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気取りも なんのてらいもなく 
あるがままの自分を 感性の赴くままに
そんな独りよがりの書き捨て日記です。

心の故郷フィリピンでイラチを治す旅【その⑥昔の家と職場で思い出に浸る】

2025-04-01 14:52:03 | 旅行

レイテ島タクロバン二日目

 

この日は、お昼を借りていた家の敷地内で暮らしていた仲良し夫婦と約束していたため

その前に想い出の地を巡っておこうと

早めに朝食

朝食付きのホテルで、洋食、中華、フィリピン料理の選択がありましたが

当然ながらフィリピノ・ブレックファーストの

Corn Silog

 

おっと、レイテ島とタクロバンの事も説明しなきゃいけませんよね。

 

レイテ島の主要都市タクロバンは

島の北東部の海岸に面した場所で

島の中央部に背骨のような山地があるからか

そのほぼ北東側はワライ語圏で

それ以外はセブアノ語圏

隣のサマール島によって荒波が遮られ良港だったのか
その地のタクロバンが島の玄関口となったんだろうなと想像していました。

前回の記事でご紹介したMacArthur上陸地が↓の最南端
泊まっていたホテルがほぼ中央部のダウンタウンでした。

借りていた家は
↓の赤いマークの場所で
マルコス大統領のブレインの一人
Mr. Tantuico Jr.の元生家に建てられた別荘
 
緑の部分が一族の所有で
革命後マルコスと共にハワイに亡命したため
その後収入が無くなり困っていたこともあって
マニラにも大豪邸がありましたが
Masaが借りてくれたおかげで息子をアメリカに留学させることができたと
とても感謝されていました。
 
詳細は後述しますが、この家を借りたおかげで
レイテ島での生活がとても充実することができたと
こちらこそ感謝してたんです。

 
↓は、職場のフィリピン国立航海訓練所の場所
サン・ファニコ海峡のサン・ファニコ橋の袂にあり
当時は、サマール島がNPAゲリラの巣窟だったため
土嚢を積んで機関銃を備えた軍のチェックポイントと
装甲車が常時監視していて
それなりに緊張する地帯でもありました。
 
このサン・ファニコ橋は
マルコス時代に首都マニラからミンダナオ島のダバオまで
当時、通称マルコス・ハイウエイと呼ぶ日本の援助で作られた国道があり
途中、ルソン島からサマール島の間と、レイテ島からミンダナオ島の間は
フェリーでつながれ、高速バスも運行されていて
マルコス・ハイウエイの名所のひとつとして有名な橋なんです。
(マニラからタクロバンまでが約1,000kmあり、バスで24時間かかってました)
 
このサン・ファニコ海峡
航空写真だと区別がつきにくいので
デフォルトして地図にするとこんな感じ↓

とても狭い海峡で、潮の流れも激しいため
日本軍がMacArthur率いる連合軍を待ち受けていた時に
この海峡を船で通過することは困難と
日本軍の船も大回りし、攻めてこないだろうと背後を警戒せずにいたところ
連合軍はこの海峡を恐れずに通過して挟み撃ちにあったとの
話を聞きました。
 



毎度のことで、つい前置きが長くなりましたが

話を戻しますと

 

朝食を済ませてホテルを出て

まず最初に職場であったNMP(National Maritime Polytechnic:国立航海訓練所)へ行こうと

Google Mapsで調べておいた

台風ヨランダの後に作られた、郊外のバスターミナルにトライシクルで向かうことに

私が滞在していた頃は、華僑の経営するゴチャゴチャした雑貨屋のようなスーパーしかありませんでしたが

その後、セブ資本のGaisanoというスーパーマーケットができ

台風ヨランダの後には、全国チェーンのRobinsonやSMもできたようで

(日本で言うところの、イオンや長崎屋のような感じ)

隔世の感でしたねぇ

こうしたモールは郊外のため、電動のシャトルバスも運行されていてこれまたビックリ

そしてようやくサマール島方面行のバスをみつけ

『よしよし、これで時間もたっぷりあるから余裕だな』

と乗車したのですが・・・(8:30)

