goo blog サービス終了のお知らせ 

鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

隠れた名所・市川高圓寺

2014-06-02 | 寺院仏閣

2 0 1 4 年 5 月 2 日 ( 金 )

午 前 1 0 時 0 5 分

千 葉 県 市 川 市



葛飾八幡宮から移動し、国道14号から外れた住宅街にて。



「高円寺のふじまつり」の立て看板です。
看板のとおりに道を進むと、



藤の花飾りが電信柱に据え付けてありました。
これを頼りに住宅街を進んでいきます。



住宅街にちょうちんが飾ってある一画。
ちょうちんには「高圓寺」と書いてあります。



高圓寺に着きました。
4月末には時間の都合上行けなかったお寺です。

このお寺はたいそう素晴らしい藤棚があるということで、市川地域では有名なところなのだとか。
あくまで「市川地域」限定です(^_^;)

入場は無料です。
この日はふじまつりの時期ともあって、境内の中には出店が3軒ほど出ていました。


高圓寺の藤棚「長寿藤」です。
樹齢はおよそ200年、藤棚の面積はおよそ100平方メートルもあります。



あれ・・・? なんかちがうな・・・。



なんか、こう、藤の花がぎっしりと咲き揃っているような光景を想像していたのに、これじゃあ・・・。



地面には藤の花が散っています。
そういえば2日前の4月30日、千葉・東京にまとまった雨が降りました。
雨が降っていなければ、私の思い描く藤棚が見られたはずです。



まぁ、「藤のじゅうたん」というのもなかなかいいかもしれませんな。



それにしてもなかなか大きな藤棚です。
つり下がる藤の花には1mを超えるものもありました。



これだけ大きな藤棚なので、当然虫も多く飛んできます。



そこはかとなく耳に入る羽音。
丸っこい黒い体、黄色い胸部が印象的・・・クマバチです。

その大きさ、その羽音の物騒さ(?)、その名前のインパクトに反して、とてもおとなしいハチとされています。
花の蜜が大好物。とくに藤の花との相性は抜群で、藤とクマバチは花粉媒介の関係です。
こちらから害を与えて怒らせるなどしない限りは刺さないうえに、オスはその刺す針すら持っていないのだそうです。

「クマンバチ」という呼ばれ方もしますが、「クマンバチ」はスズメバチの別称でもあります。
(地域によってはスズメバチを「クマンバチ」と呼ぶところもあるそうです)
そのため、その温厚な性質とは裏腹に、恐怖の対象となってしまっているそうです。



高圓寺の藤棚にもクマバチがたくさん飛来していました。
クマバチは羽音で藤を眺める人々を驚かすものの、人々を襲うことはなく、花から花へと飛び回っていました。


高圓寺は、法華経寺(日蓮宗の大本山)の第2代貫主・日高によって開かれたそうです。
日高は鎌倉時代後期の高僧で、高圓寺の歴史の深さが伺えます。

現在の高圓寺は、住宅街にある小さなお寺です。
境内の散策も、2分ほどですべて回れるくらいです。



藤棚の向かいには、七福神の像が安置された岩場。



藤棚越しからの、たぶん本堂と思われるお堂です。



ニシキゴイの泳ぐ池。
お寺さんというより日本庭園に来ている感じです。



池のそばにも小さな藤棚がありました。
近くの木々に護られたからか、藤の花はあまり散っていませんでした。


大きな藤棚を維持していくことは並大抵のことではないようです。
境内の出口に募金箱が置いてありました。

私は、財布の中から100円玉を出して、箱に投入しました。
賽銭をケチっているいつもの私とは違います!!

いやいや、来年も、来年こそは満開の藤棚が見られるように・・・
そういった願いを込めての100円玉です。



午前10時30分、東京・横浜に向けて出発しました。




三度目詣で・松虫寺

2014-03-13 | 寺院仏閣


2 0 1 4 年 1 月 7 日 ( 火 )

午 後 2 時 3 1 分

千 葉 県 印 西 市

摩 尼 山 松 虫 寺



神崎神社に参拝してちょっとばかりホッとした私は、拙宅に戻る途中にある松虫寺というおもしろい名前の寺をめざしました。


地図を見る限り、軽自動車がやっと通れるような道を上ったところにあるんだろうな~と考えていました。
そして実際、自分がたどった道は、ちょっと狭い道を上るというものでした。

鬼ヅモの大会にて会員の前で「行く行く」と言いつつ、立ち寄ることのなかった松虫寺。
その松虫寺を、ついにこの日、参拝するのだ・・・・・・



と自分の中で感慨に浸りつつチャリを押し進めていると、じつに突然に、あっさりと仁王門が目に入ってしまいました。
「あ、ここね・・・」
細い道の曲がり角を曲がると、すぐに仁王門が目に入った感じ。


松虫寺の由緒は、なんと奈良時代にまでさかのぼります。

時の帝は、奈良の大仏を鋳造させた聖武天皇
天皇には松虫姫という皇女さまがいらっしゃいました。
松虫姫のお身体は謎の病弱で、いかなる道士に加持祈祷をさせても治りませんでした。
(現在でいうところのハンセン氏病と考えられています)

ある晩、松虫姫の夢枕に薬師如来が現れ、姫にお告げを与えます。
「わたしは印旛沼のほとりの萩原郷におるので、わたしを捜して参られよ」

姫はそのことを天皇に伝え、下総国への下向を訴えました。
父である天皇はその願いを聞き届け、乳母の杉自、護衛役の権太夫と大勢の兵士、そして奈良時代きってのスーパー僧侶・行基をお供につけました。

