カネサダ番匠ふたり歩記

私たちは、大工一人、設計士一人の木造建築ユニットです。日々の仕事や木材、住まいへの思いを記していきます。

郡上に伝統構法で登り梁の家を建てる その3

2018年11月01日 | カネサダ番匠が作った家


登り梁が規則正しく並ぶさまは小気味良く、壮観でもあります。これが郡上に特有の出登り造りです。大屋根の軒の出の長さは1.8メートルにもなります。
日本のような多雨多湿な気候の場合、軒を大きく出すことは、建物の寿命を延ばすためには必須の条件です。
風のない状態で雨が降った場合、建物が濡れることはほとんどありません。
夏は陽ざしをさえぎり、風を呼び込みます。冬には部屋の中にたっぷりと陽ざしが届きます。



郡上に建つ古くからの家に使用する登り梁といえば、例外なく松です。横架材、小屋梁に松材は最適です。
ただ、松は乾燥に伴ってねじれます。その分、組み上げれば強いということも言えますが、古い家の登り梁はねじれて母屋との取り合いが外れてしまっているものが多く見られます。決まって同じ方向(時計まわり)にねじれるのは育つ環境での太陽の動きによるものなのでしょうか?

現在松材の入手は困難になってきています。また、ねじれのことも考慮して、今回は桧材を使用することにしました。厚みは6寸・18センチです。今回の刻みと建前を通して分かったことなのですが、材木がそこそこに乾燥して、割れやねじれが止まるのに自然乾燥(天然乾燥)の場合は最低でも3年間はかかる、ということです。天然乾燥材と人工乾燥材の違いについては、またの機会にお話ししたいと思います。





登り梁は屋根の勾配なりに登っていって、棟木の下で左右を組み合わせます。同じ高さで鯖組み(サバグミ)にするもの、拝みにするもの(例えば破風のような継ぎ方です)、高さを違えて長ほぞをそれぞれ抜いて端栓(ハナセン)打ちにするもの、などいくつかの方法があります。



今回は独自の方法も考えてみました。長ホゾで端栓打ちにしつつ、お互いを車知栓(シャチセン)で引き合いにするという方法です。
上の写真の長ホゾの下に櫃(ヒツ・相手の登り梁のホゾが刺さる穴です)が掘ってあるのが分かりますか?この櫃にも車知道(シャチミチ・車知を打つ時にガイドとなる溝のこと)と胴栓(ドウセン・お互いを緊結させるために打つ込栓)の穴も開けておきます。いろんな種類の栓の名前が出てきましたね。あとで写真で説明します。



登り梁の長さは6メートルありますので、屋根の上で組むことはできません。工場で刻みの時に仮組みをしておきます。



このように組むのを、鯖組(サバグミ)にする、といいます。また、こうして造り出した部分を鯖の尾と呼びます。
開いている四角い穴ですが、小屋束から伸びた長ホゾで串刺しにします。



妻壁ではこのように鯖組みにします。鯖組み部分には1寸角(3センチ角)の込栓を打ちます。クロスした上部には棟木が載るのです。



実際の建物ではこのようになります。屋根の上に立っている大工さんに比べて、登り梁がかなり大きいのが分かりますか?建前の様子はまた別の機会に紹介しますね。
登り梁は太鼓挽き(タイコビキ・丸太の両側面を製材したもの)なので、形はまちまちなのですが、軒桁から先は統一するために同じ形の造り出しとします。こうすることで、一番最初の写真のように統一感・連続性のある意匠になります。



一番手前の組手ですが、右流れの登り梁が棟束(ムナズカ・棟木を受ける小屋束)に差さり、左に貫通し端栓で引いてから小屋束に込栓を打って固定します。



この部分を下から見上げます。左流れの登り梁が棟束に差さり、右に貫通してから端栓で引きます。写真では小屋束に込栓はまだ打ってありませんね。
この長ホゾの先は、右流れの登り梁の櫃(ヒツ)に入り、下から車知栓を打ちお互いを十分に引きつけてから、胴栓(右流れの登り梁側面に打ってある、長方形の込栓)を打ちます。こうやって何重にも栓を打つことによって、お互いの登り梁はしっかりと結びつき、まず離れることはなくなります。

大工、と書いてわたしは、大いに工夫する、と読みます。まだ大工になってから25年ですので、技術は大六・第六ぐらいでしょうか?
心・技・体ともに、大工・第九目指して頑張っていきたいと思っています。
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登り梁の織りなす陰翳

2018年10月30日 | 木構造のこと


登り梁が使われているのが多い建物といえば、土蔵が筆頭でしょう。いろいろな地方で土蔵を見てきましたが、屋根といえば登り梁が多用されています。
土蔵は火事から中の物を焼失から守らなくてはいけません。下部を土壁と漆喰で塗り込め(天井部分、つまり屋根直下部もです)、その上に屋根を載せ掛けるには登り梁は一番好都合でしょう。壁板も金具を外せば全体が取れるようになってますね。最悪、木の部分が焼失しても蔵本体は残ります。

登り梁を使用すると、和小屋(現在一般的に木造建築で使われる架構法です。母屋の下部にたいていはそれを支える束が必要になります)と違い、下部を支える束(柱)の数が減らせます。屋根の下に大きい空間が作れるのです。土蔵の場合は三角の部分まで土を塗り込めるわけですから、小屋束の存在するスペースがありません。必然的に登り梁を使用することになります。



私は登り梁が掛かる屋根の姿が好きです。軒の出を大きく出せますから、建物の陰翳(インエイ)に深みを与えます。
日本建築の美しさは、この陰翳が作り出す立体感だと思うのです。構造がそのまま意匠になっているのもいいですね。構造美とでもいいましょうか。

