シベリウス作曲ヴァイオリン協奏曲二短調。
先日、この曲の素晴らしい演奏を聴いたので
予定を変更して、その演奏会について書くことにする。
演奏会の詳細は下記のとおり。久々に、タイムリーなエントリだ。
NHK音楽祭 plus
平成22年5月12日(水)
会場:NHKホール
エルガー:序曲「南国で」
シベリウス:ヴァイオリン協奏曲
トボルザーク:交響曲第9番「新世界から」
ヴァイオリン独奏:神尾真由子
指揮:イルジー・ビェロフラーヴェク
BBC交響楽団
イギリスはフィンランド以外で真っ先にシベリウスの音楽を評価した国である。そしてBBC響はイギリスの名門オケである。ゆえに、彼らのシベコンが充実した内容を持つのは間違いない。見事な三段論法である。そして、なんとも豪華な共演である。
シベコン広報部長の私(←?)としては、この共演を聴き逃すわけにはいかない。
それにしても、日本で演奏されるシベコンて、か・な・り、ハイレベル
「ヤルヴィ+庄司さん」 然り、
「BBC響+神尾さん」 然り、年末には
「ロンドン響+諏訪内さん」 という悩殺カードも控えている。
ソリストは世界を股にかけて活躍する日本人ヴァイオリニストばかりで広報部長(←?)もうれしい限りである。海外の音楽事情に詳しくないので断言はできないが、このメンツの充実度は地元フィンランドに勝るとも劣らないのではないだろうか。それだけ日本にこの曲のファンが多いということなんだろう。
ところで、テキスト冒頭に「予定を変更して」と書いたが、私はこのブログを下記の予定に沿って書いている。
1) まずシベコンの魅力を自分なりに噛み砕いてみなさんに紹介する
2) 1)を踏まえた上で、ヤルヴィの伴奏を分析しつつ庄司さんの演奏を総括する
3) 庄司さんにエールを送って締めくくる
当初はこのようなプランが念頭にあった。そして1月にこの演奏会のチケットを取った時点では、5月12日はまだまだ先で、時間はたっぷりあるように思えた。
「4ヵ月もあるんだから 1)から 3)までのテキストは余裕で書き終わるでしょ。
その後で神尾さんのシベコンの感想を、おまけにつければいいや・・・。」
カレンダーに予定を書き込みながら、私はそう思った。
しかし、ものごとはそう簡単には運ばなかった。月日は無情に過ぎ去り、あっという間に5月が到来。テキストはまだ 1)の途中で、なかなか先に進まない。この調子じゃ庄司さんの演奏に辿り着くのはいつになることやら・・・って、どーしよう、来ちゃったよ5月12日。
・・・ ヤバイ、頭の中に保存しておいた「シベコンby庄司紗矢香」のメモリが、新しい演奏で上書きされちゃう ・・・ あれー、おっかしいな、こんなはずじゃなかったんだけど・・・
ま、いいや。とりあえず記憶が鮮明なうちに、「シベコンby神尾真由子」のほうを先に総括してしまおう。
まず、チケット購入にあたり、私の中で絶対に外せない条件があった。
それは、ソリストと指揮者がよく見える席であること。
ふだんは、音が聞こえればいい、音のバランスが良ければステージからの距離にはこだわらない、サントリーホールなら2階のP席、NHKホールなら3階のC席で十分、というのが私のチケット購入時の基本方針である。でも今回はその方針を大きく転換した。
この演奏は、どうしても、1階席のソリストの近くで聴きたかった。
私がこの曲のCDをそれこそ数え切れないほど聴いた、というのは第8回のテキストのとおり。シベコンの第1楽章の冒頭部分の拍子の取りづらさについては第4回のテキストのとおり。冒頭から第3主題の開始まで、めっちゃ拍子の取りにくいこの部分で、ソリストとオケがどうやってタイミングを合わせているのか、CDを聴くたびに大きな謎で、実際の演奏がどんなふうに行われるのか、ぜひともこの目で確認したかったのだ。
( 第8回のテキストは こちら )
( 第4回のテキストは こちら )
とはいえ、S席やSS席は論外というもの。(海外オケのコンサートの一等席ってほんとうに高いのだ。)悩んだ挙句、落ち着いたのは左ブロック通路側の端っこ。A席とはいえ通路をはさんだ右側は中央ブロックなので、座ってみるとSS席とほとんど遜色がなく、この位置ならソリストと指揮者のやりとりがつぶさに見える!という良席である。NHKホールには何度も来てるけど1階席に座るのはこれが初めて。日々つましい生活を送る私にとって精いっぱいの贅沢である(涙)。
