鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

松江城登城・第2章~登閣!国宝天守

2021-09-28 | 城郭【日本100名城】


令 和 元 年 神 在 月 廿 弐 日 ( 即 位 礼 正 殿 の 儀 )

午 後 弐 時 廿 弐 分

松 江 城 天 守





やって参りました、松江城天守【国宝】!

江戸時代以前から現存している天守は、全国でも12棟しかありません。
そのうち国宝に指定されている天守は5棟で、東から順に松本城、犬山城、彦根城、姫路城、そしてこちら、松江城であります。

わが城攻め旅では、国宝4天守は制覇したのですが・・・
(姫路城の天守は、修復工事のために入れていませんが)



平成27年(2015年)7月8日に松江城が国宝に指定され、私にとってはぜひとも訪れなければならない城だったのです。


国宝たる天守にもう少し近づきましょう。

 

森永ハイソフト「日本の名城」カードの画角です。
松江城の天守もなかなかの迫力ですなぁ~、そしてなにより・・・美しい。
屋根が形作る三角形・入母屋破風いりもやはふが、どっしり構える望楼型天守に優美さを加えていますね。

しばし足を止め、天守をじっくり眺めていました。
こんなに天守を見ていたのは、松本城以来かも。
それくらいに私は、この松江城天守に魅せられていたのでした。





天守の中へ。
天守に付属している南西附櫓【国宝】から入ります。



入城料は、大人680円。
松江城周辺の史跡である小泉八雲旧居【国指定史跡】や武家屋敷【松江市指定文化財】との共通券もありましたが、今回はその2ヶ所には訪れる時間がなかったので、松江城だけの入場券を購入しました。
そして天守入口の受付にて・・・



64番、松江城!・・・あっ・・・。
やってしまった・・・試押しを何度もやったのに、本番でミスをするとは・・・。



64番、松江城!
絵柄はもちろん、この天守。
画角は、森永さんのカードとほぼ同じですね。




午 後 弐 時 廿 七 分

天 守 の 中 へ




附櫓から中に入ります。
靴を脱ぐ三和土たたきの場所に、石打棚が据えられています。
附櫓に侵入してきた敵兵を射撃するための足場になっているそうですが・・・画の角度が悪すぎて、よくわかりませんなぁ。





次いで天守の地階へ。
地階は塩蔵として用いられていたようです。
昭和の解体修理で発見された塩札から、この塩蔵には有事に備えて塩俵25俵が納められていたと考えられています。

また、地階には井戸があります。
塩蔵とともに有事に備えたものといえます。
天守の中にある井戸といえば、浜松城の天守もこれに該当しますが、松江城、浜松城のどちらも堀尾吉晴の手がけた普請であるということが興味深いですね。
現存天守のなかで天守内に井戸があるのは、この松江城だけ。



ついつい覗いてしまう、井戸の底。
かつては24メートルもの深さがありましたが、現在は半分が埋められているのだそうです。



地階の柱に打ち付けられている、祈祷札・・・のレプリカ。
「奉讀誦如意珠洼長栄処」と筆記されているようですが・・・(ちょっと自信ありません)
それより重要な記述が、「慶長十六年 正月吉祥日」というもの。
平成24年(2012年)の調査で、この祈祷札が地階の柱に打ち付けられていたことが判明し、松江城天守の落成時期が慶長16年(1611年)の正月と特定されました。
築城を手がけた堀尾吉晴は、松江城の完成を見ることなく亡くなったと考えられてきましたが、この発見により、吉晴は松江城の完成を見た後で6月に亡くなったこともわかりました。




石垣があらわになっている地階から、上層階へ。



階段の角度チェック。
松江城の階段は、傾斜約50度ほど。
戦乱の火種が残っている江戸時代初期の城郭建築らしく、敵兵が上りづらい傾斜になっています。

 

松江城の柱には、番付と呼ばれる符号が残っています。
1階のこの柱には「十ノ九下」と彫り込まれており、建物を組み立てる際の整理番号として用いられたと考えらています。
彫込みの番付は、地階から2階までの柱で9か所確認されているそうです。
もっとよく見ればよかった・・・。




午 後 弐 時 参 拾 八 分

天 守 弐 階


天守の2階は、武具や史料の展示スペースになっています。
こういうところの展示物はたいていはレプリカなので、軽く確認して通過かな~と考えていました。



紺糸威こんいとおどし具足大身槍が展示されていますね~。
なになに、後藤又兵衛所用?!
軍師・黒田官兵衛と、その子で福岡藩主となった黒田長政に仕えた猛将の武具が展示されています。
又兵衛は長政とそりが合わず、黒田家を出奔して豊臣秀頼に仕え、大坂の陣で戦死するのですが・・・又兵衛の武具がなんで松江にあるのでしょうか?

