本から言葉を引っ張ってくるというのはよくあることだが、受け取られ方は様々であると思う。無駄に知識を披瀝しているだとか、格好つけているだとか、文章をもっともらしく偽装しているだとか、マイナス方向にもはたらきそうである。まぁそんな一面も全くないというわけではないけれど、本意としては、自分の独創ではない部分を明らかにし、着想の出所に興味をもってもらえたなら、ということである。こうした受け取られ方を左右するのは、文体から素直さ実直さが感じ取られるか、という点であるだろう。その点まだまだ上達していない。画面を前に首を捻ることしきりである。
先日混雑した電車内で前の人の読んでいる文庫本が目にとまった。小説で、一人息子が大学受験の年なのに芸術方面に進みたいと言い出したため受験勉強するよう説得したい父親の悩み…といったストーリーであったと思う。
思い巡らすに、このような状況において頭ごなしにやめるように言うのは最も効果的でない。なぜなら両親は社会経験を積んできたのかもしれないが、その方面の専門知識となると明らかに本人より劣り、せいぜい社会的偏見と同じものしか持ち合わせていない。本人からしてみれば素人が反抗できない立場を利用して押さえつけようとするように思うことになり、ますます情熱が高まることになろう(他人の言うことに抵抗したくなったり障害があるほど燃えたりすることって心理的リアクタンス理論というんだって)。私が最も効果的と思うのは、その道の専門家に判断してもらう機会を用意してあげることである。本人も判断能力があるのだから、その中で趣味としてやるべきことかプロとしてやるべきことか悟るだろうし、専門家の意見には素直に従うことになろう。すなわち本人が出来る限り客観的に判断できる材料を用意してあげるということだ。
満員電車に揺られながらこんなことを思っていたのだが、このような考えの着想はこれなのだ。この本はちょうどこのブログを始める直前に読んだもので、このブログの記述の着想の多くはこの本と、同時期に読んだ『権利のための闘争』の2冊に基づいたものだ。こんな風に半年以上同じ本を元に思いをめぐらしているように、私は読書は好きかと訊かれたら嫌いじゃないと答えるけれども、量としては決して多くない。多読については、ショーペンハウエルが「読書とは他人にものを考えてもらうことである。一日を多読に費やす勤勉な人間はしだいに自分でものを考える力を失っていく」と述べているのを読んだことがある。もちろん読むべき良書は歴史の積み重ねの中で山のように存在しているのだが、強迫観念に駆られ心理的負荷をかけて読むのは何だかなぁと思うし、良書であればあるほどそれを頭の中で反芻させる時間を多くとらなければ自分のモノにならないんじゃないかな、と思う。
ということで、私のスタイルとしては、偶然出会った良書からいろんなことを考えてみる時間を長くとってみる、という感じである。この偶然に出会うきっかけというのは中高~大学での授業や教材というのがほとんどだ。そういう意味でも大学の授業は好きである。
思い巡らすに、このような状況において頭ごなしにやめるように言うのは最も効果的でない。なぜなら両親は社会経験を積んできたのかもしれないが、その方面の専門知識となると明らかに本人より劣り、せいぜい社会的偏見と同じものしか持ち合わせていない。本人からしてみれば素人が反抗できない立場を利用して押さえつけようとするように思うことになり、ますます情熱が高まることになろう(他人の言うことに抵抗したくなったり障害があるほど燃えたりすることって心理的リアクタンス理論というんだって)。私が最も効果的と思うのは、その道の専門家に判断してもらう機会を用意してあげることである。本人も判断能力があるのだから、その中で趣味としてやるべきことかプロとしてやるべきことか悟るだろうし、専門家の意見には素直に従うことになろう。すなわち本人が出来る限り客観的に判断できる材料を用意してあげるということだ。
満員電車に揺られながらこんなことを思っていたのだが、このような考えの着想はこれなのだ。この本はちょうどこのブログを始める直前に読んだもので、このブログの記述の着想の多くはこの本と、同時期に読んだ『権利のための闘争』の2冊に基づいたものだ。こんな風に半年以上同じ本を元に思いをめぐらしているように、私は読書は好きかと訊かれたら嫌いじゃないと答えるけれども、量としては決して多くない。多読については、ショーペンハウエルが「読書とは他人にものを考えてもらうことである。一日を多読に費やす勤勉な人間はしだいに自分でものを考える力を失っていく」と述べているのを読んだことがある。もちろん読むべき良書は歴史の積み重ねの中で山のように存在しているのだが、強迫観念に駆られ心理的負荷をかけて読むのは何だかなぁと思うし、良書であればあるほどそれを頭の中で反芻させる時間を多くとらなければ自分のモノにならないんじゃないかな、と思う。
ということで、私のスタイルとしては、偶然出会った良書からいろんなことを考えてみる時間を長くとってみる、という感じである。この偶然に出会うきっかけというのは中高~大学での授業や教材というのがほとんどだ。そういう意味でも大学の授業は好きである。
