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山根敦・死の真実を求めて。

敦は1996/2中旬、人の命を軽んじてきたパロマと産業寄りの行政と、無知な修理工によってCO中毒になり殺されました。

お彼岸には早いけれど

2018-09-18 09:18:31 | 
あっちゃん、ごめんよ。
あっちゃんに貰ったガーネットの指輪。
二十三回忌のときに、シルバーリングにはめ込むために米子に持ち帰っていたことすっかり忘れてね。
すっ飛んで帰って確認したら、あった!!

早くシルバーのリングにして、ママがまた身につけるからね。
でね、遺品にあった


このガーネットのピアス、どなたに贈ろうとした?
ママが知っているあなたの大事な人も1月生まれ
1996年1月10日、感動した話をしてくれたよね
彼女のために買って送りそびれた?


玄務院慈音日厚信士



2018年9月17日
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23回目のお盆

2018-08-13 20:27:00 | 
今年の夏は非常に暑いです。
今日午前中に行きましたが、ジリジリと焼けるように暑かったです。
おととい三男一家と墓掃除に行きました。
三男はお墓のことをとても気にかけています。

お掃除が終わって、「あ~、これでスッキリした」と言っていました。
私が言うようなことをつぶやいたので、なんだかとても嬉しくなりました。
彼も今年35歳になりました。
お兄ちゃんの歳を遥かに越しました。

ですが、彼にとってはやはり「お兄ちゃん」なんです。
ドイツに居る次男も同じくです。
どこに行くにもお兄ちゃんの写真と過去帳を持ち歩き、毎朝般若心経を唱えています。
そんな息子たちが母はとても誇らしいです。

毎年13日に敦の父親と三男一家が迎え火をしてくれます。
あっちゃん、おかえり!!


玄霧院慈音日厚信士




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月命日

2018-06-28 20:58:47 | 
あっちゃん、愛してるよ!


永遠に・・・



6月24日
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ちょうど2ヶ月ぶりです

2018-06-14 06:49:53 | 
広島に住むようになって、なかなか行けなくなりました。
今から草が生える時期です。
昨日も草が目立ち、花器の中の花は悲惨なことに・・・
「ごめんよ...」

孫娘がはじめて敦の夢を見たそうです。
「あっちゃんが夢の中に入ってきてくれた。パパに似てるって聞いてたけどGちゃん(次男)に似てた」
満面の笑みでそう言っていました。
敦に一度も会ったことのない孫娘、彼女はよく敦の話題をします。

私はそれが何より嬉しい。


玄霧院慈音日厚信士




庭のもみじと、桔梗も手向けました。
桔梗の花言葉は「永遠の愛」なんですよ^^
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44歳の誕生日!

2018-04-19 20:58:14 | 
あっちゃん、44歳だね。
どんなふうに成っていたんだろ。。。
今日R一家が来てくれたでしょ?
Mちゃんがね、いっつも「あっちゃん」って言うらしいよ、聞こえてる?
(^-^)

有賀さんもお祝いをGに伝えてくださったそうよ。
あなたが一番尊敬している先輩だもんね。
24年前有賀さんがアメリカに行かれたあと、ママに「有賀さん行っちゃったよ。。。」って元気のない声で電話かけてきたこと
今でも鮮明に憶えているよ。

あなたのことを聞いて、取るものも取りあえず帰国してくださった...
2005年12月、事実が発覚する直前、ママに「敦くんの夢を見ました。お水がほしいって。お酒なら一緒に飲もうと言うのですが『お水』というのが気になって」
と、わざわざアメリカから電話をくださってね。
あなたのお兄ちゃんみたいだね、今はGをとても可愛がってくださってる、まるであなたの代わりのように。。。

小谷さんからも「敦くんの誕生日だね」って電話を頂いたよ。
YちゃんとKちゃんもお花とゴディバのチョコを手向けてくれたよ。




ありがたいね!
うれしいね。


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4月9日 次男を送った帰り

2018-04-10 22:00:03 | 
お彼岸にも来てあげられなくて、今になりました。
次男がドイツに向けて出発しました。
前々日と前日、家族で過ごしました。
私も年を取ったのか、地球上での別れも辛くなりました。

息子が幸せならそれでいい、と思ってはいるのですが...
身がよじれるような寂しさを感じます。
昨日は寂しくて寂しくて、その気持ちを持て余してしまいました。
敦が亡くなった翌年、次男がアメリカに行く時は「生きている限り会える、だから平気」

そんなふうに思えたんですよ。
今は今生の別れのようにうろたえてしまいます。
息子には迷惑な話ですよね。
まるでストーカーのように、リアルタイムフライト状況を見ている私の姿はいただけませんね・・・

ねっ、あっちゃん!


