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センター突破 これだけはやっとけ 鳥取の受験生のための塾・予備校 あすなろブログ

鳥取の受験生のための塾・予備校  あすなろ予備校の講師が、高校・大学受験に向けてメッセージを送るブログです。

春はノンシャラン

2011-03-03 08:50:38 | 洛中洛外野放図
 白梅町の駅前に立って北の方を見ると、真正面に『大』の字が見える。何も白梅町の駅前でなくとも西大路通沿いに立って北を向けば正面に見えるのだが、そのあたりに立つとちょうど頃合いの大きさに見える。道の両側の建物で下と左右が白く四角に縁取られていて、その上に大文字山が納まる。ここに見えているのは『左大文字』と呼ばれるもので、お盆の時期に京都にいることは何度もなかったし、いても暑い中出かけるのも億劫だったので、地元で慣習的に『大文字』または『大文字の送り火』と呼び習わされる五山の送り火を、ニュース映像以外で見た覚えがない。今日日(きょうび)はどうだか知らないが、当時この送り火のことを『だいもんじやき』と呼ぶ人が多かった。京都の人はそれを聞く度に「ケッ」と思っていたらしい。「なんとか焼きて、なんやおまんじゅうみたいやわぁ」とは同じ専攻の京女垂高さんの言であるが、後にかの上岡龍太郎氏にも同様の発言があったところを見ると、京都の人はそう思うのかもしれない。ともかくそんなこんなで『やき』を見ないで専ら昼間の『大文字』のみを見ていたわけだが、文字の中だけ木がなく山肌が露出していて、緑色の中にオレンジがかった肌色のヒトデがへばりついているように見える。高い建物がないので、視界の上部には『ぽっかあーん』と青い空が広がる。夏の「いかにも青い」空だとコントラストが強すぎで『京の夏景色』をあざとく主張しているように思われるので、やはり春の白っぽい空のほうがより『ぽっかあーん』という感じがして、何事もどうでもよくなってくるほど呑気だ。

 以前にも書いたとおり京都の冬は『痛い』。それが盛夏となると朝8時前から空気がゲル状に感じられて、息苦しいほどになる。そのおかげで秋は疲労困憊していて、京都で過ごすには春先から初夏にかけての時期が一番好ましい。お金もバイトもない休みの日にはぶらぶらと出かけて回る。

 春でも桜の時期ともなると、名所と言われるあたりはどこも人出が多くて浮き足立った感じがする。自分の部屋から桜を堪能できるので、わざわざ人の多いところに出向くまでもない。おかげで円山公園の桜にはなじみがないが、平野神社は大学への行き帰りに通り抜けて、満開の桜の下をてれてれと歩いた。上がほぼ全面桜で覆われていて、木漏れ日以上に日がささない。綺麗ではあるけれど、ちょっと湿っぽい感じがしなくもない。そこへいくと二条城のすぐそばにある神泉苑の、と言っても二条城が築かれる際神泉苑の広大な池を堀の水源として取り入れてしまったために大半が削り取られた残りなんだそうだが、そこの庭園では池の向こう側に満開の桜を見ることになって、大文字山と同様『ぽっかあーん』とした空も含めて堪能できる。池のふちに立って春の日を浴びながら呆けたように桜を眺めてから二条城のぐるりを歩いて堀川通りに出る。少し北に幼稚園があって、そこには巨大な鳥かごがある。柵越しに見上げるそれは高さが5mほどあろうかと思われる。すでに『籠』ではありえないが、普通の鳥かごをそのまま大きくしたような形なのでやはり鳥かごである。アラビアンナイトのロック鳥でも入れておかれそうなその中にいるのがインコという、スケールに見合わない無頓着さがなんとも京風のおおらかさを通り越した呑気を醸し出している。

 東寺の近くにみなみ会館というミニシアターがあって、企画が面白くてよく通った。民家より少し高い位置にあるロビーの窓から京都駅の南側に広がる家並みが見渡せて、ここでも日光を反射してまぶしく光る屋根瓦の波の上に『ぽっかあーん』と空が広がっている。夏の反射はギラギラとして痛いほどなので、やっぱり春に眺めているのが好い。その日は確か午前中の回でなんだか救いのないようなフィンランドの映画を観て、ネガテブーな気分になりかけた。ロビーの窓から家並みを眺めていると気候はいいし特に用はないしで、気分転換に京都駅までぶらぶらと歩き、地下街をくぐって烏丸口に抜けて、バス乗り場のベンチに腰をかけてふかふかと煙草をふかしていた。その頃はまだ世間が喫煙に関しておおらかで、いろんなところに灰皿が設置されていたのである。駅のバスターミナルは市バスのほぼすべての路線が経由するから、どこに行きたくなっても都合がいい。路線図を見ながらふかふかふかふか、どこに行くか考えていた。「スィまっせぇん」妙なイントネーションで声をかけられた。見るとでかい白人の男が二人並んで立っている。一人は赤毛のひげもじゃでサングラスをして、つっけんどんな感じで、一人はきれいな金髪を80年代のデヴィッド・ボウイのような髪型にして、青い目が柔和に笑っている。柔和なほうが話しかけてきた。「だい、と、きゅうじぃ?だい、ときゅじ、どぉのバス、でっすかぁ?」『バス』だけ妙に発音がいいけれど、『だい、ときゅじぃ』がわからない。その頃直近で接していた英語が『キリスト伝』だったので心もとないこと甚だしい。ともかく何を教えていいのかわからないから「パードゥンミィ?」と返すと「あぁ、だいと、きゅぅじぃテンポー」と言う。カナ表記だとなんだかもたついてアホがやり取りしているように見えるので、こちらの発音はともかく、喋ったことはアルファベット表記に切り替える。これまたそこだけ妙に耳慣れのいい“temple” のおかげで行く先が『大徳寺』であろうと見当がついた。「大徳寺?」「だい・とくぅじ、Yeah.」ちょうどベンチの前にあるバス停に停まる206系統のバスが大徳寺前を通るので “Wait here, at this stop, and take the bus number 2-o-6.” と言ってやった。われながら見事なまでに型にはまった例文イングリッシュで、最後のところは『トゥー・オウ・シックス』と言っている。するとボウイ(仮名)は “206?” 『トゥー・ズィアロゥ・スィックス?』と確認した。あ、ゼロに訂正しやがったこいつ。と思いながらこっちも調子に乗って “Yeah.” などと言っている。バスが来るまでまだ間があったが、その場にいていろいろ話しかけられるのも面倒ナリ、というかこちらの英語力が疑わしい。笑顔で「アァリガト」というボウイ(仮名)に「どいたしまぁして」とこちらも笑顔で答えながら煙草をもみ消し、少し離れたバス停でさっきから発車待ちをしていた52系統に颯爽と乗り込んだ。現在は廃止されているが、千本通を北上して自分の通う大学の前を通る。何しろ初対面の外国人とスムースにコミュニケーションが取れたので、バスに揺られながら「チョロイもんや」と思いかけてふと気づいた。相手は『だいときゅぅじ』と『206』しか言ってない。なんやこれ、こっちの方がようけ英語喋っとるやないか。なんとも間抜けなシチュエーションにアホらしくなったが、呑気な京の春には似つかわしい気がした。

 あまりの陽気の好さにそのまま帰るのももったいないような気になって、大学周辺をうろついたら誰かに逢うだろう、逢ったらそいつを誘って昼飯を食いに行こうと考えた。下宿に近いバス停をやり過ごして大学前まで、大学の正門は竜安寺の前を通るきぬかけの道に向かって開かれている。正門の脇に立て札があって、西を向いた矢印の下に『竜安寺/時々走って徒歩2分』とある。誰が立てたのかは知らないが、そのいいかげんさを見るたびにホッとしたような、嬉しいような気分になる。

馬面大将

2011-03-01 18:32:24 | 洛中洛外野放図
 鞍多とは最初の頃から性が合って、なんとなくお互いによっかかり合っていたように思われる。でかい声で切り返しが早い。一番効き目のあることを的確な言葉で即答する。無遠慮にずけずけと物を言うように見えながら、よくよく聞いていると言葉の選び方を心得ていて、相手を激高させるのではなく、お互いに納得し合っていくよう仕向けていく。自分の非に気づいたときはそれを認めるのに躊躇しない。その反射神経と潔さは尊敬に値する。その上酒が呑める。友人としてこれほど信頼のおける奴はいないというほど、男以上に『おっとこまえ』な気持ちのいい奴である。よく知られているように、夕暮れ時から夜にかけて三条大橋と四条大橋の間に当たる鴨川西岸の川原には計ったような等間隔でカップルが並んで座っている。鞍多と河原町界隈で呑んだ後、ちょっと参加してみようということになった。二人とも自分の恋人とはそんなデートを好まないが、探究心はある。四条通から川原へ降りるスロープがあって、降りてすぐの辺りで、両脇のカップルのちょうど真ん中に来るよう目算して腰を下ろした。下ろしてみたが何かが違う。「もう、やめようよ」ということになって、逃げ出すように呑みなおしに行った。恋人でもない相手と座ってみても妙に照れくさいだけで、お互い酔っていても羞恥心はある。鞍多は一時期河原町沿いだか木屋町沿いだかにあるインド料理屋のコックと付き合っていて、インド人とキスすると「カレーの味するよ」と教えてくれた。「ホントだよ」と言っていたし、自分で確かめる折もないのでいまだに信じている。

