しろ、うつ病と共に生きる

一流大学卒業後、大手企業に入社するも、社会人3年目でうつ病を患い離職。
現在も治療を続けながらニート生活。

入院生活 7/29

2012-07-29 21:20:32 | メモ
今日、外出許可もらって自宅に帰りました。
日、月と風呂に入れないこともあって、シャワー浴びに行ったのが一番の目的です。

お母さんと弟と、iPadの画像編集で遊んで、ハムスターと戯れて、めっちゃ楽しかったです。



残念だったのは、お父さんとあまり喋れなかったこと。
お母さんによると、多分仕事で疲れていて機嫌が良くないとのことだけど、絶対に私の入院のせいもある。
気疲れしているんだと思う。

そんなお父さんを思ったら、自分が情けなくて、虚しくて、涙が出てきた。


ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。


でも、ここで心が折れたら負け。
今回の件は泣いたって解決できない。私が早く退院することに意味があるんだから。

こういうことにはもう負けない。
強くなるって決めたんだから。強く生きるんだから。


お父さん、すぐ帰るからね。
ごめんね。

入院生活 7/28

2012-07-28 16:17:19 | メモ
希望は出していたのですが、風呂上がりに突如、開放病棟に移りました。
携帯一式も返却されて、日常に近い生活が送れるようです。

スポーツ好きの私としては、オリンピック情報をリアルタイムで得られるのが、一番。笑


早期の退院を目標に、引き続き治療頑張ります。

入院生活 7/23

2012-07-24 10:41:11 | メモ
朝9時から腕の抜糸をして、10時には病院へ。
ここの病院は初診になるので、カルテ作りのアンケートやカウンセリング、診察と色々やった後、入院手続き。

入院費用って馬鹿になんないんだなぁというのが素直な感想。
一日も早く良くなって、ここを出なければならない。と思った。


それから、こんなこと言うとバッシング食らうかもしれないが、空気の悪さに驚いた。
と、同時に自分がこんな環境に入れられてしまっていることが悲しかったし、親に申し訳なかった。

風呂は一週間に3回、携帯は一日に2回しか触るチャンスがない。
新聞も普通誌とスポーツ誌ひとつずつしか置いてない。



悲しくて、寂しくて、虚しくて、夜は泣きながら親に電話した。

今は、本当につまらない。

病気になるまで(2011/6~8月)

2012-07-21 22:47:54 | 病気の発症経緯
【2011/6】
◇2日(木)
初めて会社の精神科の先生の受診。
まだ体調が安定していない事を理由に、休職を2週間延ばされた。

貫禄のある先生だったが、こちらの話を聞いてくれないような気がして、
正直なところ私は、あの先生は苦手だった。


◇20日(月)
体調も安定したし、仕事にも戻りたいと思えるようになったので、この日復職。
残業はまだ禁止だったけど。

これを機に、上司と案件管理や仕事量の調整の為、ホウレンソウは密になった。
交換ノートじゃないけど、今日一日やったことをノートに纏めて報告、それに上司がコメントする。
小学校か!!って感じだけど、そこまで管理されていた。
今思えば、この管理もストレスの一因だったんだろう。


【2011/7】
◇上旬~半ば
なんか身体とココロがおかしいなと思い始めたのはこの頃。

私としては産業医にもサインを出していた。
一度目の休職明けから2週間経った頃から
「ちょっとした事で涙が出る。人に会いたくない、土日になると塞ぎ込む」などと伝えていたのだが、
「復職して、丁度疲れの出てくる時期だから、そんなに心配する事はない。普通ですよ」と。
大学で部活をやっていた身であり、自分の健康管理にはそれなりに自信がある私の事である。
普通じゃないと思ったから相談したのに、一蹴された気分だった。

7月に入ってからだろうか、日付を書き間違える事が多くなった。
毎日かなりの書類に日付を入れているはずなのに、あれ?と思う事が増えた。
それから、人の目を見られなくなったのもこの頃。
上司と話をする時は無理にでも目を見て話をしていたが、普段、例えばレジで会計する時、顔が上げられない。
症状的に言うと、これは『対人緊張』というものらしい。


【2011/8】
◇1日(月)
正式にうつ病と診断が下ったのは、この日。
親から上司に電話を掛けてもらい、地元のクリニックに行った時だ。
その前日に泣き崩れて、生まれて初めて親に「死にたい」と言った。



一部、他の記事を引用しております。
重複する点がありますが、ご容赦ください。

病気になるまで(2011/4~5月)

2012-07-21 20:53:15 | 病気の発症経緯
病気の発症経緯を、記憶だけでなく記録に残したいと思い、ここに記します。


【2011/4】
入社3年目。
もう後輩もふたつ下までいる。
年末に先輩の異動があったので、私の担当先も40社ぐらいに増えた。
そして3年目の10月以降は初異動を迎える可能性が高い。
少しでも多く実績を挙げて、記憶に残る支社出身者となりたいし、良い部署へ異動したい。
それが、上司・先輩方への何よりの恩返しだと思っていた。

