗議活動や不服従行動に、州を越えて影響を与えた。そしてついに連邦最高裁判所は、モンゴメリーでローザ・パークスとほぼ同じ仕打ちを受けた女性オーレリア・ブラウダーの裁判で、彼女を擁護する判決を下す。

    バス車内での人種隔離を憲法違反とし、市とアラバマ州に交通機関での人種隔離の撤廃を命じた。そして最高裁判所は本件以外にも、根強く残るジム・クロウ法に対して起こされた一連の訴えを審理した。

    我慢には限界がある。われわれが今夜ここに集まったのは、われわれを長きにわたり虐待してきた者たちに、もう我慢の限界だと言うためだ。差別され、自尊心を傷つけられ、抑圧という名の無慈悲な足に蹴り回されるのはもうたくさんだと。

─モンゴメリーでのバス乗車ボイコット運動が始まった1955年12月5日に、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアがおこなった演説より─

公民権法
 翌年、公民権法が成立し、あらゆる種類の差別が違法となった。さらに、1965年には投票権法が成立する。いかなる生い立ちの人々に対しても、有権者登録を妨害する行為は一切禁止された。そのころ、ローザ・パークスはデトロイトに住んでおり、ミシガン州選出の連邦議会議員ジョン・コニャーズのもとで、1988年まで働いた。

 彼女が2005年にこの世を去ると、その遺体はワシントンの連邦議会議事堂で2日間にわたり公開安置された。この建物には、1968年に暗殺されたマーティン・ルーサー・キング・ジュニアの胸像も置かれている。あの日モンゴメリーでパークスが乗ったバスは現在、デトロイトのヘンリー・フォード博物館にあり、2012年4月には、アメリカ初の黒人大統領バラク・オバマがここを訪れた。

私には夢がある
    マーティン・ルーサー・キング・ジュニアは、モンゴメリー改善協会の会長に選出される前にこの街へ移り住み、その天賦の弁論術でNAACPの集会に興奮を巻き起こしていた。ローザ・パークスの一件で公民権運動の重要人物となり、暴力によらない市民的不服従の方針を取ったことで世界から注目を浴びるようになる。

    キングが聴衆を魅了する弁舌力を発揮した最も有名な例は、抗議デモ「ワシントン大行進」の一環で1963年8月28日におこなった、「私には夢がある」という演説だ。

・・次回はキング牧師とローザ・パークスに続く・・・

⨁⨂参考資料: ローザ・パークス (3/3) ⨂⨁

ローザ逮捕の知らせが伝わると、モンゴメリーのデクスター街バプテスト教会で牧師に着任したばかりで当時26歳だったマーティン・ルーサー・キング・ジュニアやラルフ・アバーナシー(Ralph Abernathy)牧師らが抗議運動に立ち上がり、モンゴメリーのすべての黒人にバス・ボイコット運動を呼びかけた。

以前にも黒人が同様に逮捕されていたが素行の悪い者が多く、運動としては盛り上がらなかった。ローザの場合はまともな職業婦人であり、NAACP書記でもあったため関係者が迅速に動いたとされる。

当時貧しい黒人にとってバスは必須の交通機関であった。利用者の75%以上を占めていた黒人たちがバスを利用せず、黒人の車に同乗したりどこへ行くにも歩いたりしたため、バス路線を運営するモンゴメリー市は経済的に大きな打撃を被った。ローザ側は市条例違反の判決に対し、バス車内の人種分離の条例は違憲であるとして控訴。

1956年11月、連邦最高裁判所は違憲判決を出し、公共交通機関における人種差別は禁止された。ボイコット運動は381日間続き、最高裁の違憲判決の翌日に収束した。

キング牧師はこの運動の勝利を契機として全米各地での公民権運動を指導し、非暴力直接行動と市民的不服従を掲げて1963年8月28日にワシントン大行進で25万人を集めた抗議集会を開催する。アメリカの黒人運動は最高潮に達し、1964年公民権法成立につながった。

この一連の運動に対応して、当時のジョン・F・ケネディ政権は次々と南部諸州における差別制度を禁止する立法を行った。またケネディ政権を継承したリンドン・ジョンソン政権は「偉大な社会」の実現を唱え、積極的に黒人の社会的・経済的地位を向上させるためのアファーマティブ・アクション立法にまで進んでいる。

ローザもキング牧師の公民権運動に参加し著名な活動家となるが、地元には居辛くなり、1957年にデトロイト市に引っ越した。ローザはその後もさまざまな職業を転々としているが、やがて自分がアメリカ史上の人物として学校の教科書でも教えられていることに気付く。

著名人として職業的な地位も向上し、1965年から1988年にかけてミシガン州選出民主党下院議員ジョン・コンヤーズ(John Conyers)のスタッフを務めた。なおこの間、1977年に夫レイモンドがデトロイトで亡くなっている。

1987年にはローザ・レイモンド・パークス自己開発教育センターを創設して青少年の人権教育に尽力した。1999年、アメリカ連邦議会が議会名誉黄金勲章を贈った。これは最も偉大なアメリカ市民に贈られるメダルである。またアラバマ州モンゴメリーにはローザ博物館も設立された。

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  =  Rosa Parks Story | Stories for Kids  =

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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

森のなかえ

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バス席を決然と譲らぬパークス2/3; 歴史深層(016)

2022-08-26 05:35:49 | 史蹟彷徨・紀行随筆

ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事=平成4年08月26日<ⰧⰊⰧ

☆★ カルカッタで貧しい人々に死に場所を与えた聖女と言う名のマザー・テレサが、アルバニアで生を享ける(1910年)。☆★ 芥川龍之介脚本の映画『羅生門』が封切り(1950年)。これに合わせて、第1回24時間テレビ 「金はテレビを救う」が放送される(1978年)……両出来事の関係は謎である。☆★ 芝浦埠頭とお台場の間がデカいつり橋で結ばれる(1993年)。真下をデカい船が通る上に大量の車を捌くことから、勝鬨橋のバージョンアップとはならず。

本日記載附録(ブログ)

公営バスの車中、白人に席を譲るジム・クロウ法違反の容疑で逮捕され収監された

この事件が契機にモンゴメリー・バス・ボイコット事件が勃発、公民権運動の導火線となった

市内のすべての黒人がバス・ボイコット運動に呼応、ローザは文化的象徴と見なされて渦中に

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公民権闘争の重要な節目に、「公民権運動の母」と呼ばれたローザ・パークスの…

◇◆ 人種差別の渦の中、席を立つのを拒みバス席を譲らぬパークス =2/3= ◆◇

 バスの車中で白人・黒人の乗客は前記のモンゴメリー都市条例に従わねばならない。 更には、それだけではない。白人乗客がいる場合、黒人は白人エリアを通って黒人エリアへ行くことさえ許されなかった。前方から乗って運転手に料金を支払った後、いったん下車して後方ドアから乗車し直さなければならない。

    おまけにバスの運転手はみな白人で、料金を支払った黒人がバス後方へ回り込む間に、バスを発車させてしまうことさえあった。ローザ・パークスにもその経験があったのである。

2857
 1955年12月1日の夕方、ローザ・パークスは、お針子として働いている百貨店があるモンゴメリー中心街から、クリーブランド・アベニュー行きの2857番のバスに乗車し、黒人エリアの最前列に座った。バスは混み始め、黒人エリアも白人エリアも満席となり、1人の白人男性が立つ羽目になった。

    黒人は白人と同じ列に座ってはいけないことになっているので、白人男性を座らせるため、運転手は黒人エリアの最前列に座っている男女4人に席を空けるよう言った。4人のうち3人は、最初こそ多少気の進まない様子を見せながらも席を立った。

 しかし、ローザ・パークスだけは腰を下ろしたまま、運転手に再度促されても立ち上がらなかった。通報するぞと脅されると、(彼女自身の記憶によれば)「では、そうなさいな」と答えた。それから30年以上たつころ、彼女はこう書いている。

    席を譲らなかったのは疲れていたからだろうと人はいつも言いますが、そうではありません。肉体的な疲れはありませんでした。一日の仕事の終わりに疲れを感じることはめったになく、この日もそうでした。すると、私のことを年寄りだったのだろうと思う人もいますが、私は年老いてはいませんでした。42歳でしたから。私はただ、屈することに疲れていたのです。

 しばらくすると警官が到着し、パークスを逮捕した。彼女は警察署に連行され、人種隔離法違反のかどで正式に告発され、市の拘置所へ移送される。

市民的不服従
 拘置所に入れられてから約2時間後、ローザ・パークスは保釈される。その手続きをしたエドガー・ニクソンはNAACP(全米黒人地位向上協会)モンゴメリー支部の代表で、この街における人種隔離法の合憲性を検証するための事例を探していた。

    パークスから訴訟の同意を取りつければ、ニクソンは絶好の機会を手に入れられる。ただし、彼女にも家族にも危険な影響を及ぼす恐れがあった。

 NAACPモンゴメリー支部で書記を務めていたパークスは、数カ月前に出席したサマースクールで、インドのマハトマ・ガンジーによる市民的不服従などについての授業を受けていた。このことから、パークスの行動の計画性を指摘する者もいた。しかし、彼女がのちに語ったところによれば、人種隔離を不当だとは思っていたが、抗議行動を計画していたわけではなかった。

・・・・・・明日に続く・・・

⨁⨂参考資料: ローザ・パークス (2/3) ⨂⨁

1955年12月1日18時ごろ、当時42歳のローザは、百貨店での仕事を終えて帰宅するため市営バスに乗車した。白人専用の席はバスの前方にあり、その次の列から後方が黒人の席だったが、運転手は境界を後方に移動することができた。

法にはなかったが、白人の座席が足りないときは境界を移動して、黒人を立たせるのが習慣だった。ローザは黒人席の最前列に座っていたが、次第に乗車して来る白人が増え、立って乗車せざるを得ない白人も出てきた。

このため、運転手ジェームズ・F・ブレークは境界を一列ずらし、座っていた黒人4名に立つよう命じる。3名は席を空けたが、ローザは立たなかった。ブレイクがローザのところにやって来て「なぜ立たないのか」と詰問し席を譲るよう求めたが、ローザは「立つ必要は感じません」と答えて起立を拒否した。

1987年に放送されたテレビ番組で、ローザは「着席したままだった私に気付いたブレイクがなぜ立たないかと訊ね、(私は)『立ちません』と答えました。するとブレイクは『よろしい。立たないんなら警察を呼んで逮捕させるぞ』と言ったので、私は『どうぞ、そうなさい』と答えたんです」と述懐している。

1992年に出版された『My Story(『ローザ・パークス自伝』:日本語訳著書参照)』においても、ローザは「疲れていたから立たなかったのでは」との指摘を「普段と比べて疲れていなかった」と否定し、「年寄りだったから立たなかった」「若者に対する差別だったのでは」との批判に対しても「まだ42歳で若かった」と反論。「屈服させられることに我慢できなかった」(*)から席を立たなかったのであり、単なるエゴではなく人間としての誇りを侵害されたため席を立たなかったのだと述懐している。

The only tired I was, was tired of giving in. / 直訳:唯一の疲れは、屈服することに疲れていたことだった。

乗り合わせた乗客の証言によれば、ローザは終始、静かで威厳に満ちた毅然たる態度を貫いたとされる。

ブレイクは警察に通報し、ローザは市条例違反で逮捕された。ローザは「どうして私が連行されるのか」と質問したが、警官は「知るもんか。でも法は法だからな。お前は逮捕されたんだ」と返答した。警察署での逮捕手続きが終わると一旦は市の拘置所に入れられたが、即日保釈され、やがてモンゴメリー市役所内の州簡易裁判所で罰金刑を宣告される。  ・・・・・・明日に続く

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  =  I Am Rosa Parks  =

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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

森のなかえ

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バス席を決然と譲らぬパークス1/3; 歴史深層(015)