 鞍多のバイト先は全国展開する某大型ショッピングセンターの京都西店で、同じ店舗に配属になった社員と親しくなったという。話の中で彼氏のことを聞いているうちにどうやら自分の知っている男のことらしいと気づき、確かめてみたら上浦だったそうだ。なにしろ2回お手つきしているので、短大に行った同級生の恋人は、彼奴が大学に入った年にはもう就職だったのである。
「ヒロりんえらいと思ったね」
何人かで飲んでいる最中、鞍多が言い始めた。『ヒロりん』とは鞍多命名による上浦の彼女の呼び名である。「あんたがもたついてる間にもう就職っしょ、しっかりしないともう待っててくんないよ。私にゃ無理だね」この女は容赦ない。言われた上浦は「んー、まぁ、せやなー」と、また空気が読めないんだかマゾなんだか、それとも偉いんだかわからないような返事をしている。人の色恋なんぞに興味はないので、勝手にやっといてくれればいいので脇で栄地と二人酌み交わしながら聞き流していたが、横で古邑さんが食いつきかけている。「なんやきさん、そんなええ彼女(かんじょ)のおるとか」『きさん』とは『貴様』の転訛したものだそうだが、福岡市出身で九州男児(自称)の古邑さんの微妙な博多言葉は酔いの兆候である。普段は言動の端々に人の好さがにじみ出ているような人なので、イメージ上どうしても(自称)が取れない。「別嬪か」と、訊いてどうする。「いやいやいやいや」って、ニヤけるな、上浦。よせばいいのに鞍多は「もうすっごい美人」と煽り立て、「牧瀬理穂にそっくりだよ、ねぇ」と栄地に同意を求める。高校で同窓の栄地は当然上浦もその彼女も知っている。「あ?んん、まぁ似てるっちゃあ、似てるわな」と杯を口のところに持ったまま邪魔くさそうに答える。「ホンマかそれ」と古邑さん。大体このあたりから予定調和的というか出来レースというか、実は『なんやきさん』のあたりからすでに流れができあがっている。
「あーあー、よう言われまっすぁ」
ふーん、と鼻から煙草の煙を吹きながら得意そうな上浦。「なんやこの馬面ァ!」お絞りが飛び、栄地が羽交絞めしている上浦を古邑さんと二人座布団でぶっ叩いた。確かに上浦は馬面だが、自分の立ち位置を確立し、堅持しているところが偉い。

 どういう経緯だったか忘れたが、その『ヒロりん』と同席する機会があった。食事をしたのか、お茶を飲んだだけだったか、とにかく茨木にある国道沿いのファミレスでしゃべっていた。ということは上浦の車で行ったんだろう。確かに牧瀬理穂といわれればそういう顔立ちをしている。が、それがまた喋る喋る、黙っとったら美人やのに、ねぇ。とはいえうるさいというわけではなく、不快感はない。そら鞍多と合うわな、というくらいサバサバしていて気持ちがいい。父娘代々筋金入りの阪神ファンで、二人がかりで巨人ファンの上浦を散々こき下ろした。初対面の話題ではない。

 その二人が交際十年を経て結婚することになった。両方と友達みたいなもんだったが、新郎側の友人として栄地、鞍多、街原の三人と一緒に招待された。披露宴だけでなくチャペルでの挙式から出てくれということだったので、街原がまだだったがチャペルの長い椅子に三人並んで座っていた。そのうち鞍多が「ここでいいの?」と言い出した。すると栄地が「んー、せやねぇ、あいつのお母さんが向こうの方にいてはるからな」と、何でそれを早く言わん!実は新婦側の、しかも親族席に座っていた。さすがにバツが悪く、三人身をかがめてこそぉーっと移動したが、周囲の失笑を買ったのは言うまでもない。「まぁ、ウケてるからいいか」「ウケてるって言うか、これ?」何事もなかったかのように三人並んで座っていると、「あ、おったー」という声がした。知ってるぞ、この声。「いやー、もうどこ行っていいかわからんかったんよ、うん、それですっごいあせってたんよー」「シッ、声がでかい!」因島出身で、どうしたらここまで真っ直ぐ育つことができるかと思うくらいに人の好い街原は朴訥を体現しているような男である。何でも控え室で待っていたら知らない人ばかりで、心細くなっているところで呼び出しがかかり、それが『上浦家』でなかったことから、他所の披露宴の控え室にいることに気づいたそうだ。また周りからくすくすと聞こえてくる。「あのなー、部屋の入り口に『何何家』とか書いてあったやろ」「ちゃんと見とけっちゅうねん」「恥っずかしー」と、三人とも自分のことは棚に上げている。

 式も滞りなく終わり、披露宴の席上。新郎、新婦とも4人ずつ友人を呼んでいて、8人が同じテーブルについた。「こういうところの料理って、代わり映えしないねー」とか「あいつ呑めんくせに酒はええやん」とか、言いたい放題喋っている。ケーキが出されて、甘いものはそれほど得意ではないので、横の鞍多に「食ってくれ」と頼んでいると、「本日のケーキは新婦のご友人、南渡可様の手作りでございます」という司会者の声と共に目の前の女性が立ち上がって頭を下げている。ちょっと待てい!あわてて一口にほおばったら、ずっと後まで口の中が甘ったるくてむにゃむにゃするようだった。友人代表のスピーチを依頼されている街原は「だいじょうぶかのー、わし」と言いながら料理に口をつけてない。かわいそうに、上浦は町原のスピーチを『おおトリ』に持って来ていた。どうにか大役をこなした街原は満場の拍手の中、へとへとになって椅子に崩れ落ちた。

 そんなこんなで式を終えた上浦は、いつの間にやら熱烈な阪神ファンになっていた。

ぞろぞろ

2011-02-19 13:30:21 | 洛中洛外野放図
 一年先輩の佐宗さんを通じて、粋棟さんと知己を得た。国立の教育大学で西洋史学を博士課程まで修められ、某シンクタンクに佐宗さんと同期入社となったそうだから、結構歳が離れている。二条城に近いご実家から大阪の会社まで通勤されていて、佐宗さん曰く、住んでいるところも近いし、趣味も合いそうだから「会わせてみたくなった」のだそうだ。二人の職場のある大阪まで呼び出されたのか、京都で引き合わされたのか、初対面がどこだったかはっきりと覚えてはいない。たぶん京都だったんだろうと思う。落ちあったとき、佐宗さんと粋棟さんは二人で『形而上学しりとり』というのをやっていた。どういうものかよく分からなかったが「バカボンのおまわりさんのピストル」とか何とか訳のわからないことを言い合っている。酔狂なこった。佐宗さんは元来理屈言いというのか、ともするとちょっと衒学的な言い回しに振り回されるようなところがある。おんなじような人がもう一人増えるのかと思っていたが、実際に本人と話をしてみると読んできた作家や漫画家、聞いてきた音楽、いいと思った映画、好きな落語家、その頃気に入っていたミステリーシリーズと、気味の悪いほどことごとく合致した。生活圏がそれほど離れてはいないので、普段よく利用する本屋もCD屋も大体同じである。今もあるかどうかは知らないが、千本今出川を少し下がった東側に間口のそれほど広くない、小汚いというと失礼だが店先が乱雑な感じの新刊書店があって、古書店に見えなくもないからわざわざこう書いているのだが、そこは品揃えがいい。普通なら入荷しないような、入荷しても1冊とか2冊とかの扱いを受けそうな本でも、発売日には複数冊を店頭に並べていた。そこの常連だという話を聞いて、できた方だと思った。もとより酔っ払いの判断である、碌な根拠などあるはずもないが、初対面の印象はそんなわけで「なんかいい人」であった。それからちょくちょくご一緒させてもらったが、佐宗さんは就職を期に上七軒のアパートを引き払って大阪に住んでいたので、京都在住の二人で呑むこともあった、というか、呑みに連れて行ってもらった。時々はうちの下宿で呑むこともあった。こっちに合わせて付き合うのを面白がっているようなところもある。そういうところもとっつき易さの一因だったんだろうと思われる。

