goo blog サービス終了のお知らせ 

センター突破 これだけはやっとけ 鳥取の受験生のための塾・予備校 あすなろブログ

鳥取の受験生のための塾・予備校  あすなろ予備校の講師が、高校・大学受験に向けてメッセージを送るブログです。

夏を喰らう

2010-11-24 12:44:22 | 洛中洛外野放図
 会津さんは自転車に名前をつけている。

「今日はBlacky 連れて来れなくてさぁ、こんな天気いいのに」何のこっちゃ?
「いつも一緒にいるのがいないと、なんか寂しいよね」
この人はなにか?犬かなんか連れて授業に出てんのか?
「今日は嵐電(らんでん)で帰んなきゃ」

今出川通を北野天満宮よりも西へ向かうと京福電鉄北野線の始発駅『北野白梅町』に着く。途中路面電車になる区間もある古い鉄道で、なんでも最初に四条大宮から嵐山に延びる嵐山本線が開通したのが明治43年とのこと*。本線から『帷子ノ辻(かたびらのつじ)』駅で北野線が分岐し、北野白梅町までが全延長である。線路の両側が桜並木になっているところがあって、満開の時期には覆いかぶさるような爛漫の桜色の中を走り抜けていくことになる。晴れた日は用もないのに乗っていたくなって、そういう時は運転席の後ろから進行方向をずっと眺めているのがいい。後ろ向きになって過ぎ去る桜を眺めているのも可。嵐山本線と北野線をひっくるめて『嵐電』の愛称で親しまれている。会津さんは帷子ノ辻から白梅町方面へ向かってひとつめの『常盤(ときわ)』が最寄り駅となる、とは聞いていたのだが。

「どういうことです?」
「なにが?」
「いや、その “Blacky” と『嵐電』が結びつかんので」
「え?あー、自転車よ自転車。わたしの自転車 Blacky っての、黒いからさ」
「名前つけてんですか?自転車に?」
「だって名前がないと呼びにくいじゃん」
呼ぶんかい。

 大学は京都市のいわゆる『碁盤の目』の北西のはずれなので、市街地を見下ろすような立地にある。敷地の端にある校舎はどれも、近隣住民が『見下ろされて不愉快』だというので屋上が施錠されているが、中のほうにある校舎は屋上に出ることができる。春の終わりの麗らかな、というより少し暑いくらいの日差しの中、屋上のベンチに呆けたように二人並んで京都の町を眺めている。何階建て以上だか知らないけれど、市の景観条例によって高い建物が建てられてないので視界を遮るものもなく、青いというより白く輝くような春の晴天の下、遠くのほうはすこし霞んで、全体的にぼうっとふくらんで見える。近いところにある屋根瓦が日差しを反射してぎらぎらとまぶしい。燦燦と降り注ぐ春陽のもと、何が面白いんだか面白くないんだか、愚にもつかない会話をしている。『自分の』だと思うと愛着が湧いて、名前を呼ばずにはいられないと言うので、お気に入りの筆記用具とかクッションとかの名前を聞いてみると『そんなバカみたいなまねはしない』のだそうだ。その線引きの基準は、なんだ?


