鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

山陰本線を往く~麒麟が来た!

2020-02-24 | 鉄道の旅


令 和 元 年 神 無 月 十 八 日 ( 金 )

午 後 四 時 八 分

滋 賀 県 近 江 八 幡 市

J R 安 土 駅



観音寺城【国指定史跡】の登城が不完全燃焼に終わってしまい、失意のうちに安土駅に戻ってきたのでした。
1,200段の石段を上り下りした私の脚は、限界寸前のところまできていました。

・・・予定では、この旅で連日山城を上ることになっているのですが、私の脚は大丈夫でしょうか?

そんな心配をするようになってきました。
そして早いトコ宿に行って、さっさと寝てしまおう、明日も早いことだし。
そう考えて無駄な寄り道は一切せず、予約を入れた宿へ向かうこととしました。




安土駅からの電車は、16時20分発 琵琶湖線 普通電車 網干行きです。
京都駅から快速電車となって京都線に入り、大阪駅から神戸線に直通し、姫路を過ぎて網干駅まで進むロングラン列車です。
ま、私は京都駅で下りてしまうんですけどね。



安土駅から今宵の宿までも、「ニッポン城めぐり」の「城攻め」でお城と武将を集めていきます。
安土駅で電車を待っているときに「城攻め」をし、京極高次さんを登用しました。
高次さんの奥さまは、「浅井三姉妹」の次女・
またお姉さまは、豊臣秀吉の側室・竜子ということで、高次さんは「女の七光り」で出世した「蛍大名」と揶揄されたそうです。
しかし高次さん自身も決して無能ではなく、関ヶ原の戦いでは大津城に籠って西軍の大軍を引きつけ、本戦に間に合わせなかった大功を立てています。



16時20分、電車は定刻どおり安土駅を出発。


16時23分、安土駅のお隣・近江八幡駅にて「城攻め」。

 

長光寺城後藤館を攻略。
戦国時代の建築業界では有名人の田中吉政さんを登用しました。
田中さんは岡崎城柳川城の城主となり、それぞれ大規模な城下町形成を行って、現在にも残る街並みの礎を築きました。
また関ヶ原の戦いでは、西軍の首魁・石田三成を捕らえる大功を立てています。



長光寺城を攻略したことで、ご当地にちなむ異名・「瓶割り柴田」を獲得しました。


織田信長観音寺城を攻略した後、六角軍は南部の甲賀に逃げてゲリラ戦を展開していました。
その後信長は信長包囲網を敷かれ、周囲が一斉に敵となる状況に陥ります。
六角軍もこの機に乗じ、信長の重臣・柴田勝家が守る長光寺城に攻め寄せてきました。
六角軍は長光寺城の水利に難があることを見て取り、水源を絶ってきたのです。

このとき勝家は、城兵に水瓶を割らせて決死の覚悟をもたせ、城から打って出たのです。
柴田軍は死に物狂いで戦い、見事六角軍を撃退したそうです。



・・・ということなのですが、この話は伝説の域を出ていないのだとか。
「かかれ柴田」の異名をもつ猛将・柴田勝家らしいエピソードではあるのですが。


16時34分、守山駅にて・・・



金ヶ森城を攻略し、3名の武将を登用しました。
中でも長束(なつか)正家は、「豊臣五奉行」のひとり・・・



「豊臣五奉行」、集結!
甲府で浅野長政、彦根で石田三成
大垣で前田玄以、清洲で増田長盛
そして守山で長束正家を登用し、5名勢揃いとなったわけです。


16時50分、



瀬田川を渡りました。
瀬田川の向こうは、日本一の湖・琵琶湖です。
また瀬田川は滋賀県限定の名称で、京都府では宇治川、大阪府に入って淀川と名を変え、大阪湾に注ぐのです。



電車は滋賀県の県庁所在地・大津を通り過ぎ、京都に入ります。
そして17時06分、



ついに京都駅に到着。
ここで電車を下りました。




午 後 五 時 八 分

京 都 市 下 京 区

J R 京 都 駅


京都から先に進む電車は、



17時39分発 嵯峨野・山陰線 快速電車 福知山行きです。
嵯峨野線が発着するホームは、32番・33番のりばで、0番のりばの片隅にたたずんでいる場所、悪くいえばはじっこに追いやられているホームなのです。
先発の電車は、途中の亀岡止まりなので、福知山のさらに先に宿をとった私は次発の電車を待つことになります。

30分以上の待ち時間があるので、



京都駅のうどん屋さん・「麺家+さがの」で夕食とします。
この屋号の「+」って、なんなんでしょう?

