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拉致の解決を願って
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青木直人著『拉致処分』のまとめ

2006-01-07 | 記録
『拉致処分』から中韓・米中・日中の絡み合い
蒼き星々掲示板より、安倍貞任さんの投稿から。

正月休みに「拉致処分」(青木直人著)を読みました。
中国専門家としてその立場から中朝、米中、日中、そして日朝という多国間の複雑な絡み合いを一つ一つの海外ニュースを集積して考察しています。

経済成長著しいといわれる中国も、東北三省(遼寧省、吉林省、黒龍江省)は北京、上海に大きく遅れを取っていて、この地域の再開発が中国政府の急務とされています。
この、東北三省はロシア、北朝鮮と国境を接し、それらの国を経て日本海へ通じています。
東北三省の成長には北朝鮮の正常安定、経済成長がどうしても必要であり、そのためには日朝国交樹立と日本から北朝鮮への経済復興資金の流入が、中国政府はのどから手が出るほど渇望していると、著者は指摘しています。

中国政府にとって日本人拉致事件などどうでもよく、中国の国益にとって日朝国交樹立と北朝鮮の復興が大きな関心事。
そうした思惑に対して、日本政府の現在の海外援助がどのような動きをしようとしているかを、アジア開発銀行に焦点を当てて解明しています。

以下は同書、第6章の中の

5 「対中ODA減少の肩代わりをするアジア開発銀行」と
6 「アジア開発銀行に『東北北朝鮮開発援助』セクション誕生」からの抜粋。


 ◆5 対中ODA減少の肩代わりをするアジア開発銀行
 アジア開発銀行(ADB)は北朝鮮への「人道援助」以上に、すでに北朝鮮プラス中国東北地方、それにロシアの極東、韓国など、6カ国協議の参加国が対象となる地域開発構想に前のめりである。

*アジア開発銀行と世界銀行は代表的な国際援助団体で、日本と米国が最大の出資国で(日本の出資比率はADBが16%)、日本は強い影響力を持っている。

東北アジア地域に、今後膨大なインフラ開発支援を予定している。これはもちろん北朝鮮への2カ国支援とはまったく別の援助になる。繰り返すが拉致問題は未解決なまま、援助へのシフト体制だけは着々と進んでいるのだ。国民はこうした事実をまったく知らない。

 政府開発援助(ODA)が私たち国民の血税であるように、日本政府がこれまでADBに対して行った膨大な財政支援の出所は日本国民の税金や財政投融資なのである。そればかりかADBの総裁ポストは創設以来一貫して日本の財務省(旧・大蔵省)の高官が就任している。財務省の植民地というのが霞ヶ関の陰の声なのだ。

 2003年末現在でADBの通常資本財源(応募済み資本ベース)520億ドルのうち、日本の出資額は82億ドル(9020億円、1ドル=110円計算)で、これはシェアで15.8%を占め、米国と共に加盟国中第1位である。
 またこれとは別に内部にあるアジア開発基金201億ドルのうち、日本の拠出額は75億ドル(8250億円・シェア37.3%)で、これも加盟国中No.1の金額である。アジア開発基金というのはアジア各国の中でもバングラディシュなど最貧国を対象にした人道援助資金のことである。北朝鮮の崩壊寸前の経済状況を見れば、日朝平壌宣言にある「国際機関からの人道援助」とは具体的にはこのADBのアジア開発基金を指すと思われる。

 そうなると北朝鮮には日本の円借款や無償援助に加えて、日本が最大の影響力を持つADBから最貧国への融資としてアジア開発基金からも支援が実行されるわけだ。当然ここにも日本人の血税と財政投融資が投じられるのである。

 ADBの融資で気になるのは、近年の中国向け融資の異常なまでの突出ぶりにある。しかも知れは日本政府が中国の経済成長を理由に、中国向けODA、なかでも90%を円借款を減らしはじめた2000年ごろを契機に急増しているのだ。つまり外務省主導のODAは減っているのだが、財務省が影響力を持つADBからの迂回融資は逆にうなぎのぼりなのである。

 具体的に数字をあげておくと(外務省主導の中国向け)円借款が2000年の2143億円をピークにして、03年度が967億円、04年度が859億円と一時の半分以下に縮小しているにもかかわらず、ADBの対中融資は今後、05年から07年までの3年間で毎年15億ドル(約1650億円)、年間で合計45億ドル(約4950億円)もの融資が決定している。毎年1650億円といえば、04年度の対中円借款のおおよそ2倍にあたる数字である。

ADBは日本の財務省が牛耳っている国際団体で、油脂の可否はすべて財務省から出向している日本人総裁の裁量に任されている。だがこれでは円借款削減の補填としてADBの支援がが行われていていると非難されてもやむを得まい。

*木を見て森を見ず、とはまさにこのこと。外務省主導のODA、対中円借款が減って喜んでいられるのもつかの間、対中援助は裏では継続しているし、さらには対北援助がひそかに、財務省を舞台に行われようとしている可能性が強い。

 融資の金額だけが問題なのではない。中味も大問題なのだ。外務省がすでに豊かになった中国には必要ない、自助努力でやってほしいと言う内陸の道路や鉄道など交通インフラに膨大な援助が実施されているのだ。外務省の対中ODAの供与額を見ていくと、2000年を境に、金額が減少し、しかも内陸地域の道路など社会的インフラに対する援助が姿を消している。これに代わって教育や医療、環境対策の案件が増えているのが実情だ。これは経済成長を続ける沿岸部がその富で貧しい内陸を支援するべきで、交通関連のプロジェクトは自助努力でやってほしいという考えからきている。確かに宇宙に有人衛星まで飛ばす実績を持つ中国なら自分のことは自分で解決すべきであり、国際機関からの援助はあくまで人道支援の範囲にとどめるべきだろう。それが日本国民の感覚でもある。

 だが奇妙なことに、同じ日本政府の役所の財務省高官が最高ポストについているADBではそうした日本政府の近年の中国戦略理念に逆らうように、インフラ援助が増大中なのだ。

 このような中国内陸支援以外にADBが熱心に援助を続けているのがメコン開発である。正式にはメコン川流域開発計画(GMS)といい、1992年、ADBの主導で計画されたメコン川流域の地域開発計画を指す。対象国は流域周辺の中国、カンボジア、ラオス、ミャンマー、タイ、ベトナムの6カ国である。

 GMSの事務局はADBの内部にあり、プロジェクト数は11。2012年には完成する予定だ。1992年からこれまで35億ドル(約3850億円)の投資が行われている。問題は中国がこの地域プロジェクトをASEAN(東南アジア諸国連合)との経済貿易協力の重点分野と位置づけていることだ。中国の狙いは自国の内陸開発と地域開発をリンクして、地域間の流通・交通ネットワークを拡大し、この地域を自由経済区にして、『中華南部経済圏構想』を実現する」ことにある。そのため、メコン開発大義名分にして、中国の貧しい南部の雲南省にADBからの融資で、最新の高速道路が建設される。具体的には雲南省の省都・昆明からラオスを経て、タイの首都・バンコクにいたるもので全長1800kmに及ぶ。「完成すれば、中国=ASEAN自由貿易圏建設のための主要道路になる」と『人民日報』の記事もその意味の大きさを伝えている。

 読者の方はこうした援助のカラクリがお分かりだろうか。日本の対中ODA、なかでも9割をしめる円借款は2008年度で終了する。そればかりか、今でもすでに中国の内陸にはインフラ整備のための円借款は供与されていない。だが、これが複数の関係国におよぶ「地域開発」プロジェクトとなると、事情は変わる。日本のカネがADBなど国際援助団体から「地域開発」の一環として中国の内陸の道路建設に投じられるのである。明らかにODA中止の補填行為と見るべきだろう。問題はメコン開発が中国・ASEAN経済統合のためのプロジェクトだったように、ADBのなかでひそかに中国東北経済圏構想支援の動きが始まっていることだ。


要約すると

・外務省の対中国援助(円借款)は減少している
・財務省の対中援助は地域開発を主眼に拡大している

こうしたことが現政権下で国民の批判を受けずに堂々と行われている、ということです。


  ◆6 アジア開発銀行に『東北北朝鮮開発援助』セクション誕生 

 2005年10月、実はADBのなかに東北北朝鮮開発援助を想定してあるセクションが誕生している。「地域経済統合室」という。

 実はこれは北朝鮮と日本や米国が正常化した後に、ODAによる北朝鮮支援とは別に、中国を含む東アジア経済圏構想にADBが援助を行うための布石なのである。

2005年9月、吉林省長春市で開かれた投資国際博覧会で中朝国境を中心にした「大豆満江開発計画」が合意された。参加国は中国、ロシア、韓国、北朝鮮、モンゴルの5カ国プラス日本である。先の中国、インドシナの開発が開発と表現されていることに注目してほしい。つまり「大豆満江開発」とは東北アジア版の「メコン開発計画」なのである。

 ADBはなぜここまで中国援助に前のめりになるのか。私(著者)はそもそも黒田東彦アジア開発銀行(ADB)総裁の中国間が問題なのではないかと思っている。黒田総裁は、「中国は覇権主義国ではない」と明言するほど、親中国官僚なのだ。しかし、東シナ海の中間線における中国側の不当な資源採掘、尖閣列島を巡る領有権問題、度重なる反日デモ、日本に向けられたミサイル、台湾に対する軍事的恫喝、16年間も毎年増え続ける軍事費と、挙げればきりがないくらい中国は周辺国との軋轢を生じさせている。中国を覇権国ではないと断定する根拠はどこにあるのだろうか。

 黒田見解とは反対に、政府部内では防衛庁はあきらかに中国の軍事的台頭を警戒し、そうした認識は『防衛白書』にも明記されている。先ごろ日本と米国の防衛関係者と外交関係者が確認した「2プラス2」の場でも、台湾に対する中国の軍事攻撃にどう対処するのかが確認されたばかりである。

私が黒田総裁に対して感じる危うさと違和感は、米国に対する日本外交の自立性の裏返しとして、安易に中国や北朝鮮との接近をはかる点にある。こうした財務省の金融マフィア勢力の姿勢と日朝国交正常化を画策した外務省の田中均氏らのイメージする「東アジア共同体」構想は、アジアシフトを強める財界の意向とも重なり合い、新革新官僚の外交理念ともなりつつある。そればかりか反米親中傾向をもつ一部メディアや学者、文化人の賛同まで獲得しつつある。


> 2005年10月、実はADBのなかに東北北朝鮮開発援助を想定してあるセクションが誕生している。「地域経済統合室」という。

第4回6カ国協議が合意した直後、すでに財務省が主導権を握っているアジア開発銀行では中国東北部・北朝鮮への援助を想定して担当機関が発足しているという日本政府・財務省の手回しのよさには恐れ入りますね。

表向き日中・日韓は靖国参拝を巡って冷え込んでいるとは言いますが(政冷経熱)、どうしてどうして中国が欲する大プロジェクト=東北三省・北朝鮮安定化という点について、日中両政府は、利害が一致しています。

ちなみに中国を動揺させたいと願うなら、歴史的に見ればこの東北三省(旧満州地域)をド突くことであることは、指摘するまでもありません。

靖国に目を奪われて、その影で親中の舵取りをしっかり取っている日本政府、小泉首相もお見逃しなく。
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よど号拉致事件を考える市民集会 藤沢速報

2006-01-07 | 記録
2006年1月7日、藤沢で行われた
よど号拉致事件を考える市民集会速報


有本さん夫妻


有本嘉代子さん


高英起さん(映像ジャーナリスト)



 荒木和博さん(特定失踪者問題調査会・代表)


展示されたパネル
松木さん 石岡さん 有本さん 福留さん



特定失踪者大澤孝司さんの兄大澤茂樹さん

パネルディスカッションの模様


パネルディスカッションの司会担当:救う会神奈川 川添会長

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藤沢集会(2005/1/7)川添友幸氏 開会

2006-01-07 | 藤沢市民集会
第13回藤沢集会1  

『川添友幸 神奈川救う会会長 開会の辞』

本当にあけましておめでとうございますと言いたい所なんですが、全く拉致問題が進展しない中でですね。
私、毎年毎年憂鬱な気分になるんですけども、今年こそはと年明け、感じるところです。
年明け早々からですね。
非常に拉致のいろいろ、実行犯の話が出てきたりですね。
うちの今回の集会の目玉にしています、よど号の犯人が帰国の方向で動き出しました。
こういう状況の中でこういう集会を行ってですね。
声を上げて拉致被害者の方を一日も早く救出する。
そういうことが必要なんじゃないかと思いますんで、本日はよろしくお願いします。

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藤沢集会(2005/1/7)有本明弘さん

2006-01-07 | 藤沢市民集会
第13回藤沢集会2
『有本明弘さんのお話』



紹介にあずかりました、拉致された有本恵子の父親の有本明弘です。
よろしくお願いします。
今日は結構たくさんお集まりいただきまして、ありがとうございます。

私は今この会場に呼ばれて、言いたい事はたくさんあるんです。
たくさんあるんですけれども、日本の国ではいろんな情報が出てきていろんな戦術が出てきて、最近も出ましたように辛光洙の話も出てきました。
そういう中でどんな情報が出てきても日本の国が、どないも出来ないと言う現実が今日本の国に起こっているんです。
おそらく小泉さんがおる間は何も前進しない。
また、大変危険な状態が生まれてくる可能性もあるんじゃないか?と、そういうふうに思っておるんです。
そういう問題を大手の報道機関も伝えないし、またいろんな週刊誌・月刊誌でいろいろ物を書く人もありますが、そういう事に関しては真実を国民の前に言ってる、そういう人も私はおるように思っておりません。

今現在一番私が危惧しているのは去年ですか?
秘密外交をした政治家がおります。
ハッキリ名前も分かっておりますので、平沢(勝栄)さん、山崎(拓)さん。
このお二方が小泉さんの命を受けて、北朝鮮へ行って秘密外交をしました。
それでその秘密外交がマスコミにばれて、もう秘密外交じゃなくなってしまった。
そうした中で私は、マスコミにそんな秘密外交がばれた以上は、もう白紙に戻して行くべきではないと、そういう事も議連の総会で申し上げました。

議連の総会の平沼さんは、それより先に平沢さんが大連から帰国した時に議連に呼んで議連の役員3人で平沢さんに詰問したんです。
でまぁ、平沢さんはいろいろ弁明をしたらしい。
その中身を当事者である平沼さんにお会いした時、一部始終を聞きました。
どういうことかとこれを言いますと、大連から帰ってきたすぐに議連に呼んで3人の役員が、平沼さん、それと西村眞悟さん、松原(仁)さん、この3人が平沢さんにいろいろ質問をしていろいろしたらしいです。
いろいろな事を聞いた。
そして肝心な事を語る段になって、平沢さんは言葉を濁した。

そういう状況が生まれた時点でこの野党の先生方、このお二方「それやったら私らがおったら困るやろう」というので、部屋の外に出た。
そして平沼さんと平沢さんがサシで話をした。
そういう結果、かなりの所までは平沢さんは喋ったらしい。
そしてもうひとつ突っ込んだ話の答えは「山崎さんとの話もあるので、まぁこの辺で堪えてくれ」と。
まぁそういう話でそこまでは話し合った。
それで平沢さんは「議連に相談なしに、(大連に)行ったという事に関しては申し訳なかった」と、詫びたとそういうふうに話を聞いております。

そしてこれが小泉訪朝につながるんですが、平沼さんはその時点で5人の子供だけを連れて帰るという情報が多分入っとんだと思います。
だから平沼さんの声明文は「5人の子供を連れて帰るだけであれば、行くべきでない」と「代わりの人が行けば良い」と「代わりの人がおらなんだら私が行きましょう」と、そこまでの声明文を出したんです。
にも拘らず小泉さんは行く決心を翻されなくって、行くと決まった時点で平沼さんは面会を申し込んだ。
その時点で、「15分だけなら会う」と、そういう返事があって15分だけ会うて話をしたらしいです。
まぁそれで結果5人の子供は連れて帰りました。

そうした中で・・・これちょっと聞こえが悪いなぁ。(マイクの調子が悪いのを指摘、会場から笑い声)
え~、どこまで言ったか分からんようになってしもた。(更に笑い声 マイクを新しい物と交換)
そうした中で家族は小泉さんが帰って来た時に、家族の言い分をですよ?
家族の言い分を小泉さんにぶつけたんです。
当然でしょ?
死んだと言われている者の事を言うてくれたんか?と言う話をまず家族はしたんです。

それを官邸記者クラブは逆手にとって、「小泉さんに家族は文句を言うた」と、そういうような流し方をしたんです。
その官邸記者クラブは!
これで状況は一辺に変わってしまった。
話の分かっている人は私たちに味方をしてくれて、いろいろ言って来ました。
「小泉さんが5人の子供を連れて帰って来た、良かった良かった」というマスコミの報道を真に受けた人は、いろいろ我々に文句を言うて来た。
「言い過ぎや」とか。
これが当時の実際の話なんです。
これで皆さんがお分かりになったと思います。

これは家族がその当時会見した時、最初を頭取りして皆マスコミは外に出るんです。
それを最後まで映像を撮った。
そしてああいう放送をした。
官邸記者クラブ、これ20社か30社あるんです。
だからそういう事がおかしいと思う人も中にはおって、「あれは官邸サイドから最後まで撮れ」と言う指令があったからああいうふうに最後まで撮ったんだと。
そこで情報を流してくれた。
これでもう全て分かってしまったんです、我々を。
官邸サイドが官邸記者クラブを自分の意のままに動かした。
これ明白なんです。
こんな事があって良いんですか?

