順風ESSAYS

日々の生活で感じたことを綴っていきます

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法学部の学生時代から、日記・エッセイ・小説等を書いているブログです。
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エッセイ→ぼくはタイガー鶏口症候群成功のための競争背水の陣//小説→切符がくれたもの鉛筆削り未来ニュース//鑑賞録・感想→報道写真について美術鑑賞2009No_Logic天使たちのシーン//その他創作モノ→回文まとめ雪が降る
 

橋下弁護士のブログで

2006年05月29日 | 時事
テレビで話題の橋下徹弁護士のブログがあることを知った。ここ数日は修正申告を「申請漏れ」と報道されたことについての反発が長文で書き連ねている。これを、相手にするほどでもないかもしれないが、ゲンダイネットが冷やかしている。そこでは、「執念深さは異常」とされているが、決してそうではないと思う。

検索しても詳しくはわからなかったが、離婚事件についての本を共著で出しているところをみると、市民相手の業務も行っているのだろう。メディアにも積極的に出てイメージをつくりあげているところ、「申告漏れ」という本職での実力に疑問符がつきかねない表現を用いられることは、信用・イメージともに大きなダメージになる。弁護士として根幹に関わることだ。これは何としてでも報道以前の状態に回復させる必要がある。幸い出演している各番組で反論の機会が与えられるようで何よりである。

そりゃあ、クレジットもつけず記事を書いている人、野球選手(脱税で起訴された人も)のような職業の人にとっては税務云々キャリアにとって大したことではないが、対象の特性・その人にとって何が大事なのかをよく考えて配慮して報道してほしいものだ。現場は配慮する暇もないほど忙しいのだろうが、一般の人がどれだけ速報性を欲しているか、スクープ合戦するほどは求めていないことは確かであって、より丁寧な報道を望んでいるだろう。

困った困った

2006年05月27日 | 日記
この1週間ほど、ここの記事を書くのが一番楽しくて、他にやるべきことがたくさんあるのに~とこめかみに拳を当ててぐりぐり回す日が続いた。というのも、先月の更新お休み前に秘密にしていた小説の趣味を公開して(それまでは別のブログ立ててやっていた)、なんか吹っ切れた感じでここで書く内容に制約が取り払われたのだ。とはいえ、このままでは生活のバランスが崩れるので、休日の今日、机の上も部屋も頭の中も整理した。

ところで、光ファイバー導入するか検討中である。ベルサポートからしつこく電話がかかってきて、際どくかわす毎日だ。確かに料金的にも損はないのだが、あたかも申し込んだかのように話を進める相手に反発したくなる。途中で話を切って「私一人じゃ決められない」「誰も申し込むなんていってませんよ」と言う。導入にあたってはコチラからプロバイダ等に対して直接手続するから、電話の代理店経由なんて不必要だ。これをハッキリ言えば、特定商取引法17条で以後撃退できるのだが、なんかズルズルと引き伸ばしてしまう。

プロバイダを変えるとなるとヤフーのホームページを解約して移転しなければいけない。小説などブログでは読みにくいので「まとめ」を新しいホームページで載せていこうと思うのだが、いつのことになるやら。

What's for others?

2006年05月25日 | 時事
心理学では役割理論というものがあるらしい。役割とは周囲から期待されている行動様式のことで、それを自己に取り入れて期待されている行動をとる傾向がある、とのことだ。例を挙げると、スポーツで補欠になったとして、なにくそと思ってレギュラーを奪うよりも、立派な補欠が出来上がるほうが多い、みたいな感じらしい。詳しいことはわからないが、環境適応、自己肯定の自然な心理であると思う。

近代的自我は自分の理想像があって常に現状とつき合わせては自己否定をする、と教養課程のとき習った気がするが、それ以上に自己肯定の心理は本能的に強く働いているように思う。そうでなければ自殺者が数倍になっていることだろう。辛いことがあっても、遅くても数ヵ月後には自己肯定できる思考が組み立てられて取り敢えず前向きになることができるものだ。

人間性を疑われそうな例を出して恐縮だが、以前麗しい女性との恋を手に入れるかどうかというとき、その日の占いも星5つで相手にも気がアリなんて言っていて、実際いい雰囲気の店で話してみて向こうも思わせぶりな態度をとるんだかとらないんだかで結構な好条件が揃っていたのだけど、どうしても確証がもてず、また向かい合って座ったために接近しづらくて「今日はやめておこう」と心の中で決断した。そのときはこれまでの気概はどうしたんだ、男として情けないと思ったのだが、数分と経たぬうちに、この控えめな性格のおかげで言葉にこだわって遠まわしに言ったり書いたりする楽しみをもったのだから、それが自分に相応しいやり方だ、なんていうひどくキチガイな考えが浮かんできた。当然すぐ我に帰ってがっくりきたのだが、とっさに浮かぶ自己肯定とはすごいものだと驚いた。

