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【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

アネリカ先住民がが築いた大都市=カホキア=(2/9); 歴史深層(041)

2022-09-28 05:35:48 | 史蹟彷徨・紀行随筆

ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事=平成4年09月28日<ⰧⰊⰧ

☆★ フランスの田舎者がイギリスの南側を蹂躙し始め、3ヶ月後には王位まで乗っ取ることに(1066年)。曰く、ノルマン・コンクエストが始まる。☆★ 田中角栄の政治力で清水峠の真下のトンネルが1本から2本に(1967年)。更に総理大臣になって20年足らずで上越新幹線も通ることに。☆★ 傘をさしてデモをしていた香港市民に香港当局が催涙弾をお見舞いし、雨傘運動の幕が切って落とされる(2014年)。

本日記載附録(ブログ)

カホキア (Cahokia) は、アメリカ先住民が築いた大遺跡。現在のアメリカ合衆国中西部、東部および南東部に広まり、ミシシッピ文化期(A.D.700年~1600年頃)の大遺跡。1450年頃から衰退に向かうが、人口過密と伝染病が原因と考えられている。

ミシシッピ文化(Mississippian culture)は、マウンド(塚、上に住居や墳墓などを建設するために積み上げた人工の丘)を構築したインディアン文化であり、地域により様々な形態をなした。その人々は持っていた技術からみてヨーロッパの銅器時代に比定される。マウンドの機能はミシシッピ文化共通の特徴でもあるが、基本的には神殿と考えられる。

防御用と推定される柵で囲まれた遺跡の中心部分には、「中央広場」を囲んで20基ほどのマウンドがある。そのうち最大のものはモンクス=マウンド (Monk's Mound) で、底面積の大きさでは、エジプトのピラミッドやテオティワカンの太陽のピラミッドを上回る。遺跡の中心部を囲んで北側、東側、西側にも広場を囲むようにしてマウンドが築かれ、マウンド数は合計120基ほどである。

【この企画はWebナショジオ】を基調に編纂(文責 & イラスト・資料編纂=涯 如水)

◇◆ アネリカ先住民が築いた大遺跡・カホキア(仁徳陵古墳の長辺60%、高さは同相)の謎 =2/9= ◆◇

ただの巨大な土の山ではなかった
 カホキアは、ただの巨大な土の山ではなかった。考古学者たちがどこを掘っても、そこから家が見つかった。これは、何千人もの人々がかつてここでコミュニティを形成していたことを示していた。そしてその家の多くは、非常に短い期間内に建てられたものだった。
 調査により、どうやら1050年前後に、この都市全体が一気に活気づいたことがわかってきた。周辺地域から人々が続々と集まり、家を建て、新しい都市のインフラを整えていった。その中には、上部に建物が設置された墳丘のほか、サッカー場45面分ほどの広さを持つ巨大な広場もあり、スポーツや宗教行事に使われていた。

 巨大なモンクス・マウンドの上から眺めれば、目の前には広大な氾濫原が広がっていた。周辺で最も高かったであろう墳丘の建設を指揮した後、部族の長あるいは高位の僧侶は、自らが統治する土地を鳥の視点から見渡すことができただろう。

 カホキアがそのような単独の指導者を頂いていたという仮説はしかし、広く認められているものではない。この場所が当時何と呼ばれていたのかも、ここに住んでいた人たちが自らを何と呼んでいたのかもわかっていない。「カホキア」というのは、1600年代にこの周辺に住んでいた部族の名前を借りたものだ。この土地の人々は書き言葉を持っておらず、彼らを知る手がかりは少なく、その解釈にはさまざまな議論がある。

 専門家の間で意見が一致しているのは、トウモロコシが地域の食生活を支えるようになってから2世紀ほどで急速にこの都市が発展したこと、氾濫原に人々が引き寄せられてきたこと、そして、ミシシッピ文化のほかのコミュニティと比べて規模と範囲がとてつもなく大きかったことなどが挙げられる。

ミシシッピ文化
 カホキアの墳丘とそこに住んでいた人々の築いた文化は、今日ではミシシッピ文化と呼ばれている。カホキアの遺跡は現在までに発見された中で最大の集落だが、考古学者たちはこのほかにも、米国南東部から中西部、さらには北の五大湖地域でもミシシッピ文化の集落跡を発見している。カホキアと同様、その多くは、巨大な土塁、木製の柵や要塞、銅、貝、石で作られた遺物などを特徴としている。

 ミシシッピ文化の始まりを特定するのは難しいが、多くの専門家は西暦800年前後と考えている。そのころ、ミシシッピ川渓谷中央部に村が形成され始め、農民たちはトウモロコシ(これが主食となっていく)、豆、カボチャなどを栽培した。同じような集落は、その他の河川流域にも現れた。こうした北米の肥沃な土地で、ミシシッピ文化の人々は、温暖な気候、豊富な水、さらには木材、木の実、魚、野生動物といった豊富な天然資源を享受していた。

 カホキアをはじめとするミシシッピ文化の遺跡から出土する遺物は、当時の北米の村々に大規模な交易ネットワークが存在したことを示している。カホキア遺跡の「34番」の墳丘には、北米で唯一の、先住民が銅を扱った作業所があったことがわかっている。銅は五大湖地域からカホキアに運ばれていた。銅塊を加工して作られた神聖な品々や外交的な贈り物は、大陸中のミシシッピ文化の遺跡で見つかっている。

・・・・・・明日に続く・・・

⨁⨂参考資料: ミシシッピ文化(2/4) ⨂⨁

編年論
ミシシッピ文化の発展段階は通常三期に区分されるか、さらに細かい時期区分がなされる。それぞれ地域ごとに異なる依然としてあいまいな部分のある時代区分である。ある場所でのそれぞれの開始時期は、上記ミシシッピ文化の特徴の採用や発展の速度によって早くなったり遅くなったりしていると考えられる。

初期ミシシッピ文化は後期ウッドランド期(Late Woodland)(500年から1000年)からの変化を始めた時期に相当する。異なる集団が種族の生活様式を棄てて、社会構造の複雑化、定住、集権化および農業を始めた。初期ミシシッピ文化はほとんどの場所で1000年から1200年ころと考えられる。

中期ミシシッピ文化はしばしば、ミシシッピ文化の頂点とも考えられている。カホキア以外にも複雑な首長制国家が作られ、サザン・カルトの美術や象徴体系の広がりと発展がこの時期の特徴的変化である。上記ミシシッピ文化の特徴が地域内にあまねく広まるようになった。中期ミシシッピ文化はほとんどの場所で1200年から1400年ころと考えられる。

後期ミシシッピ文化は通常1400年ころからヨーロッパ人による接触までと考えられ、戦争の増加、政治的動揺および人々の移住で特徴付けられる。カホキアの人々はこの時期の早くに(1350年-1400年)分散し、恐らくは他の新しく政治力をもった祭祀センターに移動した。場所によってより防御柵などを築いているのが観察され、時にマウンドを築いたり儀式を重んじたりすることは減少した。

ある地域ではヨーロッパ人との最初の意味ある接触まで実質的に中期ミシシッピ文化に留まっていたが、ほとんどの地域では1500年までに散り散りになるか、厳しい社会的な緊張感を経験していた。

ヨーロッパ人との接触
学者達は、エルナンド・デ・ソトが1534年から1539年に行ったアメリカ南東部の探検記録から、彼がミシシッピ文化人と接触した証拠を探した。デ・ソトは幾つかの集落を訪れており、ある場合には客として1ヶ月以上そこに滞在した(アパラチー族を参照)。出会った人々の中には暴力を振う者もいれば、比較的平和的な者もいた。

インディアンの間に長く続いた不和の中で、武装したデ・ソトたちは戦力として、あるいは同盟者として使われたと思われる。例えば、パカハ族とカスキ族の間の休戦を交渉した。

しかし、この探検の後期にデ・ソト一行と遭遇した部族は一行の約半分を殺し、部族の成員の多くもスペイン人に殺された。デ・ソトの年代記はミシシッピ人について書かれた最初の文書であり、これらの人々の文化的慣習について貴重な情報源となっている。
・・・・・・明日に続く

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=Prairie Fire: Cahokia Mounds (WILL-TV)=

https://youtu.be/xVcdigJ6eLE  

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=上記本文中、変色文字(下線付き)のクリックにてウイキペディア解説表示=

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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

森のなかえ

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アネリカ先住民がが築いた大都市=カホキア=(1/9); 歴史深層(040)

2022-09-27 05:35:23 | 史蹟彷徨・紀行随筆

ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事=平成4年09月27日<ⰧⰊⰧ

☆★ 13日前に選出されたばかりのローマ教皇ウルバヌス7世が、重責に耐えかねて自分から天に召される(1590年)。☆★ ナポレオン・ボナパルトのエジプト土産に何が書かれているのかが判明(1822年=ロゼッタ・ストーンの解読)。☆★ 中国を蹂躙しまくってた日出ずる国とヨーロッパの支配者に載し上がろうとしていた卐)が共闘。翌年にも起きそうなアンクルサムとの決闘に備える(1940年=日独伊三国同盟締結)。

本日記載附録(ブログ)

カホキア (Cahokia) は、アメリカ先住民が築いた大遺跡。現在のアメリカ合衆国中西部、東部および南東部に広まり、ミシシッピ文化期(A.D.700年~1600年頃)の大遺跡。1450年頃から衰退に向かうが、人口過密と伝染病が原因と考えられている。

ミシシッピ文化(Mississippian culture)は、マウンド(塚、上に住居や墳墓などを建設するために積み上げた人工の丘)を構築したインディアン文化であり、地域により様々な形態をなした。その人々は持っていた技術からみてヨーロッパの銅器時代に比定される。マウンドの機能はミシシッピ文化共通の特徴でもあるが、基本的には神殿と考えられる。

防御用と推定される柵で囲まれた遺跡の中心部分には、「中央広場」を囲んで20基ほどのマウンドがある。そのうち最大のものはモンクス=マウンド (Monk's Mound) で、底面積の大きさでは、エジプトのピラミッドやテオティワカンの太陽のピラミッドを上回る。遺跡の中心部を囲んで北側、東側、西側にも広場を囲むようにしてマウンドが築かれ、マウンド数は合計120基ほどである。

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◇◆ アネリカ先住民が築いた大遺跡・カホキア(仁徳陵古墳の長辺60%、高さは同相)の謎 =1/9= ◆◇

米国イリノイ州、ミシシッピ川の東に、先住民が築いた大都市の遺跡がある。カホキアだ。西暦1000年から1200年代の最盛期には、この都市は面積約16平方キロメートルに達し、住民たちは墳墓や公共建造物、さらには「ウッドヘンジ」と呼ばれる天文観測所を建設した。

 なかでも大きな存在感を放っていたのは、メキシコ以北最大の土塁であるモンクス・マウンドだ。複数の段からなるこの墳丘は、約30メートルもの高さにそびえていた。

 カホキアの墳丘群は、その昔、メキシコの砂漠と北極圏に挟まれた地域において最大規模をほこった「ミシシッピ文化」の核となる遺跡だ。農業文明であるミシシッピ文化は、西暦800年頃から最盛期の13世紀頃にかけて今の米国中西部と南東部に広がった。アメリカ先住民の最も優れた業績のひとつとも言われるカホキアには、この文化の痕跡が目に見える形で残されている。

カホキアが見捨てられてきた理由
 現在、カホキアは、イリノイ州の史跡、国の歴史的建造物、ユネスコの世界遺産に指定されている。しかし、近年までは地元の人たちしか知らない遺跡だった。その背景には深い事情がある。