病弱の身である姫にとってはとても大変な旅であったでしょう。
山賊に襲われた際には、権太夫らがねじ伏せました。
印旛沼が大水で渡れないときには、行基が祈って、モーセのごとく大水を鎮めて道を拓いたといいます。
護衛の兵士が次々脱落するという難儀な旅の末、松虫姫の一行は下総国の萩原郷に着くことができました。

姫はひっそりと祀られている薬師如来のお堂を見つけ、そこで勤行に励みました。
すると、誰もが治らないと思っていた姫の病は治っていきました。

村人たちは、姫の一行をたいそう温かくもてなしたそうです。
そこで一行は、都・奈良の文化を村の住民に教えてあげました。

姫は病が完治したので、都に戻ることになりました。
乳母の杉自は、村人に慕われていたこともあり、また年老いたためもう姫のお役には立てないと思い、この地に残って都の文化を伝えることに努め、この地で一生を終えたそうです。

聖武天皇は姫の完治をたいそうお喜びになり、行基に命じて薬師如来をお祀りする寺を建てさせたそうです。
(ちなみに行基が印旛沼の水を分けて道を作った場所は、現在土行(つちゆき)という地名がついています。)



千葉テレビの「お~いお話だよ」を参考にまとめてみました。



仁王門の脇に立つ石碑にはこうあります。


松虫寺は奈良時代、聖武天皇の天平十七年(七四五)僧行基の開創と伝えられ、始め三論宗、のち、天台宗、そして、真言宗に所属し今日に至っている。
寺伝によれば、聖武天皇の皇女松虫姫、(不破内親王)が重い病に患われた時、不思議な夢のお告により、下総に下向され、萩原郷に祀られていた薬師仏を祈り、重患が平癒したので、天皇は、行基に命じて七仏薬師を刻み一寺を建立し、姫の御名をとって松虫寺と名付けられたと言う。

現在の本尊、七仏薬師如来は榧材の一木造りで、平安後期の特色を伝える優作として、昭和三十四年、国の重要文化財に指定された。
南面する仁王門、薬師堂は江戸時代、享保三年に改築されたもの、山号額は儒者、佐々木文山、薬師堂の偏額は、釈雲照の染筆である。
西面する本堂は、寛政十一年の建立で、阿弥陀如来、不動明王、松虫姫尊像をまつる。
薬師堂の裏手の松虫姫御廟は、御遺言により分骨埋葬されたものと伝えている。


  ※享保3年=1718年、寛政11年=1799年
  ※榧材 ・・・ カヤの材木。碁盤・将棋盤などに用いられています。
  ※一木造り ・・・ その名のとおり、一本の木から採れた木材を彫り刻んで仏像を造る方法。
           それぞれの材木から仏像のパーツを造って組み合わせる方法は寄木造りといいます。
  ※佐々木文山 ・・・ 江戸時代前・中期の書家。
  ※釈雲照 ・・・ 幕末・明治期の僧。

石碑の記述をまるパクリしたので、少しばかり注を入れてみました。
不自然な句点(、)も、原文のままです。
しかもこの石碑、文章の禁則処理をしてないのか、行のあたまに句点がついてる・・・(^_^;)


それではさっそく参拝しましょうか。



まずは表玄関ともいうべき仁王門ですね。
石碑の記述によれば江戸時代の中ごろに造られたものです。
朱塗りが色あせているものの、味のある素晴らしい御門です。

左右に仁王像が控えており、それぞれ四角い穴、円い穴から仰ぎ見ることができます。





穴から仰ぎ見た仁王像は、「悪しき心の者を排除する」という迫力に満ちています。


仁王門をくぐると、すぐそばに薬師堂が建っています。





薬師堂も、仁王門と同期に改築されて、現在に続いているそうです。





扁額や絵はすっかり色あせてしまっているが、こういうのがいいんですよねぇ~。


薬師堂の裏手には、宝物庫と松虫姫御廟が静かにたたずんでいます。



宝物庫の中には、松虫姫がお祀りしたとされる御本尊・七仏薬師如来【国指定重要文化財】などの寺宝が保管されています。
七仏薬師如来は7体の像の総称であり、坐像(お座りになっている薬師如来)が1体、立像(お立ちになっている薬師如来)が6体あります。
実際には平安時代後期の作と考えられていますが、様式は平安前期に流行したものとなっており、東国への文化の伝来にタイムラグがあったことがわかります。



薬師堂の真裏にある松虫姫の御廟です。


千葉の民話ではか弱くやさしい皇女さまというイメージの松虫姫ですが、本名は不破内親王というそうです。
そしてこの皇女さまは、都に戻ってからも波瀾万丈の一生をおくるのです。

都に戻った不破内親王は、その後天武天皇の孫にあたる塩焼王(氷上(ひかみ)塩焼)に嫁ぎます。
そして氷上志計志麻呂(しけしまろ)とその弟川継という男子を産みます。

天平宝字8年(764年)の恵美押勝の乱で、夫の塩焼は藤原恵美押勝(藤原仲麻呂)に天皇に擁立されますが敗北、殺されてしまいました。
このときは不破内親王は皇女ということで連座を免れました。