この土蔵は現在仕事させていただいている郡上市内の登り梁の家のものです。
このお宅の登り梁は、古い登り梁の形態が新しいものへ変化していく過程を垣間見ることができる点でも興味深いものですのでご紹介します。



トタンが張られていますので、外から見て構造部材は分かりにくいかもしれませんが、妻壁を見ると登り梁が入っているのが見えますよね。



妻の右流れが正面です。左斜め上から下がって来た登り梁がトタンにかくれて、出てきた先は・・?水平の腕木です。



正面の大屋根(2階の屋根)は・・?全て水平の腕木(建物から直角に出て出桁を受ける部材を腕木といいます。しかしこの部材は正式に言うなら船揩・センガイです。理由はのちほど。)になっていますよね。登り梁の家って言ったじゃないですか!登り梁はどこに行ったんでしょうか?



実はこの部分は屋根裏から見るとこうなっています。



登り梁がプツンと切られて、水平な部材に替わっていますよね。これが船揩・センガイですが、この部材が軒桁より突き出して出桁(ダシゲタ)を受けているのです。



妻壁部分だけは登り梁が腕木の上端まで下りてきています。こうしないと妻壁に穴が開いてしまいますからね。



建物の裏側に回ってみましょう。あったあった!ちゃんと登り梁の先が出てきて出桁を受けているじゃないですか!妻壁の部分だけは水平ですよね。
何故か?それは人の目に見えるからです。うむむ、私はこの登り梁が好きなんですけど、どうしてこれを人目に見せないようにするんでしょうか?

水平の腕木で軒を支える手法は高山で一般的なものです。関西方面の民家や商家も同じく、です。
郡上市内に残る多くの登り梁の家は、「出登り」といって桁から斜めに登り梁の先(というか登り梁の尻)を出し、出桁を受けるという郡上に特有の造りです。たくさんの登り梁の家を見ているうちに気づいたんです。屋根自体は登り梁が掛けてあるのに、正面や妻に水平の腕木を掛ける例が出てくるんです。

時代のはやり、みたいなものがあったと思うんです。おそらく大工さんも施主さんも高山や関西の屋根の方がかっこいいと思い始めたのでしょう。
このお宅は腕木が建物の中に引き込んでありますから(いわゆるセガイ造り)、構造的にはまだ大丈夫です。しかし、2階を居室に使うようになると、前掲の写真のように水平な部材や柱が部屋の中にまであると邪魔でしようがありません。
ですから、美濃地方のセンガイはこの後、全て差し腕木に変化していきます。柱に差してあるだけです。どうなるか?だんだん垂れ下がってきますよね。差し腕木の屋根はそのほとんどが時間を経るにしたがって垂れ下がってきます。入母屋屋根の隅木が掛かるような荷重のある場所では特に顕著です。構造よりも意匠を優先してしまった結果の一例なのです。



もともと登り梁の家が多く建てられた最大の理由は養蚕です。美濃地方や飛騨地方の板葺きの家はもともとは平屋建てでした。農村部で養蚕が盛んになってくると、たくさんのお蚕様(オカイコサマ)を収容するための大空間が必要になりました。このお宅も同じです。1階部分は住居、2階や屋根裏部分は養蚕(物置であったり、大きな家では使用人の部屋もあったりします)のための大空間となります。屋根を修理した時に登り梁の下に支えの柱が追加されていますが、もともとは棟木の下と側桁より半間内側に柱があっただけです。たいていこういった古い家の屋根裏には養蚕の道具や製糸用具がたくさん置かれています。

時代が下り(昭和の戦前戦後ぐらいまででしょうか)養蚕がすたれてくると、こういった造りの家の必要性も薄れてきます。これ以後にこういった登り梁の家が郡上で作られることもほぼ無くなりました。その時代や社会によって家のかたちも刻々と変化してきたんですね。

郡上に残る登り梁の家の陰翳を見上げるたびに、その美しさに惹かれ、自分たちの手でこの景色を守りたい・作り上げたいと願うのです。
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シロアリ様なのか?シロアリ野郎なのか?

2018年10月28日 | 家を取り巻く環境のこと
郡上市内には築100年をゆうに越える大きな登り梁の家がたくさん残っています。



現在その登り梁の家の一軒において、床の張り替え工事を行っています。
大屋根(2階の屋根)を見ると、軒を支える腕木が水平に出ていますよね。このような軒を美濃地方では「せんがい造り」(船櫂・セガイの訛り)と呼びます。あれ?登り梁の家って言いましたよね。屋根自体は登り梁が掛かっているのですが、軒先はせんがいが掛けてあるんです。分かりづらいかと思いますので、このことについては次回詳しくご説明します。

さて、ここの家の方から、「床下が腐って、畳もボロボロなので見てほしい」との依頼を受けたので、シロアリ専門家の岡崎シロアリ技研さんに来ていただいて、床下の調査を行いました。岡崎シロアリさんについては、このブログ内の『床下を戦場にしないために』でもご紹介したとおりですが、薬剤散布をできるだけしないシロアリ業者さんです。



床下にもぐってみると、腐ってるような、カビているような、何か虫害の痕も見られます。



蟻道(ギドウ)を発見しました。地面から束石を上がって床束に続き、それから畳下の板、畳へと、これらを食害したのは、ヤマトシロアリです。





このように、確かにひどく見える被害なのですが、岡崎シロアリさんは、「今回は薬剤を散布しません」と言われます。
私が説明するよりも、以下岡崎シロアリさんからいただいた調査報告書を引用させていただきます。