私が小学生のころ中学受験をしたのだが、幸運だったなと思うことがある。それは、小学校の同級生で同じ塾に通う人がいなかったことだ。片道370円かけて遠いところまで通っていたためである。このおかげで、塾での出来事と小学校での出来事を完全に切り離すことができた。塾で成績が良かろうと悪かろうと、小学校で気にすることはなかった。他の生徒は月曜日教室で前日の塾のテストが良かったとか悪かったとかが話になり、顔色を見て悪かったんだなとわかったりした。
私は中学・高校もクラスメイトが大勢通うところではない塾に行ったので、以前と同じ環境を享受できた。そのぶん普段手の内を見せないことになるのでどことなく怖いイメージがついてしまったかもしれないが、学校>塾という優先順位でやっていたに過ぎない。だから学校外でやっていることに自信がない。
こうして染み付いた習慣からか、大学では司法試験の話題を極端に避けているし、話題にすることが怖い。ブログでも滅多に書かない。「択一どうだった?」「論文受けるなら大学来てる場合じゃないんじゃない?」「論証パターン○番で質問があるのだけど」といった問いかけに対しては有耶無耶で答えにならない答えをしてしまっている。結果としては話題に困ることになり気まずくなることが多い。本来なら酒を飲みながら腹を割って話すべきことなのだろうけど、ここらへんの線引きが周囲と大きく異なるのでたびたび辛い思いをした。
私は中学・高校もクラスメイトが大勢通うところではない塾に行ったので、以前と同じ環境を享受できた。そのぶん普段手の内を見せないことになるのでどことなく怖いイメージがついてしまったかもしれないが、学校>塾という優先順位でやっていたに過ぎない。だから学校外でやっていることに自信がない。
こうして染み付いた習慣からか、大学では司法試験の話題を極端に避けているし、話題にすることが怖い。ブログでも滅多に書かない。「択一どうだった?」「論文受けるなら大学来てる場合じゃないんじゃない?」「論証パターン○番で質問があるのだけど」といった問いかけに対しては有耶無耶で答えにならない答えをしてしまっている。結果としては話題に困ることになり気まずくなることが多い。本来なら酒を飲みながら腹を割って話すべきことなのだろうけど、ここらへんの線引きが周囲と大きく異なるのでたびたび辛い思いをした。
大学生といえば家庭教師や塾講師というのが定番アルバイトだが、私はこれに手を出す自信がなかった。自分が中高~大学受験と、1から積み上げるやり方をしておらず、試験前までは興味の向くまま関連する本を読んだり深く知りたいことを検討してみたりとなあなあで過ごし、最後に試験の問題形式に合わせて知識を整理しておく、という感じであった。集めた参考書も無秩序だし、英単語帳を貫徹したこともない。そのため、人に教えられることはないんじゃないか、と思っていた。
しかし「どうしても…」と頼まれ近所の中学生を何度かみたときは、大変満足してくれた。学生講師は1から100まで教えることは期待されておらず、一番期待されているのは年齢の近い存在で勉強の習慣など姿をみせることなのだ、ということを薄々感じた。また、話してみると記憶の彼方にあった解法などが懐かしいくらいに出てくるので、一通り考えたあとはやってみることが大事なのだな、と当たり前のことも感じる。
法学の勉強も、今は図書館で憲法学の方法なんちゃらと授業とは無縁の本を借りては眺めているのだが、そろそろ学部試験・司法試験も近くなってきて、それに向けて整理し、足りないところを補強していく時期になってきた。今日は無料の択一テストを受け、7ヶ月ぶりの択一を解き、来年度のスタートの位置を確認してみた。前と大して変わらなかった。ブランクが関係なかったというべきか、成長してないというべきか。
しかし「どうしても…」と頼まれ近所の中学生を何度かみたときは、大変満足してくれた。学生講師は1から100まで教えることは期待されておらず、一番期待されているのは年齢の近い存在で勉強の習慣など姿をみせることなのだ、ということを薄々感じた。また、話してみると記憶の彼方にあった解法などが懐かしいくらいに出てくるので、一通り考えたあとはやってみることが大事なのだな、と当たり前のことも感じる。
法学の勉強も、今は図書館で憲法学の方法なんちゃらと授業とは無縁の本を借りては眺めているのだが、そろそろ学部試験・司法試験も近くなってきて、それに向けて整理し、足りないところを補強していく時期になってきた。今日は無料の択一テストを受け、7ヶ月ぶりの択一を解き、来年度のスタートの位置を確認してみた。前と大して変わらなかった。ブランクが関係なかったというべきか、成長してないというべきか。
「南の島のハメハメハ大王」の歌のパロディとして、こんなものがあった。引用してみる。
ここで思うのは、純粋な言葉遊びを除いては、大抵の場合、笑いの中に犠牲となるモノやヒトがいるということだ。上の歌の場合は姉歯元建築士。ハートフルドラマの典型たる「あいのうた」だって「飯塚さん」という常に軽くイジられイジメられるキャラクターがいた。漫才の場合はボケ役が自らその役を買って出ているし、昔の本を読めば道化がいる。
