Be Natural

気取りも なんのてらいもなく  あるがままの自分を 感性の赴くままに そんな独りよがりの書き捨て日記です。

故桜井研次さんを偲びながら往時の思い出に浸ってみました。【その②トンガについて】

2024-03-13 16:45:26 | 日記

【その①からの続き】

そのトンガ史上最悪となったHurricane Issac (トンガ語でAfa Aisake)

私が赴任した2月2日からほぼ一月後の1982年3月3日

首都のあるTongatapu島を直撃したのですが・・・

 

おっと、続ける前に

トンガ王国がどこにあって

どんな島国なのかご説明しなければ失礼ですよね。

 

南太平洋(南半球)にある島国で

いま現在は海底火山の噴火で増えてようですが、私がいた頃は169の島々で形成され

位置的には南緯15度~23度30分(因みに沖縄本島が26度、ハワイのホノルルが20度)

 経度では173度~177度(ほぼ日付変更線上、英国グリニッジの正反対)


近隣諸国は、北(赤道寄り)に同じポリネシアのSamoa
北西部にその昔は南太平洋のパリと言われたメラネシアのFijiがあります。
 
私が赴任していた頃は、FijiにはAir Pacific
SamoaにはPolynesian Airlinesという名称の航空会社があり
他の近隣諸国への航路と、この三ヵ国間を飛ぶトライアングル航路が就航していて
アクセスの便利さもあって兄弟のような間柄でした。
 

トンガは、これら三ヵ国の中でも
その昔は最も優れた航海術を持ち隣国にも勢力を伸ばしていた海洋民族で
広大なる海域に米粒のような島々が無数に散らばった小国にもかかわらず
王族によって統治され、同一言語を話す類まれな国なんです。
(1,000年以上の歴史ある南太平洋最後の王国)
 
↓この地図よりも北側(赤道寄り)にも離島がありますが
主要な諸島は、人の暮らす島の中では最も南に位置し首都のあるTongatapu(ヌクアロファ)とその周辺、
その北にあるほぼ海抜数メートル未満の島々Ha’apai諸島(パンガイ)
 
その北(Tongatapu島から直線で約300km)に
トンガの中では起伏があって風光明媚な入り江に囲まれたVava’u諸島(ネイアフ)で
 
 
首都Nuku’alofaのあるTongatapu島は
北側の島のサイズと比べ長大なリーフに囲まれ
貿易風や海流から守られた天然の良港の最奥部にあり
そこに王家の宮殿が建てられたのも納得させられます。
 
↓の赤い箇所が、ハリケーンの時に避航して投錨していた位置で

下の↓の位置が水産局と初期の住居のあった場所


 
ということで、トンガについての地理的なご説明はここで一旦横に置き
話を続けますと・・・

 

 

乗船中だった鮪延縄漁船は

結局ハリケーンの進路のど真ん中でやり過ごすこととなったのですが

まだ船が新しかったこともあって

暴風と高波に翻弄されながらもなんとか耐え

 

翌日の昼過ぎ

風がおさまってからようやく岸壁に着岸し

とりあえず上陸して水産局と宿舎のあるSopuに向かったのですが・・・

 

ビーチ沿いにある道は波で抉られて車が走れる状態になく

沿岸沿いの家もほとんどが高波に浚われ

崩壊してたり建物ごと内陸部に運ばれて荒野のような有様

 

宿舎に着いてみると

日本製の頑丈な建物だったため外観ではまともそうだったものの

ビーチ側の2階の窓は強風で飛ばされてきた木の枝がささり

台所にユニットバス、リビングダイニングのあった一階は

津波で全ての家具が流されサッシの窓ガラスも割れてもぬけの殻

 

実は、高潮からの津波に襲われ

近隣の住人がその地域では唯一二階建てだったその建物に緊急避難で逃げ込み

どうやら扉を蹴破って侵入したため海水が流れ込み

そのまま濁流が反対側の窓ガラスを突き破ってしまった様子

 

同居していた倉松さんは行方不明で

呆然としながら二階の自分の部屋に入ってみると

幸運にもアナカン(別送品)で日本から送った

大きなジュラルミンケースが置かれていてホッとしましたが

 

もし重いからと一階に置かれたままだったら

津波で流されたうえ

中も水浸しとなり、着任早々何もかも全て失ってただろうなと

想像するだけで背筋が凍る思いにさせられたものでした。

 

その後、当然のことながら全島停電、断水となり

復旧の目処が立たない状態

 

市街地の官舎で暮らしていた専門家や隊員の家は

津波に襲われることも風で吹き飛ばされることもなかったため

 

食料を分けてもらいなんとか窮状を凌いだのですが

 

すぐにオーストラリアとニュージンランドからヘリコプターや

海軍の艦船によって支援物資が運び込まれ

ビーチ沿いには被災者用に数十張のテントが設営されたのですが

 

