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拉致の解決を願って
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北工作船交信類似(藤田さん、めぐみさん拉致時期)

2006-01-10 | 記録
(産経新聞より)
  記録として保存
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 ◆藤田進さん 失踪直前に北工作船 交信、「めぐみさん」と酷似 
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 北朝鮮に拉致された可能性が指摘されている埼玉県川口市の藤田進さん=当時(19)=が失踪(しっそう)する直前の昭和五十一年一月末、新潟・佐渡島沖を日本沿岸に向かって航行する北朝鮮工作船が確認されていたことが九日、分かった。船の無線交信を解析したところ、横田めぐみさん=拉致当時(13)=が拉致された五十二年十一月ごろ、捕捉された通信と交信状況が酷似していた。捜査当局は、この工作船と藤田さん失踪との関連を慎重に調べている。
 東京学芸大の一年生だった藤田さんは五十一年二月七日、「ガードマンのアルバイトに行く」と言って外出したまま消息を絶った。
 工作船はその十日前の五十一年一月二十八日、佐渡島の北西約八十マイル(約百五十キロ)を航行。海上自衛隊の対潜哨戒機P2Jが船の撮影に成功していた。
 船体に書かれた船名は五文字で、末尾に「丸」の文字があり、日本の漁船を偽装していたが、船尾に工作子船の格納室とみられる観音開きの扉があり、無数のアンテナが張り巡らされるなど北朝鮮工作船の特徴を複数備えていたという。
 船型などを詳細に分析、照合したところ、前年の五十年十一月四日に日本海で確認された船と同一であることが判明。この船は、特有の外観や航跡を示したことから、北朝鮮工作船と断定されている。
 五十年から五十一年一月にかけては、横田めぐみさんや原敕晁(ただあき)さん=同(43)=らの拉致に関与したとされる北朝鮮工作員、辛光洙(シン・グァンス)容疑者(76)=ICPO(国際刑事警察機構)に国際手配=が日本国内で活動拠点を確保、在日朝鮮人を補助工作員に仕立てるなど、活動を活発化させた時期と一致する。
 工作船が日本に接近する際、北朝鮮のラジオ放送に紛れ込ませた暗号放送を潜伏工作員が受信するほか、(1)北朝鮮の基地と工作船(2)工作船と潜伏工作員-の間で無線交信が行われることが分かっている。関係当局が傍受した場合、海自や海上保安庁が艦艇で海上警戒にあたり、警察も沿岸を警戒する。
 これまでに政府が認定した拉致事件でも、こうした無線や工作船の出現時期・場所と、事件発生の時期・場所が合致することが認定根拠の一つになっており、藤田さんのケースでも、工作船との関連は捜査の重要な要素となる。
 藤田さんの失踪をめぐっては一昨年十二月、救出活動を支援している「特定失踪者問題調査会」に国内の男性が「藤田さん拉致にかかわった」と告白。男性は「藤田さんの監禁先だった千葉県内から、車で(新潟県の)糸魚川まで運んだ」と話したという。調査会によると、糸魚川は、北朝鮮が拉致被害者を太平洋側から日本海側に連れ出すとみられている経路「大町ルート」上に当たる。
 調査会は、脱北者が北朝鮮から持ち出したとされる男性の写真を入手。専門家に鑑定依頼したところ、「藤田さんである可能性が高い」との結果が出ている。藤田さんの家族らは一昨年九月、埼玉県警に告発状を提出。警察当局は「拉致」の可能性も含めて捜査している。
     ◇
【用語解説】特定失踪者問題調査会
 北朝鮮に拉致された可能性が排除できない失踪事件について調査する団体。金正日総書記が日本人拉致を認めたことを契機に、拉致被害者の「家族会」を支援する「救う会」が平成15年1月に設立。全国から寄せられる失踪者情報について拉致の可能性を調べ、政府への調査要請や提言、拉致被害者向けの短波ラジオでの呼びかけなどを活動内容とする。これまでに公開調査している特定失踪者252人のうち34人を「拉致濃厚」としている。(産経新聞)
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 上記のニュースに関して [調査会NEWS 323](18.1.10)より
  ■藤田進さん失踪時の情報について  
                       荒木和博
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 本日の産経新聞に掲載された藤田進さん失踪時の不審船及びその電波情報は重要な情報だと思います。藤田進さんについては一昨年夏に出た写真があり、安明進氏の目撃証言があり、しかも実行犯の1人と推定される人間の証言もありで、政府認定されるに十分過ぎる状況です。現在の認定者16人の中にも認定された時点でここまでの基準を満たしていなかった人は存在します。それでも拉致認定はされていないのですから、今回のことはますます政府の認定基準がいい加減であることを証明するものです。

 何度も言っていますが、拉致は個別の事件ではなく国家の安全保障の問題です。政府は警察の「法と証拠」という建前にこだわらず、積極的な拉致認定をするべきです。また、さらに言えば認定するかしないか、家族が名乗り出ているかどうかにかかわらず、全ての拉致被害者を救出するという原則に立って迅速な対応をしてもらいたいと思います。