 『歴史的に蓄積されたシロアリ(ヤマトシロアリ)の被害が見られました。ただ、ほとんどの被害はかなり古いもので、シロアリはすでに死滅しています。一部はアリによって駆逐された部分もあります。こうした古い被害部や他生物生息部分にはシロアリが再び侵入することはありません。また、これまでの経緯でシロアリが活動していない部分に発生することもありません。したがって、調査できたほとんどの範囲では薬剤処理の必要はないものと思われます。

 ただ、玄関奥の和室では2か所の床束で生きたシロアリが見られました。調査時に蟻道を壊したので、今後のリフォーム時点で蟻道の復活がなければ特に対処の必要はありません。復活があるならピンポイントで駆除すればいいと思います。

 土台や柱、床束などに硬い樹種(栗)が採用されていることから、被害部分でも床板(松)などの柔らかい部分を除けば大きな被害になっておらず、今後も大きな被害の可能性は低いと思われます。

 リフォーム後5年前後で床下の点検をすればシロアリの動きがあっても十分対応できると思われます。』

以上、非常に分かりやすく、納得のいく説明をされています。



ちなみに報告文の中で、「アリによって駆逐された部分」とあるのは、ここのことです。アリ(私たちが普段見慣れた黒い蟻です)は実はシロアリの天敵です。柱の足元に落ちている黒いカスはアリが木をかじった痕です。アリ(ハチなども同じく)は木を食べません。別に柱を食べようとしたわけではなく、岡崎さん曰く、活動上の何らかの理由でかじったそうです。アゴの運動でしょうか?

ヤマトシロアリについて、補足的に説明をしておきましょう。
日本でのシロアリ主要3種といえば、ヤマトシロアリ(ほぼ全国に生息)、イエシロアリ(沿岸部を中心に生息)、アメリカカンザイシロアリ(人為的要因で散在)。ヤマトシロアリは「湧く」ものではなく、もともとその土地にいるものです。土壌の不要な植物を分解する、いわば「地力」を担っている、縁の下の力持ちです。いないほうがむしろ不健全な地面だといえます。



ヤマトシロアリ自体は弱い生き物です。地面の中での活動は比較的緩やかです。ところが何らかの変化があると活動スイッチがONになります。それは太古の昔や自然のままの土地では、倒木で地表が覆われるといったことです。地面の密閉性が変化するとそこに興味を示すのです。

人間が土地に加える変化とは何でしょうか?そうですね、家を建てることなんです。
家を建てる場合、少し昔ですと土を掘り返して、この家がそうであるように基礎石を据えます。現在ではショベルカーで掘り返すは、コンクリートを大量に打設するはなど、やりたい放題(ちょっと言い過ぎですか?)ですよね。

土の中は混ぜくり返されて、ヤマトシロアリの住んでた家は荒らされ集団は分断されます。ヤマトシロアリは集団が分断されてもそれぞれが独立した集団として活動できるので、分断された集団ごとに生き残りのための必死の活動を開始します。多くの集団は死滅してしまうのですが、ごく運の良かった集団は生き残ります。その集団はその時点ですでに湿度、温度、微生物とのバランスなどを解決した生活環境を得ています。

そして一気に活動を広げ、その活動の一端が建物への侵入となって現れるのです。別に「家を食べてやろう!」と思って地上に現れてくるわけでもないし、別の土地から移住してくるわけではないのです。
これが、先ほどの報告書の「リフォーム後(新築後も同じです)5年前後で床下の点検をすれば」の意味するところです。土地に大変化を与えた後の5年間がヤマトシロアリの活動のピークなんです。逆にいえば、5年間変化が起きなければ、その後ヤマトシロアリの活動はほぼないと考えていいのです。(イエシロアリはヤマトシロアリと生態などが違いますので、やはり不安なときは専門家に相談しましょう。)



家を建てる前には地鎮祭を行いますよね。地鎮、鎮まるという字が示すように、その土地に代々住み着いておられる神様はじめ、シロアリ様やいろいろな生き物様に「どうか工事中、またその後も鎮まられますように。どうかこの土地を使わせていただきますようにお許しください。」とお願い申し上げるのが地鎮祭なのです。

ですから、もしシロアリを見つけたとしたら、このシロアリ野郎!といって敵視するのではなく、その活動を活発化させる要因を作っているのは他ならぬ自分たち人間のほうだと謙虚に受け止めたほうがよさそうです。すわ!一大事!と床下一面に薬剤を散布する必要はありません。
昔の人たちがそうであったように、私たちもできるだけ床下材は樹種を選ぶこと(栗・桧・ヒバなどの芯持材を使う)、基礎は風通しのよい構造にすること、点検のしやすい・見やすい作りにすること、被害が出てもすぐに取換えや修理のしやすいようにしておくこと、などのことに留意して設計・施工を行っています。



この工事の様子もまたご紹介しますね~。
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人を思うこと、己を思うがごとくすべし

2018年10月22日 | 考えたこと
今年6歳になった息子が、たまに作業場にふらりとやってきて、「おとうさん、なんか木でつくりたい」と言うことがあります。
「んー、そっかー!今日はなにをつくろっかー?・・・・めいろでもつくるか!」「うん!めいろつくりたい!」

作業場には新しい木に混じって、木の切れ端や残材が所せましと並んでいます。何がどこに置いてあるのかは、ほぼ把握しています。
「ちょっとまっとってよー」と言いながら、あっちにいってこっちをさがして、ほこりをぱぱっと払って、めいろ作りのはじまりはじまり~。



息子の意見を聞きつつ、細い木(これは天井板の巾を切り裂いた余り)を板(これは棺桶を作った切れ端!)に釘で打ち付けていきます。
「おら(なぜか最近は、おら)もうってみる!」というので、手伝ってもらいます。おっかなびっくりですが、なかなかのものです。



