カネサダ番匠ふたり歩記

私たちは、大工一人、設計士一人の木造建築ユニットです。日々の仕事や木材、住まいへの思いを記していきます。

ニシン釜御殿

2018年11月28日 | 街並みのこと
北海道では江戸時代から昭和初期にかけて、ニシンの漁獲量が大変多かったので食糧としてはもちろんのこと、ニシン油やニシンカスと呼ばれる肥料づくりが盛んでした。ニシンカスは栄養価が高いことから重宝され、北前船で全国各地へ運ばれました。

当時の北海道の豪商は、「ニシン御殿」と呼ばれる立派な家を建てたのですが、遥か遠く離れた富山県高岡市では「ニシン釜御殿」が多く作られます。その交流の歴史をご紹介しましょう。



富山県高岡市金屋町(カナヤマチ)は国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。略して重伝建、または伝建地区ともいいます。
私の住む岐阜県郡上市の中心部、郡上八幡北町(グジョウハチマンキタマチ)も伝建地区に指定されています。実は金屋町と郡上八幡北町が伝建地区に指定されたのは、平成24年12月28日で同じ日です。誕生日が同じなんです。

伝建地区は平成30年(2018年)4月1日現在、全国に117地区あります。保存地区は特徴により大きな分類があり、集落、宿場の町並み、港と結びついた町並み、商家の町並み、産業と結びついた町並み、社寺を中心とした町並み、茶屋の町並み、武家を中心とした町並み、があります。郡上八幡北町は城下町として、そして今日ご紹介する高岡市金屋町は鋳物師町(イモジマチ)として指定されています。

それでは、金屋町をご案内いたしましょう。



見事な登り梁の家が軒を連ねています。登り梁構造ですから非常に軒が深く、出は1.8メートル程もあります。
金屋町の家々は、ほぼ明治以後の建物です。やはりこれだけ立派な建物は幕藩体制下ではおいそれと許されるものではなかったでしょう。

ほとんどのお宅は通りに面した店舗部分を除いては、今でも住居に使われていますので、なかなか中を覗き見ることはできませんが、かなり贅沢な造作や調度品がしつらえてあるとのことです。「ウナギの寝床」と呼ばれるように細長い土地に、正面道路に面した主屋から立派な中庭を挟んで奥には背面道路にかけて2,3棟の土蔵があり、鋳物を作る作業場が併設してある家もあり、現役で鋳物製作に使われているところもあります。



金屋町の主屋の特徴ですが、化粧貫に漆喰の真壁塗り(シンカベヌリ・柱を見せて仕上げる塗り方)です。大屋根(2階の屋根)に登り梁が掛かっていますが、これが太いんです。巾は5寸(15センチ)以上、成は9寸(27センチ)程はあります。登り梁のすぐ下に水平の部材が見えるでしょう。これは桁に見えますが、じつは長押(ナゲシ・格の高い建物や部屋に意匠的にとりつけられる部材)なんです。
分厚い板が2重になった腰庇があり、その上に乗っているのは笄(コウガイ)と呼ばれる雪止めの部材です。

柱の上にすぐ登り梁が乗っかっていますよね。その登り梁の上に桁を乗せる、こういう構造を折置(オリオキ)といいます。逆に柱の上に桁を乗せて、それから梁を掛ける構造を京呂(キョウロ)といいます。現在の木造住宅はほとんどが京呂組みです。この京呂は柱の位置に関係なく梁を掛けれますので、間取りの自由度が高く、それがために現在のほとんどの住宅に採用されているのですが、実は構造的に弱いという欠陥をもっています。そのために現在の住宅ではボルトを併用せざるを得なくなるのですが、この話はまたの機会にいたしましょう。

折置組みの特徴はなんといっても、規則性。柱を規則正しく配置し、梁を規則正しく架ける。一軒の家がその規則性を持ち、通りに面してさらに家々が規則正しく立ち並ぶ、その様がいかにも日本的な景色と風景を作り出すんです。昔の木造建築は全てが折置組です。だから日本の建築や町並みは美しいんです。構造的にも強く、規則性・統一性を生み出す。英語で言うと、ワンパターンになってしまいますが・・そんな安っぽい言葉では言い表せない美しさですよね。だから私も断然、折置きなんです。



何故こんなに立派な建物が多いのか?当時の鋳物師(イモジ)が何故これほどの財力を有したのかを探るには、歴史をふり帰ってみましょう。

現在の高岡の町の骨格は、慶長14年(1609年)に加賀前田家2代当主前田利長が高岡に城を築き、城下町を開いたことが始まりです。
富山県なのに、加賀前田家?今の富山県は当時は加賀藩領だったんです。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで東軍の徳川家康が勝利を収めます。西軍の豊臣家は慶長19年(1614年)の大阪冬の陣、慶長20年の大阪夏の陣まで続くのですが、江戸の徳川家に対して、大阪の豊臣家と、二重公儀体制というのが続きます。

2代前田利長は関ヶ原の戦い後は本城である金沢城に居たのですが、徳川家の目を恐れて慶長10年(1605年)に富山城に隠居してしまいます。しかし4年後の慶長14年(1609年)に富山城が焼けてしまいます。ぼやぼやしていると徳川家につぶされかねません。前田利長は慌てて高岡城を作ります。東京ドーム4.5個分の敷地に、高岡城その他の建物を土木工事も含めて、わずか6ヶ月の突貫で作ったというのですから、その慌てぶりがうかがえます。

高岡の産業の振興のために、前田利長は慶長16年(1611年)7人の鋳物師を呼び寄せ、拝領地を与え鋳物づくりに専念させます。これが高岡の鋳物師の発祥です。利長は金屋町の鋳物師衆に特権を与えます。税金や諸役の免除、専売権、全国の関所を通行(行商販売)できる自由などです。これらの特権は平安時代以降に天皇家によって全国の鋳物師衆に与えられていた特権ですが、江戸時代以降は各藩はその特権を取り上げてしまいます。唯一加賀前田藩はそれをしませんでした。そのために高岡では鋳物業が発展し、現在に至るまで日本の鋳物生産の中心であり続けるのです。

金屋町の鋳物師衆は江戸時代初期は鍋・釜・鉄瓶、城門や橋の鉄製金具や釘等の「鉄鋳物」を作ります。江戸中期頃からは梵鐘(釣鐘)や灯篭といった「銅鋳物」を作り、江戸後期にはそれらが香炉・花瓶・火鉢・仏具等、文化的な意匠に富んだものへと発展し北前船に運ばれ全国へ販路を拡大します。



明治期から昭和初期にかけて、金屋町鋳物師衆にとっての最大ヒット商品が生まれます。それがこのニシン釜なんです。高岡産のニシン釜は薄くて軽量なのに高熱に強く、当時ニシン漁が盛んであった北海道で大人気で飛ぶように売れたのです(水揚げしたニシンを加工するのにまず茹でる必要があったのです)。このニシン釜を北海道に運んだのは北前船で、そのニシン釜で作ったニシンカスを全国に運んだのも北前船だったのです。
このニシン釜、ゆうに1メートルを超える大きさなんです!