 そして、その前提で各情報機関はもっと積極的に情報を公開されるよう期待します。縦割り行政の弊害で、それぞれの情報機関の持っている情報をつなぎ合わせれば分かることが組織の壁に阻まれて明らかになっていないことは相当あると推定されています。CIA的な活動をする情報機関が必要だとは思いますが、現在の日本の各情報機関でも、かなりの蓄積はあり、優秀な人材も揃っています。それぞれの機関の持っている情報の一部が共有されるだけでも大変な力になるはずです。

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辛光洙事件 顛末記①

2006-01-10 | 記録
蒼き星々掲示板
安倍貞任さんの投稿より

「北朝鮮データブック」(重村智計著)に触れられている「辛光洙事件」
 



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 北朝鮮が日本人を拉致している事実が明らかにされたのは、1985年5月28日であった。韓国の国家安全企画部は、日本のパスポートを利用し日本人と偽って韓国に入国した北朝鮮の工作員、辛光洙の逮捕を発表した。同時に、辛が日本人を北朝鮮に拉致した事実も明らかにされた。この拉致日本人は原敕晁さんであった。

 私は、当時毎日新聞のソウル特派員としてこの記事を送稿した。ところが、東京のデスクはなかなか信用してくれない。韓国の「でっち上げ」ではないか、というのだった。「問題ないから掲載して欲しい」と、私は強く要請した。それでも、夕刊社会面の左肩(ページ左側の上部をこう呼ぶ)に掲載されただけだった。今なら一面トップの大きな記事になる事件だが、当時は日本では注目を集めなかった。

 また、警察の捜査も冷たかった。もし、この時期に日本政府と警察・外務省、政治家が動いていたら多くの拉致日本人は救出されたかもしれない。だが、誰も動かなかった。また、韓国に留学していた在日韓国人学生の「スパイ事件」が摘発されたりした。北朝鮮の工作機関が、在日韓国人の留学生を利用した「工作活動」であった。しかし、こうした事実を日本の新聞はあまり大きく報じなかった。また、日本国内では社会党や岩波書店の雑誌「世界」などを中心に、武装工作員事件や留学生スパイ事件で、「でっち上げ」と非難する活動が繰り広げられた。

 当時の日本社会には「まさか北朝鮮が日本人を拉致するわけがない」との雰囲気が支配的であった。さらに当時は、日本の警察と韓国の情報機関・警察との捜査協力が、きわめて困難な状況にあった。これは、韓国側に多くの責任があった。

 韓国の国家安全企画部は、記者会見で原さん拉致に関する捜査資料を出した。この中には、原さんがコックをしていた大阪の中華料理店をはじめ、辛光洙が協力者と会合した喫茶店や食堂などに関する写真や資料がついていた。こうした資料は、国家安全企画部が日本国内で捜査活動を行ったことを意味している。外国の捜査機関が日本国内で勝手に捜査を行うのは、主権侵害である。なぜ、日本政府と日本の警察は抗議しなかったのか。

 実は、この捜査結果は安全企画部と大阪府警が同時に発表することになっていたという。ところが、功をあせった安全企画部が先に発表してしまったというのである。これでは、日本の警察は面子丸つぶれである。日本の警察と韓国の警察や情報当局の協力は、1973年に韓国中央情報部(KCIA)が東京のホテルから金大中前大統領候補(当時)を拉致して以来、中断していた。その協力関係が復活したのが、原さんを拉致した辛光洙事件であった。ところが、韓国側が先に発表してしまったことから、日韓の捜査協力は再び困難になってしまった。

 原さんは、辛光洙に無期懲役の刑が確定した(1986年6月)直後の7月19日に死亡した、と北朝鮮政府は通告した。この死亡の時期を確認するのは、北朝鮮が提出した1枚の死亡証明書だけである。きわめて不自然な死、というしかない。(本書p36~p40)

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辛光洙の事件について、重村氏は↓のように、考察しているようです。

・韓国の国家安全企画部が辛光洙の日本国内での工作活動を日本政府に極秘で捜査していた(主権侵害行為)

・(主権侵害行為ではあるが)国家安全企画部と大阪府警は、捜査結果を同時に発表することになっていた 。

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辛光洙事件 顛末記②

2006-01-10 | 記録
蒼き星々 掲示板
安倍貞任さんの投稿より

「拉致はなぜ防げなかったのか」(川邊克郎著)に触れられている「辛光洙事件」 




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 1985年6月28日の韓国国家安全企画部(NSP)の発表により、80年6月20日、大阪の日本人コック原敕晁さんが宮崎・青島海岸から北朝鮮に拉致されていたことがわかった。北朝鮮工作員・辛光洙は原さん本人に成り済まして日本に住み、対南工作のため原さん名義の旅券、運転免許証、国民保険証を持って渡韓した1985年2月24日に韓国当局に逮捕され、その後韓国の裁判で死刑判決を受けた。

