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空と無と仮と

沖縄・日本史・ミリタリーなど、拙筆ながら思ったことをつれづれと、時には無駄話、時にはアホ話ってなことで…

渡嘉敷島の集団自決 沖タイ連合と曽野組の仁義なき戦い 後編④

2020年11月19日 00時01分44秒 | 渡嘉敷島の集団自決 沖タイ連合と曽野組の仁義なき戦い
「土俵を間違えた人」第1回④


 前回の続きです。

 誰がどのように手榴弾を住民へと提供したかについては、各防衛隊員に支給された2個の手榴弾に加えて、それ以外の手榴弾もあったという可能性が高いです。既に「鉄の暴風」でもそのことが示唆され、太田氏はそれが住民のための自決用手榴弾であると主張しております。

 結果的にそのような事態となってしまいました。しかし、ここで問題にすべきことは、手榴弾が自決用だったのか否かということではありません。

 支給された手榴弾以外のものも持ち込めるのかどうか、仮に持ち込めることができるのであれば、それはどのような経緯や入手ルートが可能なのか、という要素が重要であると考えられます。つまり、防衛隊員らが支給されたもの以外の手榴弾を入手することが可能か否か、ということです。

 そこで着目しなければいけないのが、防衛隊を含む第三戦隊が「移動」していることだと思います。
 第三戦隊の各部隊が米軍の上陸後、意図しない舟艇攻撃から地上戦への変更により、本部や各舟艇基地群の陣地から、それぞれ複郭陣地へ移動したことは特に説明するまでもなく、明らかな事実となっております。その中に防衛隊も含まれることも、説明の必要がありません。
 しかも訓練や演習ではなく米軍の攻撃に対処しながらでありますから、戦死者も出しながら移動を実施していたということにもなります。
 このような状況で各部隊が布陣した元々の陣地から、新しい陣地へ動かねばならないという事態になった場合、移動の中には武器弾薬や糧秣等の物資を移動することも含まれるということは、これも特に説明することではないかと思われます。
 問題は誰が武器弾薬を運んだのか、ということになります。

 可能性が一番高いのは防衛隊ではないでしょうか。
 その理由として、まず、沖縄戦における防衛隊員の役割が直接的な戦闘への参加というよりも、陣地構築・建設や武器弾薬の運搬といった、いわゆる後方支援がメインだったことが挙げられます。もっとも、防衛隊員が全く戦闘に参加していなかったというわけではありませんし、戦死者も相当な数になると思われます。
 こういった傾向を渡嘉敷島に当てはめた場合、防衛隊員が武器弾薬を運搬したのは勿論のこと、地元の出身という、更に適した存在だという状況でもあるということがうかがわれます。

 複郭陣地は地図上のみで選定された可能性が高いという仮説を提示しましたが、裏を返せば「場所が不明瞭」あるいは「不慣れな場所」ということにもなるかと思われます。赤松大尉も「ある神話の背景」にて、複郭陣地の「場所が分からなかった」というような主旨の証言がありますから、地図でのみ記された場所へ実際に移動することは意外と難しい、ということにもなるかと思われます。
 しかも米軍の攻撃を受けながらの移動でありますし、昼も夜も関係なく移動することにもなるのですから、より一層困難ではないかと思われます。
 そういった各部隊の置かれた状況を考慮すれば、複郭陣地に選定された未知ともいえる複郭陣地へ移動するため、そのルートや地理に詳しそうな人物に武器弾薬等の物資を運ばせようとする意志や行為は、たとえ戦争中であったとしても、あるいは常識的に考えたとしても特に違和感はないのではないでしょうか。


 「ここは危ない、と私たちは、かねて準備してあった西山盆地の後方、恩納川原の避難小屋めざして出発した」(渡嘉敷村史編集委員会編 「渡嘉敷村史 通史編」 渡嘉敷村 1990年)