しかし神護景雲3年(769年)、今度は称徳天皇を呪詛したとの疑いをかけられ、内親王の地位をはく奪されてしまいます。
「改名女帝」こと称徳天皇は、不破内親王を「厨真人厨女(くりやのまひとくりやめ)」に名を改めさせて流罪にしました。
のち宝亀3年(772年)、疑いが晴れて内親王に復帰します。

しかししかし延暦元年(782年)、今度は次男の氷上川継が謀反を起こした疑いがかかり、不破内親王も淡路に流罪となってしまいました。
その後淡路から和泉に身柄を移され、そこで失意のうちに一生を終えたといいます。



松虫姫は死に際して、自らの遺骨の一部を下総の地に葬られることを望んだそうです。
波瀾万丈の一生を終えた松虫姫は、今となっては静かに眠っていらっしゃるのでしょうか。



この日は正月明けの平日。
神崎では晴天であった空は薄曇りになっていました。
境内には私以外の人はおらず、なおいっそうの静けさがあたりを包みます。



薬師堂のお隣には、松虫姫神社の御堂が建っています。



正面から入ります。







松虫姫を祀る神社らしく、御堂の意匠は色彩豊かなものになっています。
柱の両側にある彫像は、悪い夢を食べるというバクがかたどられているそうです。
夢枕によって下総まで下向した松虫姫ならではでしょうか。

画像の周りの白いモヤは、カメラのレンズが曇っているだけです。


ここで旅の無事を祈願して、松虫姫神社をあとにしました。



拙宅へ戻るべく、国道464号方面に進んだのですが・・・・・・
そのルートがきわめてあっさり見つかりました。
そしてそのルートはアップダウンがさほどなかったのです。

国道464号はアップダウンが多いから・・・などと考え、別ルートを検索しては道に迷い、挙げ句に参拝を断念した1月2日。


松虫姫は私に、あらためて旅のあり方を問うたのではないでしょうか。



第61回鬼ヅモ同好会麻雀大会顛末記 完

だけどいちおう番外編も用意しました。

楓三色・・・長谷山本土寺

2013-12-22 | 寺院仏閣

2 0 1 3 年 1 2 月 4 日 ( 水 )

午 後 1 時 0 7 分

千 葉 県 松 戸 市

J R 北 小 金 駅 東 口



北小金駅の駅スタンプの絵柄になっている「本土寺のアジサイとしょうぶ」



この時季はアジサイもしょうぶも咲いてないが、本土寺は千葉県屈指の紅葉の名所であるという。
スマホさんの紅葉情報によると、本土寺の紅葉は「見ごろ」を迎えていた。


ということで、「飛電」を留めていた北小金駅東口のイトーヨーカドーから出発。
スマホでGoogle Mapを確認し、北小金駅東口から本土寺までの最短経路を確認すると・・・駅構内を突っ切って西口に出ろってか!?
(最短経路をてっとり早く調べるため、徒歩経路の検索を使っている)
自転車かついでペデストリアンデッキに上がるのはきびしいので、Mapを確認しながら進むことにした。



ちょいと遠回りして進むこと7分、850m。



並木連なる参道を抜け、仲見世へ。



だいたい150mほど進み、木々を羽織った山門(仁王門)に到着。



仁王門をくぐると、色とりどりの楓が参拝客を出迎える。



全体的には、紅葉は色あせ始めていた。1週間くらい早く来ればよかったのかな。



振り返れば、紅葉は仁王門を暖かく包んでいる。



お、楓が3色そろっている。
赤赤赤黄黄黄緑緑緑・・・こいつは三色同刻だ!!
などと無粋な連想するのは私だけであろう(^_^;)


文永6年(1269年)に蔭山土佐守が建てた法華堂を、建治3年(1277年)に曽谷教信がこの地に移し、日蓮の弟子である日朗が開堂供養したのが本土寺のはじまりであるという。
池上の長栄山本門寺、鎌倉の長興山妙本寺とともに「朗流の三長三本」と称される。
(「朗流」は日朗の門流、「三長三本」は山号に「長」、寺号に「本」の字を含む3寺を表している)




仁王門から先の境内に入るには、受付で拝観料500円を支払う必要がある。


 

まずは五重塔と鐘楼。



鐘楼の中にある梵鐘【国指定重要文化財】は鎌倉時代に造られたという。
梵鐘は見えないが、傍らの紅葉がなかなか見事。



五重塔と、陽光に照らされる紅葉。
五重塔は平成3年建立と、比較的新しい。


続いて本堂へ。

 

本堂の紅葉はもう終わりかな。



本堂脇の仏塔の紅葉。


本堂の裏手には歴代住職の墓と、それとは少し離れた墓がある。

 

秋山夫人墓所【松戸市指定文化財】。

秋山夫人は武田家臣・秋山虎康の娘で、徳川家康の側室となり武田信吉を産んだが、1591年この地で逝去。
武田信吉はのち水戸藩主となったが、子がなかったため断絶となった。
秋山夫人の墓は、信吉の甥にあたる水戸藩主・徳川光圀によって建立された。





本堂の裏手は西日に照らされ、終焉を迎えつつある紅葉が最後の輝きを見せる。

 

6月には多くの人でにぎわうアジサイ園も、今はちと寂しい。


アジサイ園を抜けると竹林が見えてきた。



常緑の竹林と紅葉。

 

竹林を抜け、開けた場所にある菖蒲池
季節外れの池はアタリメのように干からびていたが・・・



池向こうの銀杏がいいアクセントになってますなぁ~。


歩みを進め、菖蒲池の向かい側。





このあたりはまだ色あせていない紅の錦が残っていた!