券売機を見て、「きざみうどん」(410円)というものに興味を惹かれた私。
「きざみ」??? 関東では見ない表記です。刻まれた何かがトッピングされてでてくるのでしょうけど・・・?



きざみうどん、うまい!
刻まれていたのは油揚げでした。
きつねうどんのお揚げを細かく切ったやつか・・・と思いましたが、きつねとは違い、きざみのお揚げは味付けがされておりません。
そして、薬味となっている九条ネギも細かく刻まれていますね。

ダシの文化が根付いている関西ならではのおうどんです。
この旅のテーマに掲げた「土地土地のものを食べる」に合致するメニューといえるでしょう。うむうむ。


きざみうどんをいただきながらも、「城攻め」



「剣豪将軍」足利義輝が幕下に加わりました。



京都駅からは・・・



17時39分発 嵯峨野・山陰線 快速電車 福知山行きに乗車します。
山陰本線・・・京都駅から日本海側を進んで山口県の幡生(はたぶ)までの673.8kmを結ぶ、日本一の長距離路線です。
京都駅から園部駅までは、「嵯峨野線」という愛称がついています。

これまでは、日本第2位の路線・東海道線で京都までやってきました。
これからは、山陰本線という日本一の路線と真っ向勝負する旅となりますね。



17時39分、山陰本線の旅が始まりました。


京都駅から3駅目、快速だと京都の次の停車駅となっている二条駅にて。



日本100名城・第53番、二条城攻略!



織田家きっての名官吏・村井貞勝、室町幕府最後の将軍・足利義昭
そして「龍造寺四天王」のひとりである木下昌直・・・あんた、九州人じゃないのか?!
木下さんは元は京都出身だと考えられており、肥前の木下氏の養子となったのだといわれているそうな。



将軍様もわが幕下に加わりました・・・セリフはいたって普通、将軍様らしくありませんな。



二条から快速で3駅、亀岡駅へ。



丹波地方の重要な拠点であった丹波亀山城余部城田能城を攻略し、



麒麟が来た~!
令和2年(2020年)大河ドラマ「麒麟が来る」の主人公・明智光秀さんです!
そのお隣には、関ヶ原の戦いで東軍を勝利に導いた小早川秀秋さんもいらっしゃいます。
いわゆる「日本三大裏切者」のうちの二人と、この亀岡の地で顔を合わせることとなりました。
(秀秋さんは端っから東軍についていたから裏切っていないともいい、また光秀さんには本能寺冤罪説という説があります)
このお二人は、偶然にも丹波亀山城の城主を務めていたという経歴があるのです。

アクの強いお二人と、その間に挟まれる溝尾茂朝さんも登用していきます。



「石ころのような身分から・・・」
光秀さん独自のセリフですが、この出典元は『明智家法』という明智家臣団に対する軍法です。
そのあとがきに「石ころのような身分から引き立てていただき、過分な恩賞をいただいた。一族郎党は子孫に至るまで信長様への御奉公を忘れてはならない」とあるのです。
『明智家法』が記された1年後に、本能寺の変が起きてしまうのは、なんという皮肉でしょうか。
あるいはこの記述が、本能寺冤罪説の根拠のひとつともなっています。



18時17分、



園部駅に到着、こちらで車両4両が切り離しとなります。
終点の福知山駅までは2両編成となります。



19時35分、



続日本100名城・第158番、福知山城攻略!
そして、



終点の福知山駅に到着しました。

ちなみに駅名標の「いさ」は、福知山駅のひとつ前の駅です。
漢字で書くと石原、こんなの読めねえよ。




午 後 七 時 三 十 七 分

京 都 府 福 知 山 市

J R 福 知 山 駅




この日最後となる電車は、19時40分発 山陰本線 快速電車 城崎温泉行きです。
「快速 玄武洞通過」号ではないようですが・・・この快速電車の通過駅は玄武洞駅のみ。
私はその前の途中駅で下りてしまうので、実質各駅停車ですね。