朝日新聞なんかは、安倍(晋三)さん・中川(昭一)さんを標的にしてNHKを呼びつけたと、そこであそこまでの問題が起こったんです。
官邸記者クラブの中には朝日新聞もおるはずなんです。
なんでそこまで、官邸記者クラブに圧力をかけたのは誰や?と、そこまで言わはるのか。
こんな、皆様聞いたらこれはおかしいと思うような事も我々の眼前で行われてきた。
皆様はそれの偽った報道でそれを信じて、「5人の子供を小泉さんが連れて帰ってきた、小泉さんはようやった」と、そういうふうな風潮で今日本の国民の世論は思っておられる方も、半々くらいはあるんじゃないかと思います。

これは第一点。
私たちはこれは皆さん何百人の方にじゃなくて、全国放送に乗せる。
そのメディアが私たちを取り上げて喋らす。
それが日本の国の開かれたマスコミの姿でなければいかんのです。
だからこういう事もこの場に来られた皆さん方は知っておいて頂きたい。

それともう一つ、これも大きな問題があって小泉さんの盟友であって秘密外交をした山崎拓さん。
この山崎拓さんの出身地が九州・福岡と思います。
で、この福岡で山崎拓さんがどういうことを喋っているのか?
これは去年の話になるんですが、「来年に小泉さんの3回目の訪朝はあるかも分からない、それは5分5分だ」と。
そういうような発言をしました。
これは週刊誌がすっぱ抜いてそういう短い文面だけを流した。

その事に引き続いて、また政府間では2兆円余りの金を北朝鮮の過去の植民地時代の償いと、そういう約束で払うと。
そういう話も水面下では出来ているんだと。
そこまで自分らの支持者に喋っている人がいると。
この情報は九州の地方議員の会の人が「そういうことを喋ってるんやでぇ」というような事を私たちに情報として入れてくれた。
何で今この山崎拓さんがそういうことを地元で喋って、3回目の訪朝を匂わせているのか?
それは非常に危険な話であって、今小泉さんが言ってる「自分の任期の間に国交正常化しようじゃないか」と、こう言ってる。
これは明らかに日本の国の皆さん方、また我が国のメディアの皆さん、政治家の皆さん、日本の国に住んでる人は皆ご存知のはずなんです。

この今の時期に国交正常化、誰が考えてもおかしい話で、6者協議今やってます。
アメリカ1者が孤立してもうとるんですよ、今。
日本も当てにならんのですよ、これ、国交正常化と言う限りにおいては。
もうアメリカと一緒に下手に障れないんですわ。
アメリカの方針が決まっとるか決まってないか、あの国に譲歩するはずはない。
アメリカがまだ話の入り口であるにも拘らず、小泉さんは「国交正常化や」と叫んでそのような動きを水面下で起している。
これが我が国の与党・自民党の総裁なんです。

これに対して我が国で異議を唱える政治家はおるんですか?これ?
もう大分前からの声やから。
政治家は与党・野党、これを黙認している。
それにこの国の大手マスコミ、いろんな物書きをする人たちもおる。
これらがこの問題に関しては全然言葉を触れない。
これが我が国の今の現状なんです、これ。
これを誰が解決するのか?
考えてください。

事実を国民に知らす、これが一番大事なことなんです。
私が何百人の人の前でこんな事一生喋っても、何万人十万人くらいの人が聞いて貰えるのがせいぜいやと思います。
私も今年もう80なんです。
これが今我が国の実情なんです。
これを打破するしかないんです。
だから私は小泉さんは・・・(聞き取れず)言わずとも、出来るだけ早い時期に引退願いたいと。
辞めていただきたいと。
2回目の外交、これおかしい。
平沼さんの議連の総会に呼ばれた時点で、もうそういうふうに申し上げているんです。
5人の子供を連れて帰るだけならば、それを花道にして政治の世界を去って貰いたいと。
そういうふうに自民党本部で申し上げました。

なぜ言ったか?
やってはならない事、総理大臣としてやってはならない事をやって帰って来たんやから、それを花道に引退したら国民の皆様は何も分からないから、「小泉さんようやった」と。
「小泉さんでなければ出来ない事をようやってくれた」と、国民に惜しまれて政治の世界を去ることが出来るんです。
そういう意味を込めてそういう発言をしました。
だから前言ったように小泉さんがどういう人か?
もう、日本の国の総理総裁としてはとてもではないが、日本全国から大きな声が出て引退して貰うしかないんじゃないかと、そういうふうに思ってます。

なぜなら自民党、日米同盟を一番重視しているのがあの自民党なんです。
これの総裁が、核とミサイルの話がまだ話の入り口付近でアメリカがどないに転ぶか分からない。
話がこじれたらもう核施設を攻撃だと、そこまで言う可能性もあるんです、これ。
にも拘らず、小泉さんがこういう国民の目の前でこういう作業をとって、誰もこれに異議を唱えない。
こんなおかしな現状が今日本の国に生まれているんです。
私は一番これを危惧しているんです。
そういうことを皆さん、これは嘘じゃないですよ?
だからこれに意義があったら私のところへ然るべき人が文句言うて来てくれたら良いんです。
おそらく理由を持ち込んで私たちに、まぁ私にだね、私がこれを喋りよるんだから。
私にそういうことを言うて来る先生方はまぁおらない。

だから私は今日本の国には、戦後60年間、この60年間の歴史の流れを変える一遇の良いチャンスが巡ってきているな、そういうふうに思っているんです。
だから私は北朝鮮に強硬な姿勢を強めている安倍晋三さん、中川(昭一 農水省大臣)さん、それに今自民党から席を外しておりますが、平沼さんのグループ。
この人たちが政権を担ってやって貰う。
これしかないんじゃないか?と思ってるんです。
なぜならあの平沼さんのグループは、「金正日の政権の崩壊も視野に入れて運動をする」というような一説が、その会の中にあるんです。
ならもう、この人たちに任すしかないんです。

だから日本の与党・野党の先生方、北朝鮮に厳しくやるんだという先生方の勢力を結集して、この人たちが政権を担っていく。
それも国民の前でこの「朝鮮の問題が片付くまでやります」と、そういうような条件を入れて、そういう私は日本の国を背負ってくれる。
そういう事を私は期待して、またそういういふうになるように私なりに努力してやって行こうと思っております。
今後とも、そういうような国、国情になるように皆さん方もお考えになって、また行動して頂きたい。
そういうお話をすると、「私たちは今署名活動だけしかしていないんです、私たちに何が出来るんですか?」と言う質問もあります。

だから私は言うんです。
この政権と一緒に手を携えてず~っとやって来たのが我が国の公共放送であるNHKなんです。
今NHKには3分の1以上の人が抗議をして、その結果金は払わんと言うような状況が今生まれているんです。
だから我々の署名は今500万、500万台くらいは今集まっとるらしいです。
7年間8年間の運動のあれ。
でもこの中の2割くらい、あと100万150万くらいの人がNHKに抗議をしたらこのNHKは手を挙げてしまう。
真実を国民の前に知らすべきだと。
そういう運動を全国民がやった場合、日本の国は真実を知るんだから、これだけの会場の人ではなくて全国の国民が知るんだから、間違いなく日本の国は変わると思います。
これが私が皆様方に提案できる唯一つのお願いです。
ありがとうございました。(拍手)

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藤沢集会(2005/1/7)斉藤文代さん

2006-01-07 | 藤沢市民集会
第13回藤沢集会3  
『斉藤文代さんのお話』



皆様、こんにちは。
私もなにか今日は藤沢の方に行かなければと言う気持ちで、昨日の夜は中々眠りにつけなくて。
また朝から主人の食事の支度をして、それで熊本の方から参りました。
松木薫の姉の斉藤文代です。
宜しくお願い致します。(拍手)

私の弟はスペインのマドリッドの方から、今度帰って来るであろうと言われているよど号犯の(田宮高麿の妻の)森(順子=よりこ)に拉致されたという事になっておりますけども。
よど号犯の事を考えたら本当に、私は本当に悔しくって毎日毎日それを考えたら病気になりそうなんですけども。
まだまだ私は毎日毎日いろいろな事で希望を持って頑張っております。
母も生きておりますし、まぁ父は亡くなりました。
でも父の分も私は一生懸命やっていけば、全部、今拉致されている家族が絶対に帰ってくるという気持ちで私も毎日行動しておりますけれども。

弟は私の8つ下なんですが、父は男の子が欲しくて欲しくて本当に期待してたんですね。
やっと出来た子なんです。
一番下の5番目に出来て。
もう母はそんなに、「もう私はいりません」と言う考えだったんですけども、父は男の子が何としても欲しいという事で、やっと出来た男の子で、そのときの母父の喜びと言うのは私たちは小さかったんですけど、その時の父の笑顔は今でも覚えておりいます。
本当に忘れられません。
「見なさい、男の子が出来たのよ」「みんなね弟だよ弟だよ」と父の顔が今でも浮かんで参ります。
でも父は平成2年に自宅の方で、母に手を差し伸べるようにして亡くなりました。

それも薫がいなくなりましてからもずい分と探し回って、仕事の合間。
仕事もしなければ私たち子供も育てなければなりませんので、仕事の合間を見まして東京に上京したり、いろんな所に外務省、いろんな所にお願いして探してくださいという事で。
父は頭がおかしくなっても本当に仕方が無いくらい、私はそうだと思いますけど。
一生懸命になってお願いに上がった、それは出来ない事で、出来なかったし。
また父が拉致されたと言う事を知って、今思えば父の気持ちも分からないで可哀想だったなぁと今でも思いますけれども。

でも今母が生きております、まだ。
何としてでも、病院に入院しておりますので、何としてでも薫また有本さん、めぐみちゃん、皆が帰って来ることを願いまして活動しておりますけど。
毎回毎回、年が明ける毎におめでとうございますって言葉が本当に言えないんです。
ここまで出てきて、また今年も解決出来なかったらどうしようって、お母さんが今年持つかなぁってそういう事しかない物ですから。
今の政治の内容を私たちは遠くの方で眺めたり、近寄って話を聞いたりしておりますが、拉致問題って日本の国・・・恥ずかしくないんだろうか?って私本当に思うんですよね。
政治家の方とお話していて、なぜこの問題解決ができないんだろう?って。
日本の国だけこんなことしてるんじゃないだろうか?と、本当に思います。

今日も飛行機の中でお隣に座られた方が、「あの、斉藤さん」って。
「なぜ日本がこれ解決できないんでしょうね?」って言うんですけど、私答え様が無くて。
それで、「郵政民営化より、拉致問題ですよね?」(拍手)って言って下さった事が嬉しくって。
「拉致問題を解決しなければ日本の恥ですよ」って、「僕はそう思いますよ」って。
「僕はいつもテレビなんかで拝見させていただいているけれど、じれったくってどうしたら良いか分からないし、でも国民は皆が応援しているという事だけは斉藤さん、覚えていてくださいね」
って言って下さったんですよ。

本当に私も有り難いですし、最後に飛行機降りる時もですね。
「本当に北朝鮮は(ミサイルを)飛ばしてきますか?」って聞くもんですから、「そんな事は絶対ありません、私はそんな事はしないって誓って言えます」って言ったんです。
そしたら、「あぁ、そうですよね、日本は何てだらしないんだろうね」って、「斉藤さん、またお会いしましょうね、頑張ってくださいね」って言って下さいました。

本当に私は皆さんのそういう気持ちで、毎日日々送らせていただいておりますけども、このような毎年毎年解決しないで、日本の国はこのままで終わらせられるんでしょうか?
これが解決しなければ、私は日本は駄目な国になってしまうと私は思っております。(拍手)
何としてでも、私の母にも会わせてあげたいと思っておりますし。
母は本当に、食事の時でも私時間のあるときは行くんですけど、皆様にお話すると可哀想でならないんですけど、母の・・・やっぱり話さずにはおられない可哀想な所もあるんですよね。

私の名前は忘れているんですけども、薫の事だけはいつも覚えていて、「ペンを貸していただけませんか?」っていうもんですから、私はノートとペンを出してやるんですよ。
そしたら、「何するの?」って言ったら、ペンを握って、今日持って来れば良かったんですけれども、「薫」って・・・(涙で言葉を詰まらせる)
それもこういう・・・それで「会いたい」って書いてあるんです。
で・・・最後に・・・「スナヨ」って書くんですけどね。
本当にもう・・・何を・・・政府はこんなに弟を・・・30年も26年もほったらかしにして、これで日本の国は良いんだろうか?って私本当に涙がこぼれます。(終始涙で声を詰まらせながらのお話)
可哀想で。
でもご飯を食べながらでも一生懸命生きようとする。
食べたくないといっても何としてでも食べさせて、必ず生きさせて、薫に会わせなければいけないという気持ちで私も看病しておりますので、「ご飯も一生懸命食べてね」って「必ず帰ってくるから」って毎日言っております。

ですから、本当に骨の件でも私は2度も骨を持たされました、うちの家族は。
私はそういうことでは絶対に負けないという気持ちがありますから、橋本先生にも、それを鑑定してくださった先生にも本当に良くして頂き。
あの、(骨の)良い所をちゃんとして鑑定して頂いたので、他人の物と言うのが分かりましたので。
私は何度突きつけられても本人の骨で無い限りは私は認めるわけには行きませんので、何としてでも薫達が帰ってくるまで私は頑張り通して、皆様のお力を借りして。
本当に私は無力なんです。
何にも出来ない、毎日毎日、どうしたら良いんだろう?と思っております。

そういう事で挫けていたら、今日は有本のお父さんのお話を聞いていて、私の父が生きていたら同じ事を言ってたんだな、と。
有本のお父さんの言うとおりだな、と思って聞いておりました。
だから私はより以上頑張って、少しでも皆さんが帰ってこれれば、本当にまた笑顔も、家族会の方々の少しの笑顔でも出てくればこれに越した事はないと思っておりますので。
全員帰って来ることが、それが一番望ましい事ですけども、例え何人でもという、私はいつもそういう気持ちでおります。
皆さん本当に何人かでも帰って来れますように、これからもずっと私たちの家族をこんなに泣かせるようなこと、日本政府にさせないように支えになってください。
私たちも一生懸命頑張りますのでどうぞ宜しくお願い致します。(拍手)

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藤沢集会(2005/1/7)荒木和博氏【1】

2006-01-07 | 藤沢市民集会
特定失踪者調査会 代表荒木和博氏

ご紹介いただきました、荒木でございます。
今日は、正月から、たくさんの方、おいでいただきまして本当にありがとうございます。
限られた時間でございますので、できるだけ簡潔にお話をしたいと思いますが。

おそらくここにおいでのみなさん多くの方が非常に関心を持っていらっしゃるのがこの年末年始に流れました、あの横田めぐみさんや地村さんの事件の実行犯の問題ではなかろうかと思います。

結論から申します。
あのニュースはすべてウソです


(会場から『え?』)

あの横田めぐみさんや、地村さんをやったのは辛光洙ではありません。違います。

辛光洙はあの事件の頃は、北朝鮮に戻っております。それは彼を捕まえた後の韓国の1985年11月にですね--
2月に捕まえまして、11月にソウルの地裁で、判決が出ておりまして、その判決文の中に、彼が生まれてからどういう風に行動していったかと、工作員になってから、どういうふうに、どっから日本に上陸して、そしてまた北に戻って、また来て、どういうふうに誰と接触して行動していったかということが、書いてございます。その中には1977年1978年のあの時期は北朝鮮に戻って、教育を受けている時期でございまして、日本にはおりません。抜け出して拉致をしたと言うことはあり得ないわけでございまして、あの報道自体が、(もともとそれを確認する前からおかしいと思ったんですが)やはり明らかに、意図的なウソであろうと、言う風に思います。

韓国政府の関係者の知り合いにも聞いてみましたけれども、まぁその彼も『自分の名誉にかけてそんな地裁の判決が、そんなところで大嘘をつくことはあり得ない』と、言うふうに言っておりました。

で、そうするといったい何でこんな事が出てくるんだと言うことに当然なるわけですね。

あの年末の話は、辛光洙(シン・ガンス)と朴(パク)といわれる西新井事件というですね、いろんな日本人に成り代わって工作活動をやったとされる、工作員の二人が主役として出てきたわけでありまして『それくらいしか、北朝の工作員はいないのか』と、当然あの時ですね、不思議に思うわけですね。

拉致は、相当の数、今、日本政府が言っているだけで16人ですから、実際、まぁ遙かに多い数の拉致が行われているわけでありまして、それをですね、一人や二人でやるなんて事はあり得ない。
あの調子ででてればですね、そこのポスターにある450人全部辛光洙がやったという話になってもおかしくないわけでございます。

何でこんな事になるのかと。
あのニュースがでたのは、だいたい『7時のNHKのニュース』です。

今日もちょっと有本さんのお父さん、NHKの批判をされましたが、いつもは、有本さんのお父さん、NHKの批判をすると、私の方はですね『そんなきついこと言わないで、穏便にしましょうよ』となだめるんですが、やはりあそこから話がどうも始まっているのではないかと思われます。