2022-08-25 05:35:26 | 史蹟彷徨・紀行随筆

ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事=平成4年08月25日<ⰧⰊⰧ

☆★ 船代をケチったイギリス人の船乗りが、泳いでドーバー海峡を渡るのに成功(1875年)。クラゲに刺され潮流に流されもしたが21時間45分かけて泳ぎ切った。以降、後継者達がチラホラ。大和撫子・大貫映子が9時間32分(1982年)で泳いだ。☆★ パリを4年間も我が物顔に振る舞ってきたナチスとその協力分子に、市民の不満が爆発。この日から数年間、市内全域をリンチの嵐が襲うことに(1944年=パリの解放)。☆★ 安藤さんちがお湯をかけて3分で食える袋ラーメンをロールアウト(1958年)。故に即席ラーメン記念日ってことになってしまっているが、同業他社にとってはお察し下さい。

本日記載附録(ブログ)

公営バスの車中、白人に席を譲るジム・クロウ法違反の容疑で逮捕され収監された

この事件が契機にモンゴメリー・バス・ボイコット事件が勃発、公民権運動の導火線となった

市内のすべての黒人がバス・ボイコット運動に呼応、ローザは文化的象徴と見なされて渦中に

【この企画はWebナショジオ】を基調に編纂(文責 & イラスト・資料編纂=涯 如水)

公民権闘争の重要な節目に、「公民権運動の母」と呼ばれたローザ・パークスの…

◇◆ 人種差別の渦の中、席を立つのを拒みバス席を譲らぬパークス =1/3= ◆◇

2001年、米国のミズーリ州議会は7年間に及ぶ法廷闘争に敗北した。「アダプト・ア・ハイウェイ清掃プログラム」に白人至上主義集団クー・クラックス・クラン(KKK)を参加させまいとする試みは、失敗に終わった。この清掃プログラムは、文字通り「ハイウェイを養子にする」という意味で、道路沿いのごみ拾いをする団体が、そのハイウェイの“里親”として看板に団体名を記すことができる。

 州はせめてもの対抗措置として、KKKが受け持つセントルイス郡の州間高速道路55号線の名称を「ローザ・パークス・ハイウェイ」に改名した。結局、KKKは清掃の約束を果たさなかったので、人々はKKKをだしに大笑いする機会を失ったが、この名称は今も残っている。このように、2005年に92歳でこの世を去ったローザ・パークスへの尊敬の印は、アメリカ全土で多く見かけられる。

 2001年、米国のミズーリ州議会は7年間に及ぶ法廷闘争に敗北した。「アダプト・ア・ハイウェイ清掃プログラム」に白人至上主義集団クー・クラックス・クラン(KKK)を参加させまいとする試みは、失敗に終わった。この清掃プログラムは、文字通り「ハイウェイを養子にする」という意味で、道路沿いのごみ拾いをする団体が、そのハイウェイの“里親”として看板に団体名を記すことができる。

 州はせめてもの対抗措置として、KKKが受け持つセントルイス郡の州間高速道路55号線の名称を「ローザ・パークス・ハイウェイ」に改名した。結局、KKKは清掃の約束を果たさなかったので、人々はKKKをだしに大笑いする機会を失ったが、この名称は今も残っている。このように、2005年に92歳でこの世を去ったローザ・パークスへの尊敬の印は、アメリカ全土で多く見かけられる。

 1955年12月1日、アラバマ州モンゴメリーの市営バスで白人乗客に席を譲るのを拒んだため、ローザ・パークスは逮捕された。この一件はモンゴメリーでの抗議運動に火をつけ、やがてアメリカの公民権闘争の重要な節目となる。パークスによる市民的不服従は比較的ささいな行為にも思えるが、それを実行するという彼女の決断は、とてつもない波紋を巻き起こした。

    そして最終的には、1776年のアメリカ独立宣言の有名な一節「すべての人(men)は平等に作られている」が、ようやく真実味を帯びてくる。もっとも、「すべての男女(men and women)は平等に作られている」としたほうがよかったのだろうが。

人種隔離
 誰に聞いても、ローザ・パークスは口調が穏やかで信心深い、きちんとした女性だった。しかし、のちに自らの行動を通じて明らかにする通り、彼女はアラバマでの黒人抑圧に強い不公平感を抱き、この問題について何かしたいと内心決意していたのである。

    アメリカの南部諸州では1870年代以降、人種隔離を認めるジム・クロウ法が施行されていた。建前としては、「区別するが差別しない」状況を作るためだったのだろう。しかし実際の目的は、黒人に社会的、経済的不利益を強制することだった。

 モンゴメリー都市条例は1900年に公共交通機関での人種隔離を定めており、1950年代までには、市内のバス会社はすべてのバスで前方の座席を白人用としていた。法律では、「立っている白人に黒人が席を譲らなければならない」とまでは定めていなかったが、実際には席を譲ることが慣例になっていた。つまり、白人エリアが満席で、座れない白人がいた場合、運転手は白人エリアのすぐ後ろの列に座っている黒人を後方の席に移動させるか、空席がない場合は立たせて、白人エリアを後方へ拡大するのである。

・・・・・・明日に続く・・・

⨁⨂参考資料: ローザ・パークス (1/3) ⨂⨁

“リー”ローザ・ルイーズ・マコーリー・パークス(Rosa "Lee" Louise McCauley Parks, 1913年2月4日 -2005年10月24日)は、アメリカ合衆国の公民権運動活動家。

1955年にアラバマ州モンゴメリーで公営バスの運転手の命令に背いて白人に席を譲るのを拒み、ジム・クロウ法違反の容疑で逮捕されて著名となる。これを契機にモンゴメリー・バス・ボイコット事件が勃発。アフリカ系アメリカ人(黒人)による公民権運動の導火線となったことで、ローザは米国史における文化的象徴と見なされ、米国連邦議会から「公民権運動の母」と呼ばれた。

人権擁護運動の共有財産(共有遺産)として、その行動は国際的に高く評価されている。

ローザ・ルイーズ・マコーリーは、アラバマ州タスキーギで、アフリカ系アメリカ人で大工の父ジェイムズ・マコーリーと、教師の母レオーナの間に生まれた。両親はほどなくして離婚。農業を営む母と母方の祖父母のもとで弟シルベスターとともに育ち、終生所属することになるアフリカン・メソジスト・エピスコパル教会員になる。

母レオーナは11歳になるまでローザに教育を施したが、1924年に州都モンゴメリーの女子職業学校に入学させた。同学校が1年後に閉鎖されたため、他の中学やアラバマ州立黒人師範大学(現:アラバマ州立大学)附属の実験学校で教育を受け、16歳で縫製工場に就職する。

1932年、黒人理容師のレイモンド・パークス(1903年 – 1977年)と結婚。結婚後、夫の奨めで高校生課程を修了している。レイモンドは全米黒人地位向上協会(NAACP)のメンバーであり、ローザも第二次世界大戦後にNAACPモンゴメリー支部書記を務めた。同職は専業ではなく、収入を得るため何度も転職して様々な職業に就いている。1955年にはモンゴメリー・フェア百貨店で裁縫の仕事をしていた。

当時、アラバマ州はじめアメリカ南部諸州にはジム・クロウ法(Jim Crow laws)と呼ばれる人種分離法が施行され、あらゆる場所で黒人と白人は隔離されていた。公共交通機関のバスでも人種隔離が実施され、黒人席と白人席は制度上明確に分けられていた。

 1955年12月1日18時ごろ、当時42歳のローザは、百貨店での仕事を終えて帰宅するため市営バスに乗車した。白人専用の席はバスの前方にあり、その次の列から後方が黒人の席だったが、運転手は境界を後方に移動することができた。法にはなかったが、白人の座席が足りないときは境界を移動して、黒人を立たせるのが習慣だった。ローザは黒人席の最前列に座っていたが、次第に乗車して来る白人が増え、立って乗車せざるを得ない白人も出てきた。

このため、運転手ジェームズ・F・ブレークは境界を一列ずらし、座っていた黒人4名に立つよう命じる。3名は席を空けたが、ローザは立たなかった。ブレイクがローザのところにやって来て「なぜ立たないのか」と詰問し席を譲るよう求めたが、ローザは「立つ必要は感じません」と答えて起立を拒否した。

1987年に放送されたテレビ番組で、ローザは「着席したままだった私に気付いたブレイクがなぜ立たないかと訊ね、(私は)『立ちません』と答えました。するとブレイクは『よろしい。立たないんなら警察を呼んで逮捕させるぞ』と言ったので、私は『どうぞ、そうなさい』と答えたんです」と述懐している。

1992年に出版された『My Story(『ローザ・パークス自伝』)』においても、ローザは「疲れていたから立たなかったのでは」との指摘を「普段と比べて疲れていなかった」と否定し、「年寄りだったから立たなかった」「若者に対する差別だったのでは」との批判に対しても「まだ42歳で若かった」と反論。「屈服させられることに我慢できなかった」から席を立たなかったのであり、単なるエゴではなく人間としての誇りを侵害されたため席を立たなかったのだと述懐している。

The only tired I was, was tired of giving in./ 直訳:唯一の疲れは、屈服することに疲れていたことだった。
乗り合わせた乗客の証言によれば、ローザは終始、静かで威厳に満ちた毅然たる態度を貫いたとされる。

ブレイクは警察に通報し、ローザは市条例違反で逮捕された。ローザは「どうして私が連行されるのか」と質問したが、警官は「知るもんか。でも法は法だからな。お前は逮捕されたんだ」と返答した。警察署での逮捕手続きが終わると一旦は市の拘置所に入れられたが、即日保釈され、やがてモンゴメリー市役所内の州簡易裁判所で罰金刑を宣告される。 ・・・・・・明日に続く

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  = The Rosa Parks Story - Arrested -  =

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大統領ルーズベルトの決断3/3 ; 歴史深層(014)

2022-08-24 05:35:29 | 史蹟彷徨・紀行随筆

ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事=平成4年08月24日<ⰧⰊⰧ

☆★ 1572年のフランス(サン・バルテルミの虐殺)や1929年のエルサレム(嘆きの壁事件)などこの日は神の名の下に異教徒を幾らでも血祭りに挙げても赦される日らしい。☆★ ソビエト連邦共産党(1991年=ミッチィが党の解散を宣言)と冥王星(2006年)がリストラされた日。☆★ アメリカに不法占拠された松江市が、右も左もない連中によって攻撃を受ける(1945年)が、ヴェスヴィオ火山の桁違いの吐瀉物によって、ポンペイが消えて無くなった(79年)事件に比べれば屁のような事件で1ヶ月遅れで報道された。

本日記載附録(ブログ)

ニューディール政策と第二次世界大戦への参戦は世界恐慌のどん底からアメリカ合衆国を救う

ラジオを通じて国民との対話「炉辺談話」を重視し、重度の身体障害を持った大統領

アメリカ政治史上で唯一4選るが、第二次世界大戦の終結とその勝利を目前にした死であった

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「枢軸国との和平交渉を拒絶し、無条件降伏を唯一の戦争終結とする。」と表明…

◇◆ どん底の世界恐慌に立ち向かった、大統領ルーズベルトの決断 =3/3= ◆◇

銀行法に続いて、農業、工業、住宅、労働に関する法律が次から次へと制定される。また、酒類の製造販売を禁じる禁酒法が廃止されたが、この措置はアメリカ国民に大いに歓迎され、税収増加にもつながった。すべての新法が銀行改革ほど成功を収めたわけではないが、ニューディール政策は全般的にうまくいっているようだった。そしてアメリカ経済は、3年間苦しんだ大恐慌から徐々に脱却していった。

有言実行の人
 結果的にアメリカの大恐慌は1933年3月に底を打った。ルーズベルトが最初の2年間に取り組んだ「第一次ニューディール」の最大の功績は、アメリカの一般大衆に自信を取り戻させ、仕事や家を失う不安なしに暮らしていける状況を作ったことにある。

 国の直面する問題の大きさにひるんだような印象を与えたフーバーとは対照的に、ルーズベルトは、アメリカ経済を再び動かして雇用を増やすために必要なことはなんでもする「有言実行の人」として、国民の目に映った。

   銀行や企業は通常業務に戻り始め、産業は持ち直し、大量に解雇していた従業員の一部を再雇用し始めた。大恐慌が終わったわけでは決してなかったが、多くの人々が、以前よりも明るい未来を思い描けるようになっていた。