レトロな感じの電車です。
113系電車115系電車? 私にはよくわかりませんが、これに乗って京都府を脱出します。




午 後 八 時 十 八 分

兵 庫 県 朝 来 市

J R 和 田 山 駅


福知山から5駅、



和田山駅に到着。
この日の鉄道の旅は、これにて終了。




雨降りしきる和田山駅。
信号機は縦型になっていますが、但馬地方は意外な豪雪地帯なのでしょうか。




駅から徒歩約10分、今宵のキャンプ地は~こことする!



【今回の乗車記録】

JR西日本 (A18)安土駅 3番線 16時20分発
[A]琵琶湖線(東海道線) 普通 京都線直通 網干行き 10両
(A31)京都駅 5番線 17時06分着

(E01)京都駅 33番線 17時39分発
[E]嵯峨野・山陰線 快速 福知山行き 6両
(E16)園部駅 4番線 18時17分着 後4両切離し
福知山駅 2番線 19時36分着

福知山駅 1番線 19時40分発
[E]山陰本線 快速 城崎温泉行き 2両ワンマン
和田山駅 4番線 20時18分着



*所要時間 3時間58分 (移動時間 3時間21分 乗換時間 37分)
*移動距離 161.8km
*運賃   秋の乗り放題パス使用(使用しない場合、3,020円)



【今回の「城攻め」成果】

[A]琵琶湖線(東海道線)
16時11分 JR-A18 安土駅  京極高次を登用。
16時23分 JR-A19 近江八幡駅  長光寺城後藤館を攻略、田中吉政を登用。
             「瓶割り柴田」の異名を獲得。
16時27分 JR-A20 篠原駅  星ヶ崎城桜生城を攻略。
16時29分 JR-A20・21 篠原駅・野洲駅間  永原城小堤城山城を攻略。
16時34分 JR-A22 守山駅  金ケ森城を攻略。
             長束正家河田長親金森長近を登用。
16時37分 JR-A23 栗東(りっとう)駅  芦浦観音寺館青地城を攻略。
16時44分 JR-A25 南草津駅 瀬田城を攻略。
16時53分 JR-A28 膳所(ぜぜ)駅  膳所城を攻略。
16時57分 JR-A29 大津駅  大津城を攻略。
17時00分 JR-A30 山科駅  山科本願寺を攻略。

[E]嵯峨野・山陰線
17時23分 JR-E01 京都駅  吉祥院城を攻略、足利義輝一色藤長を登用。
17時43分 JR-E03 二条駅  二条城【日本100名城・第53番】と小泉城を攻略。
             村井貞勝木下昌直足利義昭を登用。
17時51分 JR-E08 嵯峨嵐山駅  嵐山城高雄城を攻略。
17時59分 JR-E11 亀岡駅  亀山城(丹波亀山城)余部城田能城を攻略。
             明智光秀小早川秀秋溝尾茂朝を登用。
18時05分 JR-E13 千代川駅 八木城を攻略、内藤如安を登用。
18時18分 JR-E16 園部駅  園部城橋爪城を攻略。
18時34分 鍼灸大学前駅(園部から3駅) 塩貝城今宮城を攻略。
                   蜷川親長を登用。
19時00分 安栖里(あせり)駅(園部から7駅)  出野城を攻略。
19時12分 山家駅 (園部から9駅)  八田城を攻略。
19時23分 綾部駅 (園部から12駅)  綾部城を攻略。
19時30分 石原駅 (綾部から2駅)  石原城を攻略。
19時35分 福知山駅到着前       福知山城【続日本100名城・第158番】を攻略。
                   有馬豊氏小野木重次明智秀満を登用。
20時00分 下夜久野駅(福知山から2駅) 鳴岩城を攻略。





観音寺城登城・後編~打ち棄てられた城

2020-02-24 | 城郭【日本100名城】


令 和 元 年 神 無 月 十 八 日 ( 金 )