 あるとき、卒論の話になった。平安末期から鎌倉初期成立のある絵巻物を扱おうと考えていたが、それまで調べてあったものをまとめたメモを見せると豪(えら)く気に入って、その頃粋棟さんが出身大学に残って研究活動をしいる人たちと定期的に行っていた歴史学の研究会で発表してみたらどうだと誘ってくれた。当日の出席者はそれほど多くなかったが、学部生から院生、粋棟さんのような修了者まで、いろんな立場の人が参加している。その場を仕切ったのは粋棟さんと同期という妙に恰幅がいい方で、その体つきといい髪型といい、目のくりくりとしたところまで、往時のサモ・ハン・キンポーを髣髴(ほうふつ)とさせる。その金峰氏にも興味を持ってもらえたようで、いろいろと意見を言ってくださって、アドバイスも多くいただいて、大いに参考になった。終了後は大学近くの行きつけの店で歓迎会をしてくれたが、金峰氏はビールばかり飲んで、酔ってくるといろんな教授の酔態を滔滔(とうとう)と語り始めた。斯界のビッグ・ネームもいくつか挙がっている。どこで誰と呑んだって酔うのに変わりはない。最後は金峰氏と、一緒にいた学部生とが最寄りの駅まで送ってくれた。誰かが大きな声で喚(わめ)いていたような気もする。電車を乗り継いで阪急京都線大宮駅まで戻って来る間に二人とも少し醒めてきて、粋棟さんと二人で少しだけ飲みなおしてから別れた。

 阪急宝塚線の石橋駅近くにある会場で、立川談志・桂米朝二人会が行われた。行きたいけれども手元不如意で余裕がない。そんな話をしたら、ありがたいことに佐宗さんと粋棟さんが折半でチケット代を持ってくださるということになった。粋棟さんと佐宗さんは職場からなので、石橋駅で待ち合わせをした。指定席ではなかったように思うが、二階席のほぼ真ん中に席を取った。三人並んで座った右側にハンチングをかぶったおじいさんが座っている。最初は談志家元の『ぞろぞろ』、その最後、「一生懸命に研ぎ澄ました剃刀でスーっと剃るてぇと、後から新しい髭がぞろぞろ…」この『ぞろぞろ』の二つ目の『ろ』の音が出切るか出切らないか、『…』の余韻も味わう間もなく間髪をいれずに拍手を始めた人がいた。見ると横にいるおじいである。いかにも「わしは米朝を見に来たんや」とでも言いたげに、なんだか苦虫を噛み潰したような渋い顔をして、『引っ込め』感モロ出しに拍手をしている。こういうところで誰かが拍手を始めると皆がそれに追従する。そのとき談志家元は半ば口を開いて何かを言い出しそうなところだったが、その拍手に小さく「ま、いいや」とつぶやいて深々とお辞儀をした。そのあと米朝師が一席、中入りがあって二人の座談があり、米朝師、談志家元でトリ、という構成だったが、中入りのときに煙草を吸いにロビーに出ると、「誰やあの拍手」とか「絶対あれなんか言いかけてたで」といった声がちらほらと聞こえる。三人で「やっぱり、ねぇ」という話になった。実はそこのところだけが鮮明に思い出されて、あとの記憶はあやふやになっている。なかなかない機会なのに、あのおじい奴(め)。落語会が終わって、石橋駅のそばの焼鳥屋でなんだかんだとだべってから三人で十三まで一緒に行って、そこで京都線に乗り換えた。佐宗さんは同じ京都線の途中の駅で降り、粋棟さんと大宮駅まで、四条大宮でまた少しご一緒して帰った。

 粋棟さんとは卒業してから何度かは連絡を取ったが、やがて疎遠になってしまった。佐宗さんとは細々とやり取りが続いていて、あるとき佐宗さんにメールを打ちながらふと思い出して粋棟さんの消息を尋ねてみた。すると、すでに物故されたという返事が返ってきた。まだ40代で、結婚してからの年数も浅く、お子さんもまだ小さいという。亡くなる前年の健康診断でなんだかの数値が異常に高かったそうで、周りからも節制するようすすめられていたが、仕事でかなり無理をされていたらしい。佐宗さんから粋棟さんのご実家の住所と墓所を教えようかと言ってくださったが、亡くなってから1年以上経っていた。のこのこと出向いて行って、ご家族に新たにつらい気持ちを思い出させるようなことにならないか、と心配になり、それに今更どの面下げて、という気もする。ちょっとその気になりかけたがさすがに差し出がましい気がして、よしましょう、それより酒を呑みましょう、ということになった。その晩は一杯余分に酒をついで、粋棟さんの分として酒を呑んだ。佐宗さんもメールのやり取りの後同じことをしたそうだから、粋棟さんは大阪と鳥取のどっちで呑むか迷ったかもしれない。とはいえ故人に関して思うことなど生きている側の思い込みに過ぎないので、自分が一緒に呑んでくれてはるな、と思っていれば、どっちであろうとかまわない。

 それから粋棟さんについていろいろ考えていると、どうやら談志家元の『ぞろぞろ』に、あのときの満場の拍手に行き着いてしまうようである。

沈思黙考主義

2011-02-17 14:52:10 | 洛中洛外野放図
 とあるコンパの会場、周りであわただしく席順を決めたりなどしているさなか、上座でノートを開いて、几帳面な筆記体の文字でドイツ語のテキストの本文を写している。筆記体とは早く書くために使う字体だと思っていたが、そ奴は一文字ずつじっくりじっくり、たぶんブロック体で書くよりも時間をかけて書いている。ペンで書いているので、書き損じは一画ずつ(アルファベットで「一画」というのか?)はけ塗りタイプの修正液を塗っていく。写本でもしているかのようで、几帳面というよりも神経質そうにも見える。場違いな感じが面白くてしばらく眺めていた。
「何してんねん」
「ん?ああ、明日な、当たんねん」
「呑みながら、すんの」
「そら始まったらしまうよ」
「ほーん」
テキストとノートが邪魔でグラスも取皿も置くことができないが、そういうことには頓着しないらしい。その日は遅れてサークルに入ってきたそ奴ともう一人の男の歓迎会で、その主役が黙々と予習をしているのである。同じ高校出身だという主役の片割れの「こいつ昔っからこういう奴やねん」とのコメントに「うるせぇ」と返しながらも手を止めることはない。歓迎することよりもお酒を呑むことをメインと心得る周りの人たちはちょっと邪魔だな、などと思いながらビールを回し、着々と乾杯の準備を進める。各自にグラスとビールが行き渡り、幹事役の先輩から「ホンならそろそろ、始めましょうか」と声がかかると手早くテキスト類を片付けた。乾杯の後の自己紹介によると、このドイツ語を筆耕していた栄地は高槻市在住、もう一人の上浦は茨木市在住で、同じ高校を卒業して同じ某大手予備校の大阪校に2シーズン通い、学部は違うが同じ大学に入って同じ時期に同じサークルに入ってきたという。こう書くと中睦まじくのっぴきならない関係のようにも思われるけれど、そういうわけでもなく、行く先々でお互いを見つけては「またこいつか」と思うらしい。挙句の果てには就職先も、生産管理と営業というキャラそのままの職種ではあったものの、同じ某大手印刷会社、二人とも自覚はしてないようだがこんだけ気が揃う奴らも珍しいで。でも結婚した相手は違ってた。この上浦という男、自己紹介で「巨人ファンです」と禁断の一言を口に出したものだからたまらない。「ぁんやとぉ、コルァあ!」怒号一声、お絞りが飛ぶ座布団が飛ぶ、まだ酔っ払いはいなかったので壊れ物や誰一人箸をつけてない料理をぶん投げる者はいなかったが。ここで宇津平さんの「巨人ファンなんて屁ー以下」という名言が生まれ、上浦には「まったく場の空気を読めない奴かよっぽどのマゾ野郎だ、ただしすべて読んだ上での発言だったら偉い」、とにかく「太(ふて)ぇ野郎だ」という評価が下された。図らずも翌日のための予習によって自己紹介のずっと前から注目を集めていた栄地は、低い声でぼそぼそと淡々と自らを語った。トーマス・マンかなんかを愛読しているとかで、高尚らしい趣味にどことなくとっつきにくいような感じがしないでもない。年齢もさることながら、落ち着き払った雰囲気が風格までをも感じさせ、どこか威風堂堂の趣がある。まずはポップな上浦とシックな栄地という印象だった。方や突っ込みどころ満載で、方や突っ込もうにも落としどころの見当がつかないのである。そのあたりの印象がやけに強くて自己紹介の後はあまりよく覚えていない。覚えていないというか相変わらずコリャコリャのグズグズになっていったので、他の飲み会と印象が変わらない。ただ、アンチ巨人の跋扈するなか臆することなく巨人ファンを標榜していた群馬出身の町元さんが上浦の肩に手を回して「お前は見所がある」かなんか言っていたのを覚えている。「やっぱジャイアンツだよなー」って、関東のファンは「巨人」とは言わないのか?当の上浦は真っ赤な顔をして意識を失いかけている。こいつはビールを2杯も飲んでないのに。栄地によると「これでもこいつ呑めるようになったんやで」とのこと、そういう栄地はすでに熱燗に切り替え、表情ひとつ変えることなく淡々と杯をあけていた。もっともこ奴はいつだって表情を変えない。

