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空と無と仮と

沖縄・日本史・ミリタリーなど、拙筆ながら思ったことをつれづれと、時には無駄話、時にはアホ話ってなことで…

1990年代の沖縄旅行 「ひめゆり」戦跡巡り② 糸数分室(アブチラガマ)①

2020年05月30日 00時00分28秒 | 1990年代の沖縄旅行 「ひめゆり」戦跡巡り編
糸数分室というよりも、
糸数の「アブチラガマ」といったほうが、
認知度がどちらかというと高いかもしれません。
南城市の糸数にあるガマ(自然洞窟)です。
平和学習では必ず訪れる場所ではないでしょうか。

もっとも、1990年代は南城市というのは存在せず、
玉城村(たまぐすくそん)の糸数でしたね。
近隣の町村が合併して南城市になりました。
また、その当時は「アブチラガマ」というよりは、
「糸数壕」という名称がよく使われていた記憶があります。

南城市の公式サイトによると、
全長は270mほどあるそうです。
ガマとしては大きいほうに入るのではないでしょうか。

そのガマと「ひめゆり」に何の関係があるかといえば、
それをごくごく簡単に説明すると、
沖縄戦当時、
南風原陸軍病院壕に収容できなくなった負傷兵を、
このアブチラガマに移動させたということなんですね。
だから「糸数分室」なのです。

負傷兵を収容したのですから、
当然、軍医や従軍看護婦等が移動するわけですが、
同時に「ひめゆり」たちもこの糸数分室へと、
少数ながら移動してきたということなんですね。

最初から軍の施設だった南風原陸軍病院壕に対し、
アブチラガマには住民たちが既に避難していて、
軍民共同で使われていたガマでもありました。
さらに詳しい情報をお知りになりたい方は、
インターネットや書籍等で検索してくださいな。
比較的簡単に見つかるはずですよ。


さて、
この糸数壕=アブチラガマに初めて訪れたのは、
90年代中盤の頃でした。

書籍などで事前にある程度の予備知識だけをもって、
とりあえず現地に向かったのですが、
最初はなかなか見つからなかったんです。

予備知識といっても、
現在のようにグーグルマップで一発検索なんてありませんし、
インターネットの情報なんて、
まだまだ影が薄い時代でした。
第一、90年代の後半までパソコンすら持っていませんでしたから…

それにアブチラガマについての詳細な地図だって、
持ち合わせていませんでした。
内部がどうなっているかについては、
詳細に調査したものが既にあり、
書籍化されたものまであります。

ま、地元の人ならすぐにわかるのでしょうけれども、
自分は沖縄に移住していたわけではありません。

その時は自分と友人二人で、
その中の一人は沖縄出身でも北部出身です。
南部地域には親戚もいなくてわからないということで、
場所を特定するために自動車でグ~ルグルしていたのを、
おぼろげながら思い出すことができます。

今回のアブチラガマに限らず、
場所が不鮮明な南部戦跡を一カ所一カ所、
ほとんど一人でコツコツと地図を広げて探していたので、
たとえ見つからなくても「次でいいや」って感じでしたから、
グルグルしてても特に不満はないし、
飽きませんでしたよ。

事前にある程度調べていたのに、
場所がどこだかわからなかったのですが、
意外と役立った情報が一つありました。

なんの書籍か忘れてしまいましたが、
アブチラガマ近くの食堂で、
懐中電灯や長靴を無料で貸してくれる、
確かそのようなことが書かれていたのです。

そういうわけですから、
たとえアブチラガマがわからなくても、
その食堂を探せば何とかなると思いまして、
自動車でグルグルしていた時、
比較的簡単に見つけることができました。
ま、道路沿いでしたからね…

こじんまりとした食堂というか定食屋というか、
比較的小さな建物があり、
その壁面には「懐中電灯・長靴貸します」というような文字が、
手書きの塗料で書かれていましたよ。

南城市の公式サイトによると、
アブチラガマには年間13万人が訪れるそうです。
1990年代も同じかどうかわかりませんが、
懐中電灯や長靴の無料貸し出しがあるってことは、
それなりの人数が訪れていた場所だということかもしれません。

それとも、
その食堂はアブチラガマの訪問客を見込んでいたのでしょうかね。
もしそうだとすれば、
既に大勢の人たちが慰霊や観光や平和学習で訪れていたのかも…

2020年現在では南城市が運営する「糸数アブチラガマ案内センター」が、
懐中電灯やヘルメットの貸し出しをおこなっていますが、
1990年代当時はそのような施設がなく、
食堂経営のついでにやっていた感じもしました。
ちなみに「糸数アブチラガマ案内センター」は2002年開館で、
以前は「南部観光総合案内センター」という名称でした。

とにかく中へ入って懐中電灯を借り、
「糸数壕はどこですか?」みたいなことを尋ねたら、
「自分で探してください」と言われたのをハッキリ覚えています。

文章で書くと「冷たい対応」だと思われるかもしれませんが、
勘違いなさらないでくださいね。
少なくとも自分は「冷たい対応」だと思っておりません。

実を言うと、ちょうどお昼時の時間でして、
カウンター席には作業服を着たおっちゃん、
あんちゃん連中がぎっしり座っていました。
多分、道路の拡張工事なんかをしていた、
建設作業の人たちじゃないかな。
現に大規模な道路工事をしていましたから。
それに対して、
厨房では女の人がたった一人で切り盛りしていたのです。

そんなクソ忙しい時に聞いたもんだから、
タイミングが非常に悪すぎましたね。
誰だってそうなると思いますよ。
そういうわけですから、
たった一人で立ち回る相手のことを考え、
懐中電灯を借りただけですぐに退散しました。

しかし困りました。
結局自分たちで探さないといけません。
しかも、これまたタイミングが悪く、
夕方の便で東京に帰る予定でしたから、
それに合わせて那覇空港へ行かなければなりません。
だから出来るだけ早く見つけたかったのです。
「次でいいや」なんて余裕なことを言ってはみましたが、
やはり時間の制約からは解放されませんね…

ガマというより自然洞窟の入口なのですから、
それなりの特徴があるのではないかと思い、
自動車から降り3人で周囲を見渡しながら、
ブラブラしてみることにしました。

なんか、わかるんですよね。
整地された畑に囲まれていても、
そこだけが木々に覆われているというか、
鬱蒼とした茂みがある、っていうような、
そんなイメージなんですよね、
南部地域のガマっていうのは…
慰霊碑とかが建立されていたら、
遠くからでも見つけやすくて、
非常にわかりやすいんです。

村道というか農道というか、
畑や民家の間をキョロキョロしながら、
細い道路を5分ぐらい歩いたでしょうか、
幸運にも木々が鬱蒼とした場所に出くわし、
すぐにそこが入口だとわかりました。

現在のアブチラガマは「入口」と「出口」が設定されていて、
「入口」は住宅地のすぐそばにある細い通路で、
「出口」は木々が鬱蒼と茂っている広い場所です。
その「出口」を見つけたということになります。
当時はそんな設定はされていませんでしたね。
「南部観光総合案内センター」ができた2002年以降だと思います。

後でわかったことなのですが、
懐中電灯を借りた食堂を起点とするならば、
「入口」側のほうが近かったのです。
ちょっと振り向けばすぐ見つかるほどの距離ですが、
自分たちは真逆の方向を歩いていってしまったので、
結果的に「出口」のほうへ向かったというわけでした。

でも、当時は案内板がなかったような気がするんですよね。
それとも見落としただけなのかなぁ…
ま、いいか。


次回以降に続きます。


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