ビー玉めいろの完成!私が子供のころ、友達の家にこのようなおもちゃがあったんです。あれで遊びたくて、よくその子の家に遊びに行ったっけ。
さっそくビー玉をころがして楽しそうに遊んでいる姿を見て、私も思わずにっこり。ひとしきり遊んだ後の顛末は、だいたい部屋のすみっこに放りだしてあるんですけど、思い出したように遊んでるときもあったり・・それでいいんだよ、おとなになっても思い出してね~と願ってます。



ビー玉めいろ作りが一段落したら、つぎは木に穴をほる!と言ってとんとんがんがんやり始めます。
う~む。これは大工の血がそうさせるのだろうか?と思って、「大人になったら、何になりたい?」と聞くと、「鬼太郎。(ゲゲゲの鬼太郎)」だって・・こないだまでは「仮面ライダービルド」だったのに・・

息子の膝のすぐ左側、玄関の上り框にのこぎりで切った痕があるの、分かりますか?これは息子のおじいちゃんがちょうど6歳の頃(70年ほど昔)、まだ新築だったこの家の、ここで遊んでのこぎりで木を切ってて、勢い余ってこの上り框を切ってしまったんですって!おじいちゃんのおじいちゃんにたいそうしかられたそうです。今はもう誰もしからないから、思いっきりやっとくれ!

さて、この玄関の敷板を見ていると、思い出す話があります。
今から130年前の明治21年に出版された『新編小学修身用書』に載っているお話しです。修身、とは今でいう道徳の授業です。

以下、原文です。

 第二十四 人を思うこと、己を思うがごとくすべし

 伊東長衡、他人の家を借りて住す。
 かつて火箸を台所の敷板の下に落とし、しきりにこれを探す際、たまたま人あり、来たり見て、そのゆえを問う。
 長衡いわく、「我、火箸を惜しむにあらず。ただ我、この家を去りし後、他人の来たりて住する者、あるいは誤りて敷板を踏み落とし、この火箸にて足を傷つけんことを恐れ、かく探し求むるなり」と言えりとぞ。 (出典 『新編小学修身用書 巻之一』 廣池千九郎著)

いかがでしょうか?長衡さんの、自分自身を大切に思うのと同じように他の人のことを思う「思いやりの心」を持ちましょう。身近な人にとどまらず、後の人に対しても、思いやりの心を持ちましょう。そういったことに、この話は気づかせてくれるのではないでしょうか。

私は自分の仕事、家づくりに、この気持ちを持って取り組みたいと思ってます。
もちろん住む人たちのことを思って、は当然のことながら、後に続く人たちにも喜んでもらえ、大きく言えば地球や環境にも負担や迷惑をかけず、ずっと持続していけるような仕組みの中で、家づくりをしていきたいと思っています。



これも数年前になりますが、私が残材でつくった木馬です。今の娘たちが乗ると壊れかねませんが、最近は息子がブンブン乗り回してます。
子供たちの笑顔を見るにつけ、「思いやりの心」を持つ親になりたい、子供たちにもそうあってほしい、それを仕事や生活の中でいかに実現していけばいいのか?そんなことを考え、もがいている毎日です。
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郡上に伝統構法で登り梁の家を建てる その2

2018年09月15日 | カネサダ番匠が作った家
刻みの様子をご紹介しましょう。
大工が木材に墨を付けて、それを、のこぎり・のみなどで加工することを「刻み」「刻む」といいます。
今では大工が墨付けをして、手刻みをすることは本当に少なくなってきました。ほとんどの住宅はプレカットで刻まれています。プレカットとは図面のCAD(キャド、図面のコンピュータ入力ソフトの呼び名です)入力から加工までを大型工場でオートメーション加工することです。

いえ、住宅のみならず、近々木造で再建される名古屋城天守閣もプレカットで加工されるとか(全ての部材ではないと思いますが)。そんなに急いで、うん百億円もかけて、本当の意味での伝統建築になり得るのでしょうか?名古屋近辺や全国から腕利きのベテランや若い大工を集めて木造天守閣を再建するというのなら、伝統技術を次の世代に継承していくという意味でも大変意義あることだと思います。名古屋市・愛知県は自動車産業や航空産業・ハイテク産業のみならず、日本の伝統技術をもリードする中心である、とアピールするほうが日本や世界中の人々によっぽど説得力があると思うんですが・・河村市長、いかがでしょうか?



これは隅船櫂(スミセガイ)です。船櫂造りは屋根の軒を出すための伝統技術の一つです。もちろんお城にも使われています。



実際の建物ではこのようにおさまります。家の角から45°に先を白く塗った部材がとびだして、その上の隅木(スミギ)を受けていますよね。この部材が隅船櫂です。家に対して直角に出ている平船櫂と力をあわせて、この家の下屋(ゲヤ。一階の屋根)では軒を1.35メートル出しています。



私は伝統構法で家を建てる場合、手刻みをします。金物(ボルト類)を一切使わずに木と木を組む場合、いかにお互いの木を傷めずに、最大限木の力を引き出すことができるかを考えます。この場合は3本の木を組むわけですから、部材にかかる力や荷重を考え、乾燥やねじれが出た場合のことなども考えて加工し、作事場で一度仮組みをします。現場で建前する時はスピード勝負ですから、現場で入らないからといってガンガン叩くわけにもいきません。かたくなく、ゆるくない程度に何度も仮組みしては調整していきます。



