白梅町の駅前に立って北の方を見ると、真正面に『大』の字が見える。何も白梅町の駅前でなくとも西大路通沿いに立って北を向けば正面に見えるのだが、そのあたりに立つとちょうど頃合いの大きさに見える。道の両側の建物で下と左右が白く四角に縁取られていて、その上に大文字山が納まる。ここに見えているのは『左大文字』と呼ばれるもので、お盆の時期に京都にいることは何度もなかったし、いても暑い中出かけるのも億劫だったので、地元で慣習的に『大文字』または『大文字の送り火』と呼び習わされる五山の送り火を、ニュース映像以外で見た覚えがない。今日日(きょうび)はどうだか知らないが、当時この送り火のことを『だいもんじやき』と呼ぶ人が多かった。京都の人はそれを聞く度に「ケッ」と思っていたらしい。「なんとか焼きて、なんやおまんじゅうみたいやわぁ」とは同じ専攻の京女垂高さんの言であるが、後にかの上岡龍太郎氏にも同様の発言があったところを見ると、京都の人はそう思うのかもしれない。ともかくそんなこんなで『やき』を見ないで専ら昼間の『大文字』のみを見ていたわけだが、文字の中だけ木がなく山肌が露出していて、緑色の中にオレンジがかった肌色のヒトデがへばりついているように見える。高い建物がないので、視界の上部には『ぽっかあーん』と青い空が広がる。夏の「いかにも青い」空だとコントラストが強すぎで『京の夏景色』をあざとく主張しているように思われるので、やはり春の白っぽい空のほうがより『ぽっかあーん』という感じがして、何事もどうでもよくなってくるほど呑気だ。
以前にも書いたとおり京都の冬は『痛い』。それが盛夏となると朝8時前から空気がゲル状に感じられて、息苦しいほどになる。そのおかげで秋は疲労困憊していて、京都で過ごすには春先から初夏にかけての時期が一番好ましい。お金もバイトもない休みの日にはぶらぶらと出かけて回る。
春でも桜の時期ともなると、名所と言われるあたりはどこも人出が多くて浮き足立った感じがする。自分の部屋から桜を堪能できるので、わざわざ人の多いところに出向くまでもない。おかげで円山公園の桜にはなじみがないが、平野神社は大学への行き帰りに通り抜けて、満開の桜の下をてれてれと歩いた。上がほぼ全面桜で覆われていて、木漏れ日以上に日がささない。綺麗ではあるけれど、ちょっと湿っぽい感じがしなくもない。そこへいくと二条城のすぐそばにある神泉苑の、と言っても二条城が築かれる際神泉苑の広大な池を堀の水源として取り入れてしまったために大半が削り取られた残りなんだそうだが、そこの庭園では池の向こう側に満開の桜を見ることになって、大文字山と同様『ぽっかあーん』とした空も含めて堪能できる。池のふちに立って春の日を浴びながら呆けたように桜を眺めてから二条城のぐるりを歩いて堀川通りに出る。少し北に幼稚園があって、そこには巨大な鳥かごがある。柵越しに見上げるそれは高さが5mほどあろうかと思われる。すでに『籠』ではありえないが、普通の鳥かごをそのまま大きくしたような形なのでやはり鳥かごである。アラビアンナイトのロック鳥でも入れておかれそうなその中にいるのがインコという、スケールに見合わない無頓着さがなんとも京風のおおらかさを通り越した呑気を醸し出している。
東寺の近くにみなみ会館というミニシアターがあって、企画が面白くてよく通った。民家より少し高い位置にあるロビーの窓から京都駅の南側に広がる家並みが見渡せて、ここでも日光を反射してまぶしく光る屋根瓦の波の上に『ぽっかあーん』と空が広がっている。夏の反射はギラギラとして痛いほどなので、やっぱり春に眺めているのが好い。その日は確か午前中の回でなんだか救いのないようなフィンランドの映画を観て、ネガテブーな気分になりかけた。ロビーの窓から家並みを眺めていると気候はいいし特に用はないしで、気分転換に京都駅までぶらぶらと歩き、地下街をくぐって烏丸口に抜けて、バス乗り場のベンチに腰をかけてふかふかと煙草をふかしていた。その頃はまだ世間が喫煙に関しておおらかで、いろんなところに灰皿が設置されていたのである。駅のバスターミナルは市バスのほぼすべての路線が経由するから、どこに行きたくなっても都合がいい。路線図を見ながらふかふかふかふか、どこに行くか考えていた。「スィまっせぇん」妙なイントネーションで声をかけられた。