けれど姉歯さんがかわいそうだ!と言う人はいないだろうし、どれも許容範囲だと思うだろう。通常誰に対しても許される場面としては、笑いの中で犠牲となるのが、自分自身・政治家や大企業などいつも威張ってそうな人達・架空の人・悪いヤツというのが挙げられるだろう。ハードゲイの企画は許容範囲スレスレで微妙、眉をひそめる人がいるということになる。
以前「Numeri」という人気テキストサイトで、愛煙家の自分が肺ガンにでもなってヨロヨロになりながら更新するのも面白いと管理人さんが言って、病気をネタにするのはどうかという話になったことがある。このとき管理人さんが答えるには、ネタ化には犠牲が付き物で、気にしていたら何も書けなくなる、ということだった。サイト名物の「対決シリーズ」だって対決の相手からすればたまったものではないが、ただ相手が犯罪まがいのことをしてるから許容範囲になっているものと言える。
ここで許容範囲というのは感じ方も人それぞれだし、ネタを言う人によっても違ってくる。後者は専ら愛嬌の問題だ。綾小路きみまろの中高年ネタも、彼のキャラクターがあってこそ絶大な支持を得られるもので、間違っても若槻千夏が言えるものではない。
私が好きな笑いの系統は「植田まさし風」だ。かりあげクンを思い出してくれればわかるが、読者からすればニヤッとできる笑いで、害はないけど、最後のコマは上司や女子社員が白い目でみたり苦い顔をしたりしている、というものが多い。そして、外での私はこれが許されるような愛嬌をもっていないので、中高のころは愛嬌のある仲のいい人に「~やってみたら面白いかも」と持ちかけていた。大学に入ってその人と話す機会があって、道を歩いているときにふと思いついて同じように持ちかけたとき、「もう昔みたいに若くないからできないよ」と返答された。ここで納得した。立派な良識を備えた周囲の許容範囲は明らかに狭くなっているし、「~やってみたら」と持ちかけたら真顔で意見されたりする。
東の~島の設計士面白い。もしかしたら「アネアネハ」が数時間頭から離れないかもしれない。
その名も偉大なアネハネハ
メガ~ネチックなたるみあご
会う人会う人アネハネハ
誰でもかれでもアネハネハ
アネハネハ アネハネハ アネハネハネハネハ~
東の~島のマンションは
どれでも名義がアネハネハ
コストやすいがややもろい
雨が降ったら雨漏りで
風が吹いたら崩れだす
アネハネハ アネハネハ アネハネハネハネハ~
東の~島の住む人は
どいつもこいつもアネハネハ
責任取らない人ばかり
責任逃れ世界一
海外逃亡世界一
アネハネハ アネハネハ アネハネハネハネハ~
ここで思うのは、純粋な言葉遊びを除いては、大抵の場合、笑いの中に犠牲となるモノやヒトがいるということだ。上の歌の場合は姉歯元建築士。ハートフルドラマの典型たる「あいのうた」だって「飯塚さん」という常に軽くイジられイジメられるキャラクターがいた。漫才の場合はボケ役が自らその役を買って出ているし、昔の本を読めば道化がいる。
けれど姉歯さんがかわいそうだ!と言う人はいないだろうし、どれも許容範囲だと思うだろう。通常誰に対しても許される場面としては、笑いの中で犠牲となるのが、自分自身・政治家や大企業などいつも威張ってそうな人達・架空の人・悪いヤツというのが挙げられるだろう。ハードゲイの企画は許容範囲スレスレで微妙、眉をひそめる人がいるということになる。
以前「Numeri」という人気テキストサイトで、愛煙家の自分が肺ガンにでもなってヨロヨロになりながら更新するのも面白いと管理人さんが言って、病気をネタにするのはどうかという話になったことがある。このとき管理人さんが答えるには、ネタ化には犠牲が付き物で、気にしていたら何も書けなくなる、ということだった。サイト名物の「対決シリーズ」だって対決の相手からすればたまったものではないが、ただ相手が犯罪まがいのことをしてるから許容範囲になっているものと言える。
ここで許容範囲というのは感じ方も人それぞれだし、ネタを言う人によっても違ってくる。後者は専ら愛嬌の問題だ。綾小路きみまろの中高年ネタも、彼のキャラクターがあってこそ絶大な支持を得られるもので、間違っても若槻千夏が言えるものではない。
私が好きな笑いの系統は「植田まさし風」だ。かりあげクンを思い出してくれればわかるが、読者からすればニヤッとできる笑いで、害はないけど、最後のコマは上司や女子社員が白い目でみたり苦い顔をしたりしている、というものが多い。そして、外での私はこれが許されるような愛嬌をもっていないので、中高のころは愛嬌のある仲のいい人に「~やってみたら面白いかも」と持ちかけていた。大学に入ってその人と話す機会があって、道を歩いているときにふと思いついて同じように持ちかけたとき、「もう昔みたいに若くないからできないよ」と返答された。ここで納得した。立派な良識を備えた周囲の許容範囲は明らかに狭くなっているし、「~やってみたら」と持ちかけたら真顔で意見されたりする。
先日、法学部の研究者の方と話す機会があったのだが、文系の学問では自分が取り組んでいること自体に意味があるのか絶えず疑いが生じ、理系のような科学的学問とは違い、好奇心だけでは片付けられない苦痛が付き物である、という言葉があった。もっともなことで、普段学習しながら頭に浮かぶ疑問について、その疑問設定自体について自信が得られないことが多々ある。