 「鉄の暴風」では恩納川原で集団自決が起こったとなっていますが間違いで、実際の場所は別のところであることが判明しております。
 誤認を訂正しないのは問題かもしれませんが、それはともかく、複郭陣地付近にある恩納川原に避難小屋が作られていたという証言は、これ以外にも複数確認されています。また、この避難小屋は軍が建設したのではなく、住民が自主的に作ったものであります。そして地形の構造を把握し理解したうえで、避難小屋の場所を選定した可能性が非常に高いです。

 以上のことを考慮すれば、第三戦隊が複郭陣地と選定した場所の地理に詳しいのは、当然の帰結かもしれませんが、防衛隊員を含む渡嘉敷島の住民ではないでしょうか。そこに到達する最短ルートも、ある程度は把握していたのではないでしょうか。
 しかし、全員が詳しいというわけではありません。複郭陣地に一番遠い場所に位置する阿波連地区で生活していた住民は、その確率が相対的に低くなるのではないかと思われます。

 想定外だった舟艇攻撃から地上戦への変換による混乱に加え、正に陸海空から米軍の攻撃を受け続けながら、命令された複郭陣地への移動をしなければならない第三戦隊の各部隊にとって、武器弾薬や食料といった物資の運搬も重要な任務です。
 その運搬の任務を受け持ったのは防衛隊員である可能性が非常に高く、地理や地形に不慣れな指揮官ないし部隊のため、現地に詳しい防衛隊員はその道案内も担っていたかもしれません。
 そして武器弾薬の中には、当然のごとく手榴弾も含まれます。

 具体的にどのような運搬ルートだったのかは不明です。ただ、「鉄の暴風」で描写された「20個の手榴弾」が事実であると仮定すれば、手榴弾が20個収納された木箱、現代風にいえばロットごとを二人一組で運んでいた可能性が浮かんでくるのです。

 さて、沖縄戦では防衛隊員が部隊や戦線から、命令に背いて自主的に離脱した数多くの例が厳然としてあり、渡嘉敷島も例外ではないことを前述しました。
 このような事実を総合的に考慮した場合、支給されたもの以外の手榴弾を持っていた防衛隊員が、太田氏の主張に反し自主的に部隊や戦線を離れ、自分の家族や親類縁者がいるかもしれない住民の集合場所へ赴くということは、絶対にあり得ないことなのでしょうか。手榴弾を所定の陣地へ運べと「命令された」としても、それを防衛隊員たちは忠実に守ったと断言できるのでしょうか。
 ただし、ここで命令の忠実さに対する是非・賛否は一切問いません。

 住民がどこに向かっているのか、防衛隊員は把握していた可能性が高いです。少なくとも軍と住民は時期や方法はバラバラでも同じ方向へ移動しており、実際に移動するルートも限定されるのではないかと思われますので、誰かしら出会うことが可能となるでしょう。
 そういった状況の中、渡嘉敷島という比較的小さなコミュニティでありますから、手榴弾をはじめ武器弾薬を運搬する途中で、知人友人や、運が良ければ家族や親類縁者と出会う確率が高くなると思われます。あるいはそのような住民たちから、自らの家族を含め住民がどこに集合しているのかといったような情報も、ある程度正確に把握することができたのではないでしょうか。

 以上の総合的な状況によって、防衛隊員は支給された以外の手榴弾を所持した状態で、自主的に集団自決をする前の住民たちと、それぞれに合流していった可能性が浮上してくるのです。
 すなわち、手榴弾を持ち込める状況があっただろうという仮説が成立するのです。
 勿論全員が全員というわけではなく、その中の一部の防衛隊員ではないかということになります。

 あくまでも仮説の域を出ることはできませんし、「鉄の暴風」の描写が事実であるという前提でもありますが、防衛隊員が所定の陣地へ運搬している途中だった複数の手榴弾が、太田氏が着目したと思われる「追加された手榴弾」の正体ではないのでしょうか。
 また、仮に複郭陣地に武器庫のような「厳重に管理された」施設が存在していたとしても、命令された各陣地への運搬途中であり未到達なわけなのですから、そもそも意味がありません。

