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気取りも なんのてらいもなく 
あるがままの自分を 感性の赴くままに
そんな独りよがりの書き捨て日記です。

心の故郷フィリピンでイラチを治す旅【その⑤セブ経由でレイテ島タクロバンへ】

2025-03-31 17:40:57 | 旅行

 

ミンダナオ島Dipologを出発して向かったのが

Cebuの中心地の対岸にあるマクタン空港

 

セブ島は、首都で便利ながらも人で溢れ治安の悪いマニラ周辺と異なり

ボラカイなどのリゾート感溢れる観光地が多いため

最近では海外からの直行便も多く

インバウンド観光客で賑わっているんです。

 

その分、観光地価格なのでフィリピン通としては

あまり面白くない土地なんですけどね

 

空港ターミナルも昔は田舎の空港丸出しでしたが

いまではインバウンド観光客向けに洗練されていてとても便利

 

あと近頃はレチョン(炭火焼=特に豚の丸焼きのこと)が人気らしく

レチョンのお店も数軒あってビックリ

実は、食べようかなぁと相当悩んだんですけどね

 

保安検査場の先には

いかにも白人系の好きそうな飲食店があり

フードコートもそこそこ充実してました

搭乗ゲート前の待合室はこんな感じ

丁度お昼時だったので、何か食べようかな?と思いつつ

すぐにレイテ島タクロバンなので

結局ドーナツとコーヒーだけで我慢して

飛行機に乗り込みました。

 

この日は、レイテ島上空も大雨で

着陸寸前で視界が悪化してゴーアラウンド

久々にスリル満点のランディング

 

 

約35年前に暮らしていた頃と同じ古いターミナルビルが懐かしかった~

このレイテ島

1985年に革命で失脚してハワイに亡命した当時の独裁者マルコス大統領の嫁で

天下の悪妻と呼ばれたイメルダ・マルコスの生まれた土地で

 

夫を暗殺されたコラソン・アキノにとっては憎むべき対象だったので

アキノ政権下では、ネグレクトされ開発から完全に干された地域。

 

ご参考までに、フィリピンの主要言語の分布図でご説明すると

北部のルソン島の大きな湾がある辺りがマニラで

薄いクリーム色、黄土色、紫色の地域が

 フィリピンでの標準語となっているタガログ語圏

中央から南の紅色がタガログにつぐセブアノ語圏

レイテ島、サマール島は中央東部の茶色の部分でワライ語圏


なんせ、180以上の言語が存在し、いまも100以上の言語が使われている国
 
私も任地がレイテ島タクロバンでワライ語圏のため
家の女中、車の運転手、日常の生活ではワライ
仕事先では、秘書がセブアノだったりワライだったり
インストラクターは、ほとんどがタガログで
マニラに出張することが多かったので
基本は英語とタガログで通してましたが
レイテ島ではそのどちらも通じないことも多くて苦労しました。

 

あと、当時は隣のサマール島とレイテ島の山間部は

NPA(New Peoples Army:新人民軍)というゲリラの巣窟で

観光客が訪れる土地ではありませんでしたが

近年は資金源だった中華人民共和国とも国交が結ばれ

ゲリラ活動はとりあえず収まっているそうでした。

当時から島の中央には世界最大の地熱発電所があり

電力が安定しているのかと思ったら

送電線や電柱・電線が台風が来るたびに断線して

切れた電線を盗んでしまうので

年がら年中停電だらけ


上水道も水源のダムの取水口が

大雨が降ると詰まってしまい断水


更には市街地の配管が細すぎて

新しい住宅地では需要が賄えず

ほとんどチョロチョロとしか水が出ず

苦労していましたが

台風の後

インフラが整備されて改善されたとか

“災い転じて福となす”

な面もあったんだそうです。

 

空港には、当時の赴任先のプロジェクトの幹部の一人で

タクロバンで借りてた家を紹介してくれた仲良しが迎えに来てくれていて

ホテルのチェックインの時間まで

久しぶりのタクロバン周辺を案内してくれました。

 

車を運転してくれたのが私が帰国した後で生まれた娘さん

いまは高齢者医療の医師として勤務しているんだと聞いてビックリ


長男はマニラでIT業界で働き

次男はなんとカソリックの神父になって

バチカンで修行中だそうで

驚かされる事だらけ(笑)




私がいた頃は、まだ新婚で第一子のゴッドファーザー(洗礼時の保証人)にさせてもらったほど
仲良しだったんですよ。(因みに彼女の左が、まだ30歳になりたてのわたくし

 

レイテ島という土地は

いつもトラック諸島近海で発生した台風が直撃するところで

2013年11月には、フィリピン災害史上最大級の被害を与えた”台風ヨランダ”

