鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

100名城ではないけれど富山城

2012-10-28 | 城郭【続日本100名城】

2 0 1 1 年 1 2 月 2 3 日 ( 天 皇 誕 生 日 )

午 前 1 0 時 0 3 分

J R 富 山 駅



1年半ぶり、越中富山の地に立ちました。



前回の富山は・・・・・・

富山市役所の展望台に上ったが、曇り空で立山連峰は見えない
松川の川べりで花見をしようにも、桜はまったく咲いていない
富山城では、模擬天守が工事中
さらに雨が降ってきた

そういうわけで、1時間も滞在しないまま富山を早々に去ってしまいました
さらには立ち寄る予定であった高岡も、めんどくさくなってそのまま通過してしまいます




そういう過去があったので、今回は富山をしっかり見ようと思っていました。



富山駅から出ると、冬の北陸には貴重な晴天!でした。

信号機は雪国ならではの縦型。
青看は鉛直ではなくやや斜めに設置されています。

晴天もつかの間、歩いて数分で小雪が舞い散ってきました。


富山駅から歩いて約20分、富山城址公園に着きました。

富山市佐藤記念美術館

二階櫓のような建物は、佐藤記念美術館の建物の一部で、城の遺構ではありません。
城址公園内の建物のほとんどは、城の遺構とは関係ないものです。
そのためなのか、なかなか面白い歴史を持つ富山城なのですが、日本100名城の選定からは外れてしまいました。
(100名城・富山県代表は、20年弱の歴史しか持たない高岡城が選ばれています)


城址公園内に立つ銅像。

前田正甫公像

前田正甫公像
富山藩2代当主であり、富山の薬売りの行商を創始したとされています。

ところで富山藩は、加賀藩の前田家の分家筋が藩主となりました。
力関係は当然ながら本家>分家ですので、富山藩は金沢の者からは下に見られていたそうです。
この力関係が現在も続いているとかいないとか。


そして模擬天守【国指定登録文化財】です。

富山城天守

この天守は、富山市郷土博物館の建物となっています。
第2次大戦後の富山産業博覧会で、富山の復興を記念して建てられたものであり、もともと富山城には天守はありませんでした



富山城は、天文12年(1543年)神保長職ながもとが築城しました。

当時の越中国は、神保ら土着の勢力に、越後の上杉家、加賀の一向一揆衆が争奪戦を繰り広げるというカオス状態でした。
加賀の一向一揆衆が織田信長の軍勢に滅ぼされると、上杉と織田の争いとなります。

加賀国(石川県)南端でおこった手取川の戦いでは、上杉謙信が織田家の重鎮・柴田勝家の軍勢を破りました。
しかし上杉謙信が酒の飲みすぎで急死すると、その後は織田方が優勢となり、織田家臣・佐々成政が入城します。
成政は富山城を改築し、城下町を整備、現在の富山の礎を築きました。
本能寺の変後は、柴田勝家の有力与力として、豊臣秀吉と激しく対立するも、降伏します。
(成政はのちに肥後を所領として与えられましたが、検地を強行して一揆を招いた責めを受け切腹させられてしまいます)

富山は前田利家の長男・利長に与えられました。
利長は富山の城下町を発展させましたが、富山城が大火にあい損害を被ると高岡へ移りました。

寛永16年(1639年)加賀藩より富山藩が分かれ、前田利次が初代藩主として入城。
以後13代の居城となり、明治維新を迎えました。

明治6年(1873年)廃藩置県に伴い廃城となりました。




郷土博物館では、富山城の歴史についての展示が充実しています。

興味深いのは、父・利家と、弟・利常のあいだでいまいち目立たない前田利長についての展示。
利長は父から継いだ藩主の座を弟の利常に譲り、富山に隠居しました。
資料からは、「富山様」と称された利長が隠居の後も隠然たる権力を保持していたことがわかります。


富山城唯一の現存遺構である千歳御門

富山城千歳御門

全国にも珍しい、現存する御殿の門。
建築様式は東大の赤門と共通しています。


富山城天守2

歴史的には嘘っぱちな天守も、画にはなるんだよねぇ~。



この後私は富山で私的な用をなし、高岡へ向かいました。




日本海へ

2012-10-28 | 旅立ち

2 0 1 1 年 1 2 月 2 2 日 ( 木 )

午 後 1 1 時 0 5 分

東 京 都 立 川 市

J R 立 川 駅 南 口



世間ではクリスマスで盛り上がっていた週末。
私はそれに背を向けるかのように、ひとりで冬の北陸に挑んだのでした!