 なお、防衛隊員のほかに徴用された朝鮮人労務者も、武器弾薬を含む物資の運搬をしていた可能性が残るのですが、地元出身ではないので除外しております。

 これで太田氏が主張する「厳重に管理された手榴弾」が、精神的・物理的ともに否定できる仮説を提示することが可能になるのです。防衛隊員が自らの意思によって複数の手榴弾を持ち込める可能性がある以上、太田氏が断言することに反して、手榴弾は厳重に管理されていないともいえるのです。


次回以降に続きます。
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渡嘉敷島の集団自決 沖タイ連合と曽野組の仁義なき戦い 後編③

2020年11月17日 00時03分52秒 | 渡嘉敷島の集団自決 沖タイ連合と曽野組の仁義なき戦い
「土俵を間違えた人」第1回③


前回の続きです。

 「住民には自決用として、三十二発の手榴弾が渡されていたが、更にこのときのために二十発増加された」(別掲 「鉄の暴風」)


 2020年現在、誰が32個の手榴弾を渡し、誰が20個の手榴弾を持ち込んだのかという具体的なものは不明なままです。また個人的な見解ながら、手榴弾の数は正確に把握しているのに、それを持ち込んだ人物がなぜ不明なのかが不可解です。
 ただし、防衛隊員には2個の手榴弾が支給されたことが、軍人・防衛隊・住民の証言でそれぞれ確認されています。従って52個の手榴弾という具体的な数字に不可解さが残るのではあるのですが、住民と合流した防衛隊員が手榴弾を持ち込んだのは紛れもない事実であります。

 正誤はともかく、「鉄の暴風」は事実であると太田氏は言明しております。それを前提に考慮し、なおかつ太田氏の一連の主張を考え合わせれば、上記の引用で描写された「二十発増加」に着目していると思われます。
 個人的見解になりますが、住民に配布された手榴弾は防衛隊員に支給されたものに加え、「自決用」として既に用意されていたのが「増加された手榴弾」だということを、太田氏は暗に主張しているのではないかと思われます。少なくとも「鉄の暴風」の描写・文脈を常識的に考えれば、そのような帰結になってもおかしくはないと思われます。

 以上のことを端的にまとめるとすれば、「厳重に管理された手榴弾」が別の場所、あるいは別の施設から新たに20個も持ち込まれているが、そこから防衛隊員が勝手に持ち出すことは不可能である。それでもなお持ち出したというのであれば、そこに赤松大尉や軍の「命令・指示・暗黙の了解」があったはずである、ということになるのではないでしょうか。

 別の場所あるいは施設というのは、太田氏のいう「高度な防御陣地」である複郭陣地ということになります。理解しやすいようにもう一度引用いたします。


 「陣地になんの設備もなかったというのもおかしい。通常、陣地の移動は設備の場所を選ぶ。(中略)西山A高地は要塞の場所らしいが、その翌年からきていた設営隊や赤松隊はそこに陣地もつくらず何をしていたのだろう。しかも西山A高地を“複郭陣地”とよんでいる。複郭陣地とは高度の防御陣地のことである」(「沖縄戦に「神話」はない」第7回)


 複郭陣地については当ブログ「沖縄戦に「神話」はない──「ある神話の背景」反論 第7回②」で考察をしておりますが、ここでは太田氏の視点からのものですので詳細は省きます。

 太田氏の主張は、複郭陣地と呼ばれた場所にどんな形であれ完成された施設が存在し、そこで武器弾薬が武器庫等によって厳重に格納され管理されていた、という前提があるのではないかと思われます。それゆえに手榴弾の勝手な持ち出しは不可能であるということです。
 そういうことであるならば、個人的見解としてミスリードではないかと前述した二二六事件の具体例が、この前提によって適切なものになってくると思います。どちらも「厳重に管理された」ことについて、それなりに共通点があることは間違いありません。