 北野天満宮の東側、七本松通と今出川通の交差するあたりは『上七軒』と呼ばれる花街である。地元の人の発音を聞くと『七』は『しち』ではなく『ひち』と言うようで、由来を聞けば室町時代にまでさかのぼるらしい。この北側の七本松通と千本通の間は細い道が入り組んでいて、方々の家から機織(はたおり)の音が聞こえる『西陣織』の地元でもある。石地さんのところに用があり、普段なら今出川通から六軒町通を北に向かうが、大学からだったのでもっと北のほうから向かうことになった。このあたりは初めてだったので、大方(おおかた)の見当で歩いた。いわゆる『町家』というのだろうか、昔風の家も並んでいて、ちょっとした散歩気分である。細かく通りの名前を表示してくれているので路頭に迷う心配はないが、どこの角を曲がっても同じリズムで機織の音が聞こえてくる。入り組んで途中で途切れたりする狭い道を歩いていると石段があって、その先に公園があった。どこをどう行けば元の道に出られるかわかっているけれども、日が暮れかかってうすぼんやりと暗くなっている時に同じテンポで刻まれる音の中で、もうここを抜け出せないのではないか、どこにも帰れないのではないかいう気がして、切ないような、恐いような、理由がわからないまま足がすくんで、しばらくどきどきしたまま動けなかった。‘Blacky’ の件を聞いたときはどうしようかと思ったが、同じところで同じ恐怖を味わったと聞いてちょっと親近感が湧いた。飾りっ気のない人で、化粧っ気もない。後の就職活動中に大阪梅田地下街の化粧品セールスのお姐さんにどスッピンを見咎められ、とっ捕まって散々怒られた挙句、その場で就活用のメイクを施されたという。でも『やり方覚えてない』のでその後もスッピンで会社訪問を続けた豪の者である(これがまかり通ったのが『完全売手市場』といわれたバブル最盛期の就職戦線なのであった)。何かを説明するときの形容のしかた、言葉の選び方が巧い。好みの酒肴も合うことがわかって、京都在住歴の長い会津さんにいろいろと案内してもらうことになる。

 「普通に歩いてたらわかんないお店だよ」と教えてもらった。東大路通の西側、四条通から少し上ったところに『祇園会館』がある。二タイトル上映で入れ替えなし、中途退場自由という豪儀な名画座で、和洋を問わず幅広いジャンルを上映し、11月には『祇園をどり』の会場となる。南側の細い通りをはさんだ『光陽亭』はカレーととんかつがおいしい。東大路通に面した光陽亭の裏手にその通りと四条通の間をつなぐ路地があり、東側の建物の壁に柱時計がいくつも掛かっていて、そこが『山口大亭』の入り口になる。さすがにわかりづらいためか、いつの間にやら四条通側の路地の入り口に『←山口大亭』のプラカードを持ったおじさんが立つようになった。京の『おばんざい』をいろいろと楽しめる店で、メニューの幅が広い。ここで『鱧おとし』を初めて食べた。皮一枚をのこして等間隔に包丁を入れて『骨きり』をしてから湯引きした鱧の身はくるくるとまるまって、切られた身が開いたようになる。それを冷水で冷やして山葵醤油か梅肉で食べる。おいしいかというと、おいしいのか?魚の身そのものが旨いというのではない。冷水でしめてあるので口に入れるとひんやりと冷たい。口に入れた途端に梅肉の酸味で舌の付け根の両脇からつばが『ちゅっ』と出てくる。ぱらっと開いた身のほうがほろほろとした舌触で、口の中でもてあそんでから冷酒を含むといかにも『夏を喰った』という感じがする。いろんな人といろんな時期に行っていろんなものを食べたけれど、この感覚を一番好いているかもしれない。毎年寒くなると『来シーズンこそは』と思うのだが、夏の忙しさにかまけて長い間一度も夏を喰らってない。
*参考:嵐電HP  http://randen.keifuku.co.jp/