 この二人とはじきに親しくなって、特に栄地とはよく呑んで回った。自宅生なのに付き合いがいい。一方の上浦がそうでもないのは飲めないからだろうと思っていたが、地元に高校時代から付き合っている彼女がいるからだという。そんな奴はいい、とりあえず、ほっとく。

 「口数は少ないけど言葉数が多い」と評されたことがある。これは全然違う場所で違う人から言われた。そういう俺(の)と口数も言葉数も多くない栄地とが二人で飲んでいると、本当に口数が少ない。話が弾むということもなく、あまりしゃべらないままこぷこぷ飲んで、それで苦にならない。呑むのは日本酒かバーボンが多く、うちで呑むときはたまにフォア・ローゼズのブラックラベルをぶらさげてきてくれた。持参したビル・エヴァンスやジョン・コルトレーンなどのCDをかけてル・クレジオだとかマルティン・ブーバーなんかの話をする。しょうがないのでこっちはジャニス・ジョプリンとブルース・ブラザースで対抗し、いしいひさいちを与えてみたらこれがハマったようで、しばらくは来る度に作品集を一冊ずつ読んでいた。お互いに少しずつ感化されていき、しまいには桂枝雀やキダ・タローをバックにガルシア・マルケスの話をしながら呑むようなことになっていた。大抵は引き際綺麗に終電で帰って行ったが、たまに過ごすこともある。そういう時はどっちが先かわからないけれどいつの間にか意識を失っていて、翌朝「うぅっぅ」とか言いながら授業に出たり帰って行ったり、お昼前まで自堕落に過ごしたりした。最初は周りから『寡黙』『孤高』『耽美』といった言葉の似合う流麗なイメージを持たれていたようだが、そこに『退廃』が加わったようで、ある日栄地が我が家から持ち出した『アホの坂田』のテープを持っているところを見咎めた栄地派の女の子から(半ば本気で)詰め寄られたことがある。
「あんなん聞くって、栄地君変わったん、あんたのせいやろ。ヘンなこと教えやんといて、もぅ!」
ってしゃあないやん、そんな奴やってんから。その様子を見ていた上浦がけたけたと笑っている。笑(わろ)てんとフォローせんかい、この男は。きいっ!という本当に音の出そうな目つきで上浦に一瞥をくれて、その子はプリプリと去って行った。上浦は堪(こた)えもせず「なんやえっらい美化されてんねやなー」とか言いながら爆笑している。そこへのそっと本人が出てきた。
「なんや?」
何でもあれへん、何でもあれへん。

 直接顔を合わせることはそれほど多くないが、そんな二人とも随分長い。

凛として

2011-02-05 11:23:19 | 洛中洛外野放図
 晴れた冬の朝は凛として身が引き締まるような感じがする。2月も中旬を過ぎ、後期試験もひと段落つく頃に北野の梅林が花盛りとなる。ちらほらと雪の残る参道沿いの垣の葉の間を、メジロが見え隠れして遊んでいる。まだ寒いけれど春の気配のようなものに少しほっとする。北野天満宮の西側には御土居(おどい)という豊臣秀吉によって作られた土塁の跡が残っている。その堀として利用されていたという紙屋川(現在は天神川に統一されているそうですが、北野天満宮の西側に『紙屋川町』の地名が残るので、ここでは紙屋川とします)にかかる小さな橋があって、そこを渡ると川に沿って周囲よりも一段低い位置に細い歩道があり、今出川通の一筋北の道まで続いている。御土居跡の木立の緑が覆いかぶさるようになっていて、夏には見た目も涼しげな水辺の木陰になり、冬には木々がざわめく中に深閑とした雰囲気があって、雪が降れば木立の深い色合いに明るい雪の白が映えて、色彩を失ったように見える。暑い時期でも寒い時期でも静かな落ち着いた場所で、わずか数十メートルしかないけれども気に入りの場所だったので知らない人にはあまり教えず、のんびりと過ごしたい相手とだけぶらぶらと歩いた。早い話が手近なデートコースにしておったちゅうこっちゃ。

 その寒いけれど雲のない晴天の日もふたりで梅見がてら北野のあたりをぶらぶらしていると、関脇君に声をかけられた。関脇君は福島県出身、会津磐梯山のふもとからやってきた後輩で、色が白い。それがまた透き通るような白さで、和風のハンサム顔である。どこかお昼を食べられるところを知らないかという。そんなモン、もう何か月も住んでんねやから、昼くらいどこナと好いたところで食たらええやん。何を今更…と言いかけたところで後ろにいる二人に気がついた。おばあさんと妹が福島から訪ねてきていて、大学周辺を案内しているという。高校生の妹は翌年受験を控えているので、北野天満宮におまいりしてきたところだそうだ。そういうことなら、早よ言わんかい。そら、普段行くような学生相手の店でないほうがいいわな。あわてて挨拶をした「はじめまして、松田といいます」「どうも、大変お世話になっております」深々と頭を下げられた。いえいえ、いうほどお世話はようしません、ごもったいない、お顔を上げてくださいな。横で妹がちょっと緊張気味に立っている。やっぱり透き通るように白い肌で、ぺこっと頭を下げてくれた。おばあさんに好みを尋ねると何でもいいという。そこで恋人が妹に尋ねると「お好み焼きが食べたい」と言う。ちょうど今出川通を渡ったところに落ち着いた感じのお好み焼き屋があって、そこを案内した。「どうぞごゆっくり」一泊して帰られるというおばあさんと妹に挨拶をして立ち去ろうとすると、おばあさんはぜひご一緒に、と言う。ご家族水入らずのところを邪魔するのも悪いと思ったが、関脇君も妹もニコニコ笑ってうなずいてくれている。ちょうどどこかでお昼を食べようかと話していたところだったので、ご一緒することにした。ボックス席の片側に関脇一家が並び、それと向かいあって二人で座るという妙なレイアウトになった。そこはテーブルが鉄板になっていて、客が自分で焼くようになっている。聞けばどこを案内するかまだ決めてないということなので、待っている間妹の好きそうな店、おばあさんの好みそうな場所について彼女と二人あぁでもない、こうでもないと話をした。妹はころころと笑い、おばあさんはにこにことその様子を見ていて、時折質問をしてこられる。ネタが来て焼き始めたのはいいがおばあさんも妹もあまり経験がないのだそうで、そうならばと向かいに座るふたりでお手伝いをした。その横で関脇本人ももたついていたが、そこまでは手が回らない、お前は適当にやっとれ。その店では焼くときのための大きなコテと、一人ずつに取皿と割り箸と小さなコテをつけてくれる。自分たちの分も焼き上げて、普段どおりに箸を使わずコテで食べ始めると、それまで箸で食べていた妹は何かにピンときたような表情をしてコテで食べ始めた。
「熱っ」
大丈夫か?火傷してぇへん?「はい、大丈夫です」といいながらなんだか嬉しそうに食べている様子がかわいらしい。

 ビールを飲んだかどうか、定かでない。彼女は飲めないが嫌いではないそうで、付き合うのどうのこうのとなる前、はじめて食事に行ったのは夕方二人とも用がなく、たまたま顔を合わせて飯でも食いに行くかぁ、となったときのこと、行ったところが白梅町のお好み焼き屋で、飲み物はビールでいいと言うので一杯注いだけれど、飲んだとたんにリトマス試験紙のように真っ赤になって、そのうち紫色になってきた。飲まれへんねやったら、先に言うとけ!フラフラになってバスに乗り込む姿を見送るのも気が気ではなかった。それでもつきあっているうちにいくらか飲めるようになったようで、その頃には居酒屋でぽちぽちとつまみながら少しずつ呑んでいた。酒の「手があがる」とはこういうことなんだろう。そんな二人と関脇でお好み焼きとくればコレはたぶん飲んだだろうと思われる。大学の様子を話して福島の様子を聞かせてもらって、いろいろと話をしてサテお勘定となったとき、おばあさんはこちらの分まで払うと言ってくださった。イヤな予感はしていたが、やっぱりそうなるか。「デエトの途中でお付き合いさせてしまったから」とおっしゃるのだが、こちらも楽しく過ごさせてもらったのに、そういう訳にもいくまい。彼女と二人全力で断ったが聞き入れてもらえない、結局それ以上断るのも失礼かと思われたので、お言葉に甘えることにした。それから関脇君にいくつか食事どころを伝えてバス停まで送っていった。おばあさんはバスに乗るときに再度深々と頭を下げてくださり、なんだか面映い気がした。

 関脇家ご一行を乗せたバスを見送って、二人とも自分のおばあちゃん孝行をしたような気持ちになって、まだ寒い午後をほっこりと過ごしたことを覚えている。その後関脇君が伝えてくれたところによるとおばあさんはとても喜んでくださったそうで、帰った後でも「あの先輩は」と気にかけてくださっていたらしい。関脇君とも随分無沙汰をしっぱなしだが、今でも寒い冬に雲のない晴天の日があると、あのかわいらしいおばあさんと妹のことを思い出す。

