カネサダ番匠ふたり歩記

私たちは、大工一人、設計士一人の木造建築ユニットです。日々の仕事や木材、住まいへの思いを記していきます。

青い空と石膏ボードの驚くべき関係

2018年08月26日 | 環境のこと


カネサダ番匠の作事場(サクジバ、特に郡上では大工小屋をこう呼びます。もちろん木造ですよ)の上空には、今日も抜けるような青い空が広がっています。
今回は、青い空を守るための、石膏(せっこう)ボードの驚くべき働きについてのお話です。



さて、これは木造で築40年の公民館の耐震補強工事の事例です。木造建築の耐震診断と耐震補強工事については別の機会にお話ししましょう。
台所の仕上はビニールクロス貼りですが、下地には厚さ12.5㎜の石膏ボードを使用しています。耐震補強をする場合、壁に石膏ボードを使うことは建物の耐震性能を高めるためには有効な方法のうちのひとつです。新築においてももちろん同じなのですが、建築基準法において耐力を有するものとして規定されています。





一般的な石膏ボードの表は黄みがかった色の紙、裏はねずみ色の紙で石膏がくるまれています。メーカーはチヨダウーテといい、三重県四日市市に工場があります。



石膏とはいったい何なのか?漆喰(しっくい)もおなじく白いし、似ているけど、何が違うんだろう?というのが積年の疑問でした。(漆喰については、このブログ中の「漆喰を化学すれば・・」をご覧ください)。
施工管理上の知識としては、石膏は弱酸性、漆喰は強アルカリ性だということは知っていました。事実、石膏ボードをノコギリやカッターナイフで切ると、ほどなく刃が錆びてきます。リフォームで30~40年経った石膏ボードを解体すると、留めつけてある釘はかなり錆びています。

石膏は正式には「硫酸カルシウム二水和物」といいます。石膏ボードでは「二水石膏(CaSO4・2H2O)」という状態で使用されています。
CaSO4中のSO2は実は二酸化硫黄です。日本の四大公害の四日市ぜんそくの原因物質です。また、大気中で酸化されて水に溶けると硫酸(H2SO4)となり、酸性雨の原因物質となります。

ではいったい何故?もとは公害物質である二酸化硫黄が石膏ボード中に含まれることになるのでしょうか?
1959年から翌年にかけて、三重県四日市市で東洋最大の石油化学コンビナートが操業を開始します。戦後の復興や経済成長のシンボルでもありました。しかし、それ以降、ぜんそく症状を訴える周辺住民が続々と増えていきます。石油や石炭には硫黄(S)分が含まれています。それらを燃料とする工場からの排煙中の二酸化硫黄(SO2)を主な原因物質とする公害病の「四日市ぜんそく」は社会的に大問題を引き起こしました。

1960年代の大気汚染による公害問題の後、汚染物質に対する規制が定められます。各企業による低硫黄燃料の確保や排煙脱硫装置の導入などが行われました。排煙からの脱硫にはいくつかの方式がありますが、日本国内で主流を占めるにいたったのは「石灰石-石膏法」と呼ばれる方式です。
日本では天然石膏はほとんど産出されません。しかし、石灰石資源は豊富です。その石灰石を使った脱硫方式を日本では独自に編み出しました。

「石灰石-石膏法」を説明します。
排煙を石灰石(CaCO3)スラリー(ミキサーで石灰石の粉末と水を混ぜた、焼く前のホットケーキの素みたいな状態のもの)と反応させると、排煙中の二酸化硫黄(SO2)が吸収され、亜硫酸カルシウム(CaSO3)となります(吸収工程)。

