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センター突破 これだけはやっとけ 鳥取の受験生のための塾・予備校 あすなろブログ

鳥取の受験生のための塾・予備校  あすなろ予備校の講師が、高校・大学受験に向けてメッセージを送るブログです。

わらしべポーチ

2011-06-22 07:15:24 | 洛中洛外野放図
 当時千本丸太町と北野白梅町にも新京極に本店を構えて京都を中心に滋賀、奈良にまで展開するCDショップの支店があって、下宿からの距離はどちらとも似たようなものだったので平日大学の行き帰りには白梅町、休日には千丸、という感じでよく覘(のぞ)いていた。オリジナルのものかどうかはわからないが、一時期そこで買い物をすると品物を往時のロックやジャズのLPジャケットをモノクロでデザイン処理したプリントを施してあるジッパー付きのポーチに入れてくれた。

「お腹が減ったら納豆と干しぶどう以外は何でもおいしいです」

 好物を尋ねられたときの宝饒さんの玉言である。宝饒さんのイメージはロックとプロレスの人、ちょっと慌てたような喋り方をする、引き込まれるような素敵な笑顔の人。あるとき佐川さんから宝饒さんの下宿で呑む、その際にいま一番お気に入りのCDを2枚持参すること、というお達しが来た。各自が持ち寄った音楽を鑑賞し、それについて評しあうことでお互いの音楽の守備範囲を広げようと。ただ何のことはない「こいつ何を持ってきやがるんや」という興味本位の探りもみえみえなその企画に、確かジェフ・ベックの何年か振りに出したばかりのインストゥルメンタルアルバムとマリリン・マーティンのファーストを持って行ったように思う。あとの参加者は判然(はっきり)としない。栄地もいたか。さて始めるか、となって持参のCDを宝饒さんに渡す。
「おっ、ストーンズやんけ」
宝饒さんが食いついたのは持って行ったCDではなく、それを入れて行ったポーチにプリントされた “december’s children” のジャケットデザインだった。

 呑み始めてしまうともう『鑑賞する』も『評する』もない。大きな声で喋るわ笑うわ、各自選りすぐり(のはず)のとっておき(たぶん)が単なるBGMに成り果ててしまっている。その間も宝饒さんは思い出したようにポーチを手に取っては「ええなぁ」と眺め入っている。とうとうこらえきれなくなったらしく「あー、ええなぁこれ、松田、これおれにくれへんけ」と思いの丈をぶつけてこられた。こちらとしては何の異存もない。「いいですよ、それ置いていきますからどうぞ」「ほんまけ?ほんまにええんけ?いやぁでもなんか悪いやんけ、ほんまけ?」引き込まれるような笑顔で早口に畳み掛けるそのリアクションにお人柄がにじみ出ている。この人はとことんいい人だ。だけどここまで言われるとどことなくこそばゆい。
「宝饒、よかったやんけ」「おお、嬉しいわぁ、なんか礼せんとあかんなぁ」「ほんまやで」
佐川さんも一緒になってなんだか妙な感動モードに入っている。いえいいんです、CD買ったらもらえるんですそれ、そんな大袈裟なモンとはちがいますよー!
かえって困るちゅうんだこれ...で、結局「ちょっと多めに注いでもらう」ことでケリがついた。

 後日、大手レコード会社に就職した宝饒さんから電話があった。「今度お前の好きそうなCD出すことになってな、余分のデモ送ったるわ」とのこと、卒業後まで気にかけて思い出してくれるのを嬉しく思った。住所を伝えて何が来るかと待っていると、宝饒さん名義の封書の中に入っていたカセット・テープのラベルには『浪速のモーツァルト』と称される作曲家の名前が大書してある。思わず小躍りしてしまった。

 テープの中身は関西圏で生まれ育ったテレビっ子にとっては体に染み付いているような、関西圏以外のテレビっ子にとっても聞き覚えのあるような番組テーマ曲やCMソングが目白押しで、聞かせた奴らのほとんどが懐かしがり、欲しがった。聞かせたこっちは『どうでぇ』てなモンである。宝饒さん、ありがとう。とはいえCD2枚組み作品集のすべてが入っているわけではない。今となってはまったくもってその必要もなかったように思われるが、先のCDショップチェーン白梅町店で「取り置き」をお願いするという暴挙に出た。
「モーツァルトですか?」
「『浪速の』モーツァルトです」ことのわからないバイト店員にヤキモキしたものである。

