鋭幸の庵

寺なし坊さん四苦八苦

少年少女禅の集い

2006年08月31日 | 日記

少年少女禅の集い
昨日は午前まるまるグロッキー。九時頃朝食取ったのに、睡魔に勝てずにお昼まで二度寝のていたらく。

というのは、一昨日まで師匠のお寺を会場にして、千葉県曹洞宗の「少年少女禅の集い」なる一泊二日のイベントでてんてこ舞いだったからです。

小学生を対象(26?人が集まってくれました)に、自然体験や座禅などを盛り込んだワークショップ。企画は楽しいのですが、師匠のお寺なので、スタッフとしての動き+内部の人として、その前日っから道具の準備などでいっぱいいっぱい。

そして、一昨年は参加してくれた裕美さんちのお嬢二人が不参加で、モチベーションが下がる…。いや何ていうか、授業参観に父兄が来ないみたいな感じ。

いや、そうは言うても一生懸命やりましたよ。写真撮ってる余裕もないくらいに。ハイ。

で、写真はレクリエーションで自作した竹食器。箸が細くなり過ぎましたが、麺類は細い箸が便利という意外な発見。


かぐらなんばん

2006年08月24日 | 日記
かぐらなんばん
写真のピーマンみたいな野菜は「かぐらなんばん」という新潟の郷土野菜です。見た目と食感はピーマンですが、火を通すとトウガラシみたいな辛さが出ます。

避難している大叔父さんが、わざわざ小千谷から苗を取り寄せて茨城で作ったものを、お土産に持たせてくれました。

大叔母さんが車イスのため、大叔父さんは新潟の家を貸し別荘にしているのですが(あ、ご希望の方はコメントに書き込んで下さいね)、やっぱり新潟の味が恋しいのでしょうね…。美味しく頂きます!


茨城お寺ツアー

2006年08月23日 | 日記
茨城お寺ツアー
中越地震で被災した大叔父さん夫妻を茨城にかくまったのは、この大叔父さんの弟にあたる大叔父さん(ややこしいなぁ)。その大叔父さんの運転で、大叔父さん夫妻と一緒に茨城のお寺めぐりへ。

途中、JAの運営する「竜神そば」でお昼&お買い物。水府のあたりは全国屈指のそばどころとか。美味しかったです♪

お寺は道元禅師の直弟子・詮慧和尚ゆかりの耕山寺、阪東三十三観音礼場の一つで、戦国時代の建築が国宝の佐竹寺(写真)、親鸞聖人の直弟子で歎異抄の著者とされる唯円聖人?が開いた西光寺をお参り。いやー地方のお寺、あなどれない…。


海なし県民の性?

2006年08月22日 | 日記
海なし県民の性?
一月にもお邪魔した、新潟県小千谷から茨城に避難している大叔父さん&大叔母さんのお宅へ、お盆の棚経に行ってきました。

が。せっかく海が近い街に行くのでと、その前に一泳ぎ。海なし県民の性なんだか、とりあえず海を見ると興奮します。この歳で。そして多分これからも。

が。けっこうなうねり加減で大波小波がザッパンザッパン。そして海に(というか水着にも)慣れてないので「イェーイ!泳ぐぜ遊ぶぜ暑いぜ」とか開放的な気分になれず、何だか身の置き所がない。

で、仲良くなったその辺の男の子とお母さんのアドバイスで、岸壁とかテトラポットで蟹&貝探し。結局どこに行こうがみみっちい作業に落ち着く私の性…。


エロティック?心経

2006年08月19日 | 日記
昨日を持ちましてお盆のお手伝い終了。久々の我が家です♪ …が、夏終っちゃったなぁ…。海行ってもクラゲ出てんだろうなぁ。

さて、ここ二十日あまりあちこちで読経して一つ発見したこと。

六?七?月あたりに般若心経の現代語訳を作って、ゆくゆくはここにもアップしようとか思ってたのですが、やめます。訳自体にはそこそこの自信があったし、意味が分かると面白い気もするのですが、少なくとも儀式で読むお経は、訳すと魅力が半減しますね。

まず、木魚に乗れない。意味を捉えずに体をリズムに乗っけた方が、《人知を越えたもの》に触れられる感じがします(低音で斉唱すると倍音みたいになりますが、これも音読み棒読みの方が効果的かも)。

特にギャーテーギャーテーの真言部分。現代語訳の本でもあえて「敬意をこめて訳さない」などと言います。でも私はあえて、失礼だからとか敬意をこめてとかではないと思うのです。

例えば。留守電に好きな人からの「もしもし。アレ?」とかの声が入ってたら、内容がしょうもないものでも消すのにためらいませんか?

真言は、古代インド語の発音まんまの再現。お釈迦さまの声自体は昔だから録音できませんが、それでもお釈迦さまの使った言葉を、今まさに自分に語りかけられた言葉として聞きたいと思った人々が、古代インド語をまんま残したのが真言ではないかと思うのです。

もちろん、お釈迦さまのメッセージやお経に込められた哲学は素晴らしいのですが、言葉や理論のみならず、五感の揺さぶりで感動する人の情緒的な部分も切り捨てていないのですね。

実は禅宗は真言密教の影響をとても受けているのですが、単になりゆきで混じっただけでなく「言葉には限度があり、体を通しての追体験が必要」という禅本来の思想が真言を受容する土台になっているみたいです。

…って。こんな事が気になる私はたぶん声フェチなのでしょう。

でも、木造建築のムードとか、畳の感触とか、お香とか、お寺には歴史の重みとか深さを感覚的に捉えさせる装置が山盛りありますね。お寺や神社が好きな人同士でも、視覚から入る人・聴覚から・嗅覚からの人、といった個性があるかも知れません。…さぁあなたは何フェチ?