 しかし、「沖縄戦に「神話」はない──「ある神話の背景」反論 第7回②」で考察したとおり、集団自決時には太田氏のいう「高度な防御陣地」はなく、複郭陣地というのは地図上のみに存在するもので、実際はそのような施設がなかった可能性が非常に高いのです。
 もう少し詳しく説明すると、第三戦隊は複郭陣地という場所を事前に選定していたが、メインである舟艇基地群の建設遅延によって、サブ的な存在であった複郭陣地の構築は実施されていません。
 しかも米軍の攻撃や上陸が重なってきます。各部隊は当然のごとく各自戦闘を交えながら集団自決が起こる前の時期に、一律ではなくそれぞれの部隊が選定された場所へ移動しました。なお、一部の部隊は集団自決の直後になってから移動が完了したそうです。
 そのような状況の中、現地に到着して初めてタコツボや地下壕といった、陣地の本格的な構築を実施するのです。
 つまり集団自決の直前から陣地の構築・建設が開始され、完成したのは集団自決が行われた後だった、という可能性が非常に高いのです。また、これらは軍人や住民の証言でも裏付けることが可能な状態であります。

 太田氏が主張する「厳重に管理された手榴弾」という前提自体、もっと具体的にいえば、前回の「精神的に厳重管理された手榴弾」とともに「物理的に厳重管理された手榴弾」という前提にも、これで大きな疑問が生じてしまうのです。
 太田氏の主張に反して、厳重に管理できる場所・施設自体がなかった可能性が非常に高いのです。

 なお、複郭陣地については当ブログ「誤認と混乱と偏見が始まる「鉄の暴風」でも詳細に考察しておりますので、重複を避けるため今回は省略させていただきます。

 それでは「鉄の暴風」に描写された「追加された手榴弾」そのものがなかったのか、あるいは防衛隊員に支給された手榴弾以外のものはなかったのかというと、必ずしもそうとは言い切れません。

 「鉄の暴風」に描写された「追加された手榴弾」が事実だと仮定し、そうであるならばどのように追加されたのかを考察・検証した場合、もう一つの仮説を提示することが可能になります。
 この仮説は太田氏が主張する「厳重に管理された手榴弾」という前提を更に崩す可能性が高くなる仮説にもなりますので、これから詳しく解説したいと思います。


次回以降に続きます。
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渡嘉敷島の集団自決 沖タイ連合と曽野組の仁義なき戦い 後編②

2020年11月12日 00時25分24秒 | 渡嘉敷島の集団自決 沖タイ連合と曽野組の仁義なき戦い
「土俵を間違えた人」第1回②


 前回の続きです。

 「赤松元大尉は、手りゅう弾は、防衛隊員が勝手に住民に渡したのであって、自分は知らぬといったようだが、防衛隊員が、どういう理由で、自分の意思で、同じ島の住民である非戦闘員に手りゅう弾を渡すのか、その動機や理由が理解できないし、防衛隊員も、また、大切な武器である手りゅう弾を上官の許可なく他人に渡したりすると、軍規上、厳しい処罰を受けるおそれがあることを知らなかったはずはないのである」


 「赤松大尉の命令または暗黙の許可がなければ、手りゅう弾は住民の手に渡らなかったと考えるのが妥当である」


 上記の引用は太田氏の執筆した「沖縄戦に「神話」はない」からのものです。
 
 太田氏は今回の再反論でも一貫して「鉄の暴風」は事実であること、赤松大尉の「自決命令」の根拠として、「厳重に管理されていた」はずの手榴弾が、非戦闘員である住民にまで配られた、という事実があることを挙げております。
 つまり、軍規や軍律といった精神的な拘束で「厳重に管理」されており、なおかつ「高度な防御陣地」(「沖縄戦に「神話」ない」の7回目で言及)では、武器庫のような物理的な設備によって「厳重に管理」されていた手榴弾が、支給された防衛隊員のみならず非戦闘員の住民にまで行き届いたということは、そこに「赤松大尉の命令または暗黙の許可」が介在しているに違いない、ということになると思われます。