(895hPa 最大瞬間風速90m/s: 時速にして324km/h)

によって暴風雨と高波で死者・行方不明者8,000人を超え

タクロバン市は壊滅的な被害を蒙ったため

FBで友達になっている友人・知人は無事だったと知らされたものの

安易には訪れられないなと、10年以上訪問するのを諦めていました。

 

最初に連れて行ってくれたのが

空港近くできた元市長の公邸で

いまはPacific Point Events Place and Resort Inc.と言う場所

太平洋戦争の激戦地だったこともあり

敷地内にはいくつもの日本軍のトーチカ跡もあったりするんですよ

(英語ではPillboxと言います)

続いて訪れたのは

米軍の司令官マッカーサーが意地をかけてレイテ島を攻略して

上陸を果たした場所で

上陸した時の情景を銅像にしたモニュメントがあり、いまは国立公園になっています。

太平洋戦争開戦当時

日本軍の猛攻に劣勢を強いられて

マニラ湾の要塞コレヒドール島の米軍基地に籠っていたマッカーサーが

日本軍の空爆によって命からがらオーストラリアに逃げたのですが

その時に「I shall return(私は必ず戻ってくる)」との言葉を残し

 



 

その約2年半後の1944年10月

タクロバンでとってもお世話になったマルコスのブレインの一人で

歴史の生き証人の方から聞いた話では

タクロバン沖の水平線が見えなくなるほどの連合軍の軍艦が集結し

圧倒的な物量による艦砲射撃と空爆で日本軍を叩き

この地で、「I have retuned!(私は帰ってきた)」と宣言した歴史的な場所で

日本人にとっては、つい悲しみと悔しさに苛まれる場所なんです。

 

一応、戦勝国側にとっては平和の礎となった場所と

定期的に記念式典が執り行われていて

2019年の10月20日には75周年記念式典と


それ以前の50周年だったかな❓

世界の主要国の国家元首による碑が飾られていましたが

ロシアがエリツイン、アメリカがクリントン、日本が村山で

つい、うぅ~んと唸ってしまいました。

 

その近くには

大韓民国のメモリアルパークがあり

話を聞くと、台風ヨランダで壊滅的な被害を受けたあと

韓国は災害復興支援のために韓国軍を約1年間派遣して

瓦礫の撤去や道路、インフラの整備に大活躍したそうで

それを記念してそんな一角ができていました。

2013年10月ということで

まだ東日本大震災と津波の復興で、日本にはあまり余裕がなかったのかもと

言い訳気味に考えてみましたが

 

やはり石橋を叩いても渡らない日本人気質

イケイケドンドンの韓国人の方が偉いよな と恥ずかしい限りでした。

 

その後、レイテ島ではランドマーク的存在でもある有名なPaloの大聖堂を訪れ

その敷地内に集団埋葬されたことを知りました。

ただでさえ南国の上に、電気も水道も失った被災地で

身元確認のために遺体を安置したり保存などできるわけもなく

いたるところで集団埋葬されたとのこと

 

続いて、レイテ島では常に中心地であったタクロバン市から

隣のPalo市にProvincial Government(地方政府)の庁舎も移転されたそうで

Tacloban市民の彼女達はちょっと悔しそうでした。(笑)

その後、タクロバン市庁舎を訪れてから

夕食の約束をしてホテルに送ってもらい

シャワーを浴びて少し仮眠してから

約束していたレストランへ

(緑のポンチョを着てるには、ウーバーの配達人)

このレストランは、シーフードでそこそこ人気と聞いて決めたのですが

医師になった娘さん、実は甲殻類アレルギーでほとんど食べられず

何か食べられるものをと勧めたのですが

遠慮していて申し訳なかったなぁ

娘さんは翌日から36時間勤務とのことを聞いて

長居しては迷惑だろうなと早々に切り上げて

 

ホテルに戻り最上階のレストランで

ビールとFish &Chipsを注文したのですが・・・

ショボすぎてガックリ

 

その昔は、市街地の中心にショーパブがあって

夜な夜な真夜中まで飲み歩いたもので

 

運悪くNPAのゲリラの暗殺部隊(通称スパロー)が店に来ると

店のママが「いまスパローが来たから裏口から逃げて」と

離れたところに停めてあった車まで忍び足で移動して

音を立てないようにドアを開け、車内では背を丸めて運転席に座り

エンジンをかけたら一気に全速力で発進して逃げ帰ったこともありましたねぇ

 

 

それほどショーパブが好きだったのに

今回は、つい面倒になってしまい断念

 

いまやもうすっかり爺さんになっちゃったんだなぁと実感

 

【”その⑥昔の家と職場で思い出に浸る”に続く】

 