まあもちろんニシン釜だけのおかげではないでしょうが、江戸時代を通して発展した鋳物業によって金屋町の鋳物師衆は相当な財力を得たのです。
最後に当時の鋳物師が地金を溶かす時に「たたら」と呼ばれる大きな「ふいご」を足で踏む時に歌った「やがえふ」と言われる弥栄節を紹介します。

 河内丹南鋳物の起こり
 (ヤガエー)
 今じゃ高岡金屋町エー
 (エンヤシャ ヤッシャイ)
 今じゃ高岡金屋町エー
 (エンヤシャ ヤッシャイ)

 火の粉吹き出すあの火の下に
 いとし主さんタタラ踏むエー
 いとし主さんタタラ踏むエー

 タタラ踏み踏みやがえふ唄うや
 鉄も湯となる釜となるエー
 鉄も湯となる釜となるエー

 めでためでたの鍋宮様よ
 鋳物栄えて世も映えるエー
 鋳物栄えて世も映えるエー

これで今日のお話しはおしまいです。
金屋町にこられー!まっとっちゃー!
コメント

郡上に伝統構法で登り梁の家を建てる その4

2018年11月26日 | カネサダ番匠が作った家


そろそろ建前のご紹介を、と思うのですが、その前に車知栓(シャチセン)の話をさせてください。



伝統的な継手(ツギテ)に車知継ぎ(シャチツギ)というのがあります。
これはホゾの部分に車知栓を打って、お互いの部材を引きつけ、継ぐものです。

写真の車知栓は菱形ですよね。これは関西型です。では関東型は?というと長方形です。どちらがいいの?とは言えませんが、関西型は材の墨つけや刻みは楽ですが、車知栓を菱に作らないといけませんから(もちろん自分で作ります)、少し手間がかかります。一方関東型は墨つけと刻みは少し手間がかかりますが、車知栓を作るのは長方形ですから楽です。ちなみに岐阜県では関西型を使います。

車知栓の語源については、ホゾに対して斜めに打つので「斜置(シャチ)」とも、串(サシ)の転訛とも言われます。車地、車知、鯱、などと書きます。金沢地方では「しの」とも呼ぶそうですが、岐阜でもそう言う人がいます。

この車知栓と車知継ですが、構造実験などで引っ張り試験をした際にあっさりと壊れてしまいます。
これをもって「車知栓など古い時代の弱いものだ!伝統構法がいい、などと息まくのは時代遅れだ!」ともっぱら肩身のせまい存在に押しやられてしまいます。

いいえ、全然違うのです。車知がどれほどすばらしいもので、とんでもない力を秘めているのかを、ご説明いたしましょう。

トップの写真をもう一度ご覧ください。伝統的な構法では鴨居差し(カモイザシ)とも言われるように、上から胴差し(ドウザシ)、差し鴨居(サシカモイ)、足固め(根差し・ネザシ、とも)の3丁の部材(クレーンで吊っている部分)を同時に差していかなければなりません。今ならクレーンがありますが、昔はほぼ人力ですよね・・こんな重たい塊を落っことそうものなら大変なことになります。

ですから、組む順番を、常にカブセにして組んでいきます。写真では通し柱から長ホゾが突き出しているのが分かりますか?この長ホゾに次の部材をかぶせるように組んでいくのです。そうすれば、部材が落下することはあり得なくなります。



下から見上げると、こういう状態になります。これは組みあがった状態ですから、きちんとくっついていますが、建前の時は完全にはくっついていません。ここで、車知の出番です。胴差しや鴨居をはさむ柱と柱の両側から、掛矢(カケヤ・大きな木槌)で声を合わせてドーン!ドーン!と叩きながら同時に車知栓を打っていきます。部材が少しでも引き寄せあってると、車知が入っていくのが打ちながらの手の感覚で分かります。実はびっくりするぐらい引き寄せます。車知は何のために打つのかというと、部材を水平に引き寄せるため、この一点です。

ですから、引き寄せた後に、部材が離れないようにもう一本の栓を打ちます。2枚目、3枚目の写真にある、横から打ってある長方形の込栓、これを特に胴栓と呼びます。この胴栓を打つことは車知継ぎにおいては一番重要なことです。胴栓がないと、鎌継ぎと同じようなもので、あっさり壊れてしまいます。胴栓を打つと、例えば追っ掛け大栓継ぎ(継手としては一番強い部類)と同じくらいの強度が出ます。実験では6トンの荷重をかけてやっと壊れたくらいです。



さて、ちなみに差し鴨居が3方や4方から差さる場合、溝が突いてあるので下から車知が打てない場合があります。しかし直交する部材の双方に上端から車知栓を打つことは不可能です。どちらかの長ホゾが上打ちで、もう一方が下打ちにならないといけないからです。



そんな場合には「眼鏡ホゾ」を使います。一方のホゾに横穴を通してもう一方のホゾを差し、双方とも同じ方向から車知を打てるようにします。



このように様々な工夫をしながら、車知栓、胴栓、端栓(ハナセン)、込栓などを駆使しながら、家を組み上げていくのです。



車知栓は構造部材だけではなく、造作部材にも威力を発揮します。これは出窓の框です。





直交する框のお互いに車知道(シャチミチ・車知を打ち込む穴)を彫っておきます。



框と柱を組み込みます。



そして内側から車知栓(この場合は関東型)を打ち込みます。



すると驚くほどぴったりと寄せ合ってくっつきます。ボルトなんて目じゃありません。

車知のことをいろいろと熱く語っているうちに時間が尽きてしまいました。
しかし、私は車知の復権を大きな声で叫びたいのです!建前の様子は次回以降にご紹介いたしますね~


お知らせ!
facebook始めました。「カネサダ番匠」で検索してみてください。ユーザーネームはもうすぐ設定します。
コメント

豪壮、かつ華麗

2018年11月22日 | 木構造のこと


最近、国宝の犬山城に通っています。耐震補強工事のお手伝いを微力ながらさせていただいています。郡上からは車で1時間20分程です。
岐阜県の各務原市から木曽川に掛かるライン大橋を渡ると犬山城はもう目の前。木曽川から急峻に立ち上がる断崖の上に建つ犬山城の景色は素晴らしいものです。