あのニュースを受けて、各社が動き始めると。で、そして翌日には、各社一面トップとか大々的に乗っかるわけでございます。で、しかし、実際には、しゃべったと言われる人たちはですね、直接の取材を受けない訳なんですよ。
これは9.17のあと、10月15日に帰ってきてから、ずーと同じ状態なんですが、あの時は異常に特殊な状況であったと。最初帰ってきたときは、なんとか彼らを北に戻さないようにしなければいけない。そしてその後は、家族がまだ残っているから、と言うことがあってですね、我々、あの当時、私は救う会の事務局長でしたが、報道規制をしていただかなければいけなかった。で、しかしもう家族が帰ってきたわけですが、その報道規制の状態、未だに続いています。

もし、あの時(年末年始の報道の時)NHKが放送したと。それで、当然各社の拉致の担当記者さんは、本当であれば、普通であれば、蓮池さんに電話をかけて、あるいは柏崎や、小浜にすっ飛んでいって、『これいったいどういう事なんですか』と言う風に聞くわけですね。それに対して、『いや、これは事実関係はこうなんだ』というふうに答えるはずなんですが、ところがそれが全くできない。

そうすると、あと聞けるのは、それを聞いたはずである家族会の方々とか、そういうことになってくる。しかし、それもですね、家族会の方からすれば、そういうことを言われたという事実はたとえ有ったとしても、それが事実であるかの、もちろん確認はできない。 確認はできないけれど、一社が抜かれてしまったら、他の社もですね、そういうふうに動かざるを得ない。そういう状態だと、もしたとえば他にリークが行われれば、それにのもうすぐに飛びつくという状態が、作られてしまっています。

この状態はですね、考えてみると去年の7月ぐらいですか、あの蓮池さんが、太陽里(ちゅんちょんり)、住んでいたところの地図かなんかとかが出てきて、ここでこうしてとか言う、話が出ました。で、あのニュースの時も私非常に不思議に思ったんですが、あの時のNHKの報道はですね、『こうであることがわかった』という報道になっています。わかったはずがないです。裏がとれるはずがない。絶対に。

そういうことを、言っているという報道であればいいんですが、『わかった』と言うことになっている。
あの時は確かその後ですね、クローズアップ現代でも、この問題だけをやっていて、そこでもですね『こういう事がわかりました、という報道になっています。これはもう絶対におかしいです。

それを誰も確認ができない。たとえば安明進が、『ここはこうで、ここはこうで確かにそのとおりだ』 と言う話でもしたのであれば、しまいには別な、脱北者ですとかなんか、他の人でもいいですが、そういう事がでてくれば、確かにそういう可能性があると言うことになるかもしれませんが、そういうものは一切ない。ただ5人が証言をしたと。
それもその本人たちが証言したのではなくて、ただ伝聞で出てきたと言うことだけの話でございまして、これで事態が動くとしたら非常に怖いことでございます。

なんでこういう事が起きているかと。
可能性として一つあるのはですね、日本と北朝鮮の間で(ま、今有本さんがいろんな取引やなんかの話をされましたが)もうすでにある程度のですね、落としどころが決まっている可能性がある。

それはどこかと言うと、この事件をやったのはみんな辛光洙と朴なんだと言う話にしてしてしまおうとしてるのではないかと。

横田めぐみさんも、誰々さんも・・そのうちですね、下手すると、よど号グループのことも隠したいと思ったらですね、有本恵子さんも辛光洙がやりましたという話が出てきてしまうかもしれません。もう、そういうようなことをして、ともかく『あれ(辛光洙と朴)だけがやったんだ』ということで他のものを全部押さえてしまうと。

そこで、北朝鮮側とすれば、調べてみましょうかとたとえば、日本側に回答して、朴というのは確かにいたけれども、もうとっくに死んでしまったといってですね、もう記録も残っていない。
それから辛光洙は確かにいるけれども、もう高齢だから、北朝鮮から出すことはできない、もし日本から来たらば、ちょっとぐらい会わせてあげてもいい。まぁ30分ぐらいおざなりに会わせて、あとはちょっと体調が悪いからと言って隠してしまう。もう何もしゃべらないと言うことは十分に考えられますね。
へたしたら、北朝鮮のことですから、『いや、これは辛光洙と朴の骨ですよ』と出してきても、これもおかしくないわけでございます。(会場笑い)

そういうような事に日本側でも、そこで話を一段落させて、そこで次ぎに進もうと。つまり、今、日朝交渉の中で、平行して、拉致の問題と、国交正常化の問題を別々にやっていくという話になっていますから、そういう中で『いた、拉致の問題は北朝鮮側、譲歩してきた』と。だから日朝(国交正常化)交渉の方も、進める必要があると。こっちょ、進めないと拉致の方も進まなくなると。そういう風な形にしていこうというのがですね、おそらくだいたいの可能性ではないだろうかなと。

ま、もう一つ考えられるのは、警察がそういうような動きに対してブレーキをかける為に出してリークしたという、そういう可能性もあるんですけれど、しかし、それにしては、この事実関係がですね、辛光洙がやったとか言う話というのは、あまりにも変な話でありまして、ちょっと警察がリークするとは思いにくい。

と言うことになれば、もっとその更に上の方で、ものは進んでいるのではないだろうかと言う感じがいたします。

そしてもう一つ言えば、拉致議連の幹事長である西村慎悟さんが逮捕されたのが11月の終わりで、そしてこのニュースが出始めたのは、西村さんが釈放された直後からと言うこともございます。

あの事件について、ま、いろんなことを、もちろん感じられている方、有ると思うんですが。あの政治家の弁護士で、非弁活動で捕まえようと思えば何人だって捕まえられるわけですね。あの西村さんが逮捕された直後になんかの番組で、福島瑞穂がでていて、このことが話題になった話があるそうですけれども。あの福島瑞穂さんって人なんかは当然西村慎悟みたいな一番嫌いなはずなんですが、青な顔して一言も言わなかったいうことでございまして、そういう風に思って、びくびくしている人はたくさんいると思います。その気になればいくらでも捕まえられると思うのですが、一切そんな動きはない。

おそらく、あの逮捕の目的というのは、西村慎悟からバッチをはずさせたいと。バッチをはずせば穏便に済ましてやると言うようなことではなかったかと。ま、本人とそこまで話したわけではないのですが、私の推測にすぎませんが、どうもそういう感じがします。

そういうものすべてが、今何か動いているというふうに考えた方がいいのではないだろうかと思います。これは、何もこれに始まったことではありません。

9.17の時はですね、9,17で北朝鮮が拉致を認めると。『拉致を認めたら、国交正常化交渉を動かす』と、おそらく日本側は言っていたわけです。で、認めたと。認めたら、逆に日本の世論が激昂してしまったと。そしてその次ぎにいったのが、『じゃぁ、生きてると言った5人を返してくれ、ともかく。ちょっと返してくれたら二週間ぐらいで戻す』と。
『そうしたら国交正常化を進める』と日本側言ったんですね。
でまぁ、北朝鮮側は『よし、わかった。こんどはほんとだな』と言って返したのが戻ってこないと。

ある意味でいうとですね、日本の外交の方がうまいのかもしれません。(会場軽い笑い)
北朝鮮をだまくらかしているといえないこともない。

この次ぎやったのはですね、『じゃぁ子供たちは残っているんだから、子供たちを返したら、そうしたら進めてやる 』と言う話になったけれども、子供たちとジェンキンスさんなんかは帰ってきたと。しかしやっぱり進まない。

あの、5.22の時に家族会バッシングということがありました。さきほど有本さんからお話がありましたけれど、あの時にですね、確か共同通信の世論調査だったと思いますが、小泉首相の訪朝を評価する声というのが確か68%ぐらいあったんですね。しかし第一次訪朝の時が86%ぐらいだったと思うので、それよりは低いんですが、まぁそれでも7割ぐらいの人が評価していた。しかしその一方で『これで拉致問題が終わったか』という質問に対してですね、確か8割以上の人が『終わっていない』と言う風に答えている。日本の世論はそう甘いものではないわけでございまして。

で、結局、子供たちが帰ってきても話は前に進まなかったと。

で、その次、その次というのは一昨年の11月になりますが、あの時私が思ったのは、北朝鮮がやる方法はおそらくもう一つしか残っていないだろうと。それはですね、死んだと言っていない人たち、つまり政府が認定していない人の誰かを出してきて、そしてですね、『自分の意志で行きました。今、日本に帰ることは、都合でできません』と。『ただし、自分としては両親に会いたい』と。『だから、お父さん、お母さんもし平壌に来てくれれば会います。早く国交正常化が実現して自由に行き来できるようになればいいと思います』ということを言わせようとしていたのではないかと言う感じがしています。

(続く)
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藤沢集会(2005/1/7)荒木和博氏【2】

2006-01-07 | 藤沢市民集会
 原良一さんにお手伝いいただきました。

ところがあの時は、それができなかった。この間帰ってきた北川和美っていう変な女(嗤笑)おりましたが、あの彼女が、どうも目的としては、その要員として使おうとして連れてきたという話しでございます。つまり「自分の意思で行った」と。「私自分の意思で行きました」。鴨緑江で飛び込んだという話も多分ウソじゃないかと言われるのですが。自分で行った、あれもう既に荷物先に送ってあるわけですから(ウス笑)。

 そういうふうに出てきて、「私自分で行きました」と言えば、ちょっとこっち(日本)にいる北朝鮮シンパの方、国交「正常化」を進めようとしている人間が、「ほら見ろ、北朝鮮は折れてきてるじゃないか。あれ(北川某)はたまたま自分の意思で行った人だけども、こういうことはちゃんと信頼関係を作れば、そうしたら次に今度は死んだと言ってる人のことまで進んでいくかもしれない」という世論が作れる。

 それからもう一つは「いや北朝鮮に行った人も、やっぱり自分の意思で行った人もあるんじゃないか?」あるいは向こうでいい暮らしをして、帰りたくないと思ってるんじゃないか? ということを流していくと。それによってこちら側の行動にブレーキをかける。あるいは経済制裁とかですね、そういうのにブレーキをかける、としたのではないだろうかと思います。

 私は、あの時はもうあれしかないと思ってました。しかしそれに対して北朝鮮側がやってきたのは、何やったかというと、あの「遺骨」でございます。それ(荒木氏の予想した策略)ができなかった最大の理由はおそらく、金正日に9.17の時ほどの力がもう残っていないということなんだろうと思います。工作機関の中に手を突っ込んで、拉致した人間を引っ張り出してくるとか、あるいはそれ以外でも工作機関が関与した拉致被害者をですね、たとえ日本政府が認めていなくても出していくというのは、相当なリスクを伴うわけで、実際曾我さんの件ではですね、やったらば逆効果になっちゃったわけですね。

 そうすると、出してくるのはかなりの力を使わなきゃいけない。それが金正日にはおそらくできなかった、ということであろうと思います。

 そしてその「遺骨」、この時はおそらくちゃんとした合意ではなかったのでしょうけど、日本の中の誰かが、「どうせ鑑定なんかできないから、出してこい」と言ったのかもしれません。そうしたらば(遺骨はめぐみさんではないという)鑑定ができてしまった。で、話しが違うということに向こう(北朝鮮)としてはなって相当頭にきた、ということであろう。

 そうすると、その後やってきていること、今やってることもおそらく、そういう意味での落とし所を作りたいということに、それも北朝鮮側だけでなく、日本側だけでなく両方が既にある程度の合意が行われていると、思った方がいいのではないかと思います。

 ですから、今の流れているニュースをそのまま真に受けていますと、その方向へみんなどうしても流れていきます。非常に危険なことですので、ともかくここにおられる皆さんが、おかしいということは、しっかり思っていただきたいと。

 元々北朝鮮とは、ウソをつくことなんてのは、悪いとも何とも思っておりません。

「嘘つきは北朝鮮の始まり」

でありまして(爆笑)、
北朝鮮の「労働新聞」なんて、正しいのは日付くらいでありまして(笑)、
まあ今日のこの集会のテーマから言いますと、まあ

「嘘つきはよど号の始まり」

ということも言えるわけでございます。

 よど号グループも、後ほど有本さんのお母さんが、よど号の一人(赤木史郎)と話しをしたことを言われるかもしれませんが、まったく有本恵子さんの拉致を知らないと、言ってるわけですね。知らないはずがないということは、もう誰もわかっているわけでありまして、それを敢えて知らないと言うことは、彼らの言ってることもすべてはウソだ、ということの証拠でございます。

 ところが、日本人というのはマジメですから、もっともらしい顔をしてウソを吐かれると、ひょっとしたら本当のことが入ってるんじゃないかなと、思ってしまうわけなんですね。これが間違いで、そういう人でない場合には、そういう対応をせざるを得ないのではないだろうかと思います。

 そういう場合は、どういうふうにすればいいか? この会場で前にも言ったかもしれませんが、北朝鮮のやり方のウソの吐きかたというのは、わたくしは「試験問題戦術」という言い方をしますが、ともかくいい加減は試験問題を出して、ぶつけてくる。で、こちら(日本)側で交渉に当たる人というのは、だいたい非常に頭のいい学校の成績が良くて、東大をトップで卒業したような人たちが当たるわけですね。

 そうするとですね、試験問題というと無条件に解くものだというふうに頭にあるわけです。すると出てきた試験問題に、マス目に空白が空いていると、空いたままにしておくと、とても指が震えて禁断症状を起こしてしまう(ウス笑い)。そうすると、ともかく解答を書き込んじゃう。書き込んでいる間に相手は逃げていくわけです。

 しかしともかくマス目が空いていることは許せないということで、一生懸命マス目を埋めて、それから走っていって「ここは、こうおかしいじゃないか」と言って出す。そうするとまた向こうは、またいい加減な問題を作って渡してくる。こんな問題解いても仕方ないと思いながら、でも目の前にマス目があると埋めたくなってしまう。

 こういう交渉にあんまり頭のいい人使う必要はないですね。もうちょっと度胸があってですね、多少頭が悪い。試験問題を元々解けなかった人間を使ったほうが(笑い)、はるかに上手く行くわけでございます。

 北朝鮮という「国」相手に、まともな話し合いで信頼関係を作ろうなんてこと自体が、そもそも間違いなわけでございまして、金正日が代わってまともな政権ができりゃあ、その時はもちろんちゃんと話しをすればいんですけど、今のあの体制でまともに話し合いをしたって通じるわけがない。

 フツーのアメリカ人相手に、スワヒリ語(ケニヤやタンザニアなど東アフリカ地域で多用される言語)で話したって通じないわけですね。それと同じことです。北朝鮮相手に、普通の言葉で話しをしたって、朝鮮語で話そうが、何で話そうが通じない。「馬の耳に念仏」という言葉がありますけど、馬に言うことを聞かせるには、鞭でひっぱたくか、ニンジンをやるかどっちかぐらいしかない。

 そうすると北朝鮮に言うこと聞かせるには、経済制裁を初めとして圧力をかけることしか方法はない。実際に一昨年の前半、ですから3年前の(03年)12月の末ですか、平沢さんが中国(大連)へ行って、北朝鮮の日朝国交担当大使と会う。そしてその後4月に、山崎拓さんと平沢さんがまた行くと。あの時は、その後5.22の小泉第二次訪朝があるわけですけど、あの時一体北朝鮮はどうしていたかと。

 あの平沢‐山崎ルート以外にですね、あのレインボーブリッジ(小坂浩彰代表)という怪しげなNGOを使ったりとか、それから今の総理のですね、あの~(名前が思い出せない様子)腹の周りが120センチあるという秘書官(飯島勲首相秘書官)を使って、飯島秘書官と朝鮮総聯の大物の間とか、いろんなルートを使ってます。

 私、ちょっと見てて、何でそんなにあせるんだろうということを非常に思ってみていたんです。そこでわかったのが、結局あの時、経済制裁が怖くてしかたがなかったということです。あの前の年の暮れくらいから、経済制裁法案が具体化して決まっていく。次は発動だという話しになる。北朝鮮としては、何がなんでもそれを止めざるを得ないという状況に置かれていたわけでございます。

 そしてそういう状況の中で、なりふりかまわず日朝のルートを使っていった、というのが、1年半前の状況だったのではないか? その結果、小泉さんの第二次訪朝になった。そこに向かって、(帰国済みの拉致被害者)5人の家族の帰国最優先ということで行っていたので、そこでだいたい落としどころになっていったのだと思います。

 実際に5.22の小泉第二次訪朝で、北朝鮮は経済制裁は発動しないとか、あるいは在日朝鮮人に差別をしないとか、これは「差別をしない」というのは、つまり在日朝鮮人の個人、個人なんかどうでもいいんですね。北朝鮮からすれば、ただ収奪の対象でしかない。問題は、総聯に圧力をかけるのを止めたい、ということだけで、そのほとんどの目的をとりあえずは達成をしたということであります。

(続く)
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藤沢集会(2005/1/7)荒木和博氏【3】

2006-01-07 | 藤沢市民集会


これ裏を返せば、いかに北朝鮮がそういう制裁を怖がっているかと言うことでございまして、ならば、こちら側からは、それををやるしか方法はないであろうと言う風に思っています。。