ことばのかべ

2010-11-08 11:47:15 | 洛中洛外野放図
イザスクライスト、ワズオン…」
見事なまでの関西イントネーションで高らかに読み上げられるのはディケンズ著『キリスト伝』。英書講読の担当は随分前に高校の英語教諭を退職されたという先生で、かなりのご高齢である。「なんとなれば、キリストわぁ」『は』の字では到底伝わらないであろうという音を出す。「なんとなれば」て、いつ時代の言葉やそれは。波乱に満ちた神の子の生涯がまったく別の様相を呈してきた。
「なんとここでドロボウに会(お)うたんですな」
原作の印象は微塵も感じられない。目の前のテキストの字面を追いかけているのだから、読んで得られるイメージと語りによって喚起されるそれとに大きな違いはないはずである。のだが、音を通して頭の中では、苦難の旅路が陽気な道中記と化してしまっている。なぜだ?『伝える』ことにおいて『語り』は重要な要素である。抑揚のつけ方、間の取り方、絶妙なタイミングで挿入される『なんと』、『ですな』といったことばの飾りなど、まさに流れるがごとくに『読み聞かせ』られる。思わず知らず引き込まれ、至高の話芸にハートを鷲摑みにされてしまった。原作者が夢にも考えなかったであろうリズムで展開する『キリスト伝』、毎週続きを聴くのが楽しみなのである。かつて多くの人々が講釈場に通いつめたというが、こういうことだったのか。受講態度として甚だ間違っている。間違ってはいるが仕方がない、なんせ鷲摑まれたんだから。

「なぁ、自分どこ住んでんの?」
「千本中立売、わかります?」
「千中、わかるよ」
「その近くでね、そこからちょっと西に入った辺」
「なんや、けっこう近くに住んでんねやんな。せやったらな、終電間に合えへんかったときとか、自分とこ行ってもええか?」
「あぁ、いいですよ」
 この場合の『自分』はちょいと硬派な一人称ではなく、二人称として使われており、対話の相手、つまり僕に向けられた呼びかけである。宇津平さん―断っておくがここで触れる人名はすべて仮名である。万一同じ苗字の方がいらしてもどうぞお気を悪くなさらないようにお願いします―は大阪守口市の人。しゃべるリズム、間の取り方、はずし方、『キリスト伝』と通じるものがある。お父さんはかつて門真市に展開する某大手家電メーカーの工場でかの池乃めだか師匠の同僚であったとかで、生まれたときから大阪の風土にどっぷりと浸され、発想そのものが大阪の舞台喜劇のそれになっているようなところがある。ひとくくりに関西弁といっても京都・大阪・神戸・奈良・滋賀・和歌山と、その土地土地で異なっていて、ことによると広東語と北京語くらいの違いはあるのではなかろうか。たまに『なんのこっちゃ』ということもある。

「あぁ、もう行かなあかんわ、悪いけどこれちょっとなおしとってくれるか」
資料を手渡された。
「直すって、これを?」市販の文献である。手の入れようがない。
「うん、置いてあった場所知ってるやろ、そこになおしとって」
そういうことか。

「『ありがとうございました』って言ったらダメなんだよ」
「は?」
「いや『ありがとうございました』って言ったら怒られるんだ、『おおきに毎度』って言えだって」
「なんでまた」
「お客さまに『京都に来た』って実感してもらわんてかんから、ちゃんと『おおきに毎度』って言えだと。マニュアルにも書いてあるんだそれ」
三河弁まじりに石地先輩が言った。石地さんは観光客相手の一時預け駐車場でバイトをしている。
「マニュアルて、ホンマですかそれ」
「ホンマやて、疑っとるんかお前。来たら見せたるて」
「行きませんよ」
「なーんぼ京都やて、こんな他所もんに言わせたって意味ないやろ、と思ったら『客も他所もんやからわからへん』やて」
「ええんかな、そんなん。でもなんかそれ、恥ずかしくないですか?」
「たりまえやないか。そんなもん、ふだん使わん言葉出てこんわ」

六軒町通を上る。今出川通よりもう少し北に行くと『千本釈迦堂』の名で知られる大報恩寺がある。木造釈迦如来坐像、木造十大弟子立像など、見ごたえのある仏像を所蔵するこのお寺は鎌倉時代の創建で、京都の観光案内サイト*によると『応仁文明の乱など度重なる災害(ママ)にも焼けることなく残』ったとある。さすがは『このまえの戦争で』というのが応仁の乱のことだとも言われる土地柄、タイムスパンがどこか違う。その大報恩寺の境内に隣接するアパートの一室が石地さんの部屋で、学生向けの物件は築何十年かの木造家屋とは違っている。ほぼ毎日のように大学周辺のどこかで酒を呑み、同席の誰かの家に行っては酒を呑んでいる。そこでほぼ毎回のように顔を合わせるのだけれど、今日も今日とてどこかで一杯引っ掛けたあと、お邪魔して酒を呑んでいる。