午 後 二 時 三 十 三 分

滋 賀 県 近 江 八 幡 市

西 国 三 十 三 箇 所 三 十 二 番 札 所 ・ 観 音 正 寺





観音正寺の大仏様。
そのお背中に回り、



観音寺城本丸や、多くの曲輪に続く通路の入口となる木戸へ。
この木戸、ひっそりと隠れるかのように存在していて、事前にリサーチしておかないと見逃してしまいそうです。
観音正寺の境内にこの木戸を案内するような掲示物はまったくなく、観音正寺が観光地として顧みられていないことをあらためて感じます。



木戸をあけて通路に入ります。
観音正寺から下っていく細い道に、草木が繁茂して迫っているような感じ。
天気は小雨と本降りを繰り返す、城めぐりには不利な状況。



すっかり苔むしてしまった石垣。
六角氏時代のものだとすると、400年以上の歳月がたっていることとなります。

 

石垣を成すひとつひとつの石が、ただ単に積みあげられているのではなく、成型されているように見えます。
石垣の隅に至っては、直方体の石の長辺と短辺を交互に積む算木積みでしょうか。
算木積みは慶長年間(安土桃山時代末期)にあらわれる技術のはずですが、観音寺城ではそれ以前から用いられていたのでしょうか。

石垣ひとつを見ても、観音寺城が当時としては最先端の技術を有する異次元の名城であったことがわかります。
いやいや、観音寺城があった当時は石垣がふんだんに用いられている時点で画期的だったんですけどね。




さらに進みます。
虫やら動物やらがあまり得意でない私にとっては、こういう道を通るだけでもひと苦労です。



分かれ道が現れました。



路傍の看板によれば、本丸はここを左折したところにあるようです。



けもの道じゃねぇのか?!
辛うじて人が踏み分けた道が通っているようですが・・・やだなぁ~。


ん? 雨が強くなってきたなぁ。
やむを得まい、ここは撤退だ!



一応、ここで「城攻め」でもやっておくか。



日本100名城・第52番、観音寺城



日本100名城・第51番、安土城



ここではお蘭森蘭丸さんが家臣に加わりました。




午 後 二 時 四 十 八 分

下 山 へ


ヘビでも出そうな草ぼうぼうの小道に恐れをなし雨が強くなってきたため、断腸の思いで下山を決断しました。



手すりのついている整備された石段を下りていきます。



しかし安全性の高い石段は、林道経由の駐車場のところまで。
残りの約3分の2は、手すりのない石段を下りなければなりません。
天候は降雨、私の左手には杖、右手には傘と、危険な下山を余儀なくされます。
雨のため、石段は滑りやすくなっています。


下山中1回だけ滑ってしまい、尻餅をついてしまいました。
尻餅程度で済んで本当に良かった・・・。




登るときはわからなかった、下り方向への分かれ道。
石寺楽市へは、右の道を下りるのが正解です。


下り始めてから20分強、



長い長い1,200段!の石段は終わり、コンクリートの坂道へ。
下り坂ももうすぐ終わりですが、雨の降っている下り坂はまったく油断できません。
慎重に、慎重に・・・。




午 後 三 時 廿 三 分

石 寺 楽 市 会 館 に 帰 還


はぁぁぁ・・・なんとか無事に帰って来られました。



拝借した杖をお返しして、JR安土駅に戻るとしましょう。
その前に石寺楽市で「城攻め」・・・



観音寺城の支城であった箕作(みつくり)を攻略できました。




午 後 三 時 五 十 分

J R 安 土 駅 前


きぬがさ山を下山した頃には、雨も小降りになっていました。
私は「信長号」にまたがり、往路と同じ経路をたどって・・・



駅前のレンタサイクルふかおさんまで戻ってきました。


店内の媼とその息子氏に、無念ながらも途中で撤退したことを報告。
観音寺城のリベンジをすることを誓って、「信長号」を返却しました。



今回は、鍵の借りパクはしませんでした。





観音正寺参拝

2020-02-24 | 寺院仏閣


令 和 元 年 神 無 月 十 八 日 ( 金 )

午 後 二 時 十 八 分

滋 賀 県 近 江 八 幡 市

西 国 三 十 三 箇 所 第 三 十 二 番 札 所 ・ 観 音 正 寺





観音正寺が鎮座する(きぬがさ)