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心の故郷フィリピンでイラチを治す旅【その④Dipologってこんな場所】

2025-03-30 15:24:22 | 旅行

2月20日

Dipolog2日目

安宿で朝食付きではないため

またまた前日にブランチを食べた店に行き

フィリピンの典型的な朝食のひとつ

Corn Silogを注文

 

その後、近くの飲料品専門店でSan Miguel Pale Pilsenの

1リットル入りGrandeを2ケース(12本)を手土産にして

トライシクルを呼び止めて

目的地までの値段交渉して乗り込み

いざ出発

市街地を離れのどかな田園風景に目がハート

これがまたフィリピンらしく

田植えからまだ日が浅い田圃があれば

少し先にはそろそろ出穂の稲の田圃もあり目の保養になりました。

田圃にはいくつものニッパハウスが点在していて

今度来る機会があったら ケース買いしたビールとオツマミを持ち込んで

日長一日ボーッと田圃を眺めていたいなぁ なんて夢を描いてました(笑)

やがてPolancoの町に入り

道端にはホウキやブレッドフルーツが売られていて

のどかだなぁと思っていたら・・・

 

突然渋滞となってどうしたんだろ?と様子を伺ってみると

道路脇の竹の伐採作業中でした

 

この先でトライシクルの運転手がどこへ行くのかと尋ねられたのですが

なんせ聞いているのは

地名と家の外観の写真のみ

 





 

奥さんの携帯番号を聞いていたので

あんたの携帯で電話してみてくれと言うと

なんと、携帯もってないとのこと

 

しゃーないなー どないしよと思ったところ

一度通り過ぎてしまった道端にあった垂れ幕にその地名があったので

戻ってそこから奥に入っていったのですが・・・

 

写真と同じような門と家がみつかり大喜び

いや~、楽しませていただきました。

実は、この大親友

青年海外協力隊の同期で訓練所で同じ部屋だったこともあり

とっても仲良しなんですが

 

類まれな経歴の持ち主で

団塊の世代で高校卒業時があの東大安田講堂事件の頃

あえてスペインのマドリッド大学へ留学することを決め

フランス郵船の貨客船でアフリカ喜望峰周りでヨーロッパに渡り

大学で学んでからイギリスに渡って数年過ごし

なぜか帰国して、瀬戸で陶芸を学んだり

なぜか土木の道に入ってから

青年海外協力隊に参加してきた強者

 

「土木の世界じゃあ、セメント袋をどれだけ担げるかが大切なんだよ」

などと訳のわからないことを話すガテン系のお兄さんだと思ってたら

語学研修では試験で英語のトップクラスとなり

MIT留学者や旧帝大出の連中と同じクラス

 

そんな経歴の持ち主なのに

フィリピンのミンダナオ島へ陶芸隊員として派遣され

そこで出会った闘鶏の世界にのめりこみ

現地の女性と知り合って結婚


(フィリピンの隊員仲間から、『陶芸隊員じゃなくて闘鶏隊員』と呼ばれてたんだとか)

 

その後任期を終えて帰国して

しばらく奥さんも子供も日本で暮らしていたのですが

奥さんの実家近くで購入していた土地が、運良く地上げで資産が倍増

その後、Dipologに数百坪の土地を買って家を建て奥さんと子供はフィリピンで暮らすようになって

 

毎年、1週間ほど休暇を取ってDipologで過ごし

奥さんも毎年日本で暮らす二重生活を送っているのですが

 

コロナ禍となってワクチン反対派なのでフィリピンに渡れず

今回5年ぶりにDipologで約1月滞在

75歳となってそろそろフィリピンで隠居生活もと思っていたようでしたが

 

やはりまだまだ日本の方が住み易いと感じたようで

終の棲家となるのはもう少し先になりそう

 

家の隅々まで案内してもらい

玄関ポーチで山ほどの貝でビールをご馳走になっちゃいました。

最初は警戒して吠えてた犬も

すっかり懐いて膝の上に寝転んでなでなでを要求

我が家のクロッチ(黒猫)と一緒だなぁと目を細めておりました。

 

しばらくビールを飲みながら歓談していたところ

 

闘鶏仲間が訪ねてきて闘鶏話で盛り上がり


その中の一人は、40年前協力隊員だった時代からの仲良しなんだとか
 
今はもう82歳と聞いてビックリ
 
 
それでも40年たって昔の友人に再会できるって幸せですよねぇ~
 

 

その来訪者たちを見送ったところ

突然腹痛に襲われたらしく

どうやら貝なのか、生魚のお刺身にあたったみたい

しばらく横になって安静にしてた方がいいですよ

もしも痛みがひかなかったら、日本から陀羅尼助を持参してるから言ってねと断って

わたくしはホテルに帰ることにしました。

 