第二次ニューディール
最初の2年間に成し遂げた成功を足場として、ルーズベルトはいわゆる「第二次ニューディール」に着手する。差し迫った多種多様な社会問題に取り組むべく、1936年から1938年にかけて、さまざまな法案を提出した。

   しかし、最初に導入した経済施策に比べて、健康保険や社会保障といった社会問題に連邦政府が関与することは、はるかに大きな物議を呼んだ(アメリカではいつものことなのだが)。この試みは、改革支持のリベラル派と絶対反対の保守派との対立を再燃させた。これはオバマ大統領がおこなった医療保険制度改革を巡る状況にも似ている。

まだ不十分?
 ニューディールに対しては、その最初の導入以来、同じような批判が繰り返されてきた。「国民生活に国が関与する可能性をルーズベルトが広げすぎた」とする意見がある一方、「ルーズベルトのやり方は不十分であり、多くのヨーロッパ諸国で採用されている包括的な社会的施策を導入すべきだった」とする向きもある。

 しかし、ニューディールの結果がどのように評価されようと、アメリカ史上、いや世界史上最も深刻で、最も破壊的な不況に立ち向かうべく、直接的な行動を起こそうと決めたルーズベルトの決断は、間違いなく、アメリカ史上最善の政治的判断の1つだったはずだ。

 ルーズベルトのニューディールの効果は、最初の導入時から数十年にわたって続いた。今なお有効な計画もある。ニューディールはまた、アメリカの政治に根本的な再編をもたらした。いわゆる「第五政党制」である。この制度において、リベラルな信条を持つ有権者が民主党を支持するようになり、保守的な人々は共和党を支持する傾向が見られた。この状況は今もさほど変わらない。

 ルーズベルトは史上初めて4期目に突入し、任期途中の1945年にこの世を去るまで、アメリカ大統領の職にあった。つまり、世界恐慌に対処しただけでなく、アメリカを第二次世界大戦に導いた人物でもあり、さらに大きな決断をいくつもおこなったのである。

次回は“公民権闘争の重要な節目に、ローザ・パークス”に続く・・・

⨁⨂参考資料: ルーズベルト大統領の実話 (3/3) ⨂⨁

・・・・彼に関する逸話を紹介している著作・・・・・

=ルーズベルトの死の秘密: 日本が戦った男の死に方/2015.03.19/スティーヴン ロマゾウ , エリック フェットマン/草思社=

隠され続けた大統領の死因とは
フランクリン・ルーズベルトが死亡した当時、死因は過労として世論の理解は落ち着いていました。しかし、彼の身近にいた人々の証言や、名演説家だったはずのルーズベルトのヤルタ会談後のスピーチの様子、そして目の上に突如あわられ、消えたシミから、彼の死因について、ある疑いが出てきました。

彼は癌だったのではないか、と。

フランクリン・ルーズベルトはかなり病弱な体質でした。歴史の裏側では常に多くの病と闘い続けていました。本書は彼の死因を探るだけではなく、彼の60数年にもおよぶ闘病人生を辿りながらフランクリン・ルーズベルトという男の性格や政治を読み解こうとしたものです。

果たして死因は過労死だったのでしょうか?病気だったのでしょうか?もし、病気だったとしたら、なぜひた隠しにされ続けたのでしょうか?
本書を読むことで、彼に対する新たな見方ができるようになるかもしれません。

=ルーズベルトは米国民を裏切り 日本を戦争に引きずり込んだ ─アメリカ共和党元党首ハミルトン・フィッシュが暴く日米戦の真相/2017.02.13/青柳 武彦/ハート出版=

フランクリン・ルーズベルトが「卑劣」と言われるのはなぜ?
『FOR:THE OTHER SIDE OF THE COIN』の邦訳書(上記で紹介したものとは訳者が異なる)を元に、原著の要約とそれについての著者による解説とコメントが書かれたものです。本書は、フランクリン・ルーズベルトを批判するだけの単なる歴史書ではありません。

著者は歴史の大まかな流れの解説などを挟みながら、フィッシュの著書を参考に、戦後日本に根付いている自虐史観からの脱出を切言しています。

そして、そのうえで今後日本が米国や諸外国、そして今も多く存在する外交問題についてどう向き合うべきなのかを読者自身に考えさせる内容になっています。
要約と解説、コメントははっきりと区別して書かれているので、原著を読まれた方もぜひ一度目を通してみてはいかがでしょうか。

以上、フランクリン・ルーズベルトについてさまざまな側面から書かれている著書をいくつか紹介しました。読む著書によって彼に受ける印象はまた少しづつ変わっていくことと思われます。彼は偉大な大統領だったのでしょうか?それとも……?ぜひご自身で判断してみてください。

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  = フランクリン・ルーズベルト 3-3 =

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森のなかえ

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大統領ルーズベルトの決断2/3 ; 歴史深層(013)

2022-08-23 05:35:29 | 史蹟彷徨・紀行随筆

ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事=平成4年08月23日<ⰧⰊⰧ

☆★ 白虎隊が腐女子の妄想の種にされた末に、やおい穴をおっぴろげて滅亡(1868年)。&so、東京・竹橋で近衛兵が反乱したのは10年後。白虎隊の怨念が再燃したか……☆★ 新潟の萬代橋の欄干が崩落。一万年どころか20年しか持たなかった(1948年=花火大会の見物客が殺到、死者11人)。☆★ 伝説の名文句、『何のための前進守備だ!』が横浜スタジアムから全国に鳴り響く(2006年)。

本日記載附録(ブログ)

ニューディール政策と第二次世界大戦への参戦は世界恐慌のどん底からアメリカ合衆国を救う

ラジオを通じて国民との対話「炉辺談話」を重視し、重度の身体障害を持った大統領

アメリカ政治史上で唯一4選るが、第二次世界大戦の終結とその勝利を目前にした死であった

【この企画はWebナショジオ】を基調に編纂(文責 & イラスト・資料編纂=涯 如水)

「枢軸国との和平交渉を拒絶し、無条件降伏を唯一の戦争終結とする。」と表明…

◇◆ どん底の世界恐慌に立ち向かった、大統領ルーズベルトの決断 =2/3= ◆◇

ウォール街大暴落
「ウォール街大暴落」として知られる株価大暴落が始まったのは、1929年10月24日のことである。投資家たちのパニック売りは、さらなる株価暴落を招き、10月29日(いわゆるブラックチューズデー)には、株式市場は完全に崩壊した。壊滅的な株価崩落の結果、銀行は数百万ドルの損失を出し、企業倒産が相次いだ。失業者が急増し、人々は物を買うことをやめた。そして不況、貧困、窮乏は、アメリカ全土はおろか世界各地に波及していった。

絶望的な貧困
 1932~33年の冬は、多くの人にとって絶望的な季節となった。失業者やホームレスが至る所に見られ、アメリカでは、掘っ立て小屋の立ち並ぶ集落(いわゆる「フーバービル」)が、多くの町や都市の郊外に突如出現した。子どもたちは、靴なしで暮らし、それどころか十分な食べ物さえ手に入れられなかった。失業率は25パーセント近くまで上昇し、1300万人が職にあぶれ、工業生産高は1929年の暴落以来45パーセントも下落した。

 さらに追い討ちをかけるように、アメリカの農業の中心地に「ダストボウル」という砂嵐が襲いかかった。異常な乾燥と、環境に合わない農耕法が相まって、中西部の広い地域で巨大な砂塵嵐がたびたび発生。かつては豊かだった農地の表土を吹き飛ばしていった。

百日議会
 一方ホワイトハウスでは、膨大な問題がルーズベルトを待っていた。彼が解決策を見いだす試みにおいて、イデオロギー的政策を追求しなかったことは称賛に値する(そもそも追い求めるイデオロギーを持ち合わせていなかったと論じる者もいる)。ルーズベルトはむしろ、うまくいく可能性があるかどうかを基準に政策を立て、誰の発案であるかは問わなかった。顧問団「ブレーントラスト」は、銀行制度や労働市場の改革法を提案した。

そのメンバーには、ルーズベルト政権で国務次官補を務めたレイモンド・モーリー、米国初の女性労働長官を務めたフランシス・パーキンスらがいた。

 ルーズベルトは、いわゆる「百日議会」で矢継ぎ早に法案を提出し、民主党と共和党から等しく支持を受けて、すべての法案を成立させた。それ以来、アメリカのメディアには、「就任後最初の100日間が経過してから、新大統領の仕事ぶりを査定する」という伝統が定着している。

第一次ニューディール
 ルーズベルトは手始めに国内のあらゆる銀行を一時閉鎖させ、その間に緊急銀行救済法を提出した。これは銀行の倒産という最も切迫した問題を打開するための法案だった。銀行の破綻を恐れた人々が預金を全額引き出したため、結果的に銀行が破綻に追い込まれる事態が各地で起こっていた。

 ルーズベルトは国民に政策を説明し、そのなかで銀行の閉鎖を「バンク・ホリデー(銀行の休業日)」と形容した。このいわゆる「炉辺談話」は定期的におこなわれるようになる。3月9日に連邦議会へ提出された銀行法案は、1回しか目を通されないまま、その日のうちに議会を通過。これにより、連邦準備銀行を通じて公認銀行への無制限貸付が可能となり、実質的に全預金が保証された。

    銀行が4日後に営業を再開したとき、外には人々が列を作っていたが、その多くは、以前引き出した金を預け直そうとする人たちだった。マットレスの下に隠しておくよりも、銀行に預けるほうがずっと安全になったからだ。

・・・ 明日に続く・・・・・

⨁⨂参考資料: ルーズベルト大統領の実話 (2/3) ⨂⨁

5:政治家としての資質が備わっていた
彼は目的のためならば手段を選ばない冷酷さを持っていました。反対勢力には容赦なく粛清処分を下し、彼に反発する勢力にも恐れられていたといいます。

それに加え、ハンサムな顔つきと魅力的な声で、ラジオや演説では時に皮肉や冗談を交えながらその才能を遺憾なく発揮し、人々を魅了しました。これらの武器を巧みに使うことができたルーズベルトは、政治家として大変有能でありました。

6:不倫していた
彼は海軍時代の秘書、ルーシー・ページ・マーサー・ラザーフォードと一時愛人関係にありました。別荘にて彼が急死した際も、側にいたのは彼女だったと言います。しかし、愛人は1人だけではなかったようです。

7:妻と離婚騒動にまで発展したこともあった
妻・エレノアが闘病中のルーズベルトの荷をほどいていた際、ルーシーとの手紙を発見したことで不倫が発覚します。「愛人とは2度と会わない」という条件で、表向きは和解したことになりましたが、その後も夫婦の仲は冷え切ったままだったそうです。

・・・・・以下、彼に関する逸話を紹介している著作・・・・・
=ルーズベルトの開戦責任: 大統領が最も恐れた男の証言/2014.09.11/ハミルトン フィッシュ/草思社=
旧友・ハミルトン・フィッシュから見たフランクリン・ルーズベルト
本書は20年間友人として、そして1933年以来は政敵としてフランクリン・ルーズベルトと関わってきたハミルトン・フィッシュによって綴られた一冊です。

「真実を知らせなければならない」というフィッシュの信念の元、第2次世界大戦の裏側で何が起きていたのかが記されています。

ルーズベルトや第2次世界大戦の裏事情など、政界に深く関わる立場にいたからこそ知ることのできた各国の思惑を、フィッシュ自身の会合の記録やさまざまな人物の日記、メモ、新聞や議事録からも引用し詳細に記されています。

「歴史にifはない」といいますが、読者は本書を読み進めるうち「もしもこの時……」と思いたくなることでしょう。
=ルーズベルト秘録〈上〉・〈下〉/産経新聞「ルーズベルト秘録」取材班/産経新聞ニュースサービス=

フランクリン・ルーズベルトが日本をどのように見ていたのか
本書は、「産経新聞」にて連載されていた「ルーズベルト秘録」を、一冊にまとめたものです。
本書を作成するうえでの入念な取材と膨大な量の資料調査が、大統領時代のフランクリン・ルーズベルトの秘密にたどり着きました。