 カホキア墳丘について初めて詳細な記述を残したのは、ヘンリー・M・ブラッケンリッジだった。弁護士でアマチュア歴史家だったブラッケンリッジは、1811年、周辺の草原を探索している最中に偶然、この遺跡と巨大な中央墳丘を見つけた。「非常に驚かされた。まるでエジプトのピラミッドを眺めているような気分だった」と書き残している。

 ブラッケンリッジの発見を報じた新聞記事は、ほとんど話題にならなかった。ブラッケンリッジはこれについて、友人の元大統領トーマス・ジェファーソンに宛てた手紙で不満を述べている。友人にこうした著名人がいたことで、カホキアの存在はようやく知られるようになっていったものの、その後もさして注目を集めることはなかった。

 1830年にアンドリュー・ジャクソン大統領が制定したインディアン強制移住法は、東部の先住民をミシシッピ以西の土地に移住させることを命じたもので、その前提には、アメリカ先住民は「野蛮人」であるという白人至上主義的な考え方があった。

 かつて栄えた大都市があったという証拠は、こうした考えにとって都合が悪かった。19世紀の歴史家たちは、カホキア墳丘群を築いた人々の正体について、フェニキア人からバイキング、さらには失われたイスラエルの部族まで、滑稽なほど多様な候補を挙げてみせた。それほどまでに、アメリカ先住民の技術や尽力を認めたくなかったのだ。

 米国の大学でさえ、カホキアをはじめとする国内の遺跡にはほとんど目を向けなかった。1880年代になってようやく、スミソニアン協会のサイラス・トーマスが何年もかけて現地調査を行った末、墳丘群がアメリカ先住民のものであることを証明した。それでもカホキアや近隣の墳丘群の価値を認める人の数はそう多くはなかった。

 かつて周辺に住んでいたフランス人修道士たちにちなんでその名が付けられたモンクス・マウンドは(モンクは修道士の意)、1925年に小さな州立公園となったが、ソリ遊びやキャンプをする場所として利用されていた。カホキアの残りの部分は、1960年代に入るまではほぼ放置状態だった。

 皮肉なことに、カホキアが地図に載るきっかけとなったのは、この土地にそれまでで最大の建築プロジェクトが持ち上がったことだった。ドワイト・アイゼンハワー大統領の州間高速道路計画には、その経路にある遺跡の調査に関する条項が含まれていた。計画では2本の高速道路が遺跡を串刺しにするように貫いていたことから、遺跡の体系的な調査が開始された。そして考古学者たちは、天啓とでも呼ぶべき大発見をした。

・・・・・・明日に続く・・・

⨁⨂参考資料: ミシシッピ文化(1/4) ⨂⨁

 ミシシッピ文化( Mississippian culture)は、マウンド(塚、上に住居や墳墓などを建設するために積み上げた人工の丘)を構築したインディアン文化であり、およそ800年から1500年まで、現在のアメリカ合衆国中西部、東部および南東部に広まり、地域により様々な形態をなした。その人々は持っていた技術からみてヨーロッパの銅器時代に比定される。

    ミシシッピ文化の生活様式はミシシッピ川渓谷で発展し始めた。テネシー川渓谷支流の文化も当時のミシシッピ文化の性格を持って発展し始めた。ミシシッピ文化の遺跡とされる場所の年代は1539年(スペインの探検家エルナンド・デ・ソトが探検した年)以前に遡り、これらの遺跡ではヨーロッパ白人による遺物がほとんど見つかっていないので、この文化はほとんどすべてヨーロッパ白人との接触以前のものとされている。

文化の特徴
ミシシッピ文化を特徴づけるものとして多くの点が認識されている。ミシシッピ文化の人々が全て下記の行動をしたというわけではないが、これらの特徴の幾つかあるいは全てを採用したということで、その前の時代の人々とは区別が出来る。

1.  頂点のない断面台形のマウンド(en:platform mound)の構築。これらのマウンドの多くは正方形、長方形などの四辺形あるいは円形のものもある。構造物(住居、寺院、墳墓など)がたいていはマウンドの頂上に構築された。
2. トウモロコシを基本とした農業。ほとんどの場所でミシシッピ文化の発展は比較的大規模で集中したトウモロコシ農業の採用と時期が一致する。
3. 土器の混和材として川の(極くまれに海の)貝を用いていること。
4. 西はロッキー山脈、北は五大湖、南はメキシコ湾、東は大西洋まで交易の範囲が拡がっていること。
5. イングランドにおける古代ローマ以後、統一以前の種族に様々な点で比較できる社会構造における首長制国家(首長により治められる社会構造、 チーフダム、en:chiefdom )あるいは複雑な構造をもつさまざまな首長制国家形態の発展。
6. 制度化された社会的不平等の発展。
7. 少数もしくは一人の手に、政治的および宗教的支配権力の組み合わせの集中化。
8. 居住地域の階層化の開始。大規模なマウンド群をもつような祭祀センターは、少数のマウンドを所有していようといまいと、多くの小さな集落に明らかに影響を及ぼすか支配した。
9. 「南東部祭礼様式」、またはサザン・カルトと呼ばれるものの祭具の採用。これは現在でも知られているミシシッピ人の信仰様式である。

サザン・カルトはウィスコンシン州(アズタラン州立公園)からメキシコ湾岸、またフロリダ州からアーカンソー州やオクラホマ州にかけて発生した。これは時に、チャンキー(en:chunkey)のような儀式的ゲームに結びつけられている。
ミシシッピ人は文字体系がなく、石の建築も無かった。自然に発生している金属堆積物を加工できたが、銅や鉄を溶解して加工する冶金の技術はなかった。・・・・・・明日に続く

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=Cahokia Mounds State Historic Site=

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森のなかえ

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◎_今日の足跡が記録帖_◎ 2022/09/26(月)

2022-09-26 05:35:10 | 史蹟彷徨・紀行随筆

ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事= 平成4年09月26日 ⰧⰂⰧ

  台風災害の厄日。どれだけ厄日かというと、日本海軍の艦隊が打撃を受けたり(1935年)、青函連絡船が転覆するばかりか北海道の漁村が丸焼けになったり(1954年)、温泉で療養中のサラブレッドがエクストリーム・プール調教されたり(1958年)・・・しかし近鉄にとっては名古屋線がレベルアップするチャンスとなったラッキーな日(1959年=伊勢湾台風)だったりする。

☆   スペインの商船や植民地を略奪して周った海賊ドレークが、やりたい放題の挙句に地球を一回りしてしまった(1580年)。

☆   豪腕の破壊神が子分ともども民主党に下駄を脱いだり(2003年=民由合併)、後の森羅万象担当大臣(2006年=安倍内閣)やチンパンジー(2007年=福田内閣)が総理に就任したりと政界にとっての特異日の一つ。

Wagner: Tristan und Isolde / Act 3 - Prelude - Hirtenreigen
 

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森のなかえ

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政治力の背陰に幻覚剤入りの酒=チチャ= (5/5) ; 歴史深層(039)

2022-09-25 05:35:46 | 史蹟彷徨・紀行随筆

ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事=平成4年09月25日<ⰧⰊⰧ

☆★ ワルツの親父が死去し、大変な悲しみを訴えるあまり倅がいつも明るく元気な歌ばかり作ることになる(1849年)。☆★ 染料工場の爆発で何故か赤痢が蔓延、真相は検閲により削除(1937年=大牟田爆発赤痢事件)。☆★ 某国の親日感情への配慮から、ア〜ン♥♥風呂をこの日からソープランドと呼ぶことに(1984年)。全日本特殊浴場協会連合会が高度な政治的配慮を断行したのだそうだ。

本日記載附録(ブログ)

インカ帝国では、政府によって労働賦役が課せられていたが、その見返りとしてインカ主催の饗宴が執り行われていた。 饗宴では、織物などの他、チチャが与えられ、重宝されていた。 依って、チチャはアンデス中に最大限広がっていった。

国家による酒販売の独占形態であり、チチャの利用は、饗宴などを通して集団間の摩擦を和らげる働きがあった。 支配者には儀礼用としても非常に価値があった。 時には、幻覚剤を混ぜ、飲酒者の死的恐怖・肉体的苦痛を取り去り、催眠的暗示を施すのに用いた。

このように、チチャあるいはその原料となるトウモロコシは、アンデス文明の形成過程において、けっして欠かすことのできない重要なものであった。 それゆえ、品種改良で膨大な種類のトウモロコシが生み出された。

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 一千年前の古代ペルーを支えていたチチャ。 政治的政略・民意洗脳の酒=チチャ= …… 

◇◆  幻覚剤を混ぜた酒で人心掌握、一千年前のインカを支えていたチチャ =5/5= ◆◇

インカ以前、ワリ帝国「ビール外交」の謎を解明 /3

    米ペンシルベニア大学考古学人類学博物館の研究者で、古代のアルコール飲料に詳しいパトリック・マクガバン氏は、新たな研究成果を「科学技術を駆使して土器や植物考古学の遺物を調査しており、現代の生体分子考古学の最もよい例」になっていると評価する。

   「古代の発酵飲料が、世界各地で人間社会の中心にあったという証拠が、また1つ増えました」。マクガバン氏は、ナショナル ジオグラフィックに対してEメールで語った。同氏は、今回の研究には関わっていない。

幻覚薬も含まれていた?
 ナッシュ氏は、チチャの一部には幻覚薬が含まれていたかもしれないと話す。ワリの土器には、サン・ペドロ・サボテンやビルカの木など、幻覚作用のある植物を描いたものがあるからだ。

    今後の実験で、こうした物質も醸造所の土器に残っているかどうか調べたいとナッシュ氏は考えている。またウィリアムズ氏は、遺物のDNA分析から、ワリが醸造過程で使っていた酵母の菌株も明らかになればと期待しているという。

 なぜセロ・バウルが放棄されたのか、正確なところは専門家にも分からず、彼らはワリ帝国がどのように滅んだのか議論している段階だ。いくつかの植物考古学的証拠が示す通り、深刻な干ばつが貧困と暴力につながったのか? 

    政治的な内紛で帝国が分裂したのか? いずれにせよウィリアムズ氏は、セロ・バウルから何かしら教訓を得られるのではと考えている。巨大な政治的権力のもとでも、地域的な活力を育んでいくのが、いかに重要かということだ。

「まだ解明が必要な点の1つは、ワリの崩壊が空間的、時間的にどう進んでいったかです」とウィリアムズ氏は話す。「滅亡したのは950年ごろだったと主張する人たちもいます。

    我々が調べた最後の酒宴は1050年ごろのようです。他の地域が大きく衰退していても、一部の地域は伝統を維持できていた期間が100年ほどあったのかもしれません。逆境を跳ね返す活力を保っていて、物資を現地調達していたからです」

 最近のクラフトビール人気で古代の醸造技術ににわかに関心が寄せられても、新大陸のビール造りの伝統はやや見過ごされていると、ウィリアムズ氏は指摘する。

    そんな中、フィールド自然史博物館とシカゴのクラフトビール醸造所「オフカラーブルーイング」は、ナッシュ氏の研究を元に「ワリ・エール」を造った。コショウボクの実を使ったピンク色のエールビールが、6月にシカゴ周辺の地域で再び日の目を見る。

・・・・新企画 “謎に満ちた「ルリスタン青銅器」、誰が作ったのか” に続く・・・

⨁⨂参考資料: 古代ペルー 深紅の王墓 ⨂⨁

 ペルーの海岸近くにある遺跡「エル・カスティージョ・デ・ワルメイ」は、ここ100年ほどの間に盗掘者たちに荒らされ、広大な丘全体が穴だらけになっていた。盗掘者の目当ては、埋葬された遺骸が身に着けた黄金の装飾品や上質な織物だ。