「そんでまた、近くに弁当屋があってやね、バイトんときは時々買いに行ってるんだ、したらそこのオバハンが声かけてくるようになって、それが『どーえー』やて」
「『どーえー』?」
「『調子はどうですか』ってくらいの意味みたいなんやけど、『どーえー』って、そんなもんどう答えていいかわからん、どおせぇっちゅうんや」
「どぉせぇ、言われても、ねぇ」
「いやお前にどうこうじゃないんだ、わからんやっちゃな」

 ちょっと気になった些細で瑣末なことに絡みついていくという呑みかたをする。とはいえ、『言葉のギャップ』についてはまだまだ経験不足な初夏の宵であった。

*参考:京都おもしろスポット http://kyoto.gp1st.com/600/ent30.html

春蕾記(しゅんらいき)

2010-10-29 17:35:37 | 洛中洛外野放図
松田先生のブログが殊の外好評でございます。

ここはひとつ、「連載をお願いしちゃおう!」ということで話を持ちかけたら、

快くOKしていただきました!

(「快く快諾していただきました」と書きそうになった。「頭痛が痛い」と同種の間違いですな)

バブルまっただ中、青春ドストライクの某青年が、京都で迎える風雲の一大スペクタクルをお見逃しなく!

題して「洛中洛外野放図」、はじまり、はじまり~



 東西方向の通りをX軸、南北方向の通りをY軸としましょうか。まず交差点を示して原点を決める。例えば東西の丸太町通と南北の千本通との交差点を「千本丸太町」とし、そこが原点となる。この際、どちら向きの通りを先に言うという決まりはなく、慣例に従うことになる。曰く「烏丸丸太町」「四条烏丸」など、ただし、それぞれ逆の言い方はしないので、信号機にとっついている地名表示だとか、バスのアナウンスだとかに従えばよろしい。そこからX軸のプラス方向なら「東入ル(ヒガシイル)」、マイナス方向なら「西入ル(ニシイル)」と言い、Y軸のプラス方向は「上ル(アガル)」、マイナス方向は「下ル(サガル)」、原則北を向いて考える。

 かつての朱雀大路に当たる千本通、現在は京都市街の真ん中より西よりの、メインストリートではないけれども主要道路の一つである。その一筋西が六軒町通、その西に七本松通がある。京都御苑の北端に接し、そのずっと西で南面する北野天満宮の前を通る今出川通から南に元誓願寺通、笹屋町通、一条通と細い一方通行の通りが並び、中立売通、仁和寺街道と続く。

 仁和寺街道六軒町西入ル下ル、ここを住処に決めた。後で仁和寺街道七本松東入ル下ルとしても郵便が届いたところをみると、どうやら固定した住所表記ではなくやはり座標で考えられているらしい。北野の歌舞練場からそれほど離れていない千本中立売を中心とした界隈は以前西陣京極と呼ばれていた(だから現在繁華なアーケード街が『新』京極なのだそうな)殷賑(いんしん)な遊興街であり、六軒町通を中立売通から南へ向かっていくと遊郭が並んでいたという。当時の建物がいくつか残っていて、その西側、細い露地の入り組んだところに以前置屋だったという建物がそのまま建っている。置屋とはいわば芸妓の派遣所で、客を遊ばせるところではないそうだが、築数十年の木造二階建て、使い込まれた階段も廊下も黒光りをしていようかという日本家屋である。二階は廊下をはさんで東西両側に部屋が並ぶ。北側の端は一畳分押入れになっていて、その手前の一畳の板の間、つまり幅一間の廊下の突き当たりの部分を扉で仕切ったところ、の右手に当たる東側には四畳、左手の西側には三畳の部屋。京間の上にそれぞれ東・西向きに開口された出窓の下は30センチほど板張りになっているので広々としている。天井は網代(あじろ)編みになっていて、東側の四畳の部屋には床柱がそのまま残っている。おそらく以前は作り付けの違い棚か何かがあったのを取り払ったのだろうが、一階からぶち抜きになっている柱を取り去るわけにはいかない。諸々完備のワンルームマンションが林立する中、風呂なし、トイレ・炊事場共同で照明は潔く裸電球であるという、いわば劣悪な条件を丸呑みにしてまでここを選んだ、というのは元置屋とは知らないままに部屋の様子に一目惚れだったのである。その条件のおかげで家賃が破格に安いのも有難い。