日本人が第2次世界大戦を考えるに当たって、フランクリン・ルーズベルトはマッカーサーと同等、あるいはそれ以上に重要視せざるを得ない存在です。しかし、そんな彼がこの大戦や日本をどのように見ていたのかというのは、あまり公にはされてきませんでした。

そこで、戦後しばらく経ってようやく公開された秘密文書を含む、第2次世界大戦前後の彼に関するたくさんの資料により、真相をまとめ上げたのが本書です。
限りなく真実に近い、ルーズベルトの人物像に触れられる作品となっています。 ・・・・・・明日に続く

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  = フランクリン・ルーズベルト 3-2 =

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大統領ルーズベルトの決断1/3 ; 歴史深層(012)

2022-08-22 05:35:24 | 史蹟彷徨・紀行随筆

ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事=平成4年08月22日<ⰧⰊⰧ

☆★ 千島列島全部が日本の領土になる(1875年=樺太・千島交換条約批准)が、現在ではそのうち日本に近いほんの一部分さえも相手に実効支配を許している有様。☆★ 世界の美術館に飾られている名画にとっての厄日。謎の微笑みをたたえた婦人(1911年=「モナ・リザ」が盗難)も絶叫するおっさんや磔された女(2004年=「叫び」と「マドンナ」が盗まれる)もこの日にご難。☆★ アメリカの空襲に心配する必要が無くなったため、日本に於ける地球大気の情報公開が再開される(1945年=天気予報のラジオ放送復活)。

本日記載附録(ブログ)

ニューディール政策と第二次世界大戦への参戦は世界恐慌のどん底からアメリカ合衆国を救う

ラジオを通じて国民との対話「炉辺談話」を重視し、重度の身体障害を持った大統領

アメリカ政治史上で唯一4選るが、第二次世界大戦の終結とその勝利を目前にした死であった

【この企画はWebナショジオ】を基調に編纂(文責 & イラスト・資料編纂=涯 如水)

「枢軸国との和平交渉を拒絶し、無条件降伏を唯一の戦争終結とする。」と表明…

◇◆ どん底の世界恐慌に立ち向かった、大統領ルーズベルトの決断 =1/3= ◆◇

 1932年11月の大統領選挙に向けて、民主党候補に指名されたフランクリン・D・ルーズベルトは、指名受諾演説で「ニューディール(新規まき直し)」という言葉を使った。この表現を特に強調したわけでもなければ、この表現に言外の意味を込める明確な意図もなかった。しかし、演説の数日後に新聞各紙がこの言葉を掲載し、いつしか、1930年代初頭に世界恐慌が経済や社会にもたらした壊滅的事態を収拾しようとしたアメリカの政策そのものを表すようになった。

 この選挙戦でルーズベルトは、大統領に選ばれたら何をするつもりか具体的に明言しないばかりか、矛盾する声明を出すことさえあった。あるときは公共支出の削減を約束したかと思えば、その次には、雇用を増やすための大規模プログラムへの資金提供を約束する、といった具合である。

 実際、ルーズベルトは何を語ったにせよ勝てる状況だったかもしれない。当時の大統領ハーバート・フーバーは、1929年10月のウォール街大暴落と世界恐慌の直前までアメリカが好景気を享受していたのは自分の手柄だ、といち早く主張していた。また、この不況の責任の矛先を自分以外のあらゆるもの、あらゆる人に向けようと必死だった。そのような人物が、景気回復の舵取り役に適任だという印象を与えることは、ほとんどなかったのである。

    アメリカ国民のためのニューディールを、私は皆さんにお約束し、私自身に誓います。ここにお集まりの皆さん、能力と勇気の新しい秩序の唱道者となりましょう。これは単なる政治運動ではありません。闘いへの参加の呼びかけです。票を獲得するためだけでなく、アメリカを国民の手に取り戻すこの聖戦に勝つために、どうか皆さんの力をお貸しください。

   ─フランクリン・D・ルーズベルトが1932年7月2日におこなった、民主党の大統領候補指名の受諾演説より

 圧倒的勝利
 ルーズベルトは大統領選で圧勝を果たした。1932年11月の選挙から1933年3月の就任式までの数カ月は、新政権のメンバーを任命したり、ルーズベルトと連携して世界恐慌に取り組む道を探っていたフーバーをやり過ごすことに費やした。そして、のちに「ブレーントラスト」と呼ばれる顧問団を結成し、独自の計画を練った。

 しかし、ルーズベルトがこの時期にも、選挙戦の間もおこなわなかったことが1つある。それは、必然的に何が起こるかを明言することだ。彼は就任演説でも多くを述べなかった。ただ世界恐慌を招いた銀行家や資本家の無責任と腐敗を非難し、あの有名な言葉「われわれが恐れるべきものはただ1つ、恐れそのものだ」を言った。

 ルーズベルト自身どうすればよいのかわからないのではないかといぶかる人も多かったが、就任演説で明言した通り、語るだけの時間は終わりを告げた。「ニューディール」の中身がなんであれ、大きな決断をし、実行に移すときが来たのである。

 世界恐慌の始まりに関する解説は、解説しようとする経済学者の数だけ存在する。それは、2008年に起こった金融危機の状況に似ている。経済学者は、それぞれ独自の見解に沿った結論に達することが多いので、起こったことについての認識は、私たちのそれと大差ないように思われる。

 当時の経済学者のなかには、国による経済への大幅介入を支持する者もいる一方で、それとは真逆の対応を求める者もいた。つまり公共支出を削減し、経済における政府の役割を減じて、市場の自律に委ねよという主張だ。もし、世界恐慌への取り組み方について合意がほとんどなされていなかったなら、その結果は誰の目にも明らかだった。

・・・ 明日に続く・・・・・

⨁⨂参考資料: ルーズベルト大統領の実話 (1/3) ⨂⨁

フランクリン・ルーズベルトにまつわる逸話!アメリカ経済を回復させた大統領
アメリカ合衆国の第32代大統領で、「善隣外交」や「ニューディール政策」で知られるフランクリン・ルーズベルト。彼の大統領就任中には表に出ることのなかった歴史的事実や私生活について、いろいろな側面から紹介。

アメリカ合衆国第32代大統領、フランクリン・ルーズベルト
フランクリン・ルーズベルトは、アメリカ合衆国の第32代大統領で、第26代大統領のセオドア・ルーズベルトとは従兄の関係に当たります。アメリカ史上唯一4選を果たした人物であり、秘密結社「フリーメイソン」の会員でもありました。

彼は1882年1月30日、ニューヨーク州北部のハイドパークの裕福な家庭で生まれ、高度な教育を受けました。1904年にハーバード大学を卒業した後、法律を学ぶためコロンビア大学のロースクールのに入学、1908年に卒業しています。

その後は何年か法律事務所で働いた後、1910年の州議会議員選挙に州上院に出馬。1911年に議員に就任しました。上院議員を2年ほど務めた後は海軍次官、ニューヨーク州知事を務め、1933年に大統領選挙に当選します。

大統領就任後は世界恐慌の対策として「ニューディール政策」で景気回復を図り、共産国家であったソビエト連邦を国家として承認するなどの「善隣外交」を行いました。

大統領を4期も務め、「偉大な大統領歴代2位」に選ばれるほど評価されている一方、第2次世界大戦を引き起こした張本人として批判されることも多く、非常に評価の分かれる人物でもあります。

戦時中にアメリカのリーダーとして引っぱって来た彼ですが、1945年に開かれたヤルタ会談の直後、戦争終結を見ることなく病死し、11年の大統領生活とその63年の人生に幕を下ろすこととなりました。 

 フランクリン・ルーズベルトの逸話7選!

1:読書の趣味が偏っていた
昔からルーズベルト自身や彼を知る人物が認めるほど、経済学や歴史といった学術系の読み物にはほとんど興味がなく、海軍関連書物や推理小説を好んで読みました。また趣味として、切手集めにも夢中だったそうです。

2:スターリンと仲がよかった
ルーズベルトは、ソ連のヨシフ・スターリンのことを「友人」だと公言したことがあり、当時大統領顧問であったホプキンズも、2人のことを親友同士であると発言したことがあります。ただ、スターリンによる独裁政治や、ソ連周辺の国の侵略を黙認していたことが、彼への批判にも繋がっています。

3:病弱な体質だった
難産の末生まれ、幼少期には鼻炎、麻疹、おたふく風邪、蕁麻疹など、多くの病を患いました。また、その頃にドイツで施された温泉療法で体調を改善して以来、温泉水には長生きできる効果があると信じ、体質改善を期待するようになったそうです。
しかし、成人してからは小児麻痺にかかり、その後遺症で自力で歩くことすらままならくなってしまいました。車椅子での生活を余儀なくされましたが、国民にはできる限り車椅子姿を見せなかったといいます。 ・・・・・・明日に続く

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  = フランクリン・ルーズベルト 3-1  =

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◎_今日の足跡が記録帖_◎ 2022/08/21(日)

2022-08-21 05:35:24 | 史蹟彷徨・紀行随筆

ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事= 平成4年08月21日 ⰧⰂⰧ

  現人神が山形、宮城、群馬、栃木、埼玉、長野、静岡、岐阜、京都、兵庫、福岡、大分の国々をお産みになられた。しかし、不逞な輩が蔓延っていた諸国の大半は抹殺され、鳥取の国は神の国に編入され、庄内の国は沿岸との交流を妨碍され、浜通りの国は窮乏と核災難を確約された(1876年= 第2次府県統合)。

  カメルーンのニオス湖が大きく息を吐き出して、その二酸化炭素の量が多過ぎて周辺住民1800人が死ぬ(1986年)。

  夏の高校野球の優勝旗が、阿蘇山はおろか桜島をも越えて沖縄県のものに(2010年)。因みに、第92回目の快挙であるも 以降 この時期の報道は野球に染まる偏向報道。

Wagner: Der fliegende Holländer, WWV 63 - Overture
 

       _._._._._._._._ _._._._._._._._ _._._._._._._._

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弁護士ガンジーの決断_3/3 ; 歴史深層(011)

2022-08-20 05:35:34 | 史蹟彷徨・紀行随筆

ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事=平成4年08月20日<ⰧⰊⰧ

☆★ 日本で小学校令が改正。授業料が無料化、それをきっかけに子を小学校に行かせる親が急増。その日に500万人の子供が自由を奪われ、胡乱になったとか(1900年)。☆★ 人やら馬やら路面電車・自動車やら、おまわりさんの手に負えないくらい交通量が多くなった東京の34地点で3色灯自動信号機が取り付けられる(1930年)。見物人が屯することになり益々混乱。☆★ プラハでソ連主催による5,000輛の戦車による戦車道のデモンストレーションが始まる(1968年= プラハの春: チェコ事件)。

本日記載附録(ブログ)

小学校時代は素行も悪く、ヒンドゥー教の戒律を破り、タバコにも手を出した

遊ぶ金を工面する為に召し使いの金を盗み取ったことも、肉食をも繰り返した

13歳でカストゥルバと結婚(生涯の妻)、18歳で倫敦に渡り、インナー・テンプル法曹院に招聘され学ぶ

【この企画はWebナショジオ】を基調に編纂(文責 & イラスト・資料編纂=涯 如水)

「“目には目を”は全世界を盲目にしているのだ」と欧州の哲理根幹を否定したガンジー

◇◆ ガンジーを覚醒させた出来事  「非暴力・不服従」はこうして生まれた =3/3= ◆◇

塩の行進
 ガンジーの最も有名な抗議活動の1つは、1930年3月に始まった。イギリスによる塩税導入に反対するサティヤーグラハだ。この課税は、塩の採取と販売の独占権を事実上イギリスに与えるものだった。実はその数カ月前に、インド国民会議派が独立宣言を出し、イギリスに黙殺されるという出来事があった。

    ガンジーの政治仲間の多くは、彼の行動に困惑していた。独立というはるかに大きな問題に比べれば、塩税は、不当であるとはいえ重要性はかなり低い。そんなものに執拗に没頭するガンジーのことが理解できなかったのだ。