 

もみじに彩られた像師堂

 

さきほどまでいた菖蒲池の対岸には、宝物殿が建つ。
日蓮上人直筆の書が保管されている。



正面からの像師堂。こちらはもみじが控えめ。


像師堂から順路に従って進むと、池沿いの道へ。

 

分かれ道の先にある稲荷堂。紅葉と鳥居の色がほとんど同じですな~。



本土寺の高僧・日像上人像

日像は、本土寺開山の祖・日朗の異母弟にあたり、ともに日蓮の弟子であった。
日蓮は京都での布教と禁裏(朝廷)の帰依を、当時13歳の日像に託して入滅した。
日像はその遺命に従い、他宗や禁裏の迫害を受けながらも布教に努め、ついに後醍醐天皇からの帰依を得た。



 

こぢんまりした瑞鳳門は、紅の冠を装う。



池周りの紅葉はもうすっかり色あせていたが、水辺から離れている木々はまだまだ赤い。

 

寺内施設の入口である赤門は、赤に限らぬ錦をまとう。



おっ! 見事な赤だねぇ。

 

花のないアジサイと五重塔。
入口でもらったパンフレットとほぼ同じアングルなんだけど・・・。
心の眼で咲き乱れるアジサイを想像してくださいな・・・。


入口に戻ってきた。



最後に、紅葉に包まれる仁王門をもう一度。




日本一?鎌ヶ谷大仏

2013-12-11 | 寺院仏閣

2 0 1 3 年 1 2 月 4 日 ( 水 )

午 前 8 時 2 3 分

千 葉 県 鎌 ケ 谷 市

鎌 ヶ 谷 大 仏



「東京等77駅完全巡回」。その後編は拙宅の隣町、鎌ヶ谷から。

前回までは、めずらしく前言撤回せず65駅を回り、そのスタンプをすべて収集できた。
その代償なのか、ふくらはぎの筋肉痛が数日続き、その間移動に難儀することとなった。
筋肉痛の原因としては、年齢、運動不足、そして駅の構造が考えられる。
駅構内の移動で階段の使用は不可欠なのですが、上りはエスカレータ、下りは階段というところが多かった。
足に負担がかかるのは上りより下り。
痛みが和らぐまでは、ワンフロアの移動でもエレベータを使うはめになった。

そんな筋肉痛も振替休日の水曜日には止み、こうして隣町にいる。



新たな愛馬「飛電」。拙宅近所の西友より7,800円で買い受けた。
前の愛馬「絶影」は宛城の戦いで流れ矢を受け、寸刻ばかり生命を永らえたのち死した・・・
のではなく、香取市内の利根川を通行中に角ばった石を踏みパンク、そのまま処分・・・。

今回は飛電初の長距離移動、ということで旅の安全を祈願する。


普通の墓地の前にちょこんと鎮座する鎌ヶ谷大仏【鎌ヶ谷市指定文化財】。



「大仏」なのにその大きさは2メートルもなく、日本一小さい大仏といわれる。
(実際には市原にある「奈良の大仏」の方が小さい)
さらに寺院の境内に安置されているのではなく、普通の墓地にぽつんと置いてある。
このため、幹線道路沿いにあるにもかかわらず、近くに鎌ヶ谷大仏駅があるにもかかわらず、案外見つけにくい。
予備知識がないと、「大仏」とはあまりにもかけ離れた大きさ&立地で、さぞや「がっかり」することとなるだろう。

だがこの大仏、意外と歴史がある。

安永5年(1776年)、鎌ヶ谷の福田文右エ門という豪農?が、先祖の霊の冥福を祈るために、江戸の鋳物職人・多川主膳に作らせた。
派手好きであった文右エ門は、大仏開眼のおり、自宅前から大仏の場所までの道に琉球ござを敷いて、僧侶などをもてなしたという。
現在でも大仏は福田家が所有・管理している。


そしてこの大仏、かなり愛されている。
古くから鎌ヶ谷一帯のシンボルであり、献花も途絶えない。



鎌ヶ谷大仏のご尊顔を拝し、私と飛電は旅に出る。




珍しいサザエ!飯盛山・後編

2013-02-19 | 寺院仏閣

2 0 1 2 年 4 月 2 日 ( 木 )

午 後 2 時 4 5 分

福 島 県 会 津 若 松 市

飯 盛 山



白虎隊士の墓を拝み、飯盛山から下りた。



入口に戻ってきた。
今度は白虎隊記念館側に続く道を歩く。

白虎隊記念館に入らないで行くと、木造の建物がふたつ。



ひとつは宇賀神堂

会津松平氏初代・正容(まさかた)(保科正之の子)が奉納した堂で、宇賀神とは五穀の神である。
のちに飯盛山で自刃した白虎隊19士の霊像が安置され、現在に至る。




もうひとつはさざえ堂。
正式名は旧正宗寺三匝堂【国指定重要文化財】という。

このさざえ堂、上りも下りも階段がない。
さらに一度通った所は二度通らないという、なかなか面白い造りになっている。
通路は上りが時計回り、下りが反時計回りになっており、左右合わせて3周すると背面の出口に出られることから、「三匝堂」の名がある。
(「匝」は「めぐる」という意味がある)