 精神的、物理的なものによって厳重に管理された手榴弾ということになるのですが、こういった太田氏の解釈には、個人的見解として無理があるのではないかと思います。

 それは「厳重に管理されていた可能性が低い」という仮説を提示できるからです。

 そもそも太田氏は防衛隊員たちが住民と合流した意味について、意図的かどうかはわかりませんがあまり言及していません。
 これはおそらくですが、自らも軍隊経験がある太田氏は、その経験則から「防衛隊員は命令や指示がない限り、住民と合流することは絶対にありえない」という、ある種の固定観念というか、あるいは前提条件に固執している結果ではないかと思われます。

 しかし太田氏のように断定・断言できるのでしょうか。それを検証するため、かなり長いものになってしまいますが、興味深い事実もありますので以下に引用いたします。


 「防衛隊員で生き残った人たちの証言記録を見て目をひくのは、いわゆる戦線離脱(軍からの脱走)がきわめて多く、また上官の命令の拒否や本土出身の正規兵への反抗などもみられることである。また自らすすんで米軍に投降することもあった」(藤原彰編「沖縄戦と天皇制」立風書房 1987年)


 「沖縄戦史家の大城将保さんによると、約2万5000人が防衛召集を受け、そのうち約1万3000人が戦死したという。
 米軍上陸前は、飛行場建設や陣地構築などが主な任務だった。防衛隊員は自分たちのことを自嘲気味に、「棒兵(ボーヒー)隊」、「苦力(クーリー)隊」「みのかさ部隊」と呼んだ。
 米軍上陸後、戦闘が激しくなると、防衛隊員は、守備軍の正規兵が壕の奥深くに身を潜めているときも、弾薬・食糧運搬、夜間斬り込みの案内など、危険な仕事を割り当てられることが多くなった。(中略)
 「ボーヒー隊どぅ、やるむんぬ、ひんぎーしる、ましやる」(どうせ棒兵隊なんだから、逃げて家族のもとに行ったほうがいいさ)。
 家族を残して召集された防衛隊員の中には戦線を離脱し、家族のいる壕に駆け込む人が少なくなかった」(沖縄タイムス社説 「戦後70年〔地に刻む沖縄戦〕防衛隊 ひんぎーしる ましやる」2015年3月17日)


 「急に騒がしい足音がして、数人の者が、壕内に駆け込んできた。部下の防召兵達(防衛隊員──引用者注)だった。「弾が激しくて集合時間に遅れてしまった。元気を出して一緒に出かけよう」と遅参をわびるように平良教頭が云うと、隊員達は、「もう行く必要がありません。集まった連中は、そのまま前線に出されました。ひどいことをしやがる。鉄砲の射ち方もしらない連中を兵隊より先に前線へ送るなんて、余りに馬鹿臭いので僕たちは逃げてきました」と答えた」(沖縄タイムス社編 「鉄の暴風」 沖縄タイムス社 1950年)


 防衛隊員が自主的に部隊から離脱しているという状況は、沖縄戦全体における周知の事実であることがうかがわれます。この論争がおこなわれた1985年当時も同じで、特に隠された事実というものではありませんし、そういった行為を批判・批難するつもりはございません。

 この防衛隊員が部隊や戦線から離脱する件については、様々な地域・様々な境遇の様々な証言が数多く存在しているのです。
 その中からあえて「鉄の暴風」やその編集・出版元である沖縄タイムスの社説と、集団自決や従軍慰安婦は「日本軍に強制された」というスタンスを堅持する大学教授(2020年現在)でもある、林博文氏が執筆を担当した「沖縄戦と天皇制」を引用いたしました。
 また、渡嘉敷島の防衛隊員の証言にも、自主的に部隊から離脱したというものがありました。これは当ブログ「沖縄戦に「神話」はない──「ある神話の背景」反論 第5回と第6回④」にて既に言及しておりますので、ここでは重複を避けるために引用いたしません。

