晴れときどき・・・

旧街道あるき、古戦場巡り、城攻め、図書館通いの4本立ての日々を綴ります。。

第二回姫街道歩き

2013-01-31 07:46:39 | 街道歩き
~2011年10月21日 天竜川~小池一里塚~

茶畑地方、二週連続の週末です(涙)
でも、午後から雨が上がったので、
出かけてまいりました。。
第二回姫街道ウォーク。

 前回天竜川東岸へ突き当たった処で
終了しましたので、
本来ならば天竜川を渡るところからなのですが、
ナント天竜川、歩くための歩道がどこにもありません

 東海道を歩いている人たちのブログを
読んでも皆さん、ここが一番の難所になっているようなのです。
ここだけバスに乗れとか、電車でGOって書いてあります。

 確かに、国道一号線の新天竜川橋は片側4斜線で、
皆さん時速100㌔ぐらいで走行しています。
ここを歩くのは怖すぎます
 
 で、磐田駅から天竜川駅までJRを使って
そこから歩きました。




 ところが、このあたりは東名高速浜松ICを挟んで
市街地へ向かう幹線道路とその側道で、
とにかく交通量が多く、当時の面影を伝えるものは
殆ど見当たりませんでした。


 姫街道の宿場町「市野宿」周辺です。
歩いている人も殆どというか全然いません。
でも、めげずに歩き続けます。

 唯一、ここが間違いなく「姫街道」なんだと感じるのは、
要所要所にある「秋葉常夜燈」と、「姫街道」の道路標識のみ・・。


常夜灯も中々個性的で変化に富んでいますね。


 それでも、姫街道で一番最初の一里塚跡である、
小池一里塚へたどり着きました。


 前回の失敗を踏まえ、今度は駅のある場所で終了。
そのまま私鉄で浜松駅、JRで磐田駅まで
無事に帰り着きました。

 今回で全長60.4キロのうち10.9キロを踏破です。
まだまだ先は長いですが、頑張ります。

( ※ 2013年現在、たったの10キロで切り上げるなんて
    どんだけ体力がなかったのかと、今更ながら驚きました。


 

第一回 姫街道歩き

2013-01-30 07:55:55 | 街道歩き
「姫街道」をご存知でしょうか?
奈良時代は「二見道」、近世になると「東海道本坂通」
と称された重要な脇街道で、江戸時代末期から姫街道と呼ばれました。
区間は、静岡県磐田市見付(西坂町)から、
浜名湖の北岸を通り本坂峠を越えて
愛知県豊田市御油町までの約60.4kmです。

 どうして「姫街道」と呼ばれるようになったかというのは、
諸説紛々ですが、おそらく東海道の女性のへの取締りが厳しかった
「新居の関所」を避けたかったためと言う説と
浜名湖を渡る舟渡しを嫌ったという説が有力です。

 江戸時代、八代将軍吉宗に献上された象は、
余りに巨大で渡し舟に乗れなくてこの路を歩きました。

 天障院篤姫も、この街道を通って江戸へ上りました。

 とはいってもお姫様がしゃなりしゃなりと通る路ではなくて、
結構険しい峠を越える難所もあったりします。
 
 で、ワタクシこの道を一昨年の秋、初めて歩きました。
その時の記録が何もないので、これから薄れゆく記憶を頼りに
少し振り返ってみようと思います。

 当初は、一応仕事もしているし、一気に踏破するのは当然無理なので、
何区間かに区切って少しずつ歩くつもりで、
歩きながら、いろいろな史蹟を訪ねつつ、
ゆっくり歩けたらいいなぁなんてかる~く考えておりました(笑)

 なにぶんそれまで運動らしいことをやったこともなく、
地図さえロクに見ることもできないド素人なため、
写真もピントがずれているし、なんだか滅茶苦茶なのですが、
その後どっぷりハマることになる旧街道歩きの原点となった「姫街道」です。

 興味のある方は、どうぞお付き合い下さいませ。




~自宅→見付宿→天竜川~ 2011年11月15日

 とにかく行って見なけりゃわからない!っとばかり
外は雨でしたが、午後になって小降りになりましたので、
思い切って出かけました!