冬が痛い

2011-01-25 13:03:50 | 洛中洛外野放図
 京都の冬は、痛い。
 築数十年の木造日本家屋で迎える冬の朝は、寒いという形容で事足りるほど生易しいものではない。がたがたいう木製の窓枠は乾燥による収縮で曇りガラスとの間に隙間ができているらしく、部屋の中の温度は外気温と変わらない。布団に包(くる)まって眠っていても外に出ている鼻と頬はもう感覚を失っていて、時には冷気で肺に痛みを感じて目を覚ますこともあった。顔を洗おうと共同炊事場に向かうと、両側に部屋が並んでいる分廊下のほうがぬくかった。こんな悲しいことはない。特に冷え込んだ朝などは掛け布団の襟元がカバンカバンになっていて、どうやら自分の呼気で凍り付いているらしいと気づいたときには涙が出るかと思った。
「人間に一番悪いのは腹がへるのと寒いゆうことですわ」
『じゃりン子チエ』のおばあはんによる至言である。おばあはん曰く、「ひもじい寒いもお死にたい 不幸はこの順番で来ますのや」だそうで、四六時中腹をすかした貧乏学生はさすがに「もお死にたい」とまでは思わなかったが、しみじみと不幸を噛みしめる朝を迎えたものである。その寒い部屋にある暖房器具といえば電気コタツのみ。京間四畳の部屋にコタツ布団を広げるとそれだけで場所っぷさぎになる。コタツの各辺に二人ずつ、あぶれた者が何人か部屋の隅に陣取るとこれはもう狭苦しい息苦しい暑苦しいの三重苦の状態となり、文字通りに「ヒトのあたたかさ」を思い知るのである。

 松須先輩に「お前今日何か予定あるか」と訊かれた。授業がすんだら何も予定はありませんよ。
「おぅ、ほんならメシ食いに行くか、石地とここで待ってるから」『ここ』とはBoxと呼ばれるサークルの部室のようなもので、実は社会学系の学術サークルに籍を置いていた。だいたい、この面子でメシを食いに行くとなるとメシで終わったためしがない、というかあまり食い物が並ばないまま空いた徳利が林立する。それでいて最終的にはそこそこの量を食べてはいるという、胃袋にも財布にも優しくない飲み方になる。まあそれはそれで望むところではあるけれど。授業が終わって顔を出してみると件の二人はいない。そこにいた古邑さんと佐宗さんのどちらかが「ちょっと用事ができたって、なんか家で待っとくようにってよ」という伝言をしてくれた。はぁ、そうですか。軽く呑みに出ようかというBox内での話を尻目に、しょうがないのでひとまず帰ることにした。下宿の玄関には見覚えのある靴が2足、2階に上ってみると部屋の扉の端から明かりが漏れている。鍵といっても柱と扉にねじ止めした蝶番に南京錠を引っ掛けるだけなので、盗られて困るような高価なものが置いてあるわけでなし、帰省など長期の不在でない限り部屋に鍵をかけることはなかったけれど、その習性はよく知られるところであったので、まぁそういうことがあってもしょうがないか。と思って部屋に入るとコタツをはさんで対座する松須、石地の両御大、真ん中ではカセットコンロの上で鍋がイイ感じにことこと湯気を噴いている。用って、コレかい。
「おぅ、お帰り」
「待っとったんや、水炊きでええやろ」
まぁずいっと、上座へずいっと、と勧められるまま東側の出窓を背にした部屋の奥側の辺に座る。
「帰りを待ってもらうって、ええもんやろ」
ええモンかいな。まままま、ひとつ、ぐいーっと。と缶ビールを渡される。「ぼちぼち、ええんと違うか」、「やっぱり寒いときは鍋やろ」などといいながら取皿と割り箸を用意して甲斐甲斐しく取り分けてくれる、のはいいが、準備された食器類は十人分に近い。ウチにこんなにあったか?ふと気づくと石地さんの脇に具材が山盛りになっている。どう見てもこのメンバーの三人前ではない。ちょっと待ってください。
「まぁ気にすんな」
「お前、今日はもうドーンと構えとったらええんにゃて」
ドーンって、えぇ?そうこうしているうちににぎやかな人声がして、さっきBoxで呑みに行こうかなんどと話していた連中さんがどやどやとなだれ込んできた。呑みにって、ここかい。なにせコタツが1つだけ、さらに真ん中にカセットコンロが据えてあるので、テーブルとして使えるところはごくわずかしかない。それで十人近い人間が飲み食いしようというので、コタツの周りでは缶ビールと皿と箸を持った数人によるローテーションが行われている。「お前はええから、ドーンと、ほら」と言われても落ち着いて座っていられるものではない。まぁええから、みんな落ち着いて食べましょ、もうここ空けるから。ビールを片手に傍からながめていると、見ていて気持ちがいい程の食いっぷりで、山盛りの具材が綺麗になくなった。まぁまぁまぁまぁ、といいながら手分けして鍋や食器類を洗いに立つもの、カセットコンロを片付けてコタツの上を綺麗に拭くもの、酒を買いだしに行くものと、まるで事前にリハーサルでも行われていたかのように実に手際よく進んでいく。なんや、今日に限って、普段からたのむでコレ。日本酒とバーボンとズブロッカとチンザノと、だいたいそんなものが準備され、それから後はお決まりで、思い思いに好みの酒を呑んでいろんな話をしている。いつの間にかもう一間の三畳の部屋には布団が延べられて、つぶれた奴の仮眠室となっている。宝饒さんの姿が見えないと思ったら布団の中から「ふっかーつ!」という雄たけびが聞こえ、皆のいる方に踊りこんでくる。会津さんは「わたし、体柔らかいよ」と両足をまっすぐ前に伸ばしたまま二つ折れになって、ひざにオデコをくっつけて「ほら」と言ったままピクリとも動かない。どうかと思ったらすうすうと気持ちよさそうな寝息が聞こえてきた。寝とぉんねん、コレ。あまりのことに古邑さんとしばらく眺めていると、「んあ」と言って起き上がって何事もなかったようにグラスを取る。石地さんはCDケースから歌詞カードを引っ張り出してアカペラで何か歌っている。薄い壁を隔てた隣人に「迷惑やろなぁ」と思いながら自分も酔いに任せて乱痴気している。

 集まった人のおよそ半分が4回生で、就職活動も終わって卒論もひと段落、あまり大学にも用はなし、久しぶりに顔を合わせて、じゃぁどこかで、となったときに白羽の矢が立てられたのが我が下宿と、こういうことだったらしい。自分が気に入られているんだか、部屋が気に入られているんだか。それでも気を使った(だろうと思われる)サプライズ加減にちょっとありがたいようなうれしいような、ほっこりした気分になった。でも、こんだけおったら暑苦しいねん。

 嵐電組が帰り、夜半をすぎて残りの人たちもポツリポツリと帰って行き、石地さんと綿部さんと三人、少し外を歩いた。あまり自分の気持ちを表に出したがらない石地さんから感謝と共に後輩に対する様ざまな思いを告げられ、ちょっとジンときた。その分、一人戻った宴のあと地はいつもにも増して冷え冷えとするようで、いろんな意味での「ヒトの温かさ」を恋しいと思った。

としのはじめのためしとてと

2011-01-01 00:00:01 | 洛中洛外野放図
 暮れから正月にかけて、何度か郵便仕分けのバイトをした。期間は年を跨(また)いで2週間、ド短期だけども時給が高いのでそこそこの実入りがある。夜郵便局に行って朝方まで、配達区域別になっている箱ごとに年賀状をまとめていく。途中仮眠の時間があるが、そうそう眠れるもんでもない。1時間かそこら眠っても足りるわけがない。何人かいたバイトがかたまってだべっていた。夜が明けるのが遅い時期なので、帰る頃でもまだ暗い。寒いわ周りの連中は大概帰省しているわでどこかに出かけるのも億劫になって、日が暮れるまで眠って風呂屋に行って飯を食ってバイト、という面白くもなんともない何日かを過ごす。3日から5日ごろには帰省組もぱらぱらと帰ってき始めるので、それからメシ食いに行こうの酒呑みに出ようの、どっか行こか、ということになる。ごくたまに初詣でに、という殊勝なことを言い出すのがいるけれど、とりたてて神頼みするほど切羽詰った困りごとを抱えているわけでもない呑気な顔ぶれなので、集まって出かけるというイベント以上のものにはならない。

