土浦城【茨城県指定史跡】を登城し、
JR土浦駅に戻ってきました。
時刻は午前9時を回ったばかり、順調な滑り出しと言っていいでしょう。
次に訪れる城は、同じ茨城県の笠間城。
そこで今度の電車は、9時36分発 常磐線 普通電車 勝田行きです。
先発の電車は9時17分発の特急電車ですが、18きっぷでは特急に乗ることができません。
9時17分発の電車!?
おおぅ、横須賀線が遅延ですか・・・
そんなことではなくて、東海道線、宇都宮線、高崎線に加え、常磐線までもが遅延のオレンジ色に染まっているではありませんか!
そういえば土浦に到着する前、車内の電光掲示板にこのような情報が表示されていました。
【東海道線 運転見合わせ Tokaido Line operation stopped】東海道線は、7時39分に平塚駅で発生した人身事故の影響で、運転を見合わせています。
上野東京ラインにより常磐線が品川まで直通するようになったため、東海道線の人身事故が常磐線にまで及んできたのです。
18きっぷで旅する者にとって、運行トラブルは天敵そのもの。
これから笠間に向かうには、水戸の手前の友部駅で水戸線に乗り換える必要がありますが、水戸線は常磐線ほど本数は多くありません。
友部駅での乗継時間は数分程度なので、ダイヤの乱れによって乗継ぎができなくなる恐れがあったのです。
そこでまずは土浦駅の駅員さんに確認。
『ダイヤが乱れていますが、友部駅で水戸線は接続を待ってくれますかねぇ?』
駅員「数分程度なら接続を待つとは思いますが、10分以上遅れている現状ではなんとも言えませんねぇ」
そこでひとつの決断を迫られます。
自腹を切って、先にやってくる特急に乗り、水戸線への乗継ぎを確実なものとするか。
あくまで18きっぷにこだわり、後からやってくる普通電車に乗り、水戸線が接続を待つことに賭けるか。
普通電車が友部駅の2番線に到着。
その隣りの3番線に、水戸線の電車がスタンバイしています!
・・・勝った。
土浦駅に23分遅れで到着した普通電車は、なんと遅れを取り戻していき友部駅には14分遅れで到着。
10時21分発 水戸線 普通電車 小山行きは接続を待ち、8分遅れで出発したのでした。
10時37分、
8分遅れとはなりましたが、予定外の出費をすることなく笠間駅に到着したのでした。
【今回の乗車記録】
JR東日本 土浦駅 1番線 9時59分発(遅れ23分)
■常磐線 普通 勝田行き 10両
友部駅 2番線 10時27分着(遅れ14分)
友部駅 3番線 10時29分発(遅れ8分)
■水戸線 普通 小山行き 5両
笠間駅 2番線 10時37分着(遅れ8分)
*所要時間 38分 (移動時間 36分 乗換時間 2分)
*移動距離 41.9km
*運賃 18きっぷ使用(不使用の場合は、IC運賃756円)
駅から出て右側にある観光案内所。
笠間駅から笠間城の入口まではおよそ2kmほどありそうだったので、ここでレンタサイクルを借りることにしました。
自転車は、普通のママチャリ(1日300円)と電チャリ(1日500円)の2種類。
笠間城に行くことを伝えると、本丸最寄りの駐車場までは山道がキツイというので、今回は電チャリを借りることとしました。
観光案内所のあたりからまっすぐ伸びる道を進みます。
この道も少~しだけですが上り坂、電チャリが威力を発揮していきます。
かたわらに笠間稲荷神社の灯籠が立つ交差点で右折、門前通りに入ります。
笠間稲荷神社の大鳥居の前を素通り。
門前通りの突当りにある井筒屋。
続100名城のスタンプはこの中でもらえるというので、こちらに立ち寄ることとしました。
それにしても、この日はとても暑かったです。
中に入ると・・・いや~、涼しい!