ふもとの石寺楽市会館前から徒歩で登り、



約40分かけて踏破しました。
疲労困憊の私はしばし座り込んでしまいましたが、そこに無情にも雨が降り始めてしまいました。

この日の滋賀県の天気予報は、あまり芳しいものではありませんでした。
このまま時を過ごしては雨が本降りになり、下山も困難なものになってしまうかもしれません・・・。

意を決して、まずは観音正寺の境内を歩いて息を整え、しかるのちに観音寺城の散策をすることとしました。




一筋の参道に、伽藍が建ち並ぶ境内。



きのこのような?小さなほこら。
中には北向地蔵が安置されています。



なんらかの仏堂かと思っていたのですが、方丈だそうです。
方丈とは、寺院の住職が生活する建物のことをいいます。



なんという絶景!
この眺めだけでも、繖山を踏破して良かったと感じられます。
また登りたいかといえば、それは話は別ですが。



大仏様でしょうか? わが本拠の近所にあるKヶ谷大仏よりも大きくなさそうです。
正式名は濡仏阿弥陀如来坐像といい、昭和58年(1983年)に製像されたそうです。
もともとは江戸時代に造られたものだったのですが、戦時中の金属供出にあってしまい、現在の像は2代目なんだそうです。

観音寺城を訪れた方は、この大仏様?が大きな目印となりますよぉ~。



境内の奥に構える本堂
平成16年(2004年)に落慶した、比較的新しい仏堂です。
旧本堂は彦根城欅御殿を拝領、移築したものだったのですが、平成5年(1993年)に焼失してしまったのです。


観音正寺は、聖徳太子ゆかりの寺院とされています。
伝承によれば、推古天皇13年(605年)太子がこの地を訪れた際に、自ら千手観音像を彫って祀ったといいます。
実際の創建時期はよくわかっていませんが、11世紀の平安時代にはすでに存在していたようです。

鎌倉時代以降は、佐々木六角氏の居城・観音寺城とともに立ち、寺は六角氏の庇護を得て大いに栄えました。
戦国時代になると観音寺城が拡張されていき、寺は城に取り込まれ、やがては山上からふもとに移転することとなります。
しかし六角氏が織田信長に敗れ去ると、観音正寺は山上の現在の場所に再興しています。





本堂横にある石積みの山・・・これは何を意味するのでしょうか?
そばに「西国三十三ヶ所巡礼 三十八ヵ度 四国八十八ヶ所巡礼 三十八ヵ度」なんて石碑が立っています。
小さく「巡礼功徳石」ともありますので、この石積みをお参りしたら西国を38周&四国を38周したことと同じ!ってことなのでしょうか?

八十八箇所を3周するって、すごいことだよ~
(どうでしょうゼミナール 大泉校長)



本堂でお詣りしつつひと休みしていましたが、悲しいことに雨が本降りになってきました。
こうなっては、観音寺城の登城を急がなければなりません。



先ほどの大仏様。



その背中に回ると、ひっそりとたたずんでいる簡素な木戸。
この木戸こそ、観音寺城へと続く通路の入口なのです。



登山の疲労が抜け切れないところに、本降りとなってきた雨。
観音寺城、なかなか手ごわいようですね。





観音寺城登城・前編~きぬがさ山を登る

2020-02-24 | 城郭【日本100名城】


令 和 元 年 神 無 月 十 八 日 ( 金 )

午 後 十 二 時 五 十 四 分

滋 賀 県 近 江 八 幡 市

J R 安 土 駅



横浜を発って約7時間半。



100名城登城の旅・3回目の安土駅です。
電車を下りてまず感じたのは、おお~、駅がきれいになった!



↑5年前の安土駅。



↑今回の安土駅。



駅前にお立ちの信長公は相変わらずでしたが、その視線の先にある駅舎は、平屋駅舎から橋上駅舎になりました。
橋上駅舎になったおかげで、安土駅は従来の北口に加えて南口もできたのです。
南北は地下道で結ばれ、利便性が飛躍的に向上したのです。


そして今回も、

 (戻ってきたときに撮影したため、路面が雨で濡れています)