さざえ堂自体は、全国に何箇所かあるが、ここのさざえ堂は六角形をしているのも独特なんだとか。



横から見ると、なんだか補強している・・・?
出口からの誘導路を造ったのだろうか。

もともとは、中に西国三十三箇所の観音像が祀られており、西国に行くことのできなかったであろう庶民が会津にいながらにして三十三箇所を巡拝できるという礼拝施設であった。
明治の神仏分離により、観音像は撤去されてしまった。

さざえ堂の向かいにあるスーパーハウスで、ここの入場券を購入することとなる。
入場料は400円、券はそのまま本のしおりとして使えるようになっている。
お堂の前には職員はいないので、お堂を拝んでそのまま中に入ることとなる。



中は天井が低い、純然な木造の建物。
この中にいるときに地震が来たらかなり危険だろうな・・・と思ってしまう。





1周半したらあっさり頂上部へ。
ここから反時計回りの下りとなる。



大黒柱である中央の円柱を越して、向こう側をのぞくことができる。
こちらは下りなので、向こう側にいる人は数秒後・・・



この上のあたりに来るのだろうなぁ。

案内看板にも書いてあるが、2~3分で出られる建物である。
400円払ってあっさり出るのはくやしいので、あえて何回か戻ってみたりした。
建物の構造にそれほど関心がなかったので、いよいよ外へ。

6分の滞在に成功した。



さざえ堂のところから少し下ると、洞穴から水がたたえている。



水量豊富な戸ノ口堰洞穴

猪苗代湖からの疎水で、飯盛山の山腹約150メートルの間を掘削したものである。
会津戦争においては、白虎隊士20名がこの洞穴を通って飯盛山に到達している。
彼らは飯盛山より燃えさかる若松城下を目の当たりにし、蘇生して天寿を全うした飯沼貞吉以外の19士が、若くして散ることとなった。



さて私は、戸ノ口堰洞穴からの流れとともに、飯盛山を後にした。



日本100名城登城の旅・第10弾「おくのほそ道」第36話へ続く。

悲劇と虚構・飯盛山

2013-02-17 | 寺院仏閣

2 0 1 2 年 4 月 2 日 ( 木 )

午 後 2 時 1 8 分

福 島 県 会 津 若 松 市

飯 盛 山



会津藩の少年部隊・白虎隊が自刃したという飯盛山。
入口には白虎隊記念館といった資料館がある。



右側にあるのは、「動く坂道」という名のエスカレータ的なものと思われる。
このエスカレータ、なんと有料である。

私は当然、自らの健脚で階段を上っていく。



こしゃくなエスカレータめ!!
某学校の鬼コース程度の階段で金を払うと思うてか!!

・・・こうして、会津屈指の悲劇の地であるにもかかわらず、私は早くも引き気味になっていた。




階段を上りきって、慰霊の地へ。
この右側に白虎隊自刃の地が、左側には白虎隊隊士の墓がある。




自刃の地方向へ歩みを進めると、まず目に入る異形の碑。
「ローマ市寄贈の碑」と呼ばれている。

案内板によると・・・

白虎隊士の精神に深い感銘を受けたローマ市は昭和3年にローマ市民の名をもって、この碑が贈られた。
この碑の円柱は赤花崗で、ベスピアス火山の噴火で埋没した、ポンペイの廃墟から発掘した古代宮殿の柱である。
墓石表面にイタリー語で
「文明の母たるローマは、白虎隊勇士の遺烈に、不朽の敬意を捧げんが為め、古代ローマの権威を表すファシスタ党章の(まさかり)を飾り永遠偉大の証たる千年の古石柱を贈る」
裏面に「武士道の精神に捧ぐ」と刻まれてあったが第2次世界大戦後占領軍の命により削りとられた。
(原文ママ)


とある。

齢60は超えているであろう翁が、
「占領軍は会津の武士道精神を恐れてこのようなことをしたのでしょう」
と結んだ。
この翁は飯盛山の語り部のようだ。

さて、この碑を寄贈した主体である「ファシスタ党」、歴史の授業を覚えている人なら、いかにもイタリーなお名前の独裁者・ムッソリ~~ニの政党である。
そして全体主義を表す「ファシズム」の語源となった悪名高い政党なのだ。

「自己の身を犠牲にして忠節を尽くす」という「会津武士道」なる精神は、残念ながらファシズムなどの全体主義にとっては極めて都合のいい考え方といえる。
戦時中の日本は断じてファシズムとは違うものであるが、国論をまとめるために「会津武士道」が利用されたことは否定できまい。

・・・と心中で語り部に反駁しながら、飯盛山を回っていく。




次は飯沼貞雄翁の墓

案内板によると・・・

白虎隊士自刃者中唯一の蘇生者、飯沼貞吉少年(後貞雄と改めた)は印出新蔵の妻ハツに助けられ、後逓信省の技師となり、仙台逓信局工務部長に進み、逓信事業に挺身し多大の貢献をなし、昭和6年78才で仙台市において歿した。
白虎隊の実録も飯沼貞雄氏によって知ることができた。
昭和32年9月戊辰戦役90年祭に財団法人前島会仙台支部の手によつて、ここに墓碑と顕彰碑が建てられた。
(原文ママ)