お話し好きと思われる係員のおじさまからスタンプを預かり、
112番、笠間城!
井筒屋は明治から続く老舗の旅館でしたが、東日本大震災の被害を受け、そのまま廃業に追い込まれてしまいました。
その後建物は改修がなされ、「かさま歴史交流館 井筒屋」として生まれ変わりました。
井筒屋の2階には、笠間の歴史についての資料が展示されています。
笠間城は、宇都宮氏の一族であった笠間時朝により、嘉禎元年(1235年)ごろ築城され、以降笠間氏が歴代の城主を務めていきます。
天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐で、主家の宇都宮氏は豊臣方についたのですが、笠間氏は主家に反して北条氏についたため、主家に攻められて没落しました。
その後は宇都宮氏の家臣が城主を務めましたが、宇都宮氏が領地を没収され、宇都宮城に蒲生秀行が入ると、その家臣・蒲生郷成が城主となりました。
郷成は笠間の城下町を整備し、笠間城の改修も行いました。
関ヶ原合戦の後は、松平康重が初代笠間藩主となりました。
元和8年(1622年)から正保2年(1645年)までは、浅野長重(豊臣五奉行のひとり・長政の三男)と長直の父子が笠間を治め、現在の町割に引き継がれる城下町が形成されました。
延享4年(1747年)に牧野氏が藩主となり、そのまま明治維新をむかえました。
江戸時代に書かれたとされる笠間城絵図、
江戸時代当時の笠間城のジオラマ模型で、これから登る城の情報を頭に叩き込んでおきます。
笠間城の建築物は、市内の3ヶ所に移築されて現存しているようです。
笠間城のパンフレットはありません。
リーフレットが1枚、裏面には地図がありますが・・・おそらくは国土地理院発行の地形図をそのままコピーしたものらしく、わかりづらいです。
職員のおじさまに笠間城への道順を尋ねると・・・
「ここ(井筒屋)から出て右にすぐ丁字路があるので、ここを曲がってください」
うむうむ、観光案内所で聞いたとおりですな。
「そこから近くのところに公営の駐車場があって、そこから登山道があります」
なにぃ?! 観光案内所とおじさまとで意見が分かれているではありませんか!
どちらの案を採るか・・・それは後で考えることとしましょう。
おじさまのお話によると、笠間城の八幡台櫓が近くにあるようです。
まずはそこに向かうとしましょう。
井筒屋前の道をそのまま北へ約700メートル。
真浄寺というお寺。
境内の高台にあって、寺の本堂の役割を担っているのが、八幡台櫓(笠間城櫓)【茨城県指定文化財】です。
八幡台櫓は、笠間城本丸にあった3基の櫓のひとつです。
「旧笠間城櫓」として文化財登録されています。
数少ない笠間城の現存建物を拝見したら、再び井筒屋の方に戻ります。
井筒屋近くの丁字路を曲がり、いよいよ笠間城へと登っていきます。
丁字路に入って進むと、程なく大石邸址が見えてきます。
浅野長重・長直父子のころ、山上の本丸にあった御殿が城下町近くに移されました。
浅野家の家老を務めた大石氏の屋敷も、御殿の近くに造られました。
浅野氏の後に就いた藩主も、ここを家老の屋敷としたようです。
大石、浅野といえば、「忠臣蔵」でおなじみ赤穂の主従。
笠間の城下町を整備した浅野長直は、その後赤穂へと移封になります。
長直の孫・長矩(内匠頭)の刃傷沙汰がきっかけとなった赤穂事件。
討入りを指揮した大石内蔵助良雄の銅像が立っています。
しかしながら内蔵助は万治2年(1659年)に生まれていますので、内蔵助本人と笠間の地との関係はありません。
笠間日動美術館に入る分かれ道に入り、きつい上り坂を進んでいくと・・・
公園があり、そこが城主下屋敷跡です。
ここから本丸への登山道があるらしいのですが・・・・・・続きは後編へ。