CaCO3+SO2+1/2H2O→CaSO3・1/2H2O+CO2

その後、亜硫酸カルシウムを酸素と反応させます(酸化工程)。

CaSO3・1/2H2O+1/2O2+3/2H2O→CaSO4・2H2O 

この結果として出来上がった、CaSO4・2H2O、これがまさに二水石膏そのものです。天然石膏に対して、脱硫の結果として出来る石膏を化学石膏といいます。日本で作られる石膏ボードの原料はほとんどが、この化学石膏なのです。
日本では公害問題を受けて排煙脱硫装置の設置が進められました。そのおかげで、四日市市でも二酸化硫黄濃度の年平均値は減少し、四日市ぜんそくの新規認定患者も1975年度をピークに減少していきました(しかしそれから40年以上経った現在でも450名近くの認定患者がぜんそくに苦しみながら生活されています)。四日市市にもほどなく青い空が取り戻されました。現在日本では2000基ほどの排煙脱硫装置が稼働中です。そのおかげで、日本で「公害」や「大気汚染」という言葉を耳にする機会はほとんどなくなりました。

ただし、日本の発電所や工場で石油や石炭が燃やし続けられている限りは、24時間排煙脱硫の結果としての化学石膏は生み出され続けています。



青い空と石膏ボードの切っても切れない驚くべき関係。調べてみると、私には本当に驚きの事実でした。

私はこの場で石膏ボードや化学石膏の是非を言うつもりはありません。私自身、車にも乗りますし、電気も使います。石膏ボードも仕事では使います。
石膏ボードとして使用する限りでは人体には影響は与えません。
でも、石膏ボードの使用量は極力控えたいと思っています。何故かといいますと、石膏ボードに関して、一番の問題として捉えるべきは、その処分です。

工事現場や住宅メーカーの工場などで出た廃石膏ボードは回収され、そのほとんどは再利用されています。問題は解体現場で出た廃石膏ボードです。
廃石膏ボードは産業廃棄物となり、管理型最終処分場に持ち込まれます。管理型最終処分場とは簡単にいうと、谷間の地形の地面を水がしみ込まないようなシートで覆った、巨大な穴です。どうするか、というと埋め立てるんです。土中には硫酸還元菌が存在し、その働きで硫化水素が発生する事例がすでに実際に起こっています。これから日本では解体による廃石膏ボードがとんでもなく大量に発生してきますが、いったい誰がそれを永久的に管理するというのでしょうか?日本にそれを全て埋め立てられる土地がどれほど残されているというのでしょうか?いえ、そもそも他に処分する手立てがなく、ただ土中に埋めてフタをして見えないふりをする、そんなことが許されるはずがないのではありませんか?現代の私たちはいったいどうして未来の地球に禍根を残すようなことを行っているのでしょうか?

青い空を見上げながら、石膏ボードの大いなる働きに感謝しつつも、その行く末をも心配しています。
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尾崎小野屋 その1

2018年08月22日 | カネサダ番匠がリフォームした家


近世における日本全国の藩営専売品として中部地方では尾張藩の木綿や陶器、美濃国の加納のからかさ(和傘)とともに郡上の生糸があげられています。
戊辰戦争で郡上藩は新政府につく決断をするものの、江戸家老朝比奈藤兵衛の子茂吉を隊長とする「凌霜隊」をも結成し、会津藩とともに新政府軍とも戦います。
明治4年(1871年)郡上藩は廃止され、郡上県となり、同年11月に岐阜県に編入されます。廃藩置県に伴い、八幡城は石垣を残して取り壊されます。

郡上市八幡町尾崎地区は旧城下町への入り口に当たります。まさに尾崎小野屋(この家の屋号)はこの入口に建っている家です。
玄関庇屋根の左上をよーく見てください!八幡城が見えるでしょう。現在のお城は昭和8年に建設されたものです。

さて、明治以後も郡上郡の中心地としての八幡町では、近世から続く養蚕を生かした製糸産業が発展します。
ところが大事件が発生します。
大正8年(1919年)7月16日、尾崎の繭(まゆ)乾燥場から出火した火災により、旧城下町の北町がほとんど全焼してしまいます。その数596戸。
出火元は、尾崎地内でした。この小野屋の隣まで延焼してきたといいます。折からの強風にあおられ、火の付いたふとんが空高く舞い上がり、板葺きの屋根に次から次へと燃え移っていきました。
風上であった小野屋は幸運にも延焼をのがれました。この小野屋は今も語り継がれる北町の大火を生き延びた、貴重な建物なのです。