実は私は大工になる前は商社に勤めていました。マキタの電動工具や建設工具、建設機械を主に東南アジアに輸出する会社でした。入社して間もない頃、名古屋(そう!奇しくも名古屋なんです!)で毎年開かれている木工機械展示会に新幹線に乗って出張したんです。今から25年前のことです。
その年の目玉はプレカットの加工機械でした。会場の中心に広々とプレカットの機械群が設置され、担当者が鼻高々に「これからは、プレカットの時代です!」と来場者に説明していました。感嘆の声を上げる他の来場者の横で、私は「え?たしかにすごいけど、何年も修行した大工さんのほうがもっとすごいんじゃないかな?そのうち大工さんが力を発揮する場所がなくなってしまうんじゃないのだろうか?なんだかこれはまずいような気がする。」と思って会場を後にしたのを、よく覚えています。





これは桁と桁を直交させて組んだ部分で、ここを捻組み(ネジグミ)と呼びます。





実際の建物ではこの部分です。斜め45°に入っているのを隅木(スミギ)といいます。隅木の下部、建物の中をよく見てください。隅船櫂が見えています。



捻組みの部分はこうなっています。これは下木(シタキ)。桁と桁を組み、おまけに隅木が落ち掛かる(オチガカル)ので、部材がこれだけしか残りません。上木と下木の接する面が斜めに捻じれているので、この組み方を、捻組みというのです。



同じく上木(ウワキ)です。この捻組みは建前で一番失敗のおきやすい部分です。ここの加工がかたすぎたりすると、掛矢(カケヤ。大きな木槌)でたたいたとたんに頭の部分が割れて飛んでいったりします。まさか施主さんの目の前で「あ~あ!」というわけにはいきませんから、ここは慎重に、慎重に。

このように、手刻みで伝統的な仕口(シクチ。部材が直交する部分)や継手(ツギテ。部材を長さ方向につなぐ部分)を加工する場合、木材の乾燥具合やクセを一本一本見ながら、慎重に墨付けや刻みを進めていきます。手刻みとプレカット、どっちがいいの?という選択はこの場合は実はありません。このように複雑な加工は大工の手刻みによってしかなし得ないものなのです。プレカット技術やAI(人工知能)がいかに発達しようとも、大工としてはその役割をかれらに譲るわけにはいかないのです。

しかし、ここにばかりこだわっているわけではありません。常に新しい工法や法律・制度などのアップデートは心がけています。うまく伝統的な技術を現代の住まいに生かせる工夫と努力を続けていきたいと思っています。

刻みの場面はまだまだ続きます!



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尺・寸目のさしがねは密造品?

2018年09月13日 | 大工のこと
太平洋戦争時に日本海軍が建造した史上最大で最新鋭の「戦艦大和」。エレベーターや冷暖房の空調機も備え付けられており、「大和ホテル」とも呼ばれていました。甲板は桧(台湾桧)板貼りでした。さすが日本の戦艦!といいたいところですが、爆弾が当たると、よく燃えますよね。戦艦大和は昭和20年4月7日14時23分、鹿児島県坊ノ岬沖でアメリカ軍の機動部隊による猛攻撃によって転覆し、大爆発を起こして沈没しますが、昼過ぎに始まった攻撃によって発生した火災は沈没するまで燃え続けました。

乗組員の死者2740名に対し、生存者はたったの269名でした。私の母校、市島町立三輪小学校で養護学級の担任をされていた荻野先生は戦艦大和の生存者でした。大砲に配属されていたそうです。物静かな優しい先生でした。もっと大和や戦争の話をきかせてもらえばよかったのにと悔やまれます。近所には、大和の最後の出航に乗り遅れて生き残ったという方もみえました。

さて、戦艦大和の設計寸法の単位は何だったかみなさんご存じでしょうか?ミリ?インチ?それとも日本で古来使われていた尺・寸でしょうか?
太平洋戦争中は外国語、特に英語は「敵性語」とみなされ、激しく排斥運動がおこりました。たとえば野球では、ストライク→よし一本、ボール→だめ一つ、などの言い換えがなされました。鬼畜米英を倒すために、日本が総力を挙げて建造する戦艦を、どうして敵性語寸法をもって設計できるものでしょうか?

答えは簡単ですよね。実は「㎜・ミリ」です。零式艦上戦闘機、いわゆる零戦もおなじく設計はミリ単位でされています。

少しそれますが、おもしろい話をご紹介します。戦争末期の1945年3月8日に公開されたニュース映画である、「日本ニュース 第247号 航技学生の操縦訓練」では、陸軍航空部隊および陸軍航空本部が取材されていますが、陸軍将校である教官と陸軍の訓練生のこんなやりとりが紹介されています。

教官「自ら、飛行機を操縦してみて、技術的に一体どんなことを感じたか」
(中略)
教官「よし!ほかにないか」
訓練生「「はい!」」
教官「はい訓練生」
訓練生「はい!ボルト、及びナットの規格を、さらに、簡単に、統一すべきであると、思いました」
教官「よし!みんな、色々感じたと思うが、要はこの操縦の体験を、技術の上に生かして、将来、技術将校としての、識量、技能の養成に一段と努力してもらいたい。そして敵の後についてくれ。終わり」
訓練生一同「敬礼!」

・・これはいろんな意味で笑えるお話しですよね。この場合はミリとインチの混在だと思います。じつは現在の建築現場でも、ミリ、インチ、分(ブ、と読みます。寸の1/10)のボルトの規格が混在しているんです。規格が違えばボルトとナットが噛み合いません。なんと、戦時中の飛行機からすでに混在していたんですね~。私も建設業界のボルト、及びナットの規格を、さらに、簡単に、統一すべきであると思うのであります。