見るとでかい白人の男が二人並んで立っている。一人は赤毛のひげもじゃでサングラスをして、つっけんどんな感じで、一人はきれいな金髪を80年代のデヴィッド・ボウイのような髪型にして、青い目が柔和に笑っている。柔和なほうが話しかけてきた。「だい、と、きゅうじぃ?だい、ときゅじ、どぉのバス、でっすかぁ?」『バス』だけ妙に発音がいいけれど、『だい、ときゅじぃ』がわからない。その頃直近で接していた英語が『キリスト伝』だったので心もとないこと甚だしい。ともかく何を教えていいのかわからないから「パードゥンミィ?」と返すと「あぁ、だいと、きゅぅじぃテンポー」と言う。カナ表記だとなんだかもたついてアホがやり取りしているように見えるので、こちらの発音はともかく、喋ったことはアルファベット表記に切り替える。これまたそこだけ妙に耳慣れのいい“temple” のおかげで行く先が『大徳寺』であろうと見当がついた。「大徳寺?」「だい・とくぅじ、Yeah.」ちょうどベンチの前にあるバス停に停まる206系統のバスが大徳寺前を通るので “Wait here, at this stop, and take the bus number 2-o-6.” と言ってやった。われながら見事なまでに型にはまった例文イングリッシュで、最後のところは『トゥー・オウ・シックス』と言っている。するとボウイ(仮名)は “206?” 『トゥー・ズィアロゥ・スィックス?』と確認した。あ、ゼロに訂正しやがったこいつ。と思いながらこっちも調子に乗って “Yeah.” などと言っている。バスが来るまでまだ間があったが、その場にいていろいろ話しかけられるのも面倒ナリ、というかこちらの英語力が疑わしい。笑顔で「アァリガト」というボウイ(仮名)に「どいたしまぁして」とこちらも笑顔で答えながら煙草をもみ消し、少し離れたバス停でさっきから発車待ちをしていた52系統に颯爽と乗り込んだ。現在は廃止されているが、千本通を北上して自分の通う大学の前を通る。何しろ初対面の外国人とスムースにコミュニケーションが取れたので、バスに揺られながら「チョロイもんや」と思いかけてふと気づいた。相手は『だいときゅぅじ』と『206』しか言ってない。なんやこれ、こっちの方がようけ英語喋っとるやないか。なんとも間抜けなシチュエーションにアホらしくなったが、呑気な京の春には似つかわしい気がした。
あまりの陽気の好さにそのまま帰るのももったいないような気になって、大学周辺をうろついたら誰かに逢うだろう、逢ったらそいつを誘って昼飯を食いに行こうと考えた。下宿に近いバス停をやり過ごして大学前まで、大学の正門は竜安寺の前を通るきぬかけの道に向かって開かれている。正門の脇に立て札があって、西を向いた矢印の下に『竜安寺/時々走って徒歩2分』とある。誰が立てたのかは知らないが、そのいいかげんさを見るたびにホッとしたような、嬉しいような気分になる。
以前にも書いたとおり京都の冬は『痛い』。それが盛夏となると朝8時前から空気がゲル状に感じられて、息苦しいほどになる。そのおかげで秋は疲労困憊していて、京都で過ごすには春先から初夏にかけての時期が一番好ましい。お金もバイトもない休みの日にはぶらぶらと出かけて回る。
春でも桜の時期ともなると、名所と言われるあたりはどこも人出が多くて浮き足立った感じがする。自分の部屋から桜を堪能できるので、わざわざ人の多いところに出向くまでもない。おかげで円山公園の桜にはなじみがないが、平野神社は大学への行き帰りに通り抜けて、満開の桜の下をてれてれと歩いた。上がほぼ全面桜で覆われていて、木漏れ日以上に日がささない。綺麗ではあるけれど、ちょっと湿っぽい感じがしなくもない。そこへいくと二条城のすぐそばにある神泉苑の、と言っても二条城が築かれる際神泉苑の広大な池を堀の水源として取り入れてしまったために大半が削り取られた残りなんだそうだが、そこの庭園では池の向こう側に満開の桜を見ることになって、大文字山と同様『ぽっかあーん』とした空も含めて堪能できる。池のふちに立って春の日を浴びながら呆けたように桜を眺めてから二条城のぐるりを歩いて堀川通りに出る。少し北に幼稚園があって、そこには巨大な鳥かごがある。柵越しに見上げるそれは高さが5mほどあろうかと思われる。すでに『籠』ではありえないが、普通の鳥かごをそのまま大きくしたような形なのでやはり鳥かごである。アラビアンナイトのロック鳥でも入れておかれそうなその中にいるのがインコという、スケールに見合わない無頓着さがなんとも京風のおおらかさを通り越した呑気を醸し出している。