でもでも今夜、まずは取り組んで文章にまとめてやろう、ってやる気になった。
(追記)
ゼミでお世話になった方にメールで話したところ、法律的には対象範囲が広範で不明確になりそうとのこと。もっともな指摘でした。どうしようかなー。
でもでも今夜、まずは取り組んで文章にまとめてやろう、ってやる気になった。
(追記)
ゼミでお世話になった方にメールで話したところ、法律的には対象範囲が広範で不明確になりそうとのこと。もっともな指摘でした。どうしようかなー。
リンクに貼ってあるとおり私は勉強日記っぽいものをこことは別にネット上に公開している。こういうものを不特定多数の人にみせることのメリットは何であろう。
まず考えられるのは公開しても恥ずかしくない勉強を実生活でもしよう!とモチベーションを高めることがある。勉強日記系のブログではよく「目指せ○○大学!」など目標を掲げているものがある。こうすることで更新するたびに目標を確認することができるだろう。宣言することであとに引けなくなり諦めにくくもなる。以前「私はやらないけど」と言ったものの実は似たようなことをやっている。
次に考えられるのは、疑問点や自分の考えについて読者からコメントがつくことで新たなヒントが生まれることが期待できそう、ということだ。特に身近に質問したり考えをぶつけたりする相手がいない場合は大切になるだろう。様々な環境にいる人がみる可能性があり、これまで予想もつかなかった視点が得られることもあるだろう。
まず考えられるのは公開しても恥ずかしくない勉強を実生活でもしよう!とモチベーションを高めることがある。勉強日記系のブログではよく「目指せ○○大学!」など目標を掲げているものがある。こうすることで更新するたびに目標を確認することができるだろう。宣言することであとに引けなくなり諦めにくくもなる。以前「私はやらないけど」と言ったものの実は似たようなことをやっている。
次に考えられるのは、疑問点や自分の考えについて読者からコメントがつくことで新たなヒントが生まれることが期待できそう、ということだ。特に身近に質問したり考えをぶつけたりする相手がいない場合は大切になるだろう。様々な環境にいる人がみる可能性があり、これまで予想もつかなかった視点が得られることもあるだろう。
今日霞ヶ関で追い風が吹いたならばエイベックス問題に言及しつつアスキーアートに結果報告させようと思っていたのですが、結局のところ別の記事を書くことになりました。
人間関係において意思疎通がうまく取れないときが多くある。そんなとき、テレパシーでもあって以心伝心できたなら、と思うことがあるだろう。しかし、ラッセルはこんなことを言っている。
インターネット掲示板の世界は、匿名性の故か「生の感情」で溢れている。自分に対する否定的な生の感情を知ってしまうことが大いにありうる。しかし、彼らは手に入れた断片的な情報から評価を下しているにすぎないこと、生の感情のぶつかり合いから完全無欠な人がいないことを自覚するようになれれば、今よりおおらかに対応できるのではないか、と思う。そうすれば安易な表現の自由規制に走らずともよいことになるが、全ての人がこのような精神的強さを得るのはなかなか難しい。私にも無理である。
個人的な話としては、なるべく慎重に発言しようと心がけているが、場合によっては疲れ等により思慮が足りず軽率なかたちで話してしまうことがある。私はよく後悔してそのことが頭から離れず(小学校の頃のこともよく憶えている)、一回そういうことがあった人に対して修復する勇気がなくなってしまう。その人が傷つけられたことを忘れることができるくらい幸せになることを願うばかりである。
人間関係において意思疎通がうまく取れないときが多くある。そんなとき、テレパシーでもあって以心伝心できたなら、と思うことがあるだろう。しかし、ラッセルはこんなことを言っている。
「もしも、私たちがみんな、魔法によってお互いの考えを読み取る力を与えられたとしたら、その最初の効果は、ほとんどすべての友情は解消されるだろうということだ」私たちは他人の全人格を見透かせるわけではなく、表に出された断片的な事情から判断をするのみである。そして、直感的には肯定的にも否定的にも評価を抱き、公的な空間で触れ合うときには前頭葉でそのような生の感情を制御して節度と礼儀を以て接している。しかしテレパシーで相手が抱く否定的な生の直感を知ってしまうと、自分が批判されることについては通常耐えられないので、友情は解消されてしまうだろう。といっても、この話には続きがあり、誰もがお互い完全無欠だと思っていないことを知り、誰しも欠点はあるものだ、として最後には深い相互理解が得られるようになるだろう。
インターネット掲示板の世界は、匿名性の故か「生の感情」で溢れている。自分に対する否定的な生の感情を知ってしまうことが大いにありうる。しかし、彼らは手に入れた断片的な情報から評価を下しているにすぎないこと、生の感情のぶつかり合いから完全無欠な人がいないことを自覚するようになれれば、今よりおおらかに対応できるのではないか、と思う。そうすれば安易な表現の自由規制に走らずともよいことになるが、全ての人がこのような精神的強さを得るのはなかなか難しい。私にも無理である。