【2011/5】
まだ期初だというのに案件に詰まってきて、かなりストレスが溜まっていた。
案件検討会が腐る程あるのだが、その度に胃が絞られるように痛んだ。
でも、それは支社にいる誰もが同じ事。自分だけ弱音を吐いてはいられない。
案件の管理は上司と一体でやっていた。毎月の会議では怒号が鳴り響く事もあった。


◇15日(日)
身体の異変に気付いたのは15日(日)。
ソフトボールチームの先輩に誘われて、他チームの助っ人に行った時だ。

『身体が言う事を利かない』

そんな感覚だった。
いつもだったら何でもないゴロに追いつけない。
フライの落下地点がわからない。
ソフトボールのキャリアは10年近くあるが、その中でも3本の指に入るぐらい調子が悪かった。

その頃は、平日毎日20時までガッチリ仕事して、その後飲みに行って、家に着くのは日付が変わる頃。
土曜は午前中爆睡。夕方から仕事の同期や高校・大学の友達とまた飲む。家に着くのはやっぱり日付が変わってから。
で、日曜は朝からソフトボールの練習に行く。ソフトボールは好きだから、疲れていても練習は苦にならなかった。
そんな日々の繰り返しだった。

特に身体の異変に気づいた週は、猛烈に忙しかった。
月、水、金と会社関係の飲み会。
日中の業務量も半端なく多い上に、殆どが期日ギリギリ。心が折れそうだった。
上司から「オレはお前の友達じゃねぇんだよ!ふざけんな!!」と、罵倒されたのが今でも忘れられない。


確かに14日(土)も飲みに行った。大学の友達と。
ただ、次の日が練習だって事はちゃんと覚えてたから、飲む量も帰る時間もかなり自制した。
それでも、身体が変だったのである。
試合後、先輩とファミレスでメシ食って帰ったが、「まぁそんな日もある、気にせずやろう」と言う結論になった。
私もそう思っていた。その時思ったのはそれだけだった。


◇16日(月)
頭がぼーっとする。身体も、前日同様全然動かない。
朝買ったアリナミンV全然効かねーじゃねーかと思いながら仕事をした。
この日は取り敢えず20時まで何とか粘って帰った。


◇17日(火)
頭がぼーっとする。身体も、前日同様全然動かない(2回目)。
直感的になんか「ヤバい」と思った。

この日はさすがに18時頃になって、早退させてもらった。
上司に「具合悪いんだったら病院行けよ、明日も無理すんなよ」
と温かい言葉を頂戴したが、内科とかそういう所じゃ解決できないのは何となく悟っていた。

電車の中で、なんだかよく分からないけど涙が出てきた。
こんなところで泣いてたら怪しまれると思って、必死に涙を堪えた。
最寄駅で降りたら、またドバーっと涙が出てきた。涙流しながら自転車漕いだ。前が良く見えなかった。

家に着いたはいいが、泣いてるのバレたら親に何かしら聞かれて面倒な事になると思って、
ぎゅっと口を結んで、涙を拭いて、家に入った。
お早いお帰りにどうしたのと訊かれたが、「ちょっと体調悪くて…」とだけ伝えて、すぐ風呂に向かった。

お風呂中も涙が止まらなかった。
顔を濡らしているのは、シャワーのお湯か、涙か分からなかった。

でも、また帰った時のように、口を結んで涙堪えて、風呂から出た。

そして夕飯も食べず布団に入った。
また、涙が溢れてきた。
深夜目が覚めて、また何故か涙が溢れた。
その後いつ寝たかは分からないけど、取り敢えず目覚ましが鳴るまでは眠る事ができた。


◇18日(水)
もう会社に行くのが堪えられなかったけど、行った。
前日早退した件もあるし、ここは腹を括って上司に話をしなければならない、と決めて会社に行った。

始業前、上司を呼んで正直に前日あったことを話した。
涙はボロボロ落ちてくるし、化粧は崩れるし、最悪だった。
いわゆるストレスの爆発ってやつだろう。

その後、上司は朝礼があるので一旦執務室に戻り、
私は休憩室で待機。
9時過ぎたらまた話をしようという約束をしていたが、叶わなかった。
何故かって、11時までずーーーーっと私の涙が止まらなかったから。

大の大人が情けないとは思ったが、同時に、もうなるようにしかならないと思った。
上司に勧められるまま、会社の健康相談室へ。産業医である内科の先生の診察も受けた。
そこで2週間程度の休職を提案されたのだが、私は固辞した。
ここで休んだら、もう二度と会社に行けなくなってしまうように思えたからである。
先生もその気持ちは汲んでくださって、異例の『診断書を出さない』という措置をとってくださった。


◇19日(木)、20日(金)
だが、もう私の身体はボロボロだった。
毎日早く帰らせてもらって、いつもより長く休んでいるはずなのに…一向に体力が回復しない。
このままでは死ぬと思った。


◇23日(月)
上司に相談して、この日もう一度健康相談室に行った。
『休職』以外に選択肢はなかったのだが、休職に躊躇いあった私は、誰かに背中を押して欲しかったのである。

そして、この日付で2週間の休職となった。