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カネサダ番匠ふたり歩記

私たちは、大工一人、設計士一人の木造建築ユニットです。日々の仕事や木材、住まいへの思いを記していきます。

屏風に始まり、屏風に終わる

2019年01月04日 | 家具・建具のこと
新年あけましておめでとうございます。
お正月らしく、金色の屏風にまつわる話をご紹介いたします。



私の手元にある、大小一対づつの金色の屏風。
これは襖(フスマ)職人であった私の父親の形見です。座敷の襖も同じくです。
父は6年前に癌で亡くなりました。今年は早や7回忌を迎えます。これらの屏風や襖は父の生前の最後の仕事になりました。



さて、大工である私は、生まれは神戸市、育ちは兵庫県丹波市(旧氷上郡)です。
父親の出身は和歌山市、母親も同じく和歌山県の紀の川市(旧那賀郡)です。

「屏風」が今回の話のテーマなのですが、父親には屏風に対する強い思い入れがあったようです。
その理由は父の出自をたどってみることで、分かってきます。



これは和歌山県岩出市森に鎮座する荒田神社です。和歌山県指定文化財です。
祭神は高魂命(タカミタマノミコト)並びに剣根命(ツルギネノミコト)です。
ここ和歌山県岩出市森は平安期の那賀郡荒田村の中心地であり、そこには辻埜(ツジノ)氏(後に辻野氏)が代々居住していました。
そう、私の旧姓は辻野であり、もちろん父の姓も辻野です。

元和5年(1619年)当時の当主であった辻野門太夫は『荒田比咩(ヒメ)由来』という荒田神社の縁起を書き残しています。
これは辻野門太夫本人に荒田神社の社伝を書くべき家系の人物であるとの自覚があったからでしょう。
荒田神社の名称は荒田直(アラタノアタエ、直とは古代の姓の一種という意味)の祖先神を祀ることから来ています。辻埜(辻野)氏は荒田直の主要な臣下と目されます。

荒田神社の歴史はとんでもなく古いのですが、平安時代の延喜式神名帳には既に「那賀郡荒田神社二座」と前記の祭神の記載があります。
さらに荒田直(アラタノアタエ)は平安初期の弘仁5年(814年)に成立した『新撰姓氏録』に記載されています。
古代の姓氏名は、大抵は地名に由来したり、発祥の地名が特定できます。その他には職名に由来するものや、名代(ナシロ、大化の改新以前の皇室の私有民)の名称に由来するものがあります。

では、荒田直の発祥の地は?といいますと、九州は豊後の国日田郡(ヒタノコオリ)です。現在の大分県日田市です。
日田郡には五つの郷がありましたが、その一つ在田(アリタ)郷が荒田直の居住区でその地名に由来すると考えられます。現在の日田市有田町一帯です。
いつ紀の国の那賀郡荒田村の地に移動してきたのかというと、「神武東征」の時だというのですから、2600年も前の話です!
その東征の時に、荒田部隊を含めた葛城氏の軍を実際に率いていたのが、荒田神社の祭神でもある剣根命(実在の人物)であろうと思われます。

以上、父や私(辻野家)の直接の祖先であろうと思われる荒田直の歴史について、少し長い説明をさせていただきましたが、実は現在の荒田神社の公式の由緒とは違っています。
ではなぜ違うのか?を話し出すと、歴史のミステリーめいた話になってきます。辻野家の歴史に関する私的な「単なるメモ」と受け止めていただければ、と思います。(実は大阪府堺市陶器に「陶(スエ)荒田神社」があり、岩出市の荒田神社と全く同じ祭神です。そして、周辺の地名は「辻之(ツジノ)」なんです。こちらも話出すと横道にそれますので、今回は割愛します。)



和歌山県岩出市森の荒田神社本殿に話を戻しましょうか。
この本殿は三間社流造り(サンゲンシャナガレヅクリ)、桧皮葺(ヒワダブキ)の建物で、寛永元年(1624年)に再建されたものと考えられています。もともとは西坂本(現在の根来)をも含む広大なこの地域の総産土神(ウブスナノカミ)であったのですが、天正13年(1585年)の豊臣秀吉の根来攻めの際、焼き討ちに遭い周辺の寺社とともに灰燼に帰しています。寛永元年の再建の際には10分の1に縮小して再建されました。