 受験のとき、知り合いの損保会社の人に社割で斡旋してもらったホテルが祇園にあって、一週間連泊して三校を受験した。朝一番の高速バスで京都入りしたのがお昼前、チェックインは15時以降と聞いていたので、荷物だけ預けて受験校の下見に行くことにした。バスの乗継など、フロントのお姉さんが親切にいろいろと教えてくれて、路線図をもらった。出かける前にお昼を食べようと近所をうろついて、四条通からちょっと南に下がったところで見つけたお好み焼き屋は5~6人も掛けると満員になる。一人で切り盛りしているおばさんが目の前の鉄板で焼いてくれることになっているようだ。たのんだイカ玉焼きそばをちゃかちゃかと焼きながら、おばさんが「学生さん?」と話しかけてきた。受験をしに来て、これから大学の下見に行くところだというと、「イや、しやったらがんばってもらわんとあかんなぁ」と言って豚肉をぼそっと入れた。イカ玉が…頼みもしないミックス焼きに出来上がったそばが、食べてみるととても美味い。壁に掛かった品書きを見ながら差額を気にして食べていると、ごはんとみそ汁が置かれた。「これ食べて、元気出してがんばってくださいね」それまであまり経験のなかったカーボン食に戸惑わないでもなかったが、なにしろありがたいことである。おばさんは路線図と首っ引きになっていろいろと教えてくれた。「ここで降りて、北野の天神さんは学問の神さんやから、しっかりお参りしとき、ほしたら大丈夫」ほんまかいな。結局イカ玉分の代金しか請求されず、「しばらくいてるんやったら、またたべに来てね、応援してます」と暖かい言葉をかけてくれた。お言葉に甘えて滞在中何度か顔を出したが、晩方に行くと常連だというおじさんが「受験生か、そぉらがんばらなあかん」と、「アレ出したげて」の「コレ出したげて」の、さらには「呑めんことないにやろ」とビールをついでくれて、申し訳ないようなありがたいようなことになった。それが嬉しかったので入学決定後、引越し荷物を整理するとすぐに合格の報告に行った。のだが「はぁ、そぉですかぁ」と、まるで「あんた誰?」とでも言うようなつれない返事が返ってきた。まったく覚えてなかったようで悲しいやらアホらしいやら、それから二度と行かなかったけれども。それはともかく受験のときには「がんばってや」と言う声に送られて機嫌よく店を出ようとするともう一声かけられた。「ぁ、お参りいうたら、ここもうちょっと南のほう、こっちのほうに金比羅さんいう神社があるから、行ってみたらええよ、おもしろいから」わかりました、行ってみます。いろいろとご親切にありがとう。

 言われたとおりに東大路通の西隣の、北向きに一方通行の通りを南に下っていくと「悪縁を切り良縁を結ぶ」という安井金比羅宮がある。何を思って受験生にこんな場所を勧める?祭神は崇徳天皇、大物主神、源頼政で、縁起を辿れば天智天皇の御世(661 ~ 671)にまで遡るという*。隔月で桂米朝一門の落語勉強会が行われていて、勉強会だけに出演者の数も多く、普通の落語会ではありえないほど安い料金のおかげで、金のない学生でも通うことができた。それで場所になじみもできたけれど、初回のその日はただぶらぶらと境内を見て回った。回ってみたら、どうやら「良縁を結ぶ」よりも「悪縁を切る」方にスポットが当たっているようで、いろいろな「縁切り」を願う絵馬が掛かっている。曰く、「××と別れられますように」だの「酒/煙草/博打と縁が切れますように」だの「今の会社を問題なく辞められますように」だの、そらあんたの問題や、自分で何とかせぇ。芸妓さんらしい名前で「三年間男断ち」と書かれているものもある。そうですか、それはそれは。「○○と一生関わることのないように」書かせた○○が悪いのか、書いたそ奴(いつ)が悪いのか、まぁそんなもん、どっちもどっちやろ。同じ内容で複数の連名になっているものもある。自分の名前を見つけたらイヤやな。「△△と□□が別れますように」ほっといたれ。これは男の書いたものも女の書いたものもあった。妬(や)くなみっともない。挙句の果てには「夫の浮気相手が死んでしまいますように」とすでに「呪い」になっているもの、さらには「夫もろとも」というのまである。願掛けするより丑の刻参りにでも行って来い。と、そんなのが一つではなくあっちにもこっちにもぶら下がっている。何が恐いって、世の中で一番恐いのは人間だってね。人の心の暗黒面が渦を巻いているようなところで、おもろいっちゃぁおもろい。ここは祇園から徒歩数分なので、食事をするにも映画を観るにも、その後で呑みに行くにも何かと都合が好い。京都といえども松の内を過ぎると神社参りの人出も随分と落ち着いているので、初詣でを名目に「新作」絵馬ウオッチングに出かけることもあった。みんなでなんのかんの言いながら絵馬に書かれている願い事に突っ込みを入れているうちに、絵馬を書いた方ではなく書かれた方に知った男の名前を見つけた。名指しで結構えげつない内容が書いてある。クリスマスに恋人と別れたという話は知れ渡っていたので、その場に居合わせた全員が考えたのが『あいつなにしやがったんや』ということ、同名異人の可能性などはコレっぽっちも考えてない。これは白黒はっきりつけとこ、ということになってその後の居酒屋に呼び出そうとしたがまだ帰省先から戻ってきてないのか居留守を使っているのか、連絡が取れない。「まさかひどく落ち込んで…」とか心配する者もないまま欠席裁判のようなことになって「とにかくあいつは了見がよくない」という結論に落ち着いた。

 そんな悲喜交交(こもごも)な人間模様に思いを馳せつつあらたまの年を寿(ことほ)ぎ、だだらに過ごすめでたくもありめでたくもない正月が終わると、もうじき後期試験の時期がやってくる。

*参考:安井金比羅宮公式サイト http://www.yasui-konpiragu.or.jp/index.html

さわらぬ神に罰当たりな行いを

2010-12-27 12:39:44 | 洛中洛外野放図
毎月25日は『天神さん』の縁日で、北野天満宮で市が立つ。下宿からも大学からも徒歩10分足らずで、しょっちゅう足を運んだ。下宿から行くときは中立売通沿いに今出川通まで出て(中立売通は七本松通を過ぎたあたりから北に向かって湾曲し、北野天満宮の正面で今出川通にぶちあたる)、正面の大鳥居から、大学からの場合は西大路から平野神社を通り抜けて天満宮北側の門から境内に入る。千本通沿いの市バスのバス停に、毎月25日には北野天満宮前を通るバスを増発する旨のお知らせが貼られ、最後は「せいぜいご利用ください」と結ばれている。京都では「せいぜい」という言葉が「目一杯」の意味をあらわすようで、使い方が面白い。毎月21日には東寺で『弘法さん』と呼ばれる縁日が開かれ、こちらはメディアでも多く取り上げられて広く知られているようだが、東寺は普段の生活圏にないので縁が薄かった。それよりも天神さんのほうが馴染み深い。

 平日は授業が済んでから午後遅く出かけたが、ごくたまにお昼休みに覘(のぞ)くこともあった。正面の鳥居をくぐる手前のところに大きな天幕が張られてテーブル席が並べられており、毎回そこのおでんとビールでスタートする。昼間のビールは効くので、平日の昼に連れ立った連中は一蓮托生、午後が自主休講となった。参道に沿って楼門まで、りんごあめだの焼きイカだの風船釣りだの、ごく普通の縁日屋台が並べられる。毎回お約束のように誰かが何かを食って、「なんかこんなところで食う焼きそば/焼きイカ/たこ焼き/その他諸々は不思議と美味い」かなんか言って、それか銀玉鉄砲とかシャボン玉とか、何すんだそんなもん、というものを買っている。この楼門をくぐると本殿があるのだが、楼門のところで東に折れ、参道の東側の店を見てまわる。そこと天満宮の東側に接する御前通に並んでいる露店が面白い。古着、古本、古い調度類、それらが渾然一体となって店ごとのジャンル分けがあいまいで、とにかく「古道具」を扱う店が並んでいる。中にはラッパのついた蓄音機、耳に当てて聞く部分だけ別になっていて本体に向かって話しかけるようになっている電話機など、店のおっさんに「ちゃんと使えるでぇ」と言われたところでソフトがない、モジュールが合わないといった理由で使い道のない家電を扱っているところもある。ある25日、忠馬だったか樽尾だったか、一緒に行った奴が道具屋のおっさんと火鉢の値段交渉をしていた。
「なんや、そんなん買うのん?」
「おぉ、お前の部屋に似合うやろ」
「わしトコかい!」
あぶないところだった。下宿の契約条項に石油ストーブを始め火気を使う暖房器具を使用しないことが盛り込まれている。すんでのところで契約違反をするところだったが、その前にあれだけ酔っ払いが出入りするところにそんな扱い慣れんもんを置いといたらどんなことになるか。「それもせやなぁ」一応納得してくれたようだ。