写真には撮っていませんでしたが

裏庭のはるか遠くに椰子の木畑と放牧場があり

椰子の木陰でのんびりと寛ぐ牛たちの姿にとても癒され

隠居暮らしにはとってもいい環境だなぁと羨ましかったです。

(たぶん2・3日で飽きてしまうだろうなとも思いつつ

ふらふらと歩きながら大通りに出て

手を挙げて二人乗りバイクのタクシーを拾い

ホテルに戻り

またまた飲み足りなかったので

ビールを求めて市街地を彷徨い

 

この日は、パンシット(フィリピン風焼きそば)とバグス(ミクルフィッシュ)定食

 

翌日は、少し離れた町で開催される闘鶏の大きなダービーの日で

お誘いしていただいていたのですが

Dipolog最終日となるため、のんびり田舎町を味わおうとお断りしてたので

 

翌朝、ビーチ沿いを散歩していて地引き網を発見

↓Wifiのプリカなんてのもあってビックリ

どこで朝御飯食べようか?

できればビール飲める店がいいなぁと徘徊し

 

ブランチからビールの飲める店をみつけて

結局、この日は飲んで、食べて、昼寝してと

のんびりさせていただきました。

 

Google Mapsでみつけた Tuna Grill のお店

やっぱりお酒は置いてないんですよ~

 

で、結局夜もブランチのお店で

 

やっぱりミンダナオ島のそれもZamboanga(西部)方面は

イスラム教徒も多いからなのかなんなのか

食堂では気軽に飲めないことを知りました。

 

翌朝、早朝のフライトだったので朝5時起きして荷物をまとめ

トライシクルで空港に行くことに

 

空港開港の歴史を説明していましたが

日本に侵略された後と書かれていて大ショック

たぶんもう来ることはないだろうなぁと思いつつ

朝御飯を食べ

セブ行のプロペラ機に乗り込みました。

 

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心の故郷フィリピンでイラチを治す旅【その③ミンダナオ島Dipologへ】

2025-03-26 15:34:35 | 旅行

2月19日 深夜フィリピンに到着した日の朝

ほぼ徹夜状態で国内線に乗り込み

Minadanao島 Dipologへ

ミンダナオ島は、フィリピンの南の大きな島

その昔は、台風はほぼフィリピン諸島中央東部のレイテ島を直撃して北上するものの

それより南にはほとんど上陸しないため

バナナやパイナップルなどのフルーツのプランテーションが多く

過ごしやすい土地なんですが・・・


いかんせん、インドネシアやマレーシアにも近いため
モスレム(イスラム教徒)が多く
基本的に敬虔なカトリック教徒の多いフィリピンでは異端児となり
独立を狙うゲリラだらけで
特にミンダナオ島の主要都市 
サンボアンガ(Zamboanga)は結構怖いところなんです。
 
自称フィリピン通のわたしも
実はミンダナオ島は
そのサンボアンガとこれまたゲリラの巣窟の
General Santosしか訪れたことしかなく
 
Dipologは初めて
ミンダナオ島は実に25年ぶりの訪問となりました。

 

自称晴れ男なのでめったに雨に降られることはないのですが

この日は大雨

着陸前に観たDipologの町があまりに田舎町で

どうみてもタクシーなどない様子

 

再びDipologのことを説明すると

セブ・ボホール・ネグロス島に近いため


海路ではネグロス島のDumageteからフェリーで結ばれていて
生粋のミンダナオ(サンボアンガ)の人間からは
「あそこはミンダナオじゃなくてセブ文化圏」
と言われている場所なんです。

 
Dipolog空港は、戦前から存在する空港で
(フィリピンはほとんど太平洋戦争前からあった空港が多いんです)

馴れないセブアノ語圏だし

預けた荷物を待ちながら

『さて、どうやってホテルまで行こうか?』と

少々不安に感じながら、雨の中空港ターミナルを出て

トライシクル(バイクのサイドカーの乗り物)へ向かって歩いていると

「オォ~イ、長坂さ~ん」と呼ぶ声が聞こえ

なんと今回のDipolog行を決めた

現地に家族がいて約一月のお休みをとって中原さんが

奧さんとお孫さんの運転で迎えに来てくれててビックリ

 

とりあえず孫息子さんの運転でホテルまで送ってもらい

(赤いスポットがホテルの場所)

中原さんとはその日の夕食をご一緒するとしていたため

 