犬山城の創建は天文6年(1537年)です。織田信長の叔父にあたる織田与次郎信康によって造られました。
小牧長久手合戦(1584年)の際には、豊臣秀吉は大阪から12万余の大軍を率いてこの城に登り、小牧山に陣をしいた徳川家康と戦っています。
戦国時代には何代も城主が変わりますが、1600年の関ヶ原合戦の頃を中心に、城郭は整備されていきます。

現在の犬山城天守が建てられたのは慶長6年(1601年)です。
犬山城天守は3重4階の望楼型、と呼ばれるものです。(ちなみに姫路城も望楼型で、一方名古屋城や江戸城などは層塔型と呼ばれます。)
この天守は、下の2重2階の主屋がまず慶長6年に建てられ、のち元和6年(1620年)ごろ3重の3,4階を増築し、さらにその十数年後に唐破風(カラハフ、最上階の真下に見える曲線の形をした屋根の部分)の付加などが行われて、ほぼ今のような姿になりました。



これは天守2階に展示してある犬山城の構造模型です。ん?なんか下部の2重2階に比べて、3重の3,4階がやけに小さいと思いませんか?
これは上記のような造営の経過をたどった結果なんです。この天守は以前は室町時代の創建とされ、天守の古い形態の典型と考えられてきました。
しかし、昭和36年(1961年)から4年をかけて行われた解体修理によって、増築の過程が明らかとなったのです。大きな入母屋造(イリモヤズクリ)の上に望楼を載せた外観は、実は当初からの意図ではなかったのです。でも現在の姿は美しくて、かっこいいですよね。

私は木造のお城が大好きです。とにかく、木組みがシンプルでいて豪壮。かつ屋根の入母屋や唐破風は装飾的で華麗。この、構造の木組みの力強さがそのまま意匠にも生かされているのは、日本の木造建築の最大の特徴といってもいいでしょう。



見てください。これが以前に「郡上に伝統構法で登り梁の家を建てる その2」https://blog.goo.ne.jp/bansho1969/e/3ffddcb7daf5e5bb9717106205bf9364
でご紹介した、船櫂(セガイ)造りです。壁から梁(腕木)を跳ね出して、さらに出桁(ダシゲタ)を載せかけて、屋根の軒をうんと出しているでしょう。



お城の屋根には、例えばお寺の屋根に使われている桔木(ハネギ、てこの原理で屋根・小屋を支える部材。平安時代以降の社寺建築の屋根にはほぼこの桔木が使われています。)は入っていません。垂木(タルキ)だけで屋根を支えています。とにかく、垂木が太い!この屋根の掛けかたは法隆寺などでも同じです。



これは3階部分を支える梁組みです。写真だけでは分からないかもしれませんが、これもやっぱり太くて豪壮。力強いです。



2重の入母屋屋根の隅木部分です。丸太の曲がった部分をうまく使っていますね。

さて、話は戻りますが、犬山城は江戸時代に尾張藩の付家老、成瀬隼人正成が元和3年(1617年)に城主となってからは、成瀬家が代々受け継いで明治に至っています。
明治4年(1871年)9代目成瀬正肥のとき廃藩置県で廃城となり、櫓や城門などの、天守閣を除く建物はほとんど取り壊されてしまいます。
明治24年(1891年)の濃尾震災では天守閣の東南角の付櫓などがひどく壊れてしまいます。これを修理する条件で再び成瀬家所有の城となりました。

今現在でも犬山城は成瀬家のご子孫様の所有です(正式には財団法人犬山城白帝文庫の所有です)。
ですから、成瀬様の犬山城に対する愛着と、今回の耐震補強工事に対する思い入れには並々ならぬものが、おありのご様子です。

もし、工事期間中に城内でピンクのヘルメットをかぶったお方を見かけられたら、それはきっとご城主様です。


お知らせ!
最近facebookを始めました。まだまだ使い方に不慣れなのですが、「カネサダ番匠」で検索してみてください!
コメント

一円相の心

2018年11月14日 | カネサダ番匠が作った小作品


カネサダ番匠では、建築はもちろんなのですが、小作品もけっこう作らせていただきます。

三重県桑名市のお寺の老師様に「鉦鼓台(ショウコダイ)を作っていただけませんか?」と依頼されました。鉦(ショウ)とは銅鑼(ドラ)のことです。どういう形のものを、どういった材木で、いくらで、みたいな御指示は一切ありません。

それからというもの、ずっと頭の中で鉦鼓台のことを考え続けていました。
依頼を受けた老師様というのは、専光坊の霊雲軒禅月秀慧老師様です。実は私は霊雲軒老師様に座禅と念仏の指導を受けているのですが、次のお正月で18年目に入ろうとしています。

どれぐらいの日にちが過ぎたのでしょう、ふっと「一円相」だ!と思い立ちました。
一円相(イチエンソウ)の説明をするのは私では全然役不足なのですが、そもそも言葉では言い表せない仏教の真理をあらわしたもの、とでもいうのでしょうか?禅寺に行くと、〇(マル)、と描いた書が掲げられてあるのを見たことはありませんか?あれが一円相です。



作業の様子を見ていただきましょうか。

私は建築であれ、小作品であれ、まず原寸図を描いてみます。設計士さん(うちの所長など)からすると、「考えられない・・」というのですが、実は大工にとっては原寸図が一番考えやすいんです。形や大きさやバランスは原寸図を描かないことには分かりません(かなりアナログ思考なのです)。特に木と木を組む場合は、原寸図で継手や仕口を検討します。この原寸図で納めてしまえば(答えを出してしまえば)、現物の加工や組み立ては、ほぼ間違いなく納まります。



この時のために材木市で欅(ケヤキ)の古木(コボク、年数の経った木)を買って乾燥させてありました。
欅の古木は、いわゆる普通の欅とは、色も年輪の細かさも全然違います。樹齢は数百年でしょう。



一円相の部分は六つの部材を組み上げて円形に組み上げていきます。







継手はこのようになっています。継手部分に独鈷(ドッコ)を打って、お互いの部材を引き合わせます。写真の左にちょこんと立っているのが独鈷です。この独鈷、というのはもともとは仏具の独鈷に形が似ているので、ここから来た呼び名です。