安土駅の向かいにある「レンタサイクルふかお」さんのお世話になります。



↑5年前の「ふかお」さん。
5年の歳月は、安土の駅舎も「ふかお」さんも変えてしまったようでした。

5年前は、雨がっぱを借りたり、手荷物を雨から守るためにビニール袋をもらったりと、いろいろとよくしてくださった翁と媼。
さらには私のミスから自転車のキーを借りパクしてしまったあとも、お電話で優しく応対してくださった翁。

今回お出ましになったのは、媼と、若返り過ぎた翁。
いや、翁ではなく、老夫妻のご子息と思われる初老の人物でした。
おそらく翁は・・・・・・。
それでも媼は健在で、5年前に鍵を借りパクして岡山まで持ち去ったバカな旅人を覚えてくださったようです。
今回は重々注意しなければなりませんね。



この旅最初の目的地と定めたところ・・・それは観音寺城【国指定史跡】。
(きぬがさ)全体を城となし、さらには城全体を石垣で造成したという、当時にしては異次元の城。
あの信長も、安土城を築城する際におおいに参考にしたといわれている名城なのです。

今回は観音寺城に行く旨を媼に伝えると、そこまでの道順を教えてくださいました。
私は借用料(1日1,000円)を支払い、



信長号、ふたたび出陣!
荷物はコインロッカーに預けて、最小限の手荷物のみで向かいます。


安土駅の北口にある安土駅観光案内所
こちらで観音寺城のパンフレットなどを入手しようと思ったのですが・・・

観音寺城のパンフ、いっさいなし!

有志の方の自費出版による冊子以外、登城の助けとなりそうな資料はいっさいありません。
そしてその冊子は、薄っぺらいのに2,000円弱もするのです。
観音寺城が観光資源としてまったく顧みられていないようです。



私は信長号にまたがって、観音寺城へ。
まずは安土駅の南北をつなぐ地下通路を通って、駅の南側へ。
地下通路を出たら左へ進み、跨線橋をめざします。

跨線橋に出たら、そのまま橋とは逆方向に進んでいきます。



「観音寺城跡 ↑(直進)2.3km」
この看板が出てきたら、要注意。



すぐ先の分岐路で左折したほうが、近道になります。
小さな立て看板がひょっこりとたたずんでいて、見落としがちなポイントですね。



田園風景の中を進んでいくと現れる、コバヤシ滋賀工場



その手前の丁字路を曲がると、繖山の中腹まで行ける林道へと続きます。
車で登城するときは、こちらから上るといいでしょう。
私は信長号とともに、さらに進んでいきます。



田園にそびえ立つ繖山
観音寺城の城址とともに、現在も観音正寺が構えられています。



さらに進んでいくと、飛び出し坊や
その先にある建物が、石寺楽市というお土産物屋さん。
100名城のスタンプはこちらでももらうことができます。



こちらでもらったスタンプ。
5年前は時間の関係で、スタンプだけゲットして帰ってしまったんですが・・・
今回は観音寺城を実際に登城しようというのです。
あの繖山を、己の健脚で踏破していきますよぉ~。



石寺楽市の駐車場で、信長号を降ります。
楽市さんで杖を借り、ここからは徒歩での山登りが始まります。



【安土駅→石寺楽市の行程】



安土駅北口 13時01分発
滋賀県道201号・安土西生来(にしょうらい)線経由
石寺楽市・観音正寺参道入口 13時22分着

*所要時間 21分
*移動距離 3.5km



午 後 一 時 廿 五 分

石 寺 楽 市 会 館

こ れ よ り 繖 山 を 登 る




観音寺城の登城道は、同時に観音正寺の参道でもあります。
観音正寺は、西国三十三箇所霊場の第32番札所。
ここから西国三十三箇所めぐりも開始しようかとは思いましたが、まだ坂東三十三箇所も結願していない身としては、まだまだ先の話でしょうな。



歩き始めて3分もたたないうちに、早くも傾斜のきつい坂が現れます。



そのまま進み、日吉神社へ。



神社の脇から伸びる道が、観音寺城の登城口となっています。
登城口は2本あり、鳥居の脇から上る道は赤坂道といい、観音正寺の参道となっています。
もう1本は、鳥居の脇で左折する道。