本当にひどい状況の国ではあります、そういう意味で言うと。
ただし、これはですね、さっき言ってきたように、9.17の時には、あくまで結果的ですよ、あくまで結果的ですけれども、あの田中均さんをはじめとする、福田康夫官房長官かわかりませんが、ともかく北朝鮮側にですね、『拉致を認めろ』と『拉致を認めたら、日朝交渉進めてやる』と言う風に言って、だまくらかして拉致を認めさせたと。
北朝鮮は、朝鮮戦争も自分からやったと言っていない。あれ、南から攻めたと言っています。
大韓航空機の爆破事件も、ラングーンのテロもみんな我々知らないと言っている。
その北朝鮮が拉致だけは認めたのです。

いかに意味があったかと言うことであります。

そのあとは5人だけ、ともかく生きてるんだからともかく返してこいと、そうしたら戻してやるからと言って戻さなかったと。
そして次には家族だけ帰してきたら、後は(国交正常化を)進めてやるといって進めなかった。
と言うことでございまして、今回も、うまくいけば、辛光洙から、なんか取って、ものは進めないということも、まぁ、うまくいけばできるかもしれません。乗せられてはいけませんが。

と言うことで考えると、日本という国は、もどかしいんです。もどかしいし、かなり個別の工作事件では、やられっぱなしではあるんですが、全体としては間違いなく、北朝鮮を押しています。これはですね、ご家族の皆さんにとっては、もちろん自分の家族を取られているですから、一分一秒でも(早く)という事がありますが、私にとっても、そうしなければいけないという思いはあるんですが、少なくとも全体から見れば、こちらが押しているのは間違いないのです。

アメリカはクリントンの政権の時は、逆行しようとしていたと。そのときに、結果的にですけれどブレーキをかけたのは日本であったと。日本だけが、ある意味で言うと、だんだん、だんだんに強行になって、そしてしかもその方針をかえていないということでございます。

ですから、このことが続いていけば、私はですね、どっかで大きな転換を持ってくることができるであろうと、確信をしております。

アメリカの私の友人に前に言われたんですけれど『とにかく日本はすごい』と。これはですね、『5人取り返してきた』と。『北朝鮮に拉致を認めさせて』『アメリカでは考えられない』 と言っておりました。ちょっとまぁ意外な話で、我々ちょっといろんなところでお話ししますと、アメリカだったら、軍艦を送っても取り返してくるだろうという言い方するんですが、、まぁ、その友人、共和党系の人なんですが、『いや、アメリカ、そんなことしないよ』と言っておりました。『日本ができたのがすごい』と言うことでございまして、これはですね、もちろん社交辞令もあるでしょうが、我々自信を持っていいんじゃないかと思います。

なんか戦前はですね(具体的にいつどこというのは知らないんですが)ソ連に漁船が拿捕されたときに、ウラジオストックかどこかに、連合艦隊の船が戦艦か何かが行ってですね、港に向けて砲身をそちらに向けたらですね、返してきたと言う話があるそうで、もちろん日本でもそういうことがあったわけであって、今でも、こういう風に取り返してきたということを考えるだけでも、やっぱりそれ(奪還)はできるのであろうと言う風に思っております。

問題は、我々がこれができるんだというふうに確信できるか、それともできないかという問題です。
お恥ずかしい話で有りますが私自身もですね、あの羽田空港を(3年前の10月15日にですね)あの5人がタラップの上から降りてくる時に下で待っていたうちの一人ですが、あのタラップを降りてきた5人を見てですね、一番最初に思ったことは、『なんだやりゃぁ、できるじゃないか』ということでございました。

自分自身、もちろんそれはできると思ってやってるんですよ。運動盛り上げて、そして政府を動かせばですね取り返せると確信をもってやっていた、私自身が、目の前に生身の階段を降りてくる5人を見たときに、最初に感じたのは『なんだ、やりゃぁ、できるじゃないか』ということでございます。実感というのは、こんなに大きなものなんだなぁと感じました。

やられてる、やられてるとばっかり、思っちゃうとですね、なかなか、イメージとして湧いてきませんが、『絶対できる』と確信を持てば、それはおそらくすごい力になると思います。

北朝鮮と日本と比べてですね、これはもう、人口で六分の一、面積は三分の一、そして、国力、経済力は、そういうものは全く話にならない。国際的信用から何からですね、日本と北朝鮮と比べる方が、無理があるわけでございます。


まぁ確かに向こうは軍人が100万人以上いると。人口の20人に一人が軍人という国ですが、そのおかげで、飯食えないで、軍隊の中でも、なんか豚小屋つくったりとかですね、鶏小屋作ったりして、何とか飯くっているという状態のところなんですから、どこから言ったって日本が、そこにですね、負けるわけがないわけでありまして。

我々の力で、絶対できるんだと、このアジアの中でですね、そういうことのできる国は、我が国しかないんだと。そういうことを考えることによって、事態は間違いなく前に進むと思います。

こないだ、12月22日の東京の集会にはですね、レバノンの拉致被害者のお母さん(ハイダールさん)、それからタイの拉致被害者のアノーチャさんのお兄さん、そして韓国の拉致被害者の家族会のみなさんが見えられました。

あれはどういう事を意味しているかと言いますと、別にそういう風に決めてるのではありませんが、日本の力でああいう人たちをみんな、取り戻してあげると言うことです。

我々、外国人だから、それは外国がやってくれということは、これは言えないわけでございまして、この地域にあって、最大の影響力持っている我が国がそれをやらなければ、タイが助けるなんて事は、まずできません。
レバノンだって、あの時の4人取り返したのだって、非常に特殊な条件の中の話であって、本当の意味で、(自国=レバノン)力で取り戻したわけではない。それができるのは我々しかありません。

それをやる使命も我々には持たされているということであろうというふうに思います。

私ども特定失踪者調査会では、去年の10月の末から『しおかぜ』と言う名前で短波のラジオ放送を始めました。
まちがいなく北朝鮮の中に伝わっているということは間違いございませんので、これから先、今年はですね、この『しおかぜ』のプロジェクトを、単に短波放送発信するだけではなくて、むこうから消息を実際取ってくるという作業をですね、やると言うことにいたしております。これを聞いた人がですね、なんだかの形で、たとえば手紙とか、そういうものを送ってくれるとか、何処かに向けて、なんかしらの、シグナルを送ってくれるとか、それを受け取ることができるようにしておこうと、これからやっていくつもりでございまして、とりあえず東京中央郵便局に私書箱をおきました。

調査会のあります文京区後楽・・・と言いましてもわかりやしませんけれども、東京中央郵便局の私書箱何号といえば、これはもう覚えられやすいと言うことで。
放送も韓国語・英語できれば中国語も含めて、少しでも多くの人が聞いてもらえるように、していこうと言う風に考えています。
ともかくやれる手はみんなやる。

我々のやっていることに対して、『これは本当は政府のやることなのに』と言ってくださる方も、たくさんございます。これもありがたいのですが、私は、少なくとも政府だけがやることではないと思います。やはり日本国民全部の責任としてですね、ここで今平和なところで暮らしている人間の責任として、それはやらなければならない。だから私は今その役割にいるんだからやるべき事、それをやるということでございます。

今、この問題を通して、我々やらなければいけない、考えておかなければならない事は、(この国は)今ここに集まっている皆さんをはじめとして、今この国の中に住んでいる人たちだけのものではないと言うことでございます。

この国が今ここにあるためにはですね、もう何千年も日本という国の名前もなかった頃から。我々の先輩たちが営々としてこの国を築いてくれた訳でございまして、そしてこれから先、このくににですね、次の生命がどんどん生まれて、我々の後を継いでいくわけであります。

我々がやるべきことはその中継ぎです。
全体の、そういうみんな含めた日本国民という意味では、我々の数、1億二千万というのはほんの僅かにすぎません。我々がやるべき事というのは、これまで先人が作って来てくれたことを汚さないこと。そしてこの次の世代にですね、あの頃の世代がいい加減だったから、こんなふうになってしまったということを絶対に言わせないように、次の世代にちゃんとした国を引き継いでいくことであろうと。

そのためには、やっぱりそれ相応のですね、我々自身が犠牲を払う必要があるのではないだろうかということでございます。
我々にはそれだけのことをする力がございます。

今、最初に言いましたようないろんな動きの中で動いておりますけれど、しかしこの国の今の状況をみますと、本当に確信を持ってですね、何が何でも(国交正常化を)やってやろうというところまでの確信では、私はないと思っています。いろんな思惑がごちゃごちゃ集まってるうちにこういう風になっているんだと思いますが、そうであれば、こういう状況の時に打開するのは、最終的着地点はどういうふうにするのかと。何を最後やらなければならないのかというような事でございまして。それをしっかりと見据えてやっていけばそんな大きな間違いはないであろうと思います。

拉致問題に関する限り、最終的な到達点というのは、『すべての拉致被害者を救出する』というこれ以外の何物でもないということでございまして。これはもう当然、そこから派生してですね、北朝鮮に住んでいる2000万の人たち、すべてが平和に暮らせるようになっていくということに間違いなく繋がることでございますので、そこに向かっていくと言うことであろうと思います。

本当に、この正月ですね、お休みの時、おいでいただいた皆様に感謝いたしますと共に、後もう少しで私は、それが実現すると思いますので、ご協力をお願いいたしまして私の話を終わらせていただきます。

ありがとうございました。(拍手)
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藤沢集会(2005/1/7)高英起さん

2006-01-07 | 藤沢市民集会
どうも、ただ今ご紹介に預かりました高と申します。


今私はですね、「救え北朝鮮の人民緊急行動ネットワーク」RENKというNGOの東京事務局で活動をしていますが、RENKと言っても、ご存じでない方もおられると思いますので、若干簡単にRENKという組織、市民団体の紹介と、我々がいかに拉致問題、そしてよど号事件に関わってきたか、簡単に、時間もおしてきているようですのでお話ししたいと思います。

RENKの結成というのは、1993年に結成されました。93年に、RENKの代表の李 英和氏(リ・ヨンハ)という関西大学の教授をされている方なんですけれども、李 英和氏はテレビ、メディア等で発言をされているので、みなさんもご存じの方も多いと思います。91年に李 英和氏が北朝鮮に留学をしまして、そのときの体験を元に、北朝鮮がいかに民衆を弾圧して人権を無視しているかと言うことを日本の社会で広めようということで始まったNGOであります。

参考
 ◆救え北朝鮮の人民緊急行動ネットワーク

 ◆RENK東京


毎年、93年に、RENKを始めたときに、北朝鮮はすぐ、きっと崩壊すると思っておりました。
ところがですね、残念ながら12年間、この間北朝鮮という体制が続いてですね、なかなか北朝鮮の人権問題、拉致問題も含めてですね、解決の道がまだ見えないというのは非常に残念ですけれども、今年こそは、何とか北朝鮮という金正日政権が崩壊して、北朝鮮の民衆、そして拉致された方々、全てが救出されることを願っております。

とは言いながらも、毎年ですね、年が明けるたびに、今年こそは、今年こそは、北朝鮮は倒れるだろうと言う風に言いまして、早くも13年間たってしまいましたけれども、先ほど荒木先生のお話もありましたように、何か膠着した状況も動いている中で、何か大きな動きがあるんじゃないかと思っております。

まずですね、よくRENKという立場でいろいろな北朝鮮問題を話をしているとですね、「RENKはなぜ拉致問題にあまり積極的でないんだ」というおしかりの言葉をよく受けることがあるんですけれども、決してそうではないんです。

RENKはですね、実は1995年当時から、よど号事件を通じて拉致問題というものをキャンペーンをしてきました。
まず、よど号、よど号グループとの関わりについて、若干話させていただきたいと思うんですけれども。
よど号とは僕、個人的な話になっちゃうんですけれども、すごく因縁を感じるんですけれども。

70年に彼らがハイジャックして北朝鮮にいっちゃったと。まぁ、その後20年間以上、20年間近く、80年代後半ぐらいまで、ほとんどその情報というのは入ってこなかったですね。

ところが、僕が、(1988年か89年だったと思うんですけれど)その当時、僕は朝鮮総連の傘下にある「朝鮮留学生同盟」というところに参加して活動していったんですけれども。
そこの事務所にですね、ある本がありました。本の著者は田宮高麿です。よど号グループのリーダーです。
本の題名は「わが思想の革命」だったと思います。確かサブタイトルがピョンヤン18年の手記だったと思います。
 
 参考
 ◆【わが思想の革命―ピョンヤン18年の手記】田宮 高麿 (著)


その本を見たときにですね、よど号グループという存在自体は知ってたんですけれども、どういう存在なのかというものに非常に興味がわきまして、その本を読み始めたんですね。その本が、ちょっと失礼な言い方をすれば、ちょっとおもしろかったんです。おもしろかったというのは、何も彼らの考え方は素晴らしかったとか、そういう言うことではなくて、ばからしかったんですよ、ほんとに。
その本には田宮高麿がいかに日本の革命運動の中で挫折して、北朝鮮で主体思想に目覚めていくかと言う課程を本人の手記という形で書かれているんですけれども。
結局書いていることは、北朝鮮の労働党とかの公式見解と全く変わらない形だし、いかに金日成がすばらしいとか、金正日さんが素晴らしとか、みなさんご存じの、主体思想が素晴らしいとか、そう言うことしか書いてないんです。

そういうふうに自分たちの考え方が変わっていく課程の中で、彼らは「総括」「自己批判」と言う言葉を使って、彼ら自分自身を高めていったという話なんですよね。

その「総括」「自己批判」がどういう自己批判かっていうと、彼らは北朝鮮に行って集団で生活をするわけなんですけれども、集団生活していたところが、二棟あったと。一棟は、北側にあって一棟は南側にあったと。毎朝体操をすると。
体操をする場所を巡って、本人たちが、えらい大げんかをして、それについて「総括」するわけなんですよね。(会場笑い)

「おまえら、こんなアホなことするために北朝鮮いったんか」ということでその時は大笑いしたんですけれども。

書いていることは、それはもちろん彼らは大まじめに書いているんですよ、やっぱり。彼らはそう言うことを通じて、自分たちの革命精神の甘さを克服していったというように自画自賛しているようなもんですけれども。

まぁ、その本を読んで、僕もわかったんですけれども、よど号自体が決して彼らが本当にイデオロギー的に、本当の革命を目指して北朝鮮に行ったかというと、やっぱりこれは僕も疑問に感じて、一言で言っちゃうと、<若気の至り>だったんじゃないかと思うんですよね。ただそれはそれで、決して僕は否定しないっていうか。それはそれで裁かれるべきことなんですけれども。

彼らが<若気の至り>で行っちゃったと。
思想的にも彼らは別に何も――もちろん彼らは日本の中で古典的なマルクス主義とかいわゆる古典的な本を読む中で彼らなりの理論を持っていたけれども、当然そんなものは北朝鮮では通用しないわけですから、そんな中で彼らが徐々に徐々に北朝鮮にすり寄っていく過程というものが、読み方を変えると、そういうことが克明に書かれているところが、私自身は、それがおもしろくて、こうやって人間というのは、洗脳されるんだなと思いました。

ただ読む中では、僕自身も怒りがこみ上げてきて、結局彼らが北朝鮮で生活できているのは、結局彼らを支えているのは北朝鮮の人民だったと言うことなんですね。


ご存知のように、ご存じの通り一般の北朝鮮の人民ほとんどの方は食糧もも満足に手に入らないし、住むところも満足に手に入らない、もちろん移動の自由もない中で、生活している中で、彼らは(もちろん日本に比べれば贅沢な暮らしはできなかったかもしれないけれども)一般の、普通の人の生活をしながら、自分たちの好き勝手に、しょうもない体操の場所をめぐって、「総括」をするような生活をしていたということに関しては、ちょっと聞きたい。一言で言えば<寄生虫>だと思ったんですよね。

そういうことがあったのでよど号に対する怒り、自分自身の苛立たしさというものがあったんですけれども、幸いなことに、その7年後、そのメンバーと直に出会う機会がありました。そのメンバーというのは柴田安弘さんです。

なぜ柴田さんと出会うことができたかというと、僕は関西の生まれで、(関西で)大学生活を送ってたんですけれども、もともと赤軍派というのは関西が強かったんです。
赤軍派にも、いろいろ、セクトといいまして、いろんな派があるんですけれども、全体的には赤軍派というのは非常に仲がよくてですね、わりと行動とか、いろんな運動とか一緒にやってることが多かったんですね。

その中で、赤軍派のあるグループというのがやはり、よど号を支援していました。
その支援していた中心人物が、高槻にある高愛病院という病院の院長の方だったんですけれども。そういうこともありましてですね、その院長の方が主催で、柴田康弘さんの話を聴くという講演会というものがありました。

そのときこれはもう千載一遇のチャンスだということで、ちょっとこれは柴田をとっちめてやろうということで、RENKのメンバー10人ぐらいで行ったんですね。
ところが講演会といっても、ほとんど内輪のメンバーばっかりで、きてるのは、5、6人しかいなかったんですね。RENKのメンバーの方が多かったんですね。(笑い)
ここで、我々が柴田を糾弾というか、あまりにも攻撃するのもちょっと申し訳ないなと思いながらも、柴田の話を聴いていたんですね。
ところが彼の話というものが、心がないというか、人間のかけらも感じないような話であることから、非常にわれわれの仲間もエキサイトしてですね、柴田に手は出しはしませんでしたけれど、かなり口で厳しいことをいいました。