寸法の話に戻りましょう。
私は今でも仕事では尺・寸を使います。寸の発祥は中国ですが、人の親指の爪の巾が基準になったといわれています。1寸=3.03㎝。ちなみに古代ローマが発祥のインチも同じく親指の爪の巾が基準になっています。多くのラテン語系の言語でインチと親指を表す単語はほぼ同一です。1インチ=2.54㎝。農耕民族のアジア人の親指の方が大きいですね。ちなみにミリですが、みなさんご存じのとおり千分の1メートルです。17世紀のヨーロッパ生まれのメートルは、北極点と赤道の距離の1千万分の1と定義された長さです。

身体を基準とした長さと、地球の大きさを基準とした長さ。
伝統的な木造建築や住宅を建てる場合は、やはり尺・寸が適しているでしょう。一方、科学や工学的なことは、ミリ・メートルが適しているのでしょうね。



木造部材に墨付けをするときには、さしがねを使います。もちろん私が使っているのは尺・寸のさしがねなんですが、実は尺・寸は違法です。1952年(昭和27年)施行の計量法によって、日本ではメートル法だけしか使えないことになりました。ですから当時販売されていた尺・寸のさしがねは密造品として取り締まりの対象になったのです。

映画「男はつらいよ」にこういうシーンがあります。寅さんがとある縁日で密造品の尺・寸のさしがねを販売しているんです。それを聞きつけた、永六輔さん扮するおまわりさんが自転車に乗っていそいで走ってきて、「こらー!」って取り締まりに来るんです。これは当時の職人が尺・寸のさしがねを使って仕事をすることが違法だとされた状況を、渥美清さんや永六輔さんが憂えて、映画の中でパロディーにして風刺したんです。
そのおかげもあって、今でも尺・寸のさしがねは購入することができます。ただし、手にすることがあったらよーく見てください。1寸の目盛のところに、1/33mと書いてありますから。10寸(1尺)は10/33mとなってます。要は、これはメートル法にのっとったさしがねだ!というのです。ここまで書いてありゃ、おまわりさんにも手が出せませんよね。



この尺・寸のさしがねは、特に規矩術(キクジュツ)を用いて墨付けをする場合には、なくてはならないものです。
規矩術については、またの機会にお話しさせていただきますね~。
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木造の木の香り漂う仮設住宅

2018年09月09日 | 社会での活動のこと
まだ記憶に新しい「平成30年7月豪雨」ですが、2018年(平成30年)6月28日から7月8日にかけて、西日本を中心に北海道や中部地方など全国的に広い範囲で記録された集中豪雨です。死者221人、行方不明者9人と「平成最悪の水害」になってしまいました。

私の住む岐阜県郡上市にも7月7日大雨特別警報が出され、郡上市ひるがのでは期間内の総降雨量が1214.5㎜になり、長良川が氾濫寸前になりました。郡上市でも土砂災害をはじめ、住宅の浸水被害が出ています。

今回は同じく大雨特別警報が出された岡山県のお話しです。岡山県での被害は倉敷市真備町に代表される、県内の風水害による被害としては戦後最悪のものとなりました。全半壊・浸水家屋の数は14,000棟にのぼりました。



現在、岡山県総社市で行われている仮設住宅建設のお手伝いに行ってきました。







実はこの仮設住宅は木造なんです。東日本大震災以来、7年間にわたり福島県いわき市に建設されていた仮設住宅の一部を、総社市に移設する作業が現在旧ピッチで進められています。屋根の母屋が黒ずんで見えるのは、そのためなのです。9月の半ばにはこれらの仮設住宅に第一陣の方々が入居される予定です。



構造材、内装材はすべて杉材で、木の香りが充満しています。福島県でも入居されている方々に好評だったそうです。解体後も自然素材でできていますから、再利用・移設もできますし、環境にも負荷をかけません。実は、被災地での通常のいわゆるプレファブの仮設住宅は建前としては再利用をうたわれてますが、そのほとんどは解体後には破棄処分されています。仮設住宅までビルド&スクラップでは、環境に負荷をかける一方ですし、災害が増えるほど自治体や国の負担は増えていく一方です。今後、いろんな自治体・国の関係者の方に、この木造仮設住宅の建設や再利用・移設を検討していただけたら、と思います。実際に福島県いわき市の、この木造の仮設住宅を買い取って、基礎コンクリートを設けて永住用の住宅に転用されてる方もみえます。

私たちは仲間の大工さんを含めて、3人で参加したのですが、25人ほどの全国から集まった大工さんたちと寝食を共にし作業してきました。参加者リストに載っているのは全部で79人。10月半ばまで工事が続くのですが、短期間の人もいれば、全期間通して参加される人もいて、入れ替わりながら作業が進められています。20歳代の若い大工さんもいれば、50歳代のベテランの大工さんもいます。みんなで和気あいあいと、それでいて熱心に作業が進められていて、こんな熱い大工さんたちが全国にいるのか!と、とても頼もしく思い、勇気づけられもしました。リーダーのマイケルこと、杉原敬さんもすばらしい方でした(アメリカ人と日本人のハーフ。実はすごい大工さんらしいです)。宮城県の方で、東日本大震災も経験され、当初のいわき市での仮設住宅建設にも関わっておられます。

さて、作業中の昼食は敷地すぐ隣の公民館でとるのですが、玄関から入ったロビーで、ちょうどその朝に起きた震度7の北海道胆振東部地震のニュースを食い入るように見ておられた初老の男性がみえました。もしや?と思い、「あの、もしかして被災された方なんですか?」と尋ねたら、案の定そうでした。