飯沼翁の墓碑から少し進んでいくと、見晴らしがひらけ会津若松市内が一望できる。
この場所こそ白虎隊自刃の地であるという。

自刃の地に立つ白虎隊士の像
その目線の先には・・・





往時は城下の火災で落城したように見えた鶴ヶ城の天守がある。

ここも案内板を借用・・・

慶応四年(一八六八)八月二十三日(新暦十月八日)、年齢が十六~十七歳で構成された士中二番隊の白虎隊士は猪苗代から十六橋を越えて進軍した西軍と戸の口原で交戦するも、敵の軍事力に圧倒されて退き、戸の口洞門をくぐってこの地に至った。
炎上する城下を前に、玉砕か帰城かを巡って、激論を交わした。
敵陣突入を提案する者もいれば、鶴ヶ城が簡単に落城するはずはないとして帰城を主張する者もいた。
しかし、最終的に「誤って敵に捕らえられ屈辱を受けるような事があれば、主君に対して大変申訳なく、祖先に対しても申訳ない。この場は潔ぎよく自刃し、武士の本分を明らかにするべき」との決断にはじめて、全員が同意し、一同列座し南鶴ヶ城に向かって訣別の意を表し、全員が自刃した。
後、一名が蘇生。その名は飯沼貞吉である。
なお、鶴ヶ城開城はその一か月後であった。
(原文ママ)


鶴ヶ城は新政府軍(西軍)から砲弾を雨あられと浴びせられていたが、落城することはなかった。
状況判断の誤り、それに基づく集団心理が、白虎隊士の悲劇につながる。



自刃の地とは反対側、白虎隊士の墓へ。





献香の煙が絶えない正面は、自刃した19隊士の墓。



正面に向かって右側は、会津戦争で戦死した31隊士の墓。



左側には、会津藩少年武士の慰霊碑が立つ。
白虎隊とは別部隊の少年兵の慰霊碑である。


このあたりから翁の語りは、悲哀が一層込められたものとなっていく。

「会津の城下は戦渦に巻き込まれ、西軍の兵により略奪された・・・」
「会津藩は降伏後、不毛の地である斗南(となみ)藩(現在のむつ市周辺)に国替えされ、会津の武士たちはひどく困窮した・・・」
「西軍は会津の戦死者を葬ることを禁じた・・・」

こうして、「会津ってかわいそう、明治政府(薩長)ひどい・・・!!」って感じてしまいがちですが、その手は桑名の焼きハマグリってもんだ。

たしかに会津城下で略奪はあっただろう。
しかし会津藩兵も本国に退却する際に、略奪行為を行っている。(『郡山市史』など)
略奪を受けた地の人が明治政府軍に加わっていたならば、同様の行為に及ぶことは想像に難くない。
こういったヴァンダリズムをすべて薩長のせいとするのは間違っている。

斗南に飛ばされたことについては・・・
会津藩は降伏後、国替地として猪苗代と下北のふたつを提示されている。
普通なら会津の近場の猪苗代を選ぶのに、会津藩の首脳はあえて下北半島への移住を選んだのだ。
その上での困窮であるので、領地の削減はともかく、必要以上に明治政府が会津へ仕打ちをしたとは言えない。
下北半島は青森ひばという材木資源があり、近隣の八戸藩はこれを有効に活用していたのに、斗南藩ではそれができなかった。
そもそも、斗南=不毛の地 と言うのは、下北半島の人々に失礼とは思わないのか。

会津藩士の戦死者埋葬を禁止したというのは虚構以外の何物でもない。(『会津若松市史』も埋葬禁止を否定している)
明治政府はむしろ戦死者埋葬が進まないので、死者埋葬を命じたくらいである。
なのになのに、翁は平気でこのようにのたまい、飯盛山の案内看板にも死者埋葬禁止が記載されているのである。
きわめて残念なことである。

・・・と翁の面前で、ほかの観光客の面前で、公然と論破!!・・・するべくもなく、
「はい、はい、冗談半分に聞いておきますね」
と思いながら立ち去っていったのだった。



日本100名城登城の旅・第10弾「おくのほそ道」第35話へ続く。
日本100名城登城の旅・第10弾「おくのほそ道」第34話編集後記へ続く。

できるだけ瑞巌寺

2012-12-26 | 寺院仏閣

2 0 1 2 年 4 月 1 日 ( 水 )

午 後 5 時 1 9 分

宮 城 県 宮 城 郡 松 島 町

青 龍 山 瑞 巌 寺



「松島の月が見たい!」と江戸を発った松尾芭蕉が立ち寄った瑞巌寺

十一日、瑞岩寺に詣。
当寺三十二世の昔、真壁の平四郎 出家して、入唐帰朝の後 開山す。
其後に雲居禅師(うんごぜんじ)の徳化に依て、七堂 (いらか)改りて、金壁荘厳 光を輝、仏土成就の大伽藍とはなれりける。