個人的な話としては、なるべく慎重に発言しようと心がけているが、場合によっては疲れ等により思慮が足りず軽率なかたちで話してしまうことがある。私はよく後悔してそのことが頭から離れず(小学校の頃のこともよく憶えている)、一回そういうことがあった人に対して修復する勇気がなくなってしまう。その人が傷つけられたことを忘れることができるくらい幸せになることを願うばかりである。
司法試験の勉強には目的意識やモチベーションの維持が大事なもの。それに関連して、過去自分用に書いていたものから転用。ちょっと生意気ですみません。
臥薪嘗胆、この故事から私が得ることは2つあった。ひとつは、彼らも日常生活の中で臥薪・嘗胆という儀式がなければ目的を忘れそうだったのであり、目的を忘れないためには1日ちょっとだけ儀式めいたものを入れるのが効果的だということ。これを応用して目的を思い出させるちょっとした儀式を生活に取り入れるのはモチベーション維持にいいと思う。私はやらないけど。
もうひとつは、悲しいかな屈辱感というものが最も強い動機付けになるということだ。「海賊王になってやる」ふぅん、誰も望んでねぇよ。対して屈辱感から出発する目的意識は明確な上、周囲から影響を受けづらい。フランス革命期、ローラン夫人を熱烈な民主主義者にしたきっかけは貴族の館に行ったときに召使の部屋に通されたことであった、と読んだことがある。屈辱感なんて望んで抱くものではないが、これを応用してこの系統の動機付けを得るのは結果的にはいいと思う。例えば親との摩擦だったり合格者に議論ふっかけてコテンパンに負けたり。私はやらないけど。
臥薪嘗胆、この故事から私が得ることは2つあった。ひとつは、彼らも日常生活の中で臥薪・嘗胆という儀式がなければ目的を忘れそうだったのであり、目的を忘れないためには1日ちょっとだけ儀式めいたものを入れるのが効果的だということ。これを応用して目的を思い出させるちょっとした儀式を生活に取り入れるのはモチベーション維持にいいと思う。私はやらないけど。
もうひとつは、悲しいかな屈辱感というものが最も強い動機付けになるということだ。「海賊王になってやる」ふぅん、誰も望んでねぇよ。対して屈辱感から出発する目的意識は明確な上、周囲から影響を受けづらい。フランス革命期、ローラン夫人を熱烈な民主主義者にしたきっかけは貴族の館に行ったときに召使の部屋に通されたことであった、と読んだことがある。屈辱感なんて望んで抱くものではないが、これを応用してこの系統の動機付けを得るのは結果的にはいいと思う。例えば親との摩擦だったり合格者に議論ふっかけてコテンパンに負けたり。私はやらないけど。
大学における学生の立場は、国民のような主権者たる至高なものでもなく、株主のような利益最大化原則を受けるものでもなく、施設利用者にすぎない。大学の自治や部分社会の法理というものにより、門をくぐればそこは私的空間として位置づけられる。そこでのルール・学部規則においては、試験における不正行為は厳に対処されるとされている。これに限らず法学部ということで、万引きをすると「いやしくも法を学ぶ者としての資格がない」と退学になるという厳しいところだ。過去には勉強のための本を万引きして勉強できなくなったという洒落にならない例もあるみたいだ。
今日の試験中、すぐ後ろの人が監督員から摘発されていた。私が大学に入って初めてのことだ。六法の下にプリントを置いていたらしい。試験後別室に来るようにみたいなことを言われていた。答案提出した後でみてみると彼は放心状態。運命や如何に。もし何か処分があれば学部掲示板に出るだろう。試験前に何度も注意のアナウンスがされていたことを考えれば、故意があるようにも思える。
試験についての規則は行政法で言う比例原則からすれば過剰規制の疑いもある。教養学部では当学期の全単位取り消しだが、法学部では自主退学勧告が出るほどだ。それも「みなす」規定で、不正と疑われるような類型の行為をしただけで推定を超えて不正行為の擬制がなされる。また、故意・過失を問わない無過失責任だ。
このような厳しい規則があるのは一般予防の見地からである。実際に反する行為をした人がいると、はてさて形式適用にはためらいの情が出てきてしまうものだ。かといって融通をきかすと規則そのものが死文化する危険がある。もちろん大学側も無闇に退学にしたりはしたくないから、こういう事態にならないように事前にしつこくアナウンスをする。ここまで言っておいたのに本当にするようなら厳格に対応せざるを得ない、と正当化するためだ。
秩序のために人を殺すか、みたいな。憲法の事例問題を解いていてLRAの指摘や限定解釈などで例外を許容していく際には制限そのものが死なないか、なんてたまに思うときもある。
話は少し変わるが、泣いてバショクを斬るという言葉を思い出した。ちなみにローマ共和国は敗戦の将を罰することは決してなかったそうだ。任務を任せた方にも責任があるということだろう。