出発したのはなんと09:45 

 

フィリピンでは、基本オーナーからドライバーが一日いくらで借りて

燃料代は自腹であとは利益がそのまま収入となるシステムで

トライシクルやタクシーは一人でも貸切なので問題ないのですが

ジプニーもバスも無駄にならないようにと時刻で運行するわけではなく

満席になるまで発車してくれず

この日は日曜日で、朝から郊外に向かう乗客が少ないため

とうとうバスターミナルで1時間以上待たされるハメとなってしまいました。

その後、そこそこ渋滞した国道を走り

サン・ファニコ橋からサマールに渡ったのがほぼ10:00

 

立て看板にヨランダ・メモリアル・モニュメントとのことで

たぶんここも埋葬地の様子

 

お昼を約束していた時刻が12:00だったため

これはもう戻るしかないなと

Tacloban方面のバスを待つも一向に来る気配なく

 

これはヤバイなと近くで客待ちしていたトライシクルに声をかけ

 

またまたサン・ファニコ橋を渡り

対岸のレイテ島に戻り

 

職場だったNMP(National Maritime Polytechnic)前で写真撮影だけしたのですが

さすがに建設されてから40年ともなると

随分草臥れてきたなぁとの印象でした。

 

↓は、私が離任する約半年前の本館の姿

TBSの報道特集で

その後千葉県知事になった堂本暁子がキャスターとして訪れ

「他の取材でレイテ島に来たら、日本のODAプロジェクトがあると聞いてきました」

などと大嘘をつき、わざと雑草の間から建物を撮影して

丸一時間【ODAの闇、大失敗のマルコスプロジェクト】と叩かれ

 

その後、国会でも取り上げられて外務省からの答弁用の資料作りに

何日も徹夜で対応することになって忙殺され

会計検査院の査察と、それはそれは大変な目に合い

”報道特集”と言う番組がどれだけ嘘で話を作って印象操作するのかを実感させられ

堂本暁子とともに、名前を聞くだけでも虫唾が走るほど大嫌いになりました。

 

こちらは本館の玄関から眺めた外の様子で

 

こちらは、航海科と機関科のシミュレーター他最新機器を備えた訓練棟

元々が、ある時ヨーロッパで船の乗組員の不注意によって座礁した船から油の流出事故が発生し

外航商船(国際航路)の船乗りの技術力を標準化しようと

国連のIMO(世界海事機関)が定めたSTCW条約によって

《※STCW:船員の訓練及び資格証明並びに当直の基準に関する国際条約》

 

日本の運航する船舶への配乗が増えていたフィリピン船員を再教育するために

日本のODAによって計画されたプロジェクトでした。

なんとか約束していた時間前にホテルに戻り

ランチしながら昔話に花を咲かせ

昔借りていた家に向かい

台風ヨランダで残念ながら当時の面影を残していませんでした。。。

↓こちらは暮らしていた頃の写真

一時は女中が4人もいて

お抱えの運転手も雇ってました。

これは当時乗っていた車

日本でオフロード用の部品を買い

タイヤとホイールを交換して全塗装してと

↓ こちらが屋内

マスターベッドルームとゲスト用のシャワー・トイレ付の部屋が3部屋

女中部屋に台所、ダイニングホール、その他部屋や広いホールがあったので

(↓マスターベッドルームです。)

(ビリヤード台にお客との会食用テーブルなどなど)

 

いつも泊まり込んでのゲストがいて

何かのイベントがあるとケータリングを頼み

飲み放題、食べ放題にして

ミラーボールとDJ付きのディスコ装置も外注して

百名以上を招待してのパーティーを何度も開催しましたねぇ

 

それなりに高給取りだったのと

青年海外協力隊時代から、”宵越しの銭は持たねえ”主義だったので

家賃も手当を超過してたし、こうした個人負担の交際費も使い放題で

2年間でたぶん家一軒建てられくらい散財しましたが

 

そのおかげで現地の人達からも慕われ

有意義な時間が過ごせたので良かったんだよなと己に言い聞かせてます。(笑)

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