 以上のような事実があるというのならば、渡嘉敷島の防衛隊員も太田氏の主張する軍の命令や指示・意思ではなく、家族の元へなどといった様々な理由から自主判断で部隊から離脱し、様々なルートで集合を指示された住民と合流した可能性が高いという、太田氏の主張とは真逆の仮説が浮上してくるのです。

 この件をさらに補完する好例として、以前にも取り上げた集団自決のキーパーソンとなる、元渡嘉敷村長の証言があります。
 元渡嘉敷村長については当ブログ「「沖縄戦」から未来に向かって 第2回②」にて言及しております。それを要約すると、防衛隊員が合流したのは軍の命令によるもの「かもしれない」あるいは、「あったに違いない」といった個人的な推測のみで、実際に命令があったのかは「分からない」というものです。

 なぜ元村長は防衛隊員に合流した理由を聞かなかったのか、常識的に考えれば疑問に思うかもしれません。しかし元村長は故人でありますから、直接質問することはできませんし、何かを聞いたとしても、何らかの理由で黙したままだったのかもしれません。それゆえにこれ以上の考察は無理と思われます。

 軍の命令や指示で防衛隊員が合流したという証言はありません。なおかつ、命令や指示で合流したと「聞いた」という住民の証言もありません。キーパーソンである元村長も防衛隊員から「命令があった」と聞いたのなら、そういった内容を包み隠さず証言する可能性が高いのですが、「命令があったのかどうかは分からない」というような証言しか得られていません。

 以上のような事実を列挙した場合、太田氏の主張に説得力や妥当性はあるのでしょうか。

 防衛隊が住民と合流し手榴弾が住民に渡されたその理由に、軍の命令や意思があったのだと断言できるのでしょうか。渡嘉敷島だけは特別に軍規・軍律が厳しく統制されていたのでしょうか。
 そもそも太田氏は、防衛隊が自主的に部隊からの離脱をしている事実を把握していたのでしょうか。それともあえて無視していたのでしょうか。
 ここで確実なことは、「鉄の暴風」が発行された1950年頃から既に自主的に部隊や戦線を離脱していた防衛隊員がいたということが、少なからず知れ渡っているということです。

 今回は軍規や軍律といった精神的な拘束で「厳重に管理」されていた可能性は低い、という理由を提示しました。次は物理的な設備等によって「厳重に管理」されていたかどうかについてです。


次回以降に続きます。
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渡嘉敷島の集団自決 沖タイ連合と曽野組の仁義なき戦い 後編①

2020年11月11日 00時30分44秒 | 渡嘉敷島の集団自決 沖タイ連合と曽野組の仁義なき戦い
「土俵を間違えた人」第1回①


 「土俵を間違えた人」は曽野綾子氏の「沖縄戦から未来に向かって」に対する、太田良博氏による再反論ということになります。また、沖縄タイムスでは6回の連載となっております。

 曽野氏への皮肉とも思える文章から始まる第1回なのですが、そういった感情的な言動への追及は無意味でありますから省略します。残念ながら太田氏曽野氏の双方で、このような本題から外れた言動が繰り返されているようです。

 この回において太田氏は二つの主張をなさっております。
 一つ目は手榴弾の管理について、もう一つは曽野氏が主張した無理心中に対する反論です。

 一つ目の手榴弾の管理については、少し長いですが以下に引用いたします。


 「弾薬類は兵隊の手にかんたんに渡るものではない。昭和十一年の二・二六事件で、兵は夜間演習と称して出動させることができるが、叛乱将校たちにとって最後の難問は、兵器庫の銃弾をどうして持ち出すかということだった。(中略)結局、二・二六事件の場合は叛乱軍の少尉ほか数名が、兵器委員の下士官に暴行を加えて鍵をうばった」