今日の試験中、すぐ後ろの人が監督員から摘発されていた。私が大学に入って初めてのことだ。六法の下にプリントを置いていたらしい。試験後別室に来るようにみたいなことを言われていた。答案提出した後でみてみると彼は放心状態。運命や如何に。もし何か処分があれば学部掲示板に出るだろう。試験前に何度も注意のアナウンスがされていたことを考えれば、故意があるようにも思える。
試験についての規則は行政法で言う比例原則からすれば過剰規制の疑いもある。教養学部では当学期の全単位取り消しだが、法学部では自主退学勧告が出るほどだ。それも「みなす」規定で、不正と疑われるような類型の行為をしただけで推定を超えて不正行為の擬制がなされる。また、故意・過失を問わない無過失責任だ。
このような厳しい規則があるのは一般予防の見地からである。実際に反する行為をした人がいると、はてさて形式適用にはためらいの情が出てきてしまうものだ。かといって融通をきかすと規則そのものが死文化する危険がある。もちろん大学側も無闇に退学にしたりはしたくないから、こういう事態にならないように事前にしつこくアナウンスをする。ここまで言っておいたのに本当にするようなら厳格に対応せざるを得ない、と正当化するためだ。
秩序のために人を殺すか、みたいな。憲法の事例問題を解いていてLRAの指摘や限定解釈などで例外を許容していく際には制限そのものが死なないか、なんてたまに思うときもある。
話は少し変わるが、泣いてバショクを斬るという言葉を思い出した。ちなみにローマ共和国は敗戦の将を罰することは決してなかったそうだ。任務を任せた方にも責任があるということだろう。
合理的、論理的、科学的という言葉が今では強い力をもっているようにみえる。
「権利=法(Recht)の目的は平和であり、その手段は闘争である」という言葉がある。そして、法律学における学説は手段たる闘争を理性的な枠内で行うものだ、といった記述を読んだことがある。これを踏まえると、理性的な枠内での闘争では多くの考え方の中から最も説得的で受け入れられやすいものが勝ちやすい。価値観についての比較不能、相対主義を前提とする以上(民主主義は相対主義を前提にしている)、理論性が高い、合理的な議論というものが最も受け入れられやすいことになる。大雑把に言えば、共通認識と事実や観察・論理法則で作る考えのことだ。
・・・ただ本読んでて思っただけです。。
「権利=法(Recht)の目的は平和であり、その手段は闘争である」という言葉がある。そして、法律学における学説は手段たる闘争を理性的な枠内で行うものだ、といった記述を読んだことがある。これを踏まえると、理性的な枠内での闘争では多くの考え方の中から最も説得的で受け入れられやすいものが勝ちやすい。価値観についての比較不能、相対主義を前提とする以上(民主主義は相対主義を前提にしている)、理論性が高い、合理的な議論というものが最も受け入れられやすいことになる。大雑把に言えば、共通認識と事実や観察・論理法則で作る考えのことだ。
・・・ただ本読んでて思っただけです。。
今日の昼ごろ。「生きる目的は何ですか」というパンフを渡された。「生きる目的は」「幸せですか」というのがこのテでよくあるパターンだろう。勧誘する人に文句があるとすれば、人生全体の大きな価値観を押し付けようとする不遜な態度が気に食わない、何も知りやしない見ず知らずのあなたに心配される言われはない、ということだ。といっても彼らの生き方を叩くつもりもないので適当に流している。(私も以前自信に満ちていたころ他人に介入して失敗し、今は相手との距離を大事にしている)。
それにしても「生きる目的」というテーマは嫌らしいものだ。大学入学のときこのテーマの宗教勧誘がよくあった。受験に成功して大学入学という各学生が自分に自信をいちばん持つ時期では、勧誘はとても上手くいきそうにないだろう。しかし、就職活動などをする不安定な時期では、自己分析とか自己啓発とかいった中で普通の学生も「生きる目的」は何か、なんて考えたりすることが多いようにみえる。ということで、スキを見せて怪しい宗教に屈しないために自分なりにひとつ納得しておくのがよいかもしれない。
私が適当に納得しているのは、客観的に不可変的に「生きる目的」が実在するものではない、というのを前提とする。生まれる、死ぬ、好運ならば子孫を残す。それだけ。ここに創造主とかいった要素を入れるのが怪しい宗教だろうと思っている。
といっても、悲観的ではない。人間は色々無駄に考える力をもち他者との関わり合いで社会生活を営んでおり、社会の中で各人は生きる目的を認識することができる。今ではどんなに経済的に生産能力を持ち得ない体に生まれても社会が生存を保障してくれる一方、他人を残虐に殺めたりと著しい反社会性を実行した者は法の下に命を奪われる。それだけ社会性というのは重要なものとして位置づけられており、私が文系を選んだ理由のひとつもここにある。
そして、生きる目的というのは各人の経験や時代や社会の性格によって変わってくる。現在でみれば、自由な幸福追求というのが大きいだろう。金を稼いで物質的満足を求めたり、公共に身を捧げ精神的満足を求めたり、他者への優越感を抱いたり、愛を育んだり、違法でなければ自由である。そして、個人的には社会的分業が心地よい考え方だと思う。各人の能力を発揮して仕事をしたり生活したりすることが人格を実現しつつ社会に貢献していることになる、というものだ。