基本的に彼の話を聴いていてびっくりしたのは、彼は「政治活動に興味がない」 と言い切ったんですね。じゃぁ、彼が何に興味があるかというと「自分はビジネスに興味があると」と。

 我々が、柴田さんと話をするときに、ひとつ期待したことがあったんですよ。たとえ間違っていたかもしれないけれど、少なくともあなた達は、日本の人民のために革命を起こさなければいけないと考えて北朝鮮に渡ったわけであるから、そういう、今の、自分たちのやってきたこと、20年間の総括ですよね、彼、特に総括です。それと今の日本、日本人に対する思いというのはどうなんだという、そこに少しでも人間性のかけらというか、人間性のある言葉というのを聴けるんじゃないかと期待したんですけれども、残念ながらそういう話は一切聞けませんでした。

彼らは――
もちろん北朝鮮に対していうことは、(北朝鮮の)公式見解とまったく一緒で、北朝鮮には飢餓もない、飢えも無い、もちろん人々は苦しいけれど、普通に生活している、そういうことしか言わないし。
じゃぁ、何であなたは日本に帰ってきたのか、と聞くと「自分は商売をしたいからだ、金儲けをしたいんだ」と、そういうことしか言わない。
そういうこともありましてですね我々は、かなりエキサイトしてですね、彼に厳しい言葉を浴びせかけてですね、最終的に最後に僕が、彼に言葉を一言投げかけたんです。

「あなたは16歳、(彼は16歳で北朝鮮にわたったと思いますけれど)、16歳という、本当に少年の時期に、北朝鮮に渡って、それから20年間(当時36歳だったんですけれども)つまり自分の人間形成の上で大半を北朝鮮で過ごしたわけですよね。ということは、貴方は今日本に来ていますが、いつか北朝鮮に帰りたいと思わないんですか」と。

彼は、はっきりと「(北朝鮮に)帰りたくない」と言ったんですよ。「えっ、どうしてですか?」「それだけ二十年間も北朝鮮で暮らしたと、ましてや貴方が言うように、北朝鮮は素晴らしい国だと言ったのに、どうしてですか?」と言ったら、「自分は日本人だから」と言うような言葉をきっぱりと、そういうことを言ったんですね。

もちろん、日本人であるから日本に帰りたいのは当然ですけれども、やはりそれは、彼らがやってきたことに対する、あまりにもドライな口調というものに、僕はちょっとあきれ果てて、「これは、これ以上言ってもちょっと無理かな」というふうに思いましてですね、柴田さんとの話し合い、講演は終わりました。

後日談がありましてですね、柴田さんは高槻というところの支援者を中心に生活されてたと思うんですけれども。高槻で我々RENKの若いメンバーだけで、ちょっと居酒屋で飲んでいたときに、飲んだくれてる柴田さんを見かけたんですね。
(こちらも)結構飲んでいたので、後輩のひとりが、「あれ柴田ちゃうの?」とかいうて、「あ、そうみたい、無視しよう、無視しよう」と僕はいってたんですけれど「ちょっと、けしからんから、ぼこぼこにしてきますわ」 とか一人が言い出しまして。
でもそれは、さすがに警察沙汰になるとやばいかなと思って、まぁ、それはかろうじて止めたんですけれど。今から考えるとですね、帰り際にでも頭を一発でもはたいたらよかったかな、とも思っています。
まぁそういう関連で、我々としては、拉致問題をよど号を通じて関わってきました。

まぁ、荒木さんのお話の中で、拉致問題今後の展開とか、いろいろあると思うんですけれども。
基本的に、我々RENKというものは、今は「北朝鮮の民主化」、もっと言うならば、「金正日労働党政権の打倒」というものをスローガンに掲げています。そのために、我々は今、脱北者の救援や支援、もしくは脱北者の情報とか、北朝鮮の内部情報とかを日本に広げるキャンペーンをしております。

先ほど言いましたように、決して拉致問題と言うものに関して、おろそかにしているわけではなくて、我々、基本的に拉致問題も、北朝鮮の難民問題もそうだし、もっと言うならば、北朝鮮の国内にいる北朝鮮の人々の人権弾圧の問題、全てがやっぱりひとつの(解決の)道に結びつくと思うんですけれども、その道というのは「金正日労働党政権の打倒」ということだと、こういうふうに思っています。

以前ちょこっとだけ、拉致問題の中ででお話ししたときに、僕はこういうふうに言ったんですね。
「難民もそうだし、民衆もそうだし、敵は金正日政権だと。拉致されている家族の方々、拉致されている人々の敵も金正日政権だと。敵は一緒なんだから、これは一緒に手を組んで戦うべきではないのか。」と。
それこそが、逆に言えば、金正日政権が怖がっていることではないかと、僕は思っております。

金正日政権というのは確かに、荒木さんが言ったように、話ができない、話しても無駄な政権ていうか、そう言う相手だと思うんですけれど、僕はやっぱり彼ら、彼らと言うより、金正日自身は、おそらく北朝鮮、韓国等含めてですね、周辺諸国の世論にというものを、非常にそれに関しては気にしてるというか、気にしてると思います。

僕は、常にですね、基本的に市民運動としてやってるわけでして、いろんな、政治的な、政治家に対する働きかけとかは、そういうことはもちろん否定はしないし、それはどんどんしなければならないんですけれども、自分たちのできることは、この北朝鮮の人権弾圧という状況をにいかに日本の中に広めていく中によって、日本社会の世論を高めていく事なんじゃないかと思っております。

さきほど、9.17以降、家族の方が、羽田に帰ってきたとき、荒木さんが「やれば、できるじゃないか」と思ったと言うことをおっしゃっていました。あの時僕自身も全くおなじ想いをその時、持ちました。

「あぁ、やっぱりこういうふうに世論が高まって、そういうふうに政治家を動かせば、こういったことは動くんだ」 と。


ただその後、膠着状態になる中で、結構みなさんの中には、「本当に、これで大丈夫なのかな」という不安感があると思うんですけれども、やはり僕は常に、この拉致問題を語るときに、人質を取られている家族というものが、一言で言えば腹くくってるわけじゃないですか?
普通そういう誘拐事件とかで人質を取られちゃったら、普通家族って言うものは、腰が引けちゃいますよね。ほんとに大丈夫なんだろうか?って。強硬姿勢をとることによって人質に何か起こるんじゃないかというふうに弱気になっちゃうこともあるんだと思うんですけれど。この間、やっぱり、拉致家族会のみなさんが、本当に腹をくくっていると言うことは、やはりそれに対して、我々は我々のやり方で、答えるべきじゃないかと思っております。

まぁ、RENKとしては、こういった感じで、いろんなところでお話しさせていただいているんですけれども、基本的には、先ほど言いましたように、北朝鮮の労働党政権の打倒と民主化を求めております。

拉致問題も含めて、全ての北朝鮮に関わる人権問題が一日でも早く、もっと言うなら何としてでも、今年中にはそれを解決できるような形で、今後も頑張っていきたいと思いますので、よろしくお願いします。

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藤沢集会(2005/1/7)出席議員紹介

2006-01-07 | 藤沢市民集会
第13回藤沢集会6
『出席議員の紹介』

★司会者

今日はですね、神奈川県内の地方議員の先生方が何人か駆けつけてくださいましたので、議員の先生方のご紹介をさせていただきます。

海老名市議会議員 太田祐介先生(拍手)
鎌倉市議会議員 松尾崇先生(拍手)
鎌倉市議会議員 原桂先生(拍手)
横浜市議会議員 工藤裕一郎先生(拍手) 工藤先生は所用があって(先に)帰られました。

それでは拉致被害者・有本恵子さんのお母さんでいらっしゃいます、有本嘉代子さん、よろしくお願いします。(拍手)

連携:話の花束

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藤沢集会(2005/1/7)有本嘉代子さん

2006-01-07 | 藤沢市民集会
『有本嘉代子さんのお話』


皆さんこんにちは。(会場より「こんにちは」の声)
有本恵子の母でございます。
お正月のお休みの所、こんなにたくさん来ていただいてありがとうございます。
ちょっとかけさせて頂いてお話させていただきます。(用意された椅子に腰掛ける)

いろんな情報がこないだ内から出ていますけれども、今荒木先生からお話を聞いて納得いたしました。
そうだろうなという気がします。
北朝鮮の言う事はほとんどが嘘で固めてます。
だから私たちが9月17日、今思い出しましても残念と言う言葉しか出なかったんです。
一生懸命に9年間は、(北朝鮮から)手紙が来た事によりまして、1988年の9月の6日に来まして。
その事によりまして私たちが運動をすることが出来たんですが、家族はというより、主人と二人で、ほとんど主人が動いていたんですけれども。
本当にどこにお願いに行っても、どっこもキッチリ話を聞いて下さらなかった。
外務省も行きましたし、日弁連ですかね。
弁護士の会にも行きましたし、政治家の方にもお願いしましたし、どっこも本当にきちっと相手にして下さいませんでした。
そのときを思い出しますと、これは本当にどうすれば良いかと言う気持ちで、無我夢中で9年間は過ごしましたけれども。

横田さんのことが表に出まして1997年の3月に家族会を結成しました。
そのことによって、皆さんにも(拉致問題を)知って下さいましたし、私たちの運動もすることが出来るようになりました。
それからでも1997年ですから今年が06年ですから、もう9年目に入ってます。
でも、5人の方は帰って来られましたけれど、何にも、本当に私たちから見ましたら進展が無いんです。
あれはとにかく(一時帰国後、一旦北朝鮮に)返すという約束で5人は連れて帰ってきた。
向こうも5人を出したんでしょうけども、向こうにしたらすぐに帰ってくるという自信を持って、あの人たちを返したんだろうと思います。
これ、どういう人選だったかは分からないんですけども、この人だったら間違いが無いんじゃないかな?と言う人たちを返して来たんじゃないかと思うんです。

だから、未だに、本当にこれ申し訳ないんですけど、私らの気持ちとしたら、本当にもっと知っている事を家族だけに言うて貰って、これは絶対に口外しないで下さいと言われたら、私たちはしません。
だから、家族は一言でも向こうの事を聞いたら本当にいくらかは安心する点もありますので、何とか知ってる範囲の事は言って頂きたいなと思いますけども、未だに肝心な事は何も私たちは聞いておりません。
だから先ほど荒木先生が仰ったように、(辛光洙、朴工作員などの実行犯の)名前を本当にあの人たちが出したのであれば、どういう意図で出してきたのか分かりません。
本当にまだこの日本の国に、24年間向こうに自由を奪われて私だったら、うちの主人がいつも言うんですけども、本当にこんな事して酷い事してという気持ちが薄れてしまって、北朝鮮に馴染んでしまったのかな?と言う気持ちもするんですね。

だからそれをやはり言うて聞かすのは私は親だと思うんです。
やはり親たちが、私たちは一緒に運動したんですから、私たちはこんなに運動して来たんだから、あなた方は自分達の知ってる範囲の事は家族に言いなさいよ、って言うて下さったら何とかって思うんですけども。
そのところは家庭の中に入ってみないと、どうしてもあの人たちの気持ちが動かなくて言えないのか、そこの所分かりませんけども。
もう、これは何時の時期か聞ける事があるか。
それともこの間も主人がああいう調子ですから、地村さんのお父さんに言うたんですね。
「もしも私たちのこの家族の中で帰ってくることが出来て、その子がパッと本当の事をしゃべった場合は、あなた方の息子は向こうの方を向いて歩かれへんで」と言う事をパッと言うたんですよね。
だけど、余り向こうも被害者なんですから責める事は出来ませんけれども、私たちとしてはそういう思いはあります。

私とこの娘も丁度この1月12日が誕生日です。
で、46歳になります。(会場より「ほぉ~」と言う声)
だから23年間日本で暮らして、後の半分は北朝鮮で暮らしてしまいました。(嘉代子さん涙ぐむ)


涙を拭く明弘さん

横田めぐみさんの場合は13歳で(拉致されて)行って、41歳になられるんですね。
日本で暮らしたよりも長い時期を向こうで自由を束縛されて暮らしているんですね。
だからいつも思いますけど、まだ暑い時とか春とかは余り思わないんですよ。
この寒いときは本当に、「寒いのにどうしてるかな?」と言う思いがずっとしてます。

だけど何とかして助けてやりたいという気持ちと、日本人としてこういう問題はね。
捨てて置けないんですね。
これが私の子供でなくても、これは日本として自分の国の国民が連れていかれているのに、国内まで入って来て連れて行かれているのに、なんでこんなに20年30年長い人は40年、黙って政府は見過ごしたかと言うことが非常に残念です。

昔の日本人だったらこんな事無かったと思います。
私も大正の一番最後に生まれましたので、その時分の教育を受けております。
だからあの、日本人はこうあるべきだという事をきちっと教えてもらっています。
で、先ほど荒木先生が仰ったように、やはり私らの時代にきちっとして、それを後子供・孫の時代に継いで行くという気持ちはあります。
今のままだったら恥ずかしくてこのまま子供たちに譲れないです。
本当に日本の国は、本当に20年も30年も先だったら今のままで行ったら、逆に植民地になってしまうのじゃないかしらと考えます。

だからもう本当に一日も早くこれをきちっと思い直して、政治家がこれは目覚めてもらわないかんのですね。
自分の票とかお金とかそういう事ばかり先行せずに、この国がどうすれば良くなるかと言う事をキッチリ考えて頂いて良い政治をとって頂いて、日本の国を次の世代に譲っていくという事を考えねば駄目じゃないかなと言う事をいつも思っております。
子供を連れて行かれたのは本当に辛いですけども、それよりも何よりも日本の国が情けない国になった事の方が、私は本当に辛いと思います。

長い年月です。
毎日毎日、思わない時はありませんね?
昼は何となく忙しいから用事にかまけてなんとも思ってませんけども、夜になった時なんか思います。
「今どうしているだろうかなぁ」って、寒いのにねぇ。
曽我さんも言っておられましたけれど、「寒いから夜なんか着れる物全部着て休みよったんよ」って、そういう事を聞いてます。
だから本当にどんな思いで暮らしているんだろうなと思いますと、今荒木先生がして下さっている放送ですね。
あれで私もこの間、私の思いを一応書きましてその事を読み上げましたんですけども、どこかで聞いてくれて、しっかり気を持って、何時の日かきっと日本に帰れるという希望を持って、前向きで一日でも暮らして欲しいなと私はいつも思っています。

一口で23年と言いますけど長い年月です。
この間何で、日本の国がこうして長い間拉致された人たちを放ってたんかなぁと言う気持ちはずっとありますね。
だから私とこ一番最初に手紙が来まして、1990年に金丸(信)さんが訪朝なさる時ですね。
その時に地元の国会議員の先生にお願いしてこれを金丸さんに渡して下さいと言って、これから訪朝なさるんですから、こういうことが日本の国にあるという事をしっかり向こうの国に伝えてくださいという事をお願いしたんですけども、その方が帰って来られてその事務所に私らが寄せて頂いた時に、なんか他所事ばっかり言われたんです。
だからこれは向こうへ行ってこの事をきちっと話さなかったなと思ったので、その時は本当に頭から冷水を浴びたような気がした。
これだったら本当に助ける事が出来ないなと言う事を本当に思ったと言っております。

だから何かがあって、そういうような感じになったと思うんですけども、1990年からず~っと始まったその国交正常化を、何人かが行かれましたけれども、本当にきちっとした交渉はどなたもなさらなかったんじゃないかな?と思います。
皆北朝鮮ペースの交渉ばかりに終わってしまって、今度小泉首相が行かれて5人を連れて帰ってきました。
けど、その時に何かの約束事があったんだろうと思います。
だからああいう形でこれで結局5人が帰ってきて、結局その家族も帰ってきてこれで幕を引こうとしていらっしゃるんだろうと思いますけど。
今本当に国民の皆様方が、9月17日以降やはりマスコミも私たちの事を放映しましたり紙面に書きますものですから、それが分かってきて、やはり国民の皆様方の世論が物凄い盛り上がってますので、それは出来ないという気持ちは持ってらっしゃると思うんです。
だから本当に国の体を私は成してないと私は思うんですね。

一度報道の方が恵子が行った所を辿って行きたいので、ロンドンへ行って下さいと言われましたので、ロンドンも2度行きました。
その時に向こうでお世話になってました下宿先ですね。
ポールさんて方なんですけど、その方が、恵子がいなくなって今年が18年目か19年目だったんです、その時。
「それだけ日にちが経つのに、日本の国は何をしているんだ?」と言われました。
「イギリスだったらこんな事放っとかないよ」ってそう仰いました。
だから外国の方の方がね、本当にね、言葉は分からないんですけれど、言われる内容がこちらに伝わってくるんです。