玄関からの内部は当時からの面影をそのまま保っています。
現在郡上八幡の町屋を再生し、市外からの移住者にあっせんする取り組みを「チームまちや」が精力的にされています。
ここに住まわれている施主様は、この事業を利用して郡上八幡に移住して来られました。

今回カネサダ番匠では、外壁の再生と、施主様の仕事部屋・事務所のリフォームをさせていただきました。



玄関には当時からの大戸を再利用して取り付けました。
旧城下町への入り口でもあり、現在でも道路を抜けてくると真正面にまず目に入る位置にありますので、郡上八幡にふさわしい外観に配慮しました。
通りすがりの方からは、「ここって、喫茶店になるんですか?」ってよく聞かれました。懐かしさの中にもおしゃれ感があるでしょう!



大戸は中にも大きく開くんです。金物も当時のものを再利用しています。



郡上八幡、特に南町には立派な格子を備えた家が数多く残っています。
当時の雰囲気を醸し出す格子を、新たに取り付けたサッシ窓の外に配しました。これも私が作ったんですよ!
ちなみに外壁に塗ってあるのはベンガラです。ベンガラの赤に松煙の黒を混ぜると、このような色合いも出せるんです。



事務所のカウンターは郡上産の杉、フローリングは飛騨産の唐松(カラマツ)、壁板は岐阜県産の杉の赤身板です。
木の香りがいっぱいの、明るい部屋に生まれ変わりました。



施主である岡本よりたかさんは、ここでシードバンク「たねのがっこう」を開かれてます。
野菜の種を保管・陳列する棚も手づくりです。郡上産の杉と桧です。

次回はリフォーム工事の様子を紹介しますね。
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登り梁の家 その3

2018年08月13日 | カネサダ番匠が作った家


「登り梁の家」の建て方風景を紹介します。
この頃カメラの調子が悪くてピンボケの写真がありますが、ご了承ください。



大黒柱と足固めです。
今回は建物が30坪、梁行が5.4メートルで2階建てということもあり、耐力を補足する意味合いで足固めを入れました。
建設地は愛知県ですので、確認申請は通常の方法で行いました。木構造の耐力は壁量計算で確保しています。



大黒柱を足固めで四方からしっかりと固めます。部材と部材は長ほぞを柱に貫通させ、車知栓(シャチセン)と胴栓(ドウセン)を打ってしっかりと締め付けます。



胴差しと通し柱も同様の方法、長ほぞ差しに車知栓・胴栓打ちで引き合わせます。
通し柱の外側に短い部材が取りついてますよね。これは小庇の棟木や腕木となります。伝統構法の場合、胴差しと通し柱の取り合い部分をどのように納めるかは一つのポイントです。カネサダ番匠では外壁側に小庇を必ず設けます。上記の付棟木や腕木を胴差しとの引き合い(継手)に利用するのです。
昔の建物には例外なく腰庇が取りついています。構造上の補強という意味もありますが、雨水の侵入対策でもあります。



ここは玄関上の通し柱です。長ほぞのそれぞれが付棟木や腕木からの造り出しで、胴差しと引き合わせます。



2階床梁は7.5メートルの一本ものです。胴差しや中央の大梁に渡り腮(ワタリアゴ)で載せ掛けます。
左側の跳ね出し部分はバルコニーに利用します。



二階の大屋根の地棟(ジムネ)です。地棟と受け梁(曲がった梁)は地松です。



地棟の上に登り梁を載せます。登り梁と登り梁を組み合わせる部分は鯖の尾(サバノオ)といいます。
鯖の尾にはカシの木で作った30ミリ角の太い栓を2本打って、しっかりと固定します。