台座の部分は丸のみ(彫刻のみ)を使って丁寧に仕上げます。中央部に背峯を作って、このようにとんがった形に削った部分を「鎬」(シノギ)といいます。まさに鎬を削る思いで腕を磨いていく所存です。



部材と部材を丁寧にすり合わせて組み上げていき、最後の仕上げには蜜蝋(ミツロウ)と荏油(エノアブラ、荏胡麻の油)をブレンドしたワックスを塗り込みます。欅の古木はこのワックスをかけると底光りしてきます。



銅鑼を掛けると完成です。原寸図通りに納まりました。

ある老師様の、一円相をうたった古歌にこういうのがあります。

 「この丸は月か団子か桶の輪か

  角の取れたる人の心ぞ」

18年間、霊雲軒老師様のご指導のもと、細々とではありますが座り続けています。今度のお正月にも恒例ですが、年越しで座りに行きます。
まだまだ光明は見えずにいます。それどころか、心は角ばってばかりで、毎日あれやこれやと問題がたくさん起きてきます。

気が短くて飽き性で、小さい頃から何を始めても三日坊主ばかりだった私が、続けられているのが大工(26年目)と座禅・念仏(18年目)、この二つです。
一円相の心を求めて、私の修行はまだまだ続くのです。勉励々々。

コメント

一番古い家が実は一番新しい家だった!

2018年11月03日 | 家のこと


「シロアリ様なのか?シロアリ野郎なのか?」で紹介した、郡上の登り梁の家で、柱の根継(ネツギ)作業を行っています。
シロアリによる被害のため、柱の足元が傷んでしまい、ひどいところでは4.5センチも高さが下がってしまっています。郡上市内でも雪の多い地区なので、冬場には建具が全く動かなくなってしまうとのこと。

明治時代に建てられた(約120年前)と思われるこの家は、石場建てです。ごらんのように大きな基礎石の上に柱が建っているのですが、この石の形をそっくり柱に写し取る作業が必要です。そのやりかたは昔と今でもほとんど変わりません。



これは「口引き(クチヒキ)」という道具です。板金屋さんに作ってもらったものですが、ステンレス板(銅板も可)を折り曲げ、先を少し曲げたタタミ針が溶接してあります。そこに鉛筆をはさんで石をなぞって形をベニヤ板に写し取っていきます。写真のように常に垂直に持った状態で使用するのがコツです。この作業を「ひかる」・「ひかりつけ」といいます。ベニヤ板の無い昔は、杉の薄板、特に白太(シラタ・中心部の赤身に対して外周部の白い部分をいいます)の薄板を使用しました。口引きは竹を松葉の形に割ったものに墨をつけて使用したのです。

ベニヤ板をひかった鉛筆の跡のとおりに、のみで形を加工し、それを柱の根継材にあてて墨をつけます。この作業を柱の4面に対して行います。あとは墨のとおりに柱を加工すればいいのですが、石は平らではないですよね。ふくらんでいたり、中にはへこんでいたりするものもあります。この柱のひかりつけで一番大切なことは、柱を石の形のとおりに加工するのはもちろんですが、柱の中心部を必ず石に密着させることです。どうしても柱の表面をくっつけるのに神経を使い、柱の中心部を少し余分にとりがちです。1本の柱にかかる荷重は何トンにもなります。最初は表面がぴったりとくっついていても、中心部に荷重がかかってないと時を経るにしたがって、柱が沈んだり、柱が割れてきてしまう恐れがあります。

では石の中心部のクセをどうやって取ってピタリと合わせていくのか?これぐらいは企業秘密にしておきましょうか。



あとはジャッキアップを慎重に行い、古い柱を切り取って、新しい根継材をはめ込みます。



これは切り取った古い柱です。左から杉(赤身)、栗、松です。材木の調達上の理由でしょうが、この3種の柱が使われています。



ひっくり返すとこうです。つまり、柱が石に接していた部分です。一概に樹種の違いだけではなく、場所の影響もあるでしょうが一番シロアリの被害がひどいのが松でした。栗は水には強いのですがシロアリに食べられています。全く変化がないのが杉でした。杉の赤身は全然食べられてません。杉の白太はダメです。材木全般にいえることですが、白太は水に弱く、カビや腐朽菌にも弱いものです。



さて、場面は変わって、これはカネサダ番匠で建てさせていただいたY様邸(郡上市内)です。全ての材木(杉・桧)が郡上市産材で、金物を使わない木組みの家です。





玄関のポーチ柱に自然石を据え、ひかりつけを行っています。
新築の場合はこのひかりつけの作業は少し難しくなってきます。前述の根継の場合は既に建っている柱に型板を当てて、ひかればいいので位置の特定がしやすく、加工する材も小さいものです。
しかし新築の場合は石を据えつけてからのひかりつけです。石から上は垂直に柱を建てなくてはいけませんし、上部の材との取り合い部が既に加工してあります。あっ、くっつかないからもう一回やりなおし、なんてやってると高さも合わなくなってきます。

この場合のひかりつけも、昔も今も変わりありません。実際に柱を現場の基礎石の上に垂直に建て、ひかりつけては柱を倒して加工し、また柱を垂直に建てて合わない部分をもう一度クセをとってと、気の遠くなる大変な作業が必要になります。型板を何とか垂直に立てて、ある程度のクセをとっておくことは可能です。しかし、最後には実際の柱をその場に建てて微調整しないと、まずぴたりとくっつかないのです。全ての柱のそれらの作業を終えてからでないと、建前に移れないのです。

この家のお施主様(Y様)の実家が近所にあります。郡上八幡の山奥の平家の落人伝説のある集落なのですが、やはり郡上の登り梁の家なので見せていただきに行きました。Y様のお父様の説明によると、そのお宅が建てられたのは幕末の慶応元年(西暦1865年)とのこと。150年前ではありませんか。へぇー!すごいじゃないですか!と驚いていると、「いや、同じ集落のあの家は実はこの辺でも一番古い家なんだよ」と教えて下さいました。では早速、とお伺いしました。



これがこの辺り(郡上八幡の旧相生村地域)で一番古いお宅の玄関先です。柱がこのように手斧(チョウナ)ハツリで仕上げてある家は、江戸時代以前です。明治以降も床下材や屋根材の加工には手斧は使い続けられましたが、柱はカンナ仕上げになってきます。このお宅は少なくとも築150年以上、180年近くになるかもしれません。