目を離すと何を持ち込まれることやらわからない。上着の襟首を摑んで引っ立てていった。その後も「あんなん似合うと思うねんけどなぁ」とかぶつくさ言っている。そら似合うけども、ちゅうかどっちか言うたらハマりすぎやけども、そういう問題とちゃうわ。ただしこれが自分の部屋でなく他人の部屋のことだったら、無理にでも買って帰っただろうけれど。

 明治、大正期の販促ポスターだとか、当時の日用品のパッケージやマッチ箱を額に入れたものを並べている店がある。当時はそういったものが復刻されたり、廉価な画集・写真集としてまとめられたりすることがまだ珍しかった。使われている字体や色使いなどが新鮮でほしい物も少なくなかったが、どれも結構な値段がするのでいつも物欲しげに眺めるだけだった。他に、店のおばちゃんによると「使わんほうがええ」そうだが、パッケージだけではなく缶入りの粉末歯磨きとか石鹸とか、昔の日用品そのものを売っているところもあった。その中に、鮮やかな青をバックに下着姿の女性のモノクロ写真がプリントされ、たぶん『カルミン』の商品ロゴと同じフォントで『衛生乳バンド』と書かれた箱がある。『ちちばんど』、身も蓋もない直球勝負の商品名にちょっと心がざわつきかけていると、横にいた裏鋤(女)が「つけてみようかなぁ」とつぶやいた。いややめときて。

 この縁日で竹久夢二の詩画集文庫の初版本や創刊当時の現代用語の基礎知識など、面白い古書をびっくりするような安値で手に入れた。ある日陶器を扱っている店で、食器類や壺に囲まれて白いゴジラがぽつんと立っている。大きさは30センチほど、純白と言うよりごく薄い灰色で、上薬がかかった焼き物特有ののめのめとした感じの光沢があって、見た目涼しげで上品なたたずまいがある。ゴジラなのに。その横手のかごにこれまたイイ感じのぐい飲みがごろごろと入れてあって、手にとってみるとしっくりなじんで呑みやすそうである。値段を聞くとゴジラが3,000円、ぐい飲みは元々揃いのものの一部で「3つ1,000円でええわ」だそうです。交渉の末、ゴジラの言い値でぐい飲みを3つつけてもらうことになった。「これ今はもう手に入らんモンやから」ゴジラを新聞紙で包みながらおっさんが言った「ニィちゃんエエ買いモンしたな」。その後メディアショップだかソニープラザだかに行ったら同じモン売っとったぞ。でも値段が5,000円くらいだったから、まぁ、よしだ。

 このゴジラが呼び水となったか、いつの間にやら我が家にはもう1体ゴジラが増え、本物の藁でできた蓑(みの)をまとった信楽焼の狸が大福帳を下げてボーとつっ立っている、福助がお辞儀している、なんかどっかの飲み屋で見たぞ、というものを含めて買った覚えのないフィギュア類が増殖していった。うちに来た奴がぽつぽつと置いて帰るらしい。どれも30cm~50cmくらいの大きさでかさばってしょうがない。テレビの上も本棚の上も統一感のないままいろんなものが所狭しと犇き合っている。エエ加減にせぇ。

 毎年12月25日は終(しま)い天神、1月25日は初天神と呼ばれる。落語『初天神』の中では「はってんじん」と発音されるが、同じ大阪でもキタの露天神社の通称『お初天神』は「おはつてんじん」と読まれる。人の名前だからか。京都では「はつてんじん」と言われていた。いつもより露店の数も種類も増え、参道は立錐の余地もないほど人で埋まる。両脇の屋台を取り除けたらヒトのバッテラができていそうで、とてものことに身動きが取れないのでこの2回は遠慮したが、学問の神様でもある天満宮は、年末年始にかけて受験生の参拝も多い。毎年、この時期のニュースで取り上げられる北野天満宮の盛況ぶりを見て、毎月のように通いながら一度も参拝をしたことがないと気づいて年の瀬を迎える。

Le Tour de Senbon

2010-12-09 08:59:44 | 洛中洛外野放図
 以前の京都をご存知の人に住んでいるあたりを説明すると、必ずといっていいほど『千中ミュージック』に行ってみたかどうか尋ねられた。千本中立売の少し北にあったストリップ劇場で、大学に入学する前年に火事があってなくなってしまったそうなのでどんなところなのか知る由もない。話に聞いてたぶんこのあたりだろうと思われるところをぶらついてみると劇場があって、看板には『薔薇族ショー』の文字、表の掲示板にはエナメルのホットパンツ姿のにいちゃんやらおっさんやらのステージ写真が貼ってある。扉の向こうには未知の経験が約束されているのだが、いかんせんその一歩を踏み出す勇気がない。思わず後ずさりをして横歩きのまま路地を抜けた。千本通の東側一筋目の細い道に出てみると1個20円から80円くらいで地鶏の卵をばら売りしている卵屋があって、同じ筋には銭湯もあったと思う。また千本通に面して小さな焼肉屋があって、その裏手の方にも小ぢんまりとした店が並んでいた。それらの店のどこに用があってもかまわないんだけれど、一時期、千本通から細い路地へと姿を消していく男の人を見ると、妙に勘繰るようになった。下宿の近所に古い食堂があって、ガラスケースの中に入っている惣菜をとり、ごはんと汁ものを注文する。京都風の淡い味付けで、値段は安くておいしいときた。ただし問題がある。物腰の柔らかいおじいさんが二人でやっておられるのだが、片方が柔らかすぎるのである。奥の厨房が見通せるテーブルがあって、料理人が調理をしているところを眺めているのは好きなのでずっと見ていると、仲睦まじい感じで立ち位置の距離が近い。もう触れ合わんばかりに並んで立ち、調理をしながら耳打ちをしてくすくすと笑い合ったりもする。どうやらめくるめく深い世界をお持ちの様子だったが、おちおちメシ食てられへん、ええ歳して客の前でイチャつきなっちゅうねん。

 下宿には個人の洗濯機があるが、物干し台が共同なのでそうそう独占するわけにもいかない。すぐ近所、六軒町通から一筋東の通りにコインランドリーがあって、洗ったものを持って行って乾燥機にかけた。その斜め向かいに千本日活という映画館がある。常時ロマンポルノを3本立てで上映していて、ビデオレンタルショップにいけばえげつないのがたくさんあるし、もっとえげつないのを持ってる奴もいたので今更ポルノ映画もないもんだが、入場料は文庫本1冊分くらいのもので、石井隆監督とか神代辰巳監督とか、名の知れた監督の作品は名画座でのリバイバル上映ともなるとその3倍ほどの値段を取られる。乾燥を待つ間何度か入ったけれど、平日の昼間でも必ず何人かおっさんがいる。中には営業の途中かと思われるスーツ姿もいる。桂米朝師匠の『あくびの稽古』の中に、横町(よこまち)に新しくできたあくびの稽古屋に付き合わされた男が、先生と連れの稽古を見ながら『世間の人みな働いてんねやで』とぼやくところがあるが、平日の千本日活がまさにその状態だった。

 さてこの千本日活である。松須先輩は豪放磊落を以て任ずる四国は高松の人で、若い頃には誰もが陥りがちな『漢(おとこ)』幻想を追い求めているようなところがある。入学から5月の連休明けくらいまでは連日のように新歓をしてもらって、何度目かのコンパの折にどういう経緯(いきさつ)があったか、松須さんが帆立の貝殻を握り割った。すると掌が切れて血が出てきたが、そのあと酒のあてがないとなったときに『ん、わしゃこの血ィなめもって呑むからええで』と言って自分の手をなめなめ杯を重ねていく。なんだかエライところに仲間入りをしたような気がした。ある朝学食横のソフトドリンクコーナーの前でうずくまる人がある。見ると松須さんで、青白い顔をして聞こえるか聞こえないかくらいの声で『うぅぅ』とうめいている。相当に呑み過ぎたというのは一目瞭然である。それはそうだ。その現場に同席していたんだから、こっちも少し大変なことになっている。放っておくわけにもいかないので声をかけると『うおう』と言って立ち上がり、『んっ、松ちゃんはもう大丈夫や、んぬははは』と言いながらいずこへともなく去っていく。口さがない石地先輩によると『実はガラスのハート』なんだそうだが、そのときもなんだかエライところに仲間入りをしたような気がした。松須さん主催で、1回生の『通過儀礼』があるという。躊躇する女の子も有無を言わさず参加させ、千本日活で映画鑑賞の後、千本通沿いの飲み屋ではしごするというセクハラまがいの『千本ツアー』がそれである。千本通沿いに全部で何軒あるのか知らないが、そう何軒も回れるものではなかろう。

 決行の日、自宅待機を命ぜられた。少し前に松須さんとか石地さんとか何人かの先輩が飲み会のあとウチに来たとき、『あぁ、お前の部屋はええなぁ、なんや落ち着くわぁ』といたく気に入った様子、嫌な予感がしないでもなかった。しょうがないので部屋でつくねんとしていると、石地さんが来る、会津さんが来る、宇津平さんから古邑さんまでやってきて、綿部さんもいただろうか、酒が持ち込まれ、あてが広げられた。電話が鳴ると誰が出たのか『OKですよ』とか答えている。誰や?『OK』てなんや?

