ここ数年、お盆が近づくとニュースになるのが首相のヤスクニ参拝。しかしお盆の行事に関わる中で、こんな疑問を感じます。
旧日本軍の侵略性を否定する論調で「兵士たちは、愛する人を守るために戦場に向かった」っていう声がありますね。私はあの戦争は侵略だと思うし、兵士たちの多くは「何のために」以前に赤紙の強制で身柄を拘束されていた訳ですが、
兵士たちは明日の死を運命づけられた状況下で、家族や愛する人のために死地に向かうのだと自分に言い聞かせていたのではないかと思います。その祈りの切実さは、たとえ国がどんな思惑で起こした戦争であれ、決して軽んじられてはならないものでしょう。
であれば、そうした兵士たちの魂は、愛する人たちの元に帰ったのではないかと思うのです。
ヤスクニは「祀られた魂は一つにまとまるので今さら個人をわけられない」という論理でA級戦犯の分祀を拒絶していますが、これに則れば、ヤスクニに祀られた魂はお盆やお彼岸に生まれ育った家に帰って来ることもできません。
でも「愛する人のために」死地に向かった兵士たちの魂が、望んで愛する人の元に戻れなくなる所に入るでしょうか? そして生身ではない魂が、国家権力の強制を受けるのでしょうか?
伝統的な神道の考えでも、味方よりむしろ敵として亡くなった死者の魂鎮めに力点がおかれますし、遺族の鎮魂があって死者は祟りを起こさなくなるとされるので、祭祀対象を味方に限って、さらに死者を家族から引き離すヤスクニは、日本人の伝統的な宗教感情からもズレたものだと言えそうです。
さてここまで「死後も魂は存続する」論調で書きましたが、お釈迦様は死後の魂うんぬんについてノーコメントの立場をとっています。私自身も霊視ができる訳でもないので、死後の霊魂存続についてコメントできません。
でも例えば、私たちが好きな人の写真をその人のように大切にしたり、その人ゆかりの場所で思いを馳せたりすることは、魂があるかないかの議論ではなく、個人(または故人)に対する切なる思いの問題です。お盆お彼岸や法要は、そうした思いの表現として意味あるものだと思います。
私たちは幸いにして平和な時代に生まれ、そうした経験をせずに済んでいる訳ですが、私たちがどんな世界を望むかを考える上で、戦争で青春をすり減らして亡くなっていった兵士たちや、襲撃を受けて殺されていった人々の記憶を、風化させてはならない筈です。
そして人が個性を持つ以上「どっち側で戦死した」かだけで誰も彼もを一緒くたにまとめられるものではなくて、どう生きようと望んだか、それでも果たせなかったか、といった個別なドラマによってしか、その人の歩みやその時代の重みを味わえないと思うのです。
終戦記念日がお盆中にやってくるのは、たまたまなのですが、私は特別な意味を感じます。どうかご家族の体験された戦争を、語り継ぐ機会とされては如何でしょうか。