 ガンジーは抗議の手始めとして、製塩をおこなう小さな村グジャラートの海岸沿いをダーンディー海岸まで、アシュラムの弟子たちとともに、24日間かけて歩いた。その距離390キロ。これは「塩の行進」と呼ばれるようになり、世界中の新聞やニュース映画で大々的に取り上げられた。あるときガンジーは海岸で数千人を前に、塩を含んだ泥を一握りすくい上げて言った。

「私はこれで、大英帝国の土台を揺るがそうとしている」。さらに彼は、法律を破るという手段に出た。泥の混じった海水を沸かして塩を作り、塩税を払わなかったのだ。

 数百万人のインド人がガンジーの例に倣い、6万人以上がイギリス当局に逮捕された。ガンジー自身も1年近く収監されたが、1931年の初めに釈放される。インド総督と紛争の解決に向けた交渉に当たらせるためだった。

独立
 この交渉の結果、ガンジーは、インドでの憲法改正の議論にイギリスが同意すれば市民的不服従の運動をやめると約束した。塩の抗議の目的は、独立運動がインドの一般大衆の間で再燃し、国内でも全世界でも再び注目されるようにすることだった。イギリスがインドからの退去に最終的に同意するまでには、さらに16年を要し、この間、ガンジーは市民的不服従の運動をさらに起こした。そして1947年8月15日、インドは大英帝国の自治領となり、単独の国としての地位を獲得する。

    しかしながら、ガンジーにとってこれはほろ苦い勝利だった。彼はヒンドゥー教徒とイスラム教徒との団結を、生涯にわたって奨励していたからだ。英領インドは宗教の境界線に沿ってインドとパキスタンに分割され、この分離は激しい暴力と、100万人にも及ぶ犠牲者をもたらした。

  インドは1950年1月26日に共和国となったが、ガンジーがこれを目にすることはなかった。ヒンドゥー教の過激派に銃撃され、1948年1月30日にこの世を去っていたのだ。しかし、彼が築いた寛容と非暴力の遺産は今もインドに息づいている。

 そしてガンジーの流儀は国境を越え、アメリカのマーティン・ルーサー・キング・ジュニアの公民権運動、南アフリカのネルソン・マンデラの反アパルトヘイト運動など、迫害に苦しむ人々の闘争に用いられてきた。ガンジーは今も、「インド建国の父」として、また、結果がどうなろうと自分の主義を生涯貫き通す覚悟を持ち、正義とインドの人々の権利のために闘ったからこそ成功した男として、記憶されている。

次回は“大統領ルーズベルトの決断”に続く・・・

⨁⨂参考資料: 塩の行進 (3/3) ⨂⨁

余波
塩の行進は全インド中に同様の非暴力不服従運動を及ぼした。塩の専売制度を巡る非暴力の「戦い」は4月13日まで続いた。同時に英国製の服や商品の不買運動がおきた。インドの海岸のいたるところで塩が「非合法的に」販売された。ガンディーが作った最初の塩は1600ルピー(当時の750ドルに相当)で売られた。塩の行進の反応の中で英国政府は4月末までに6000人以上の人々を投獄した。

ペシャーワルではサッティヤーグラハはガンディーの弟子でイスラム教徒のパシュトゥーン人、カーン・アブドゥル・ガッファール・カーンによって繰り広げられた。彼はクダーイー・キドマトガルと呼ばれる非暴力運動家の兵士を訓練した。1930年4月23日、カーンは逮捕された。クダーイー・キドマトガルの群衆がペシャーワルの市場に集まった。

英国政府は武装していない彼等や他の群衆に発砲した複数の記事によると、群衆は非暴力の運動に教化され行動していた。前列の人々が倒れたらば後列の人々が前進し銃火に晒された。この衝突は朝11時から夕方5時まで続いた。

1930年5月4日の夜、ガンディーがダンディー海岸の近くの村のマンゴーの木の下にある簡易ベッドの上で眠っていた夜半過ぎにスーラトの警察判事(the District Magistrate)が2人のインド人と30人の重装備した警官を同伴し彼を法違反で逮捕した。

塩の行進は植民地国家の地着民衆が動いたことで植民地政策を行っている国家の関心事となった。ガンディーは刑務所から釈放された後もインドの独立へ向けて働き続け1947年、インドは独立した。ガンディーはインド独立の一つの転換点となった要素は否めない。だが彼についての経済的な評価は揺れている。

2005年における行進 
75周年の記念日に塩の行進を記念して、マハトマ・ガンディー財団は塩の行進を再現しようと提案した。そのイベントは「平和、正義と自由の為の国際的行進("International Walk for Peace, Justice and Freedom")」として知られる。マハトマ・ガンディーの曾孫のトゥシャール・ガンディーと数百の人々はダンディまで同じルートでほぼ同じ時間掛けて歩こうとした。

2005年3月12日のアフマダーバードでの出発の日、ソニア・ガンディーやNAC議長、インドの内閣のほぼ半分が出席し彼等の多くは最初の数キロを歩いた。4月5日夜に参加者はダンディー海岸に到着し7日、記念は終わった。

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  =  【非暴力非服従!】ガンジーって結局何をした人なの?  =

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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

森のなかえ

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弁護士ガンジーの決断_2/3 ; 歴史深層(010)

2022-08-19 05:35:29 | 史蹟彷徨・紀行随筆

ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事=平成4年08月19日<ⰧⰊⰧ

☆★ 中京商業が準決勝で5時間近くも甲子園で粘りながらやっと1点差で勝利(1933年)、この結果同校はこの年の甲子園で栄えある日本一となるが、81年後には同じ中京と名のつく高校が硬式と軟式の違いとは言え同様に準優勝で3日連続も粘った挙句日本一の座を手にした。☆★ 在日米軍が戦車7台・飛行機3機などを投入し、東宝砧撮影所に空と陸から攻撃(1948年=第3次東宝争議)、しかし全力を挙げて見逃す失態を犯したため6年後にゴジラが首都圏を破壊することに。☆★ 中日球場での名古屋対巨人の試合中、観客の捨てたタバコの吸い殻が紙屑に引火し火災が発生。瞬く間に火は燃え広がり球場は全焼、4人の死者を出す大惨事に(1951年)。

本日記載附録(ブログ)

小学校時代は素行も悪く、ヒンドゥー教の戒律を破り、タバコにも手を出した

遊ぶ金を工面する為に召し使いの金を盗み取ったことも、肉食をも繰り返した

13歳でカストゥルバと結婚(生涯の妻)、18歳で倫敦に渡り、インナー・テンプル法曹院に招聘され学ぶ

【この企画はWebナショジオ】を基調に編纂(文責 & イラスト・資料編纂=涯 如水)

「“目には目を”は全世界を盲目にしているのだ」と欧州の哲理根幹を否定したガンジー

◇◆ ガンジーを覚醒させた出来事  「非暴力・不服従」はこうして生まれた =2/3= ◆◇

 ガンジーはチャンパランに足を踏み入れるとすぐに、彼自ら小作農の深刻な状況を悟った。手をこまぬいていては飢饉(ききん)が起きるかもしれない。小作契約により、彼らは土地の一部に食用作物ではなくインディゴを植えることを強制されていた。

 また、収穫したインディゴを定額で地主に売ることも取り決められていた。地主たちは収穫物の買い取り価格の値上げを拒む一方、地代を小作農が払えないほど高く引き上げようとしていた。小作農たちは地元当局に苦情を申し立てようとしたが、まったく相手にされなかった。ビハール州政府は地主たちの言いなりだったのである。

 これは、金と権力を持つ植民地主義者が地位と影響力を利用して、貧しい弱者から搾取する典型的な例だった。そして、ガンジーは決意を固める。南アフリカでイギリスの植民地支配に対抗すべく編み出した「市民的不服従」という手法を、母国で試すときが来たと。

市民的不服従
 ガンジーは、ロンドンで弁護士として訓練を受けた後、南アフリカのダーバンに住む裕福なインド人イスラム教徒が経営する船会社で働いた。1893年5月、ピーターマリッツバーグで肌の色を理由に1等室への乗車を拒まれ、列車から放り出されたとき、ガンジーはある“覚醒”を経験した。

人として、インド人として、私には権利がないのだと悟った」と、のちに書いている。

 それ以降、ガンジーは社会改革運動に取り組むようになる。そして、迫害に暴力抜きで立ち向かう手段として、「真理の力」を意味する「サティヤーグラハ」という考え方を生み出した。この理性的なスタンスは、ある信念を表していた。それは、虐げられても自分自身が道徳的に正しくいられる人は、目的達成のために自らが苦しみ犠牲になる必要性を受け入れたなら、最後には強い迫害者を負かすことができるというものだった。

 インディゴ栽培の小作農と地主との争議に関わるようになったころにはすでに、ガンジーは自身の抗議手法を、「消極的な抵抗」ではなく「積極的な市民的不服従」へと発展させていた。チャンパランでは、多くの信奉者が彼の下に加わった。

 その協力を得て開いた会合で、小作農への不当な扱いを示す証拠が集められ、抗議とストライキが組織された。ビハール州のイギリス当局はガンジーを逮捕し、この地域からの退去を命じる。その過程で書かれたニュース記事はすでにインド全土に報道されていたが、彼の知名度の高さから、国際的にも関心が集まり始めていた。

 ガンジーは命令を拒んで裁判にかけられた。ここで中央政府が介入する。イギリス人地主の行状や地方役人との腐敗した関係が、綿密な調査には耐えられないと気づいていたのだろう。ガンジーへの起訴は取り下げられ、彼が委員を務める公式調査で争議の原因が調べられた。これが最終的に法律改正へとつながる。イギリス人地主はインド人小作農にインディゴ栽培を強制できなくなり、地代の値上げにも制限が設けられた。

 これはガンジーと、その流儀サティヤーグラハの勝利だった。ガンジーはサティヤーグラハを、インド各地のさまざまな争議に用いるようになる。イギリス側は対処に困り、あるときは交渉を試み、またあるときは彼を投獄した。しかし道徳的に正しい側に立つことは決してできず、最後には必ずといってよいほど、彼の要求を受け入れる羽目になるのだった。

・・・・・・明日に続く・・・

⨁⨂参考資料: 塩の行進 (2/3) ⨂⨁

塩の行進 
法を破ることなく塩の専売制度を改めるよう努力するために1930年3月2日、ガンディーはインド総督のアーウィン卿に完全独立を要求せず11項目の要求を提出し以下の手紙を書いた。

もし私の手紙があなたの心に訴えることができなければ、今月11日、塩法の規定を無視するために、私はアーシュラム(Ashram)の同僚たちと一緒に行進します。私は塩の専売制度を最も貧しい人々の観点から邪悪な法律だと考えます。独立運動は本質的にこの国で最も貧しい人々の為にあるので、独立運動は悪法という悪に対して始められるのです。

アーウィン卿はこの手紙に答えなかった。そこで1930年3月12日、ガンディーと約78人のサッティヤーグラハの支持者は徒歩でグジャラート州のダンディー海岸の村に向けて出発した。サーバルマティー川にあるスタート地点から240マイル(約380km)離れたところであった。

23日の経過の間に4つの県と48の村を通り、路上では人々の支援を受けた。行進の間、数千のサッティヤーグラハの人々や女流詩人のサロージニー・ナーイドゥがガンディーに加わった。

4月5日、海岸に到着するとAssociated Press社のリポーターのインタビューにガンディーは以下のように応じた。

この塩の行進の、初期の段階でハッピーエンディングと称され、また私にとって少なくとも自由への最後の闘争と称されることを神に感謝します。私は行進の間、一切の干渉をしなかった政府に賛辞を惜しみません。私は政府が干渉しなかったことは本当に心変わりか或いは政策の変更によるものだと信じたいと願います。立法議会内において示される悪意のある無視や横柄な態度を見れば、インドに対し、冷酷に搾取する政策はどんな犠牲を払っても存続されるということに疑いの余地はありません。

