国鉄があった時代blog版 鉄道ジャーナリスト加藤好啓

 国鉄当時を知る方に是非思い出話など教えていただければと思っています。
 国会審議議事録を掲載中です。

関西線が電化された頃のお話

2016-10-09 23:27:31 | 国鉄思いで夜話

関西本線は、奈良までの区間(電化は加茂まで)と加茂から亀山までの区間、そして亀山から名古屋までの区間に大きく分けることが出来ますが。
関西線の不幸は、並行するように近鉄と言う存在があること、更に沿線ではJRを利用するよりも便利な近鉄を選択してしまうことも大きいかと思います。
結果的に、東海道線の予備ルートという意味合いも果たせないまま現在に至っているのが。加茂~亀山間なのでしょう、せめて柘植から亀山だけでも電化しないかなと密かに思いますが、亀山で会社が変わりますので、その辺も難しいでしょうね。

関西線に関しては、3つの区間に分けてお話をさせていただこうと思っています。
そこで、今回取は、JR難波から奈良までの区間を最初に取り上げてみたいと思います。

湊町発亀山行きなどの直通列車が走っていた、昭和47年10月の時刻表から


この区間は関西線の中でも「大和路線」という愛称を持ちJR西日本の中でも通期輸送線区として位置づけられている区間ですが、電化された時期は意外と遅く、昭和48年まで待たねばなりませんでした。

言い換えれば、昭和48年の電化完成までは大阪市内(湊町まで)にデイゼルカーが乗り入れていたのです。
当時は和歌山発天王寺行という列車もありました。(阪和線経由ではありませんよ、和歌山線・関西本線経由です。)今では信じられないでしょうが、10系気動車と呼ばれた車両が天王寺駅に乗り入れていたのです。

また、奈良までの列車も湊町(現在のJRなんば)からキハ35と呼ばれる気動車が走っていました。
これは、近鉄が戦前から(正確には戦前は関西急行鉄道(関急))電車を走らせていたのと比べると関西鉄道時代の遺産をそのままに旧態然とした輸送を続けていたのでした。
キハ35が導入されたのも、会計検査院の指摘で(国鉄が自ら動いたように書かれた資料もありますが、会計検査院の指摘がどうも直接の動機のような気がします。)国鉄監査委員会で固定資産が多く、経費がかかりすぎる関西線を動力の近代により、合理化を図ることが指摘され、そこで誕生したのがキハ三五形気動車でした(2020/4/10修正)


この指摘を受けて新たに開発されたのがキハ35形気動車で、通勤型と呼ばれる分類も気動車では初めてであったし、同時期に製造されたキハ28・58と同じDMH17Hエンジン(横型エンジン)が採用されました。

外観上の特徴としては、3ドア両開きの外釣り扉を採用しており、このドアだけは不評でした。盛大に入り込む隙間風に泣かされたものです。

さて、この3ドアロングシート車が導入されて、快速運転も開始されましたがそれでも近鉄と比べればその輸送量は微々たるものであり、ローカル線と然とした雰囲気を拭い去ることは出来ませんでした。

そんな関西線も、輸送力向上と経営改善に一貫からか昭和48年には電化が遅ればせながら完成。
湊町~奈良までは電車による運行となり、その反面今まで湊町まで乗り入れていた、「かすが」は「奈良までの運転となりました。」

その反面、今までキハ45やキハ35が大手を振って走っていた区間は113系(春日塗)と101系による運転が始まったのです。

当時は快速が原則113系、普通列車は103系に充当されるようになっており。かつ快速は休日限定で大阪環状線に乗り入れる(現在の大和路快速の運転形態)ようになりました。

昭和48年10月に電化開業した関西線ですが、12月に大変大きな事故を起こしてしまいます。
その辺のお話は明日以降にでもさせていただこうと思います。

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