 CD入手後しばらくの間は貸せのよこせのちょっとした争奪戦状態だったがやがてそれも沈静化し、とはいえ松田の下宿で呑むときは決まって中の誰かが聴きたがり、最低1回はかかるようになっていた。みんな「またかいな」という態度を取っていてもそれぞれの『ツボ』に差し掛かると必ず歌でもメロディーでも小声で口ずさんでいる。刷り込みっておそろしい。

 時は戻って “december’s children” のポーチが宝饒さんの手に渡った頃のこと。手元にはこれとビル・エヴァンス・トリオの “Sunday at the Village Vanguard” のものが複数枚ずつ、他にもいろいろとデザインがあったのに、どういうわけかどの店で買い物をしてもこの2種類にしか入れてもらえない。まぁ自分で選ぶシステムではなかったし、CDサイズで『容れ物』としての汎用性に乏しいものなので「CDを貸し借りするときにちょっと便利」な代物でしかなかったのだけれど、もう一人これに食いついてくるのがいた。ビル・エヴァンスのものを見た栄地が「いいな」と言ったのである。イメージ上彼は自分を含めた知人の中で『物欲』から一番遠く離れた所にいたので、ちょっと意外な感じがした。
「ええよ、じゃぁ、やるわそれ」
「え?ええんか?お前の分あるんかいな」
ちゃんとある。何枚かある。なくても、スマン、俺にはそれほどの思い入れはない。軽く押し戴くようにして「感謝」と言う栄地の姿は本当に嬉しそうだった。

 自分にとっては『買ったCDの付きモン』に過ぎないようなもので宝饒さんと栄地という「なんだか惹かれる」男たちに大層な礼を述べられ、ものすごく得したような、なんだかちょっと後ろめたいような気がした。

夜を歩く

2011-06-21 14:14:33 | 洛中洛外野放図
 むき出しになった裸電球の周りを飛び回る小さな蛾が時折電球にぶつかって、その小さな音がキンキンと高く響く。夏になる前の少し暑いほどの夜のことで東西両側の窓は開け放してあるけれど、風がないのでトロっとした空気が動かない。電燈の黄色味を帯びた灯りに照らされた部屋の白い壁がクリーム色にぼうっと光を発しているようで、自分のいる部屋の中が明るい分、真ん中から左右に張りあけた窓のガラス障子の間からすだれ越しに見る外の闇は余計にとろりと濃密な感じがする。間に一畳の板の間を挟んだ向こうにある西向の三畳間は照明を消してあって、真っ暗な奥行きがどこまでも続いてそっちの方から窓の外と同じ黒がじわじわと浸み出してくるように思われる。

 日の暮れかかる頃から本を読み出して、いつの間にやら夜半を過ぎている。その間何も口にしていない。冷蔵庫は空だし、何の買い置きもないのでとりあえず出かけてみることにした。部屋の電燈の下にいると気がつかなかったが、外に出てみると月が朧に出ていて周りがほんのりと蒼味を帯びている。屋根瓦が青白く月の光を反射する色が好きで、しばらくは行き先を定めずに月の光を感じられるよう、ぬめぬめと濡れたような光を反射する屋根瓦を眺めながら街灯の少ない細い道を歩いた。夜の空気は夏の気配を孕んで肌にまとわりつくようにねっとりと感じられる。

 北野の杜の辺りでは木立のシルエットで夜の色が深い。歩いていると動きのないむしむしと暑い空気の中を掻き分けているような感じがするけれど、上のほうでは風がある。揺れる梢がざわざわと音をたてて一塊になって動くさまを見ていると夜空よりも深い夜の黒が少しずつ膨れ上がっていくような、そのまま下へ降りてきて取り込まれてしまうような感じがする。繁華なあたりの終夜営業の店に行く気にはならなかったが、少し呑みたい気分ではあった。何が潜んでいるといわれても信じてしまいそうな黒い梢を見上げながら天満宮の東側の御前通を北へと向かう。樽緒の部屋を覗いて、起きていれば上り込むか連れ出すか、時間が時間なだけに電話をかけて起こしてしまうのも悪いし、それよりも起こしてしまうと呑まなければいけなくなる。奴が寝ていたらそれまでのこと、どうなるかは行ってみないとわからないという状態にしてアパートの裏手に回った。樽緒の部屋は真っ暗で、その上の少し知っている奴の部屋も真っ暗で、それならば仕方がない、月を見ながらぶらぶらと帰ろう。