そこで別れてブランチがてら

食事ができる場所を探してみたのですが

どうにも田舎で 近くにまともな食堂がみつからず

カリンデリア(イーテリーとの呼ぶ簡易食堂)があったので

すかさず入店

とりあえずLechon Kawali(焼き豚)付Sisig(豚の顔肉の鉄板炒め)を注文し

「ビールはないの」と尋ねると

「ビールはおいてないです」との返事

 

吞兵衛のわたくしにとって

酒無しでの食事は論外のこと

 

そそくさと食事を終えて店を出たのですが

ほとんど外国人が訪れない土地なのか

タガログ語と英語の会話が嬉しかった様子で

店員はとても嬉しそうでしたが(笑)

 

店を出た途端土砂降りの雨となって

近くの雑貨屋に飛び込み 傘を購入

お酒を求めて 傘を差しながら徘徊し

素焼きの炭のコンロや竹工芸品を置いている

ハンディクラフトの店を眺めたり

 

何軒かの飲食店でビールの飲めないかと尋ねながら



(↑の赤いスポット)

 

ようやくアルコールを置いてある店をみつけ

すかさず入店

アテには大好物のフィリピン風刺身キニラウ(ココナッツミルクのマリネ)と

エビのガーリック炒めを注文

結局サンミゲルビールを5本ほど空けて

気分よくホテルに戻り

中原さんとの待ち合わせが夜7時だったので

とりあえず爆睡

昔は、フィリピンでは差し込み口が丸い穴のタイプCしかなかったのですが

日本と同じタイプAも併用できるようになっててこれまたビックリ

便利な世の中になりましたねぇ~

夕方、晩御飯をご馳走してくれると言ってたものの

こちらから勝手に押しかけてきたのと

団塊世代の中原さんも75歳となって

日本でも週に2・3日のアルバイトをしているようなものの

未だ一応現役で働いている身なので 

こちらからご馳走させてもらおうと

近所のATMを探し、現金を引き出し

(もう20年以上、海外ではATMでクレジットカードからの借り入れにしています)

(レートも悪くないし、手数料も僅かなので現金での両替よりもよっぽど便利なんです)

 

 

ホテルに戻り

夜7時、中原さんの奥さんの運転する車で

Dipologでの人気スポット

Dipolog Boulevard Food Parkへ

(↓のオレンジ色の下側のマークの場所)



 

基本串焼きのサティを炭焼きして食べる場所なんですが

申し訳なくて 

ほんの少しだけ注文したのですが

やっぱりお酒は置いてなくて、ちょっとガッカリ

(洗い物が楽になるように、お皿はラップに包まれてました)

その後同居しているお孫さん(孫息子と孫娘の二人)も

学校から戻ってきて合流し

「遠慮せずにもっと食べて」と言っていただいたのですが

なんせビール無しでは食事がすすまず

 

食事を済ませてからお別れして

またまたビールを飲める店にくりだし

カラマレス(イカのリング揚げ)とBicol Express(豚肉をココナッツミルクと唐辛子で煮た料理)で

またまたサンミゲルを4本ほど飲み干して

このお店

どうやら夜が本番らしく

お酒やカラオケを楽しむお客で賑わっていましたが

歳とって女っ気にも興味がなくなってしまったため

お酒で酔えただけで大満足

トボトボと歩いてホテルに戻りました。

 

【その④に続く】

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心の故郷フィリピンでイラチを治す旅【その②2025年2月LCCでフィリピンへ】

2025-03-19 17:30:51 | 旅行

【その①】で私とフィリピンとの関係をご説明しておこうと思いつつ

あまりにも長い前置きとなってしまい大変失礼いたしました。😅

 

テレコ(関西弁で”入れ違い”等の意味)となってしまいますが

1987年から1989年までの二年間

JICAのフィリピン国立航海訓練所プロジェクトでレイト島タクロンバンに派遣され

その後もフィリピン通として民間企業に転職した時も

フィリピン事務所の立ち上げから、職場の連中をゴルフツアーに連れていったり

退職して独立してからはエンジニアや研修所のインストラクターなど

1990年以降だけでパスポートのスタンプを数えてみたら48回の入出国

 

そんな訳で私にとっては、世界中で一番訪れてきた国となり

心の故郷となっているのですが

それらの詳細についてはまた改めて記事にすることにして

 

今回、協力隊時代の同期でフィリピンに派遣され

現地の女性と結婚して長年日本で生活した後に

奧さんと子供さんは住み慣れたフィリピンに戻り

家を建て

コロナ前までは毎年フィリピンに行ったり

奧さんが日本に来て数か月を過ごす

そんな生活を送っていた大の仲良しが

 

久しぶりにフィリピンの家に行くと聞き

それは是非お邪魔しに行こうと決め

ついでに30年以上ぶりにレイテ島を訪れようと

急遽旅程を立て、つい先日旅してきた時の記録です。

 