 「宇出津事件」をはじめ、それまでの拉致捜査では、実行犯の特定が出来なかったことが、立件への大きな壁となっていたが、この事件(=原さん拉致事件)では主犯の辛が北朝鮮のスパイとして逮捕・起訴されていた上、韓国の法廷で東京、大阪、横浜、長野在住の在日韓国、朝鮮人とともに拉致などに関与した事実を証言したため、日本におけるスパイ活動の一端が明らかになった。

 この時の、日本の公安当局の立件に向けた行動は素早かった。まずは韓国の情報機関や日本政府の介入を避けるため、韓国の捜査当局が持っている資料の提供を外交ルートではなく、ICPO(国際刑事警察機構)を通じて依頼したが、順調に進むかに見えた拉致捜査は突然頓挫する。

 辛光洙事件の場合、日韓で法制度が異なる上に全斗煥大統領率いる軍事政権下で(拷問を含む取調べで)得られた「辛供述」の証拠採用に当時の日本検察首脳らが否定的だったことが立件を見送った理由のひとつであったが、最大の要因は捜査指揮に当たっていたリーダーの突然の交替だったという。

 韓国の辛光洙事件摘発の発表からわずか1ヶ月余の85年8月、警察庁警備局長・柴田善憲(1955年入庁)が近畿管区警察局長へ、柴田の後任と目されていた警視庁公安部長・福井與明(57年入庁)が埼玉県警本部長へと、揃って”放逐”された。

 当時の警察庁内部では、政治家への接近を深めるいわゆる”政治派”と警察の政治からの独立を守ろうとする”独立派”の間で、警察庁始まって以来といわれるほどの熾烈な派閥抗争が展開されていた。

 しかし、”独立派”のリーダー・三井脩警察庁長官(旧内務省1946年入省)が退官すると、その三井人脈に連なる柴田や福井らが一転”政治派”から「報復人事」(警察庁OB)を受けることになった。

 そして後任の警備局長には三島健二郎(56年採用)が、警視庁公安部長には城内康光(58年採用、後に警察庁長官=落選した城内実前議員の父上、らしいです)がそれぞれ就いたが、捜査指揮を執るにはいずれも「非力」(前出OB) であった。特に、三島新警備局長は外事課長時代に、外交問題にまで発展した「文世光事件」で「かなり痛い目にあっているので、このときも再び政治に巻き込まれるのを嫌った」(警視庁OBの言)という。

 また城内はその後警備局長に昇進する。88年3月26日参院・予算委員会で日本共産党・橋本敦委員から辛光洙事件の共犯として韓国当局に逮捕された安永奎(アンヨンギュ)の供述内容を問われ、「この北朝鮮工作員、安永奎が1978年に次のような指示を上部から受けておるということを承知しております。すなわち45歳から50歳の独身日本人男性と20歳代の日本人女性を北朝鮮に連れてくるようにという指示を受けていたということでございます」と、胸を張った。

 当時(88年3月)は大韓航空機爆破事件の金賢姫の日本人化教育係とされる「李恩恵」捜しに日本中が狂奔している渦中で、この反北朝鮮ムードを追い風に、国会答弁としては一歩踏み込んだものとなっているが、もはや”出し遅れの証文”といった感は拭えない。2002年8月、警視庁公安部は旅券法違反などの容疑で辛光洙の逮捕状を執ったが、「この程度だったら、背乗りということで、当時も(立件)出来たはずだと思うが」と、現職の警察官僚たちは当時の先輩たちの捜査姿勢に極めて批判的である。

 また、当時の捜査担当者らは「韓国の捜査協力を得て、日本に帰ってきたら、幹部が交替していた。もしこの拉致事件が正式に立件化されていたら、これを突破口に日本国内における北朝鮮スパイ人脈の解明が一気に進んだろう」「あの時ケジメをつけておけば87年の大韓機爆破事件などは起きなかっただろう」と、今も口を揃えて断言する。

 そして拉致事件の中心人物である辛は、2000年6月に平壌で開催された初の南北首脳会談の”見返り”として同年9月2日に「非転向長期囚」のひとりとして北朝鮮に”凱旋帰国”することになるが、日本警察の拉致捜査は辛光洙事件の立件失敗(85年)により、それ以降完全に隘路に入ってしまったことになる。
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重村本の「警察の捜査も冷たかった」という部分についてはより詳細に記述されています。
またNSPは極秘に捜査したのではなく、ICPOを経由して資料を提出すなどして、日韓の公安機関は捜査協力をしていた様子です。

辛光洙の捜査に件に関しては、両書を通じて日本側の事情により中途半端に終わったのかなという印象は拭えませんが、少なくとも韓国司法機関がめぐみさんのことを伏せて、辛光洙を起訴、死刑判決を下したとは考えられませんね。

日本の警察庁としてはいろいろと辛光洙事件では苦汁を飲まされていますので、「辛光洙」情報には必要以上に前のめりになってしまうかもしれません。

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