この地域の歴史にも詳しい、Y様のお父様のお話しによると、実はこの家は180年前の昔、「この辺りで最新の家が建った!」といって、近在やかなり遠くからも見学の人が多く訪れたというのです。
何が最新だったのかというと、「石の上に家を建てた」という理由でした。その当時のこの辺りの家は全て掘立柱、つまり地面に柱を埋めて建てるものだった、ということです。伊勢神宮も掘立柱です。日本古来の建物は全て掘立柱です。

石の上に建物を建てる技術ははるか昔の飛鳥時代(7世紀頃)に寺院建築とともに中国や朝鮮半島から伝わっています。その技術が郡上八幡の民家にまで採用されるようになるまで、実に1200年近くの時間を要しています。飛鳥時代に寺院建築を見た人々は度胆を抜かれたんでしょうが、江戸時代に石場建ての家を見た郡上八幡の人々も、きっと度胆を抜かれたんでしょうね。

ですから、郡上八幡に限って言えば、石場建てで民家が作られた期間は、江戸時代末期から昭和30年代頃までの、わずか120年間程だったということになります。本当に長持ちする家は、石場建てです。これしかありません。しかし、今の時代にその技術を使うには制約がたくさんあります。基礎へのコンクリートの使用は大前提となります。われわれカネサダ番匠も昔の技術も守りながら、今の時代に合った方法も考えていきたいと思っています。

しかし、驚きでしょう。この辺りで一番古い家が、実は当時は一番新しい家だったというのは!
コメント

郡上に伝統構法で登り梁の家を建てる その3

2018年11月01日 | カネサダ番匠が作った家


登り梁が規則正しく並ぶさまは小気味良く、壮観でもあります。これが郡上に特有の出登り造りです。大屋根の軒の出の長さは1.8メートルにもなります。
日本のような多雨多湿な気候の場合、軒を大きく出すことは、建物の寿命を延ばすためには必須の条件です。
風のない状態で雨が降った場合、建物が濡れることはほとんどありません。
夏は陽ざしをさえぎり、風を呼び込みます。冬には部屋の中にたっぷりと陽ざしが届きます。



郡上に建つ古くからの家に使用する登り梁といえば、例外なく松です。横架材、小屋梁に松材は最適です。
ただ、松は乾燥に伴ってねじれます。その分、組み上げれば強いということも言えますが、古い家の登り梁はねじれて母屋との取り合いが外れてしまっているものが多く見られます。決まって同じ方向(時計まわり)にねじれるのは育つ環境での太陽の動きによるものなのでしょうか?

現在松材の入手は困難になってきています。また、ねじれのことも考慮して、今回は桧材を使用することにしました。厚みは6寸・18センチです。今回の刻みと建前を通して分かったことなのですが、材木がそこそこに乾燥して、割れやねじれが止まるのに自然乾燥(天然乾燥)の場合は最低でも3年間はかかる、ということです。天然乾燥材と人工乾燥材の違いについては、またの機会にお話ししたいと思います。





登り梁は屋根の勾配なりに登っていって、棟木の下で左右を組み合わせます。同じ高さで鯖組み(サバグミ)にするもの、拝みにするもの(例えば破風のような継ぎ方です)、高さを違えて長ほぞをそれぞれ抜いて端栓(ハナセン)打ちにするもの、などいくつかの方法があります。



今回は独自の方法も考えてみました。長ホゾで端栓打ちにしつつ、お互いを車知栓(シャチセン)で引き合いにするという方法です。
上の写真の長ホゾの下に櫃(ヒツ・相手の登り梁のホゾが刺さる穴です)が掘ってあるのが分かりますか?この櫃にも車知道(シャチミチ・車知を打つ時にガイドとなる溝のこと)と胴栓(ドウセン・お互いを緊結させるために打つ込栓)の穴も開けておきます。いろんな種類の栓の名前が出てきましたね。あとで写真で説明します。



登り梁の長さは6メートルありますので、屋根の上で組むことはできません。工場で刻みの時に仮組みをしておきます。



このように組むのを、鯖組(サバグミ)にする、といいます。また、こうして造り出した部分を鯖の尾と呼びます。
開いている四角い穴ですが、小屋束から伸びた長ホゾで串刺しにします。



妻壁ではこのように鯖組みにします。鯖組み部分には1寸角(3センチ角)の込栓を打ちます。クロスした上部には棟木が載るのです。



実際の建物ではこのようになります。屋根の上に立っている大工さんに比べて、登り梁がかなり大きいのが分かりますか?建前の様子はまた別の機会に紹介しますね。
登り梁は太鼓挽き(タイコビキ・丸太の両側面を製材したもの)なので、形はまちまちなのですが、軒桁から先は統一するために同じ形の造り出しとします。こうすることで、一番最初の写真のように統一感・連続性のある意匠になります。



一番手前の組手ですが、右流れの登り梁が棟束(ムナズカ・棟木を受ける小屋束)に差さり、左に貫通し端栓で引いてから小屋束に込栓を打って固定します。



この部分を下から見上げます。左流れの登り梁が棟束に差さり、右に貫通してから端栓で引きます。写真では小屋束に込栓はまだ打ってありませんね。
この長ホゾの先は、右流れの登り梁の櫃(ヒツ)に入り、下から車知栓を打ちお互いを十分に引きつけてから、胴栓(右流れの登り梁側面に打ってある、長方形の込栓)を打ちます。こうやって何重にも栓を打つことによって、お互いの登り梁はしっかりと結びつき、まず離れることはなくなります。

大工、と書いてわたしは、大いに工夫する、と読みます。まだ大工になってから25年ですので、技術は大六・第六ぐらいでしょうか?
心・技・体ともに、大工・第九目指して頑張っていきたいと思っています。
コメント

登り梁の織りなす陰翳

2018年10月30日 | 木構造のこと


登り梁が使われているのが多い建物といえば、土蔵が筆頭でしょう。いろいろな地方で土蔵を見てきましたが、屋根といえば登り梁が多用されています。
土蔵は火事から中の物を焼失から守らなくてはいけません。下部を土壁と漆喰で塗り込め(天井部分、つまり屋根直下部もです)、その上に屋根を載せ掛けるには登り梁は一番好都合でしょう。壁板も金具を外せば全体が取れるようになってますね。最悪、木の部分が焼失しても蔵本体は残ります。

登り梁を使用すると、和小屋(現在一般的に木造建築で使われる架構法です。母屋の下部にたいていはそれを支える束が必要になります)と違い、下部を支える束(柱)の数が減らせます。屋根の下に大きい空間が作れるのです。土蔵の場合は三角の部分まで土を塗り込めるわけですから、小屋束の存在するスペースがありません。必然的に登り梁を使用することになります。



