珍しくまたまた歩いてきたご報告なんですが
なんでまたそんなに頻繁に長距離歩きしてるのか
というと
実は、来週後半から欧州に出張する予定があって
現地で心配なく動き回れるように体力作りしとかないといけないのですが
新型コロナウイルスのおかげで、密閉空間で危険度Maxのジムに行くのも憚られ
かと言って 本格的な山歩きや雪山歩きして
怪我するわけにもいかず
半分仕方なく 近場を歩いているわけなんです。
ということで
今回も自宅から出発
ウチの集落、たぶん神武東征で神武天皇がくる前からの集落で
ほぼ霊山寺の境内に隣接した場所のためか
集落内に矢田山への道標があり
我が家の隣にある道標を出発点としました
先ほどの道標から50mほどのところに分岐点があるため また道標があり
(文字がシッカリしてるのでまだ新しい)
その先にある集落のお寺と村の鎮守の看板
そこを過ぎると いつもの闇夜燈があるんです。
↓これは闇夜燈から数百メートル先の砂茶屋橋からの眺め
こちらはその砂茶屋橋から眺めた生駒山(中央左側奥)
砂茶屋橋の由来は、この砂茶屋(地名)から
唯一残っている古民家が往時を偲ばせてくれます。
その先は 赤膚山といって 奈良で有名な赤膚焼きの窯元が集まっている集落
昔は、時々窯から立ち上った黒い煙を目にしていましたが
最近は環境なのか近所からの苦情でか
いまも薪窯を使っているのかわかりません。
こちらが奈良盆地手前の最後ののぼり坂
『熊が出る!』って、出るわきゃないだろ とついツッコミ
ツッコミ入れられるのを狙ってるのかも(笑)
この辺り、民家の林が道を覆っているのですが・・・(次に続く)
路線バスのおかげで 刈らなくてもトンネル状になってるんですヨ
ここから少し外れて裏道を歩いていたら
タイムリーな イベント中止のお知らせが
こちらはいまは廃墟となっている奈良県立奈良病院
その少し先にあるのが 宝来古墳(垂仁天皇陵)
垂仁天皇陵だと宮内庁がいっていますが 実際には誰の墳墓なのかわからないみたいです
手前にある小島が 垂仁天皇が崩御した時に
哀しんで後を追うようにして死んでいった
臣下の田島間守の墓といわれています。
んで、その宝来山古墳の隣に走ってるのが近鉄橿原線
そこを横切って
奈良盆地の奥に遠くに見えるのが若草山
高級住宅地の学園前の中心的存在の大渕池を水源とした秋篠川を渡って
(その名のとおり、秋篠寺の近くを通ってます)
都跡小学校の向かいにあるのが都跡村役場
奈良って、西部のほとんどが元は生駒郡で河内の影響を受けた土地柄
その生駒郡だった頃は、この平城京の一角で
薬師寺や唐招提寺のある西ノ京から、この尼辻までが都跡村だったそうです。
つい十年ほど前まで 木造瓦葺の渋い建物だったんだけど
味気ない建物に建て替えられちゃいました
その尼辻から三条通りを東にすすみ平城宮址を過ぎた一角に
なにやら完成間近な近代的な建物が・・・
某国営放送の奈良支局なんですヨ~
暴力団のみかじめ料のごとく 有無を言わせずに徴収した受信料で建てたのかと思うと
腹立たしくて軽蔑の眼差しを送って通り過ぎました
んで、次が奈良市の桜の名所のひとつ 佐保川
源流近くの大仏鉄道記念公園(JR奈良駅の北にある舟橋商店街の先)から大和郡山市まで
総延長8キロほどあって 桜吹雪の楽しめるムッチャいいところなので
是非一度遊びに来てみてくださいネ
話が横道に逸れちゃったけど
イベントホールの百年会館があって
JR奈良駅があって
観光客で賑わう三条通りを上っていって
高速餅つきの中谷堂を過ぎたところにあるのが
この奈良県里程元標
ほとんど誰にも知られていなけど
明治中期に奈良県が独立した際に定められた場所
(一時、奈良は堺県や大阪府の一部だったんですよ~)
んでその元標の横の階段を上ったところが
興福寺の敷地
西国三十三か所観音霊場の第九番札所
興福寺 南円堂
御朱印を求める霊場巡りの人で賑わってます。
んで、その先にあるのが五重塔と東金堂
この五重塔、現存する五重塔としては京都の東寺に次ぐ2番目の高さ
明治の廃仏毀釈の時には、5円で売りに出されたものの
買い手がつかず残ったんだとか
5円って、焼いて溶けた銅を売った値段相当だったらしいですヨ
んで、こちらが典型的な猿沢池の風景
昼よりも夜ライトアップされた時の方がオススメ
その猿沢池から続いているのが 奈良町の今御門商店街
昔、この先にストリップのスターミュージックってのがあったんですよ~
ロシア人の友達が来日した時に連れていってあげたら