この旅をするために自治会、水利組合、仕事を調整して

2025年2月18日火曜日 14:50

 

奈良から関空行きのリムジンバスが激減して1日に4本しか運行しておらず

空港で無駄な時間を過ごさなければならない上に

片道2400円もするため(近鉄と南海なら1500円)

近頃変に倹約家になってしまったようで、つい鉄道を選択

フィリピンに行くため夏服にダウンジャケットを羽織ってただけなのに

無情にも雪がちらついてました。

15:30 南海なんば駅到着

この日のフイリピンへのフライトをLCCとしていたため

またまた駅ソバ(イカ天そば大盛り)で小腹を満たし

関空行き急行に乗車

16:30 関空で交通系カードをチャージしておこうと券売機に向かうと
インバウンド観光客で大混雑

事前に日本滞在中はICOCAが便利との情報を得ているようで

それを購入しようとしてるのですが

なんせマナーの悪い人間が多くウンザリ

それでもなんとかチェックインカウンターに向かい

大行列に並んだのですが・・・

なんと乗客のほぼ95%がフィリピン観光客で

タラタラしてるのでチェックインに40分

イラチ(セッカチ)なので相当イライラさせられ

こりゃあ先行きが不安だなぁと行く手に暗雲が立ち込めていましたが

保安検査を済ませてしまったら

ボッタクリの飲食店しかないだろうなと

立ち食いそばだけじゃあお腹が空くだろうなと

2階のコンビニでオニギリとアルコールを買ってベンチで夕食

その後保安検査&入管を済ませて中に入ってみると

インバウンド観光客からぼろ儲けしてやろうとの魂胆みえみえの

免税店や飲食店だらけ

コロナ前まではそこそこ定期的に渡航していたので

10代の頃から習慣にしているコロンを切らしたことはありませんでしたが

ここ数年はめったに国外へ出ることがなくなり残り少なくなっていたので

今回は出国時に購入しようと

以前一度だけ使ってそこそこいい香りだったBVLGARIを覗いてから

結局、1979年に練習船で立ち寄ったLAで購入して以来

基本常用しているGIVENCHYを買うことにしちゃいました。

爺さんになってからは、加齢臭消しなんですけどね

今回は、LCCなので航空会社のラウンジが使えないので

カードラウンジを探し

六甲のアネックスへ

とりあえずLCCで、機内サービスを頼んでいなかったので

しっかり飲み物を補給して

搭乗ゲートに向かったのですが・・・

 

な、なんと約2時間強の遅延

慣れているのか、到着からわずか30分ほどで乗客を乗せ

2時間6分遅れで出発

普段なら夜間飛行なので窓のシェードを閉めるのですが

この飛行機ではクルーからの指示もなく全部の窓が開けたままだったので

外を眺めていたところ

オリオン座を発見

やがてマニラ上空を通過して

予定時刻より1時間35分遅れでNAIA(ニノイアキノ国際空港)に到着

 

この日はターミナル内のトランジットホテルで泊まるつもりだったので

(ターミナルに入場するゲートがいつも大混雑で、時間によっては1時間はかかるので)

その施設に向かうと 

「予約してますか?」

「してなければ満室です」と断られ

さてどうしようかとターミナル内を歩き回り

日本食チェーンのレストランができているのに驚きながら

どこか休めるところがないかと探したのですが・・・

 

結局みつけられず断念して国内線がチェックインを開始していたので

そのままチェックインカウンターに向かい

中で待つこととしたのですが

 

時間潰しがてら フィリピン食をアテにビールを飲み

ベンチでうとうとしただけの

ほぼ徹夜状態で

ミンダナオ島Dipolog行の飛行機に乗り込むこととなりました。

 

【”その③ミンダナオ島Dopologを満喫”に続く】

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心の故郷フィリピンでイラチ(せっかち、気が短い)を治す旅【その①私とフィリピンとのつながり】

2025-03-05 15:53:33 | 旅行

【この①は、内容のほとんどが回顧録、なのでいつも以上にダラダラと無駄話が多いので

ですので私個人を知らない方はどうかスルーしてくださいませ。

 

さて、このブログでも何度かフィリピンについて

アレコレと書かせていただいてきましたが

 

実は、私にとってフィリピンと言う国

母の弟(叔父さん)が学徒出陣で徴兵され

地元豊橋の第15師団の下で当初関東軍(中国大陸)への派兵だったのが

戦局悪化から再編成され第23師団となり昭和19年になって台湾派遣が決まり

移動中に派遣先がフィリピンに変わり

傷病兵となったのかバギオの野戦病院に入院中に

アメリカ軍の爆撃を受け、戦死したと墓碑に書かれていたのですが

(ここから余談↓)