こちらは、日吉神社とは別の社・天満宮へと続いています。



天満宮への参道から、往時の石垣が見えました。
石垣の上に鎮座しているのが、天満宮です。



石垣を正面から見ると、こんな具合です。
そしてその足下から、もう1本の登城道である追手道が伸びています。
その前に・・・



天満宮で、登城の無事を祈願。
この場所は伝御屋形跡、すなわち観音寺城の城主が平時に住まう場所だったと考えられています。
観音寺城の城主は代々六角氏(佐々木六角氏)が務め、大名としての六角氏が滅亡するとほぼ同じくして観音寺城も廃城となりました。



観音寺城の主要部にまっすぐに通じている追手道を進もうとしますが・・・
思った以上に草木が茂っているような気がしますなぁ。
読者の皆様はご存知のとおり、私は虫やヘビやイノシシやクマやらの動物には会いたくないので・・・





観音正寺の参道である赤坂道をたどることとしました。




参道のところどころで、打ち棄てられた観音寺城の石垣を見ることができます。
石垣が本格的に造成されるのは織田信長安土城が築城されてからのことなのですが、観音寺城は安土城以前の城郭なのにもかかわらず、石垣がふんだんに用いられていました。




道が険しくなっていく・・・。
そして誰も上っている人はおらず、下りてくる人もいません。
空も雨模様で、とにかく心細かったです。



参道の路傍に立っている石標。「六丁」とあります。
これは何を表すのだろう・・・?
「富士山の『五合目』」のような意味なのか・・・だとしたら、「十丁」=十合目=山頂だから、半分は来ているんだろうなと考えて、登っていきました。




「六丁」の石標から約3分、「七丁」の石標まで到達。
息遣いは荒く、つらい山登りが続きますが、なかなかいいペースじゃないでしょうか。



「七丁」から登ってすぐのところに、休憩用のあずまやが建っていました。
一息入れたいところですが、ここで休んでしまったら私はしばらく動かないだろう・・・己をわかっているので、歩みを止めることなくそのまま進みます。




石垣?・・・ではないでしょうね。
「火の用心」のドラム缶が立っているこちらは、繖山林道の終点となっている駐車場。
自動車で山を上ってきた皆様は、ここから山登りが始まります。

駐車場を見ると、停まっている車が数台。
この参道を誰かが歩いているということを意味しています。
この事実がわかっただけでも、山登りの心細さはぐっと減っていくものですね。



「西国第三十二番霊場 繖山 観音正寺」の石標。
その傍らには、登山者のための杖が備えてあります。


駐車場から先の参道は石段に手すりが備わり、駐車場到達前の参道とは比較にならないくらいに登りやすくなっています。



「三十二、人はあるものを粗末にし、ないものを欲しがる」
手すりの足元に、ありがたい格言が記されている木札が結び付けられています。
観音正寺さんからのお言葉を噛みしめながら・・・などという余裕はまったくありません。
木札の漢数字「三十二」がカウントダウンであると察したので、まだまだ終わらないんだな・・・と気落ちしてしまいます。






ところどころに残る石垣。
観音寺城は本当に石垣がごろごろ点在していますね。




「十丁」の石標が立っていますが、参道はなおも続きます。
「十丁」=十合目ではなかったんですね。
ここからは、格言のカウントダウンを頼りに進んでいきました。



そして午後2時06分、日吉神社から歩き始めて約25分。



観音正寺の境内に到着しました。



「一、人の一生に厄年はない。躍進の『やく』と考えよ」
最後の石段のそばで、最後の格言が石標となって私に語りかけてくれました。



横を見ると、「十二丁」の石標が立っていました。
十丁にとどまらず、十二丁まであったんですね。



あとで調べてわかったのですが、「丁」=「町」は距離の単位で、1丁=約110メートルなのだそうです。
そして12丁はだいたい1,300メートル強、地図で見ると石寺から始まる参道の長さと同じくらいです。



参道のスタート地点の灯籠の前に、從是(これより)観音正寺 十二丁」という石標があったではありませんか!