 
 まず、「姫街道」のスタート地点は
磐田市見付の商店街の端っこにあります。
我が家からクルマで5分少々の距離ですので、
気にしていませんでしたが、
歩くとこれが以外に遠くて2.5キロもありました(泣)

 「これより姫街道」の標識を過ぎると、
愛知県豊田市御油まで全長64キロ、
いよいよ「街道ウォーク」開始です。

 東海道の五十三次の28番目宿場町「見付」は
古来より交通の要所でした。
今回歩きということで普段クルマの入らないような
狭い裏通りに初めて足を踏み入れましたが、
古い商家や蔵がまだ残っていて、
なんだか別の町に迷い込んだようでした。

 街道の目印となる「秋葉常夜燈」も蝋燭の代わりに
電球型蛍光灯になって今でも使われていました。


 前回「三方原戦跡巡り」をやったときにも
立ち寄った「一言坂古戦場跡」を過ぎ、
「姫街道」はひたすら天竜川を目指します。




 途中、家康が戦勝を祈願した「一言観音」
平家物語に登場する絶世の美女「熊野(ゆや)御前」
ゆかりのお寺などを通過します。




そうして漸く、姫街道の「天竜川船渡し」が行なわれた
「池田の渡し」跡にたどり着きました。

 自宅から約2時間の行程でした。

 そしてなんとおバカさんなことに歩いて天竜川東岸まで来た私は
歩くことに夢中で帰りの事を全く考えていませんでした(泣)
いやぁ、行ける所まで行って、帰りはバスか電車に乗れば
いいかなぁ~って思ってたんです。

 がっ!!バス、ありませんでした(涙)
バス停はありましたが、週末は運行していませんでした。

田舎ってこんなもんです。

 おかげで、帰りも二時間歩く羽目になりまして・・・。(続く)

The Best of Heroine in 源氏物語 7

2013-01-29 07:39:22 | 源氏物語
第二十二帖の「玉鬘」から「真木柱」までの十帖を
「玉鬘十帖」と呼ぶ事があります。
これは源氏物語五十四帖のなかで、本筋のお話から外れた、
いわばスピンアウト物語なのですね。

 この十帖だけで一つの物語にもなっています。
高貴な生まれでありながら、流転の半生を送った美人のお姫様が、
都の実力者に見出され、ちょっと麗しの王子様とはタイプが違うけど、
ちゃんと伴侶を見つけて幸せになるという物語です。

 おそらく、「玉鬘十帖」は書かれた当時、
とても人気があったと思います。
ハッピーエンドだし、判りやすい。
この後、源氏物語の本流は女三宮降家に始まり、紫の上死去という
不幸に向かってまっしぐらですから、その前の一休みの十帖です。

 「玉鬘」の母親「夕顔」は源氏が連れ出した廃院で物の怪によって亡くなりますが、
なよやかで、奔放で、まさにオンナを全面に出した存在。
そのせいか、まったく母親らしさゼロ。
子育てしている気配すらない。
身分を隠したオトコと逢引して、そのまま死んじゃうんですから、
娘の側からしたら、許せませんよね。

 おかげで彼女の前半生はずっと不遇でした。
源氏の元へ引き取られてからは、
類稀なる美貌の為、都中の男性に求婚され、大騒ぎになります。
でも彼女は至って冷静です。
殆ど怪しいエロ親父と化した源氏の求婚も必死でかわします。
 
 そして半ば強引ではありますが、不器用だけれど、
真っ直ぐで、地に足の着いた男性と堅実な家庭を作ります。
幼い頃の苦労を肥やしにして、玉鬘は美しさだけでなく
大変に聡明な女人に成長しました。
そして母親とは正反対の人生を歩むのです。

 源氏物語では、この玉鬘だけでなく、
秋好中宮や、明石の女御等、恋愛に泣いた母親を反面教師として
第二世代の姫君は幸せで堅実な人生を送ります。

今年の16冊目

2013-01-28 07:33:10 | 読書日記
羽生道英の「藤堂高虎」を読みました。383ページ。

 まず誰も尋ねないでしょうが、
「好きな戦国武将は?」という質問をされたら、
私はもの凄く悩んだ挙句「本多忠勝」と「藤堂高虎」と答えます。

 二人共戦国後期を代表する「武闘派」でありながら、
乱世を息抜き、己の職務を全うし、
おそらく本人でさえ予想もしなかったであろう事に、
畳の上で愛する者たちに看取られて死ねました。