自分に限らず、他者の自己肯定にハッとすることもある。自分がもしその人の立場にあったら非常に辛いだろうと思うようなとき、力の限りで助けになりそうなことを用意して話す機会を設けてみても、彼はその状況下でなんとかやってきたので対処術をそれなりに心得ており、意外とあっけらかんとしていて、自分にできることは特にないと気付く。マリーゴールドに対して私がすべきだったことは「何もしないこと」であり、わざわざ肥料を与えたりする必要はないのである。

このように自分の感覚と相手の感覚に開きがある現象は、社会を見渡しても散見される。フリーター・ニート問題で本人たちへのインタビューがたまにあるが、今のままでもそれなりに楽しい、というコメントが予想以上に多い。大学で生活保護法のケースを学んだが、ホームレスなど、当人に自立する意思がないという根本的な問題があり、精神的なケアという難しい課題が横たわっている。海外ボランティアのドキュメンタリーを見ても、医療や食料など最低限を満たす援助を超えて自立のために新しい農作物や産業などを根付かそうとするときは、現地の人の理解は容易には得られず、必ず説得するプロセスがある。

これらの場面では、彼らの自己肯定の心理を尊重し状況を放置することは果たして妥当か、という疑問がつきまとってくる。これは法の問題としては個人の内心の自由をどこまで尊重するかということであり、対人関係の問題としては、相手の状況と抱く考えをきちんと認識できるか、考えを変えるよう働きかける必要性はあるのか、うまく働きかけるにはどうすべきか、ということである。自立支援・途上国援助のような問題と向き合うときには、これらの点に注意すべきことになるだろう。

マリーゴールド

2006年05月25日 | essay
宗教心から創られる美術や建築の美しさには心は奪われるが、その教義が現代において違和感なく受け入れられるのは難しい。キリスト教など、生まれながらにしての罪という点がどうしても納得がいかない。キリスト教倫理との葛藤に青年時代のエネルギーを費やした人の記述を目にすることがあるが、宗教意識が希薄でそのような苦労がない日本に生まれて幸いだと思う。ところで、教会には懺悔室というものがあって、負い目に感じていることを告白させて心を少し安楽にさせてやろうという機能をもつらしい。ここでは幼き頃の出来事を告白して懺悔したいと思う。もっともその動機は、胸につかえているからではなく次の記事の布石のためであるのだが。

マリーゴールドという花がある。鮮やかな黄色~橙色のキクに似た花なのだが、小学校3年生のとき、小学校の畑に咲いているこの花を切花にして水栽培をしよう、という授業があった。水に入れると根っこを出して長い間花がもつのだ。早速畑に行って好みの株を選んで切り取る。小学生というのは小さいことにも真剣なので綺麗に咲く株を丹念に探していった。そして見つけたのは、小ぶりで細く、花びらの形が美しく整ったものであった。私はすっかり惚れこんでその花を切り取ろうと手を伸ばした。しかし、その手よりもわずかに早く、クラスメイトの一人がその花を手中に入れた。私は驚いて、それは自分もいいなと思ったものだ、と言って彼と交渉しようとした。でも「俺が先にとったもんね」とぶっきらぼうに返されてさっさと行ってしまった。本命を取られてしまった私は仕方なくその辺りにあったものを適当に選んだ。

水栽培にあたり、よく根が出るコツは茎を刺激しないようにすることだと教わる。一人ひとつずつガラスの小さな花瓶に入れて窓際に並べていく。私もそれに従うのだが、どうしても自分の花に愛着が沸かない。無骨に大きくて慎ましやかな感じがしないし、花びらも一部乱れていてバランスがとれていない。あの綺麗な株への羨ましさが募るばかり。次の休み時間、みんなが並べた花をざっとみていく。やっぱりあの花が一番綺麗だ。何気なく、茎を花瓶の縁にこすりつけてしまった。1週間も経てば、当然の事ながら、彼の花は根が十分に出ず見るも無残な姿になる。鮮やかな黄色の花びらはどす黒さを帯びたオレンジに変色してしまっていた。「どうしてこうなっちゃったのかな」と首をかしげる彼を横に私は無言だったが、大変後悔した。彼にとってはもちろん、自分にとっても最も望まない結果ではないか。