かくいう私は、瑞巌寺を詣でることはかなわなかった。



「四寺廻廊」のご朱印帳は、不自然なスペースひとつを残すこととなった。
御印は、右上が関山中尊寺、左上が宝珠山立石寺、左下が医王山毛越寺

瑞巌寺は、もとは「延福寺」といった。
828年(天長5年)淳和天皇の勅願寺として慈覚大師・円仁が開山。
最初は天台宗の寺であった。

鎌倉時代、執権・北条時頼の命により、法身性西(俗名・真壁平四郎)を住職として臨済宗建長寺派となる。
このとき「延福寺」から「円福寺」に変わる。

戦国時代になると寺は困窮し、建長寺派から妙心寺派に変わる。
伊達政宗が領主となると、その師である虎哉宗乙のすすめで寺が復興。
このとき「瑞巌寺」となった。

政宗の死後招かれ住職となった雲居は、伊達家の保護のもと伽藍を整え、瑞巌寺は大いに隆盛した。


さてさて、瑞巌寺をできるだけ歩くとしよう。



杉並木の参道を出口に向かって歩く。
正規の参道はこのとおりまっすぐであるが、脇の参道に回ると・・・



石造りの仏像とともに、岩場を掘った洞穴が残る。
ここは仏法の修行の場であった。





石造りの仏像は、「西国三十三観音」各寺のご本尊を彫ったものである。




総門を出て、瑞巌寺はここまで。


※瑞巌寺の参道は、東日本大震災の津波による塩害で、杉並木の立枯れが目立ってきたため、2012年9月に大部分の杉が伐採されてしまいました。
※瑞巌寺は、2016年まで大修復中です。
 東日本大震災の被害による修復も行われているようです。





春の雪・立石寺其之弐

2012-12-25 | 寺院仏閣

2 0 1 2 年 4 月 1 日 ( 水 )

午 後 1 時 3 7 分

山 形 市

立 石 寺 仁 王 門





仁王門が見えてくると、山道もいよいよ後半。
門の左右に配置された仁王像は、運慶の弟子による作といわれ、邪心を持つ者を拒むという。


立石寺は、860年(貞観2年)に天台宗3代座主の慈覚大師・円仁が開山したとされる。
鎌倉時代には、幕府の政策で禅宗に改宗されるが、14世紀半ば、羽州探題・斯波兼頼により再建され天台宗に戻った。

戦国時代には兵火を受けて一山焼失してしまう。
このとき比叡山延暦寺から分燈されていた「不滅の法燈」も消滅し、再度分燈されるととなる。
1571年(元亀2年)比叡山が焼討ちにあうが、その再建には立石寺から「不滅の法燈」が分けられた。

立石寺再興は、山形城主であった最上義守・義光父子によりなされていった。

松尾芭蕉が旅の途中で訪れたことは、あまりにも有名であろう。


仁王門をくぐると、ちょっとした難所あり。


(上から見下ろした画)

石段に雪が積もって、踏み固められてアイスバーン状態になっていた。
ここはロープを伝って上る。


仁王門の先は、雪が多く残っていた。



行く手の左を見上げると、岩壁の上に建つ伽藍。

行く手の右側には立石寺の支院が並ぶ。
順に観明院、性相院、金乗院、中性院
これらの支院には立ち寄らず、まずは上を目指す。




立石寺の最奥、奥之院(妙法堂)に到達。
天は春の雪を降らせる。
1015段の石段を踏破した私への嫌がらせか? 祝福であろうか。

ここで立石寺のご朱印をいただこう。
奥之院の坊主にご朱印帳を差し上げたところ、
「ここでは立石寺のご朱印ではなく、奥之院と大仏殿のご朱印ですよ」
「四寺廻廊」のご朱印帳は返されてしまった。

 

奥之院(左)と大仏殿のご朱印。
立石寺のご朱印じゃないならいらねぇとは言えず、ご朱印ふたつとも頂戴することとなった。




奥之院から見下ろす山内支院。



中性院は奥之院のすぐ下に建つ。


奥之院から石段を下りずにそのまま歩くと、

 

三重塔のミニチュア・三重小塔【国指定重要文化財】が安置されている。
手書きの案内表示によると、室町末期に作られ、本尊の大日如来が中に収められている。


ふと崖の向こうを見やると・・・



山内支院のさらに向こうの岩場は、釈迦ヶ峰という。
一般の参詣者は入れず、修験者のみが入れる。



釈迦ヶ峰の岩場に覆われた胎内堂
修験者のみ入れる。


雪積る道を進んでいくと・・・





がけっぷちに建つのは納経堂【山形県指定文化財】で、山内では最古の建築物。



立石寺の開基・慈覚大師の木像を安置する開山堂

開山堂の脇には・・・


(上から見た画)

ここにもちょっとした難所。
こちらはロープがないのでかなり難儀した。
そんで・・・



五大明王を祀る五大堂
立石寺随一の展望台となっている。







日いまだ暮ず。
麓の坊に宿かり置て、山上の堂にのぼる。
岩に巌を重て山とし、松栢年旧(しょうはくとしふるく)、土石老て苔(なめらか)に、岩上の院々扉を閉て、物の音きこえず。
岸をめぐり、岩を這て、仏閣を拝し、佳景寂寞(じゃくまく)として心すみ行のみおぼゆ。
閑さや 岩にしみ入 蝉の声

・・・この日は当然蝉など鳴いておらず、参詣者もそれなりにいたので閑かさもくなかったが、冷たい風がなんとも心地よかった。


立石寺は、五大堂でゴールというわけではない。
ほんのちょっと先がある。



のびる脇道から見た五大堂。



穿たれた巨岩の中に祀られる磐司祠
ここがもうひとつの最奥部だ。




午 後 2 時 3 4 分

山 を 下 り る


20分弱で山を下りた。
売店で荷物を回収し、あとは立石寺のご朱印を頂戴せねばならない。



登山道入口近い根本中堂へ。
しかしここではご朱印はもらえない。

売店のおばちゃんに尋ねると、下山口近くの本坊でもらえるようだ。
最初からおばちゃんにきいておけばよかったよ。




立石寺から外へ出る抜苦門
本坊はこの先にある。

本坊に入りご朱印を所望すると、
「ご朱印をしまうかばんを足下に置くのはいかがなものか・・・」
軽くお説教されてしまった。



立石寺のご朱印と「四寺廻廊」のご朱印を頂戴し、立石寺をあとにした。




残雪・立石寺

2012-12-25 | 寺院仏閣

2 0 1 2 年 4 月 1 日 ( 水 )