本殿は丹塗り(タンヌリ)なのですが、彫刻類だけは白木(シラキ、何も塗っていないこと)です。本殿前面向拝(コウハイ、ゴハイとも)上部にも白木の彫刻(今は黒っぽく見えますよね)があります。これらは蛙股(カエルマタ)と呼ばれます。かなり繊細で華麗な彫刻です。



これらの彫刻は、西坂本(現在の根来)の出身で、当時江戸で活躍していた大工「塀内正信(平内政信)」が江戸で製作し寄進したものではないかと推測されています。平内政信は寛永9年に江戸幕府作事方大棟梁の職に就くことになるのですが、当時を代表する名工でした。
『匠明(ショウメイ)』という、日本の建築で一番有名な木割書(キワリショ、社寺建築を始め、木造建築に関する部材の比率などを記した、現在でも必読書と言われる書物)があるのですが、平内政信はその著者である、と言うほうが、ピンとくる方が多いと思います。私も荒田神社(子孫の辻野家)と平内政信の関係に大いに興味のあるところですが、これに関しての情報は残念ながら何もありません。

何だ、きらびやかな先祖の自慢話か、とお思いかもしれませんが、問題はここからなんです。
私の曽祖父、辻野兼助の時代までは、辻野家には岩出市(旧根来村)一帯や和歌山市中心部にまだまだ広大な土地と莫大な財産がありました。
ところが、曽祖父はかなり人のいい放蕩家で(ひいおじいさん、ごめんなさい・・)全ての財産を博打の保証人になったことで失ってしまいます。
私の祖父(つまり私の父の父親)辻野兼蔵は岩出市森(旧那賀郡根来村大字森)の辻野本家の長男に生まれながらも、何とついには和歌山城下の橋の下に住んでいたというのです。



何か生活の手立てとなるものはないか・・と探していたところ、ある日祖父は和歌山城下の古道具屋で一対の屏風を見つけます。
その屏風をなけなしのお金で買って帰り、一枚づつ紙をめくってはどのようになっているのかを調べ、見よう見まねで紙貼りを始めます。

それが襖屋の始まりとなりました。屋号を南フスマといいました。
私の父は四男でしたが、父を含め男兄弟3人とも皆襖職人でした。(次男は戦時中に亡くなっています)

それでも極貧は続いたといいます。私が父から聞かされた昔話は、この極貧にまつわる話が多かったです。
昭和20年7月9日に和歌山大空襲がありましたが、当時3歳だった父親は背中に負われて逃げる最中に見た焼夷弾の閃光をありありと憶えてると言っていました。この空襲で自宅も、高級な襖材料も全て焼失してしまいます。

終戦直後の全ての人が貧乏であったであろう時代に、小学校のクラスで制服を着ていないのは唯一父だけだったといいます。弁当はいつも麩(フスマ、襖屋の息子だからフスマ、なんて冗談じゃありません。小麦の製粉後の皮の屑、牛馬の飼料です)で、いつも皆にかくして食べていたとか。修学旅行にも旅費が払えないからという理由で、父だけが行けませんでした。

私が子供の頃、和歌山市の父の実家に立ち寄った際に、近くのある坂に差し掛かった時に、父が話してくれたことがあります。
父は小学校の授業が終わった後に、薪の運搬のアルバイトを親に言いつけられていました。同級生は皆遊びに行くのに、父はその言いつけがいやでしようがなかったそうです。ある日リヤカーに薪を満載にして、その坂に差し掛かった時に、あいにくその日の薪の量が特に多く、体の小さな父親がどう頑張っても、その坂が登れなかったそうです。ついに坂の途中で立ち往生してしまいます。周りの通行人の大人は誰も助けてくれない。その時ちょうど同じクラスのあこがれの女の子がそこに通りがかりました。父はあまりの恥ずかしさにとっさに顔をかくしたい、と思ったそうです。するとその女の子は、黙って父のリヤカーの後ろを坂の上まで押してくれたそうです。

この時の経験は、「一番情けなく、くやしかった」と生前何度か父に聞かされました。
その時の女の子が、実は今の私の母親なんです・・と言いたいところなのですが、まあ違います。



私が大工になる、と言い出した時、父は賛成してくれました。
その後、岐阜県郡上市で設計士の妻と二人で独立して工務店を始めてからは、私が建てた家に父の襖を入れてもらうようになりました。
その間は3、4年でした。私も嬉しかったし、父も嬉しかったんじゃないかと思っています。