一度惚れ込んだものに対しては、例えそれが自分の思い通りにいかなかったとしても、出来る限りの支援をして輝く姿を見守ろう、と固く誓った。

喜劇「コチラ独り身専用車両ナリ」

2006年05月23日 | 創作
―とある鉄道会社のワンマン社長、社長室で部下と話す。

「おい、君、女性専用車両も定着してきたようじゃないか」
「そうです。しかしまだ痴漢はなくなりません」

「ま、ゼロには出来ないだろうがイメージが大切だな。ところで君、痴漢は女性にとって苦痛なだけでなく、男性にとっても迷惑な話だ。冤罪で積み上げたキャリアが吹っ飛ぶことがあるだろう。これは社会全体にとってもマイナスだ。男性客は言いがかりをつけられないよう満員電車で腕を上に挙げたり苦労しているそうじゃないか」

「それは逮捕されただけで有罪と決め付ける社会がいけないのでは」
「社会が変わるのを待ってちゃ遅いぞ。私に考えがある。男性専用車両はどうだ!」
「え…というと?」
「奇数号車は女性専用、偶数号車は男性専用。これで円満解決だ!」

「しかし、カップルで乗りたい人もいるでしょう。別々に乗せてはサービス悪化です」
「そうか、それなら5号車をカップル専用車両にしよう。アツアツだからここは強冷房車だな」

「しかし、カップルをやっかむ人も出てくるのでは?利用が少なくなります」
「そうか、それなら6号車を独り身専用車両にしてカップルになる道を用意してはどうか。おっ、これはなかなかいいアイデアだ。となりの号車には幸せな光景。サブリナのように羨ましく眺める人が出てくるだろう。ああ、デイビッド、明日はあなたと5号車に…なんてな。それに、出会いを信用できないインターネットやお金のかかる業者に任せてはいかん。着飾らなくてもこの車両に乗るだけで恋人募集シグナル発信だ。毎日の通勤で無料、実に出会いやすい。少子化対策にも一役買って表彰ものだな」