 首都リマから北へ車で4時間ほどの場所にある遺跡の丘には、古代の人骨や現代のごみが散らばり、荒涼とした風景が広がっている。その発掘は困難で、時間と金の浪費に終わるだけだろうと、多くの人が忠告した。だが、考古学者ミリオシュ・ギエルシュは断念する気などなかった。

 ポーランドのワルシャワ大学でアンデス考古学を教えているギエルシュは36歳。かつてペルーで繁栄したワリ文化の織物や土器の破片がこの丘で見つかっていたことから、「1200年前に、エル・カスティージョで何か重要なことが起きていた」と確信していた。

 ワリ文化の中心地はエル・カスティージョよりはるか南にあった。ワリの人々は、現在のアヤクチョ市の近くに広大な都を建設し、最盛期には人口4万人を擁していた。同時代に人口2万人弱だったパリをはるかに上回る規模だ。ワリの支配層はこの都を拠点に領土を広げていった。ワリこそが南米アンデス地方に生まれた最初の帝国であると、多くの考古学者は考えている。

最新機器がつきとめた王族の墓

 ギエルシュの調査隊は、磁力計を使って地下構造物の形状を探り、凧に装着したカメラで一帯を空から撮影した。すると、長年にわたって墓泥棒たちが見落としていたものが浮かび上がってきた。南の岩山の尾根沿いに埋まっている壁の、かすかな輪郭だ。

 迷路のように複雑かつ大規模な構造が、エル・カスティージョの南端に不規則に広がっていた。祖先崇拝のための神殿だったらしく、もともとの外壁は深紅に塗られている。ギエルシュ率いるポーランドとペルーの合同調査隊は、発掘の許可を申請した。

 2012年秋に、驚くべきものが発見された。未盗掘の王族の墓だ。ワリ帝国の王妃あるいは王女の遺体が計4体、貴族の遺体が少なくとも54体、そして大きな金の耳飾り、銀製の器、銅合金の斧など、一流の細工が施された遺物1000点以上が埋葬されていた。

「ここ数年間で最も重要な発見です」と、リマ美術館の学芸員セシリア・パルド・グラウは語る。出土品は、ワリ帝国とその裕福な支配階級の謎を解明する新たな鍵となる。

 ワリは8世紀の終わり頃、エル・カスティージョのある沿岸部に攻め込んだと推測される。エル・カスティージョの遺跡からは、長柄の斧を振り回すワリの戦士たちと、投槍器を使って応戦する沿岸部の人々を描いた儀式用の酒杯が出土している。

 激しい戦いの末に、この土地を征したのはワリだった。新たな支配者はエル・カスティージョの丘の麓に宮殿を建設。その後、自分たちの祖先を祭るために、急峻な斜面を利用して、高くそびえる深紅の神殿を建設していったのだ。

 ワリ帝国が広大な領土をどのように手に入れ、抵抗勢力を統治したのかは長年の謎だった。文字をもたなかったワリには歴史の記録が残っていない。だが都から約850キロ離れた、ここエル・カスティージョで発見された豊富な出土品によって、徐々にその空白は埋まりつつある。

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政治力の背陰に幻覚剤入りの酒=チチャ= (4/5) ; 歴史深層(038)

2022-09-24 05:35:46 | 史蹟彷徨・紀行随筆

ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事=平成4年09月24日<ⰧⰊⰧ

☆★ お掃除のおじさんやおばさんが掃除大臣として尊敬される日。もしかして今日は…清掃の日。そして、この日から10月1日までの1週間が環境衛生週間と暇を持て余す環境省が……☆★ 西郷隆盛が、もう、この辺でよか・・・と自分で起こした戦争を集団自決で幕引きさせる(1877年=西南戦争: 城山の戦い)。☆★ 藤沢市でグライダーが使ってたりしていた飛行場に米軍機がハプニングゲストとして着陸、現場は大騒ぎとなったがマスコミの報道はお察し下さい(1959年=TAI307便墜落事故)。

本日記載附録(ブログ)

インカ帝国では、政府によって労働賦役が課せられていたが、その見返りとしてインカ主催の饗宴が執り行われていた。 饗宴では、織物などの他、チチャが与えられ、重宝されていた。 依って、チチャはアンデス中に最大限広がっていった。

国家による酒販売の独占形態であり、チチャの利用は、饗宴などを通して集団間の摩擦を和らげる働きがあった。 支配者には儀礼用としても非常に価値があった。 時には、幻覚剤を混ぜ、飲酒者の死的恐怖・肉体的苦痛を取り去り、催眠的暗示を施すのに用いた。

このように、チチャあるいはその原料となるトウモロコシは、アンデス文明の形成過程において、けっして欠かすことのできない重要なものであった。 それゆえ、品種改良で膨大な種類のトウモロコシが生み出された。

【この企画はWebナショジオ】を基調に編纂(文責 & イラスト・資料編纂=涯 如水)

 一千年前の古代ペルーを支えていたチチャ。 政治的政略・民意洗脳の酒=チチャ= …… 

◇◆  幻覚剤を混ぜた酒で人心掌握、一千年前のインカを支えていたチチャ =4/5= ◆◇

インカ以前、ワリ帝国「ビール外交」の謎を解明 /2

  「ワリ帝国は、セロ・バウルに来るさまざまな集団をまとめようとしていたことが分かります。その方法の1つと思われるのが、地元産のビールを振る舞った大きな宴会です」。論文の筆頭著者で、米シカゴのフィールド自然史博物館で人類学部門を率いているライアン・ウィリアムズ氏はこう話す。

 ウィリアムズ氏らは、セロ・バウルの醸造所で一度に生産できたチチャを1500~2000リットル以上と推定している。工業化以前の社会の醸造所としては、かなりの量だ。チチャは傷むのが早く5日程度しかもたないことを考えると、山上の宴会には、数百人を超す指導者たちが招待されていた可能性がある。

 今回、研究者たちは、こうした宴会用の物資がどのように生産されたか解明しようとした。醸造や飲用に使われ、ワリ文化の神々の姿に似せた土器は、遠く離れた都のワリで見つかった物に似ていた。だが、粉々に砕けた土器の化学分析から、セロ・バウルの杯は現地で作られ、粘土も地元産であることが分かった。

  「このような質の良い酒器は、よそから持ち込まれたものだろうと予想していました。しかし実際には、彼らはこの辺境の地で、ワリの生活様式を丸ごと保っていました」とウィリアムズ氏は話した。「実に興味深いです。このように遠く離れた地方が、中央集権的な資源に依存せず、長期にわたって活力を保っていたことを物語っているからです」

古代の酒造りを再現
 古代の土器から、チチャの残留物も採取できた。研究者たちは、ワリの人々が醸造に使っていた材料を明らかにしようと、自らチチャ造りに挑戦。この地域では今もチチャがよく飲まれていることから、近くのアンデスの麓に住む、醸造方法を知る女性の助けを借りた。

   「これらの痕跡が何なのかを、実験せずに特定するのは非常に困難です」と話すのは、論文の共著者で、米ノースカロライナ大学グリーンズボロ校の考古学教授ドナ・ナッシュ氏だ。チチャ造りを1回再現するのに、始めから終わりまで1カ月かかった。できる限り実際のプロセスに近づけるため、材料を煮て発酵させるのに土器のつぼを使い、ラマのふんを燃料に使った。

 この実験で、セロ・バウルのチチャはトウモロコシと、現地に豊富にあるコショウボクの実から造られていたことが、初めて確認された。ピンク色のコショウボクの実は、繊細だが濃い味をチチャに与える。

    ウィリアムズ氏とナッシュ氏によれば、酒がコショウのような味にならないよう、正しい醸造プロセスで造るのが難しかったという。コショウボクの木は、干ばつにとても強い。そのため、水を大量に消費する作物であるトウモロコシが手に入らない時でも、ワリの人々はビールの供給を維持できたのだろう。

・・・・・・明日に続く・・・

⨁⨂参考資料: ワリ文化の霊廟と財宝を発見、ペルー (2/2) ⨂⨁

    首都リマから北へ車で4時間、ウアルメイ遺跡での新発見が、数々の謎を解くカギになるかもしれない。面積約45ヘクタールの遺跡は何十年もの間、墓荒らしによって断続的に掘り返されてきたが、ギェルシュ氏は地下深くに霊廟が隠されていると推測していた。

    2010年1月、数人のチームを結成し、航空写真と電磁波地中レーダーを使って精査を開始。日干しれんが造りの2大ピラミッドに挟まれた地中に、かすかな輪郭を見いだす。地上は隆起しており、もしかすると地下霊廟かもしれない。

 隆起は、墓荒らしが長年投げ捨てた瓦礫が積み重なったためと判明。2012年9月、チームが瓦礫を掘り起こすと、石の王座をいだく古代の儀式用の部屋が現れた。さらに掘り進めると、30トン分の軽石で覆われた大きな部屋にたどり着く。勢い込んだギェルシュ氏らはついに、大きな木彫りの杖を探り当てた。「墓を示すマークだ。霊廟の主室に違いない」。

 埋められた財宝
 軽石を注意深く取り除くと、座った状態で埋められた遺体が何列も見つかった。体を包む布がかろうじて残っている。隣接している3つの小さな部屋には、ワリ帝国の3人の女王の遺体が横たわり、純金製の織物道具などの貴重な副葬品が多数並んでいた。

   「ファーストレディーたちは宮廷で何をしていたと思う? 金の道具で布地を織っていたんだよ」。プロジェクトの科学顧問を務める考古学者クリシュトフ・マコフスキー・ハヌラ(Krzysztof Makowski Hanula)氏は語った。

 大量の財宝はこれだけではない。金銀細工の耳飾り、銀製のボウル、青銅の儀式用の斧、珍しいアラバスター(雪花石膏)製のカップ、ナイフ、コカの葉を入れる箱、各地のアンデス文化で見られる鮮やかな彩色の陶磁器など、お宝の数々。「こんな経験は初めて。王室の墓が無傷の状態で見つかるとは」とギェルシュ氏は興奮を隠せない。

 同氏のチームは、今後8~10年かけて遺跡の発掘を進め、霊廟やまだ地下に埋もれているほかの部屋を調査する予定だ。 / Photograph by Milosz Giersz

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政治力の背陰に幻覚剤入りの酒=チチャ= (3/5); 歴史深層(037)

2022-09-23 05:35:36 | 史蹟彷徨・紀行随筆

ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事=平成4年09月23日<ⰧⰊⰧ

☆★ 京都市下京区にて花札屋が店開き(1889年)、100年経つと何故かファミコンの会社になっていた次第。創業者は山内房治郎。☆★ VIP満載の特急列車が、集中豪雨で宙吊りとなった線路に突入して脱線転覆(1926年)。山陽本線特急列車脱線事故。☆★ 頭の固い百科事典によると、秋はこの日から始まるそうだ。即ち、秋分。なぜか、国民の祝日の一つ。

本日記載附録(ブログ)

インカ帝国では、政府によって労働賦役が課せられていたが、その見返りとしてインカ主催の饗宴が執り行われていた。 饗宴では、織物などの他、チチャが与えられ、重宝されていた。 依って、チチャはアンデス中に最大限広がっていった。

国家による酒販売の独占形態であり、チチャの利用は、饗宴などを通して集団間の摩擦を和らげる働きがあった。 支配者には儀礼用としても非常に価値があった。 時には、幻覚剤を混ぜ、飲酒者の死的恐怖・肉体的苦痛を取り去り、催眠的暗示を施すのに用いた。

このように、チチャあるいはその原料となるトウモロコシは、アンデス文明の形成過程において、けっして欠かすことのできない重要なものであった。 それゆえ、品種改良で膨大な種類のトウモロコシが生み出された。

【この企画はWebナショジオ】を基調に編纂(文責 & イラスト・資料編纂=涯 如水)