玄霧院慈音日厚信士

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二十三回忌

2018-02-28 18:28:38 | 
今日はお寺で二十三回忌の法要をしました。
まる22年経ったわけですから、敦の弟二人は家庭を持ち子供もいます。
敦は今年44歳・次男は40歳・三男は35歳になります。
そういう私も65歳になりました。

そういうふうに周囲の環境は激変していますが、敦を想う気持ちはなんら変わりません。
ですが敦のことを思うとき、以前のように細かい所までの記憶が明瞭ではなくなり悲しくなるときがあります。
敦と会えなくなって長い年月が経ちましたが、敦に会える年月は短くなっていきます。
そのときまで、敦に堂々と会えるよう精進して行きたいと思います。

 
玄霧院慈音日厚信士




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1996年2月8日の事実 

2018-02-08 21:10:09 | 
1996年2月8日10:00am、10日間連絡のなかった敦から電話がありました。
「無事だった!」(私の思い)
そして1時間くらい話しました。
その電話で敦は動き出します。

「放牧させてください」とお願いして、1ヶ月お世話になったM先輩の家をあとに渋谷の郵便局に着いたのが2:00pmです。
そして自宅の赤坂のマンションに向かいます。
その時刻は多分3:00pm前後、そして入浴のためにガスを使い死亡しました。
それが2006年捜査一課からの99.9%の事実としての報告でした。

1996年からちょうど10年後です。
1996年当時いつ亡くなったか正確な日にちがわからず、推測で決めた2月28日の命日。
私達家族は10年間2月28日を命日とし、お位牌にも記した年月日。
ご住職からも変える必要はないと言われ、事実が判明したあともそのまま28日に法要をしてきました。

私は両日ともに大切な日です。
今日大雪の日、お墓参りに行きました。



こんなに積もったことは、これまでありませんでした。
一面真っ白です。
お経を唱え、敦といっぱい話しました。
今年は二十三回忌です。


玄霧院慈音日厚信士

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敦からのメッセージ。

2018-02-07 22:50:30 | 
14年経っても繰り返します。
意識してはいません。
しかしこの時期、頭が身体が心が、敦のことを強く強く想ってしまいます。
21年10ヶ月の思い出ではなく、1996年1月から3月までの敦との関わりは、まるで昨日のことのように話せます。

1996年の今日午後6時、敦から電話がありました。
敦:GAKU居る?
私:まだ帰ってないよ。
敦:そう、俺のジーンズおっきくなっちゃってさ、GAKUに送ってあげようと思ってね。
私:そうなん、GAKU喜ぶと思うよ。着払いで良いから送ってやって。
敦:それからさ、大浦さんがフロ○****には入らない方が良いって言うんだ。音楽ができなくなるからって。
(私はRYUの家庭教師にお茶を出すところでしたので)
私:ママ今、家庭教師にお茶を出すところだから、こっちから電話するわ。
敦:あ、いいよ、俺これから出かけるから。

この日から敦と連絡が途絶えました。
私は敦が死んだのではないかと、管理人さんに部屋に入ってもらったり、八方手を使って探し回りました。
号泣もしました。
でもこの時は生きていました。

千葉の先輩の家に居候していました。
本人はその先輩宮嶋さんに「少しここで放牧させて下さい」と言ったそうです。

昨夜ミヤジさん(敦は宮嶋さんのことをミヤジさんと言っていましたので)に電話をしました。
正月から一ヶ月もお世話になったそうです。
以前お会いした時に、当時敦がとても疲れてるようにみえたから、もっと居たら良いのに・・と思ったと仰っていました。
2月8日、敦はミヤジさん宅から電話をしてきました。
その後ミヤジさん宅を後に渋谷に行き、赤坂のマンションに戻り亡くなりました。
ミヤジさんに宛てたメモ


何を書きたいんだろ。
今朝から ずっとのたうち回って、泣いて泣いて泣いて。
泣くってすごい疲れます。
昨夜はミヤジさんに電話をした後、敦の父やらGAKUやらRYUに電話して(この時は泣いてません)
リビングで寝てしまいました。
自分との闘いです。

そしたら、今日(さっき)何にも連絡していないのに重度の肩こりさんから電話。
彼女はどこからか私を見てるのか、と言うほどタイムリーな時に電話をくれます。
びっくりしました。
そして、泣いちゃいました。
子供のようにしゃくり上げて泣きました。
誰の前でも泣けない私は、彼女と江角さんとめろんさんの前では泣いちゃいます。

敦からのメッセージでしたね。
私は、”いけないいけない”思いを抱いていました。
今日もその思いが頭を過ぎりました。

そして、、
何気なく今日の新聞の折り込みに入っていた冊子を開いたら、「死ぬまでは生きよう。夕焼けがきれい

敦だ、敦が言ってる。

私は昔息子達に、「来て!!すっごい夕焼けがきれいだよ!」って言っていました。

生きんとね。


2010-01-25 16:40:53 | あつし 記
コメント (4)
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1996年1月10日

2018-01-10 22:03:43 | 
あっちゃん、ママあのときのあんたの声が聞えるよ。

『母親、水って水道の蛇口をひねれば出るって思ってるでしょ?
東南アジアではね、蛇口をひねれば水が出て飲めるっていうことが幸せなことらしいよ。
Yちゃんはね、そこで水道を引くボランテイアに参加しているんだよ。
彼女から3時間くらいそんな話を聞いてね、心が洗われたよ。

俺は今、芸能界というところに少しいて、若い奴らなのに「ベンツがどうの・・」とかさ
そんな話を聞いてるとね、、、
家のドアを一歩出ると別人になって、帰ってくるとこれでいいのかって、、、』

Yちゃんね、あんたが亡くなった知らせを受けたときがね、また東南アジアにボランテイアに行く前の日でね。
Yちゃんは迷った末、きっとあんたは「ボランテイアに行ってほしい」と言うと確信して、東南アジアに行かれたの。

そしてそこで知り合った現地の方が、「Yさんがそこまで慕う人は、今空高いところに居る。
私は一生彼のために祈り続けます」
そう言ってくださったそうよ。
ママはね、その言葉を今も昨日のことのように覚えているの。

その方に会いたい。
飛行機が異常に怖いママだけど、行きたいの。
ママの命ある時に必ず行きたい。
会って、お礼が言いたい。





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