「…果たしてうまくいくのでしょうか」
「やってみなきゃわからんだろう。思いついたら実行だ!」

ということでワンマン社長の思いつきで導入された女性・男性・カップル・独り身専用車両。さてさて中学生、高校生、恋人できないサラリーマン、仕事で出会いを探す暇がないキャリアウーマン、もう一花咲かせたいまだまだ元気な中高年。彼らはどの列車に乗りどんな人間模様を繰り広げるか!?ドキドキ出会いの車両に入ればみんな男!?果たして明日は隣の号車に移れるか!?「お父さん、なんでこの車両に?」「いや、違うんだ恵子!」ドタバタ、笑いアリ涙アリの大作コメディ、豪華キャスト陣でいよいよ完成!「コチラ独り身専用車両ナリ」 2010年10月映画公開!

~~~
というのを朝食抜きの身体で満員電車に揺られながら考えていた。
誰かこの企画を実現させてください。

Everything should end with humor !!

エキスポランド

2006年05月21日 | 日記
私の携帯は笑いが出てくるほど変換が頭悪く、KAT-TUNを出すくらいなら常識的な漢字変換をやってくれと思う毎日である。今日変換していたところ、予測で「エキスポランド」という候補が出てきた。何これ?と疑問に思ったので検索してみたところ、大阪の遊園地らしいです。有名なんですかね?

詩才について

2006年05月21日 | essay
伊藤園のお茶には子供の俳句が載っているが、ハッとさせられるものも多い。最近見た中では、「曇り空 誰が落とした 目玉焼き」(うろ覚え)というもので、空に向かって卵を落とすとは、それが曇り空から丸く光る太陽をみて思いつくとは、とつくづく感心させられた。同じ空を見るでも、私のようにぼんやり見てる人もいれば、輝かしいものを見出す子供もいるものだ。

詩人が見る空と普通人が見る空は同じで、格別詩人がきれいな空をみているわけではない。普通の人でも旅行記など非日常体験について書くとき筆が立つのは、直感そのまま新鮮で書きたいことになるから、とのことだ。子供は天然の詩人というか物事を偏見なくみる能力が備わっているのに対して、平凡な人としては意識的に挑戦してみる必要がある。「切符がくれたもの」は、実際わが家のポストに切符が(ここでは大人の切符だった)入っていたのをきっかけにストーリーを広げて作ってみたものだ。書いた当初はそれほど意識していなかったが、駅の改札は結構色々なことが象徴されているように思う。

「矢印や進入禁止の表示が身近に見える」子供のころは自分がやるべきことに迷うことが殆どない。学校の勉強をやって、宿題をやって…。そしてみんな進む方向は一緒だ。一方、「今度は、改札機が小さく見える」矢印も進入禁止も視界に入らない。外から与えられる進むべき方向は目に入らない。二人の行く方向も同じではない。ただ、ささやかな交流でこれから自分が進むだろう道に少し自信を持つことができた。そんな意味を込めて結語へ。

こうやって一度言葉にこだわって何かやってみると、流行曲の歌詞にも色々と込められた意味があるのではないか、と気がついてくる。使い捨てなどというが、それは聴く側が氾濫する情報の中でひとつを味わう機会を狭めてしまっているからかもしれない。思えば、中学生、CDを買い始めた頃は同じ曲を何度も何度も繰り返して聴いていたっけ。最近見直したなかでは、ミスターチルドレンの「未来」が特に含蓄深いと思う。

このように詞の世界では普段は見過ごしてしまう事柄に多面的にアタックしてみることでそれなりの成果は挙げられるが、笑いの世界は見た人に瞬時に理解させなければいけない。これはより難しい大変な作業だ。テレビを見ていても、小道具を前にした即興のコントは一杯一杯なのが伝わってくるし、トークバラエティ番組では何でもない言い間違えを指摘して執拗に笑うばかりである(どもり癖のあった私としてはこれは許せない部類に入る)。

駅までの道

2006年05月21日 | 創作
駅までの道 通いなれた道
今まで何回歩いてきたのだろう
何百? 何千? 何万?

家から駅までの地図くらいは書けるよ
徒歩何分 自転車何分 時間くらいは言えるよ
でも毎日の草木や花、空、通り過ぎる人たち
知覚されても 日常の中で消えていく

今日初めて君とこの道を歩いたよ
幼いころの通学路も歩いたよ
背の小さい その目に映る光景は
美術館の名画のように輝いていたのだろうね
無邪気にはしゃぐ姿

昔は道端の花や昆虫を探していたっけ
クローバーの群生を見下ろして四つ葉を探していたっけ
クレマチスの散る姿は儚いね
芍薬のつぼみは奥ゆかしいね
空の表情も毎日違っていたね

霧が晴れたんだ 気がつけば この道は宝箱
時が経って 一緒にいるのが当たり前になるかもしれないけど
僕は一瞬一瞬を胸に刻んでいくよ
ありがとう 毎日の素晴らしい発見を

~~~
※特に意味はありません=私の日常には関係ありません
いや、mixiでつらつらと出来事を書いてるとこっちでは変に凝りたくなるんですよ。
教訓:「君」を使うと作りやすい。ミスターチルドレン様、すみません。

ブログ→SNS?

2006年05月20日 | 時事
更新再開したと思いきや創作めいた変な記事が並んで、見た人がスーっと引いていく姿が目に浮かびます。たまには少しはマトモなことを書こうということで書いてみます。

ブログ進化論という本を大学生協でちょっと立ち読みしました。ブログはまだ黎明期という位置づけで、サービスが無料なのも各社が採算よりシェア獲得を重視しているから、という状況にあるとのこと。このままブログが定着していくようにもみえますが、強敵が現れています。ミクシィのようなSNS。今や大学のPCではオレンジの画面がズラーっと並んでいます。話についていけないので私もはじめてみました。この先ブログは廃れてしまうんではないか?と疑問も出てきます。

ブログのメリットは、まず、アクセス数が多いことです。ホームページをやっていたときと比べて格段に多いです。pingやRSSといった仕組みによるものでしょうか。また、デザインに凝ることができます。SNSの画面は統一されていますが、ブログは自由にカスタマイズできます。私が使っているgooブログはテンプレも多いですし、いくら自由度がないという評判でもCSSをいじれば現在の状態のように個人的には理想的に近い状態を再現できます。

対して、SNSのメリットは公開範囲をコントロールできることでしょう。ブログはアクセス数が多いのと裏返しで世界中に開かれています。記事を消してもgoogleのキャッシュに残ったりします。昨年夏ごろから炎上という現象が頻発しましたが、これは想定以上のコメント・トラックバックが集中する状態をいいます。SNSはこのリスクが著しく少なくなるでしょう。ブログはどうしても嫌という人がすんなりミクシィをやっているのをみても普段のおしゃべりの延長線上により近いという性格があるからかもしれません。