あの緊急援助の迅速さには驚かされましたねぇ。

 

その後息つく暇もなく

派遣先の後片付けに追われることとなったのですが・・・

 

実は、その数日後に任期を終えて帰国する予定だった漁労専門家の川上晋氏

(東京水産大出で、詳しくは知りませんがその昔国連関係の専門家として南米に派遣され

その後トンガに移り、後に日本のODAが開始され続けてJICA専門家として合計17年間過ごした人物)

水産局の施設に鮪延縄漁船の供与を手柄に華々しく見送られると思っていたのが

そのハリケーンで信じられないようなしっぺ返し

 

そんな惨状のまま離任できなくなり帰国を1週間ほど伸ばし

我々協力隊員の協力で被災した水産局の養殖施設や

鮪延縄漁船とともに供与された機器の予備品や漁具類を流されたブッシュの中から探し出し

予備品保管用に建てられていたトタン板張りの倉庫に

塩抜きや錆止めして片付ける作業に狩りだされ

朝から晩まで没頭することに!

 

鮪延縄漁船は元々の乗組員(機関長以外は残っていた)で操業に出発することが決まり

私は次の航海までは陸にいられることになり

とりあえずハリケーンの被災者ながらホッと一息

 

週日の日中は汗みどろになっての労働でしたが

アフター5や週末はプライベートの時間を過ごせるようになったため

前任者から引き継いだボロバイクで島内を巡ることができました。

ということで

またまた脱線してTongatapu島がどんなところだったのか

写真でご紹介させていただきますね。

 

 

これ↓は、その後たぶんマグロの缶詰工場があるアメリカンサモア辺りから買って

トンガ国内の貨客船として就航していた中古マグロ船

ハリケーンでほとんどの離島間に就航していた古い船が座礁や沈没してしまったため

こうして数隻が就航していたのですが

これらも数年内に別のハリケーンで全て座礁したり沈没しちゃいました。

 

岸壁の陥没箇所はハリケーンの信じられないような波の力で

桟橋の下から突き上げられて捲れ上がったもの

運良くハリケーン前に出航した時に撮った写真があり

被災前の王宮と無傷の同じ岸壁の様子が残されてました

こちらも同じハリケーン前の国営ホテル

International Date Line Hotel(国際日付変更線ホテル)

当時の日付変更線では

トンガが世界で一番先に日付が変わる位置にあったため

Tonga="Where time begins"と称してたんですよ。

これ↓は、島の南側のビーチのひとつ

リーフが近いので、素潜りのスキューバには最高でした。

これは同じ南側でもリーフのない断崖絶壁の海岸線が続く

Tongatapu島ではたぶん最高高度のFufanga Lupeという場所

こちらは、Tongatapu島北側のラグーンに面したビーチ

木陰に置いてあるのが丸太をくり抜いた手漕ぎのボート

島の最西端にある謎の巨石

Ha’amoga

どうやってこんな大きな珊瑚石を切り出し、組み立てたのか

文献のない口頭伝承の地なので

何の目的のものかも含め全く不明の建造物なのですが

 

同時にトンガは特に王族(貴族)は巨人だらけで

ガリバーの巨人伝説の元になったと言われてる国なんですよ。

 

 

島の中央部にもココヤシが生えているのですが

根元にいるのが馬(英国保護領だったのでサラブレッド)

木の高さがわかるようにと撮ってみました。

ここも島の南側のリーフのない海岸線にある

当時は全く知られていなかったダイビングスポット

珊瑚石でできた棚の下に外洋と通じた穴が開いていて

波によって水位が1~2m上下する上に

外洋側にはいつも鮫がウヨウヨしていてスリル満点の場所でした。

 

↓ ここは英国の総領事館

トンガ王国が1777年に海洋探検家Capt. Cookによって発見され

その後長年英国の保護領になっていたこともあり

外国公館としては当然一番

王宮に次ぐ歴史と威厳を備えた施設でした。

 

↓ は島の南西方面にある観光名所のひとつ

”Blow Hole” 外洋からの波が珊瑚岩の中にある無数の穴から噴き出し

季節と潮位によってそれはそれは見事な景観をあじわえる場所で

1985年には日本専売公社の煙草”セブンスター”のCMにも使われてたんですけど

たぶん関係者以外憶えてる人はいないだろうなぁ。。。

こちらは、トンガの典型的な墓地(土葬)で

王様だけが捕獲して食べられるFling Fox(フルーツバッド:コウモリ)の木も

墓地にあります。

 

こちらは、郵便局

私が赴任した1982年当時は

Cable &Wireless社の衛星を使った国際電話もありましたが

 

たしか日本だったら3分で5,000円ほどの料金で

手当として支給されるのが月額20,000円ほどの協力隊員には縁のない世界

 