 そんなことは一言も聞かされてはいなかったが、築数十年木造の元置屋が歴史遺産として千本ツアーに組み込まれたらしい。やがてがやがやと人声が聞こえて、『わっしやぁ』という声と共にノックの音がした。ドアを開けると松須さんを先頭に何人かの同期がヌボーっと立っている。ほかに学生はいない下宿屋の廊下で騒がれるわけにいかないので即座に招き入れたのはよかったが、いくら京間で間取りが広いといえども、たかだか三畳と四畳のふた間である。十人以上に入ってこられてははたまったものではない。それが思い思いに酒を呑み、だべり、タバコが切れたと言えば表の自販機に降りて行き、酒が切れたと言えば買出しに出かけるなどやりたい放題である。こっちも酒が回るにつれて、もうどうにでもなりやがったらええがな、てなもんでぐずぐずになっている。バスがなくなるまでに女の子を帰らせ、会津さんと古邑さんが嵐電の終電で帰っていって、そのあたりでお開きになった(と思う)ので、それほど深夜に及んだというわけではないが、始めたのがまだ明るいうちだった。何人かはぶっ倒れて雑魚寝状態となり、何人かはちびちびと呑んでいた。
「あぁ、やっぱりこの部屋はえぇなぁ」
「な、せやろ」
賃貸契約を結んでいる本人以上にくつろいだ先輩たちによる綿密な相談の結果、なぜか自分の部屋に自分のものではない酒がキープされることになり、以降わが家は先輩、同期、後輩と代々宴のあとで落ち着く場所として重宝されることとなる。そういうのは嫌いではないので結局卒業まで引っ越さずにいたが、防音など一切施されていない木造家屋でのこと、相当迷惑だったはずなのに叩き出されることもなく過ごせたのはありがたいことである。

ポンチとポール

2010-12-02 17:25:17 | 洛中洛外野放図
 最近はどうだか知らないけれど、京都の喫茶店ではほぼ確実に甘ったるいアイスコーヒーが出てきたので、『ガム抜き』を明言しておかないと後悔の臍(ほぞ)を嚙むことになるが、『無理です』と言われることも結構あった。何度目かで懲りたので、喫茶店では暑い時期でもホットコーヒーを飲むことに決めた。

 高瀬川のほとりのソワレはレトロを絵に描いたような店で、昭和23年開店というのでそれはそうなんだが、『ゼリーポンチ』という冗談みたいなメニュウがある。何が冗談みたいかって、グラスに注いだサイダーの中に1cm角くらいの、色とりどりの立方体のゼリーがコロコロと入れてあり、光を透かして見るとそれが綺麗なのだ。喫茶店にはコーヒーを飲みに行くので、同席の連れが注文すればそれを向かいで眺めているだけだけれど、甘いものは得意でないし、なんといってもぷにゅんぷにゅん、ぷるんぷるん、にゅるんにゅるんと形容できそうな食感は苦手なので、ゼリーなんどはもってのほかだ。あれは眺めておくメニュウである。そこから四条通を渡って南側に行くとフランソアがある。昭和ヒトケタから続くと聞いた。内装は豪華客船の船室を模してイタリアバロック調でまとめてあるというが、そんなことはわからないけれどもゆったりと落ち着いて過ごすことができる。河原町三条から少し下がった東側にある六曜社珈琲店も戦後間もない頃から営業しているという古い店で、一階と地下に店舗があり、夕方には地下がバータイムになる。マッチ箱のデザインがかわいらしくて、書かれている手書き文字の店名の『曜』の字は日偏に玉を書く略字になっている。自家製のドーナツがおいしいらしい。らしいというのは、喫茶店にはコーヒーを飲みに行くので、同席の連れが注文すればそれを向かいで眺めているだけだからだ。

 淳久堂だとか、今はもうなくなっているらしい河原町の丸善だとかに出かけて、ここの話になると大概の人が梶井基次郎『檸檬』の話題を持ち出して『果物屋を探した』と言う。モデルとなったのは『フルーツパーラー八百卯(やおう)』というところで、2009年に閉店された*1そうだが、買い物はしなかったけれど見物はした。ともあれ繁華街周辺の大型書店で近所の書店では扱ってないような本をいろいろと見て回ったり、メディアショップで細ごまとした買い物をしたり、骨董店Wright商会をひやかしたり、ここは喫茶もやっていて、昆布茶をたのむとかりんとうがついてきた。カルピスやアイスコーヒーには同じもので作った氷を入れてくれるので薄まることがなく、『最後までおいしい』らしい。らしいというのは―、もういいね。

 祇園会館で見たい映画がかかると、出かけたついでに上記のあたりその他をいろいろと物色してまわる。映画は一人で観ることにしていたが、たまに誰かと誘い合って行くことがある。または映画の好みの似通った人にばったり出くわすこともある。そんなときは『すんだらメシ食いに行きましょか』ということになるのだが、不思議と四条河原町近辺や新京極など、繁華街界隈で『食事』をしたという記憶はあまりない。おそらく夕方までぶらぶらして居酒屋に入ってお酒を呑んでいたからだろう。相手によってそれまでいろいろと散策をしたり、大学近辺まで戻って本腰を入れたりした。おかげでうわさに聞いた新京極ムラセの『わらじとんかつ』も食ったことがない。

 祇園会館の前から三条通に向かっていくと、左手、東大路通の西側に当時は何の紛糾もなかったハンドメイドのかばんメーカーがある。キャンバス地で丁寧に縫製されたかばんは飽きが来ないデザインで、20年近く愛用してもまだ現役で活躍しているほど頑丈にできている(それだけに現在の休業が惜しまれる)。さらに進むと同じ並びに古い木造家屋があって、南の細い通りに面した黒い板壁の、二階の高さのところにいくつか水車が引っ掛けてあり、その下には植木鉢だか火鉢だか、大きな焼き物の壊れたのやら壊れてないのやらが山と積まれていて、時代劇でしか見ないような木製の大八車も立て掛けられている。東大路通に面した玄関と思しき開口部の軒下には古ぼけたコートや着物が所狭しと吊るされ、柱時計もいくつか掛かっていようかという『混沌』の二文字を具現化したかのような古道具屋があった。ぶら下がっているものの重みでいつ崩れるかとはらはらするので、ここはいつも東大路通の対岸から眺めた。そのまま三条通まで行くとまだ地下鉄東西線の影も形もなかった頃で、路面を軌道が走っていた。それを渡って東へ3筋目を左へ、そのまま細い川に沿った小道を進むと、左側に国立近代美術館、その奥に府立図書館、右側に京都市美術館などがあり、その向こうに平安神宮の鳥居を眺めながら右に折れると岡崎動物園にたどりつく。

 何の目的があるわけでもなく、ただ動物を眺めによく通った。正面入り口を入って右側のキリンを見上げ、そのまま反時計回りに園内をうろつく。当時サル山は上から見下ろすようなつくりになっていて、元気に暴れまわるのを眺めていると『あぁ、そのとおりだ』という気になって、少々の気がかりなんぞはどうでもよくなってくる。ホッキョクグマのポールくん(当『洛中洛外野放図』では、私人については原則仮名としているが、動物園内の固有名詞はすべて実名である)は毎年夏になると『大津市内の会社員』から大きな氷を寄贈してもらって、それを抱いたままプールで泳ぐさまがKBS京都テレビをはじめ夕方のローカルニュースで映し出される。寒いところの出身者には京都の夏は気の毒なほどで、そのニュースを見てちょっとホッとしたりする。しかしその『会社員』も毎年毎年、ご奇特なことであったのだが、残念なことにポールくんは2009年に34歳で亡くなってしまったという*2。生前の彼は見に行くと必ずプールサイドで長ーくなっていた。この動物園で生まれたゴリラの京太郎くんと目が合うことが多くて、何度目からか『をっ』と声をかけられることもあった。威嚇されていたのかしらん。日中は隣同士のトラもライオンもやる気がない感じで、『オシッコを飛ばすことがあります』という、注意の仕様のない注意書きが立てられていた。同じネコ科でもなぜか離れたところに檻の置かれているジャガーのほうがずっと凛凛しかった。 たぶん午後2時ごろだったか、アシカのお食事ショーが見られたと思う。それから象を見て、最後はかばの継美ちゃんでシメた。でっかい図体して目がかわいいのである。ただしほかのかばとの見分けなんぞつくべくもないが。

 連れがあるときはここにたどりつくまでの間にどこで呑もうかという相談がまとまっていて、上記のルートの逆を辿って夜の巷へと紛れ込んでいくのであった。

参考 *1:http://www.news.janjan.jp/area/0902/0902016647/1.php
*2:京都市動物園公式サイトhttp://www5.city.kyoto.jp/zoo/