私がこの不干渉に与えられる唯一の解釈は、英国政府は--とても強いのだが--世界の世論に敏感になっていることだ。不服従が市民運動であり、ゆえに必然的に非暴力である限り、世界の世論は、極端な政治的扇動(市民的服従)への抑圧を許容しないでしょう。政府は行進を許容してきましたが、明日から無数の人々による塩法違反を許すかどうかは不明です。私は多くの人の反応がインド国民会議の決断に影響することを期待します。

翌日の朝、ガンディーは泥と塩の塊を掲げ「これ(訳者注:泥と塩の塊)で、私は大英帝国の土台を揺るがしたのだ」と言った。その後、ガンディーはインド人が合法的に生産できない塩を作るためにそれを煮始めた。ガンディーは数千の支持者に海岸のどこでも便利で落ち着ける所で塩を作り始めようと訴えた。 ・・・・・・明日に続く。

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  =  ガンジー(「非暴力、不服従」を貫いたインド独立の父。) =

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森のなかえ

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弁護士ガンジーの決断_1/3 ; 歴史深層(009)

2022-08-18 05:35:07 | 史蹟彷徨・紀行随筆

ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事=平成4年08月18日<ⰧⰊⰧ

☆★ 1928年 - 三井財閥の大番頭・中上川彦次郎の娘・あきがにテノール歌手・藤原義江を追って2児を残してミラノへ出発。 そして、翌年のこの日 谷崎潤一郎と妻・千代子が離婚し谷崎の友人・佐藤春夫が千代子と再婚することを3人連名で発表。☆★ 尋常じゃないくらいのドシャ降りでバス2台が巻き込まれてしまい、飛騨川に100人以上もの乗客ごと押し流すことに(1968年)。結果的にダムを〆切って川底まで浚う手間にまでなったとか。☆★ インスタントラーメンで安藤さんとこに煮え湯を飲まされたマルちゃんが、赤狐と緑狸を使い魔として召喚しうどんとそばでリベンジを図る(1978年)。

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小学校時代は素行も悪く、ヒンドゥー教の戒律を破り、タバコにも手を出した

遊ぶ金を工面する為に召し使いの金を盗み取ったことも、肉食をも繰り返した

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「“目には目を”は全世界を盲目にしているのだ」と欧州の哲理根幹を否定したガンジー

◇◆ ガンジーを覚醒させた出来事  「非暴力・不服従」はこうして生まれた =1/3= ◆◇

ある覚醒
   南アフリカを列車で旅行中、ある個人的な出来事から、ガンジーは覚醒する。ピーターマリッツバーグで乗車した白人の男が、ガンジーが1等室にいることに文句をつけたのだ。3等席へ移るよう車掌に言われるが、ガンジーは1等室の切符を持っていることを理由に拒否する。

   すると警官が現れ、ガンジーは無理やり列車から降ろされたのだった。次の列車を待つ数時間に、彼はある決意をする。この比較的小さな出来事をなかったことにはしないこと、そしてこれからは、自分自身の権利のみならず南アフリカのインド人コミュニティーの権利のためにも立ち上がることを、心に誓ったのである。そこに住む人々の多くは、彼が経験したよりもはるかにひどい扱いを日常的に受けていた。

❢❢❢❢❢❢❢❢❢❢❢❢

   1915年1月に46歳でインドへ戻ったとき、モーハンダー・スカラムチャンド・ガンジーは、南アフリカでインド人コミュニティーの公民権運動をおこなった功績により、すでに国際的に認知されていた。それまでの21年間、彼は南アフリカで弁護士として活動していたのだ。

   ガンジーは、インドで「偉大なる魂」を意味する敬称「マハトマ」の名で広く知られていた。また、南アフリカと故郷グジャラート州に設立した「アシュラム(修行場)」で暮らす弟子たちにとっては、「バープー(お父さん)」でもあった。ガンジーにとって、インドでの公民権運動とイギリスからのインド独立の闘いに身を投じたことは、自然な成り行きだった。その流れで、彼は、イギリス支配の終結を求めて活動していた政党「インド国民会議派」に加わる。

 まだ南アフリカに住んでいたころ、ガンジーはインド国民会議派のリーダー、ゴーパール・クリシュナ・ゴーカレーから次のような助言を受けていた。インドで何か積極的な役割を担いたいのなら、インドの複雑な政治情勢を少なくとも1年かけてよく理解してからにすべきだ、と。この助言に従ったガンジーは、のちに、この穏健で良識あるゴーカレーのことを、自分の師であり指導者であると語っている。

インディゴ(藍)栽培の小作農
 1916年12月におこなわれたインド国民会議派の会合で、ある人物がガンジーに近づいてきた。ビハール州のヒマラヤ山麓のチャンパランからやって来た小作農のラジクマール・シュクラだった。彼はガンジーに、「チャンパランに来て、インディゴ栽培の小作農たちとイギリス人地主たちとの争議解決に手を貸してほしい」と依頼する。

   ガンジーは当初、この件を引き受けることに気が進まなかった。チャンパランのことを何も知らないし、インディゴ栽培の知識もなかったからだ(インディゴは染料の工業生産に使用されていた)。しかし、シュクラはガンジーの出席する会合すべてに現れ、繰り返し訴えたので、ついにガンジーはチャンパラン行きを承諾する。

・・・・・・明日に続く・・・

⨁⨂参考資料: 塩の行進 (1/3) ⨂⨁

塩の行進(しおのこうしん、Salt March / Dandi Satyagraha)とは、1930年にマハトマ・ガンディー並びに彼の支持者がイギリス植民地政府による塩の専売に反対し、製塩の為にグジャラート州アフマダーバードから同州南部ダーンディー海岸までの約386kmを行進した抗議行動のことである。

この行進は3月12日から4月6日まで続き、インドのイギリスからの独立運動における重要な転換点となった。

背景
1929年12月31日夜、インド国民会議はラーホールのラーヴィー川の土手で独立の旗を掲揚した。ガンディーや、ジャワハルラール・ネルーが率いるインド国民会議は1930年1月26日に完全に独立する(プールナ・スワラージ(インド完全独立))ことを決議した。

国民会議はAICCにおいて市民的不服従を勧める責任があると発表した。この運動はまたヒンドゥー教徒とイスラム教徒を一つにまとめるために、宗教的な色彩を排除することが必要だった。

ガンディーは非暴力市民的不服従運動があらゆる一連の抗議の基礎であると確信していた。彼の基本的な考え方の一つであるサッティヤーグラハはただの「受身の抵抗」以上のものを意味していた。

サッティヤーグラハはサンスクリットの言葉、アーグラハ(Agraha:説得)とサッティヤ(Satya:真実)を統合したものであった。ガンディーにとって、サッティヤーグラハを推進することが非暴力運動の強さの元になるということが重要であった。ガンディーの言葉の中に、以下のようなものがある。

サッティヤ(Satya)は愛を意味し、断固としていること(Agraha)は力を生み出すゆえに力と同じ意味合いで働く。つまり、真実と愛すなわち非暴力から生まれた力である。(もし)私達がサッティヤーグラハの人々でありサッティヤーグラハを申し出れば、私達自身が強くなることを信じることになるだろう。

私達は毎日だんだん強くなって生きている。力が強くなっていく中で、私達のサッティヤーグラハもより効果的になるし、我々もサッティヤーグラハを諦める機会を探し回るということも無くなるだろう。

2月初旬、ガンディーの関心はイギリスの塩の専売制度に向けられた。塩の専売制度は英国植民地支配を支える収入源だった。ガンディーは塩の専売制度を、非暴力による政治抗議の中心点とした。

インドにおけるイギリスの塩の専売制度が意味するところはイギリス政府以外で塩を作ったり売ったりする者は法によって裁かれ、刑に処されるものであった。

塩は海岸地域で簡単に労働者によって作られるものであるにもかかわらず、労働者は金を支払わざるを得ないものだった。ガンディーの選択は地域、階層、宗教、人種的な境界を越えて訴えるという重要な基準に適った。誰もが塩を必要としイギリスの塩への専売は全インド中に衝撃を与えた。

どの小作人もどの貴族階級も日常生活において塩がどれだけ重要か認識していたので、インド人に対し不公平なものである塩の専売制度に対する抗議は巧妙な選択だった。また塩の専売制度に対する抗議は良い選択だった。

というのも同時に塩の専売制度に対する抗議が大衆を動かすのに十分な力を発揮しているという意味で、国民会議中道派を疎外することはなかったからである。2月5日の新聞は、ガンディーが塩税に抗議するために市民的不服従運動を始めようとしていることを報じた。・・・・・・明日に続く。

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  =  ガンジー =

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クレオパトラ Vs ローマ帝国_5/5 /史跡真相=008

2022-08-17 05:35:03 | 史蹟彷徨・紀行随筆

ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事=平成4年08月17日<ⰧⰊⰧ

☆★ 源頼朝が、以仁王/ 後白河法皇の令旨を受けて「めんどくせー」と言いながら挙兵(1180年)。☆★ 昼間の軍務の最中じゃ生でプロ野球が観られねぇ!!との米軍の不満に応える格好で、横浜ゲーリック球場で照明に照らされながら野球選手が残業をすることに(1948年)。☆★ ビルがモニカとの不適切な関係を認め、スキャンダルによる政治の混乱を打開しようとする(1998年)。さりとて、ビルはヒラリー夫人の尻に敷かれたが、J.F.K.とM.Monroeの不適切な関係はFBIにして強権に封印された。

本日記載附録(ブログ)

クレオパトラ7世フィロバトル;古代エジプト、プトラマイオス朝のファラオ(最後の女王)

ガイリス・ユリウス・カエサルやマルクス・アントニウスらとのロマンスで知られ、「絶世の美女」とも

紀元前51年、クレオパトラ18歳の時、遺言によって弟プトラマイオス13世と共同で王位に就く

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イチジクに忍ばせていたコブラに乳房を噛ませて自殺したとも…

◇◆ クレオパトラの激動の生涯と逸話絶世の美女が歴史に残したものとは?=4/5= ◆◇

プトレマイオス朝の下での生活
プトレマイオス朝では、支配層はギリシャ人、被支配層がエジプト人と言う構造となり、300年間支配していた代々のファラオ達はギリシャ語を話しておりエジプト語を知らなかったと言います。クレオパトラのみがエジプト語を話せたそうです。

プトレマイオス朝のファラオは、ギリシャの古代オリンピックと同等の地位を与えられていた“プトレマイエイア際”と呼ばれる祭祀など、豪華なヘレニズム的なイベントを開催していました。

プトレマイオス朝王家の結婚には、姉アルシノエ2世と結婚したプトレマイオス2世から始まった兄弟姉妹結婚と、一夫多妻制の両方で確立されていました。これらの慣行はファラオの継承を固めることを意図したものだと言われています。

プトレマイオス朝の崩壊
首都アレクサンドリアの富と豊かさに対して市中では飢饉、横行する物価沸騰、そして腐敗しきった地方公務員による圧的な行政システムが蔓延っていました。

この不調は、紀元前2世紀後半から紀元前1世紀初頭まで続き、プトレマイオス朝に対して不満を現したエジプト国民の不安は、ストライキ、神殿の略奪、武装強盗攻撃などの非行の形となり、一部の都市は完全に放棄されました。この様に、領土の縮小、反乱の多発、王室の内紛などのため王朝は徐々に衰退へと辿ります。

これと同時に、ローマとの関りが拡大されていき、ローマはアレクサンドリアで権力を広げていきました。長期にわたったプトレマイオス6世と8世の兄弟間の争いはローマによって仲裁され、プトレマイオス12世に対するアレクサンドリアの反乱はローマによって解決さると共にエジプトはローマの保護国となり、またプトレマイオス8世は彼の意志で彼が支配していたキュレネ王国をローマに譲渡しました。

プトレマイオス朝の最後のファラオとなったのは、あの有名なクレオパトラ7世(治世紀元前51〜30年)です。ローマのカエサルやマルクス・アントニウスと同盟を結びますが、最後には自殺し、エジプトの支配権はローマ帝国初代皇帝となるアウグストゥスに引き渡され、プトレマイオス王朝は終焉しました。