それから以降に、斎木審議官と中川(昭一)大臣と一緒に一度ジュネーブの人権委員会にも行きました。
その時に横田早紀江さんの書かれた本の翻訳した物を持って行きまして、人権委員会の高等弁務官のデメロさんと言う方ですけど、その方にそれぞれの家族が一人ずつ、「うちはこうなってこうで、行き先が分からなくなって、結局北朝鮮にいることが分かったんです」と言う事を皆が説明一人ずつ申し上げまして。
最後に横田めぐみさんの本をお見せして、「それは私が書いたんです、それを翻訳してありますのでどうぞお読みください」ってお渡しした時に、第一声にその方が、「私の息子だったらどんな思いがしたでしょう」ってそう仰って。
それで「この本は私は目と心で読みます」って仰いました。
で、「私がここにいる限りは絶対にあなた方の力になって、帰れるように努力します」って言って下さったんですけど、残念な事にあの方はイラクへ行って亡くなられたんです。
爆弾テロに遭われて亡くなられて、この間そこへ(=デメロ氏のお墓)中川大臣がお参りしてくださって、そのときの写真を持って来て下さいました。

本当に外国の方は本当にそう言って、言葉は分からないんですけど言われる事はこちらへ胸に通じて来るんですね。
だから本当にこれだけの事が日本の政治家に出来ないのかな?と、いつも残念で仕方が無いです。
だからどういう形でこういう事になってしまったのか、分からないんですけれども、先ほどもいろいろな方言われたように郵政民営化でああいう形になられましたけど、この拉致と言う問題は国としてどうしても避けては通れない問題だと思います。
自分の国の人間が日本の国まで工作員がたくさん入って来て、それで連れて行くんですからね。
それで知らん顔して何年もそれを隠蔽して臭い物に蓋をするようにして今まで来たと言う事、本当に私たちは納得がいかないんです。
だからこれはどうしても一番に日本の国としては、解決しなければいけない事だと言う事をしっかりと頭に入れていただいて、何とか政治家の方々がこれをして頂きたいと思います。

でないと、私たちは向こうへ行って交渉出来る立場じゃないんですから、やはり外務省の方に行って頂いてして頂かなければいかんのですけれども、今荒木先生が仰ったように本当に外務省の方は頭が良いもんですから、きちっと1足す1は2と言うふうに、答えが出て来ないといけないんだろうと思います。
だから主人はすぐああいう形ですから、この間も「向こうへ行ってこちらの希望通りの答えが帰って来ない場合は、もう良いですから、もうとことんまでね、しなくて良いから、もう席を蹴って帰って来てださい」って言ったんです。
したら斎木さんも一生懸命して下さるんですけども、「そしたら私たちもう必要ないですね」ってちょっとむっと怒られたんですけども、本当にその位にしないとね。
あの国でまず話し合いは無理じゃないかと思うんです。

もう、話し合いはずっと、1990年に始まって現在まで続いております。
でも話し合いではまず無理だろうと思います。
だから何とか、経済制裁より他に無いんじゃないかな、と思うんですね。
私たちもどうしたらちょっとでも進むんかな?と日夜本当に、何も出来ないんですけども思うんです。
だけど本当にどこの集会へ行ってもたくさん来て下さって、道を歩いておりましても何人かの方が必ず「頑張ってくださいよ、私たちはずっとテレビ見て応援してますからね」って言って下さいます。
これが一番心の励みになっています。

だからいつも言うんですけども、ここで皆さんにお話している時は、皆さんの思いがね。
なんかこうこちらに伝わってくるわけですよ。
だから話していて一番嫌な所はどこ?って言われるんですよ。
そう言いますと、議員さんの所でお話しするときが一番返って来ない。(笑い声)
きちっとこっちを向いてくださってるんですけどね、気持ちがこっちに全然伝わって来ないんですね。
だから偉い物だな、気持ちと言う物は何も言わなくても通じる物だなと、いつも思いもってお話させてもらっています。

だけど本当に私らこんな所でお話しするような者じゃなくて、本当に平凡に子供を産んで。
あの、たくさんいるんです、私とこは女の子が5人と男の子が1人。
私はきょうだいは、事情があって一人で育ったもんですから、寂しいもんですから、子供はたくさんの方が良いという気持ちでたくさん産んだんですけれども。
なんとなくうわっと大きくなって、それぞれ自分が勉強が好きな子は大学行ったら良いし、あんまり好きじゃなかったら高校でも良いから自分の勤める所は自分で決めて、自分がここへ行きたいという所は自分が努力して、勤めだけは一生懸命してね、と言う感じで何となく大まかと言うたら良いのか。
そんなに、じゃ一生懸命しなさいよしなさいよと言う形でなくて、何となく過ごしてきましたけど、どの子も本当に真っ直ぐに育って一応、結婚してない子も中にはいますけども、一応家庭を持って。

一月一日の日は全部寄って来るんですね。
そうしますと家族全部寄せますと20人くらいになるんです。
この中にいつも思いながら見てるんですけども、恵子がいたらなと言う気持ちはあります。
あの子も向こうの知らない土地で子供を産んで大きくして、どんな思いで子供を産んだんだろうなという気持ちがあります。
やはり親がありましたら、お産をしましたら(実家に)帰って来て、ある一定の時間は親が見て世話しますけれども、あの子はそれが何にも無くて、知らない所で非常に不便な所で子供を大きくして、どうしてるんかなぁというような思いがずっとあります。(少し涙ぐみながら)
なんとか私ら元気な間に帰ってきて欲しいなと言う気持ちがあるのと共に、やはりその思いはみんなあるんですね。

だから今特定失踪者の人もたくさんいらっしゃいます。
私たちはこうして表へ出てお話も出来ますし、政府の方も会って話も出来ます。
でも特定失踪者の方は本当に雲を掴むみたいな物ですね。
今の所、政府も取り合わないんですよね、ハッキリ言ったら。
何でかな?と思うんですけども、この人だったら間違いないと思う人でも、どういう訳か認定しないんです。

私の場合も家族会を作った時は認定されてなかったんです。
だからもう、私は思ってました。
国が認定しようとしまいが、私とこは向こうから手紙が来たんだから、その手紙が来たってそれが「北朝鮮の消印が無いから」と仰いましたわ。(会場内少しざわめく)
外務省持っていきました時にね。
「だから信用できない」と言う言い方でしたね、要は。
北朝鮮の消印で送れる筈が無いでしょう?
だからそういわれたし、それで全然家族会に入りながらず~っと認めませんでした、国としては。
拉致であると言うことを認めたのは、八尾さんが2002年の3月12日に法廷で「自分が恵子を拉致しました」と言う事を明らかにしました。
どういうわけか、その前日に認めたんです。
前日に拉致であると言うことを認めました。
国が何を基本に拉致を認めるのか?そこも分かりません。

で、八尾さんの件もありますけれども、いろいろ言われました、あの時もね。
「えらい寛大でしたね?」って言われたそうですけども、何であの時主人が寛大になったか?と言いますとね。
その9年間、二人が動いてどっこも取り合ってくれなかった、その辛い思いがあって。
この人が出て来る事によってきっと道が開けると言う事もありましたし、あの時はかなり警察も八尾さんに期待を持ってたんですね。
帰って来たあの時は赤木(志郎)と言う人の裁判だったんですけども、よど(号ハイジャック犯)の人は帰ってきても何も喋らないんです。

それで一定の時期が来たら執行猶予付きで無罪放免のような形になりまして、平気で街を歩いてます。
だから本当になんであの人たちが帰ってきて、拉致をした人たちが帰ってきて大きな顔をして日本の国で暮らして、拉致された方が何で帰って来れないか?
それでもあるし、帰って来た人が自由に(日本と北朝鮮との)往来が出来ると聞いてます。
それもおかしな話です。
だから本当にこの日本の国はおかしくなってますから、そういうおかしな法律があるなれば、それはきちっと直して、きちっとした法律を作って、そんな人が行き来したら良い事は絶対無い筈です。
そういう人を自由に北朝鮮と日本を行かせるという事を、絶対にさせないようにして頂きたいと私はいつも思っています。

拉致の問題で日本の方々が、元来の日本の姿に戻ったんじゃないかなと思いました。
2002年に帰って来ましてその年の、(翌年)有楽町フォーラムで全国大会がありました。
その時にたくさん来てくださって、その時に6000人程入れる中に、1万人以上の方が来て下さって中に入り切れなくって、あの時は横田さんが表に出て断ったんですね。
「中にお入り頂けなくて申し訳ないです」と言う事を言って頂いて、そんだけくらいたくさん来て下さったあの時に、有楽町フォーラムの緞帳がばっと上がりました時に、本当に私は感激で胸が一杯になって涙が止まりませんでした。
本当に日本の国の国民の皆様方は、やはりみんなきちっとした日本人だったと、これだけの方が私たちのために来てくださったと思いました。
だから私はいつも日本人に生まれて来て良かったというような教育を受けてますし、いつもそういうように思っています。
だから本来の姿に戻ったと思いました。
この事によってきっとまた新しい、本当に昔のままの日本人がまた蘇って来ると思うんです。

今、政治家の方々がきっちりとそう思い直して頂いて、こんな事していたらいかん、こうせないけないということをきっちり思って頂いてきっちりした政治をとって頂いて、日本の国をこうであると言う事をね。
国民の皆坂形の前できっちりと知らして頂きたいと思います。
そのことによって私たちの子供たちも取り返せると思うんです。
今の状態ではとっても取り返すことは出来ません。
だからあの、経済制裁一国がしても駄目だ、他の国が助けるんだからと言う事じゃなくて、日本の国は日本の国としてするべき事があると思います。
この船(=万景峰号)も止めなければなりません。
経済制裁をきちっとして、北朝鮮がどういう形で出てくるかと言うことを見て頂きたいと思います。

私たちももう歳がいきます。
そこへ、向こうへいる子たちも、もう46歳になります。
そしたら、増元るみ子さんなんかももう50歳超えると思うんですね。
だから、その子供たちも歳がいきます。
あの国で病気にでもなったらなかなか、医療機関も整っていませんので、どういう事になるかいう気持ちもずっとその心配も出てきました。

だからなんとか、今年、今年何とか、もう、あの、盛り上がってます。
空気がそのように国交正常化なんて言ってますけど、その事によって開ける道もあると思うんです。
また新たな方へ。
国交正常化を含めて、この拉致問題を解決しないと国交正常化できないんだと言う事を国民の皆様方が知っていただいて、その事によって皆を全員を取り返さないと、この拉致問題は解決しないと思います。
何人かをちょろちょろと返して来て、それで幕を引くという事をして貰ったら困るんです。
だから同じ思いで親たちも待っています。
私も特定失踪者の事も皆一緒です。
長い間同じ思いで待ってるんですから、皆が帰ってきて良かったねって言う様に。
それこそ飛行機一台チャーターしてその中に全部乗せてるくらいの気持ちで、政治家の方がして頂きたいと思います。

何とか今年、今年が目鼻だと思っています。
だから何とか皆さんも最後までご支援下さいますよう、よろしくお願いします。
ありがとうございました。(拍手)
______________________

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藤沢集会(2005/1/7)よど号関連資料

2006-01-07 | 記録
第13回藤沢集会8
『パネルディスカッション「よど号と拉致」 資料』

※今回の藤沢集会ではお一人お一人の講演の後、川添救う会神奈川会長と登壇者全員揃ってのパネルディスカッションがありました。
その内容をご紹介する前に、会場で配られた資料をまずは一通りご案内いたしますので、ご一読ください。

――――以下、資料の紹介―――――――――――――――――――― 
★資料1

よど号拉致事件・資料 ・ 作成 救う会神奈川 川添友幸

3つの拉致事件

(1)福留貴美子さんの拉致事件 1976年6月 「政府未認定」  

福留さんは1970年に高知県内の高校を卒業して、大阪万博の警備員などをしながら上京してアルバイトをしながら保育士の資格をとった。福留さんは高校時代からモンゴルに行くことを熱望していた。しかし当時モンゴルに個人で旅行することは不可能だった。しかし、1976年7月18日頃、急にモンゴルへ行くと言って羽田から出国した。1979年8月には東ベルリン消印の手紙が実家に届いた。この手紙は福留貴美子が、ある共産圏の国にいること、もう少し外国に滞在しなければならないこと、生活には困っていないことのほかに、いとこの結婚式にお祝いを送ることはできないのでよろしく伝えてほしいとの内容が書かれてあった。いとこの結婚式は同年の4月に行われたもので、何らかの方法で福留さんは周辺の情報が同人に伝えられていることを示すものである。1980年3月11日、突然貴美子さんは日本の友人宅に現れた。このとき、すでに子供が生まれていたはずであるが、子供とは一緒ではなかった。その様な中でよど号メンバーの岡本武は結婚相手が朝鮮人とされてきたがジャーナリストの高沢皓司が1995年春、北朝鮮で田宮高麿にインタビューした際、岡本武は日本人と北朝鮮で結婚しており、二人の子供も設けている、さらに岡本武と結婚した日本人の女性というのは高知県出身であること、東京に滞在していたこと、剣道の県大会に出席したことが出場したことがあること等を田宮は語った。この時の田宮は、岡本夫妻が生存しているとの前提で話しをしている。この時の日本人妻の特徴が福留貴美子さんと一致し、96年8月の朝日新聞の報道となったのである。
96年8月7日付け『朝日新聞』社会面に、次のような衝撃的な見出しが躍った。
「『よど号』事件/岡本容疑者、妻は日本人/高知県出身で20年前失踪」

この朝日新聞の報道の3日後の8月10日、『中日新聞』は共同通信の配信で、さらに衝撃的な記事を掲載する。
「『よど号』岡本容疑者と妻/8年前に死亡?/北朝鮮で作業事故」
報道の直後、国内のよど号グループ支援者が高知の福留さんの実家を訪ね、貴美子さんの母の福留信子さんに「1988年夏に北朝鮮側から岡本と福留貴美子とが土砂崩れで死亡したとの通知を「よど号」グループになしたこと、朝鮮に来て遺骨のことや子供たちの今後の相談をしてもらえないかと」の内容の北朝鮮のよど号グループからの手紙を持参した。
 1996年11月25日に、福留貴美子の死亡ということについて信子さんは代理人を通じ、その死亡の日時、場所などの基礎的事実についての知らせがないという、あまりにも納得のいかないことに関し、「よど号」グループに質問状を出して回答を求めた。これに対し、北朝鮮の小西隆裕より第三者を介在させたくないので直接母親と話をするとの回答が1997年11月15日付けであった。1997年3月に平壌の小西から母親のもとに電話があり、「娘(貴美子)さんの死亡届が出ていないのではないか」といわれた。福留貴美子さんのお母さん、信子さんは2002年1月12日、娘の身を案じながら亡くなった。2004年1月に福留さんの娘が帰国したが現在も国内で他のよど号グループメンバーの子ども達や支援者と共に暮らしている。
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(2)松木薫さん・石岡享さん拉致事件 1980年5月 「政府認定」  

1980年にスペインのマドリードで石岡享さん、松木薫さんの2名が、それぞれ消息を絶ちました。石岡さんは日本大学卒業後、チーズ職人になるために欧州を旅行中であり、松木さんはスペイン語の論文執筆のためにスペインに滞在していた。石岡さんは松木さんと知り合う前のスペインのバルセロナの動物園で一枚の写真を撮った。写真には石岡さんと一緒によど号妻の黒田佐喜子と森順子が写っていた。その後、三人はマドリードに向かい松木さんと出会った。4人以外も旅行中の姉妹も加わり、黒田佐喜子と森順子の滞在先で一緒に演劇を見に行ったり、アパートで森順子の手料理を食べたり、深夜までトランプなどで遊んだ。その様な中で森順子は「婚約者がウィーンまで出張してくるから遊びに行かないか」などと、石岡さんらを誘ったとされる。若林、森両と石岡さんらは80年5月中旬~6月に東欧へ旅行し、石岡さんと松木さんは、そのまま北朝鮮に連れて行かれたとみられる。ただし、北朝鮮への入国の経路が明確でない為に捜査当局も黒田佐喜子と森順子に対する拉致容疑での手配を行っていない。
 ただ元よど号グループ支援者等の話を総合するとウィーン経由でモスクワから北朝鮮に入国したと考えられ入国後、騙されたことに気がつき、二人とも相当、抵抗したそうであった。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――

(3)有本恵子さん拉致事件 1983年7月 「政府認定」  

有本恵子さんは1983年に神戸から語学留学のためにロンドンに滞在していた。有本さんの通っていたロンドンの語学学校で1人の日本人と知り合い。その人がよど号妻八尾恵であった。八尾は有本さんに日本に帰国したくなく、外国で仕事をしたい様子であることを聞き出し、八尾は外国での「市場調査」の仕事があると騙しデンマークのコペンハーゲンまで連れ出し、よど号メンバー安倍公博と北朝鮮大物工作員キム・ユーチョルと共謀して北朝鮮に連れ出した。その際、デンマークの空港で連れ出される場面をデンマークの情報機関が写真撮影していた。よど号グループは北朝鮮においては朝鮮労働党内に56課というよど号グループを担当する課があって、よど号グループは56課との討論によって具体的な実践活動を決めていました。その副課長がキム・ユーチョルでした。キム・ユーチョルは78年からデンマークの北朝鮮大使館員として勤務。80年秋から旧ユーゴスラビアの在ベオグラード北朝鮮大使館に異動。81年には旧ユーゴスラビア、在ザグレブ北朝鮮総領事館副領事になった人物でした。そんな彼の地位から、よど号メンバーが彼と一緒に活動することが数多くありました。先ほども触れましたが当時、北朝鮮大使館員などは西側情報機関や各国秘密警察の監視対象になっており写真もキム・ユーチョルを監視している中で撮影されたようである。8月9日、ロンドンの語学留学から帰国する予定の当日実家に「仕事が見つかる 帰国遅れる 恵子」と言う電報が実家に届いた。その後10月中旬にコペンハーゲンから手紙が届いたのを最後に音信が途絶える。

