国鉄があった時代blog版 鉄道ジャーナリスト加藤好啓

 国鉄当時を知る方に是非思い出話など教えていただければと思っています。
 国会審議議事録を掲載中です。

急行瀬戸のお話 第1部

2017-01-29 15:13:52 | 国鉄思いで夜話
みなさまこんばんは、今日も少しだけ更新させていただこうと思います。
前回は、出雲でしたので今回は、その対となる列車として、「瀬戸」と取り上げてみたいと思います。

サンライズ瀬戸のルーツは昭和25年まで遡ることが出来るようです。
昭和25年10月のダイヤ改正で誕生し、当時の時刻表(復刻版)を見ますと、東京発広島・宇野行39列車 東京発 21:30→宇野13:10(広島到着は16:13)であることが伺えます、ただ当時は特急列車と急行列車(銀河)のみ愛称が与えられているにすぎず、多くの急行列車には愛称はありませんでした。

未だ、愛称は付けられていませんが、宇野・広島行きの列車があります。

編成を見ますと寝台列車も復活せず、座席車主体であることが伺えます。
愛称が急行列車にも設けられるのは、昭和26年12月からだそうです。
この際、初めて「せと」の愛称が与えられ、「あき」との併結運転が始まるそうです。
昭和26年には一時的に単独運転となったものの再び昭和26年11月から昭和31年11月までは「急行・出雲」と併結運転とされることとなりました。

昭和30年の時刻表から。単独運転であることが判ります。

1956年(昭和31年)11月19日国鉄ダイヤ改正)により、「せと」は単独運転になり、列車名は漢字の「瀬戸」になります、当時の時刻表を参照しますと、東京21:15発宇野12:03になっています。(当時、四国島内に準急でひらがなの「せと」があり、それを避けるためと思われます。

約1時間ほど速くなったと言えますが、15時間近くかけて運転していたことになり四国までは丸一日仕事になりそうです。
また、編成を見てみますと2等車(グリーン車)がスロ54自由席と指定席、各1両づつ、それ以外は普通車の編成となっています。

昭和36年頃には少しスピードアップして東京21:00発宇野11:14で1時間半ほどスピードアップしています、1等寝台車(開放式)が連結されたほか、食堂車が連結されており、復興が進み供食サービスが再開されたことが伺えます。

オロネ10&マシ35辺りでしょうか。食堂車&1等寝台開放室と言う豪華な編成に出世した「急行瀬戸」


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国鉄があった時代 JNR-era



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2 コメント

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Unknown (旅好き)
2019-05-13 10:15:38
宇野駅から徒歩で玉野市立図書館へ。宇野駅などの写真展示の中に昔の時刻表が一部あり。急行瀬戸、載ってました。
Unknown (加藤好啓)
2019-05-16 20:20:21
コメントありがとうございます。
サンライズ瀬戸が、特急になる前は急行瀬戸として運転されていましたね。
昭和47年に14系寝台車が試作されて半年ほど使用された後特急に格上げされてしまいまして。
急行時代に利用した人は、寝台幅の広い急行列車として重宝したと思うのですが、次の改正で特急になったので、運賃は上がるだけと言った印象を与えただけかもしれませんね。

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