最近はブログも洗練されてきて、内容の濃い情報系ブログ・日記でも企画のよいブログが数多く出てきています。これに対して、日々の出来事をつらつらと書き連ねるタイプの記事は、見知らぬ人にとっては価値のないものであると同時に本人もあまり見られたくないものですし、人気ブログと重ねてしまって見劣りしていい気分がしないでしょう。ということで、ブログではニュースに対する意見など比較的真面目でまとまったものが掲載され、SNSでは日々の出来事を書く、というような使い分けが定着すると思います。その結果、ブログ更新の活発さは今より少なくなっていくでしょう。

最後に、なぜミクシィ>グリーなのか、について思ったことを。SNSで大きいのはミクシィとグリーがありますが、ミクシィのほうが圧倒的に利用者が多いです。二つともやってみて機能にそれほど差はないように思うのですが、ミクシィのほうが日記が使いやすく、コメントもつけやすい工夫がなされていると思います。足あと機能があって、ログを消せないのも、日記を見たからにはコメントつけないと悪いかな、という気持ちになりやすくなるでしょう。あとは、参加者が多ければ多いほど入る人も多くなるという好循環で、私もグリーだけでやっていましたが、あまりにもミクシィが広まっているので参加してみたくなりました。

シロツメクサ

2006年05月15日 | 創作
四つ葉のクローバー 目立つばっかりに子供に摘まれました
友達の三つ葉たちは 四つ葉より長生きできました

四つ葉のクローバー 押し葉にされて大事にされました
友達の三つ葉たちは 静かに枯れていきました

四つ葉のクローバー 押し葉にされて大事にされました
友達の三つ葉たちは 芝刈り機で刈られて逝きました

~~~

四枚目の葉っぱなんてない
気付いちゃいるんだけど 信じてみたくなる
虚勢を張って 背伸びをして
時には成功したり 時には現実突きつけられたり

ひとしきり疲れたあとでわかる
三つの葉の力強さ 陽光の暖かさ

枯れるにしても 刈られるにしても
目の前の壁を ひとつひとつ 打ち破って
目の前の希望を ひとつひとつ 掴んでみるよ
四つの葉で輝く君 こちらを向いてくれませんか?

~~~

わたしが輝いてる?
こんなちっぽけで余計な葉っぱ
いつでも切り落としたいと思っているの

三つ葉と四つ葉 ちょっとした違いで
素直になれない 心が通じ合わない

あなたに背を向けるのは
泣き顔を見せないため 空っぽの中身を見せないため
そちらを向いても 受け容れてくれるかしら

杞憂

2006年05月14日 | essay
私は外では落ち着いていて、落ち着きすぎてノリが悪いと思われそうなくらいなのだけど、家では結構な心配性だ。毎日帰宅するときには火事で焼けてなくてよかった、泥棒が入っていなくてよかったと胸をなでおろす。深夜起きたときは家族がちゃんと息をしているか確かめる。外で落ち着いているのは心配を思い巡らせ過ぎて大概のことが想定内になってしまうからかもしれない。とはいえ余程のことがない限り電車や教室で熟睡できないなど身体が緊張しているので、家での休息の時間を大切にしている。

勉強するときも、あの分野が少し弱いかなといったことがチラチラと頭によぎる。ちょうど今目の前に貼ってある紙には「全問正解する必要はない」「知らない知識も必ず出る、慌てる必要はない」「知識量としては周囲に決して劣っていない、自分が難しいと思う問題はみんなにとってもそうだ」みたいなことが書いてあって、要は落ち着いてやれといったことを言い聞かせてある。そんな私にとって集中するには音楽が必須である。心地よいリズム・メロディに乗って余計な心配をせず目の前の作業に取り組む。アルバム1枚で約1時間と時間の目安にもなるし、聞き古した曲ならそれに気をとられることも少ない。ということで自室には四六時中といっていいほどオーディオがかかっている。中学の頃からずっとそうだ。よく耳栓して勉強する人がいるけれど、無音で集中できるというのは凄いことだと思う。私だったらイヤホンで耳に栓をする。

その中でも試験用、試験のときにはこれを聴く、というものがある。m-floなんだけど、本当に感謝感謝。今日はEXPOのツアーのライブアルバムを聴いて会場まで行った。聴いてると落ち着くどころか、余裕も出てくる。VERBALさんtakuさん、これからも10年先のハイクオリティな楽曲を待ってますヨ。いつかライブに行ってみたい。