私は登り梁が掛かる屋根の姿が好きです。軒の出を大きく出せますから、建物の陰翳(インエイ)に深みを与えます。
日本建築の美しさは、この陰翳が作り出す立体感だと思うのです。構造がそのまま意匠になっているのもいいですね。構造美とでもいいましょうか。

この土蔵は現在仕事させていただいている郡上市内の登り梁の家のものです。
このお宅の登り梁は、古い登り梁の形態が新しいものへ変化していく過程を垣間見ることができる点でも興味深いものですのでご紹介します。



トタンが張られていますので、外から見て構造部材は分かりにくいかもしれませんが、妻壁を見ると登り梁が入っているのが見えますよね。



妻の右流れが正面です。左斜め上から下がって来た登り梁がトタンにかくれて、出てきた先は・・?水平の腕木です。



正面の大屋根(2階の屋根)は・・?全て水平の腕木(建物から直角に出て出桁を受ける部材を腕木といいます。しかしこの部材は正式に言うなら船揩・センガイです。理由はのちほど。)になっていますよね。登り梁の家って言ったじゃないですか!登り梁はどこに行ったんでしょうか?



実はこの部分は屋根裏から見るとこうなっています。



登り梁がプツンと切られて、水平な部材に替わっていますよね。これが船揩・センガイですが、この部材が軒桁より突き出して出桁(ダシゲタ)を受けているのです。



妻壁部分だけは登り梁が腕木の上端まで下りてきています。こうしないと妻壁に穴が開いてしまいますからね。



建物の裏側に回ってみましょう。あったあった!ちゃんと登り梁の先が出てきて出桁を受けているじゃないですか!妻壁の部分だけは水平ですよね。
何故か?それは人の目に見えるからです。うむむ、私はこの登り梁が好きなんですけど、どうしてこれを人目に見せないようにするんでしょうか?

水平の腕木で軒を支える手法は高山で一般的なものです。関西方面の民家や商家も同じく、です。
郡上市内に残る多くの登り梁の家は、「出登り」といって桁から斜めに登り梁の先(というか登り梁の尻)を出し、出桁を受けるという郡上に特有の造りです。たくさんの登り梁の家を見ているうちに気づいたんです。屋根自体は登り梁が掛けてあるのに、正面や妻に水平の腕木を掛ける例が出てくるんです。

時代のはやり、みたいなものがあったと思うんです。おそらく大工さんも施主さんも高山や関西の屋根の方がかっこいいと思い始めたのでしょう。
このお宅は腕木が建物の中に引き込んでありますから(いわゆるセガイ造り)、構造的にはまだ大丈夫です。しかし、2階を居室に使うようになると、前掲の写真のように水平な部材や柱が部屋の中にまであると邪魔でしようがありません。
ですから、美濃地方のセンガイはこの後、全て差し腕木に変化していきます。柱に差してあるだけです。どうなるか?だんだん垂れ下がってきますよね。差し腕木の屋根はそのほとんどが時間を経るにしたがって垂れ下がってきます。入母屋屋根の隅木が掛かるような荷重のある場所では特に顕著です。構造よりも意匠を優先してしまった結果の一例なのです。



もともと登り梁の家が多く建てられた最大の理由は養蚕です。美濃地方や飛騨地方の板葺きの家はもともとは平屋建てでした。農村部で養蚕が盛んになってくると、たくさんのお蚕様(オカイコサマ)を収容するための大空間が必要になりました。このお宅も同じです。1階部分は住居、2階や屋根裏部分は養蚕(物置であったり、大きな家では使用人の部屋もあったりします)のための大空間となります。屋根を修理した時に登り梁の下に支えの柱が追加されていますが、もともとは棟木の下と側桁より半間内側に柱があっただけです。たいていこういった古い家の屋根裏には養蚕の道具や製糸用具がたくさん置かれています。

時代が下り(昭和の戦前戦後ぐらいまででしょうか)養蚕がすたれてくると、こういった造りの家の必要性も薄れてきます。これ以後にこういった登り梁の家が郡上で作られることもほぼ無くなりました。その時代や社会によって家のかたちも刻々と変化してきたんですね。

郡上に残る登り梁の家の陰翳を見上げるたびに、その美しさに惹かれ、自分たちの手でこの景色を守りたい・作り上げたいと願うのです。
コメント

シロアリ様なのか?シロアリ野郎なのか?

2018年10月28日 | 家を取り巻く環境のこと
郡上市内には築100年をゆうに越える大きな登り梁の家がたくさん残っています。



現在その登り梁の家の一軒において、床の張り替え工事を行っています。
大屋根(2階の屋根)を見ると、軒を支える腕木が水平に出ていますよね。このような軒を美濃地方では「せんがい造り」(船櫂・セガイの訛り)と呼びます。あれ?登り梁の家って言いましたよね。屋根自体は登り梁が掛かっているのですが、軒先はせんがいが掛けてあるんです。分かりづらいかと思いますので、このことについては次回詳しくご説明します。

さて、ここの家の方から、「床下が腐って、畳もボロボロなので見てほしい」との依頼を受けたので、シロアリ専門家の岡崎シロアリ技研さんに来ていただいて、床下の調査を行いました。岡崎シロアリさんについては、このブログ内の『床下を戦場にしないために』でもご紹介したとおりですが、薬剤散布をできるだけしないシロアリ業者さんです。



床下にもぐってみると、腐ってるような、カビているような、何か虫害の痕も見られます。



蟻道(ギドウ)を発見しました。地面から束石を上がって床束に続き、それから畳下の板、畳へと、これらを食害したのは、ヤマトシロアリです。





このように、確かにひどく見える被害なのですが、岡崎シロアリさんは、「今回は薬剤を散布しません」と言われます。
私が説明するよりも、以下岡崎シロアリさんからいただいた調査報告書を引用させていただきます。

 『歴史的に蓄積されたシロアリ(ヤマトシロアリ)の被害が見られました。ただ、ほとんどの被害はかなり古いもので、シロアリはすでに死滅しています。一部はアリによって駆逐された部分もあります。こうした古い被害部や他生物生息部分にはシロアリが再び侵入することはありません。また、これまでの経緯でシロアリが活動していない部分に発生することもありません。したがって、調査できたほとんどの範囲では薬剤処理の必要はないものと思われます。

 ただ、玄関奥の和室では2か所の床束で生きたシロアリが見られました。調査時に蟻道を壊したので、今後のリフォーム時点で蟻道の復活がなければ特に対処の必要はありません。復活があるならピンポイントで駆除すればいいと思います。

 土台や柱、床束などに硬い樹種(栗)が採用されていることから、被害部分でも床板(松)などの柔らかい部分を除けば大きな被害になっておらず、今後も大きな被害の可能性は低いと思われます。

 リフォーム後5年前後で床下の点検をすればシロアリの動きがあっても十分対応できると思われます。』

以上、非常に分かりやすく、納得のいく説明をされています。



ちなみに報告文の中で、「アリによって駆逐された部分」とあるのは、ここのことです。アリ(私たちが普段見慣れた黒い蟻です)は実はシロアリの天敵です。柱の足元に落ちている黒いカスはアリが木をかじった痕です。アリ(ハチなども同じく)は木を食べません。別に柱を食べようとしたわけではなく、岡崎さん曰く、活動上の何らかの理由でかじったそうです。アゴの運動でしょうか?