 一千年前の古代ペルーを支えていたチチャ。 政治的政略・民意洗脳の酒=チチャ= …… 

◇◆  幻覚剤を混ぜた酒で人心掌握、一千年前のインカを支えていたチチャ =3/5= ◆◇

インカ以前、ワリ帝国「ビール外交」の謎を解明 /1

  現在のペルーに位置するセロ・バウルは、古代アンデスで最初の帝国と言われる「ワリ」の最南端に作られた、辺境の入植地だった。急峻な山の上に位置し、天然の水源はなく、実用性に乏しい場所だったが、紀元1050年ごろまでのおよそ4世紀にわたり、ぜいたくな饗宴が催されていた。

 宴会を開いたのはワリ帝国の有力者たちだ。招かれた客は、隣国ティワナクのライバルや、ワリとティワナクという2大帝国に脅かされていた小さな村々の長たちだった。

    彼らはモケグア渓谷の景色を楽しみながら、テンジクネズミ、ラマ、魚料理を味わい、古代アンデス発祥のビールであるチチャを酌み交わした。トウモロコシとコショウボクの実を発酵させて作る酒である。

 だが、ワリ帝国が崩壊しつつあった950年余り前に、酒盛りを楽しんだ者たちは、自らお祭り騒ぎに終止符を打つ。

 このとき、ワリ帝国の人々は辺境の入植地から避難するつもりだったらしく、すでに神殿と宮殿を取り壊していた。最後に壊されたのが醸造所だった。彼らは建物に火をつけ、焼け落ちるのを眺めた。ワリの貴族たちはチチャを飲み干し、大事にしてきた杯を火に投げ入れた。

    醸造所が灰になると、何人かが首飾りを外し、最後の供物として残り火の中に置いた。誰もこの建物を二度と使えないよう、廃墟を砂で覆った。こうして醸造所は、20年前からチチャ造りの中心地を発掘している考古学者たちにとって、貴重な「タイムカプセル」となった。

 研究者たちはこのほど、セロ・バウルでの最後の宴で使われた土器を分析。研究結果が4月18日付けで学術誌「サステイナビリティ」に掲載された。それによると、この国境付近の入植地で、帝国が滅ぶ寸前までそれほどの宴会を続けていられたのは、醸造も酒器作りも地元の材料を使っていたおかげだという。

一度に1500~2000リットルを生産
 紀元600年ごろから1050年ごろにかけて、ペルー沿岸とアンデス山脈の広い範囲を支配したワリ帝国。インカ帝国が力を持つずっと前に、大規模な道路網とかんがい用水路網を作り上げたワリの人々にとって、セロ・バウルは政治的に重要な場所だった。

    外交の中心だったこの地は、帝国の都ワリから南東へ徒歩で2~3週間かかるところにあった。そして、セロ・バウルの神殿の中には、ライバルを取り込もうと、隣国ティワナクの神々を祭ったものもあった。

・・・・・・明日に続く・・・

⨁⨂参考資料: ワリ文化の霊廟と財宝を発見、ペルー (1/2) ⨂⨁

    南米ペルーのエル・カスティーリョ・デ・ウアルメイ(El Castillo de Huarmey)遺跡で、未盗掘の王族の墓が発見された。西暦700~1000年頃に南アメリカに最初の帝国を建設した古代文明、「ワリ文化」の霊廟と考えられている。

    しかし、薄暗い埋葬室で黄金の輝きを目にしたポーランド、ワルシャワ大学の考古学者ミロシュ・ギェルシュ(Milosz Giersz)氏は素直に喜べなかった。「ニュースが漏れたら、略奪者が大挙して押し寄せる」。

    ギェルシュ氏はすぐにそう危惧したという。ポーランド・ペルー合同チームが発見した1200年前の「死者の殿堂」には、貴重な金銀の財宝が溢れかえっていたのだ。

 ギェルシュ氏とプロジェクト共同責任者のロベルト・ピメンテル・ニタ(Roberto Pimentel Nita)氏は公表を思いとどまり、密かに埋葬室の1つを数カ月間掘り進めた。

    チームが掘り当てたのは、精巧な金銀の宝飾品、青銅製の斧、純金の道具など、工芸品1000点以上におよび、ワリ文化の3人の女王や60体分の遺骨も収集した。一部は人間の生贄だったと見られる。

 6月27日、ペルーの文化相や高官が現地で記者発表を行った。この調査は、ナショナル ジオグラフィック・グローバル探検基金と探査協議会が支援している。

見過ごされた帝国
 ワリ文化は長い間、後代のインカ文明の影に隠れていた。インカ文明の繁栄についてはスペイン人征服者が幅広く記録を残しているが、実際のワリの支配体制の詳細は未だ不明である。

    現在のペルーの大部分に広がる帝国を、8~9世紀に築いていたことはわかっている。アンデス山脈の首都ウアリは当時、世界最大の都市の1つだった。ウアリの全盛期の人口は控えめに推定しても約4万人。一方、フランク王国のパリは、わずか2万5000人に留まっていた。

 彼らはどのように帝国を築いたのだろう? 力ずくで周囲を征服したのか、それとも交渉で説得したのか。一方で、ワリの精巧な工芸品は略奪者の格好の標的となり、帝国の宮殿や神殿の遺物は荒らし尽くされている。重要な考古学情報の破壊が止まらず、さまざまな謎が残されたままとなっていた。 ・・・・・・明日に続く

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政治力の背陰に幻覚剤入りの酒=チチャ= (2/5) ; 歴史深層(036)

2022-09-22 05:35:37 | 史蹟彷徨・紀行随筆

ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事=平成4年09月22日<ⰧⰊⰧ

☆★ うまいこと大金ゲットしたはずなのに、パクられちまったZE!!! Oh!!Mistake...(1950年)。=少年が給料を強奪し、愛人と逃走するも2日後に逮捕(日大・オー・ミステーク事件)=☆★ 日光猿軍団の夢と東照大権現の御利益を載せた特急列車「けごん」が運行開始(1951年)。☆★ 天皇陛下におかせられましては本日手術に臨まれましたものの、本当の御病状を申し上げるには畏れ多く膵臓の病気であると陛下に申し上げ奉りました(1987年)。

本日記載附録(ブログ)

インカ帝国では、政府によって労働賦役が課せられていたが、その見返りとしてインカ主催の饗宴が執り行われていた。 饗宴では、織物などの他、チチャが与えられ、重宝されていた。 依って、チチャはアンデス中に最大限広がっていった。

国家による酒販売の独占形態であり、チチャの利用は、饗宴などを通して集団間の摩擦を和らげる働きがあった。 支配者には儀礼用としても非常に価値があった。 時には、幻覚剤を混ぜ、飲酒者の死的恐怖・肉体的苦痛を取り去り、催眠的暗示を施すのに用いた。

このように、チチャあるいはその原料となるトウモロコシは、アンデス文明の形成過程において、けっして欠かすことのできない重要なものであった。 それゆえ、品種改良で膨大な種類のトウモロコシが生み出された。

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 一千年前の古代ペルーを支えていたチチャ。 政治的政略・民意洗脳の酒=チチャ= …… 

◇◆  幻覚剤を混ぜた酒で人心掌握、一千年前のインカを支えていたチチャ =2/5= ◆◇

「離脱体験」
 アマゾン伝統の幻覚剤アヤフアスカと同様に、ビルカは鮮やかな体外離脱体験をもたらす。口から摂取するとその作用がかなり弱くなるので、通常は種子をいぶしたり、すりつぶして嗅ぎ薬にしたりする。だが、すりつぶしたビルカの種子をコショウボクのチチャに加え、双方の幻覚作用をもっと長続きさせるという発想には化学的な根拠があるとジェニングス氏は話している。

    「このチチャを飲むと、ある程度の幻覚や幽体離脱を体験することができます。ただしゆっくりと穏やかで、あまり過激ではありません。どこかに行くような体験や幻覚が生じますが、皆と一緒に行く感覚なのです」

 チチャに使用するコショウボクはキルカパンパの近くに生育していたが、ビルカの種子は、アンデス山脈の東側の山腹から入手しなければならなかった。つまり、キルカパンパにあったワリ族の村はこの地方の活気ある交流拠点で、効果抜群なチチャはこの村の特産だったかもしれない。ワリ文化の酒器に、特徴的な実をつけたビルカの木がたびたび描かれているのも、当然だろう。

 米ミルサップス大学の人類考古学者べロニク・ベリスレ氏は、今回のキルカパンパの調査には関わっていないが、古代ペルーにおける幻覚剤の使用について研究してきた。同氏によれば、ワリ帝国ではチチャにビルカを加えて飲んでいたと長く考えられてきたが、今まで考古学上の裏付けがなかった。

    「ワリ族の入植者たちが宴会を開き、ビルカを混ぜたチチャを客にふるまっていたことが、今回の研究で明らかになり、アンデス山脈の考古学に重要な進展をもたらしました」と、ベリスレ氏は言う。

    しかしながら、すべての考古学者がこの説に納得しているわけではない。米シカゴのフィールド博物館の学芸員、ライアン・ウィリアムズ氏は、160キロほど南東のセロ・バウルで、ワリ族の儀式拠点の遺跡を発掘した研究者だ。

    今回の論文の仮説は「興味深い」ものの、ビルカとチチャを混ぜて飲んだという証拠が見つかっていないと指摘している。ウィリアムズ氏は、セロ・バウルで見つかったコショウボクを用いた古代の醸造所でワタの種子が発見されたことに触れ、「でも、私たちは、ワリの人々がワタを(チチャに入れて)飲んでいたとは言いません」と述べている。

 確かに、キルカパンパの人々がコショウボクのチチャにビルカを混ぜたという直接の証拠はない。同じ場所でこの2つが見つかっただけだ。ジェニングス氏も、こうした点については認めている。「残念ながら、決定的な証拠はありません」。

    今後の調査では、ワリ文化のカップや酒器に残っているチチャの残留物にビルカの痕跡がないか調べる予定だ。「ビルカとコショウボクが同じ酒器に入っていた確証を得るために、ぜひ調査を実施したいと考えています」と、ジェニングス氏は意欲を燃やしている。 文=TOM METCALFE/訳=稲永浩子

・・・・・次回は”インカ以前、ワリ帝国「ビール外交」の謎を解明”に続く・・・

⨁⨂参考資料: ワリ (2/2) ⨂⨁

ワリ文化では、自らの領域内に、アンデスでは数少ない黒曜石の産地を数カ所持っていたので、多少は利用されていたようである。例えば、アレキパ県にあるAlcaやChivay付近、クスコ県の山間部では黒曜石を産出するため、その交易がワリ期に広範囲にわたって行われていたことが分かってきている。

ティワナク遺跡やその周辺遺跡から出土する黒曜石のほとんどが、このワリ文化圏から移入されていたと言われているが、実際のティワナク関連遺跡からの出土総数は極めて少なく、石鏃などの一部に利用されているにすぎない。

ティワナク文化ではむしろ黒色玄武岩などが珍重され、この石材はプーマをかたどった彫像など特殊な彫像などのために利用されている。ワリ文化では、特にワリ遺跡の中心部などでも、尖頭器(槍先)が出土しており、威信財として用いられていた可能性があるが、正式な調査はなされていない。また、チャートなど在地の石材が主に日常生活の利器には利用されていた。

ティワナク
ワリが栄えた時代には、現在のボリビア共和国にティワナクと呼ばれる文化が栄えていたことが確認されている。おそらくこのティワナク社会はかなり複雑な国家レベルの政治組織を持つ社会であっただろうと言われている。

かつて、ワリはティワナコイデあるいは海岸ティアワナコとよばれていたが、現在ではティワナクとは異なった政治組織および文化であることがわかったため、ワリと呼ぶようになった。