因みに、その後のエジプトでのローマの支配は西暦395年まで続きました。

新企画“マハトマ・ガンジーの決断”に続く・・・

⨂⨁ 参考資料: 皇帝に成り損ねたカエサル =8/8= ⨂⨁

息子同然の男か、腹心の部下か:2人のブルトゥス
ブルトゥスが誰なのかについては、最も有力な説は、マルクス・ユニウス・ブルトゥスを指しているというものです。彼はカエサルの愛人セルウィリア(ラブレター事件の女性です)の息子で、元老院議員もありました。幼少時に実の父を亡くしており、実質カエサルを父として育った人物だった。カエサルもまた彼を愛し、厚遇してきました。

しかしカエサル暗殺に加わるよう説得され、それに応じてしまいます。彼の妻がカエサルに殺されたカトの娘だったということもあったようです。カトとはカエサルを会議で糾弾しようとしたあの人物です。そして、カトの娘もまた、女性で唯一カエサル暗殺に参加していました。

もう一人のブルトゥスは、カエサルの腹心中の腹心であったデキムス・ユニウス・ブルトゥス・アルビヌスではないかという説です。彼は前述のブルトゥスの従兄弟でもあり、カエサルに従ってガリア戦争やローマ内戦を戦い抜いた、苦楽を共にしてきた仲間でした。

彼は執政官(コンスル)にまで指名され、カエサルの遺言の中では第2相続人に指名されていたほどの人物だったのです。その彼がまさか自分の暗殺に加わり、自分を裏切るとは…という思いで、カエサルは「ブルトゥス、お前もか」と叫んだのかもしれません。

2人のブルトゥスとローマのその後
2人のブルトゥスやカエサル暗殺の一団は、実は元老院によって賞讃されました。カエサル嫌いの元老院ですから、これは有り得る話です。しかし、カエサルの後を継いだオクタヴィアヌスが力を付けていくに従い、またも対立が起きました。加えて、カエサルの部下だったアントニウスもまた、彼らを追討したのです。

戦上手のアントニウスの前に、2人のブルトゥスは敗北し、命を落とすこととなりました。そしてアントニウスとの抗争に勝利したオクタヴィアヌスが実権を握り、ついに皇帝となったのが前27年のこと。カエサルの死から約17年後でした。

ローマ史に燦然と輝く偉人・カエサル
多くの苦難やコンプレックスがありながら、カエサルは見事にそれを乗り越えてローマの頂点に立ちました。ただ彼のやり方が急であり、ドラスティックだったために、保守層の反発を招いたことは否定できません。もし彼が暗殺されずにいたら、皇帝になることはできたのでしょうか。もしそうなったとしたら、歴史はもしかすると大きく変わったのかもしれません。

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クレオパトラ Vs ローマ帝国_4/5 /史跡真相=007

2022-08-16 05:35:03 | 史蹟彷徨・紀行随筆

ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事=平成4年08月16日<ⰧⰊⰧ

☆★ 前の日にユダヤ人が騒いでいた嘆きの壁をアラブ人が大掃除。ユダヤ教の祈りの書までゴミ扱いしたことからユダヤ人が当局に抗議する事態に(1929年)。☆★ イタリアはミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会が連合国の空襲で徹底的に破壊されるも、最後の晩餐は主の恩寵故に奇跡的に残った(1943年)。☆★ 松井秀喜が高校生にしては度を越える強さ故に、試合相手の明徳義塾から徹底的にスルーされる。これで明徳義塾は試合での勝利を手にしたのに、日本中からブーイングの雨霰を浴びる破目に(1992年)。

本日記載附録(ブログ)

クレオパトラ7世フィロバトル;古代エジプト、プトラマイオス朝のファラオ(最後の女王)

ガイリス・ユリウス・カエサルやマルクス・アントニウスらとのロマンスで知られ、「絶世の美女」とも

紀元前51年、クレオパトラ18歳の時、遺言によって弟プトラマイオス13世と共同で王位に就く

【この企画はWebナショジオ】を基調に編纂(文責 & イラスト・資料編纂=涯 如水)

イチジクに忍ばせていたコブラに乳房を噛ませて自殺したとも…

◇◆ クレオパトラの激動の生涯と逸話絶世の美女が歴史に残したものとは?=4/5= ◆◇

アントニウスとの新婚旅行でアテネへ
アントニウスとトルコで結婚したクレオパトラはアテネまで新婚旅行に出かけます。そして、紀元前39年には二人の間にアレクサンドロス・ヘリオスと言う男の子とクレオパトラ・セレネと言う女の子の男女の双子が、紀元前36年にはプトレマイオス・ピラデルポスという男の子も誕生します。

さて、クレオパトラにぞっこんのアントニウスですが、ローマ帝国の一部であったトルコ南部を彼女にプレゼントしてしまいます。

紀元前33年、アントニウスとクレオパトラはトルコのエフェソスで冬を過ごし、年が明けるとアントニウスは妻オクタウィアと正式に離婚します。こうした振る舞いはローマ人の怒りをかき立てる結果になってしましました。

アレクサンドリアでの最期|クレオパトラの死因は毒蛇
一方のローマにいるオクタウィアヌスはアントニウスを追い落とすチャンスと捉え、大軍を率いてアントニウス・クレオパトラ連合軍に戦いを挑みます。これが、紀元前31年の「ギリシャ・アクティウムの海戦」です。この戦いでアントニウス・クレオパトラ軍は大敗を喫します。

アレクサンドリアに逃げ帰ったクレオパトラは「私は死んだと伝えて」と言い神殿に隠れてしまうのです。その言葉を真に受けたアントニウスは毒をあおって自殺。

その10日後にクレオパトラも毒蛇に身を噛ませ、アントニウスの後を追ってこの世を去ります。クレオパトラの死により、プトレマイオス朝は終焉となりました。

世界でも知らぬ人がいない程有名な歴史上の人物であるカエサルとクレオパトラとアントニウス。同時代に生き、権力と誘惑が導いたのは滅亡でしたが、3名とも後世に残る程、熱い人生だったのかと思います。

クレオパトラの死後、息子は処刑・病死
ちなみに二人の死後、クレオパトラの長男であるカエサルとの子カエサリオンは、オクタウィアヌスにより処刑されてしまいます。そして、アントニウスとの子、双子の男の子アレクサンドロス・ヘリオスと最後に生まれたプトレマイオス・ピラデルポスは直ぐに病死してしまいます。

クレオパトラの子孫は残っている?
一方、クレオパトラの双子の女の子クレオパトラ・セレネ2世はローマに連れて行かれ、アントニウスの前妻でオクタウィアヌスの姉であるオクタウィアが育て上げ、後にローマの名門家に嫁ぎました。

クレオパトラと浮気されたのちに一方的に離婚を突き付けられたにもかかわらず、遺児となったアントニウスとクレオパトラの子を引き取って養育したオクタウィア…かなり懐が深い女性だったのでしょう…。

クレオパトラ・セレネ2世はユバ2世との間にプトレマイオス・トロメウス(男子)とドルシッラ(女子)の2人の子どもを授かっているため、クレオパトラの血はエジプトではなくローマの地で受け継がれているのかもしれません。

クレオパトラの墓はどこにある?
クレオパトラの墓はまだ見つかっていませんが、アントニウスとともにアレクサンドリアの西方にある神殿跡付近に埋葬されているのではないかと目され、発掘作業が続けられています。

一説には、クレオパトラとアントニウスは自分たちの墓が時の支配者たちに荒らされるのではないかと恐れ、見つかりにくい場所に隠したのではないかと考えられているようです。

・・・・・・明日に続く・・・

⨂⨁ 参考資料: 皇帝に成り損ねたカエサル =7/8= ⨂⨁

「来た、見た、勝った」の戦い
その後、カエサルはさらに勢力を広げる。黒海南岸東部、現在のトルコの一部にあったポントスとの戦いに勝った彼は、ローマへの勝利報告として「来た、見た、勝った(Veni, vedi, vicious)」という簡潔明瞭な手紙を送っています。この言葉も有名です。

また、北アフリカの地でいまだ抵抗を続けていた元老院勢力にも勝った彼は、前46年、ついにローマへ凱旋しました。その威風堂々たる姿に市民は熱狂し、彼の権力は確固たるものとなったのです。ここにはクレオパトラとカエサリオンも伴っていた。そしてポンペイウス一派の残党も一掃し、前45年にローマ内戦は終結する。

カエサルの独裁化
ローマへ凱旋した彼は、元老院派の抵抗も抑え込み、ついに古代からの共和政ローマの改革へ乗り出す。彼が就任したのは、終身独裁官という地位でした。独裁官(ディクタトル)とは国家の非常事態に1人任命されてきた役職で、強大な権限を持っていたのです。

それを終身務めるとしたことは、まさに彼が帝政を目指していると周囲には受け取られました。また、カエサルが「共和政ローマは白昼夢のようなものだ」と発言したり、自分の言葉が法律であるといった趣旨の発言をしたり、これがカエサルの決意だと思われたのでしょう。もちろん、反対者もいた。

長く共和政を保ってきたローマにはまだまだ多くの共和主義者が存在してた。

彼らはカエサルのやり方に大きな危機感を持ち、やがてそれは彼を排除しなければならないという過激な方向へと動き出していくのです。

カエサル、暗殺さる
前44年3月15日、カエサルは元老院会議へ出席するために、議場であるポンペイウス劇場へ向かいました。実はこの時、カエサルの妻は前夜に悪夢を見たから行かないでほしいと彼を止めています。また、占い師も彼に「3月15日に注意せよ」と警告していたのだそうです。しかし彼はその言葉を容れず、ポンペイウス劇場へ足を踏み入れました。

その時、列柱の影から幾人もの影が飛び出し、彼に襲い掛かりました。彼は抵抗する間もなく、全身に23もの刺し傷を受けてその場で絶命しました。皇帝への階段をあと数段残したところで、彼は転げ落ちたのです。56歳でした。

暗殺の当事者たちは、カエサルの独裁化に反発する一団でした。その中には、カエサルの見知った顔も多く含まれていたのです。そのため、彼は刺される直前にこう叫びました。「ブルトゥス、お前もか」と。これもまた有名な言葉ですよね。   ・・・・・・明日に続く・・・

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クレオパトラ Vs ローマ帝国_3/5 /史跡真相=006

2022-08-15 05:35:11 | 史蹟彷徨・紀行随筆

ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事=平成4年08月15日<ⰧⰊⰧ

☆★ 不景気の憂さを踊って晴らそう!という趣旨で、この日から五日間日比谷公園で盆踊り(1932年)。この時流れた音楽がやがて全国津々浦々の盆踊りで流れる流行歌に。☆★ ヒトラーもムッソリーニも既に死んでいるのに神州不滅を信じて日本列島での地上戦をもやり兼ねなかったのが、突然白旗を挙げたことで連合国の兵士も市民も戦争が終わった!と狂喜乱舞(1945年)。☆★ 第二次世界大戦の勝利を享受した若者たちが、ニューヨーク州の広い野っ原にて3日連荘でロックを大音量で流して大騒ぎ(1969年=ウッドストック・フェスティバルが開幕)。

本日記載附録(ブログ)

クレオパトラ7世フィロバトル;古代エジプト、プトラマイオス朝のファラオ(最後の女王)

ガイリス・ユリウス・カエサルやマルクス・アントニウスらとのロマンスで知られ、「絶世の美女」とも

紀元前51年、クレオパトラ18歳の時、遺言によって弟プトラマイオス13世と共同で王位に就く

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◇◆ クレオパトラの激動の生涯と逸話絶世の美女が歴史に残したものとは?=3/5= ◆◇

アントニウスとトルコ南部の街で結婚
紀元前41年、アントニウスは東方での力を維持するため、また軍事費のためにエジプトの豊富な資源を目当てにエジプトと組もうと画策します。共和派を支援していたクレオパトラの出頭を名目として、アントニウスが居を構えていた現在のトルコ南東部キリキアの首都タスソス(現メルスィン県タルスス)にクレオパトラを招待します。

