王者の墳墓-天智天皇陵-

2013-02-27 12:18:29 | 歴史あるトコ-京都

京都市東山区山科にある

天智天皇陵。

第39代 天 智 天 皇 

父は第35代舒明天皇、

母は皇后・宝皇女(第36代皇極天皇・第38代斉明天皇)。

葛城皇子、中大兄皇子ともいわれ、

中臣鎌足と共に、蘇我家を滅ぼし、

政治改革(大化の改新)を行った人物です。

 

この方の話(・・・というかこの時代の話)は一言では、

難しい!

ポリポリ(。;´Å`)9ウーン…

 

簡単に説明すると・・・・

 

父・舒明天皇崩御後、

異母兄・古人大兄皇子

山背大兄皇子(聖徳太子の子)、

中大兄皇子と後継者候補があり、定まらず、

母・宝皇女が即位(第36代皇極天皇)。

 

その頃は蘇我氏全盛期!

蘇我蝦夷・入鹿親子は皇極天皇の後継に、

古人大兄皇子をつけるため、山背大兄皇子を襲い、

上宮王家(聖徳太子の一族)を滅ぼします。


それに怒った中大兄皇子は中臣鎌足と共に蘇我氏を滅ぼします。

皇極天皇は弟・軽皇子に譲位(史上初)し、

第37代孝徳天皇が即位。


皇太子となった中大兄皇子は政治改革を行います。

(これが大化の改新です。)

孝徳天皇は中大兄皇子と中臣鎌足の傀儡天皇状態で、

孝徳天皇は難波長柄豊碕宮(大阪市中央区)に遷都しますが、

中大兄皇子は大和(奈良)に帰ってしまいます。

この時、主な臣下だけではなく、

孝徳天皇の皇后(中大兄皇子の妹・間人皇女)まで帰っていまい、

失意のうち、難波宮で崩御。


その後、再び母が即位第38代斉明天皇)。

斉明天皇崩御後もすぐには即位せず、

667年、近江大津宮(滋賀県大津市)に遷都。

翌年、即位しました。

 

皇太子に弟・大海人皇子を付けますが、

天皇の皇子・大友皇子に皇位を譲りたいと考え始めます。

これが壬申の乱のきっかけです。

 

簡単に説明しても、こんだけ長い!

なので、またおいおい・・・・・。

 

 

天智天皇は近江宮で崩御(諸説あります)。

山科陵に葬られました。

御廟野古墳が宮内庁が管理する天智天皇陵です。

ここは陵墓=天皇陵で間違いない陵墓の一つ。

(もう一つは天武・持統天皇陵

 

 

 

県道143号の道沿いに天皇陵の入り口があります。

長-----い参道。

この写真の一番奥に、

陵墓の入り口に門があります。

そしてさらに長い参道の先に・・・・

天智天皇の陵墓があります。

 

 

上円対辺長約46m、下方辺長約70m、高さ8mの八角墳。

当初、上円下方墳と考えられていました。

政治の中心が蘇我氏→天智天皇と動いたように、

江戸幕府→明治天皇という図式が重なったのか、

明治天皇陵は、この天智天皇陵を参考にして築造されました。

しかし!

王者の墓の形が実は八角墳でした!!

と分かったのは近年。

それが判明した後の昭和天皇陵は、やはり上円下方墳。

まぁ、明治天皇・大正天皇に倣ったって感じでしょうが。

ちなみに宮内庁は天智天皇陵は「上円下方墳」といってますけどね。




この陵墓は緑豊かで、ほっとする空間ですよ。

 

 

一度、行ってみて

京都市東山区 天智天皇陵

 

 



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