 西側が建物の表になる。仁和寺街道から3mほどの高低差があって、かなり勾配のきつい坂になっている幅2m強の狭い道路を挟んだ向いに老夫婦の営む旅館がある。営業している風でもなかったが、夜になると看板に灯りが入ったところを見るとやっていたのかもしれない。この旅館の脇に桜の木が立っており、生い茂る枝葉は通りを横切って向かいの塀の中にまで伸びている。ということは自分の部屋の西側の窓を開けると目の前の、手の触れられるほどのところで桜が満開となるわけだ。引っ越してきたのが三月の終わりで、西の出窓に腰掛けて膨らみつつある蕾にわくわくした。

 挨拶に回ってみると学生は他に一人もおらず、場違いな感じがしないでもない。

 入学式まで何日かあったので、荷物の整理をしながら方々をぶらぶらとみて回って過ごした。自転車があれば京都市街のいわゆる『碁盤の目』を端から端まで動き回るのも容易い。大学方面に行くには、近くにあるお寺の境内を通り抜けると近道になる。ここは広々とした公園になっていて、ちょっとした遊具がある。数ヵ月後には酔っ払った挙句夜中にここのジャングルジムの中に絡まっているのに気づくことになるのだが、それはまた別の話。おおむね色々の位置関係をつかみかけた頃、ここでよく見かける老人と会釈を交わすようになった。どこか古今亭志ん生に似ているそのおじいさんはいつも和服姿で、ステッキにあごを乗せるようにベンチに腰を下ろしている。ある日珍しく午後早い時間に銭湯に行くと、湯船にその人がいた。挨拶を交わして体を洗っていると、しばらくして湯船から出てきたその体中に、彩も鮮やかに花札が散らばっている。不意を突かれたようになってちょっと驚いたが、そう、ここは西陣京極である。往時は浮名を流された御仁なのだろう。

 風呂上りに桜の蕾を眺めてぼんやりしていると、ノックの音がした。出てみると一番古くからここに住んでおられるというおばあさんで、サイダーを飲まないかと言う。気を使って様子を見に来てくださったようだ。
「ほなちょっと、取りに来てくれるか」
部屋についていって、サイダーを受け取るときに聞いてみた。
「この辺は、古い建物とか多いですね」
建物の由来はこのときに教えてもらった。そのほか色々と話をうかがった。
「そらあんた、にぎやかなところやったからなァ、そういう兄さんも結構多かったんやで」
そういう兄さん…
「そんなんがナ、なくなった後もナ、夜中に喧嘩の声やらしょっちゅうやったし、パンパーンて聞こえることもナ、あったけども」
『パンパーン』って、何の音?
「まぁそんなんも、十年よりももっと前のこっちゃって、いまは静かーなところです、んン」
へぇ。
「まぁなんか困ったことあったら、いつでも言うてナ」
お礼を述べて自室に引き下がった。

 かくしていろいろな意味での不安とともに、京都での生活がスタートした。