これは総社市下原地区の被害の様子です。男性は下原地区の方で、朝日アルミ産業岡山工場の水蒸気爆発の被害に遭われました。工場は写真のすぐ左側にあります。7月6日、岡山県を含め8府県に大雨特別警報が出され激しく雨が降り続いていた夜のことです。午後11時35分、高梁川の増水により工場内が浸水し、高温の溶融炉内のアルミに触れて水蒸気爆発が起きました。ごう音が鳴り響き、爆風のせいで工場に隣接する下原地区のほぼ全ての家のガラスが割れ、天井や壁が落ち、屋根瓦が吹っ飛びました。焼失した家もあります。男性は、あまりの衝撃の激しさにその時何がおこったのか全然わからなかったそうです。ごう音は数十キロ先まで聞こえたといいます。

それだけでは終わりませんでした。下原地区の混乱・散乱する家々は、破壊された窓や屋根から降り続ける豪雨が浸入し、あろうことか夜中に高梁川の支流の小田川の氾濫によって浸水してしまいます。あの真備町が浸水した、まさにその氾濫水です。下原地区は倉敷市真備町に隣接しているんです。写真では奥の方向が真備町になります。
こんなこともあるのか、と絶句しながら男性の話を聞いていました。第一陣で入居されるのは、この男性をはじめとする方々なのです。男性は、「いままでテレビなどで被災された方々を見て、お気の毒だと思うだけだった。自分が被災するとは夢にも思わなかったし、いざ被災してみると今そのつらさを痛感している」とおっしゃってました。

その男性を見て、「ああ、なんとお気の毒な」と思っているのが今の私なのです。大規模な想定外といわれる災害が頻発するこの頃ですが、なにが日常・非日常、公平・不公平、正常・異常なのか誰にも分かりません。もし、そこに何らの差異がないのなら、あたり前に次は災害が自分の身にも降りかかってくるのではないかと思うのです。



これから以後に建設される仮設住宅の部材が、福島から搬入されて、うず高く積み上げられています。
引き続き仮設住宅の建設工事に入られる大工さん・業者さんの方々には、ぜひ頑張っていただきたいと思います。そして、被災された方々・地域の一日も早い復興を心よりお祈り申し上げています。
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郡上に伝統構法で登り梁の家を建てる その1

2018年09月02日 | カネサダ番匠が作った家


「岐阜県の民家といえば・・」でお伝えしていたのですが、カネサダ番匠では飛騨地方や美濃地方に独特の登り梁を屋根に大きく架け渡した、軒の出の深い家を設計し郡上市内に建設しました。その工事の過程をご紹介します。

これはその建物の模型の写真ですが、この模型の下にあるのは、実際に建築に使用した通し柱です(六寸柱・18センチ角)。

設計に先立ち、飛騨や美濃の民家をとにかく訪ね歩きました。民家園であったり、重要文化財の家、知り合いや親戚の家、飛び込みで見せていただいた家もあります。
もう百軒以上は見たのではないでしょうか。そのエッセンスを凝縮して設計し(設計はカネサダ番匠一級建築士事務所のエラい所長です)、その設計図に基づいて大工の私が模型を製作しました。模型をもとに再び設計を見直して、という作業を何回も続けました。



こちらは裏側になります。大屋根には登り梁を掛け軒を大きく出しました(約1.6メートル)。特に郡上では大屋根の外壁面よりも登り梁をさらに突出し、そこに母屋(出桁・ダシゲタ)をもう一列掛け、軒を大きく出す手法をとります。郡上ではこれを「出登り造り」とも呼びます。
下屋(ゲヤ・一階の屋根)は船櫂造り(セガイヅクリ)とし、こちらも軒を出す工夫をしました(約1.35メートル)。

特に私たちの心を捉えた民家を参考に、建物をかたちづくっていきました。









建っている場所は飛騨であったり、美濃であったりバラバラです。しかし共通点もありますよね。
これらの昔の建物はどれを見てもかっこいいんです。いったいこのかっこよさはどこからくるんだろうか?これがわたしたちの民家をめぐる旅の大きなテーマでした。
他にも、わたしたちにも同じくかっこいいものが作れるだろうか?伝統構法で建てるとはどういうことなんだろうか?そもそも現代に伝統的な建物を建築できるものなんだろうか?

さまざまな家を訪ね歩きながら、常に問い続けていました。







これらの疑問は、建築の途中に答えが出てきたものもあれば、いまだに解けないものもあります。



もう一度、この工事を振り返りながら、これらの疑問を考えてみたいと思います。
さあ、わたしたちと一緒に、岐阜県の素晴らしい民家と伝統構法を考える旅にお付き合いください!

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尾崎小野屋 その2

2018年08月31日 | カネサダ番匠がリフォームした家


尾崎小野屋の工事風景をご紹介しましょう。

「尾崎小野屋外壁再生工事」
設計・施工 カネサダ番匠
工事期間 2017年11月~2018年5月
工事内容 外壁の再生、玄関庇屋根の新築、事務所・作業室内のリフォーム



今回の工事は建物全体を対象とする規模のものではありませんでした。なので、予定された工事の範囲内でいかに成果を出すかを考えました。外観(西妻面)を郡上八幡の景観や伝統に配慮したものにすること、伝統的な大工や左官の技術を生かした工事にすること、必要最小限の範囲内で構造的な補強も考慮すること、以上のことがらに主眼をおきました。

道路側の柱(写真の左側)に少し沈下がみられましたので、これ以上の沈下を防ぐために新築する玄関庇には基礎コンクリートを設け、玄関庇と既存建物とを一体化させました。
サッシ窓の周囲の既存柱には新たに添え柱を設け、土台と胴差しにも部材を添えることで補強しました。2階部分は壁下地に30㎜×120㎜の貫材を使用し、間柱と格子状に組むことで補強し、既存の土壁の剥落防止も兼ねさせています。