屋根裏から見上げた地棟と登り梁です。



軒先は1.5メートルの出です。斜めの部材が登り梁の端で、ここに出桁(ダシゲタ)を載せてから垂木を打つことで、大きな軒の出が確保できます。

以上の部材は手刻みで、墨付け・刻みは全て大工の私と若い衆でやりました。
加工方法では、手刻みがいいのか?プレカットがいいのか?
工法・構法では在来工法がいいのか?伝統構法がいいのか?ハウスメーカーのプレファブがいいのか?
その他造作・内装のことまで考えると、選択肢はたくさんあります。それぞれに一長一短がありますので、簡単には甲乙つけがたいです。

カネサダ番匠では、毎回いろんな方法を考え、最適な選択を心がけます。
一貫した思いとしては、木のいのち・特性を最大限に生かした計画・構造を考えること。建物の寿命が長いものであること(軒を出すことは特に考えます)。それらのことが住まわれる家族にとっても住み継ぐ、という思いにつながっていき、さらに環境にとっても持続性あるものにつながっていけば、私たちの本望です。

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太陽熱温水器のススメ

2018年08月11日 | エネルギーのこと
今年の夏は格別の暑さですね。
郡上八幡も何度か全国トップレベルを記録しました。夏の最高気温が40度、冬の最低気温がマイナス10度、その差は50度です。
いったい地球上にこれだけの温度差のある地域ってあるのでしょうか?



さて、これだけ暑くても、我が家は太陽・お日様には、ただただ感謝なのです。



我が家の屋根に乗っかっているのは、太陽熱温水器です。読んで字のごとく、太陽の熱で温水を作り出す器械です。
じつはこの器械、かなり優れものでして、水道管をつなげてあるだけのものですが、よっぽどのことがない限り、ほぼメンテナンスフリーです。

夏には手で触れないほどの熱いお湯が出てきます。晴天であれば、春~夏~秋にかけてお風呂のお湯はほぼまかなえます。
曇りの日や気温・水温の低い季節は、マキボイラーでお湯を沸かします。つまり我が家の給湯費はタダなのです。



ただ、全自動をご希望の方には不向きです(但し、我が家は自然落下方式です)。カランをごらんください。水栓が4つあるのが分かりますか?
慣れれば簡単な操作なのですが、分からない人が操作しようと思ってもちんぷんかんぷんです。
温度調整は手でやります。そう、自分でころあいの温度を手で確かめながら、お湯と水を混ぜます。
その日・季節・水温によって、長崎カステラの職人さん並みの調節をするのです。



水温が低ければ、マキボイラーの登場です。これはイソライトという会社のマキボイラーですが、超優れものです。
もう少し寒くなってきたら、ご紹介しますね。

私はそんなファジーな器械はご免だ!という方もご安心ください。お盆明けに、ボイラーに直結して全自動で使える太陽熱温水器(直圧式)の設置を郡上市内のお施主さん宅で行います。またレポートしますね!

これほどまでに「暑い、アツイ!」と言いながら過ごしているのに、お風呂のお湯をガスや灯油や電気で沸かしているのって、何かもったいなくないですか?私たちは給湯における日本のエネルギー事情の改善の救世主は、太陽熱温水器ではないか、と真剣に思っています。
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登り梁の家 その2

2018年08月06日 | カネサダ番匠が作った家


登り梁の家の内部紹介です。

「登り梁の家」
設計・施工 カネサダ番匠
工事期間 2008年8月~2009年6月
工法・構造 木組みによる伝統的な工法 手刻み 小屋組は登り梁 竹小舞による土壁
規模 2階建て 床面積 30坪
住み手 30歳台夫婦 子供3人(三人姉妹)



梁間が3間(5.4メートル)ですので、南側いっぱいに居間をとってます。
中央にあるのはヒノキの大黒柱、太さ18センチ角です。



柱や梁などの構造部材はすべて化粧です(木の部材が見えることを化粧あらわしといいます)。
ベンチ兼収納は幅45センチの杉の一枚板。フローリングや天井板は杉の赤身材です。天然乾燥の杉の赤身材は色艶も良く、とてもいい香りがします。
全ての材木が岐阜県産材で、天然乾燥材です。自然に乾かした木材は、乾燥途中にひび割れが入ります。しかし強度にはほとんど影響はありません。
壁は土壁、真壁仕上です。郡上の左官屋さんの手仕事です。