午 後 二 時 七 分

観 音 正 寺 境 内


疲れた・・・・・・・。

境内入口にある木のベンチに座り込んでしまいました。さらに、

雨が降ってきた・・・・・・。

ううむ、この安土の地では毎回天気に恵まれないのぅ。
それはそうと、



繖山からの眺望、素晴らしい!
観音正寺から南西方向を眺めると、近江八幡市街が眼下に広がっています。
平地を真っ二つに分ける、東海道新幹線の筋。
画像中央右側にひょっこり頭を出しているのは、「近江富士」の異名をとる三上山です。

画像左中央の山は長光寺山で、かつて織田家の猛将・柴田勝家が奮戦した地でもあります。
勝家は城内の水瓶を叩き割り、城兵に決死の覚悟を示して出撃し、攻め寄せた六角義賢(よしかた)の軍勢を撃退したのです。
この「瓶割り柴田」の逸話を産んだ長光寺山はも、後世「瓶割山」と呼ばれるようになったのです。

長光寺山にあった南西の長光寺城、画像には写っていませんが南東の箕作城、同じく写ってはいませんが北東の和田山城・・・。
観音寺城は、その周囲に多くの支城を構えていました。
観音寺城自体は総石垣造りではありますが、あまり堅固な要塞ではなかったようで、本城・支城相互の連携で敵を撃退するタイプの城郭だったと考えられています。




仁王像が参拝者を出迎えます。
その傍らには受付小屋があり、こちらで拝観料500円を支払う必要があります。



繖山、佐々木六角、観音寺城跡!


六角氏佐々木源氏の嫡流で、鎌倉幕府成立以来、代々近江守護の要職にありました。
室町時代に入ると、六角氏と同じ佐々木源氏の庶流・京極氏から佐々木道誉(京極高氏)が出て、足利尊氏の創業に大きく貢献しました。
六角氏は依然として近江守護を務めましたが、京極氏は出雲守護、飛騨守護に就き、また近江国でも守護使不入(守護の支配を受けない)の地を有するなど台頭していき、さらに3代将軍・足利義満の頃には「四職」のひとつとされて幕府の要職に就くなど、嫡流と庶流の力関係が逆転していきました。

六角氏12代・六角高頼は、応仁の乱で西軍につき、その後は足利将軍家とたびたび対立したため居城の観音寺城が何度も奪われますが、そのたびに奪還しました。
同時に国人衆(在地の武士)の組織化を進めていき、次代の定頼の代に最盛期を迎えます。
定頼は城割を命じ、家臣団を観音寺城に集めて住まわせました。
この城割は、のちの江戸幕府が行った一国一城令のさきがけとなるものだったといいます。
また定頼は、城下に楽市令を出して店舗の開設を自由化し、経済活動を活性化させました。
この楽市令は、のちに織田信長によって楽市楽座に発展していくのです。

定頼の死後、嫡男の義賢が継いだ頃から、六角氏は斜陽に入ります。
定頼の代に従属していた北近江の浅井氏が独立の構えをとったため合戦に及びますが、野良田の戦いで若き当主・浅井長政に敗れてしまいます。
義賢の子・義治の代になると、筆頭家老・後藤賢豊(かたとよ)と対立して謀殺する観音寺騒動が起きてしまいます。
義治が権力強化を図ったために起きたとされていますが、これで家臣が猛反発、義賢・義治父子は一時観音寺城を追われてしまいます。
義賢・義治父子はほどなく復帰しますが、家臣の起草による六角氏式目を承認させられることとなりました。

永禄11年(1568年)織田信長足利義昭を奉じて上洛を開始すると、六角義治はこれに抗戦します。
しかし観音寺城周辺での戦いは大敗し、六角氏は観音寺城を放棄することとなりました。
近江南部の甲賀で信長に抗戦し続けましたが、信長が近畿一帯を制圧していくと甲賀を棄てて逃亡し、大名としての六角氏は滅亡しました。

六角父子は生き延び、信長の死後に天下人となった豊臣秀吉に仕えたといいます。



ときは令和に変わり、御朱印ならぬ御城印なるものが現れたのです。
そしてここ観音寺城でも、御城印を取り扱っていました。
タイプは2種類で、佐々木六角! 観音寺城跡観音寺城跡! 佐々木六角・・・要するに中央の大文字が大名か城かという違いです。
寺院の御朱印は中央にご本尊が記されるものですから、これに倣って中央に大名家が記されているものを選びました。

初めての御城印を観音正寺で購入し、しばし境内を散策することとしました。