父が癌の告知を受けた時、私が最初に思ったことは、「間に合わない・・どうしよう」でした。
その頃、郡上市で登り梁の家(このブログで紹介している「郡上に伝統構法で登り梁の家を建てる」、まさにこの家です)を計画中で、まだ図面の段階でした。どうも父の癌はステージⅣ(最終段階)という。私はこの登り梁の家に襖を入れられるのには、少なくとも3年はかかると思っていたからです。

普通、家の建前をして、造作(内装工事)が終わってから初めて建具や襖の寸法を測ります。
3年後には父はおそらく生きてないだろう、と思った私はすぐに、父に「郡上の家の襖を作って欲しい、そしてその襖を伝統的なやりかたで、父が最高の仕事だと自分で思えるものを作って欲しい」と依頼します。

父は「よし、分かった」と快諾してくれます。
私が依頼したのは、郡上の家に入れる襖(今回写真で紹介している襖です)だったのですが、父は私が依頼していない、大小一対づつの屏風の手配も始めます。

父がこの屏風製作に込めた思いは何だったのでしょうか?
これらの屏風と襖の製作の過程をこれからみなさんにご紹介します。
次回をお楽しみに!
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得意技はタタミ踊り

2008年07月02日 | 家具・建具のこと
司馬遼太郎氏の小説「竜馬がゆく」に、こんなくだりがあります。

時は幕末の文久2年。
後に薩長同盟を結び倒幕へと歴史を大回転させた長州藩と薩摩藩ですが、実は犬猿の仲でした。

ある日、江戸柳橋「川長」で薩摩が長州を招待した酒席でのこと・・
ひとわたり酔いがまわったあたりで酒癖の悪い長州側の周布政之助が真剣を抜きつれ舞い始めたのです。
芸者、末社が蒼くなったほどのすごい剣舞で、薩摩側の鼻先へきらっ、きらっと切先が触れそうになる・・

薩摩の大久保一蔵(のちの利通)は興奮してきて、
「よし、オイは薩摩のタタミ踊りをお目にかける」
と、タタミを一枚はがし、片手でタタミを皿まわしのようにぐるぐるまわしはじめたのです。

ほこりをバタバタたてながら座敷いっぱいにぐるぐる回るタタミは長州の席へ旋回していきます。
気の短い長州の来島又兵衛などは太刀をひきつけ、芸者、末社たちは胆をつぶして足袋はだしのまま中庭に飛び出していく・・

この大騒ぎを鎮めたのは薩摩の西郷吉之助(隆盛)どんの意外な行動だったのですが、興味のある方はぜひ「竜馬がゆく」をご一読ください。





さて、今日の主役は大久保どんでも西郷どんでもない、畳(タタミ)です。
郡上八幡には、幕末に宙を舞ったタタミと同じ、藁床(わらどこ)のタタミを自分で作る畳屋さんがいます。

くまだ畳店の熊田さんは自分で藁を集めてきて乾燥させ、その藁を使って畳床(たたみどこ)を作ります。
畳床とは畳のベースとなる部分のことで、この床の良否が畳の良否を決定します。

最近の畳はいわゆる建材床といって、断熱材などをそのまま使った床がほとんどです。
歩き心地は藁床のようにはやさしくなく、藁のような吸放湿性はほとんどありません。





藁を何重にも縦、横と敷き並べていきます。
この藁は郡上の藁で品種はコシヒカリ。稲架(はさ)掛けして乾燥させたものでないと畳床には使用できません。

コシヒカリは背が高いといっても昔の稲と比べるとだいぶ背が低くなったそうです。
昔はこのあたりではヤマホウシという品種が主で、ヤマホウシの藁は畳一枚の幅(約90センチ)を1本通しで十分に作れました。コシヒカリでは真ん中で足してやらないといけません。

とはいうものの、最近の稲刈りはコンバインで藁を切り刻んで田んぼに放出してしまいますので、稲架に掛けた藁は入手がとても困難になってきました。
熊田さんがふんだんに使う藁も実はとっても貴重なものなのです。





畳床を作る機械も先代のころから大事に使ってきたものです。
自分で床を作る畳屋さんもめっきり減ってきましたが、熊田さんは「私はこだわって作り続けるよ。」とのこと。何とも頼もしい限りです。





畳作りには欠かせない藁ですが、土壁にも藁は欠かせません。
こうやって見てみると、藁をはじめとして稲作の文化が日本の住まいにいかに深く関わっているのかが分かります。

今どきは畳が一枚もない家が結構作られています。日本人のライフスタイルや意識の変化の現れでしょうか。
それらを含め、今日お話した藁の入手困難なことなど、ソフト、ハードの両面で日本の稲作文化はどこへ行ってしまうんだろうか?と思うこともしばしばです。





「畳の上で死にたい」どころか、「畳の上で住みたい」と是非多くの日本人に思っていただきたいものです。
私たちも畳の映える家づくりに頑張って取り組んでいきますよ!