ワリとティワナクの境界はおおよそモケグア県あたりであったといわれている。モケグアには、ワリの地方遺跡であるセロ・バウルとティワナク政体の飛び地であるオモ遺跡群がある。これらは、それぞれ立地条件が異なっており、セロ・バウルが山の頂に、オモ遺跡群がモケグア川の近く谷底周辺に立地する。両者の具体的な関係はわかっていないが、このように棲み分けがなされていたことは注目に値する。

また、ワリ遺跡ではティワナク様式の土器などが散見されるが、ティワナク遺跡ではワリ文化の遺物が発見されることはほとんどない。

ワリとインカ

ワリの滅亡後、300年が経過すると、インカ帝国が成立する。ワリの支配の方法はインカ帝国にも受け継がれたといわれており、さまざまな面で影響を与えているといわれている。たとえば、インカ帝国全土に広がる道路網はワリ帝国の時代に基礎が築かれている。また、ワリの王統がインカに継承されているとも言われており、口承で残っている。

さらに、インカ期に用いられたキープ(結縄)と呼ばれる縄の結び目を利用した文字の代替用具が、ワリ期にすでに存在したとも言われている。さらに、インカの宿敵であったチャンカは、アヤクーチョが起源といわれている。

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政治力の背陰に幻覚剤入りの酒=チチャ= (1/5) ; 歴史深層(035)

2022-09-21 05:35:52 | 史蹟彷徨・紀行随筆

ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事=平成4年09月21日<ⰧⰊⰧ

☆★ 1897年 - 『ニューヨーク・サン』に社説「サンタクロースっているんでしょうか?」が掲載される。☆★ 国技館の土俵の屋根を支える柱が無くなり、空中浮揚し始める(1952年)。☆★ こち亀連載開始(1976年)。連載初期から現実の警察官とは乖離していた。どっちが警察官としてふさわしいかはお察しください。

本日記載附録(ブログ)

インカ帝国では、政府によって労働賦役が課せられていたが、その見返りとしてインカ主催の饗宴が執り行われていた。 饗宴では、織物などの他、チチャが与えられ、重宝されていた。 依って、チチャはアンデス中に最大限広がっていった。

国家による酒販売の独占形態であり、チチャの利用は、饗宴などを通して集団間の摩擦を和らげる働きがあった。 支配者には儀礼用としても非常に価値があった。 時には、幻覚剤を混ぜ、飲酒者の死的恐怖・肉体的苦痛を取り去り、催眠的暗示を施すのに用いた。

このように、チチャあるいはその原料となるトウモロコシは、アンデス文明の形成過程において、けっして欠かすことのできない重要なものであった。  それゆえ、品種改良で膨大な種類のトウモロコシが生み出された。

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  一千年前の古代ペルーを支えていたチチャ。 政治的政略・民意洗脳の酒=チチャ=  …… 

◇◆  幻覚剤を混ぜた酒で人心掌握、一千年前のインカを支えていたチチャ =1/5= ◆◇

    幻覚剤を混ぜたアルコール飲料が生む友好的でくつろいだ感情が、1000年以上前の南米に栄えた帝国を支えていたかもしれない。そんな論文が1月12日付けで学術誌「Antiquity」に発表された。

 南米のアンデス地方には、今に伝わる「チチャ」というビールに似た飲み物がある。このチチャがワリ帝国の文化で果たした役割は、以前から考古学界で認識されていた。ワリ帝国は、西暦600年から1000年頃まで、ペルー沿岸部とアンデス山脈南部の大半を支配していた国家だ。

    この国の権力者たちは、近隣の有力者を招いて盛大な宴会を開き、チチャをふるまって政治・経済面での連携を強化していた。

 今回、ワリの「醸造所」で幻覚作用がある植物の残留物が発見されたことから、ワリの政治力をさらに強化するために、アルコールと幻覚剤という2つの作用が使われていた可能性が示唆された。

 この残留物が発見されたのはペルー南部、ワリ族の村があったキルカパンパ。このあたりは非常に乾燥した地域で、村が放棄される9世紀後半までの食生活の残留物が今日まで残されている。現場で考古学者たちは、1100年前のイモ、キヌア、ピーナッツに加え、驚くほど大量のベリーのような果実を発見した。

    これはコショウボク(Schinus molle)の実で、ワリ帝国では、アルコール度5%ほどのチチャを醸造する際、頻繁に使用されていた。

 ところがキルカパンパでは、チチャを造るためにコショウボクの実を水に浸したり煮たりした残留物から、向精神作用があるビルカ(Anadenanthera colubrina)の種子が見つかった。

    論文の筆頭著者であるジャスティン・ジェニングス氏によれば、古代の南米でビルカが幻覚剤として使用されていた事実は考古学的証拠によって確認されているが、ビルカの使用は通常、政界や宗教界の有力者に限られていた。同氏は、ナショナル ジオグラフィックのエクスプローラーで、カナダのロイヤル・オンタリオ博物館の考古学者。ナショナル ジオグラフィックは、今回の調査を支援している。

 9世紀半ば、北方にあったワリ帝国の中心地から、少数の家族がキルカパンパに移住してきた。この地方でワリ族以外のコミュニティーと新たな同盟関係を強化するために、彼らがビルカとチチャを併用する慣習を持ちこんだ可能性がある。

    そして、キルカパンパの人々が新天地で新たな友好関係を築く上でビルカとチチャの併用が有効だったとすれば、これが、ワリ帝国の政治力強化を支えていた可能性がある。
「おそらく『ビルカとチチャを合わせよう。混ぜ合わせて回し飲みすれば、皆で同じ体験ができる』という流れだったのでしょう」とジェニングス氏は言う。

          ・・次回は“政治力の陰に幻覚剤入りの酒”に続く・・・

⨁⨂参考資料: ワリ (1/2) ⨂⨁

ワリ(Huari)は、西暦500年~900年ごろアンデス中央高地で繁栄したプレ・インカの文化。ワリの都は、現在のペルー、アヤクーチョ県にあったといわれている。ワリ遺跡へ行く際は、アヤクーチョ市から観光ツアーが出ているのでそれを利用するのも良いが、キヌア(Quinua)(村の名前)行きのバスも遺跡の近くを通るため、利用可能である。

ワリ文化の起源は、はっきりとはわかっていない。ただし、この地域にはワリ以前にワルパと呼ばれる地方文化があったことがわかっている。

ワリは、現在のペルー沿岸部と高地部分全体に版図が広がっていたといわれているが、太平洋沿岸部におけるワリの支配が実際にどのようであったのかは、リマ近郊やナスカ地方の一部を除けば、確実なことはほとんどわかっていない。ペルー北海岸にあったモチェ文化圏との接触は様々議論されている。

かつてはワリの進入がモチェ政体の衰退を促したことが議論されていたが、現在ではこの説を否定する研究者が多い。また、ほぼ同じ時期に、アンデス中央高地南部にある現在のボリビア北部ではティワナク文化が栄えていた。

ワリでは、各地を支配するためのすぐれた建築物を多数配しており、現在のペルー共和国北部にあるワマチューコ市郊外のビラコチャパンパ遺跡や、南部のクスコ県にあるピキリャクタ遺跡は有名である。

壁を二重に巡らした、長方形の部屋状構造物を特徴とするこのワリの建築群は、ワリの支配の一つの指標として議論されているが、実際には、地域によって差が見られ、地域によっては土着の政治組織を覆うような形で支配をしていたことを示すものもあるという。

ワリ期には、壁の下に埋葬が伴われることがあった。これはアヤクーチョのワリ遺跡でも見られるし、また、クスコ郊外のピキリャクタでも見つかっている。ピキリャクタの人骨の中には、頭蓋変形が施されたものもある。

D字型をした広場を持つ建造物は、ワリ文化の建築群の特徴の一つで、儀礼の場であろうと解釈されている。ワリ本拠地やいくつかのワリの地方遺跡の中には、地下式建造物をもつものがあり、地下数メートルにまでおよぶ複雑な構造をなしている。

ワリ文化に代表される考古学遺物のうち、大型のカメやケーロと呼ばれるコップ状の土器は有名である。ワリ文化では、トウモロコシ酒(チチャ)を用いた儀礼活動が盛んに行われていたとされており、その儀礼が執り行われた後、土器を壊して土中に埋める儀礼が行われていたとされている。カメには人物像や作物などが描かれている。

ワリ期の織物も海岸地域で複数見つかっており、そこにはティワナク文化やプカラ文化と共通する「杖をもった神」の図像が描かれている。描かれるモチーフは同じものが多いが、描かれ方がこれらの文化とは若干異なっている。ティワナク文化の同じ図像に比べ、ワリ文化の図像は、ティワナクの図像とは異なった様式化がされている。これは土器に描かれている図像も同じである。

ワリ期に利用されていた帽子も見つかっており、おそらく権力者が利用していたものであろうとされているが、その特徴は4つの角を持ち上部が平らな物である。これと似たような帽子はティワナク文化でも利用されていたと言われている。

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森のなかえ

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◎_今日の足跡が記録帖_◎ 2022/09/20(火)

2022-09-20 05:35:54 | 史蹟彷徨・紀行随筆

ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事= 平成4年09月20日 ⰧⰂⰧ

  富岡八幡宮の祭礼に詰め掛けた群衆の重みで永代橋が崩落、永遠にもつどころかボロ橋であったことが露呈(1807年)。

  京都市バスが運行開始。運転士の月給は300円であり、当初より知事より裕福な利権エリート専門職として認知されていた(1903年)。

  野蛮な鬼畜米英の圧制によりわが国の美徳は言論弾圧を受け、墨塗り教科書として闇へ葬られた(1945年)。=生徒に墨で塗りつぶさせる「墨塗り教科書」=

Wagner: Tristan und Isolde, WWV 90 - Prelude
 

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最古の造形; 旧石器時代の「謎のビーナス」=(3/3); 歴史深層(034)

2022-09-19 05:35:00 | 史蹟彷徨・紀行随筆

ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事=平成4年09月19日<ⰧⰊⰧ

☆★ やんごとなき方々には関係ないことだが、ここを見ているあなたの名字は、この日から使われだした可能性が極めて高い。1870年に閣議決定した「平民苗字許可令」より。☆★ 故郷に戻っていたチャールズ・チャップリンが、“赤狩り”にあい仕事場から叩き出される(1952年)。『ライムライト』がアメリカ法務長官の……☆★ 昭和天皇が大量吐血して病臥(1988年)。これによって「お元気ですか?」も検閲される自粛ムードが吹き荒れ、「Xデー」の到来を予感させた。

本日記載附録(ブログ)

現在ではクロマニョン人を、現世人類と合わせて解剖学的現代人 (AMH) と呼ぶ。ネアンデルタール人を旧人と呼ぶのに対し新人と呼ぶこともある。

ホーレ・フェルスのヴィーナスは2008年にドイツのシェルクリンゲン近郊で発見された後期旧石器時代のヴィーナス小像。初期オーリニャック文化でつくられたと考えられ、年代的にはおよそ3万5千年から4万年ほど前にあたる。

おそらくヨーロッパにかつて分布した新人であるクロマニヨン人の姿である。疑いようもなく旧石器時代では最古の美術品であり、あるいはより一般的な先史時代の造形美術としても最も古い。

【この企画はWebナショジオ】を基調に編纂(文責 & イラスト・資料編纂=涯 如水)

旧石器時代の謎の女性像「ビーナス」、何のために作られた?……

◇◆ 謎の女性像「ビーナス」、儀式の道具それとも玩具か!!? =3/3= ◆◇

解釈と論争
 19世紀に初めて発見されて以来、ビーナス像の機能と意味については熱い論争が続いている。旧石器時代の人々は文字記録を残さなかったので、学者たちは考古学的な記録に頼って様々な仮説を立ててきた。この種の証拠は解釈の幅が広いため、学者間の一致した見解がなかなか得られない。