 本多忠勝は「姉川の合戦」で初陣を果たして以来、
ただひたすら一人の主君の為だけに闘い続け、
関ヶ原で東軍の軍事最高責任者である「軍監」を勤めた後、
見事なまでにあっさり第一線を退きました。

 片や藤堂高虎も初陣は13歳の「姉川」でした。
ただしこの時彼は敗れた「浅井長政」の末端家臣で、
その後も羽柴秀長、豊臣秀吉、最後は徳川家康と、
転々と主君を変えていきます。

 その辺を「世渡り上手」とか「変わり身が早い」と揶揄されますが、
いかにも「脳みそ筋肉系」の外見からは想像もできないほど
彼は時勢を読み、人物を観る力が備わっていたのだと思います。
騙し騙され、裏切りが横行する乱世にあって、
彼は幾度も主君を変えましたが、一度として人を裏切ったり、
騙して陥れたりしたことはありません。
そうでなければ、あの百戦錬磨の家康の信頼を得る言葉など
絶対に出来なかったはずです。

 余談ですが、伊勢街道を歩いているとき、
津市郊外に「江戸橋」という小さな橋がかかっています。
これは代々「津藩」の藩主が参勤交代で江戸へ出向く際、
街の人々が藩主をこの橋のところまで見送りに出たことに由来するそうです。
それほどまでに領民に慕われていたのだと
感慨深くその橋を眺めた記憶が有ります。
「津藩」の初代藩主は「藤堂高虎」です。
彼は家訓として、質素倹約と決して奢らないこと、
家臣と領民を何よりも大切にするように遺しました。

 だからこそ、徳川初期の粛清の嵐の中で、
外様大名の「藤堂家」が生き残ることができたのだと思います。
「名」より「実」を取ったのですね。

 最後に、この本によると、藤堂高虎はポルトガルの築城技術を学ぶため、
しばらく長崎に滞在したようです。(これは初耳!!)

 戦国時代にあってもっとも多忙を極めた中間管理職の高虎くんは、
それでも自己研鑽を密かに続けていたのですね。
まさに天晴れでございます。。

The Best of Heroine in 源氏物語 6

2013-01-27 08:15:05 | 源氏物語
「更級日記」の中で菅原孝標女が、源氏物語に夢中になる話は有名ですね。
13歳の少女は「大きくなったら「浮舟の女君」のようになるんだぁ」って
憧れます。 これ、古文の時間にやりましたよね。

 でも、ちょっと待ってください。
あれほど沢山いる源氏の女君の中で、何故「浮舟」なんでしょう?

 「浮舟」は、宇治に隠棲している故桐壺帝の八の宮の三人娘の末っ子です。
と言っても認知さえして貰っていない子です。
特に美人でも、頭が良い訳でもなく、無口で控えめな子です。
でも、当代一の貴公子二人に激しく言い寄られます。

 皆さんの周りにもこうゆうタイプの女性っていませんか?
私は一度だけ遭遇したことがあります。

 以前勤務していた会社に半年だけいた派遣社員の女の子ですが、
本当に地味で、無口な子でした。
仕事振りも必要最低限をギリギリクリアしている程度で、
遅刻やら、欠勤が非常に多い子なのです。
それなのに、下は新入社員から上は管理職まで、
残らず男性社員を虜にする魔力を持っていました。

 その仕草の全てが色っぽいのです!歩き方も話し方も、全てが・・・。
すさまじくフェロモン全開なのです。

 当然同じ年頃の女子社員は怒り心頭でしたが、
私は内心「こいつには敵わない」と思っていました。 

 そして、「浮舟」ってこんな感じだったんだぁと
明確に思い当たりました。

 宇治十帖ってこれまで長い長い物語を書き込んできた紫式部が、
より小説家らしく書いた作品だと思います。

 そして特に「浮舟」と「匂宮」の逢引シーンなど、
ぞくぞくくるエロティシズムに溢れています。
学校では絶対現代語訳は教えてくれません。

 だって、心は「薫の大将」が好きだけど
身体は「匂宮」が好きなの~って状態ですよ・・・。

 そんなエロい「浮舟」に何故に憧れるんだ、13歳が!