案内板の記述によると、又兵衛の弟が武具をもって脱出し、親戚の土岐氏に身を寄せたのだそうです。
土岐氏は松江藩士として仕え、又兵衛の武具を継承していったのだといいます。




午 後 弐 時 四 拾 参 分

天 守 参 階




2階から3階に上る階段。
ここの柱は、2フロアを貫いていて立っていることがわかります。

松江城の特徴のひとつに、通し柱というものがあります。

江戸時代の初期は、関ヶ原の戦いの戦功で新しい領地を得た多くの大名が、統治の本拠地となる城郭を改修、新築しました。
そしてこの時期に流行したのが、豪奢な天守閣。
長くて太い材木が不足したため、松江城の建造においては、短めの材木を使わなければならなかったのです。
松江城の天守では308本もの柱が利用されていますが、天守の上から下までを貫く心柱は1本もなく、2階分を貫く通し柱が96本配置され、天守を支えています。

建築時期の特定とともに、この通し柱の構造が解明されたことも、松江城天守が国宝に指定された要因となっています。



松江城の階段は、1階から4階まではを材料としています。
桐は防火や防腐に優れて軽いので、タンスの材料によく使われます。
平時においては長持ちするのと同時に、有事においては簡単に取り外しができるという利点があるようです。

階段下にある太鼓は、二之丸の太鼓櫓で使用されていたもので、レプリカではないそうな。
また、松平直政大坂冬の陣・真田丸の戦い真田信繁(幸村)からもたらされた軍扇も展示されているのだとか。
もっとしっかり見ておけばよかった・・・。




3階正面にある花頭窓



この部分の窓です。
実用性重視の松江城天守ですが、この花頭窓にはその意味合いはなく、もっぱら装飾を目的としています。




午 後 弐 時 四 拾 八 分

天 守 四 階




西側の空間には箱便所が置かれていたのだといいます。
藩主用のものだったといいますが、このように天守内に便所があったのは珍しいものだそうです。




最上階への階段。
木材は、1階から4階までの階段に用いられた桐ではなく、栗の木が用いられているそうです。
途中に踊り場が設けられていて、これまでの階段とは趣を異にしていますね。




午 後 弐 時 伍 拾 分

天 守 最 上 階


天守最上階は「天狗の間」とも呼ばれ、どの方向からも松江の城下町を見下ろすことができます。
最上階の柱は端整に製材され、太さも均一に揃えられているそうです。



文部科学大臣による国宝指定書も、最上階に掲げられています。


関ヶ原の戦いの後に出雲松江藩24万石の藩主となったのは、堀尾忠氏でした。
忠氏は当初月山富田城【国指定史跡】を本拠地としていましたが、狭い山地にある当地では城下町の形成に限界があったため、宍道湖を見下ろす亀田山に築城する計画を立てます。
しかし忠氏は慶長9年(1604年)に27歳で急死、子の忠晴が後を継ぎますが幼年であったため、



隠居していた父の吉晴が後見人として藩政に当たることとなりました。
慶長12年(1607年)亀田山に築城が始まりました。
慶長16年(1611年)正月、松江城の落成を見届けた吉晴は、この年の6月に69歳で亡くなります。
その後寛永10年(1633年)堀尾忠晴が跡継ぎを残さずに死去したため、堀尾家は3代で改易となってしまいました。

寛永11年(1634年)京極忠高が若狭小浜藩(福井県)から26万石で加増、移封されました。
忠高により松江城の三之丸が造営され、松江城の全容が完成します。
しかし寛永14年(1637年)忠高は跡継ぎなく没したため、京極家は一時断絶してしまいます。
(のち忠高の甥・高和により再興され、丸亀藩(香川県)主として丸亀城の改築を手がけることとなります)



寛永15年(1638年)松平直政が信濃松本藩(長野県)より18万6千石で松江に入りました。
以降明治維新まで、松平家が松江藩主を務めました。

明治8年(1873年)の廃城令により、天守を除く建造物は払下げ、撤去されてしまいました。
天守も180円で払い下げられましたが、出雲の豪農・勝部栄忠しげただ・景浜父子や元藩士・高城たかぎ権八らが買い戻したために、解体を免れることができました。

昭和10年(1935年)当時の国宝保存法に基づき、松江城天守が国宝に指定されました。
昭和25年(1950年)国宝保存法が廃止されて文化財保護法が施行されると、松江城天守は重要文化財に指定されます。



平成27年(2015年)天守は国宝に指定され、現在に至ります。



「天狗の間」と称される最上階から、松江の街を見下ろすとしましょう。



南側。

手前に見える洋館は、二之丸に建っている興雲閣【島根県指定有形文化財】。
明治36年(1903年)に完成した建物で、当初は明治天皇巡幸のおりの行在所あんざいしょとなる予定でした。
その後明治天皇の巡幸は実現しませんでしたが、明治40年(1907年)皇太子・嘉仁親王(のちの大正天皇)が山陰を行啓されたときに、御旅館としてご滞在されました。

興雲閣の後方、旧三之丸には島根県庁舎
その後方には松江の城下町、そして恵みの宍道湖が広がっています。


そうそう、「城攻め」も忘れずにしておきましょう。



日本100名城・第64番、松江城攻略!



