晴れときどき・・・

旧街道あるき、古戦場巡り、城攻め、図書館通いの4本立ての日々を綴ります。。

古戦場巡りシリーズその1~三方原の合戦考(終戦)~

2013-02-16 19:50:00 | 古戦場巡り
「祝田(ほうだ)の坂」を降り始めると見せかけて
くるりと反転した武田信玄の軍勢と
浜松城から飛び出して深追いし過ぎた徳川家康の軍勢は
元亀3年12月22日の夕方4時過ぎ頃、三方原台地にて全面衝突しました



 勝敗の明暗を分けた「祝田坂(ほうだのさか)」は国道257号線
通称「金指街道」根洗い松交差点から北へ降りる坂道です。
交通量の多い道路のため車を停めて撮影することが出来ませんでしたが、
現在も竹やぶが残っていて往時の雰囲気を残しています。


 激戦地は今や、「じゃがいも畑」が広がっています


 近くには武田信玄本陣を構えたという「根洗い松」がひっそりと
立っています。(ただし3代目だそうです)


 古戦場の碑は「三方原霊園」の一角に建立されています。
ここが激戦地だったわけではないようです


 武田軍に追い詰められる家康の軍勢は浜松城に向かって、
敗走をつづけます


 空腹の家康に土地の人が食べさせたという故事にちなんで付けられた
「小豆餅」という地名と、その「小豆餅」を売っているが今も有ります


 そして浜松城を目の前にして信玄首実検をおこなったという
「犀ケ崖(さいががけ)」


 この都会のど真ん中でありながら、昼なお暗く不気味な土地で、
夜陰に乗じた徳川方が最後の奇襲をかけ深い谷底へ多くの武田兵を
突き落としたと云われています


 然し乍ら大敗北した徳川方の損害は大きいものでした

あの本多忠勝の叔父「本多肥後守忠真」の碑

家康の身代わりになって討死した
「夏目次郎左衛門吉信」の碑


 歴史にもしもは禁物かもしれませんが、
この日もしも信玄が浜松城を包囲していたら・・。
いえ、武田信玄がこの戦の後に死ななければ・・。

 少なくとも「徳川幕府」は成立しなかったのではないかと思えるのですが…


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