(気分を盛り上げるBGM  「ギャオス逃げ去る」)


瑞龍寺仏殿  越中の名刹!

金沢城石川門二の門  加賀で城攻め!

兼六園・ことじ灯籠&唐崎の松&霞ヶ池  水墨の名勝!

野村家住宅・庭園  第二位の日本庭園!

長町・絵葉書の旅  絵ハガキ!!

ひがし茶屋街の夜  芸者遊び!!

丸岡城天守  最古の天守!

一乗谷・復原町並 白土家の本拠!!




各地でご当地グルメを賞味し、

金沢チャンピョンカレー 福井ソースかつ丼と越前おろしそば 海鮮丼@近江町食堂


各地で茶を飲み、

野村家住宅・抹茶 ひがし・志摩・抹茶 ひがし・懐華楼・抹茶


各地で雪国の洗礼を受けた……




旅は立川からスタート。

長野県から新潟県、日本海へと出るルート。


JR立川駅 6番線 0時29分発 +遅れ15分
中央本線 快速 ムーンライト信州81号 白馬行き
白馬駅 3番線 5時40分着


夜行列車を降りると、暗闇にうっすらと積る雪。

白馬駅

白馬は北アルプスのふもと。
「桃鉄」ではスキー場と温泉がある駅で、大雪が降ると臨時収入になるところだったかと。

そういうところですから、気温もマイナス2ケタだろうと思い、装備を厳重にしてきたのでした。

上はTシャツ、長そで、ブラウス、ジャケット、カシミヤのコート。
下は下着、短パン、ジーンズ、スラックス。

ありったけの上着を着てきただけではありましたが、それでも夜行列車の中ではうっすらと汗をかくぐらいでした。

この日の白馬の最低気温は-3℃、思ったほどではありませんでした。


白馬でつらいのは、朝っぱらから1時間以上の待ち時間があることです。

ムーンライト信州が運行する日の白馬駅は、小さな駅舎から人があふれるほどの盛況ぶり。
駅舎のベンチはすべて占拠されてしまったので、駅のロータリー沿いにある食堂で時間をつぶすことにします。

きのこうどん

信州といえばそば! のはずだが、ここではうどん。
準備が必要なのか、早朝にそばは売っていませんでした。



JR白馬駅 2番線 6時56分発
大糸線 普通 南小谷行き
南小谷駅 1番線 7時15分着


ちょっとした難読地名、「南小谷」は「みなみおたり」と読みます。

南小谷駅でふたたび30分強の待ち時間が生じます。
ここの待合所には掘りごたつがあるので、ゆっくり骨休めできます・・・・・・が、これがちょっとしたワナかも。


南小谷駅から北は、JR西日本の管轄になります。
そして、JR西とJR東の格差なのか、列車のレベルがガタ落ちするのです。

JR東は電化線、JR西は非電化線、そんなのはどうでもいい。
列車の両数が、4両編成から2両編成へと縮小するのです。

夜行列車と始発列車で来た猛者どもは、南小谷駅でそのまま下車するはずはなく、各々がそれぞれの理由で日本海をめざします。
座席をめぐる闘いの勃発です。
こたつでぬくぬくしていた私は、はなっから闘いを放棄していました。

列車に乗り込んだ私にあてがわれる座席はなく、大糸線の後半戦は終始「お立ち」のまま日本海をめざします。


JR南小谷駅 2番線 7時51分発
大糸線 普通 糸魚川行き
糸魚川駅 4番のりば 8時52分着


久しぶりに耳にする「4番のりば」というフレーズ。
いよいよ西のほうに来たんだなぁ~と実感します。


JR糸魚川駅 3番のりば 8時52分発
北陸線 普通 富山行き
富山駅 4番のりば 10時03分着


列車が糸魚川駅から富山県境に差しかかるころ、車窓からは親不知・子不知と呼ばれる絶壁の景勝地が見えます。

親不知・子不知をかんたんに表すならば、北アルプスの断崖絶壁がそのまま海に突き出たようなところです。
荒波迫る断崖絶壁を通り抜けるのに「親にかまっていられない(親なんて知らねぇ)」「子にかまっていられない(子なんて知らねぇ)」から親不知・子不知と呼ばれるようになったそうです。

この難所を、国道8号線は山肌にへばりつくように進み、JR北陸線は長いトンネルを何本も通り、北陸自動車道に至っては海上を通っていきます。



約1年半ぶりに見た日本海は、私の眼前で曇ったり晴れたりと忙しく姿を変えていました。
この際限なく変わる北陸の天候に、あとあと苦しめられることとなるのです。



午前10時、新幹線の工事が進む富山駅に到着。