玄関からの居間への入り口には、杉の格子戸。左手の南側サッシからは、光がたっぷり入ります。収納式の紙障子を引き出すことができます。
これも郡上八幡の建具屋さんによる手仕事です。



居間からの階段。部材はすべてヒノキです。手すりも杉材で手作りです。よーく見てください!手すり取り付けの台座も木で手作りですよ!
階段ホールはよく手が触れますし、メンテナンスも考えてクロス貼りにしてあります。



2階の子供部屋は将来の成長に合わせて間仕切りができるようにしています。
中央部の屋根の空間を使ってロフトがあります。



ロフトです。2階の大屋根を支える地棟には、地松(国産の松を、じまつといいます)を使い、地松を受ける二重梁には松の根元の曲がった部分を利用しています。2階の天井は斜天井で杉の赤身板が張ってあり、空間を有効に使ってます。

奥様は台所には特にこだわりがなく、「人目に触れずに台所仕事がしたい」とのことですので、今回は人目に触れずにおきますね。
玄関を入ってから、家中が木の香りに包まれた、素敵なおうちですよ。
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お母さんの大きな蛇の目

2018年08月05日 | 木構造のこと
前回の「千年の釘にいどむ」を読まれた方は、「古建築や伝統建築では釘を一本も使わないんじゃないの?」と思われたのではないですか?

昔からの日本の建築では、神社仏閣であれ、書院造りであれ、住宅であっても軸組(柱や梁などの、骨組みとなる部材)を組上げる際には釘は一本も使いません。木と木を加工して組み合わせることで、立ち上げていきます。この方法が木造建築にとって一番木の特性を生かすことができ、建物を長持ちさせることができるのを、日本の大工(古くは番匠といいました。今でも会津では番匠と呼ぶんですよ)はよく知っていたんです。

ではここで、子供たちに考えてもらったクイズをどうぞ。

Q6 昔の建築に釘は使われていないっていうよね?では白鷹さんの釘を千年の建物に使う理由は何でしょうか?

 1 地震に強くするため
 2 火事を防ぐため
 3 雨や風から守るため



この資料をみて答えてください。青い部材を取り付けるために白鷹さんの釘を使うんです。

建物の寿命を延ばすためには、日本の特徴的な気候による理由によって、もう一工夫が必要でした。
それは、雨から建物を守るために、屋根(軒の出)を大きくすることでした。日本の気候は多雨多湿ですから、いかに木材を腐朽から守るかを考えなくてはいけません。                            
薬師寺西塔の屋根の軒の出は、柱から何と4.5mです!(図面では側柱からの寸法です)                                                                     

そうですよね。正解は3 雨や風から守るため です。
具体的には、地垂木(じだるき)、飛檐垂木(ひえんだるき)、木負(きおい)、茅負(かやおい)、瓦座(かわらざ)といった部材を取り付けるために、釘を使うのです。



これはカネサダ番匠が建てた家ですが、礎石から石場建てで立ち上げ、屋根の母屋(もや)・棟木(むなぎ)を組み上げるまでには、釘やボルトを一本も使ってません。木を組み合わせ、木の栓や楔(くさび)を使って、木だけで架構を成り立たせます。



屋根の垂木を打つのに、初めて釘を使用します。



この家でも大屋根の軒の出は1.8メートルあるんですよ。



家の屋根は、雨の中で傘をさしているのをイメージすると分かりやすいです。
傘をさしていると、ほとんど足元は濡れませんよね。強い風が吹くと、もちろん濡れます。しかし、雨が止んでさわやかな風が吹いて来ると、そのうち乾いてしまいます。

「アメフリ」という童謡があります。

アメアメ フレフレ カアサンガ ジャノメ デ オムカイ ウレシイナ
ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン

柳の根方でずぶ濡れになって泣いている友達に、ボクは傘を貸してあげるんです。
そして、ボクは最後に、こう歌うんです。

ボクナラ イインダ カアサンノ オオキナ ジャノメ ニ ハイッテク
ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン

軒の出の深い家は、お母さんの大きな蛇の目に入っているような、安心感があります。                                        
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千年の釘にいどむ

2018年08月02日 | 社会での活動のこと
長女が小学校5年生の時のこと。
ふと国語の教科書をパラパラとめくると、「千年の釘にいどむ」という文章がありました。
土佐鍛冶の白鷹幸伯(しらたかゆきのり)さんを紹介するものです。
白鷹さんは薬師寺を再建した宮大工の西岡常一棟梁とともに古代の釘を再現し、2万本以上の釘を作り、薬師寺再建に貢献された方です。



実は、私はひょんなことで、白鷹さんが作られた釘を持っているんです。
「この釘をどうやって打つか知ってる?じゃあ、お父ちゃんが学校でみんなの前で打って見せてあげる!」
と、娘の学校の5年生クラスで始めた「千年の釘にいどむ」授業は、今年で4年目を迎えました。

授業は2時限でやります。クイズを十問出しながら、木の材種、寸法のはなし、製鉄の歴史、仏教の伝来、薬師寺の塔のはなし、などに触れていきます。
クイズの合間には、子供たちに釘を打ってもらいます。1寸釘(約3センチ)から打ってもらいますが、2寸釘ですら打つのがやっとこさ、3寸釘を打てる子供はまずいません。

写真は上から、鉛筆、洋釘(いわゆる普通の釘、といっても普通に打てる代物ではありません。長さ25センチ)、白鷹さんの釘(洋釘に対して特に和釘といいます。長さ8寸)。一番下は何だと思いますか?これは鐔鑿(つばのみ)という道具です。刀に似てるでしょう?そう、つばぜり合いの「つば」です。この、つばのみが無いと、白鷹さんの釘は打てないんです。どうやるの、ですって?それを子供たちに見てもらうんです!
この和釘を打つ作業を子供たちの前で実演し、子供たちにも実際に道具を持って使ってもらい、みんなで白鷹さんの釘を打ちます。



今年も子供たちが感想文を寄せてくれました。
最初は緊張してじっとしていた子供たちが、クイズに答え、釘を打つたびに笑顔になり、白鷹さんの釘を打つ作業のときには順番待ちになる勢いになります。その驚きと感動は感想文を読むとストレートに伝わってきます。

授業の最後には、こんなメッセージを子供たちに伝えます。
「どうでしたか?白鷹さんの釘を自分で打ってみた感想はいかがでしたか?今日世界地図を使ってお話ししたように、私たちの現代の生活や技術は様々な国の文化や歴史・人々のおかげで成り立っています。そのすべてに感謝の心、おかげさまの心を持ちましょう。そうすれば、学校の友達をはじめ全ての人々と仲良くできるはずです。そして、木の文化・木を使う大切さも忘れないでください。それが日本の国土・文化を守ることにつながります。今日は手伝ってくださって、本当にありがとうございました。」

このメッセージはカネサダ番匠の仕事に対する思いに他なりません。
とりあえず、末っ子のボウヤが来春1年生に入学しますが、彼が5年生になるまでは、がんばります!
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Do it myself!

2010年02月26日 | 山のこと
我が家には、猫の額ほどですが山があります。
ちょうど写真の中央部に杉や桧の植林に挟まれる格好で、明るい帯が見えるでしょう。
そこがウチの猫の額ニャンです。



美濃や飛騨では、杉や桧の植林木を「黒木(くろき)」、天然林である雑木類を「金木(かなぎ)」と呼びます。
周囲の山主が次々と黒木の植林を進め、その管理を森林公社などへ委託する中で、我が家では金木の山も守り続けてきたのです。