松江城の南西にあった荒隈あらわい、同じく北にあった白鹿しらがも攻略できました。


引き続き、松江の城下を見下ろします。



北側は山がちな地形になっています。
中央の松江北高校より右後ろ側にある山が白鹿山で、ここに白鹿城が建っていました。
白鹿城は尼子氏に与する松田氏の居城で、日本海から島根半島を経て月山富田城へ至る補給路の中継地でもありました。



南西側。
宍道湖に西日が射していますね。
画像右側の小高い丘にあったのが、荒隈城です。
永禄5年(1562年)毛利元就月山富田城攻略のための本拠地として築きます。
宍道湖の目の前ということで、宍道湖・中海の水運を監視できるとともに、白鹿城を経由する月山富田城の補給路にも影響を与えることができました。
月山富田城の攻略後、荒隈城は廃城となったようです。
松江城を建てる前、堀尾吉晴は荒隈の地に新たに城を築くべきと主張したといいますが、子の忠氏の「荒隈では城域が広すぎて、現状の石高では手に余る」という意見を容れたため、荒隈の地に再び城が築かれることはありませんでした。




なぜか気になる天井の棟札を確認し、天守から下りました。




午 後 参 時 弐 分

松 江 城 本 丸




西側からの天守&附櫓。



北西側からの天守。



やっぱり南西からの天守&附櫓が、一番画になりそうですね。




午 後 参 時 七 分

松 江 城 二 之 丸

松 江 神 社


本丸を退去し二之丸に戻ってみると、興雲閣の前に鎮座する神社に、長蛇の列ができていました。
どうやら御朱印を頂戴するための行列のようです。



列に並ぶ前に、まずは参拝。



なんだか今にも朽ち果ててしまいそうな感じのする手水舎【移築現存】。
説明書きによると、寛永16年(1639年)に建築されたもので、明治32年(1899年)に松江城二之丸に移築されたもののようです。

・・・そうだったのですか、朽ち果ててしまいそうなんて失礼なことを考えちゃいましたね。



奉拝、松江神社!
松江神社・・・だったんですね、御朱印を頂戴して初めて社号がわかりました。
「松江」の名を冠しているわりには小規模な(失礼)神社ですが、松江城が国宝指定されるきっかけとなった祈祷札は、この神社で発見されたものです。



御朱印を求めるために30分近く行列に並び、





松江城を退去した時には、時刻は午後3時半を回っていました。





松江城登城・第1章~うんぱく3城制覇?

2021-09-28 | 城郭【日本100名城】


令 和 元 年 神 在 月 廿 弐 日 ( 即 位 礼 正 殿 の 儀 )

午 後 壱 時 参 拾 参 分

島 根 県 庁



日本100名城登城の旅・第22弾「縁結び祈願のたび」の最大の目的地・・・



松江城【国指定史跡】にやって参りました。
早くも、平成27年(2015年)に国宝に指定された天守にお目見えしております。


さて、私をここまで運んでくれたママチャリさんを、どこに停めたらいいのか・・・?
水濠を挟んで松江城の対面にある島根県庁のあたりで、駐輪場を探していると・・・



一体の騎馬像を発見。





天守を仰ぎ見る騎馬像は、松平直政公騎馬像(初陣像)です。


松平直政は、慶長6年(1601年)松平秀康の三男として誕生しました。
松平秀康は徳川家康の二男なので、直政は家康の孫、2代将軍秀忠の甥にあたります。

慶長19年(1614年)の大坂冬の陣に出陣し、真田幸村が守る真田丸の攻略を担当しました。
このときの戦いぶりを見た敵将の幸村は、大いに感心して自らの軍扇を投げ渡したといいます。
翌20年(1615年)の大坂夏の陣にも参戦、兄の忠直の指揮下で活躍しました。

戦後の元和2年(1616年)上総姉ヶ崎藩(現在の千葉県市原市)に1万石の所領を与えられ、大名となります。
寛永10年(1633年)には信州松本藩7万石に移封されます。
国宝に指定されている松本城の天守に月見櫓が増築されますが、これは直政の手によるものです。

寛永15年(1638年)出雲松江藩18万6千石に加増、移封されます。
以後松江藩は、明治維新まで松平家が治めることとなりました。





軍馬にまたがる直政公の視線の先、松江城の本丸へと向かいます。



ママチャリにまたがって、大手門跡へ。
その手前の広場には、もう1体の銅像が立っています。



本丸を指し示す堀尾吉晴公像


堀尾吉晴織田信長に仕えて、上官となった木下秀吉(豊臣秀吉)とともに立身出世を遂げた武将です。
永禄10年(1567年)の稲葉山城攻略戦では裏道の案内役を務め、秀吉の軍勢を城内に導いたといいます。