日本との通信手段といえばせいぜいAir Mailで

国際郵便ルートとしてオーストラリアを経由するため

最速でも2週間ほどかかる時代でしたが

日本の事務局からOSCで新聞紙やダイジェスト版を送ってくれていたので

私書箱を確認するのが日課でした。

前述のとおり、Capt. Cookによって発見され英国の影響を受けて

王族から国民もほぼ全てがキリスト教徒となり憲法もキリストの戒律が用いられ

敬虔なるキリスト教徒国家となったことと

ほとんどの生活物品(主食の芋類、ココナッツ、魚介類以外の食料品も)は

輸入品のみ

 

そんな背景もあってかアルコール類を販売できるのも

ほんの一部のスーパーマーケットに限られ

なおかつ警察署で発行される免許証を持たないと買えない建前だったため

 

それなりの地位にある特権階級だけが利用できるCLUBがあり

そこではカウンターで雑談したりビリヤードしながら無制限にビールが飲めたのですが

一番敷居の低かった(TONGA CLUB) ↓

家畜としては

内陸部では馬、一般家庭では鶏か豚を放し飼いされていて

ほとんど食べ残ししないので

餌といえば主食の芋類の皮か魚の骨

ココナッツミルク用に果肉を削り取った殻の削りカスだったので

豚は、引き潮になるとビーチで鼻で浅蜊を掘り出して食べてました。

島の南側のビーチは、リーフが近すぎて魚もあまりいないのか

水遊びする習慣もあまりなかったようでそこらじゅうが貸し切りのプライベート状態でした。

これは首都のNuku’alofaの中心地にあった床屋(KOSIULU: 直訳するとCUT HEAD)
調髪は櫛とハサミだけの上

シラミがうつると言われてて一度も利用したことはありませんでした。

こちらODAで建てられた水産局

玄関や他にガラスの代わりにベニヤ板が貼られているのは

ハリケーンの時の高潮と津波で壊されたため

海岸に面していたため成人男子の胸の高さに津波の跡が残ってました。

これはまた鮪延縄漁船に乗船していた時の一枚

 

なんせ酒飲みなので手当てはほとんど全てビール代に消え

その上乗船中はタロ芋漬け(陸ではそこそこ高級食材なので機関長だからと山盛り出してくれるんですが)

拒絶反応で見るのも嫌気がさしていつしか全く食べられなくなり

ゲソゲソに痩せこけてしまいましたが

精神的には苦じゃなかったなぁ

当直中の機関室での一枚

日本だったら安全靴なのに、現地人に倣ってサンダル履きでした(爆)

ある日の日曜のミサでの一枚

先輩隊員から引き継いだバイクがツルツルタイヤだったため

直ぐにパンクしてしまったものの現地にはタイヤを入手する術がなく

同じ二階建て住居で暮らしていた先輩隊員の倉松さん(小児麻痺の方でした)が

乗れるようにと支給されたダックスホンダの後ろにタンデムで連れてもらってたのですが

自分で自由に動けず、辛かったなぁ

その日曜日のミサは一種の社交場で

昼には子供たちがキリスト教の神話を劇で演じたりするのですが

緊張して泣きながらセリフを言う女の子がいたりしたのが印象的でした。

↓ こちらは、その日曜のミサに行くために

馬車(サリオテ)に乗るのを待ってた一張羅で着飾った子供たちに声をかけて撮った一枚

 

島の中心部から少し離れただけで

こんな素朴な光景がみられた古き良き時代でした。

 

それなりの収入があり、輸入ビールの飲めるCLUBに行ける連中以外は

南太平洋ではもっともポピュラーなKAVA(カヴァ)が社交場

 

Kavaとは胡椒科の一種の植物の根を乾燥させ

石で叩いて粉状にしたものを木の容器に入れて水を加え

見た目は泥水のような液体を飲むのですが

 

アルコール成分は皆無ながら、飲むほどに神経を鈍らせる効能があるため

酒代わりに皆で円陣になって雑談したり歌を合唱しては夜を徹して楽しむのですが

なんせ大酒飲みなのでほとんどシラフのままで

水分の取り過ぎでお腹はチャプンチャプン

 

そんな風に文句いいながら手当がなくなると仕方なくKava飲んでたんですけどね

タイヤがパンクして相当苦労させられましたが

着任から半年ほどして隣国のサモアから新任の駐在員が来トンされ

窮状を訴えたところその場で承認され

ようやくまたバイクに乗れるようになって

飛び上がりそうなくらい嬉しかったなぁ

 

 

さて、またまた備忘録と友人知人に知ってもらおうと

もう少しトンガの事を記事にさせていただきますね。

 

 

(王宮と軍の式典)


Comment    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 故桜井研次さんを偲びながら... | TOP | 故桜井研次さんを偲びながら... »
最新の画像もっと見る

post a comment

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

Recent Entries | 日記