郡上あたりの天然林は、「樅栂山(もみつがやま)」といわれるように、樅、栂、松が中心を占めています。3種共にマツ科の木です。
悲しいことに、郡上でも南部の美並町や八幡町、和良町などでは松くい虫のために松はほぼ全滅してしまいました。

我が家の金木山も例外ではありませんが、どっこい樅や栂は樹齢120年を超える大きな木がまだまだ健在です。



2年前から少しづつ栂の木を切り出してきました。今年カネサダ番匠で取り組んでいる出登り造りの家に使うためです。

栂の木を使った家は、昔は「栂普請(つがぶしん)」と言われたように、貴重がられました。栂は木の目が細かく、木肌が美しくて丈夫なのです。
・・・うちの栂もスゴイでしょう、と自慢したいのは山々なのですが、くねくねの木ばかりで、太くてまっすぐな差し鴨居が取れるような木はどうも無さそうです・・・



木の皮だけを一見すると、樅、栂、松の判別はしにくいのですが、葉っぱを見ればすぐ分かります。
左が樅(みなさんよくご存知のクリスマスツリーです)、右が栂です。



我が家は代々が山師でした。
ご先祖様に恥ずかしくないよう、木の伐採や林道への運び出し、運搬なども全て家族の者や親戚の手でやってしまいました。
但し、方法はいわゆる我流です。父は父なりの我流、私なんかは昔使った岩登り用のカラビナやシュリンゲなんかを持ち出して来たり・・・ああでもない、こうでもないと大騒ぎしながら、最後には栂の丸太約30本が無事に作事場までやって来てくれました。



さあ、これらの栂の丸太との格闘が始まろうとしています。
とはいっても私は大工仕事の中でも、丸太仕事が一番好きです。どうやって組もうか?なんて考えるのも骨は折れますが楽しいものですよ。

カネサダ家の「できることは自分でやってみる」の精神を大切にしつつ、無事上棟目指して頑張ります!


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登り梁の家 その1

2010年02月14日 | カネサダ番匠が作った家
私たちの作った家を写真家の相原功さんに撮影していただく幸運に恵まれましたので、今までの作品ごとに紹介していきたいと思います。
私たちなりの家作りの特徴の説明と共に、どさくさに紛れて私が撮った写真も混ぜておきましたので、どうぞご注意ください・・



「登り梁の家」
設計・施工 カネサダ番匠
工事期間 2008年8月~2009年6月
工法・構造 木組みによる伝統的な工法 小屋組は登り梁 竹小舞による土壁
規模 2階建て 床面積 30坪
住み手 30歳台夫婦 子供3人(三人姉妹)



私たちはいつも、屋根の軒を深く出す(約1.5m)ことを工夫しています。
桁よりさらに外にある出桁(だしげた)で深い軒を支えています。
屋根はその家の姿を映し出す大きな要素です。建物は日本の風景に馴染む佇まいであって欲しいです。

深い軒は風雨から建物を守ります。少々の雨では外壁や犬走りに雨がかかることはありません。
また夏には陽射しを遮り、風を呼び込みます。



外壁は可能であれば杉板張りや漆喰塗りにします。暖かみが出ますものね。
13.5ミリの杉板を使うのでかなり長持ちはしますが、張り替えがし易い工夫もしておきます。

外壁のみに限りませんが、悪くなったところに手を入れられるようにしておくことこそ耐久性を上げることに繋がります。



屋根の登り梁の交叉するところは、「鯖組み(さばぐみ)」といいます。何だか鯖のしっぽを想像させますね。
お互いを組んで、2本の30ミリの樫の込み栓でがっちりと結合します。
登り梁を使った合掌はもともと雪の多い、屋根に大きな荷重のかかる地方に多く見られます。

「出登り造り」は、出桁を船がい(せんがい)で受けるのではなく、登り梁で受けます。
登り梁を使う技法は飛騨や美濃地方に広く見られますが、「出登り」にするのは郡上特有のものです。