「ビーナス」という呼び名も、時代錯誤という批判や(ビーナスが崇拝されるのはローマ時代になってからだ)、旧石器時代の女性像がローマのビーナス像と同じ役割を果たしていたと示唆してしまうので不適切だという批判がある。ビーナス像という名称は一般に定着しているが、学者たちは今後も使用を続けるべきかどうかについて議論している。

 これらの像の機能と意味について、最も古くからある仮説のひとつは、出産と生殖を司る女神として豊穣の儀式に使用されたという説だ。もしそうだとすれば、広くヨーロッパとアジアにおいて、豊穣と母性は芸術として表現するほど高い価値を置かれていたということになる。

  写実的で特定の人物をモチーフにした表現ではなく、大まかで自然主義的であることから、儀式や記念のために作られたのではないかとする研究者もいる。女性像は、生者の世界と死者の世界をつなぐ役割を担っていたのかもしれない。あるいは、儀式用具として超自然的な力を持つと信じられ、シャーマンやヒーラーが使用していたとする説もある。

 一方で、宗教的あるいは神秘的なものではなく、より日常的な役割があった可能性もある。エロティックなものだったいう説から、子どものおもちゃだったという説まで、解釈は様々だ。もちろん、出土した地域も時代も広範囲にわたるので、作られた目的はそれぞれの場所や時代で異なる可能性もある。

 最近では、一部の像は女性が自分の体を見下ろすような視点で作った自刻像ではないかとの説もあり、議論を呼んでいる。今後、研究が進み、新たな発見があれば、さらに新しい仮説が登場することだろう。

旧石器時代の過酷な現実を反映?
 豊かな曲線、大きな乳房、膨らんだ腹部から、多くの研究者は像を生殖と結びつけてきた。現代の狩猟採集社会における出生率や人口統計に関する研究に基づけば、40歳まで健康な状態にある女性は平均して6~7人の子供を産んでいる可能性が高い。だが旧石器時代には、乳幼児や子供の死亡率はもっと高かった。

 正確な数字を出すのは難しいが、いくつかの研究では、およそ28%の子どもが生後1年以内に死亡したと推定されている。また、乳幼児の死亡率に加え、出産の途中や直後に死亡する女性の割合もかなり高かったと推定される。人口を維持するのは大変なことだったのだ。

 ビーナス像を研究する学者たちは、こうした当時の過酷な現実を踏まえ、丸みを帯びたたくましい姿は、その豊かな肉体で集団が永続する可能性を高めてくれる健康な母親を表していたのではないかと考えている。旧石器時代の人々は、栄養状態の良い女性は厳しい妊娠と出産を乗り切り、栄養状態の良い新生児を産む可能性が高いと信じていたのかもしれない。

 しかし、こうした仮説にうまく当てはまらない像もある。ロシアやシベリアで発見された約1万7000年前の女性像は、明らかに異なっているのだ。西ヨーロッパで見つかった像と同じく、顔立ちのはっきりしない裸体像だが、体はスリムで、性的な特徴はあまり目立たない。これらの集団は、人口維持への不安が少なく、より安定していたのではないかと考える学者もいる。

 旧石器時代に男性よりも女性を表現した作品が多かったことは、当時の狩猟採集社会における女性の社会的重要性を浮き彫りにしている。また、南フランスからシベリアに至る旧石器時代の広い地域で、少なくとも2万年以上にわたって多くの様式的特徴を共有する女性像が彫られていたのは驚くべきことだ。旧石器時代には、女性の価値に関する共通の観念が深く根付いていたことが示唆される。
文=EDITORS OF NATIONAL GEOGRAPHIC/訳=桜木敬子

次回は“政治力の陰に幻覚剤入りの酒”に続く・・・

⨁⨂参考資料: シュヴァーベンジュラにある洞窟群と氷河期の芸術 ⨂⨁

シュヴァーベンジュラにある洞窟群と氷河期の芸術(シュヴァーベンジュラにあるどうくつぐんとひょうがきのげいじゅつ)は、南ドイツの6つの洞窟を対象とするUNESCOの世界遺産リスト登録物件である。それらの洞窟は、最終氷期に含まれる約43000年前から33000年前の人類がシェルターに使っていた場所であり、シュヴァーベンジュラ山脈のローネタール(ドイツ語版)とアッハタールという2つの谷にある。

洞窟群の中では、女性をかたどった小像、動物(ドウクツライオン、マンモス、馬、牛など)の彫像、楽器、個人的な装飾具などが発見されており、小立像のなかには、半人半獣をかたどったものもある。オーリニャック文化に属するそれらの彫像は、明白に彫刻と認められるものとしては最古の部類に属する。同様に、鳥の骨から作ったフルートも、楽器としては最古級と見なされている。

なお、登録名に「氷河期の芸術」とあるが、後述するように世界遺産の登録対象は洞窟そのものであり、出土品は含まない。

この物件は2015年1月15日に世界遺産の暫定リストに記載され、2016年1月13日に世界遺産センターに正式に提出された[5]。それに対し、世界遺産委員会の諮問機関である国際記念物遺跡会議(ICOMOS) は「登録」を勧告し、2017年の第41回世界遺産委員会でも勧告通りに登録された。

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=Nude woman (Venus of Willendorf)=

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森のなかえ

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最古の造形; 旧石器時代の「謎のビーナス」=(2/3); 歴史深層(033)

2022-09-18 05:35:27 | 史蹟彷徨・紀行随筆

ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事=平成4年09月18日<ⰧⰊⰧ

☆★ アフリカ大陸縦断に挑んでいたイギリスの前をフランスが横断し、単なる事故を超える大事に(1898年=ファショダ事件)。☆★「コンゴの今後」をどうするかで東奔西走中だった国連の事務総長ダグ・ハマーショルドが、乗ってた飛行機のパイロットがあれだったが故に現世に政治課題を残したまんま冥土へ飛び立つ(1961年)。☆★ かいわれ大根の日。某百科事典によると数字の8を横にして、その下に1を付けるとかいわれの形に似ている事から設定されたらしい。

本日記載附録(ブログ)

現在ではクロマニョン人を、現世人類と合わせて解剖学的現代人 (AMH) と呼ぶ。ネアンデルタール人を旧人と呼ぶのに対し新人と呼ぶこともある。

ホーレ・フェルスのヴィーナスは2008年にドイツのシェルクリンゲン近郊で発見された後期旧石器時代のヴィーナス小像。初期オーリニャック文化でつくられたと考えられ、年代的にはおよそ3万5千年から4万年ほど前にあたる。

おそらくヨーロッパにかつて分布した新人であるクロマニヨン人の姿である。疑いようもなく旧石器時代では最古の美術品であり、あるいはより一般的な先史時代の造形美術としても最も古い。

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旧石器時代の謎の女性像「ビーナス」、何のために作られた?……

◇◆ 謎の女性像「ビーナス」、儀式の道具それとも玩具か!!? =2/3= ◆◇

19世紀の発見、「ビーナス」の由来
ヨーロッパの学者たちは、19世紀からいわゆるビーナス像の発掘を始めた。1864年にフランスの考古学者、ビブレー侯爵ポール・ユローが、フランスのロージュリー・バス遺跡で高さ約7.5センチの象牙の像を発見したのが始まりだ。

この裸婦像には頭と腕がないが、腰、恥丘、脚がはっきりと彫られている。分析の結果、約1万7000〜1万2000年前に作られたことがわかった。

 ユローは、この小さな像を「Vénus impudique」と名付けた。「慎みのないビーナス」という意味だが、これは「Vénus pudica」つまり「慎ましいビーナス」を描いたヨーロッパの美術作品にちなんでいる。例えばボッティチェリの「ビーナスの誕生」は、愛と美の女神であるビーナスの裸体を控えめに表現した作品として有名だ。

 一方、ロージュリー・バスの女性像や、それ以降に発見された多くの像は、体を隠すのではなく、むしろ見せている。ユローの命名は当時の考古学者の間で広がり、やがてこれらの旧石器時代の彫像はまとめて「ビーナス」と呼ばれるようになった。

 1894年に発見された「ブラッサンプイのビーナス」は、人の顔を表現したものとしては世界最古と考えられている。約2万5000年前に作られ、小さな眉や鼻が丁寧に彫られている。頭に刻まれた線の模様から、「頭巾をかぶった女性」とも呼ばれる。装飾模様のある頭巾と解釈する学者もいるが、単に髪を表していると考える学者もいる。

「ブラッサンプイのビーナス」は2.5センチ強の小さな破片で、マンモスの牙から彫られたより大きな像の一部だったと考えられている。フランスの考古学者エドゥアール・ピエットが1890年代にフランス南西部の洞窟で発見した。

 最も象徴的な女性像は、オーストリアのドナウ渓谷で発見された「ウィレンドルフのビーナス」だろう。1908年に発見された場所にちなんで名付けられ、石灰岩製で高さ10センチ強だ。像の頭部を取り囲む帯がいくつも彫られているが、これは髪の毛か、あるいは帽子かもしれない。大きな乳房、突き出た腹、丸みを帯びた尻、先が細くなった脚が特徴だ。

 1900年代の研究者たちは、身体的特徴が強調された表現から、これは愛と美を体現した豊穣の女神に違いないと考えた。だがその後、ローマ時代のビーナスと同じような機能を「ウィレンドルフのビーナス」の題材がもっていたと裏付ける証拠は何かという議論が起こり、この考え方は批判を受けることになった。

・・・・・明日に続く・・・

⨁⨂参考資料: ホーレ・フェルスのヴィーナス ⨂⨁

ホーレ・フェルスのヴィーナス (Venus vom Hohlen Fels, vom Hohle Fels)は2008年にドイツのシェルクリンゲン近郊で発見された後期旧石器時代のヴィーナス小像。

この時代はじめの初期オーリニャック文化でつくられたと考えられ、年代的にはおよそ3万5千年から4万年ほど前にあたる。描かれているのはおそらくヨーロッパにかつて分布した新人であるクロマニヨン人の姿である。

疑いようもなく旧石器時代では最古の美術品であり、あるいはより一般的な先史時代の造形美術としても最も古い。テュービンゲン大学では2011年の段階でもこの小像の調査が続いているが、いずれこの地域から出土した他の発掘品もふくめてシュヴァーベンに新たに建設予定の博物館におさめられる予定である。

背景
シュヴェービッシェ・アルプ一帯にはマンモス象の牙等でつくられた後期旧石器時代の人工遺物が発見された洞窟が複数存在し、現在まで25程度の事例が報告されている。

ホーレンシュタインのシュターデル洞窟でみつかった獅子頭の像や、3万5千年前のものとされるホーレ・フェルス洞窟の象牙でできたフルートなどがそれにあたる。

テュービンゲン大学のニコラス・コナードの調査隊がヴィーナス像が見つかった地点から70cmのところでハゲワシの骨でできたフルートを発見しているほか、同じ地層から他にも火打ち石の破片や、加工や彫刻された骨などの人工遺物も発見されている。材料は象牙だけでなく、ターパンや ホラアナグマ、マンモス象、アイベックスの骨が使われている。

造形美術や楽器の製作をはじめとした3万年から4万年前のヒトの現代的行動の例が集中的に見つかっている地域は世界でも珍しく、シュヴェービッシェ・アルプでオーリニャック文化を営んでいた人間たちは、美術や音楽だけでなく早いうちから宗教も持っていた可能性があるとコナード(Nicholas Conard)は推測している。