ヤマトシロアリについて、補足的に説明をしておきましょう。
日本でのシロアリ主要3種といえば、ヤマトシロアリ(ほぼ全国に生息)、イエシロアリ(沿岸部を中心に生息)、アメリカカンザイシロアリ(人為的要因で散在)。ヤマトシロアリは「湧く」ものではなく、もともとその土地にいるものです。土壌の不要な植物を分解する、いわば「地力」を担っている、縁の下の力持ちです。いないほうがむしろ不健全な地面だといえます。



ヤマトシロアリ自体は弱い生き物です。地面の中での活動は比較的緩やかです。ところが何らかの変化があると活動スイッチがONになります。それは太古の昔や自然のままの土地では、倒木で地表が覆われるといったことです。地面の密閉性が変化するとそこに興味を示すのです。

人間が土地に加える変化とは何でしょうか?そうですね、家を建てることなんです。
家を建てる場合、少し昔ですと土を掘り返して、この家がそうであるように基礎石を据えます。現在ではショベルカーで掘り返すは、コンクリートを大量に打設するはなど、やりたい放題(ちょっと言い過ぎですか?)ですよね。

土の中は混ぜくり返されて、ヤマトシロアリの住んでた家は荒らされ集団は分断されます。ヤマトシロアリは集団が分断されてもそれぞれが独立した集団として活動できるので、分断された集団ごとに生き残りのための必死の活動を開始します。多くの集団は死滅してしまうのですが、ごく運の良かった集団は生き残ります。その集団はその時点ですでに湿度、温度、微生物とのバランスなどを解決した生活環境を得ています。

そして一気に活動を広げ、その活動の一端が建物への侵入となって現れるのです。別に「家を食べてやろう!」と思って地上に現れてくるわけでもないし、別の土地から移住してくるわけではないのです。
これが、先ほどの報告書の「リフォーム後(新築後も同じです)5年前後で床下の点検をすれば」の意味するところです。土地に大変化を与えた後の5年間がヤマトシロアリの活動のピークなんです。逆にいえば、5年間変化が起きなければ、その後ヤマトシロアリの活動はほぼないと考えていいのです。(イエシロアリはヤマトシロアリと生態などが違いますので、やはり不安なときは専門家に相談しましょう。)



家を建てる前には地鎮祭を行いますよね。地鎮、鎮まるという字が示すように、その土地に代々住み着いておられる神様はじめ、シロアリ様やいろいろな生き物様に「どうか工事中、またその後も鎮まられますように。どうかこの土地を使わせていただきますようにお許しください。」とお願い申し上げるのが地鎮祭なのです。

ですから、もしシロアリを見つけたとしたら、このシロアリ野郎!といって敵視するのではなく、その活動を活発化させる要因を作っているのは他ならぬ自分たち人間のほうだと謙虚に受け止めたほうがよさそうです。すわ!一大事!と床下一面に薬剤を散布する必要はありません。
昔の人たちがそうであったように、私たちもできるだけ床下材は樹種を選ぶこと(栗・桧・ヒバなどの芯持材を使う)、基礎は風通しのよい構造にすること、点検のしやすい・見やすい作りにすること、被害が出てもすぐに取換えや修理のしやすいようにしておくこと、などのことに留意して設計・施工を行っています。



この工事の様子もまたご紹介しますね~。
コメント

人を思うこと、己を思うがごとくすべし

2018年10月22日 | 考えたこと
今年6歳になった息子が、たまに作業場にふらりとやってきて、「おとうさん、なんか木でつくりたい」と言うことがあります。
「んー、そっかー!今日はなにをつくろっかー?・・・・めいろでもつくるか!」「うん!めいろつくりたい!」

作業場には新しい木に混じって、木の切れ端や残材が所せましと並んでいます。何がどこに置いてあるのかは、ほぼ把握しています。
「ちょっとまっとってよー」と言いながら、あっちにいってこっちをさがして、ほこりをぱぱっと払って、めいろ作りのはじまりはじまり~。



息子の意見を聞きつつ、細い木(これは天井板の巾を切り裂いた余り)を板(これは棺桶を作った切れ端!)に釘で打ち付けていきます。
「おら(なぜか最近は、おら)もうってみる!」というので、手伝ってもらいます。おっかなびっくりですが、なかなかのものです。



ビー玉めいろの完成!私が子供のころ、友達の家にこのようなおもちゃがあったんです。あれで遊びたくて、よくその子の家に遊びに行ったっけ。
さっそくビー玉をころがして楽しそうに遊んでいる姿を見て、私も思わずにっこり。ひとしきり遊んだ後の顛末は、だいたい部屋のすみっこに放りだしてあるんですけど、思い出したように遊んでるときもあったり・・それでいいんだよ、おとなになっても思い出してね~と願ってます。



ビー玉めいろ作りが一段落したら、つぎは木に穴をほる!と言ってとんとんがんがんやり始めます。
う~む。これは大工の血がそうさせるのだろうか?と思って、「大人になったら、何になりたい?」と聞くと、「鬼太郎。(ゲゲゲの鬼太郎)」だって・・こないだまでは「仮面ライダービルド」だったのに・・

息子の膝のすぐ左側、玄関の上り框にのこぎりで切った痕があるの、分かりますか?これは息子のおじいちゃんがちょうど6歳の頃(70年ほど昔)、まだ新築だったこの家の、ここで遊んでのこぎりで木を切ってて、勢い余ってこの上り框を切ってしまったんですって!おじいちゃんのおじいちゃんにたいそうしかられたそうです。今はもう誰もしからないから、思いっきりやっとくれ!