東寺の近くにみなみ会館というミニシアターがあって、企画が面白くてよく通った。民家より少し高い位置にあるロビーの窓から京都駅の南側に広がる家並みが見渡せて、ここでも日光を反射してまぶしく光る屋根瓦の波の上に『ぽっかあーん』と空が広がっている。夏の反射はギラギラとして痛いほどなので、やっぱり春に眺めているのが好い。その日は確か午前中の回でなんだか救いのないようなフィンランドの映画を観て、ネガテブーな気分になりかけた。ロビーの窓から家並みを眺めていると気候はいいし特に用はないしで、気分転換に京都駅までぶらぶらと歩き、地下街をくぐって烏丸口に抜けて、バス乗り場のベンチに腰をかけてふかふかと煙草をふかしていた。その頃はまだ世間が喫煙に関しておおらかで、いろんなところに灰皿が設置されていたのである。駅のバスターミナルは市バスのほぼすべての路線が経由するから、どこに行きたくなっても都合がいい。路線図を見ながらふかふかふかふか、どこに行くか考えていた。「スィまっせぇん」妙なイントネーションで声をかけられた。見るとでかい白人の男が二人並んで立っている。一人は赤毛のひげもじゃでサングラスをして、つっけんどんな感じで、一人はきれいな金髪を80年代のデヴィッド・ボウイのような髪型にして、青い目が柔和に笑っている。柔和なほうが話しかけてきた。「だい、と、きゅうじぃ?だい、ときゅじ、どぉのバス、でっすかぁ?」『バス』だけ妙に発音がいいけれど、『だい、ときゅじぃ』がわからない。その頃直近で接していた英語が『キリスト伝』だったので心もとないこと甚だしい。ともかく何を教えていいのかわからないから「パードゥンミィ?」と返すと「あぁ、だいと、きゅぅじぃテンポー」と言う。カナ表記だとなんだかもたついてアホがやり取りしているように見えるので、こちらの発音はともかく、喋ったことはアルファベット表記に切り替える。これまたそこだけ妙に耳慣れのいい“temple” のおかげで行く先が『大徳寺』であろうと見当がついた。「大徳寺?」「だい・とくぅじ、Yeah.」ちょうどベンチの前にあるバス停に停まる206系統のバスが大徳寺前を通るので “Wait here, at this stop, and take the bus number 2-o-6.” と言ってやった。われながら見事なまでに型にはまった例文イングリッシュで、最後のところは『トゥー・オウ・シックス』と言っている。するとボウイ(仮名)は “206?” 『トゥー・ズィアロゥ・スィックス?』と確認した。あ、ゼロに訂正しやがったこいつ。と思いながらこっちも調子に乗って “Yeah.” などと言っている。バスが来るまでまだ間があったが、その場にいていろいろ話しかけられるのも面倒ナリ、というかこちらの英語力が疑わしい。笑顔で「アァリガト」というボウイ(仮名)に「どいたしまぁして」とこちらも笑顔で答えながら煙草をもみ消し、少し離れたバス停でさっきから発車待ちをしていた52系統に颯爽と乗り込んだ。現在は廃止されているが、千本通を北上して自分の通う大学の前を通る。何しろ初対面の外国人とスムースにコミュニケーションが取れたので、バスに揺られながら「チョロイもんや」と思いかけてふと気づいた。相手は『だいときゅぅじ』と『206』しか言ってない。なんやこれ、こっちの方がようけ英語喋っとるやないか。なんとも間抜けなシチュエーションにアホらしくなったが、呑気な京の春には似つかわしい気がした。
あまりの陽気の好さにそのまま帰るのももったいないような気になって、大学周辺をうろついたら誰かに逢うだろう、逢ったらそいつを誘って昼飯を食いに行こうと考えた。下宿に近いバス停をやり過ごして大学前まで、大学の正門は竜安寺の前を通るきぬかけの道に向かって開かれている。正門の脇に立て札があって、西を向いた矢印の下に『竜安寺/時々走って徒歩2分』とある。誰が立てたのかは知らないが、そのいいかげんさを見るたびにホッとしたような、嬉しいような気分になる。