ホーレ・フェルスのヴィーナスの発見は先史時代の彫刻の年代を更新したが、知られる限りではおそらく最古の造形美術でもあり、オーリニャック文化で培われた他の美術品よりも数千年は時代を遡る。

発見
2008年9月、ドイツ南西のバーデン=ヴュルテンベルク州ウルムから西に15kmほど行ったところにあるシェルクリンゲンのホーレ・フェルス(Hohle Fels)と呼ばれる洞窟の入り口から20mほど進んだ地下3mのところでヴィーナス像は発見された。

調査団のリーダーであるテュービンゲン大学の考古学者ニコラス・コナードは自分たちの発見をネイチャー誌に報告しているが、放射性炭素年代測定による3万2000年前という結果を踏まえ、過去の例と照らし合わせると3万年以上の年代では炭素年代測定は不正確になることから、このヴィーナス像は3万5千年以前のものである可能性が高いと結論づけた。

ウーリーマンモスの牙に彫られたホーレ・フェルスのヴィーナス像は破砕して断片化しているが、2008年に見つかったのはそのうちの6ヶで左腕と肩は失われたままである。頭の位置にはおそらく「少なくとも数十時間はかけて彫られた」 輪の形をした突起があり、ここにひもを通してペンダントとして用いたと思われる。

折り曲げた腕や指など細部まで彫ろうとする意識もみられるほか、腹部に何本もはいった平行な線は衣服を表現しているとみられる。また胸や腰などが非常に大きく描かれ、女性性が「異様なまでに誇張されて」いることから多産を象徴するものであった可能性がある。

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=Art History Abbreviated: Woman of Willendorf=

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最古の造形; 旧石器時代の「謎のビーナス」=(1/3); 歴史深層(032)

2022-09-17 05:35:56 | 史蹟彷徨・紀行随筆

ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事=平成4年09月17日<ⰧⰊⰧ

☆★ 半月前にナチスが攻め込んできたポーランドが蹂躙されるのを見て、当初の約束通りソ連も侵攻(1939年)。ナチスにやられ放しだったポーランドの人々は一瞬安堵したが、その後の展開はお察し下さい。☆★ 異端児・英雄がアメリカに乗り込み、竜巻を起こし、対ロッキーズ戦でノーヒット・ノーランを達成(1996年)。☆★ 日本から純ちゃんがやって来たのに嬉しくなった将軍様が、調子に乗って「自分が日本人を攫っちゃった、てへっ♥️」と言っちゃう(2002年)。

本日記載附録(ブログ)

現在ではクロマニョン人を、現世人類と合わせて解剖学的現代人 (AMH) と呼ぶ。ネアンデルタール人を旧人と呼ぶのに対し新人と呼ぶこともある。

ホーレ・フェルスのヴィーナスは2008年にドイツのシェルクリンゲン近郊で発見された後期旧石器時代のヴィーナス小像。初期オーリニャック文化でつくられたと考えられ、年代的にはおよそ3万5千年から4万年ほど前にあたる。

おそらくヨーロッパにかつて分布した新人であるクロマニヨン人の姿である。疑いようもなく旧石器時代では最古の美術品であり、あるいはより一般的な先史時代の造形美術としても最も古い。

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旧石器時代の謎の女性像「ビーナス」、何のために作られた?……

◇◆ 謎の女性像「ビーナス」、儀式の道具それとも玩具か!!? =1/3= ◆◇

 女性の姿は、いつの世でも芸術家にとってお気に入りの題材だ。それは、旧石器時代でも同じだった。

 ヨーロッパやアジアでは、旧石器時代の女性像が数多く出土しており、一般に「ビーナス像」と呼ばれている。美しく彫り込まれた紀元前2世紀のミロのビーナスに比べれば粗削りかもしれない。胸、腹、尻などが大きく誇張され、顔立ちに際立った特徴がないことが多い。

 これらの彫像は、女性をかたどる芸術の長い歴史の始まりだった。

形と大きさ
 人類は約8万年前に芸術を生んだが、最初の題材は人間ではなく、抽象的な幾何学模様のようなものから始まった。やがて身近な世界をより写実的に表現するようになった人類は、フランス南東部のショーベ洞窟の壁画のように、馬やオーロックス(絶滅した野牛)などの動物を最も好んで描いた。

 人間をかたどった作品が登場するのは、旧石器時代の4万年前から3万年前にかけてのこと。現在まで残る作品は少ないが、男性よりも女性の形をしたものの方が多い。西ヨーロッパ(ピレネー地域、フランス南西部、イタリアに集中)、中央ヨーロッパ(特にライン川、ドナウ川流域)、東ヨーロッパ・アジア(ロシア南部、東はシベリアまで)にかけて約200点のビーナス像が発見されている。

 石や骨から彫られたもの、粘土で作られたものなど、素材は様々だが、最大の特徴はそのサイズだ。どれも高さ5~25センチほどと小さく、遊牧生活をしながら持ち運ぶのに便利だった。

 ビーナス像の顔はたいてい、眉、目、鼻、口がはっきりせず、中には卵のように滑らかなものもある。目鼻などがあるものでも、特定の女性ではなく、漠然とした女性一般を表現したものではないかと考えられている。

 この時代の像がもつもう一つの特徴は、多くが裸体であることだ。それも、控えめではなく、直接的で露骨な裸体表現だ。なかにはネックレスや頭巾、ベルト、ブレスレットなど、最小限の装飾を施しているものもある。胸、腰、腹は丸みを帯びて突き出ているが、体形はスリムなものから曲線的なものまで様々だ。

 これまでに発見されている最も古いビーナス像は、ドイツのホーレ・フェルス洞窟で出土した約3万5000年前の女性像だ。高さは約7センチしかない。一方、最も新しいものは約1万4000年前に作られた。これほど長きにわたって作られたという事実は、こうした女性像が先史時代の人々にとって非常に長い間重要であったことを示している。

・・・・・明日に続く・・・

⨁⨂参考資料: ヴィレンドルフのヴィーナス ⨂⨁

 ヴィレンドルフのヴィーナス (Venus of Willendorf, ) は、先史時代の小像。「ヴィレンドルフの女」としても知られる。女性の姿をかたどった高さ 11.1cm (4-3/8インチ) の脂臀型小像で、ウィーン自然史博物館の蒐集品の一部である。

1908年に、オーストリアのヴィレンドルフ近く[1]の旧石器時代の遺跡で、同国出身の考古学者ヨーゼフ・ソンバティが発見した。この小像は、その地方では産出しないウーライト (魚卵状石灰岩) を彫刻して造られており、また代赭で染められていた。

1990年時点における、遺跡の層序に関する再分析においては、前22,000年から20,000年(約24,000年から22,000年前)に彫刻されたと推定された。小像の起源や、制作方法、文化的意味などについては、ほとんど知られていない。

この像の発見と命名以降、幾つかの類似した小像やその他の形の美術品が発見されている。これらは、まとめて、ヴィーナス小像と呼ばれている。

= 分析 =
この小像は、写実的な肖像というより、むしろ理想化された女性の姿を表している。像の女陰、乳房、膨張した腹部は非常に顕著であり、多産・豊穣との密接な関係を示唆している。小さな腕は乳房の上でまとまっており、像には明瞭な顔面がない。頭部は、組み紐の巻いたものや、目、頭飾りの一種と考えられるもので覆われている。

 ヴィーナスという綽名は、肥満体ともいえるこの小立像を古典的な「ヴィーナス女神」のイメージと比較させずにおかないが、現代の分析では異論が生まれている。「こういう小立像を皮肉にも《ヴィーナス》と名づけるのは、未開社会についての、女性についての、あるいは美意識についての、現代におけるある種の仮定にぴったりと合うのだ」とクリストファー・ウィットコムは指摘している。

同時にまた、この像を旧石器時代の古ヨーロッパ文化の地母神 (Earth Mother goddess) に同定することに対する、専門的見地からの異論もある。ある専門家は、像が太っているのは、狩猟採集社会におけるこの女性の高い地位を表すものだと述べ、また、像が、明らかな多産・豊穣に加えて、安全と成功の象徴であった可能性を示唆している。

立像の脚は、自立して立っていられるような形には作られていない。このため、像は、単に眺めるためではなく、むしろ携える目的で造られたと想像されている。ある考古学者は、この像は、太母神 (Mother Goddess) の聖像というより、単なる幸運のお守りだと言っている。

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=ヴィレンドルフのヴィーナス =

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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

森のなかえ

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◎_今日の足跡が記録帖_◎ 2022/09/16(金)

2022-09-16 05:35:30 | 史蹟彷徨・紀行随筆

ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事= 平成4年09月16日 ⰧⰂⰧ

  海のかなたに夜逃げするためメイフラワー号がイギリスを後にする(1620年)。

  メートル法強制一辺倒だった日本政府が、渋々ながら尺貫法の使用を認めざるを得なくなる(1977年)。即ち、曲尺・鯨尺の製造販売を許可。

  日本国有鉄道がようやく日本一のお荷物路線=美幸線=をスクラップ(1985年)。

Wagner: Die Walküre / Dritter Aufzug - The Ride Of The Valkyries
 

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森のなかえ

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カレーム_上流階級の料理を刷新=シェフの王=(3/3); 歴史深層(031)

2022-09-15 05:35:48 | 史蹟彷徨・紀行随筆

ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事=平成4年09月15日<ⰧⰊⰧ

☆★ イギリスで世界最初の鉄道が開業すると共に、世界最初のグモッチュイーーンに成功する(1830年)。即ち、開通式典で世界初の鉄道死亡事故が発生。☆★ マクドナルド御用達の全国紙「USAトゥデイ」が創刊する(1982年)。☆★ 星野仙一が関西圏を沸かせる18年ぶりの偉業(駄目虎→猛虎)達成(2003年)。しかし、五年後には関西圏のみならずリーマン・ショックで日本全体が青息吐息。

本日記載附録(ブログ)
アントナン・カレームはいわゆる「有名シェフ」の魁。マリー=アントワーヌ・カレーム シェフにしてパティシエ。当時は「国王のシェフかつシェフの帝王」と呼ばれていた。1814年、ウィーン会議の間、彼の料理は出席者の評判をさらう。

カレームの一生は、絶望的な貧困から、立身出世を遂げた驚異の物語といえよう。父親が石工職人、16番目の息子として、そのパリの下層階級で子沢山の極貧家庭に生まれた。貧困にあえぐ両親によって、フランス革命の余波に揺れていたパリの路上に放り出されたのは10歳の時である。

1798年、シルヴァン・バイイに弟子入りし、才能を認められ、出世への階梯を登り始めた。フランスの外交官にして美食家のタレーランのもとで料理人として働く。タレーランはカレームをたびたび激励、上流階級の夕食会を主催し、彼の料理を紹介する。カレームはタレーランのもとで料理の考案に没頭していく。

【この企画はWebナショジオ】を基調に編纂(文責 & イラスト・資料編纂=涯 如水)

ナポレオンのウェディングケーキ作りを作り、フランス料理の基本を定めたカレーム……

◇◆ 19世紀フランスが生んだ「シェフの帝王」アントナン・カレームの物語 =3/3= ◆◇

 1815年に最初の著書である『Le pâtissier royal parisien(パリの宮廷菓子職人)』を出版。2巻からなる大著だ。この本で、彼は菓子のレシピを記すだけでなく、ほとんどのイラストを自分で描いた。その後、すぐに『Le pâtissier pittoresque(華麗なる菓子職人)』を出版。124種類のピエス・モンテのデザインが掲載された。

 1816年、カレームは、後にジョージ4世となる英国の摂政皇太子に仕えることとなった。しかし、1年後には退任。気候が気に入らなかったことや、英国人料理人からの嫉妬が理由だった。その後、ウィーンに渡って英国大使チャールズ・スチュワートに仕え、サンクトペテルブルクにも一時滞在。最終的にはパリに戻り、執筆活動に専念するようになった。