 「作戦中は、武器弾薬の処置はさらにうるさい。手榴弾などが住民の手に簡単にわたるはずがない。赤松隊の隊員たちは、軍律がきびしかったように言っているから、なおさらのこと、武器弾薬の管理も厳格でなければならなかったはずだ。そういう状況を考えると、大量の手榴弾が住民に渡されたということは、ただ事ではないのである」


 第三戦隊によって厳重に管理されたはずの手榴弾が住民に渡されたという事実が、赤松大尉の「自決命令」があったという根拠だといった主張は、太田氏がこれまでに再三提示している事柄であります。現に「沖縄戦に「神話」はない」の第5回や第6回でも、住民が集合した理由とともに主張なさっています。

 さらには、赤松大尉が渡嘉敷島の住民を信頼していないという前提で、その住民たちに手榴弾が渡された経緯を説明しております。赤松大尉や集団自決に対する太田氏の基本的な考え方を知るうえでは重要だと思われるので、これも少し長いのですが以下に引用いたします。


 「手榴弾のようなものは、絶対に信頼できる者でなければ渡せないものである。信頼できないものに渡したら、逆に、自分らのところに投げつけられるおそれもあるからである。
 ところで、赤松は住民を信頼していない。どの住民も通敵(スパイ行為──引用者注)のおそれがあるとみている。たびたびの住民処刑にそれがあらわれている。それでは、信頼していない島の住民に、なぜ手榴弾を渡したかが問題である。「これで、死ね」というので渡したこと以外のことは考えられないのである」


 集団自決に対する太田氏の考え方は、集団自決の顛末だけでなく、集団自決後の籠城(複郭陣地での持久戦)や住民の処刑から米軍への投稿まで、赤松大尉及び日本軍の一連の流れを総合し観察した結果ではないかと思われます。
 別の言い方をすれば、赤松大尉が行った住民のスパイ視や処刑は、彼らを全く信頼していない証拠であり、それゆえに集団自決も赤松大尉が「自決命令」を出していたに違いない、というような考え方ではないかと思われます。最初から住民を信頼していないのですから、そのような住民に手榴弾を渡す行為というものは、すなわち「自決命令」であって、自決させることが最初から決まっていたとも解釈できそうです。

 このような太田氏の考え方が正しいかどうか、間違っているのかどうかについては特に考察いたしません。

 当ブログの目的は繰り返しになりますが、「集団自決の実像」を考察することです。
 そして集団自決後の住民スパイ視や処刑については、全く別の事象であると思っております。
 これは集団自決時の状況と住民処刑の状況が違うということが考えられ、とりまく状況が違うということは、たとえ同じ登場人物であったとしても、思考や行動パターンが異なる可能性を否定できないと思っているからです。
 もっと具体的に指摘するならば、集団自決直前の赤松大尉の思考・行動パターンと、住民処刑を実行した時の思考・行動パターンは違うのでないか、というような疑問です。

 集団自決と住民処刑は比較対象として参考になるかもしれません。しかし、太田氏のように住民処刑をした、または命令を出した行動パターンを「基準」とする、あるいは「前提」として集団自決を考察することは、個人的見解としては上記の理由で不適切ではないかと考えておりますが、これ以上の考察は省略いたします。

 太田氏の提示する手榴弾の管理について特に強調されるのが、前述のとおり「厳重に管理された手榴弾」は、なぜ住民に渡されたのか、ということです。これは既に「沖縄戦に「神話」はない」から主張されております。

 ただ、厳重に管理された手榴弾の具体例として二・二六事件を挙げているのですが、この例は個人的見解として、あまり適切ではないといわざるを得ません。なぜかというと、手榴弾の取り扱いに関する各々の取り巻く状況が全く異なるからです。

 二・二六事件自体について特に説明することはいたしません。では何が異なるかというと、まず、戦時と平時の違いがあります。
 二・二六事件は反乱・あるいはクーデターとはいっても、当時の東京は戦争・戦闘状態でないことは説明するまでもありません。つまり彼らが手榴弾を含む武器を所持することは、たとえ軍人であっても不法・違法であり、それゆえに武器類を「強奪」したのです。
 では集団自決時の渡嘉敷島はというと、これは紛れもなく交戦状態、すなわち「戦時」であって、軍人・防衛隊・住民の証言によって、少なくとも防衛隊には手榴弾が「支給」されていることが確認されております。