吉晴は「仏の茂助」と称されるほど穏やかな人柄であったといい、そのためか敵軍との交渉役や味方内のの調整役を務めることもありました。
天正10年(1582年)の備中高松城攻めでは、敵将・清水宗治の切腹を見届け、秀吉死後は「三中老」のひとりとして徳川家康石田三成・前田利家らの対立を調整しました。
(なお「三中老」は実在しなかったというのが、現在では有力な説となっています)

慶長4年(1599年)老齢を理由に隠居し、家督を嫡子・忠氏に譲りました。
翌年の関ヶ原の戦いでは親子ともに徳川方につき、戦後忠氏は出雲24万石が与えられました。
当初の本拠地は月山富田城でしたが、城下町の形成に有利な亀田山に築城する計画を策定します。
慶長9年(1604年)忠氏が急逝し、吉晴の孫・忠晴が後を継ぎますが、幼年のため吉晴が後見することになります。
慶長16年(1611年)正月、亀田山に築城された松江城が落成し、その年の6月に亡くなりました。




銅像の吉晴公は、松江城の築城を指図しているところでしょうか。
築城が始まった慶長12年(1607年)で、吉晴公は御年65。
彼が精励するこの銅像は、老将の力強さとともに、嫡子の急死で楽隠居できなくなったという、ある種の悲壮感をも表現しているかのようですね。




戦国の世を生き抜いた堀尾吉晴の城・松江城に入りましょう。
こちらの大手門跡から、ママチャリに乗ったまま入城することができます。



路傍には、広告のような立て看板が並んでいます。
そういえば宿屋でぼんやりニュースを見ていたら、松江水燈路とかいうお祭りをやっているとか言ってたな・・・それかな?




二之丸下段の空間。
最初は2棟の米蔵があっただけでしたが、備蓄の必要から米蔵は増築されていきました。



二之丸下の段の脇に駐車場があり・・・ってことは、自転車どころか自動車まで城内に入ることができるようですね。
駐輪場はぶらっと松江観光案内所の脇にあるということで、ママチャリさんとはしばしのお別れ。
案内所に立ち寄って、パンフレットを入手するとともに・・・



登閣記念 国宝天守・松江城!・・・の御城印(300円)を、また登閣してもいないのにゲット。
3つの家紋は松江藩主を務めた3家のもので、最初に藩主を務めた堀尾家「分銅紋」、次いで藩主を務めた京極家「平四つ目ゆい、その後を受け明治維新まで藩主を務めた松平家「三つ葉葵」です。



うんぱく3城制覇!
(いずも)国の月山富田城【国指定史跡】に松江城【国指定史跡】。
耆(ほうき)国の米子城【国指定史跡】。
3つの御城印がそろったことで、「うんぱく3城御城印めぐりキャンペーン」への応募権を獲得!
さっそくこの場で応募しましたが、その結果はまた、別の話ということで。





大手道にそびえ立つ、二之丸の石垣。
いい画ですねぇ~、圧巻です。
2棟の櫓は、右が太鼓櫓【再建】、左が中櫓【再建】。



太鼓櫓下の石垣。
端整な算木積み、そして美しい扇の勾配ですねぇ。



二之丸上段へと続く三ノ門跡の石垣。
くさびを打ち込むために穿った矢穴がくっきり。



石をよく見ると、堀尾家の家紋「分銅紋」が描かれているものもありますね。





三ノ門跡を経由して、二之丸上段へ。



時を知らせる太鼓が置かれていたという太鼓櫓【再建】。
他の櫓とは異なってひさしが据え付けられているのは、人の出入りが比較的多かったからでしょうか。



こちらは中櫓【再建】。
幕末の図面では「御具足蔵」と記されているので、武具の保管庫であったものと考えられています。



二階建ての南櫓【再建】。
幕末の図面では「御召し蔵」とあったようです。
二階建てで城下町の方向を向いていたため、その監視をする役割があったものと考えられています。



この日の櫓の役割は、燈籠の保管庫といったところでしょうか。



南櫓付近からの眺め。
島根県庁のあるところは、松江城の三之丸にあたります。


本丸に上る前に・・・



石垣を見て回ります。



メインディッシュの天守【国宝】は次回で・・・。



荒々しい野面積みの石垣です。



こういう天守の画も、悪くありませんねぇ~。

 

松江城にも人柱伝説があるようです。
難工事だったことを物語るような石垣ですね。





二ノ門跡





一ノ門【再建】を経て、



ついに天守とご面会へ・・・!