あー最近こういうことばっかり書いてる気がする
。紹介記事が非常に少ない。
それにしても「生きる目的」というテーマは嫌らしいものだ。大学入学のときこのテーマの宗教勧誘がよくあった。受験に成功して大学入学という各学生が自分に自信をいちばん持つ時期では、勧誘はとても上手くいきそうにないだろう。しかし、就職活動などをする不安定な時期では、自己分析とか自己啓発とかいった中で普通の学生も「生きる目的」は何か、なんて考えたりすることが多いようにみえる。ということで、スキを見せて怪しい宗教に屈しないために自分なりにひとつ納得しておくのがよいかもしれない。
私が適当に納得しているのは、客観的に不可変的に「生きる目的」が実在するものではない、というのを前提とする。生まれる、死ぬ、好運ならば子孫を残す。それだけ。ここに創造主とかいった要素を入れるのが怪しい宗教だろうと思っている。
といっても、悲観的ではない。人間は色々無駄に考える力をもち他者との関わり合いで社会生活を営んでおり、社会の中で各人は生きる目的を認識することができる。今ではどんなに経済的に生産能力を持ち得ない体に生まれても社会が生存を保障してくれる一方、他人を残虐に殺めたりと著しい反社会性を実行した者は法の下に命を奪われる。それだけ社会性というのは重要なものとして位置づけられており、私が文系を選んだ理由のひとつもここにある。
そして、生きる目的というのは各人の経験や時代や社会の性格によって変わってくる。現在でみれば、自由な幸福追求というのが大きいだろう。金を稼いで物質的満足を求めたり、公共に身を捧げ精神的満足を求めたり、他者への優越感を抱いたり、愛を育んだり、違法でなければ自由である。そして、個人的には社会的分業が心地よい考え方だと思う。各人の能力を発揮して仕事をしたり生活したりすることが人格を実現しつつ社会に貢献していることになる、というものだ。
あー最近こういうことばっかり書いてる気がする

誰しも、自分の考え方が周囲にも受け入れられていると安心するものである。最近では情報化社会になって各人が自分が多数派になれる場所を見つけることが容易になっているが、通常は自分の身近な環境が世界全体を現しているかのように思いがちだ。自分が少数派であると自覚してしまうと、そこでは気を使い自分を押し殺したような振る舞いに自然となってしまう。勿論このようなことを気にしない「我が道を行く」超然として強い意志を持っている人もいるが、通常はそういうわけにもいかない。
私は、同年代の人と話すことが得意ではない。バイト・部活に精を出し将来のために経験を積む、といった「あるべき大学生像」を実現できない。少数派な大学生活を送っていると自覚しているからだ。「○○一筋」ということができず、自己アピールも難しい。周囲からはきっと「司法試験に向けて勉強一筋」みたいに思われているだろうけれども、実際は予備校大嫌いで全然違うと自分は知ってしまっている。私は高等教育を経験したくて大学に入り、資格試験はそれを妨げない程度にやるというスタンスを最初からとっている。しかし学術書をバリバリ読むわけではなく、ゆっくりとただ思考を巡らす時間というのは、後からみて形になるわけではなく経済学的に「無駄な」時間である。こうして私は膨大な無駄な時間を過ごしている。
大学の定期試験で偶然好成績をとったり択一試験を偶然突破したりしたときには、「自分のやり方でいい」と強い意志が目覚めるものだ。しかし、現実的に考えれば次の試験では評価が得られないのがむしろ普通であり、論文試験を突破できない可能性も高い(私は周囲のレベルを知らないので今回の合否は見当もつかない)。時間がたつにつれ、意志を支えていた成功体験が崩れていく。私はこうして浮き沈みのある気分の中で大学生活を過ごしている。ちょうど今は「あるべき夏休みの使い方」をしておらず、いつもの仲間とお喋りできず同意が得られないため、沈んでいる状況だ。
試験の合否や成績で自己評価を形成すると、試験というものは現実的にみて過程が100%報われるものでもなく、際限のない即物的な「成功のための競争」に身を置くことにもなり、神経をすり減らしてしまう。かといって今の自分にはこれにかわる評価材料を他人に発信するほどの活動をしていない。袋小路に入った感じだ。
私は、同年代の人と話すことが得意ではない。バイト・部活に精を出し将来のために経験を積む、といった「あるべき大学生像」を実現できない。少数派な大学生活を送っていると自覚しているからだ。「○○一筋」ということができず、自己アピールも難しい。周囲からはきっと「司法試験に向けて勉強一筋」みたいに思われているだろうけれども、実際は予備校大嫌いで全然違うと自分は知ってしまっている。私は高等教育を経験したくて大学に入り、資格試験はそれを妨げない程度にやるというスタンスを最初からとっている。しかし学術書をバリバリ読むわけではなく、ゆっくりとただ思考を巡らす時間というのは、後からみて形になるわけではなく経済学的に「無駄な」時間である。こうして私は膨大な無駄な時間を過ごしている。