 1822年には、2冊組の『Le maître d'Hotel Français(フランスの給仕長)』を出版。フランスが誇る4つの基本のソース、「マザーソース」を紹介したことで知られる著書だ。

    その4つとは、アルマンドソース(小麦粉をバターで炒めた「ルー」をだし汁でのばし、レモン汁と卵黄を加えたもの)、ベシャメルソース(ルーに牛乳を加えてのばしたもの)、エスパニョールソース(ルーにだし汁を加えて煮詰めた後、トマトソースを加えてさらに煮詰めたもの)、ヴルーテソース(ルーをだし汁でのばしたもの)である。

    どんな料理にも合う何百種類ものソースを作るためのベースとなったこれらのソースは、以来、フランス料理の基礎となっている。

カレームはこの時期、名家の料理長としてのオファーをいくつも断ったが、フランスの上流社会に取り入りたかった銀行家、ジェームス・ロスチャイルドからのオファーを受け入れた。1823年から1830年までロスチャイルドの下で働いたカレームだが、その後は執筆活動に専念し、代表作となる『L'art de la cuisine française(フランス料理術)』を書いた。

 フランス料理についての全5巻のうち、第1巻は1833年に出版された(全5巻のうち2巻は、彼の死後に出版)。この本でカレームは、現代の多くの料理人も推奨するだろうルールを取り入れている。彼は18世紀の高級料理に見られたスパイスを強く効かせたレシピを否定し、より自然な味を取り入れた。

    また、彼は新鮮な季節の食材を使った料理を提唱した。彼の料理は、バランスの取れた分量と美しい盛り付けで人々の目を楽しませた。さらに、彼はこの本を特権階級ではなく、一般の人々のために書いた。「この本は、王侯貴族のためだけに書かれたものではない。私は、フランスという美しい国のすべての国民が、おいしいものを食べられるようにしたいのだ」

 カレームは1833年1月12日に亡くなった。換気の悪い厨房で石炭の煙を吸い続けたことによる肺病が原因だったと考えられている。カレームの後継者の一人であるオーギュスト・エスコフィエは、フランス料理を20世紀仕様にするというカレーム同様の役割を果たしたが、彼は初代マエストロに対して、次のように敬意を表している。

  「カレームが生んだ(料理の)科学の基本原則は、料理という行為と同じくらい、長く残っていくだろう」
文=MARTINA TOMMASI/訳=桜木敬子

次節“旧石器時代の謎の女性像「ビーナス」”に続く・・・

⨁⨂参考資料: フランス料理(Cuisine française)(3/3) ⨂⨁

現代(20世紀)
1930年代に入ると大戦間期の三大シェフと言われるフェルナン・ポワン、アレクサンドル・デュメーヌ、アンドレ・ピックらが、エスコフィエの料理体系を受け継ぎながらも、更に時代に合わせた形へと進化させていった。

1960年代になると、エスコフィエの料理体系から素朴な家庭料理や郷土料理の数多くが取り残されているという問題点が指摘されるようになり、従来の高級料理一辺倒のイメージ払拭を兼ねて、カントリーサイドに焦点を当てたフランス料理本来の姿を全世界に紹介しようとする運動が始められた。

その中では郷土料理文化の積極的アピールと、それを体験させるためのガストロノミーツアー(美食旅行)が数多く企画されてミシェランガイドなどが大きな役割を果たした。

1970年代になると、伝統的なソースによる濃厚な味付けをあえて避けるようにして新鮮な素材主体の風味を活かそうとする調理技法が、ポワンの弟子であるボキューズ、シャペル、トロワグロ兄弟たちを中心にして指向されるようになり、これは「ヌーベルキュイジーヌ(新生料理)」と呼ばれてフランス料理の新たな潮流になった。

1980年代半ばになると、濃厚なソースを重視する古典回帰の調理技術が見直されてオートキュイジーヌに代表される伝統的な料理様式が改めて支持されるようになった。その中で伝統技術と現代科学技術をミックスさせようとする調理技法も誕生し、ロブション、ガニェール、デュカス、ロワゾーといったシェフたちが担い手になった。

現在もシェフたちによる新しい調理技法の探求は続けられており、古典重視の保守性と自由で柔軟な前衛性を持ち合わせたフランス料理文化は終わりのない進化の様相を呈している。

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森のなかえ

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カレーム_上流階級の料理を刷新=シェフの王=(2/3); 歴史深層(030)

2022-09-14 05:35:11 | 史蹟彷徨・紀行随筆

ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事=平成4年09月14日<ⰧⰊⰧ

☆★ セプテンバーバレンタイン/メンズバレンタインデーなので好きなあの子にパンツを贈ったら、紫色の服を着て白いマニキュアを塗った彼女から緑のインクで書かれた手紙を受け取ったでござる。☆★ モスクワへはるばるやって来たナポレオンの御一行に、ロシアがファイヤーストームで文字通りの熱烈歓迎を行う(1812年)。場所を違えて半世紀後、東海道生麦にて薩摩隼人が、郷に入りては 郷に従えを毛唐に対して暴力的に解らせる(1862年)。☆★ 北朝鮮が、あと一歩の所で反共反日で凝り固まった頑固爺を海へと突き落せるところまで行く(1950年)が、翌日仁川でダグラス・マッカーサーに不意打ちを喰らうことに。

本日記載附録(ブログ)

アントナン・カレームはいわゆる「有名シェフ」の魁。マリー=アントワーヌ・カレーム シェフにしてパティシエ。当時は「国王のシェフかつシェフの帝王」と呼ばれていた。1814年、ウィーン会議の間、彼の料理は出席者の評判をさらう。

カレームの一生は、絶望的な貧困から、立身出世を遂げた驚異の物語といえよう。父親が石工職人、16番目の息子として、そのパリの下層階級で子沢山の極貧家庭に生まれた。貧困にあえぐ両親によって、フランス革命の余波に揺れていたパリの路上に放り出されたのは10歳の時である。

1798年、シルヴァン・バイイに弟子入りし、才能を認められ、出世への階梯を登り始めた。フランスの外交官にして美食家のタレーランのもとで料理人として働く。タレーランはカレームをたびたび激励、上流階級の夕食会を主催し、彼の料理を紹介する。カレームはタレーランのもとで料理の考案に没頭していく。

【この企画はWebナショジオ】を基調に編纂(文責 & イラスト・資料編纂=涯 如水)

ナポレオンのウェディングケーキ作りを作り、フランス料理の基本を定めたカレーム……

◇◆ 19世紀フランスが生んだ「シェフの帝王」アントナン・カレームの物語 =2/3= ◆◇

豊かな食生活
 顧客の中には、当時最も有名な政治家であり美食家でもあった、シャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴールがいた。タレーランは1803年、ナポレオンの資金提供を受けてパリ郊外のヴァランセ城を外交の場として購入する。その後、タレーランは当時21歳だったカレームを雇った。

 この仕事をきっかけに、若きカレームは国際的な舞台に立つことになった。パティシエだった彼は、装飾菓子だけでなく、宴会の料理全体を作らなければならなくなった。カレームは、地元の食材のみを使って、1年間、毎日異なるメニューを提供することを約束していた。これが、タレーランとの10年以上に及ぶ付き合いの始まりだった。

 カレームはヴァランセ城の仕事をしながら、フリーランスで他の貴族の菓子職人としても働き、料理人たちから技術を学んだ。カレームはまた、フランス料理の体系的な研究を開始し、新旧の手法を整理してまとめた。ナポレオンが1810年にオーストリアの皇女マリー・ルイーズと結婚した際、ウェディングケーキを依頼されたことはとくに有名だ。

 レストランを開いた他の多くのシェフとは異なり、カレームは裕福なパトロンとの付き合いにこだわった。後年、彼は世界で最も依頼料の高いシェフとなったが(銀行家のジェームス・ド・ロートシルト(ロスチャイルド)は、年間2000万円近くを支払って、パリの名士たちに提供する料理を依頼した)、金銭は決してカレームにとって唯一の動機ではなかった。

裕福なパトロンに仕えることで、より大きな創造の自由を得られると考えていたのだ。「富を持って生まれた者は、食べるために生き、シェフの芸術を支えている」と彼は書いている。

偉大な料理人
 ナポレオンが失脚した1814年、政治的変化が訪れた。ロシア皇帝アレクサンドル1世をはじめ、ナポレオンを倒した国々が戦争終結の交渉のためにパリに到着。そこでタレーランはカレームに料理を依頼した。

 フランスが復古王政下で寛大な条件を得られたのは、このご馳走のおかげだったかもしれない。カレームはそれを自らの功績とすることに躊躇しなかった。「私の料理はフランス外交の前衛部隊だった」

 感銘を受けた皇帝アレクサンドル1世は、カレームをサンクトペテルブルクに呼び寄せようとした。しかし、カレームはそれを拒否し、1815年に最初の著書である『Le pâtissier royal parisien(パリの宮廷菓子職人)』を出版。2巻からなる大著だ。

 この本で、彼は菓子のレシピを記すだけでなく、ほとんどのイラストを自分で描いた。その後、すぐに『Le pâtissier pittoresque(華麗なる菓子職人)』を出版。124種類のピエス・モンテのデザインが掲載された。

・・・・・明日に続く・・・

⨁⨂参考資料: フランス料理(Cuisine française)(2/3) ⨂⨁

近代(19世紀)
18世紀末に勃発したフランス革命はフランス料理文化にとっても一大転機になった。アンシャン・レジームの崩壊によって宮廷内での職を失った料理人たちが多数流出し、またギルド制度の消滅によって商業活動に対する規制も撤廃された。

宮廷出身の料理人たちが街角で自由に店を開けるようになった事から、市街地にはそれまでにない洗練されたレストランが立ち並ぶようになり、革命で富裕化した市民たちがそこに通い詰めるようになって、フランス料理は市民レベルでの普及時代を迎えた。

そうした自由な気風の中でカリスマ的なシェフも登場するようになり、特に有名だったアントナン・カレームはシェフの帝王と称えられていた。カレームはオートキュイジーヌの芸術性と美食性を更に高め、また「L'art de la cuisine française au dix-neuvième siècle」を始めとする著書の中で洗練されたメニューと精緻を凝らしたレシピを数多く紹介し、フランス料理の近代的発展に大きく貢献した。

 近現代(1900年前後)
19世紀後半になるとフランス料理はオーギュスト・エスコフィエによって形式的な体系化が進められ、従来にないアカデミックな料理文化へと発展した。

エスコフィエによる調理技術の理論的な形式化は、料理文化の輸出というグローバル運動の際にも有利になり、フランス料理がイタリア料理などを差し置いて世界三大料理の座に据えられたのは彼の体系化によるところが大きいと言われる。

各国のフォーマルな正餐や晩餐会でも持てはやされるようになり、フランス料理は高級料理の代名詞になった。

エスコフィエは、カレームによって編み出された数々のレシピの技巧に走り過ぎている部分を巧みに簡略化して、より実用的な調理工程に沿えるように再構築した。

また「ブリガード・ド・キュイジーヌ」と呼ばれる組織構造を厨房内に導入して調理作業の効率化を図った。本来はチーフを意味する「シェフ」が西洋コックの代名詞になったのは、彼がブリガード内の各調理責任者にシェフの呼称を当てたことに由来している。

エスコフィエは厨房内のモラル教育も重視し、規律と礼節を行き渡らせて料理人たちの社会的地位向上にも腐心していた。エスコフィエが形式化したフランス料理の知識体系は1903年刊行の「Le guide culinaire」にまとめられており、これはフランス料理のバイブルになっている。

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