ちなみにこの演奏会はひとりで聴いた。いつもはじいや(←夫のこと)が付き添ってくれるので、単独鑑賞は久々である。もちろんこれには訳がある。いつも私たちが座るC席はA席の半額。この日は座席をA席にランクアップしたために、チケットを1枚しか買えなかったのだ。じい、ゴメン。迷いに迷った末の苦渋の選択だったのだ。しっかり留守を守ってくれ。そして10月のアーノンクールと11月のヤルヴィは一緒に聴こう。
・・・ 前置きはこれくらいにして本題に入ろう。
神尾真由子さんは2007年チャイコフスキーコンクールの覇者であり、将来を嘱望される若手ヴァイオリニストである。プログラムを見ると、齢23にして、リンカーンセンターでのリサイタルを筆頭に、華々しい経歴がずらりと並んでいる。使用楽器は1727年製ストラディヴァリウス。写真のお顔は、これが最近のメイクの流行りなのか、アイラインまっくろ&チークばっちりで、ちょっと隈取りを連想させる。
「庄司紗矢香が連獅子なら、神尾真由子は隈取りで登場か?」
一瞬期待で胸が高鳴るが、舞台に現れたご本人は予想に反してナチュラルメイク。そして青田典子似。衣装は、・・・すみません、
田舎の結婚式の披露宴で、新婦が、3回目のお色直しで着るドレスかと ・・・。
う~ん、これはやぼったい。
ブリっ子(←死語?)ドレスを、周りに着せられた という感じ?
でも本人はドレスのことなんか頭になく、(なはっから割り切って着ているんだね。)
既に自分の世界に入っていることが見ていてわかる。
おぬし、できるな。
ここで私もスイッチ・オン。
重心を前に移していっきにファイティング・モードに。
彼女がこれから弾こうとしている曲について私見を述べさせてもらえば、
この曲にはチャイコンのような華やかなイントロはない。
気がつくと、ソロヴァイオリンが静かにテーマを歌い出していた、という始まり方をする。
ソリストが紡ぎだすテーマに同伴者はいない。
他のヴァイオリン協奏曲ならばオケの伴奏がテーマに同伴するところだが
この曲の伴奏は弱音でたよりない上に、
そもそもテーマのサポートを目的として書かれていないふしがある。
拍子も取りにくく、安定したリズムがテーマを支えることもない。
「極寒の澄み切った北の空を、悠然と滑空する鷲のように」
シベリウスは第1楽章の冒頭部分についてこう述べている。
作者はテーマに同伴者を求めることを禁じているようだ。
テーマはそれ自体の力で成長し、羽ばたいていかなければならない。
伴奏や拍子に頼らない、なかばカデンツァ状態でテーマを生成していくのは
フリーハンドで図形を描いていくようなもので
途中で揺れたりぶれたりするのは避けられない。
でもこの曲のテーマは、その揺れを引き受けた上で成り立つように作られているというか、
曲自体がその揺れを駆動力にして前に進んでいくという作りになっている。
当然のことながら、演奏には高い精神性が要求される。
ソリストは自分の霊的なレベルを一段上げて演奏にとりかかる必要がある。
指揮者にしろオケにしろドレスにしろ聴衆しろ
外界のことはいったんすべてシャットアウトして
自分の内面だけに照準を合わせて精神を統一する。
もしくは、
普段とは別の次元にチャンネルを合わせて
意識をシベコン・モードに切り替える。
あるいは、
そこには私の想像の及ばない、神尾さん独自のメソッドがあるのかもしれないが、
とにかくそのような特別なスイッチの切り替え作業が彼女の中で行われ、その感触は
客席にいる私にもありありと伝わってきた。
この人は、なんかやってくれそうだ。
ステージに登場した瞬間からその人の音楽は始まっているというけれど
それって本当だ。
神尾さんはまだ1音も発していない。ただ演奏に向けて静かに集中しているだけだ。
でもその姿はまるで強力な磁石のように聴き手の心を引き付けていく。
( 第11回へ続く )
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先日、この曲の素晴らしい演奏を聴いたので