午 後 1 時 0 2 分

山 形 市

J R 山 寺 駅



JR山寺駅から歩いて3分。



駅からの参詣者が必ず渡るであろう宝珠橋
正面にそびえるのが立石寺(山寺)【国指定史跡・国指定名勝】。

前方の丁字路を右折したところに・・・



山寺の登山口がある。
この日は春休みということもあり、参詣者がそれなりにいた。




登山口を上がるとすぐに根本中堂(本堂)【国指定重要文化財】に着く。
1356年(延文元年)最初の山形城主・斯波兼頼が再建したものが現存する。
ブナ材の建築物では日本最古のものという。




根本中堂に隣接する日枝神社拝殿
日枝神社は立石寺の鎮守。



日枝神社の神木




日枝神社の隣りには、芭蕉・曾良像がたたずんでいる。

山形領に立石寺と云 山寺あり。
慈覚大師の開基にして、(ことさら)清閑の地也。
一見すべきよし、人々のすゝむるに依て、尾花沢よりとつて返し、其間七里ばかり也。

芭蕉一行は、尾花沢(山形市の北)から最上川を経由して日本海へ出る予定であったが、地元の人々の勧めにより、この立石寺に寄り道したとある。


境内にある売店へ。
ここでは手荷物を無料で預かってくれる。



ふぅ~、あたたまりますなぁ~
山形名物・玉こんにゃく(1本100円)でした。




参詣者が自由に修行ができるという念仏堂



念仏堂の隣りには鐘楼

鐘楼の裏にあるトイレで用を足して・・・



山門をくぐると、いよいよ山道へ。
ここで巡拝料300円を納めることとなる。

なお、この先にはトイレはないので、鐘楼裏のトイレに立ち寄ることをお勧めする。



山道を上ると、まず現れる姥堂



奪衣姿の石像を本尊とする。
ここから上は極楽浄土とされ、そばの石清水で身を清め新しい衣に着替えるものとされた。
脱いだ衣はここに奉納するものとされていた。


山道の幅はだいたい2車線?くらい。



ところどころで残雪が行く手を阻む。
こういうところに限って手すりがない。

歩いていくうちに、山道が軽く渋滞しだした。
前の方からは、「ぜぇ~ぜぇ~ぜぇ~ぜぇ~ぜぇ~」
おじいちゃんがあきらかにヤバそうな息遣い
リタイヤした方がいいんじゃねぇか?



山道に迫る岩。



きざはしがわずか14センチという四寸道
このあたりも残雪ですべりやすくなっていた。

ぜんそくのような息遣いのおじいちゃんは、その歩みを止めない。
おいおい、ホントに休んだ方がいいって・・・

仕方ないのでスキを見て追い越す。
・・・無事でいてくれよ、ご老体。




岩壁に碑がいくつにも掘られている。
このあたりには弥勒洞といい、雨風の浸食により阿弥陀如来の姿が浮かんだという。
たぶん真ん中のところ・・・か??


山道を上ること約15分・・・



仁王門に到着。




夢の跡・高館

2012-12-20 | 寺院仏閣

2 0 1 2 年 3 月 3 1 日 ( 火 )

午 後 3 時 4 0 分

岩 手 県 西 磐 井 郡 平 泉 町

中 尊 寺 第 1 駐 車 場



月見坂を下り、中尊寺を出た。
中尊寺から国道4号を越え、青看と地図をたよりに歩く。


中尊寺から徒歩5分、卯の花清水があった。



名もなき湧水であったが、『おくのほそ道』の「卯の花」の句から、いつしかその名がついたという。



現在、湧水は枯れてしまい、水道水で代用しているようだ。トホホ・・・



卯の花清水から歩くと、高台へ行く道に分かれる。
坂を上っていくと・・・



源義経の居館があったという高館義経堂に到着。
拝観料は大人200円。

石段を上って高台に着くと、館を構えるには手狭な印象を受ける。
かつては相当の広さであったが、北上川の浸食により現在の姿となった。






北上川の向こうにそびえる秀峰は束稲山
衣川は、北上川の流れが大きく曲がるところで合流する。

(まづ)、高館にのぼれば、北上川 南部より流るゝ大河也。
衣川は、和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落入。





義経堂
1683年(天和3年)4代仙台藩主・伊達綱村が義経を偲んで建てた。



堂内に木像の義経像



源義経主従供養塔は、昭和61年の義経800年の御遠忌を期して立てられた。

(さて)も義臣すぐつて此城にこもり、功名一時の(くさむら)となる。
国破れて山河あり、城春にして草青みたりと、笠打敷て、時のうつるまで泪を落し侍りぬ。




芭蕉直筆の拓本をもとに立てられた芭蕉句碑

夏草や兵どもが夢の跡
卯の花に兼房みゆる白毛かな 曽良

  
高館義経堂の見どころは、はっきりいって少ない。
観光客もほとんどいなかったが、義経主従の最期に思いをはせ、芭蕉一行が眺めたであろう景色に共感するには十二分であった。