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宝船に揺られて

2007年03月15日 | 家具・建具のこと
いよいよ二人目の子供の出産が目前に迫ってきました。
それに合わせて、親戚のおじさんがベビーベッドを返しに来てくれました。





このベビーベッドは、長女が産まれた時に、知り合いの大工さんが作って私たちにプレゼントしてくれたものです。
杉の根元の曲がった部分をうまく利用して、底が丸く作ってあります。赤ちゃんを乗せて、ゆりかごの様に、ゆらりゆらりと揺らせてあげます。中が畳敷きなのが気持ち良さそうでしょう。





ベッドの底には工夫が凝らしてあります。
脚が折りたたみ式になっていて、揺りかごとして使う時には、底に収納してあります。ベッドとして使う場合には安定していた方がいいですから、脚をこうやって出して使います。





ね、おもしろいベビーベッドでしょう。
私たちの自慢のベッドです。こうやって見ると、なんだか七福神の乗っている宝船に見えてきます。

ところで、郡上近辺では女の子のことを「ビー」、男の子のことを「ボー」とよびます。小さい子供に限らず、娘や息子という意味でも使います。
会話の中ではこうやって使われます。
 「おいよ、おまえんとこの子供は何人おるよ?」
 「うちか?三人よ。ビービーボー(娘・娘・息子)よ。」

この、ビーとかボーという言葉の響きは、それ以外にぴったりとあてはまる言葉が見つからないほど、会話の中ではしっくりときます。

我が家では、一人目は女の子でした。実は私は二人目が女の子か男の子のどちらであるのかは教えてもらっていません。産まれてからのお楽しみです。どちらでもいいから、無事安全に、健康に産まれてくれれば、それだけで十分なのです。

しかし、ひとつだけ心配なことがあります。
それは、外人さんに子供のことを質問された時のことです。

外人さん "How many children do you have?"
わたし  (もし二人目が女の子であれば)「ア、アイハブツーチルドレン。ビーアンドビー。」(でも、何だか漫才コン
     ビみたいだなあ。)
      (もし二人目が男の子であれば)「ア、アイハブツーチルドレン。ビーアンドボー。」(ちょっと英語のできる
     フリをして、早口に「ビーァンボー」なんて言ってしまうと、外人さんに
     "What on earth does he say he's so poor?"と思われはしないだろうか?)

なんて、余計なこと(全く)を心配しています。
ともあれ、新たに産まれてくる赤ちゃんは、神様や仏様からの授かりもので、私たち家族にとっては宝物です。

宝物の赤ちゃんは、宝船に揺られて、いったいどういう夢を見るのでしょうか?
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ゴミが宝ものに・・・

2006年06月11日 | 家具・建具のこと
今仕事をさせていただいているS邸の奥様から、「これ、処分していただけませんか?」と依頼されたものは、なるほどゴミの山でした。
古いソファー、家具、台所用品など、ほとんど使用できそうな物はなく、大方は処分したのですが、その中に、ケヤキの座卓がありました。





もう、3,40年ぐらいは経っているみたいですが、サンドペーパーで表面の塗装を落としてみると、ケヤキの美しい木目が浮かび上がってきました。決して高級品ではないのですが、昔の家具職人さんの息遣いが伝わってきそうな丁寧な仕事は、現在の大量生産からは生まれてこない味わい深さを備えています。

仕上げにオイルを塗ると、ケヤキ特有の深いあめ色になり、思いがけずに高級な座卓に大変身してしまいました。ゴミが宝ものになった瞬間です。

古いものにはどうして味わい深さが備わるのでしょうか?作った人の手のぬくもり、使った人の愛着、そしてなによりも経てきた時間がそうさせるのでしょうか?
住まいの作り手である私たちも、できれば何十年にもわたって愛着を持って住んで頂ける家を作っていきたいと思っています。

まず、そのためには私たち自身が物を大切にしていく姿勢を持っていたいです。お手伝いしてくれた娘にも、この思い伝われと願わずにはおれません。

ちょっぴり得した気分の一日でした。
コメント (2)
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