予定を変更して、その演奏会について書くことにする。
演奏会の詳細は下記のとおり。久々に、タイムリーなエントリだ。
NHK音楽祭 plus
平成22年5月12日(水)
会場:NHKホール
エルガー:序曲「南国で」
シベリウス:ヴァイオリン協奏曲
トボルザーク:交響曲第9番「新世界から」
ヴァイオリン独奏:神尾真由子
指揮:イルジー・ビェロフラーヴェク
BBC交響楽団
イギリスはフィンランド以外で真っ先にシベリウスの音楽を評価した国である。そしてBBC響はイギリスの名門オケである。ゆえに、彼らのシベコンが充実した内容を持つのは間違いない。見事な三段論法である。そして、なんとも豪華な共演である。
シベコン広報部長の私(←?)としては、この共演を聴き逃すわけにはいかない。
それにしても、日本で演奏されるシベコンて、か・な・り、ハイレベル
「ヤルヴィ+庄司さん」 然り、
「BBC響+神尾さん」 然り、年末には
「ロンドン響+諏訪内さん」 という悩殺カードも控えている。
ソリストは世界を股にかけて活躍する日本人ヴァイオリニストばかりで広報部長(←?)もうれしい限りである。海外の音楽事情に詳しくないので断言はできないが、このメンツの充実度は地元フィンランドに勝るとも劣らないのではないだろうか。それだけ日本にこの曲のファンが多いということなんだろう。
ところで、テキスト冒頭に「予定を変更して」と書いたが、私はこのブログを下記の予定に沿って書いている。
1) まずシベコンの魅力を自分なりに噛み砕いてみなさんに紹介する
2) 1)を踏まえた上で、ヤルヴィの伴奏を分析しつつ庄司さんの演奏を総括する
3) 庄司さんにエールを送って締めくくる
当初はこのようなプランが念頭にあった。そして1月にこの演奏会のチケットを取った時点では、5月12日はまだまだ先で、時間はたっぷりあるように思えた。
「4ヵ月もあるんだから 1)から 3)までのテキストは余裕で書き終わるでしょ。
その後で神尾さんのシベコンの感想を、おまけにつければいいや・・・。」
カレンダーに予定を書き込みながら、私はそう思った。
しかし、ものごとはそう簡単には運ばなかった。月日は無情に過ぎ去り、あっという間に5月が到来。テキストはまだ 1)の途中で、なかなか先に進まない。この調子じゃ庄司さんの演奏に辿り着くのはいつになることやら・・・って、どーしよう、来ちゃったよ5月12日。
・・・ ヤバイ、頭の中に保存しておいた「シベコンby庄司紗矢香」のメモリが、新しい演奏で上書きされちゃう ・・・ あれー、おっかしいな、こんなはずじゃなかったんだけど・・・
ま、いいや。とりあえず記憶が鮮明なうちに、「シベコンby神尾真由子」のほうを先に総括してしまおう。
まず、チケット購入にあたり、私の中で絶対に外せない条件があった。
それは、ソリストと指揮者がよく見える席であること。
ふだんは、音が聞こえればいい、音のバランスが良ければステージからの距離にはこだわらない、サントリーホールなら2階のP席、NHKホールなら3階のC席で十分、というのが私のチケット購入時の基本方針である。でも今回はその方針を大きく転換した。
この演奏は、どうしても、1階席のソリストの近くで聴きたかった。
私がこの曲のCDをそれこそ数え切れないほど聴いた、というのは第8回のテキストのとおり。シベコンの第1楽章の冒頭部分の拍子の取りづらさについては第4回のテキストのとおり。冒頭から第3主題の開始まで、めっちゃ拍子の取りにくいこの部分で、ソリストとオケがどうやってタイミングを合わせているのか、CDを聴くたびに大きな謎で、実際の演奏がどんなふうに行われるのか、ぜひともこの目で確認したかったのだ。
( 第8回のテキストは こちら )
( 第4回のテキストは こちら )
とはいえ、S席やSS席は論外というもの。(海外オケのコンサートの一等席ってほんとうに高いのだ。)悩んだ挙句、落ち着いたのは左ブロック通路側の端っこ。A席とはいえ通路をはさんだ右側は中央ブロックなので、座ってみるとSS席とほとんど遜色がなく、この位置ならソリストと指揮者のやりとりがつぶさに見える!という良席である。NHKホールには何度も来てるけど1階席に座るのはこれが初めて。日々つましい生活を送る私にとって精いっぱいの贅沢である(涙)。