大学の定期試験で偶然好成績をとったり択一試験を偶然突破したりしたときには、「自分のやり方でいい」と強い意志が目覚めるものだ。しかし、現実的に考えれば次の試験では評価が得られないのがむしろ普通であり、論文試験を突破できない可能性も高い(私は周囲のレベルを知らないので今回の合否は見当もつかない)。時間がたつにつれ、意志を支えていた成功体験が崩れていく。私はこうして浮き沈みのある気分の中で大学生活を過ごしている。ちょうど今は「あるべき夏休みの使い方」をしておらず、いつもの仲間とお喋りできず同意が得られないため、沈んでいる状況だ。
試験の合否や成績で自己評価を形成すると、試験というものは現実的にみて過程が100%報われるものでもなく、際限のない即物的な「成功のための競争」に身を置くことにもなり、神経をすり減らしてしまう。かといって今の自分にはこれにかわる評価材料を他人に発信するほどの活動をしていない。袋小路に入った感じだ。
大学生で自動車の運転免許をとってる人は多い。私はまだとっていない。このままだと、来年の終わりごろになりそうである。このように免許取得に消極的なのは、家に車がないからということもある。今時マイカーがステータスという時代ではないけれども、東京では電車と自転車で事足りるし、家に芸術家ひとり抱える裏返しとして少し誇らしくも思っている。ということで、車のある生活を知らない分、すっかりインドア派で育ってしまったこともあり車の必要性もあまり感じていないのだ。
といっても、将来こんな車に乗りたいな、ということは考える。今めぼしをつけているものとしては、日産自動車の「キューブ」。あのカクカクっとしたフォルムがたまらない。車内もひろびろと感じるだろうし。新車だと200万用意しないといけないのね。意外と高い。もし家庭を持ったら「ラフェスタ」かホンダの「エアウェイブ」。天井があいているものを。まぁ買う時期になったら新しい車種が出ているので実際買うことにはならないだろうけれど。
といっても、将来こんな車に乗りたいな、ということは考える。今めぼしをつけているものとしては、日産自動車の「キューブ」。あのカクカクっとしたフォルムがたまらない。車内もひろびろと感じるだろうし。新車だと200万用意しないといけないのね。意外と高い。もし家庭を持ったら「ラフェスタ」かホンダの「エアウェイブ」。天井があいているものを。まぁ買う時期になったら新しい車種が出ているので実際買うことにはならないだろうけれど。
自己紹介にも履歴書にも「趣味」という項目がある。今の時代、趣味とは「他人にアピールできるくらいに入れ込んでいる本業とはちがう活動」を意味しているのだろう。そして、実際に対外的な活動をするほどのことが求められているのであろう。
こうなると、自分には趣味がない。あえて言えば、ピアノを幼い頃から続けてきてそれなりに大きな曲も弾けるのでピアノが趣味にいちばん近い。でも飯を忘れるほど好きではないし、他の人の演奏を窮屈なホールの席に座って聴くほど好きでもない。弾いているときはいつの間にか我を忘れて思いっきり情感込めることになるので、そういう分には好きである。でも、得意満面で他人にアピールできるほどのテクニックがあるわけではない。
高校時代までは吹奏楽もやっていたし書道も嗜んでいたし、文芸部というところで小説も少し書いたし、上手でない落書きを描くのも好きであった。大学に入り、ひとつモノにしようと思ってピアノのサークルに入ったが、ピアニストとか曲とかの話ができないので気後れしてしまった。
ひそかな野望としては小説書きがある。ストーリーの構成はいくつか用意してノートに書きとめてある。でも実際の形にするには取材したりといった作業が必要なのでそのままだ。こういったものは自分ひとりで時間が空いたときに病床でもできる手軽な趣味になるだろうか。これは本当に「ひそかな」野望なので具体的なことは誰にも話していない。よってアピールできるほどのものではない。
あるサイトで「趣味がない→謙虚である」と言いかえができるとあったがそういうものなのかな。
こうなると、自分には趣味がない。あえて言えば、ピアノを幼い頃から続けてきてそれなりに大きな曲も弾けるのでピアノが趣味にいちばん近い。でも飯を忘れるほど好きではないし、他の人の演奏を窮屈なホールの席に座って聴くほど好きでもない。弾いているときはいつの間にか我を忘れて思いっきり情感込めることになるので、そういう分には好きである。でも、得意満面で他人にアピールできるほどのテクニックがあるわけではない。
高校時代までは吹奏楽もやっていたし書道も嗜んでいたし、文芸部というところで小説も少し書いたし、上手でない落書きを描くのも好きであった。大学に入り、ひとつモノにしようと思ってピアノのサークルに入ったが、ピアニストとか曲とかの話ができないので気後れしてしまった。
ひそかな野望としては小説書きがある。ストーリーの構成はいくつか用意してノートに書きとめてある。でも実際の形にするには取材したりといった作業が必要なのでそのままだ。こういったものは自分ひとりで時間が空いたときに病床でもできる手軽な趣味になるだろうか。これは本当に「ひそかな」野望なので具体的なことは誰にも話していない。よってアピールできるほどのものではない。
あるサイトで「趣味がない→謙虚である」と言いかえができるとあったがそういうものなのかな。