 腹が減っていたし、ちょっとだけ呑みたいような気分だった。かといって牛丼だとかコンビニ弁当というのも気が進まない。お酒中心の店に行くほど呑みたいとも思わない。天満宮と向かい合う警察署の裏手にあるラーメン屋がまだ暖簾を出していたことを思い出して、まだやっているかと今来た道を逆に辿った。

 その店の面している一条通は『百鬼夜行』の通り道にあたっていたそうだ。京都の夜の心象は、他のどこで過ごしたことのある夜よりも暗い。もちろん、明るいのである。いろんな灯りに照らされて明るいのだけれど、その灯りから外れたところの闇は透明感のない深い黒で、明るいところから見ていると何やら得体の知れない気配のようなものがわだかまっているような感じがする。具体的に何かが居るというのではなくてあくまでも気配のようなもの、「何かがいる」と言われれば「あぁ、そういうこともあるかもなぁ」と思えそうな、『何がいてもおかしくないかも』という程度のものでしかないけれど、これは京都という土地についての知識をもとに他所から来た一時的な居住者が勝手にイメージするもので、そこに根付く生活者の持つ感覚ではないのかもしれない。とはいえ、元元『百鬼夜行』とはそんなものに形を与えたもんじゃないだろうか、とも思う。その頃の闇は今となっては想像もつかないほど深く濃いものだったろう。その中にある目には見えない密やかな感覚に「付喪神(つくもがみ)」という物語を与え、日用雑器類をもとにキャラクター化していったヒトの想像力を凄いとも羨ましいとも思う。ただ一度キャラクター化されてしまうと、それが先行してしまうと元元の「『何か』の感じ」とは乖離したものになってしまって「キャラクターを追いかける」ことにしかならない。その夜の徘徊は多分、そんな「キャラ化以前」の感覚を弄んでいたかったんだと思われる。

 とはいえその時にそんな「七面倒臭ェ」ことを考えていたわけではない。ともかく腹が減っている。目指すラーメン屋は閉店ギリギリだったけれど、幸いまだ入れてくれた。他に客はいない。この店には『白梅麺』と『紅梅麺』というメニューがあって、それぞれのトッピングはかしわと豚肉、それに梅肉を添えてある。白梅麺を注文したように思う。ビールどうするか、などと思いながらラーメンをすすっていると、新聞を読んでいた店主がやおら話しかけてきた。

「京都は全国の都市の中で一番緑が少ないんやて」
「???」

それまで何度かお邪魔したことがあって、客が一人だけの時もあったけれども話しかけられたのは初めてのこと、しかもその話題が『京都市の緑地面積』というのでなんとなく面食らった。それでも御所とかそこの天神さんとか、緑は多いんじゃないですか、と訊くと「一箇所に集まっているから多いように見えるけど、全体との面積比でいくと一番少ない」ことを教えてくれて、東京とかの方が少ないように思うんやけど、不思議やろ、と続いた。どうやら新聞かニュースかでそのことを知って、なんだか釈然としなかったらしい。望みもしない『京都市トリビア』と白梅麺で何となく一杯になって店を出た。腹はくちくなったが熱いラーメンを食べて汗になり、余計に夜気がねっとりとまとわりつく感じがする。上七軒まで戻ってコンビニでビールを買い、部屋に帰って飲みながら本の続きを読んでいるうちにだんだんほの明るくなってきて、すだれの向こうのとろりとした闇も薄らいできた。夜明け前には少し涼しくも感じられたけれど、それでも日が昇ってしまうとまた蒸し暑くなるんだろう。

*参考:大将軍商店街 妖怪ストリート http://www.kyotohyakki.com/web_0317/top.html
現在この商店街は「妖怪」をテーマにしていろいろと企画展開をしている。

番外編 20回記念近況版

2011-06-08 08:29:18 | 洛中洛外野放図
「もしもーし」
「あい」
「今どこ?」
「京都タワーを正面から眺めてます」
「私も見てるけど、松田いるぅ?電話してそうな人見えないよ」
「頭にタオル巻いてんのが俺」
「お、見えた!」
およそ18年ぶりの会津さんはまったく印象が変わらないが、歳相応な感じになって、なんだかかえって格好良い。上手な年齢の重ね方をしたんだろう。