 「平時」と「戦時」や「強奪」と「支給」の意味は全く違います。言い方を変えれば「正当性があるかないか」の問題であり、反乱部隊の「強奪」には全く正当性がなく、防衛隊員への「支給」には提供する側も受領する側も、それぞれ正当性があるということになります。さらには「支給」されている以上、管理の厳重さは問題にならなくなるともいえるのです。

 太田氏は「武器管理の厳重さ」を強調したいがためと、「鉄の暴風」で描写された「追加された手榴弾」の意味、すなわち自らの仮説を証明するために、あえて二・二六事件を引き合いに出したのかもしれません。誰がどのように手榴弾を追加したのかは2020年現在でも不明ですので、仮説の一つとして、それはそれで間違っていない解釈だとは思います。
 しかし入手経緯が違うといった、全く異なる様相を同じ現象だとして同一視し、それを具体例として挙げるのは、読者の考え方にミスリードを引き起こしかねないと危惧しております。


次回以降に続きます。
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渡嘉敷島の集団自決 沖タイ連合と曽野組の仁義なき戦い 中編⑧

2020年11月07日 02時38分13秒 | 渡嘉敷島の集団自決 沖タイ連合と曽野組の仁義なき戦い
「沖縄戦」から未来に向かって 第5回


 今回で曽野氏の反論は終了します。ただし、集団自決や「鉄の暴風」に関する直接的な反論や再反論はありません。
 この回で中心的な主張になるのは、沖縄戦に対する沖縄からの偏った視点から脱却し、戦争を知らない若い人たちのために、タイトル通り「未来に向かって」考えていこうという姿勢です。少し長いですが以下に引用します。


 「私はかねがね、沖縄という土地が、日本のさまざまな思想から隔絶され、特に沖縄にとって口あたりの苦いものはかなり意図的に排除される傾向にあるという印象を持っていた。その結果、沖縄は、本土に比べれば、一種の全体主義的に統一された思想だけが提示される閉鎖社会だなと思うことが度々あった。
 もしそうだとすれば、これは危険な状況であった。沖縄の二つの新聞が心を合わせれば(あるいは特にあわせなくとも、読者の好みに合いそうな世論を保って行こうとすれば)それほど無理をしなくても世論に大きな指導力を持つ。そして市民は知らず知らずのうちに、統一された見解しかあまり眼にふれる機会がないようにさせられる」


 「少しでも沖縄に対して批判的なものの考え方をする人は、つまり平和の敵・沖縄の敵だ、と考えるような単純さが、むしろ戦争を知っている年長の世代に多かった」


 「二つの新聞」というのは、「鉄の暴風」の編集・出版元の沖縄タイムスと琉球新報のことですが、マスメディアのミスリードという観点からすれば沖縄だけに限ったことではなく、全てのマスメディアに当てはまると思われます。
 特にこの論争がおこなわれた1985年といった、マスメディアを批判するツールとして確立されたともいえるSNSや、インターネット自体がなかった時代については、新聞の影響力は現在に比べはるかに強大だったのではないかと思われます。
 そのような状況でマスメディア側、今回は沖縄タイムスということになりますが、赤松大尉の「自決命令」があったと「決定」あるいは「認定」されてしまえば、たとえ曽野氏のように「自決命令」がなかったという主張を展開しても、「意図的に排除される傾向」にあるというような主旨だと思われます。


 以上で「「沖縄戦」から未来に向かって」は終了です。繰り返しになりますが、この第5回は集団自決や「鉄の暴風」に関する直接的な反論や指摘はありませんので、これ以上の分析や個人的な考察はいたしません。


次回以降は太田氏の再反論になる「土俵を間違えた人」へと続きます。
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