さて、この玄関の敷板を見ていると、思い出す話があります。
今から130年前の明治21年に出版された『新編小学修身用書』に載っているお話しです。修身、とは今でいう道徳の授業です。

以下、原文です。

 第二十四 人を思うこと、己を思うがごとくすべし

 伊東長衡、他人の家を借りて住す。
 かつて火箸を台所の敷板の下に落とし、しきりにこれを探す際、たまたま人あり、来たり見て、そのゆえを問う。
 長衡いわく、「我、火箸を惜しむにあらず。ただ我、この家を去りし後、他人の来たりて住する者、あるいは誤りて敷板を踏み落とし、この火箸にて足を傷つけんことを恐れ、かく探し求むるなり」と言えりとぞ。 (出典 『新編小学修身用書 巻之一』 廣池千九郎著)

いかがでしょうか?長衡さんの、自分自身を大切に思うのと同じように他の人のことを思う「思いやりの心」を持ちましょう。身近な人にとどまらず、後の人に対しても、思いやりの心を持ちましょう。そういったことに、この話は気づかせてくれるのではないでしょうか。

私は自分の仕事、家づくりに、この気持ちを持って取り組みたいと思ってます。
もちろん住む人たちのことを思って、は当然のことながら、後に続く人たちにも喜んでもらえ、大きく言えば地球や環境にも負担や迷惑をかけず、ずっと持続していけるような仕組みの中で、家づくりをしていきたいと思っています。



これも数年前になりますが、私が残材でつくった木馬です。今の娘たちが乗ると壊れかねませんが、最近は息子がブンブン乗り回してます。
子供たちの笑顔を見るにつけ、「思いやりの心」を持つ親になりたい、子供たちにもそうあってほしい、それを仕事や生活の中でいかに実現していけばいいのか?そんなことを考え、もがいている毎日です。
コメント

郡上に伝統構法で登り梁の家を建てる その2

2018年09月15日 | カネサダ番匠が作った家
刻みの様子をご紹介しましょう。
大工が木材に墨を付けて、それを、のこぎり・のみなどで加工することを「刻み」「刻む」といいます。
今では大工が墨付けをして、手刻みをすることは本当に少なくなってきました。ほとんどの住宅はプレカットで刻まれています。プレカットとは図面のCAD(キャド、図面のコンピュータ入力ソフトの呼び名です)入力から加工までを大型工場でオートメーション加工することです。

いえ、住宅のみならず、近々木造で再建される名古屋城天守閣もプレカットで加工されるとか(全ての部材ではないと思いますが)。そんなに急いで、うん百億円もかけて、本当の意味での伝統建築になり得るのでしょうか?名古屋近辺や全国から腕利きのベテランや若い大工を集めて木造天守閣を再建するというのなら、伝統技術を次の世代に継承していくという意味でも大変意義あることだと思います。名古屋市・愛知県は自動車産業や航空産業・ハイテク産業のみならず、日本の伝統技術をもリードする中心である、とアピールするほうが日本や世界中の人々によっぽど説得力があると思うんですが・・河村市長、いかがでしょうか?



これは隅船櫂(スミセガイ)です。船櫂造りは屋根の軒を出すための伝統技術の一つです。もちろんお城にも使われています。



実際の建物ではこのようにおさまります。家の角から45°に先を白く塗った部材がとびだして、その上の隅木(スミギ)を受けていますよね。この部材が隅船櫂です。家に対して直角に出ている平船櫂と力をあわせて、この家の下屋(ゲヤ。一階の屋根)では軒を1.35メートル出しています。



私は伝統構法で家を建てる場合、手刻みをします。金物(ボルト類)を一切使わずに木と木を組む場合、いかにお互いの木を傷めずに、最大限木の力を引き出すことができるかを考えます。この場合は3本の木を組むわけですから、部材にかかる力や荷重を考え、乾燥やねじれが出た場合のことなども考えて加工し、作事場で一度仮組みをします。現場で建前する時はスピード勝負ですから、現場で入らないからといってガンガン叩くわけにもいきません。かたくなく、ゆるくない程度に何度も仮組みしては調整していきます。



実は私は大工になる前は商社に勤めていました。マキタの電動工具や建設工具、建設機械を主に東南アジアに輸出する会社でした。入社して間もない頃、名古屋(そう!奇しくも名古屋なんです!)で毎年開かれている木工機械展示会に新幹線に乗って出張したんです。今から25年前のことです。
その年の目玉はプレカットの加工機械でした。会場の中心に広々とプレカットの機械群が設置され、担当者が鼻高々に「これからは、プレカットの時代です!」と来場者に説明していました。感嘆の声を上げる他の来場者の横で、私は「え?たしかにすごいけど、何年も修行した大工さんのほうがもっとすごいんじゃないかな?そのうち大工さんが力を発揮する場所がなくなってしまうんじゃないのだろうか?なんだかこれはまずいような気がする。」と思って会場を後にしたのを、よく覚えています。





これは桁と桁を直交させて組んだ部分で、ここを捻組み(ネジグミ)と呼びます。





実際の建物ではこの部分です。斜め45°に入っているのを隅木(スミギ)といいます。隅木の下部、建物の中をよく見てください。隅船櫂が見えています。



捻組みの部分はこうなっています。これは下木(シタキ)。桁と桁を組み、おまけに隅木が落ち掛かる(オチガカル)ので、部材がこれだけしか残りません。上木と下木の接する面が斜めに捻じれているので、この組み方を、捻組みというのです。



同じく上木(ウワキ)です。この捻組みは建前で一番失敗のおきやすい部分です。ここの加工がかたすぎたりすると、掛矢(カケヤ。大きな木槌)でたたいたとたんに頭の部分が割れて飛んでいったりします。まさか施主さんの目の前で「あ~あ!」というわけにはいきませんから、ここは慎重に、慎重に。

このように、手刻みで伝統的な仕口(シクチ。部材が直交する部分)や継手(ツギテ。部材を長さ方向につなぐ部分)を加工する場合、木材の乾燥具合やクセを一本一本見ながら、慎重に墨付けや刻みを進めていきます。手刻みとプレカット、どっちがいいの?という選択はこの場合は実はありません。このように複雑な加工は大工の手刻みによってしかなし得ないものなのです。プレカット技術やAI(人工知能)がいかに発達しようとも、大工としてはその役割をかれらに譲るわけにはいかないのです。

しかし、ここにばかりこだわっているわけではありません。常に新しい工法や法律・制度などのアップデートは心がけています。うまく伝統的な技術を現代の住まいに生かせる工夫と努力を続けていきたいと思っています。

刻みの場面はまだまだ続きます!



コメント