発端はこうだ。桜の開花もうやむやだった今年の中途半端な春先、会津さんとのメールが京都のお気に入り桜スポットの話題になり、やがて『行きたいねぇ』という話になった。同時期に石地さんと京都で呑みませんかというやり取りをしていて日程を詰めかけているところだったので、じゃぁ一緒でいいじゃねぇか、と気づいて予定を伝えた。会津さんの参加が決まってからふたりの『行きたいところリスト』の作成が始まり、『りゅうせん17:30』の約束までにいろいろ回れるよう、早めに京都入りすることにした。この時点ではふたりともいろんなところに行く気満々である。

 まずは腹ごしらえをと、とりあえず四条烏丸に出て界隈をぶらついた。錦市場を抜けて新京極、寺町京極と繁華街を歩き回って「あー、こんななっちゃったんだ」「変わったなー」「変わらんなー」と、あてもなくただ喋るのに忙しい。ふたりともはじめて見る御池通の地下街を通り抜けて河原町通に出て、創業80年という老舗の広東料理店の前を通りかかった。店名のカタカナ文字を中国服のおっさんの横顔に見立ててあるとてもよくできたロゴに惹かれて店内へ。「生中ふたつ」そこからかい。結局食べるものもそこそこにジョッキで二杯ずつ、『お昼を食べて六曜社でゆっくりとコーヒーでも』というはずが、ビールでお腹がたぷついてそれどころではない。イイ感じで喋っているとホテルにチェックインできる時間になったので、ひとまず荷物を置いて身軽になることにした。

 一括で予約したので隣り合った部屋の取れたホテルは京都御苑の西側、烏丸通に面している。季節はずれの台風のおかげで雨にけむる御所の緑は、濡れて黒くなっている幹とのコントラストが強まることでより勢いを増して見える。それにしても、雨だ。下鴨神社、糺ノ森に行きたかったのだけれど、この雨ン中森を歩くのもなぁ。なのでふたりとも行ったことのない晴明神社に行ってみることにした。ホテルの北側にある護王神社の前を通って、下立売通を西向きに折れて堀川通へ。ここは名前のとおり小さな川が流れていて、道路からその川っぺりに降りて、川沿いを歩く道が整備されている。「へぇ、こんななってんだ」「ここはバスでしか通りませんでしたからねぇ」「そうだよ、ここ『バスの道』だもんね」こと京都に関して、このふたりは自己中な世界観しか持ち合わせていない。堀川通を北上すると晴明神社に辿りつく。着いたところでどうということはない。「ご利益求めるところじゃないよね」とか言いながら形だけ拍手を打って、境内と隣にあるグッズショップを素見(ひやか)しておしまい。式神送り込まれても知らんぞ。

晴明神社の北を通る元誓願寺通で西に折れ、続く家並を観察しつつ千本通に抜ける。千本通を南下して行くと粋棟さんも御用達だった乱雑な新刊書店は健在で、居酒屋『神馬』を尻目に殺して中立売通を渡り、「皮膚が硬い」とイチャモンをつけられた理髪店を通りすぎて仁和寺街道を右に折れると寡黙なおじさんの理髪店も、体中に花札を散らしたおじいさんに驚いた銭湯も新しい建物に変わっていたが、見慣れた看板もちらほら見える。「あ、あそこ、千本日活」「おぉー」という会話をはさんで七本松通の一筋手前を左に折れて坂を下る。老夫婦の営む旅館と桜の木はなくなっていたけれど、西陣京極全盛時に置屋として建てられた築数十年の木造家屋はそのまま建っている。
「あー、ここだぁ。松田の部屋ってどこだっけ」
高いレンガ塀越しに見上げる北側の部屋の窓にはサッシが嵌(は)められている。変わっているのはそこのサッシとエアコンの室外機が置いてあることのみ。よかった、これでもう真冬の死ぬほど寒い外気も、真夏のゲル状のまとわりつく空気も怖くない。「あのちっちゃいおばあちゃん、まだ住んでるかな」「いやぁ、さすがにもうご存命じゃないでしょう」「そうだよねぇ。入ってもいいんだろうか」「まずいんじゃないですか」などと言いながら、二人とも結構嬉しくなっている。

