ガンバレ よし子さん

手作りせんきょ日記

8+16=24

2010年10月28日 | シベリウス バイオリン協奏曲
シベリウス作曲ヴァイオリン協奏曲二短調

この曲の第3楽章におけるソロ・ヴァイオリンと管弦楽部の力関係は
ソロ・ヴァイオリン > オケ
ではなく
オケ > ソロ・ヴァイオリン
になっている。そのためこの曲はヴァイオリン協奏曲でありながら、「協奏曲」よりも
「交響曲」の性格を強めている。ではなぜシベリウスは曲中の力関係を
「 オケ > ソロ・ヴァイオリン 」 に逆転させたのだろうか。それが今回のテーマである。

第14回のテキストに書いたとおり、この曲は

A-B-A-B-A´

のロンド形式で、A´はAメロを素材にしたコーダになっている。AメロとBメロはそれぞれ特徴的なリズムを持っていて、私はそれを8ビートと16ビートになぞらえているのだが、上述のロンド形式(コーダを除く)を、このビートに置き換えると

8-16-8-16

となる。ここにメロディを演奏するパートを登場順に書き加えると、

8( ソロ・ヴァイオリン )-16( オケソロ )-8( オケソロ )-16( オケソロ

となる。ごらんのように、ビートの切り替えポイントには必ず青色で示したオケが配置され、8ビートも16ビートもオケのギアチェンジでビートが回転し、曲が前に進むしくみになっている。この配置はヴァイオリン協奏曲の慣例から考えるとイレギュラーであるが、ヴァイオリンという楽器の特性を考えると当然の帰結というか、やむを得ない選択で、そもそもヴァイオリンは技巧性と響きの華麗さを追求して進化してきた楽器である。そのため、華やかなメロディを奏でるのは得意な反面、リズムやビートといった単純な表現には適さない。リズムやビートをダイレクトに聴き手に届けるにはもっと原始的な楽器(太鼓もしくは弦楽器の中でも打楽器に近いコントラバス)が必要で、上記の青色で示したオケ部分でティンパニと低弦がソロ・ヴァイオリンを差し置いて大活躍するのは、シベリウスが曲中でビートを最優先にしていることの表れである。つまり

まず、ビートありき。

それが第3楽章におけるシベリウスのコンセプトである、と私は思う。でもそれをヴァイオリン協奏曲の中で貫こうとすると、ソロ・ヴァイオリンが本来持つべきプライオリティがオケのリズム隊に移行せざるを得なくなり、その変化が楽節ごとに積み重なった結果、曲全体の力のバランスが「 オケ > ソロ・ヴァイオリン 」に逆転してしまうのだ。

第14回のテキストで、私はヤルヴィ指揮による第3楽章の演奏について、最初はリズムの強靭さに感服したものの、次第にそれが行き過ぎた解釈に思えてきた旨のコメントをした。しかし、この楽章が「まず、ビートありき。」というコンセプトで作られたと考えると、彼のアプローチは決して曲想から逸脱するものではないし、それに対する私のフィジカルな反応も、(いささか過剰かもしれないが)許容範囲という気がしてくる。オケの太鼓と低弦が聴き手の記憶にビートを刻印し、ソロ・ヴァイオリンにフロントを譲った後も、ビートは絶えずどこかで脈打っていて、ギアが入れ替わるたびに大きなうねりとなって姿を現わす。ヤルヴィのようにリズム感の優れた指揮者がその流れを明確に打ち出せば、私のような軽薄な聴き手が頭の中でそれをグルーヴに変換しても無理はない。でもシベリウスが本当にすごいのはここからで、彼はこの8ビートと16ビートの執拗な反復を伏線にして、曲中に第3のビートともいうべき新たな脈動を出現させる。その兆しはまずコーダ直前のBメロ、すなわち

A-B-A--A´

の赤字部分におけるリズムの変化に現れる。ここは本来16ビートのはずだが、実際のリズムは16ビートでスタートして途中から8ビートに変化する。キョンファ盤では、05:40あたりから8ビートのリズム型の断片が現れて、徐々にふたつのリズム型が混じり合い、最後の8小節では、8ビートのズンドコ節がメロディを完全に支配してコーダに達している。コーダの直前といえば、一般的な協奏曲では独奏楽器の技巧の見せどころであり、シベコンもご多分にもれず、ソロ・ヴァイオリンがBメロを華麗に変奏・展開して曲を盛り上げていくのだが、その足元では「16ビート 8ビート」のベースラインの攻防が同時に進行していて、そこから生まれる複合的な深いリズムが、ソロ・ヴァイオリンの超絶技巧と相まって曲の音楽的緊張を高めていく。

そして辿りついたコーダ。シベリウスはここで前人未到の壮大なエンディングを用意している。繰り返すようだが、この曲は「 A-B-A-B-A´」のロンド形式で、A´はAメロを素材にしたコーダである。従来のロンド形式ならば、コーダのリズム型は当然8ビートとなり、

8-16-8-16-8

というリズム構成で終わるはずである。でもシベコンの結末がそんな旧式モデルで支えきれないのは今までの記述からお分かりいただけると思う。ここでは、もうどちらのビートなのか見分けがつかないくらいリズム形がドロドロに溶け合って、最後には地鳴りとも雷鳴ともつかない新しい脈動が現れて曲を締めくくる。この新しい脈動をあえてたとえるなら
8 + 16 = 24 ビート。つまりこの曲は

8-16-8-16-24

という、未曾有のリズムを生み出して完結するのだ。

8でも16でもない24。そんな解答をコーダに持ち込んだ作曲家は、私が知る限りシベリウスだけである。コーダの24ビートはシベコンが生み出すエネルギーそのものであり、それは彼が徹底してビートにこだわることで引き起こした音楽的化学変化の産物である。しかし第3楽章の真価は24という解答にあるのではない。この一見飛躍した解答が音楽という調和の中にきちんと収まっている、そのことが貴重なのだ。音楽が24という解答を許容する深みと広がりを備えていること、言い換えれば、曲中の個々の要素の全てが24という解答に向けて自然に、有機的につながっていることが感動的なのだ。
( 第17回へつづく )


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