あまりのえげつなさにショックを受けてました
その奈良町の奥にあるのが
ここ25年ほど前から人気の観光地となった”ならまち”
国宝で世界遺産の元興寺の元境内にできた町で
30年前には寂れた寂しいところで
日本最古の商店街と言われる餅飯殿商店街に
近鉄奈良駅から続く東向、下御門商店街のあった奈良町の連中から
下にみられてたのが悔しくて
『奈良町は”ならまち”ではありません。』
って復讐してるみたい(笑)
そんな”ならまち”の寂しい民家に埋もれるようにあるのが”静観荘”
自分が観光客として奈良で泊まるんだったら
ぜったいココにするだろうな
そこから南にすすむと ↓こんな古いガソリンスタンドが
新しい消防法の基準が厳しくなって どんどん廃業してってるのに
ホンマに大丈夫なんやろか
こちらはこれまた古いタクシー会社の車庫
その先に最近建て替えられたJR桜井線の京終駅があります
古ぼけたローカル線の古い駅舎がとっても良かったのになぁ
この先からがいよいよ古い街道
とても古そうな民家をみつけて大喜び
この見事な七福神の瓦
奈良は”寝倒れ”(大阪の”食い倒れ”京都の”着倒れ”みたいな土地を表した表現)
とか”早起きは三文の徳”
(昔、家の前で鹿が死んでいると三文の罰金を払わないといけないので早起きして鹿の死骸をどけるため)
みたいに言われてるけど、それにもまして家にお金をかけるんですよぉ
その近くにあったのが 呉服屋さん
街道って感じが漂ってルンルン気分でした(オッサンやけど)
田んぼを過ぎて少しゆくと
妊婦さんの腹帯で有名な”帯解寺”
いまの天皇の浩宮さんを懐妊した時もここの腹帯を使ったんですよ~
で、帯解寺が大繁盛してるのを見てうらやましくなったんだろうなぁ
こちらも由緒正しき古刹なのに
いまは安産と子安を売りにしてるみたい(爆)
この街道、トイレも休憩する場所もないのがたまにキズ
なので駅のベンチでトイレを使わせてもらいついでに休ませてもらいました。
帯解からどんどん南下すると
古そうな神社が登場
ここは楢神社といって
祭神が五十狹芹彦命(別名を吉備津彦命:桃太郎?)と何故か鬼子母神
まあ、細かな説明をしだすとキリがないので端折ってと
この辺り櫟本という土地で
昔から流通の要として栄えたところ
おぉーーーっと和珥坂下伝承地
豪族和珥氏のゆかりの地なんですヨ~
それに山の辺の道の道標まであるし
在原寺やら
まあ、歴史の宝庫なんですねぇ(説明はせんのかい)
この辺りから古墳や史跡だらけで
街道歩きじゃあ勿体ないところ
とはいえヘトヘトになってきてたので
どんどんこの日の終点に決めてた天理目指したまっしぐら
天理教の歴史を感じさせる施設や母屋(地方からの信者が泊まる施設)だらけ
そのうえ黒い法被の信者さんが目立ちだしたと思ったら
天理駅に到着~
この日のルートはこんな感じ↓
天理駅までの距離がピッタシ20キロ
まあ、こんなもんでしょ
足の裏は大きなマメが潰れてエライことになったけど
いっぱい歴史の勉強もできたし楽しくて、超気持よかったっす
【伊勢本街道歩きは まだまだ続く予定。(たぶん)】
歴史探偵の気分になれるウェブ小説を知ってますか。 グーグルやスマホで「北円堂の秘密」とネット検索するとヒットし、小一時間で読めます。北円堂は古都奈良・興福寺の八角円堂です。 その1からラストまで無料です。夢殿と同じ八角形の北円堂を知らない人が多いですね。順に読めば歴史の扉が開き感動に包まれます。重複、 既読ならご免なさい。お仕事のリフレッシュや脳トレにも最適です。物語が観光地に絡むと興味が倍増します。平城京遷都を主導した聖武天皇の外祖父が登場します。古代の政治家の小説です。気が向いたらお読み下さいませ。(奈良のはじまりの歴史は面白いです。日本史の要ですね。)
読み通すには一頑張りが必要かも。
読めば日本史の盲点に気付くでしょう。
ネット小説も面白いです。
実は、私も最近の街道歩きから万葉集や歴史に興味を持つようになり、鍵・唐古の環濠集落から箸墓、纏向遺跡と古墳時代まで遡って歴史考証の書物を読み漁るようになり、その後特に神武東征頃を中心に興味を持つようになって、私のいま暮らしている場所が長髄彦と深い関係のある場所で、豪族のこと、ヤマト王権に大化改新、壬申の乱に長屋王の事などを知るようになって、多分半島からの渡来人で古くからの豪族を押し退け狡賢く朝廷を取り込んでいった中臣、藤原氏に憎しみを抱くようになってしまいました。
そんなわけで、興福寺、春日大社さえ“坊主憎けりゃ袈裟まで憎い” 状態になってます。(^^;)