玄関庇の基礎コンクリートです。柱脚石の前後は本物の石ではありませんよ。奥の2つがもとからの端石です。



左官の松葉建装さん(父)が、もとからの石にならって、コンクリートが固まる前にささっと石の形を作りだしてくれました。



玄関庇の新築部材です。ベンガラを塗る場合はこうやって作事場で前もって塗って、よく乾燥させてから現場で建てます。



玄関庇の新築途中。この部分だけで独立して構造的に持つようになっています。ここに既存の建物をもたせかけて、これ以上の沈下を防ぎます。



玄関庇が立ち上がったら、壁下地の竹小舞を編みます。これぐらいの規模なら自分たち(カネサダ番匠)で編み上げます。



荒壁を塗ります。しっかりと竹小舞の間に荒壁土が喰いこむように塗って、一晩おいてからこちら側を塗ります。
壁貫の下端に注目してください。小舞竹が一枚斜めに入っているのが分かりますか?これは荒壁土を塗った時に土の重みで垂れ下がって、貫の下端にひび割れが入らないようにする昔からの工夫です。



玄関外部のしっくい仕上と、作業室内部のしっくい仕上げは松葉建装さん(息子)の出番です。BSフジの「一滴の向こう側」で松葉建装さんの活躍を見られた方も多いのではないでしょうか。実はこの小野屋の荒壁塗りの場面も半日撮影されたんですが・・あえなくカットされたみたいです。残念。

気をとりなおしまして・・郡上八幡に来られることがありましたら、尾崎を訪れてみてください。八幡城を背に、まるでずっと以前からこの姿であったような小野屋が佇んでいます。すぐ向かいの、ずっと昔から尾崎を通る人々を見守り続けてきた延命地蔵尊もお詣りくださいね。





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続・太陽熱温水器のススメ

2018年08月28日 | エネルギーのこと


つい先日、郡上市内のお宅に設置した太陽熱温水器(水道直圧タンク方式/真空菅ヒートパイプ式・MMC社製)をご紹介します。
自然のエネルギーを有効利用するという点で、かなりの活躍が見込まれますので是非みなさんにも知っていただきたいのです。



さて、その前に・・
太陽からさんさんとふりそそぐ光。この光のおかげで私たちや、地球上のあらゆる生物や万物の命がはぐくまれているのは今さら言うまでもありませんよね。

太陽から地球までの距離は1億4960万キロメートルです。太陽からの光は8分19秒でわたしたちのもとにやって来ます。
地球表面に到達するエネルギーは約3.8×1000000000000000000000キロジュール。うーむ・・こういうのを天文学的数字というのでしょうか?これでも太陽表面の放射エネルギーの29億分の1なんですって!地表への約1時間足らずの照射で、世界中の人が1年間に利用する全エネルギーをまかなえる量になるといわれます。
とにかくものすごいエネルギーなんだというのは分かります。

この太陽からのものすごいエネルギーをおすそ分けしていただいて、わずか畳2枚分の太陽熱温水器で、日照があれば楽々と熱いお湯が沸かせます。



集熱菅は2重ガラスで内部は真空管になっており、内部の銅製集熱パイプで集めた熱で温水器上部のタンク内の水を温めます。



水は上部のタンクに貯められています。水道管に直結してあるので、従来の自然循環型(カネサダ邸に設置してあるのはこのタイプ)のように、水を温水器に上げるためにバルブ操作をする必要はありません。



本日(2018年8月27日)のタンクのお湯の温度は81度!(晴れ・気温35℃)タンク容量は200リットルのタイプですから、燃料代はタダでこれだけのお湯が得られるなんてすごいと思いませんか?お風呂場で40度のお湯を使うとすれば、ぬるめるための水道水が冬場に0℃近くとしても400リットル、夏場で水道水が20℃なら800リットル使えることになります(実際は季節によって湯温も違うし、配管内などでロスも出ますが単純に考えると、です)。



これは、ブレンダーという装置(一辺30センチぐらい)です。このブレンダーも同時に設置されることを是非おすすめします。太陽熱温水器からのお湯は、まずこのブレンダーに接続します。ブレンダーには水道菅からの水も接続します。ブレンダーは読んで字のごとく、太陽熱温水器からのお湯と水道水をブレンドしてくれる装置なのです。ブレンダーは給湯器(もともとお宅に設置してあるガスや灯油の給湯器です)のリモコンに配線でつなげます。ですから、給湯器の機種に合ったブレンダーを選ぶ必要があります。給湯器も同じく、ブレンダー対応型のものである必要があります(最近の給湯器はほぼブレンダー対応型です)。

例えば、風呂場の給湯器のリモコンの設定温度が41℃とします。ブレンダー君はリモコンの設定温度が41℃であるのは感知しています。太陽熱温水器からブレンダー君に入ってくるお湯の温度が80℃の場合、ブレンダー君の体内で41℃にまでぬるくしてから、給湯器に送ります。その場合給湯器は点火しません(ただし、その時のお湯の温度や給湯器のメーカーによって、多少の違いはあります。38℃で給湯器に送って、とろ火で加熱して41℃に上げるなど)。ブレンダーを設置することで無駄なくお湯がつかえますし、自分で温度調整をしたりする手間が省けます。

冬場や曇りの日など、設定温度に満たない場合は従来と同じで給湯器で加熱するわけです。この場合もブレンダーと給湯器で温度調整のやりとりをするわけです。冬場の0℃に近い水を加熱するのと、太陽熱温水器で30℃になった水を加温するのとでは、使用する燃料費は1/4になりますよね。夏場はもちろんですが、特に冬場や寒冷地で太陽熱温水器は活躍してくれると思います。

太陽熱温水器は一度使用すると、その良さはよく分かります。感動ものです。
いかがですか?みなさんも太陽の恵みを給湯に利用してみませんか?
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