土台の上に、もう一段足固め(あしがため)という部材が入っています。
足固めは昔の建物には、ごく当たり前に入っていましたが現代では消え去ってしまいました。

つまり、足固めのすぐ下までコンクリートの基礎が立ち上がって、昔に「足固め」と呼ばれていた部材はどこかへ押しやられてしまい、この位置に居座っているのが現代の「土台」と呼ばれているものです。

同じ位置にはあるものの、土台と足固めの働きはかなり違います。というより、柱の働き方が大きく変わってきます。
現代の土台の上では、柱は鉛直荷重(家の自重など)を基礎に伝えるだけの役目です。しかし、昔の足固めが柱に差さっていると、鉛直荷重のみならず柱にかかる水平荷重(地震力など)をも柱相互に伝える役目を果たしていました。足固めは、柱が曲げられることに抵抗しようとする力を引き出す重要な部材であったのです。

現代の土台は建物の水平荷重、つまり地震力を建物から基礎や地盤に伝える重要な働きをしているのですが、ここでは足固めとの違いを説明するためにこういう表現をしました。土台の悪口を言いたいのではなく、現代の家の柱がただ鉛直荷重をささえるためだけの部材になってしまったことを言いたいのです。
私たちは木そのものが持つ力を最大限発揮できる木組みをさがしていきたいと思っています。


さて、次回の「登り梁の家 その2」では内部をご紹介しますね。

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岐阜県の民家と言えば・・

2010年02月07日 | 家のこと
飛騨、美濃地方には私たちの心を捉えて離さない家々があります。





飛騨の民家と言えば、世界中の人びとが白川郷の合掌造りを思い浮かべるでしょう。
合掌造りは極めて屋根勾配のきつい茅葺屋根なのですが、一方で極めて屋根勾配のゆるい板葺石置屋根の家が存在します。





これらの家の分布はかなり広範囲です。
東西には北アルプスの麓の旧上宝村から高山、旧清見村、旧河合村にかけて、南北には旧高根村、下呂、旧金山町にかけて広がり、その南限が私たちの住む郡上にまで及んでいます。

それぞれの村では独自の構造や意匠が発達していて、どれも目を見張るものなのですが、基本的な建て方はほぼ共通しています。
まず、屋根の勾配が緩いこと。茅葺屋根の矩勾配(かねこうばい、45°以上)、瓦屋根の4~5寸勾配(25°前後)に対して2.5寸~3.2寸勾配(15°前後)とかなり緩くなっています。屋根を支えるための登り梁がたくさん掛かっています。

勾配が緩いのはどうしてか分かりますか?葺き板が風で飛んでいかない様に石を重しに載せるのですが、勾配がきついと石が屋根から転げ落ちてしまうからです。また、雪おろしの時の安全のためでもあります。





2階建てですが、ほとんどがツン建ち(つんだち、総二階のこと)です。そして軒の出がかなり深い(1.5メートル前後)のですが、雪や雨から建物を守るためです。深い軒は夏には風を呼び込む役割も果たしているんですよ。

2階部分は低いですよね。これはその空間を養蚕に利用したためです。もともとは平屋建て(1階建て)であったのが、養蚕が江戸時代後半に普及するにつれ、2階部分が発達していったものです。日本の民家(町屋は別として)は人が住むために2階に部屋を設けた例は少なかったのです。イロリの煙にいぶされていると燻製になってしまいますしね・・。





いろいろな家を見て歩いてみると、個々の家で間取りや規模の違いこそあれ、構造や意匠は全体的あるいは地域ごとに整然と共通性を持っています。それは屋根の葺き材や壁土や材木といった素材選びにも同じことが言えます。
そして地域の気候風土や当時の人びとの生活そのものに直結していたいう当然のことを今改めて知って、家づくりの何たるかに思いを馳せています。

さて、私たちの住む郡上にもこれらの家々が数多く残っているのですが、郡上だけにしか見られない特長を備えており、わたしたちはこの郡上ならではの造りに魅入られています。
出登り造りと呼ばれるのですが、カネサダ番匠では今年この家を建てようとしています。順次これらのことは紹介していきますね。おたのしみに~。




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