生まれ故郷の豊川市牛久保の母方の菩提寺(禅宗の寺)の戦没者慰霊塔に

実際には遺骨もなく祀られていたのですが・・・

 

母も亡くなり、兄弟姉妹も全て天に召され

あまりに不憫だなと頻繁に墓参に訪れていたのですが・・・

ある日訪れてみると

何やら紙が貼ってあり

遺族もほとんどいなくなって、ほとんど無縁墓地のようになっていたのは事実でしたが

この文言には怒れるやら呆れるやら

ようするに戦没者慰霊塔を整理して墓地を増やしたい金儲け主義がみえみえ

電話をかけて、ちゃんと墓参しているんだからと抗議したものの

結局更地にされてしまいました。。。

こんな銭ゲバのような寺だらけ

『乞食と坊主は三日やったらやめられない』の諺どおりだなと

こうした寺と坊主を心の底から軽蔑しています。

(勿論、とても信頼のできる寺もあるのですが)

 

話を戻しますと

母は、性格の優しい弟だったから

きっと逃げ延びて現地人と結婚して生きていると

己に言い聞かせていたようで

 

子供の頃からそんなことをずっと聞かされていたところ

 

何の因果か、航海訓練所の遠洋航海で立ち寄ったトンガで

青年海外協力隊員を知り協力隊員になろうと心に決め

 

実務経験と語学習得にと

商船学校を卒業して最初に就職したのが

フィリピンのPhilippine President Linesという船会社の

日本総代理店(実際の運航は全て日本)

 

Manilaの本社は

マニラ市街の中心地、スペイン時代のサンチャゴ要塞のあるイントラムロスや

フィリピンの英雄ホセ・リサールの記念碑もあるリサール公園にほぼ隣接した

UN Avenue(国連通り)にあり

↓の赤い屋根がそのメインビルと駐車場や銀行の建物

(↑私が入社した1979年には既に存在していたので、たぶん築50年以上の本社ビル)

とても大きなビルですが、実はほとんどがテナント用で

船会社のオフィスは、当初手前の平屋を使っていましたが

その後銀行業を始めたために、船会社部門は一階ロビーの左手に移転していました。

(日本でいうところの”海運局”や”海上保安庁”など官庁も使っていたためビルの存在は知られていました。)

 

創業者は、1925年生まれのEmilio T. Yapと言う中華系フィリピン人で

元々が中国福建省出身の華僑

 

マニラのチャイナタウンにいた祖父を頼って渡比し

その後、ネグロス島のドゥマゲッテイの雑貨屋の店員として働き

 

太平洋戦争後、どのようなツテを使ったのか

米軍の払い下げのジープを購入してU.S. Automotiveという会社を興し

それをベースに改造した公共交通機関であるジプニーが誕生したとの逸話を聞かされました。

 

その後、どのような背景があったのか

Philippine President Linesという名称の船会社を始め

1970年の大阪万博の時期には

日本をハブに台湾、フィリピンを周遊するクルーズ船を運航し

横浜港や山下公園に面したNew Grand HotelのGreen Roomを事務所として

日本総代理店を開設

その後、日本をベースに一般商船業界に参入

 

当時大手船会社のひとつであった大同海運の

(その後幾度も吸収合併の変遷を経てJapan Line, Navix Line、現在のMOL《商船三井》に)

北米航路の中古貨物船や新和海運のバラ積船をベアチャーター契約込みで購入

船籍をフィリピン(フィリピンフラッグ)とし

全フィリピン人船員で運航していました。

 

会社名のとおり、歴代の大統領の名前を船名にし

M/S President Aguinaldo

M/S President Roxas

M/S President Garcia

M/S President Quezon

M/S President Osmena

M/S President Laurel

M/S President Quirino

M/S President Magsaysay

 

(実際の運航隻数は老朽船の入れ替えがあって一定ではありませんでしたが)

 

で主に日本を拠点に北米&欧州の定期航路

東南アジアから南米向けの不定期航路

オーストラリアからの塩を運ぶ定期航路があり

基本的に修繕ドックは日本

フィリピンに寄港しなければ税金がかからないとかで

船員はほとんど日本で交替させてと

 

フィリピンがオーナーの船会社でしたが

チャーター契約から運航その他ほとんど全てを日本の代理店で行っていたため

私の職務は海務部工務担当(工務監督見習い)で

 

日本各地に寄港する際には

現地に赴いて船長、機関長と船の調子をヒアリングして

ドックオーダーをまとめたり

船用品のオーダーやその他船の保守にかかわる諸作業と

毎日各船からTELEXで送られてくる報告や要望を本社へ取次ぐのが使命で

時差で四六時中勤務時間など関係なく

その上、中古船でエンジルトラブルも日常茶飯事で

それはそれは激務の毎日を送っておりました。

 