ちなみにこの演奏会はひとりで聴いた。いつもはじいや(←夫のこと)が付き添ってくれるので、単独鑑賞は久々である。もちろんこれには訳がある。いつも私たちが座るC席はA席の半額。この日は座席をA席にランクアップしたために、チケットを1枚しか買えなかったのだ。じい、ゴメン。迷いに迷った末の苦渋の選択だったのだ。しっかり留守を守ってくれ。そして10月のアーノンクールと11月のヤルヴィは一緒に聴こう。
・・・ 前置きはこれくらいにして本題に入ろう。
神尾真由子さんは2007年チャイコフスキーコンクールの覇者であり、将来を嘱望される若手ヴァイオリニストである。プログラムを見ると、齢23にして、リンカーンセンターでのリサイタルを筆頭に、華々しい経歴がずらりと並んでいる。使用楽器は1727年製ストラディヴァリウス。写真のお顔は、これが最近のメイクの流行りなのか、アイラインまっくろ&チークばっちりで、ちょっと隈取りを連想させる。
「庄司紗矢香が連獅子なら、神尾真由子は隈取りで登場か?」
一瞬期待で胸が高鳴るが、舞台に現れたご本人は予想に反してナチュラルメイク。そして青田典子似。衣装は、・・・すみません、
田舎の結婚式の披露宴で、新婦が、3回目のお色直しで着るドレスかと ・・・。
う~ん、これはやぼったい。
ブリっ子(←死語?)ドレスを、周りに着せられた という感じ?
でも本人はドレスのことなんか頭になく、(なはっから割り切って着ているんだね。)
既に自分の世界に入っていることが見ていてわかる。
おぬし、できるな。
ここで私もスイッチ・オン。
重心を前に移していっきにファイティング・モードに。
彼女がこれから弾こうとしている曲について私見を述べさせてもらえば、
この曲にはチャイコンのような華やかなイントロはない。
気がつくと、ソロヴァイオリンが静かにテーマを歌い出していた、という始まり方をする。
ソリストが紡ぎだすテーマに同伴者はいない。
他のヴァイオリン協奏曲ならばオケの伴奏がテーマに同伴するところだが
この曲の伴奏は弱音でたよりない上に、
そもそもテーマのサポートを目的として書かれていないふしがある。
拍子も取りにくく、安定したリズムがテーマを支えることもない。
「極寒の澄み切った北の空を、悠然と滑空する鷲のように」
シベリウスは第1楽章の冒頭部分についてこう述べている。
作者はテーマに同伴者を求めることを禁じているようだ。
テーマはそれ自体の力で成長し、羽ばたいていかなければならない。
伴奏や拍子に頼らない、なかばカデンツァ状態でテーマを生成していくのは
フリーハンドで図形を描いていくようなもので
途中で揺れたりぶれたりするのは避けられない。
でもこの曲のテーマは、その揺れを引き受けた上で成り立つように作られているというか、
曲自体がその揺れを駆動力にして前に進んでいくという作りになっている。
当然のことながら、演奏には高い精神性が要求される。
ソリストは自分の霊的なレベルを一段上げて演奏にとりかかる必要がある。
指揮者にしろオケにしろドレスにしろ聴衆しろ
外界のことはいったんすべてシャットアウトして
自分の内面だけに照準を合わせて精神を統一する。
もしくは、
普段とは別の次元にチャンネルを合わせて
意識をシベコン・モードに切り替える。
あるいは、
そこには私の想像の及ばない、神尾さん独自のメソッドがあるのかもしれないが、
とにかくそのような特別なスイッチの切り替え作業が彼女の中で行われ、その感触は
客席にいる私にもありありと伝わってきた。
この人は、なんかやってくれそうだ。
ステージに登場した瞬間からその人の音楽は始まっているというけれど
それって本当だ。
神尾さんはまだ1音も発していない。ただ演奏に向けて静かに集中しているだけだ。
でもその姿はまるで強力な磁石のように聴き手の心を引き付けていく。
( 第11回へ続く )
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