晴れときどき・・・

旧街道あるき、古戦場巡り、城攻め、図書館通いの4本立ての日々を綴ります。。

いとし愛しの・・忠勝さま

2013-11-09 21:01:24 | 日記
 徳川四天王の一人「本多平八郎忠勝」は
その生涯の主君「徳川家康」に遅れること5年、
天文17年に現在の愛知県岡崎市西蔵前に生まれました。

 以前徳川四天王の皆さんの出生地をめぐる旅をしたことがあって、
酒井忠次が生まれた井田城址は公園になっていましたし、
伊井直政は「龍潭寺」という立派なお寺でした。
榊原康政だってかなり苦しいけれど一応公民館でした・・。
でもでも・・・
西蔵前城址はごく普通の住宅地にあるごく普通の民家の庭でした・・

石碑は立派で、大切にされていましたが、
いいお天気だったのでざぶとんを干しておられました(汗)
また行けと言われてもたどり着く自信がないほど解かりにくい場所にあります。
モチロン駐車場などありませぬ・・。

 そして東海道を歩いた時に立ち寄った桑名城の前で
鎮座しておられたのが忠勝様の銅像・・。

「本多忠勝像」です。
呼び捨てです。
桑名藩初代藩主なのに・・。
「津城」にある「藤堂高虎」殿の像は「藤堂高虎公」だったのに(涙)

 そして更に悲しかったのは・・

桑名へ行ったら是非ともお墓参りをさせていただこうと探したのですが・・。
そもそも菩提寺である「浄土寺」というお寺が見つからないのですっ!
地図にある場所はこんな感じなのです

そしてその奥で漸く見つけたのが・・

お供えしたほおずきは枯れ、雑草は生い茂り、民家には見下ろされ(泣)
これではウチのおばあちゃんのお墓の方がよっぽど立派ですぅ・・。
取りあえず、目に付いた草を抜いて手を合わせました。。

 彼は桶狭間の前哨戦「大高城兵站入れ」で15歳にして初陣を飾ってから
なんと57戦もの合戦に参戦しています。
言わずと知れた「全線無傷」。。
三方原、長篠・設楽原、小牧・長久手、関が原・・・。
常に最前線で勇猛果敢に戦い、武田信玄、織田信長、豊臣秀吉等に激賞されています。
けれども彼の心の中には唯一人の主君「家康」の姿だけがありました。

 先日、関が原の古戦場を巡って参りました。
関が原東軍の「軍監」は「本多忠勝」でした。
軍略の最高責任者としてわずか500騎のみを率いて
総大将の家康を衛る役割でした。
その陣地が・・・

またも、普通の民家の裏庭のような場所でした・・・。

 因みにその500騎であの有名な「島津の退き口」に対抗して
本人は無傷だったものの愛馬を戦死させています。。


 なんでぇ~と思う反面、それは大好きな主君を守る為に闘うという
それだけのシンプルで一途なこの人の人生を象徴しているようでもありました。

 出世にも政治にもたいして興味がなかったのでしょう、
関が原を自身の引退戦として以後第一線を退き、
天下を手中にした家康とも距離を置くようになります。

 慶長15年(1610年)武闘派と呼ばれた彼が丹精込めて作り上げた城下町「桑名」で
ひっそりと亡くなりました。

 そういえば、戦国NO1でカッコイイあの本多忠勝の甲冑も
博物館とかではなくて一般の方が所有しておられたなぁ・・。
全てがざっくばらんで惚れ惚れしてしまう「本多忠勝様」なのでした。。



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