 

その後、荷役に時間のかかるデリック(ウインチとワイヤーの装置)からコンテナ船

鉱石(バラ積)船、自動車運搬船などなど専用船が主流となって

 

それまでは船員組合が強く、日の丸フラッグ(日本籍船)は日本人の乗組員しか乗れなかったのが

便宜置籍船(船籍を税金の安い、リベリアやパナマ船籍にして乗組員も日本人の縛りがなくなった)となり

安い賃金のフィリピン人船員で運航することのメリットが無くなったことなど

私の記憶では2000年には貨物船の運航を停止していました。

 

会社自体は、やり手のYap氏だったので

銀行(Philtrust Bank)や新聞社(Manila Bulletin)を買収したり

当時、川崎重工を取り込んで大型造船所PHILSECOを作ったり

マニラの港湾の利権を取得してコンテナヤードを作ったりと

船会社以外の分野で業績を伸ばしていたのですが

 

とはいえ創業者のEmilio T. Yap氏

前述の1970年の大阪万博時代に客船を運航したことが忘れられず

1950年にイタリアで建造された当時世界4番目の豪華遠洋定期貨客船を中古で購入し

いつかクルーズ船の需要が復活するだろうと

香港にペーパーカンパニーを作りMandarin Oriental Hotelに事務所を構え

節税対策だったのか、何度も船名を変え

その後、1980年代後半から台湾の高雄の造船所で改修工事をしてから

初めてManilaに運ばれ

Manila湾で投錨した後に

 

Yap氏が経営にかかわるようになっていた伝統ある名門Manila Hotelに隣接した桟橋に係留して

Floating Hotel &restaurantとして開業したのですが・・・

 

この頃船齢は既に60年超え

あまりにレトロな内装や施設設備で需要がなかったのか

はたまた船体の老朽化(リベット船でした)に維持するのを断念したのか

わずか2年ほどでスクラップとしてインドに売却されてしまいました。

 

実は、最終的にこの船をずっと担当していた人物が

Philippine President Linesの工務部長(取締役級)のRiezaさんという方で

元々はNaval ArchtectureでYap氏が海運部門で最も信頼していたスタッフ

 

私が東京で働いていた頃は

工務監督として来日するとほぼずっと毎日一緒に行動していたこともあって

ほとんど寝食を共にするような間柄で

お休みの日曜日には敬虔なるクリスチャンだったので

教会のミサに連れて行ったりと

とても温厚で、まともな英語も話せず船の知識もまだまだの未熟者だったのに

とっても優しくして接してくれた方だったんです。

 

その後1987年にフィリピンに赴任した時に

マニラに滞在する度にPPLビルを訪ねてRiezaさんの所在を尋ねると

毎回台湾の高雄に駐在中とのことで

任期中にはとうとう会うことができなかったのですが

 

1997年頃になってゴルフで度々マニラに行く機会ができて

諦めきれずにPPLを訪ねてみたところ

 

オフィスにRiezaさんが居てビックリ

 

その時には、その客船がマニラ湾で投錨していたため

フィリピンに戻ってきていると知って思わず飛び上がりそうなほど大喜びしちゃいました。

 

私が東京で働いていた時に、既に50歳を過ぎていたので

この時には既に70歳以上となっていていたのですが

 

沖に浮かぶ船に通船を手配して乗船し船内を案内してくれ

その後、日を改めてフィリピン料理をご馳走しれくれたりと

またまた貴重な時間を過ごさせていただいたのですが

とうとう、それが最後の再会となりました。。。

 

 

すっかり船会社時代の話が長くなってしまいましたが

実際には、その時期には頻繁に寄港地で訪船したり

調査のために航海中に乗船したりとフィリピン船員とは仲良しになっていて

文化習慣、食べ物なども精通していたのですが

実際に本社を訪れる機会なく

退職して青年海外協力隊員となったためフィリピンとは関係が切れたのですが

 

実は、その青年海外協力隊員のトンガ時代

国連のFAO(世界食糧機構)の木造船建造の船大工として派遣されていたのが

フィリピン人のRosario(家族連れで赴任してました)

フィリピン人にはとても親近感を覚えていたので

よく話をしていましたが

FAOのボスがイギリス人で、当時は日本を馬鹿にしていたため

残念ながら仕事場以外で付き合うことはありませんでした

 

そんな訳で1986年までは

フィリピンとは深い繋がりを持ちながら

現地を訪れる機会をもたないまま過ごしていたのですが

 

1987年になって、突然フィリピンに派遣されることとなったのです。

 

【その②に続く】

 

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