拉致事件の浮上・拉致認定までの足取り

石岡さん・有本さん・松木さんの家は3人が外国で失踪したと見て警察に捜索願を出したり、外務省などを訪れたりしていたが、情報が足取りはまったくなかった。しかし、88年9月、札幌の石岡さん宅に3人(石岡亨さん、松木薫さん、有本恵子さん)が平壌にいる事を伝える手紙が届く。

手紙には北朝鮮入国後の有本さん・石岡さんと赤ちゃんの写真があり、有本さんと松木さんに連絡をとってくれるよう書いてあった。石岡さんのご家族は記載どおりの有本さんの家に電話した。松木さんに関しては住所が熊本市内としかなくわからず、その後1990年になり松木さんの家に連絡がいった。その様な中で有本さん・石岡さん両家族は警察から外務省さらには自民党や社会党まで救援要請に赴いた。特に「社会党なら北朝鮮とのパイプがあるそうだから、なんとかなるのでは」と石岡さんに言われて有本さんご夫妻が思いついたのが、土井たか子氏である。まさに有本さんの地元の有力議員だった。西ノ宮の事務所に足を運び秘書に救出を御願いをするも、まったく何の反応もなかった1991年1月、石岡、松木、有本の3家族は記者会見を開いて氏名を公表して救出を訴えることになった。1月15日夜、NHKの記者(山本浩氏)から「記者会見の前にぜひ会ってほしい人がいる」と言われ、翌16日、NHKの崎本利樹氏(東京)・田村啓氏(神戸)の2名の記者に、ウニタ書房の遠藤忠夫氏を紹介される。遠藤忠夫・ウニタ書店経営(当時)氏が、恵子さんらは生きている、自分が金日成の侍医につながるコネクションがあるから会見を中止すれば助けてやる、と語って会見を事実上中止させた。その後、有本さんのご家族は家族会結成までほとんど単独で救援活動を行うようになった。そのような中で1995年によど号グループの田宮高麿が急死し、それまで田宮氏と親交があった作家の高沢皓司さんが田宮を含めたよど号グループから有本さん・、松木さん・石岡さんの拉致事件の詳細を聞き、まとめて1998年に「宿命」と言う本を出版した。有本さんのご家族は政府の認定がない状況で1997年の拉致被害者家族連絡会の結成に参加しました。石岡さん・松木さんの家は非公開の方針を2002年9月17日まで続けました。

(注:明らかな誤字脱字と思われるところは、管理人の判断で訂正を加えてあります)

★資料2

よど号グループ一覧表

↓こちらのサイトに掲載されているのと同じ一覧表が集会でも配られました。
ご参照ください。

無限回廊様より
http://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight9/yodo.htm

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第13回藤沢集会9 パネルディスカッションその1

2006-01-07 | 藤沢市民集会
『パネルディスカッション「よど号と拉致」 その1』


★司会 川添友幸神奈川救う会会長

では始めたいと思います。
基本的にですね、私の方が質問を出しましてご家族の方がお答えするというふうにしたいと思います。
まずは高英起さん、今日は講演ありがとうございます。
多分高英起さんはRENKの活動をされて来たと思うんです。
救う会では初めての講演だったと思うんですが、そのご感想の様な物があればまず一点伺えればと思っています。

それとですね、RENKの会長をされています李英和さんが小学館文庫「朝鮮総連と収容所共和国」と言う本を出版されています。
(下記参照)


この本は基本的に北朝鮮の強制収容所の事を書いている本なんですが、その中によど号の男性メンバーで日本国に(帰国して)いる柴田泰弘の講演会に押しかけた話などが出ていまして、私自身非常に関心があったわけなんですが、その辺の経緯等を御存知の事があれば教えて頂きたい。

でもう一点の質問は、後で全員同じ質問をしたいと思ってるんですが、今度1月の下旬くらいからですね。
今話されている(よど号)メンバーの帰国が始まります。
今度2月くらいからもしかすると、拉致実行犯の黒田が帰ってくるのではないかと言う話も出ているようですが、それに対してどういうふうにお考えになっているかと言うところを、まず高英起さんの方からよろしく御願いいたします。

★高英起さん(RENK東京、映像ジャーナリスト)

先ほどお話の中でですね、柴田さん、柴田ですね。
さん付けはしませんけれど、柴田泰弘の講演会に行った話はちょっとさせて頂いたんですけど。
その後柴田さんだけではなくてよど号の赤軍派を束ねていた塩見(孝也=元赤軍派議長)さんですよね。
塩見さんの講演会にも実は押しかけた事があったんです。

恥ずかしい話なんですけど、結局当時我々力がなかったんですね。
ゲリラ的にそういった北朝鮮を擁護する方々の講演会や集会などに行って、押しかけては殆ど総会屋のように騒いでは嫌がらせをするという事しかしていなかったんですけども、それしか当時、彼らに対して我々の主張をぶつける方法が無かったんで。
で、当時その塩見さんが当時ですね。
ちょっとお手元の方に資料があるかもしれないんですが、くだらない文章なんですけども、そのときの事を感想文を書いてあるんですけども。

大阪に河合塾と言う予備校がありますね。
その河合塾と言う予備校でいわゆる全共闘世代の方々を呼んでですね、いろいろ話をしてですね。
それを若い予備校生や学生に聞かせるという企画が一時流行った事がありました。
それに今でも出ている週刊スパですよね。
そこに連載されている鈴木邦夫さんですよね。
一応右翼の一水会の代表と言う方なんですけども、その方々が、左の代表と右の代表が出てきて話をして、最後はチャンチャンで終わるような形にしてという、下らない企画をしていたことがありまして。

その時に塩見孝也さんが出ていると言う事で、先ほど言いましたように我々押しかけた事がありました。
塩見さんも基本的には柴田と考え方が一緒でして、よど号のハイジャックに対してもそうだし、北朝鮮に対してもそうだし、全て自分達が正しかったと言う形で一貫した主張をしておりました。
もちろん我々はですね。
あんたたちがやっていると言う事は、北朝鮮の人民だけではなくて、日本の民衆・日本の人民・日本人をも欺く事だと言う事で、かなり厳しい口調で我々抗議したんですけども、残念ながら柴田と同じく塩見さんにはその声は届きませんでした。

最後にですね。
我々彼らに言ったのは、あなた達がやってきた事に関しては、じゃあ目をつぶろうと。
ただ、北朝鮮の問題、北朝鮮の労働党政府が金正日政権が正しいとかに関しては一切口をつぐむべきではないか?閉ざすべきではないか?沈黙を護るべきではないか?というふうに、我々は問い掛けました。
ただ、やっぱり拉致事件に関してはハッキリさせるべきだろうと。
拉致事件だけではなくて、ご存知の通り彼らは自分達の同志たちも粛清しているわけなんですよね。
実際に手を下したかどうか分かりませんけども、自分達の同志、吉田金太郎、あと岡本武ですか。
この二人を労働党に、僕は売ったと言ってるんですが、売っちゃったんですから。
それ自体をやっぱり総括するべきなんじゃないかと思っております。

ちょっと話はずれますけども吉田金太郎と言う人物、この人物はですね。
実は僕は赤軍派ではなかったんですけども、赤軍派の残党って言うか、学生運動をされていた連中とは、当時RENK・北朝鮮の地下運動をする前はそれなりに付き合いがありましてですね。
伝説的な人物で、愛すべき人物だったようです。
デモにですね、剣道の防具を着てきて竹刀を持って警官に突入したとかね。
そういう伝説的で愛すべき人物であった人間をああいう形で粛清してしまったという事に関しては、総括すべきなんじゃないかと言うふうに思っておりますし、そういうふうに主張しましたけど、なんせ連合赤軍事件で14人ですか?
人間を粛清してしまうような彼らには、残念ながらその声は届きませんでした。

今後彼らに対しては我々自身は直接何かを訴えると言う事は出来ないんですけども、我々のスタンスとしましてはですね。
やっぱり帰国は許してしまってはならないと思っています。
彼らは北朝鮮でずっと過ごすべきだと思います。
北朝鮮で過ごして自分達がやってきた事を全うすべきだと。
最終的には北朝鮮の人民に裁かれるべきだと。
加えて日本の方々に裁かれるべきではないかと思っております。
いずれにせよ、この帰国に関しては我々は反対と言うか、抗議の声を今後も上げていきたいというふうには思います。

★川添友幸会長

非常に勉強になりました。
ありがとうございます。

次に有本のお父様。
お聞きしたい話があるんですが、よど号のメンバーを支援している国会議員がいます。
その国会議員に対してどのように思うか?
もう一点はもういろんな中でお話が出ていると思うんですが、やはり政府やNHKもそうですし警察に対してどのように考えているか?
それと最期は同じ質問なんですが、今度の帰国に対してはどのようにお考えになっているかをちょっとお聞かせいただければ、お願い出来ればと思います。
宜しく御願いします。

★有本明弘さん

ぎょうさん言われたらわからへん。(会場笑い声、司会者より質問項目を書いたメモを渡される)
よど号のメンバーを支援している議員と言いますと、社会党・共産党のこの現行の人たちだと思います。
その人たちは皆さんもご存知のように、大変大きく議席を減らしました。
これで大体お分かりになっていただけると思います。
国民の関心事がその政党から離れてしまったという事なんです。
それと同時にこれは国民の皆さんが、北朝鮮と友党だと言っていたのが当時の社会党なんです。
と同時に知らぬ間に自民党、与党の中枢まで朝鮮総連の影響力が入り込んでおったと、言うのが今の現状なんです。

それと警察や政府に対して、とか言う事ですね?
これ警察は私たちの問題で、安倍公博って言うんですか?
あれを国際手配しました。
あの時は警視庁から公安まで3回ほど出張してきて私たちからいろいろ調書を取って、資料を提供して、そして署名もしました。
だからそのよど号の連中の事に関しては、警察は日本の国内法では今の現状のような事しか出来ないんです。
この阿部公博が帰ってきたら、裁判にかけて有罪に出来るという根拠を持ったから、私たちを呼んで調書を取って告発している。
だからこの安倍公博を逮捕するまでは、今帰って来た連中は多分今までどおり、手を付けないで放っておくだろうと。
そういうような観測をしております。

この間、もう去年なんですが、議連の会長とお会いした時に立ち話やったですけれども、日本の国にもスパイ防止法をこしらえん事には、隣にあんな国がある以上は国民から見れば国家として手ぬるい。
そういうような状況が起こってもどうしようも無いと言う現状があるから、スパイ防止法と言うのが出来たらこれをこさえて頂きたいというのがお願いした事もあります。

だからこのメンバーの帰国と言うものに関しては、ほんなもの、一辺にまとめて返して来いと言うて。
(向こうが)受け入れなかっても良いんじゃないか?と、僕らはそないに思うてます。
でもそれは外務省のやる事であって、そんなんで前例どおりの・・・(聞き取れず)で終わると思います。
以上です。

★川添友幸会長

ありがとうございます。
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第13回藤沢集会10パネルディスカッション その2

2006-01-07 | 藤沢市民集会
『パネルディスカッション「よど号と拉致」 その2』 

★川添友幸会長

次に荒木先生、ちょっとお伺いしたい点がいくつかあるんですが、後ろのパネル。
いつも神奈川のボランティアの皆さんに作っていただくんですが、福留貴美子さん、白黒の方なんですが。


左から松木薫さん・石岡亨さん、有本恵子さん、福留貴美子さん


パネルが今度加わりました。
福留さんをご存じない方もいると思うんですが、今高英起さんのお話にあったんですが、(よど号犯の)岡本武。
岡本公三(=1972年、奥平剛士、安田安之と共にイスラエル・テルアビブ空港を襲って26名の死者をだした「日本赤軍テルアビブ事件」の実行犯)の兄なんですが、兄のお嫁さんて言うんですかね。
結論として、この方日本から拉致された方なんですね。

で、この福留問題と言うのは実に難しい問題でして、いろんな会の方が取り組んで、今私たちも取り組んでいるんですが、荒木先生、特定失踪者問題調査会の代表をされる前に、救う会全国協議会の事務局長をされている時にですね。
福留問題をずっとやられていたと聞いています。
福留さんの資料は簡単に作ってみたんですが、ちょっと福留さんのお話をお聞かせ願えればと思っています。

後もう一点なんですが短波放送の「しおかぜ」、あれちょっと私自身思ったのは、ああいう放送は実際よど号のメンバーは聞いてる物なのかなぁ?と言う疑問を持ったのでそれを聞いて見たいと思ったのと、三点目は皆さんにお聞きしている、よど号犯の帰国に対してどのように思っているか?
この3点を宜しく御願いします。

★荒木和博 特定失踪者問題調査会代表

福留さんの拉致事件に関しては、この配ってあります川添さんの作った資料に基本的には書いてございます。
要は騙されてきた朝鮮に連れて行かれた方です。
元々北朝鮮とは何の関係がなかったんですが、お父さんが昔、戦時中にですね。
モンゴルにおられた事があって、そういう話を聞いて育ってですね。
非常にモンゴルに行きたいという強い意思を持っておられた。
モンゴルと言うのは、昔は社会主義圏の中で非常に入り難いという事で、それで釣られたのではないだろうか?と言うふうに言われております。
昭和51年、1976年に出国をしている。

向こうで今川添さんの言われたように、岡本武の妻にさせられたと。
こんなものはもちろん本人のあれが一致してと言う事はもちろんございません。
当然これは無理矢理。
これは他のよど号の妻でもですね。
小西(隆裕)の妻以外は皆元々全然関係ない。
無理矢理ですね、くっ付けられたと。

だから正直言うと、よど号グループの他の妻たちもですね。
あれでもし「こんなはずじゃなかった」と言えば拉致被害者になります。
問題は、あのカミさんたちの方が旦那よりももっとその気になってしまった事に問題がある。(小さな笑い声)
そうでなければ彼女たちもそういう事になる。

福留さんは元々そういう政治的背景が全然無いんですね。
他のよど号の妻はチェチェ研とか、この表に書いてあるように(北に)シンパシーを持ってる人たちだったんですけど、福留さんの場合そういう事が無い。
で、結婚させられたと。
やはり他のよど号の妻と同じように、工作目的で使われ、少なくとも使われようしたことは間違いがない。
そして一回日本に戻って来ております。
ここに書かれているように友達の家にですね、突然現れる。
その後高知の実家に帰ろうとして途中で連れて行かれたんではないか?というふうに言われている方でございます。

この福留さんの事件についてはジャーナリストの高沢皓司さんがいろいろ調べてですね。
これの裏に確か書いてあるんだと思いますが、裏じゃないか、前か。
96年、ですから平成8年の8月7日の朝日新聞にですね。
その名前が、その時は確かまだ名前は入ってませんが、本人が特定された日本人だったと言う事が分かったと言う記事が出ると。
で、出たらすぐにですね。
今度は「いやもうとっくに死んでいた」と、いう情報が出る。
それまでは日本人の奥さんだと言う事は一切言っていなかった。
岡本武のカミさんは朝鮮の人だと言うふうに言ってたんですが、ここで急にですね。
話が変わって、そして尚且つもう8年前に死んでいると、いう情報が流れたわけでございます。

こういう所の嘘のつき方と言うのはですね。
本当に北朝鮮と言うのは、よど号のグループも良く勉強したもんだなと思うんですが、大変分かりやすい嘘をつくわけですね。
ですから救う会もそうですし我々もそうですけども、この福留さんは我々は基本的に生存をされていると言う前提で、救出を求めているわけです。
子どもたち、娘さんが二人いますが、この二人はもう帰国を果たしております。
で、表の中で岡本武の所に乗っかってます、広海(ひろみ)さんと千里さんと言う娘さん二人ですね。

元々(福留貴美子さんの)お母さんはもう亡くなってしまったんですけども、私も生前2度ほどお会いした事がございまして、非常に記憶力の良い、記憶のハッキリしたお母さんでございました。
本当に田舎のおばあちゃんと言う感じの人なんですけども、すごい頭の良い方でですね。
この事はお母さんがご存命だったと言う事もあって、高知の中にいるよど号グループの支援者が、かなりいろいろな形でマークをしております。
今でもその連中は高知の中で活動をしておりまして、福留さんのご家族を抱き込もうとしたりとか、そういう事をやっている。
どうも、場合によってはですね。
福留家の遺産をですね。
持って行きたいという思いもあるのではないか?という話もございます。

この事件については大体そういうような事でありまして、今改めてですね。
お母さんが亡くなってしまったので、ご家族がいなくて非常にやりにくいんですが、川添さんなんかとも連携を取りながら、この問題について更にですね。
世論への訴えかけを進めて福留さんの救出へという事につなげていきたいと思っております。