クレオパトラは失った土地を取り戻すための好機と捉えこの招待を受け入れ、アレクサンドリアから豪華な船でアントニウスの元へ向かいます。その際クレオパトラは、まるで女神のような姿に着飾っていたと言われています。

現れたクレオパトラを見てアントニウスは魅了されて惚れてしまいます。アントニウスのハートを射止めたクレオパトラはトルコ南部の街アンティオキア(現在のハタイ県アンタキア)でアントニウスと結婚式を挙げます。

このようにエジプト女王のクレオパトラは、実はトルコにも来ていたのです。クレオパトラがタルススに入る際にくぐった門は「クレオパトラ門」として今でも残っています。

ただ、アントニウスにはローマ人の妻がいました。勢力を二分するオクタウィアヌスの姉オクタウィアです。アントニウスは今で言う重婚の罪を犯したのです。

このアントニウスの行為は、義兄オクタビアヌスを怒らせたばかりか、アントニウスとクレオパトラに対するローマ人の反感をも募らせました。このアントニウスとクレオパトラの傍若無人とも思える行動が、後の2人の悲劇に繋がっていくのです。

このようにエジプト女王のクレオパトラは、実はトルコにも来ていたのです。クレオパトラがタルススに入る際にくぐった門は「クレオパトラ門」として今でも残っています。

ただ、アントニウスにはローマ人の妻がいました。勢力を二分するオクタウィアヌスの姉オクタウィアです。アントニウスは今で言う重婚の罪を犯したのです。

このアントニウスの行為は、義兄オクタビアヌスを怒らせたばかりか、アントニウスとクレオパトラに対するローマ人の反感をも募らせました。このアントニウスとクレオパトラの傍若無人とも思える行動が、後の2人の悲劇に繋がっていくのです。

妹アルシノエ4世の暗殺
なお、クレオパトラはアントニウスに頼んで、クレオパトラの脅威となっていた、エフェソスで幽閉されていた妹のアルシノエ4世を殺させています。

アルシノエ4世はアルテミス神殿の神官により当時不可侵であった神殿内に避難していましたが、不可侵を破ってアントニウスが神殿の階段で彼女を殺したと言われています。

エフェソス遺跡の中央ケルスス図書館の前、丘の上の住宅の前には八角形のオクタゴンと言われる墓があり、そこから15~18歳の遺骨が見つかっています。その後のDNA鑑定から、北アフリカの血を引く女性であることが解っているため、恐らくこれがアルシノエ4世の遺骨ではないかと言われています。

・・・・・・明日に続く・・・

⨂⨁ 参考資料: 皇帝に成り損ねたカエサル =6/8= ⨂⨁

賽は投げられた!カエサル、ローマを掌握
前53年、前記のごとく、クラッススが戦死したことで三頭政治の均衡が崩れる。ポンペイウスに嫁いでいたカエサルの娘ユリアが亡くなったことで、残されたカエサルとポンペイウスの中も微妙なものになり、緊張が高まっていった。

そして、カエサルは突然ガリア属州総督を解任され、ローマ本国への召喚命令が出されたのです。前にも述べた通り、ガリア戦争で力をつけたカエサルを警戒した元老院によるものでしたが、事実上の「お前を潰してやるぞ」という脅しだったわけですね。

これに大人しく従うカエサルではありません。戻れば殺されるのは目に見えており、かといってこのままガリアに留まれば、反逆者とみなされてしまいます。前49年1月10日、カエサルとその軍はルビコン川の河畔にやって来ていました。ルビコン川とはイタリア本土と属州の境界線でもあり、軍を率いてここを渡ることは国家反逆と同じことでした。

ここでカエサルは叫びます。「賽は投げられた!」そして軍を鼓舞し、一気にルビコン川を渡ったのです。彼がイタリア半島を掌握するのに、時間はさほどかかりませんでした。というのも、ポンペイウスはカエサルの進攻の速さに軍を整えるのが間に合わず、自身の勢力基盤であるギリシャへ逃げてしまった。

エジプト女王クレオパトラとの恋
ポンペイウスなど敵対勢力と繰り広げた戦乱は、ローマ内戦と呼ばれています。カエサルはこのほとんどに勝利を収め、ポンペイウスはエジプトへ逃げ、カエサルはその後を追撃した。しかし、ポンペイウスはエジプト王の計略によって暗殺されてしまう。その直後にカエサルが到着し、これまた内戦の真っ最中だったエジプト王とその姉王の仲介に乗り出すのです。この姉王こそ、カエサル最大の愛人・クレオパトラだった。

一時は政権を追われたクレオパトラは、ローマを掌握したカエサルの力を借りようと考えます。そして、一説には絨毯にその身を包ませ、自分自身を貢物としてカエサルに献上し、面会を果たしたのだそうです。

クレオパトラは美女として名高く、才女でもありました。女たらしのカエサルが惹かれないわけがありません。愛人関係となった2人は、クレオパトラの弟王を駆逐し、エジプトの支配者となる。この頃、2人の間にはカエサリオンという男児も生まれています。  ・・・・・・明日に続く・・・

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◎_今日の足跡が記録帖_◎ 2022/08/14(日)

2022-08-14 05:35:05 | 史蹟彷徨・紀行随筆

ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事= 平成4年08月14日 ⰧⰂⰧ

☆   前日起きた強盗殺人事件の容疑者として吉田石松を逮捕、以後50年にわたる日本岩窟王の幕が開ける(1913年)。

  米国の陰謀ご好意=ガリオア資金=によって、全国の学校で昼食にパンが食べられる様になる(1950年)。

  ポーランドはグダニスクの造船所で俺達は政府の言いなりにはならねぇ!と労働者が連帯(1980年)、彼らの要求は9年後に現実のものとなったが造船所自体は(皮肉も彼らの要求のお陰で)16年後に店仕舞いする破目に。

Wagner: Rienzi, WWV 49 - Overture
 

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クレオパトラ Vs ローマ帝国_2/5 /史跡真相=005

2022-08-13 05:35:26 | 史蹟彷徨・紀行随筆

ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事=平成4年08月13日<ⰧⰊⰧ

☆★ リヒャルト・ワーグナーが自分でおっ建てた豪華な劇場でリサイタルを開催(1876年=第1回バイロイト音楽祭開幕)、だが派手にやった割に大赤字となりワーグナー自身も精神的なダメージを被る破目に。☆★ 東ドイツが西側に無断で大規模土木工事に着工、手始めに予定地を有刺鉄線で封鎖する(1961年=ベルリンの壁の建設を開始)。☆★ 日の丸と君が代が正式に日本の国旗と国歌になる(1999年)。強制はしないという建前だが、実際のところはお察し下さい。

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クレオパトラ7世フィロバトル;古代エジプト、プトラマイオス朝のファラオ(最後の女王)

ガイリス・ユリウス・カエサルやマルクス・アントニウスらとのロマンスで知られ、「絶世の美女」とも

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◇◆ クレオパトラの激動の生涯と逸話絶世の美女が歴史に残したものとは?=2/5= ◆◇

カエサルとの出会い
紀元前48年、カエサルはクレオパトラとプトレマイオス13世の和解を取り持つために、アレクサンドリアで仲介しようと試みます。しかし二人は戦闘状態であったため、クレオパトラはアレクサンドリアに入る事が難しい状況でした。

そこでクレオパトラは自身を絨毯に包ませ、カエサルへの贈り物となりカエサルの元に参上することに成功します。こうして二人は出会いました。カエサルは、絨毯の中から出て来たクレオパトラに驚くとともに魅了され親密な仲になりました。

カエサルはクレオパトラとプトレマイオス13世を和解させますが、この和解も15日間しか続かず、プトレマイオス13世がカエサル軍に攻撃を仕掛けたため、カエサル率いるローマ軍は紀元前47年にナイル川の戦いでプトレマイオス13世を死に追いやり制圧しました。プトレマイオス13世はナイル川で溺死したと言われています。

息子カエサリオンの誕生とカエサルの死
その後、クレオパトラはもう一人の弟プトレマイオス14世と再度姉弟婚をし、共同統治を行います。しかしこれはカエサルの後ろ盾によるもので、実際はクレオパトラがほぼ単独で統治をしていました。その上、紀元前47年には、カエサルとの子であるカエサリオンが産まれます。

紀元前46年23歳の時、カエサルがローマの独裁官に任命されて凱旋式を行った頃、息子のカエサリオンと共にローマへ渡り密かに滞在します。しかし、愛人であり後見人であったカエサルが紀元前44年にブルータスらの共和派に暗殺されると、急遽逃げるようにエジプトに帰国しなくてはならなくなりました。

紀元前44年25歳の時にエジプトに戻ったクレオパトラは、夫のプトレマイオス14世の死後、後継者として小さな息子のカエサリオンをプトレマイオス15世に襲名させ再度共同統治を行いました。一方、カエサルの甥っ子で養子であったオクタウィアヌスとマルクス・アントニウスとレピドゥスは三頭政治をとり、カエサルを暗殺したブルータスらの共和派を討伐するのですが、クレオパトラはブルータスらの共和派を支援していました。

紀元前42年、三頭政治派はマケドニア属州に逃げていていたブルータスらの共和派をフィリッピの戦いで破り、ローマ帝国は西を制したオクタビアヌスと東方世界を受け持ったアントニウスという実力者2人によって実質的に分割統治されることになります。

・・・・・・明日に続く・・・

⨂⨁ 参考資料: 皇帝に成り損ねたカエサル =5/8= ⨂⨁

軍事に優れた男・ポンペイウス

ポンペイウスは共和政ローマ時代の軍人で、裕福なエリート家系の人物。ヒスパニア(スペイン)遠征を成功させたりオリエント・小アジア(トルコ付近)を平定し属州化したりと、その功績はずば抜けていた。カエサル・クラッススとの第一回三頭政治に参加した時が彼の人生の頂点でした。その後はカエサル対立し内戦で敗北、エジプトへ逃げますが暗殺されてしまう。

彼の妻ユリアはカエサルの娘で、夫婦仲はとても良かったそうです。しかしユリアが産褥で亡くなったことで、カエサルとの間の溝が深くなってしまった。もしユリアが亡くなっていなければ、少しは情勢が違ったのかもしれません。ちなみに、カエサルが暗殺されることになった場所は、ポンペイウスが建てた「ポンペイウス劇場」でした。

とにかく金持ち・クラッスス

クラッススもまた軍人であり政治家。当時、裕福な身分は騎士階級(エクイタス)と呼ばれる階級でしたが、彼はその騎士階級の代表的な存在だった。また、弁舌の才能にも恵まれ、元老院で勢力を持っていた。このため、元老院に対抗したいカエサルとポンペイウスにとってはぜひ仲間に引き入れたい人物。加えて、大金持ちである彼はカエサルの最大のパトロンでもあった。

しかし、クラッススはポンペイウスとはとても仲が悪かったのです。というのも、剣闘士スパルタクスの反乱において、頭目のスパルタクスを討ち取ったのは彼だったのに、ポンペイウスが自分こそが手柄を立てたと元老院に報告し、手柄を横取りした。

その後、クラッススはポンペイウスへの対抗心から、いまだ成功していなかったパルティア遠征(イラン高原付近にあった王国)を実行する。ところが彼はここで戦死してしまい、結果として第1回三頭政治が崩壊する。

カエサル最大の功績!ガリア戦争
前58年、カエサルはガリア方面(フランス・ベルギー・スイス方面)の属州総督となり、その地を平定するべく赴任します。この時の異民族との戦いが、7年間に及んだ「ガリア戦争」。ガリア戦争で勝利を収めたカエサルは、ガリア全域をローマの支配下とし、自身のキャリアに輝かしい功績を残すこととなった。加えて、大量の戦利品などを得たことで財力も得たのです。

また、辛く長い戦いの中で、兵たちはローマよりもカエサル個人に忠誠を誓うようになっていた。カエサルの率いる軍は無敵の強さを誇るようになり、同時に、ローマにいる元老院の面々は警戒を抱くようになっていきます。この時の戦いを、カエサルは「ガリア戦記」という書物にまとめ誇示した。  ・・・・・・明日に続く・・・

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