ただ、これは福留さんだけの事ではないんですが、福留さんも何かの形で北朝鮮の工作活動に関与した形跡は当然あるわけでございます。
で、これは今帰国している5人もそういう意味で言いますと同様でございまして、また今(北朝鮮に)残っている拉致被害者の人たちも、やはり同様であろうと思います。
もちろん、そういうふうにしなければ北朝鮮の中で生きていけないわけでございまして、それを日本にいる我々がもちろんですね。
非難するって言う事は絶対に出来ない。

それから場合によったらですね。
(日本に)帰りたくないという意思表示をする人が出る可能性もございます。
その場合に一体どうするか?
これ今、日本政府はですね。
家族の意向あるいは本人の意向、と言うところにですね。
必ず逃げ込みます。
ご家族がそう言ってるからその意思を尊重したい。
本人が日本に残りたいと言ってるんでその意思を尊重したいという言い方をするわけですけども、これは非常に卑怯なやり方でございまして、その時やらなければいけないのはですね。
家族の意向でも本人の意向でもなくて、国家の意向です。

拉致をされているんですから。
主権を侵害され、拉致をされているんですから、その人たちは本人が何と言おうとですね。
今の状態の北朝鮮で自由に物が言えるはずが無い。
ともかく日本に取り返して、そこで一旦原状回復をして、そして自由に物が言えるようになったらば、それから意思表示をして物を決めて貰えば良い話でありまして。
それを北朝鮮の中でですね。
一昨年の5月に総理大臣がのこのこ行ってジェンキンスさんにですね。
「帰って来ないか?」とか言ってなんか「約束する」とか何とか言うというアホな事をですね。
やってしまっては全くわけが分からなくなる。

それで政府の人は責任は逃れられるわけです。
「本人は帰りたくないと言ってる」と、そんな問題ではない。
取り返してからそれから次の事を考える。
いうふうにしないとですね。
これから非常にグレーゾーンの人たちが間違い無く出て来ます。

有本さんだって、北朝鮮の中でですね。
一昨年の3月の時点ではですね。
3年前か、もう3年前なんですね。
あの3月の時点では、一度は北朝鮮は出そうと思ってたんですね。
出して有本さんに「自分では帰りません」と。
「お父さん、お母さん、北朝鮮に来てください」と言うふうに言わせて、そして決着をしようと言うふうにしようとしていたと。
言う事がございますので、有本さんも自分の足で入ったことは間違いが無い訳ですから、そういう言い逃れが出来るようになる。
これは絶対に許しちゃいけないです。
北朝鮮の中にいる限り、そのマインドコントロールは絶対に解けないです。

だって今の5人だってね。
ちゃんと喋れないんですから。
日本に戻ってきて、あれだけ時間が経っていても、まともにですね。
言う事が出来ないと、言う事を考えたらば、いわんや北朝鮮の中にいてですね。
自由に発言とか意思表示が出来るはずが無いわけでございまして、これはグレーゾーンの人も含めて、一旦とにかく全部日本に取り返すと言う事。
これは国家の意思として絶対にやらなければいけないと思うんです。
その上で日本で暮らしてみて、それでもどうしても北朝鮮に行きたいと言うのであれば、そのときに決めれば良い話でありまして、そこのところを考えていくべきだと思います。

で、今警察の中でですね。
警察の人とも私らもいろんな話をするんですが、「いや、そんなにたくさん拉致被害者の人たちはいない」と。
「後5人くらいだとか10人くらいだ」とか、いろんな事を言う人がいるんですけども、それは警察的にですね。
全部キッチリやって証拠も集められて、そして明らかになるという数を探したら、それはその程度しかおそらくならないんでしょう。
しかし実際には証拠がなくったって拉致をされている人たちはたくさんいますし、いわんや福留さんたちの様にですね。
自分の意思で出国をしたと、そして(北朝鮮を)出られなくなったと、言う人の数ははるかに多いだろうと思います。
その間のグレーゾーンと言うのはですね。
相当の数いるわけでありまして、我々そこらへんまで全部拉致被害者としてカウントしてですね。
やらなければいけないんじゃないかと。

で、その延長線上は今度は帰国者の問題になるわけですが、帰国者だって拉致ではありませんけども、基本的には騙されて皆向こうへ行ってる訳ですね。
日本人妻だって、何年かすれば帰って来られるという前提で北朝鮮に行ってるわけですが、しかしそれでもですね。
帰って来られない。
こういう人たちの場合はですね。
とにかく自分で帰りたい人たちは自由に帰れるようにすると。
つまりこれは、要は、高さんが今さっき言ったように、あの体制を変えてしまうより他に方法がないんですね。
あの体制を変えれば、北朝鮮の中にいたって自由に意思表示できますから。
最後はそういう所に持っていくしかないんですが、そういうふうにしてですね。
問題を解決していく。
ここはですから家族の問題でもなくて個人の問題でもなくて、国家の問題として取り組まなければならないだろうと思います。

それからしおかぜをよど号グループが聞いてるかどうかと言う事ですが、私も良く分かりませんが、あの連中に聞かせなくても別にあんまり問題ございませんので、まぁ聞いててくれるようであればですね。
「いい加減にゲロしろ」という放送くらいはしても良いんですが。(笑い声)
まぁちょっと分かりませんが、電波の無駄遣いになると今のところは特に思ってません。

それからよど号グループの帰国に関してですけども、先ほど有本さん言われたようにですね。
拉致された人が向こうに残ってですね、した方の連中が帰ってきて大手振って歩くという話はですね。
こんなとんでもない話は無いわけでございます。
しかし日本の「法と証拠」と言う、警察の人たちがよく使う「法と証拠」と言うとですね。
そういう事になってしまう。
証拠が向こう側から返ってこなければこちらから手出しが出来ない。
意思表示をして帰って来たらですね。
日本の法律に照らして、しかし微罪ですよね。

結局ね、先ほどお父さん言われたように、スパイを取りしまる法律が無い訳ですので。
微罪でですね。
しばらくしたら出てこられると、いう事になってしまうわけでございまして、法と証拠があってもですね。
正義の方が実現をしていないと言うのが現状でございます。
本当であればですね。
日本海を渡ってくる途中で宙吊りにしてですね。
「吐かなかったら海に落っことしてやる」と言う位の事をして、(笑い声)言っても良いと思うんですけども。

まぁ少なくとも帰って来た人間に対してですね。
それを徹底的にマークするというくらいの事は、もうちょっとキッチリやっておく必要があるのではないか?と。
先ほども申しましたけど、とにかく有本さんの拉致、あるいはもちろん松木さんもそうなんですけど、について知らないという言い方をしている彼らの言ってる事は全て嘘だと言う事でございますので、その前提でですね。
今後の事も対応していかなければいけないのではないか、と言うふうに思います。

★川添友幸会長

いろいろ面白い話をありがとうございます。

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第13回藤沢集会11パネルディスカッション その3

2006-01-07 | 藤沢市民集会
『パネルディスカッション「よど号と拉致」 その3』

★川添友幸会長

では次、斉藤文代さんにいろいろお聞きしたいなと思ったんですが。
私、松木薫さんの事を初めていろいろやっているうち一番強烈に印象に残っているのは偽遺骨問題なんですね。
どこかの週刊誌で遺骨の写真を見て、私すごいショックを受けたのがありました。
是非その遺骨問題に関してどうお考えになっているか?と言う事をおたずねしたいと思います。

同じ質問になってしまうんですが、これから松木さんを拉致した可能性が非常に濃厚であるとされている二人(田宮高麿の妻・森順子と若林盛亮の妻・黒田佐喜子)が、どうも夏前に帰ってくると言うんですが、こちらに対してどのようなお考えか、ちょっとお願いします。

★斉藤文代さん

私の(弟の)松木薫に関しては、骨をですね。
二度も出されているんですけども、一回目の時にはですね。
私も実際、その骨は見てないんですが、写真とかいろんな物をたくさん撮って来ていて、白々しく骨を持って出てくる場面からず~っとあるわけです。
納骨堂からですね。

それでこれが弟さんの骨を持って帰りましたのでと言われて、受け取って下さいという事を、外務省の方は私に受け取ってくれと言う最初はそういう気持ちだったと思うんです。
でも私はそれを言われた時点で、一人だけ「お姉さん残ってください」と言われて、皆さん記者会見で一人だけ残されてそれを言われたんです。
骨の鑑定の先生、橋本先生とか外務省の方とかたくさんおられまして、私がその時に「はい、分かりました、弟の骨ですね」と言って持って帰って父のところに墓に入れていたらもう、なんとも父が可哀想になるところを二度もする所でしたけれども。
そこで私はもう「弟の骨ではありません」と「弟は生きておりますから」と言う事で。

二度も火葬されていますので、二度も火葬されているとは思いもよらなかったもんですから、DNA鑑定が出来ると思ったもんで、「私の血をすぐ採って母の血も採って、DNA鑑定してください」と、私泣きながら言ったんです。
そしたら外務省の方もその日に、用意してあったんですね?すぐ採れる様にちゃんとですね。
すぐその場で採られたんですよね。
で一週間くらいしてから、熊本の方の病院に来まして母の血を採って帰られたんですよね。
後からそれは分かったんですけど、二度火葬してあるから全然鑑定出来ないのを分かっていて、まぁ、それは私もお願いしたから持っていかれたんでしょうけれど。

骨の中に3遺体くらいあるのは橋本先生見てすぐ分かったと、仰るんですね。
ですから「お姉さん、私はこれは出来ると思った物を一つだけ持ってきましたので、これを調べさせてください。必ず僕一生懸命やりますから結果を待っててください」と言う事で、左の上あごのあれを持ってきて帰ったもので、「一ヶ月くらいかかるのでそれを調べさせてください」と言う事で。
「誰にも言わないで下さい」と言う事で私は一ヶ月本当になんともいえない気持ちで待ってたんです、便りをね。
そしたら電話がありまして、「お姉さん」と私に先生が元気付けてくれました。
「薫さんの骨じゃないよ、女の人、60過ぎくらいの女の方の骨ですよ」って事で。

骨箱からばぁ~っと骨を出してる写真もあるんですよね。
「僕もそれを見たときに絶対薫さんの物では無いと言うことは分かっていたんだけど、調べる物はちゃんと調べないとお姉さん納得されないでしょうから」って事で調べたら、「全然違う人の骨だから、薫さんは生きてますから、きっと生きてますから」と「帰ってきますから、絶対に希望を持ってくださいね」と元気付けられたんです。

でまた、今度は二回目の時に第3回実務者協議のときにまた骨をですね。
持って来てるんですよ、外務省の方はですね。
その時はさすがに私に日本政府は言えなかったわけですよ。
隠し通せる物じゃないですよね、そういう骨はですね。
黙っていて、報道の方が先に流れたわけですよ、ニュースでですね。
誰かがばっと漏らしたんですねぇ、政府内の方がね。

それで私ニュースを見て「え~~っ?」っと思ってですね。
で、すぐ警視庁の方に電話入れまして、「そんな骨を持って来てるのに、なぜ私の方に知らせてくれなかったんですか?」って警視庁にも国の方にも言ったんです。
そしたら警視庁の方は警視庁で、「持って来てません」って言い通すわけですよ。
今まで私はずい分泣かされてきたのに、またこれで泣かされるんじゃ私もうこれ以上我慢できないと思ったから、追求したんですよ、ずっ~と。
で、やっぱり警視庁は警視庁の関係があったて言えなかったんですね。
そしたらすぐ後電話があったんですよね。
政府の方から「やっぱりお姉さんに言わなきゃならないから」と言う事で、「実は骨を持ってきていました」って言うから、「なぜそんな骨を持って帰ったんですか?最初の時も間違いで持って帰って来てるのに、他人の骨ばっかり他人様の骨なのに」って大分私も言ったんです。

そしたら「今度訪朝する時には、出された物は一切持って帰りましょうと言う事だったので、持って帰りました」と。
「弟さんの骨ではないと思っていたので、言わなかった」とか言うわけですよ。(文代さん少し自嘲気味に、会場薄笑いの声)
それで本当に私はもう、情けなくって。
持って帰って来たんであれば、徹底してまた調べてくださいと言う事で、その時は横田めぐみちゃんの骨も持ってきてありましたので、だから同じように調べていただいた。
また同じように全然違う人の骨ばかり入っているわけですよね。

だからなぜ日本政府は一回骨を持たされて騙されているのに、またそれをね。
またやられてなぜ黙っているのか?それが私は分からないんです、いまだかつて。
全然その、抗議しないわけでしょう?
骨を二回も持たされて、他人様の骨ばっかり。
何がその弱みがあるのか、私はいまだかつて分からないです。
その件に関してですね。

だから薫はきっと生きていると私は思っていますので、本当に死んでいるんであれば、本当の死んだ骨を出せばいい事であってですね。
もう2度も3度も、だから私は「何回殺されるんでしょうかね?」って言った事あるんですよね。(文代さん、笑いながら)
だから信じておりませんし、またこれからもそれに関しては私は何度突きつけられても受け取る気はありません。

それからよど号メンバーの帰国に関しては、日本人だったら恥を知りなさい、と私は言いたいです。
そんなにね、自分達のしたことの罪を認めないんであれば、帰ってくる必要はないと思います。
北朝鮮が良いんだったら、そこにいなさいと私は言いたい。
本当にそれくらい腹立たしく思っております。
弟たちは何も知らないで、そんなして北朝鮮で辛い思いをしているわけですから、自分達は日本が恋しくなって軽い罪で日本へ、早く言えば日本を舐めてかかっているわけでしょう?
そんな人が帰って来て貰ったって、ちっとも私達嬉しくありませんし、そんな人が帰ってくるより早く全員返して下さい。
私たちはそっちの方に一生懸命になりたいくらいです。(拍手)

★川添友幸会長

ありがとうございます。
最後に有本のお母様。
私以前にですね、3年位前にNHKスペシャルだと思うんですが、よど号と拉致と言う番組の中でよど号のメンバーの所に直接お電話をかけてですね。
やり取りをしたのをちょっとテレビで拝見しまして、なるほどなあと思ったんですが。
そのときの状況の話と、そのとき彼らは直接話してどういう言い訳をしていたか?
その辺の話と、同じ質問になってしまうんですが、よど号のメンバーの帰国に関してですね。
どういうふうにお考えになっているか、この2点をよろしくお願いいたします。

★有本嘉代子さん

NHKの取材であるホテルへ行った事があるんですね。
そういう話になる事は全然知らなかったんですけども、よど号の人と懇意にしていて何度か北朝鮮に入ってる人があるんです。
富山の方で。
で、その人がそこへ来ておられたんですね。
それで「私だったら向こうの電話番号を知ってますので、かけます?」って言って、NHKとは相談が出来てたらしいんです。
これかけたらね、その時に誰が出てきたんかな?
赤木(志郎)でしたね?
ですのんで、その赤木と言うのがメンバーの中で残ってる中で一番きついんですって。

だからその人が出て来たのでね。
「私は有本恵子の母親ですけども、あなた方は有本恵子をご存知でしょ?」って言うたら、「突然電話かけてきて失礼な方だ」
そういうことだけで後は続かなかったですね。
これは始めから言っても無駄や言う事が分かってましたのでね。
私らなんぼ言っても駄目だという気がありましたので、そういう場面がそこで設定されている事が分かりませんでしたから。
それでこの人たちとゆっくり話をするいう気持ちもありませんでしたから、もうそれで切りました。
後は話してもこんな人は何も喋らないし、「失礼な」言う一言を言いました。
だから失礼と言う言葉を知ってたんかな?と思いましたわ。(笑い声)

後の事ですけれど、よど号のメンバーにしても先ほど申し上げたように、本当に旅券法違反だけで全て片付けられて、で、執行猶予付だそうです。
それで出て来て、普通の人と同じように生活してるんですね。
そんな状態になれば帰って来ても何ぼも日本の国としても役に立たないだろうし、気持ちがね。
全然日本人の気持ちじゃないですものね、あの帰って来た人たちは。

私は赤木と言う人の裁判を見に行きました。
八尾(恵)さんが証言すると言う事だったので、本当にね。
どう言ったらいいのかな?
ニコニコ笑ってるんですよ、自分、被告席座っていて。
なんかそれは許されているんだそうです、筆記してました。
八尾さんの方をちらっとみて、睨みもって、ずっとね。
顔に笑みを浮かべもって、小ばかにしたような顔してずっ~と筆記してましたね。
あんな状態見てたら嫌になりますね。

だからこんな人が帰ってきて、日本の国に本当に毒になっても薬にならんですね、あの人たち。
だから帰ってくる必要が無いんですけども、国もあの人たちを受け入れて、それで執行猶予で放免して、そして今度自由に往来できる、それが本当に納得行かないですね。
それはある程度その人たちにやはり監視をつけて、北朝鮮内ですけれど束縛しないと、いかんと思います。
そんな自由に出来て、良いこと絶対に無いですからね。
スパイを日本の国に入れたのと同じなんですからね。
だからそこのところは日本の政府をなんかこう、どんな気持ちでどういう事をされるんかなぁ?という、納得がいきませんから、私たちにしたら帰ってくる必要はないと思います。

★川添友幸会長

どうもありがとうございました。

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