 坂を上って七本松通に出て右折、中立売通で左に曲がって道なりに進むと今出川通に向かって北向きにカーブする。カーブを曲がりきったあたりで病院の看板が見えてくる。

「あそこですよ、俺が顔面縫ってもらったとこ」「なんか覚えがあるよ、私とか石地君も顔が腫れてる松田の前でお酒呑んだよね」「うん」「なんか溝に突っ込んだとか聞いたような気がすんだけど」「さんっざんアホ呼ばわりされました」「結局原因わかんないんでしょ?」「わからないんです」

言っているうちに北野天満宮の鳥居をくぐる。境内には修学旅行の団体が何組か、せっかくの京都なのに、こんな台風の雨降りでかわいそうだね。参道を外れて御土居に登る。石畳ではなく土になっているので、足もとが悪いことこの上ない。革靴の会津さんには気の毒なようだったが、そのまま紙屋川を渡って細い歩道へと抜ける。「ここですよ、静かでいいでしょ」「うん、いいね。いいとこだね、でも雨がさぁ。天気のいいときにゆっくり歩きたいよね」そう、そぼ降る雨の中、足をびしょ濡れにして歩き回る40代がふたり、ここにいる。

 そのまま懐かしのお馴染みの北野白梅町を北上して平野神社の手前を西へ、上立売通を進んでいくと大学の東門に着く。とうとう『碁盤の目』の西側半分の距離を歩ききってしまった。門のところに誘導員のおじさんがいて、部外者は入れてもらえないのかと思ったが、広告のキー・ヴィジュアルに使われる時計台のある建物の裏手は墓地になっていて、キャンパス内はその参道としても使われている。そんなところが部外者を締め出すはずもないか。

 グランドがない!知らない建物が犇き合ってる!何だこのホテルみてぇな建物は!
「こんなとこ入学したら迷子になっちゃうね」
というくらいにデザインに統一感のない新しい建物がゴテゴテと立て込んで、なんだか狭っ苦しい。屋上のベンチで京都の町を見下ろした建物は研究棟になったらしく、セキュリティーカードがなければ屋上はおろか校舎に入ることすらできない。しばらく来ない間に大変な様変わりをしている。
キャンパス内の掲示物や表示などに大学のロゴが入っているが、漢字を使った本来の大学名ではなく赤地に白抜きでデザインされた英字ロゴになっている。
「このクラッカーの商品名みたいな愛称、止めるヤツいなかったんですかね」
「ねぇ。いつの間にか勝手に決めちゃってさぁ、卒業生にはひとっ言の相談もなしだよ」
「まったくです。俺んとこにも何もなかった」いやいや、相談されてもどうにもなるまい。

「あーっ!」「おーっ!」「でーっ!」

三人が同時に声を上げた。ちなみに最初のが会津さん、最後のは松田である。向こうから歩いてくる妙に恰幅のいい、白髪交じりの、赤いラガーシャツの男性は会津さんと同期の仁多苑さんだった。

 実は今回松田の方から石地さんに京都で飲みませんかと声をかけたのだが、その後石地さんが方々に連絡を取ってくださり、大阪在住の仁多苑さんと佐宗さんも参加することになっていた。店の手配をしたのも石地さんで、言いだしっぺの後輩が先輩に幹事をさせてしまっていたのである。参加者のことはちょっとしたサプライズにしようと思って会津さんには内緒にしていたが、こんなところで出くわすとは…
「おおなんや、大学に似合わんオバハンとオッサンが歩いとんなー思ったら、会津と松田やんけ」
「オバハン言うな!」そう、『もっとオッサン』に言われたくはない。
「らくちゃん、久しぶりー!」
なんでも学生時代よくキャメルのスタジャンを着ていたので『らくだ』なんだそうだ。

三人連れ立って南門を出て、途中の店にいちいち学生当時のコメントをつけながら、会場となる『りゅうせん』のすぐ裏に当たる嵐電龍安寺駅に向かって坂を下った。龍安寺駅に着いたのが17時を少しだけ回った頃、約束の時間には随分と早いが仕方がない。石地さんに到着メールを打って店の前の路地で待った。しばらくだべっていると、向こうの路地を曲がって来た人の歩き方に見覚えがある。歩き方どころか着ている服装のイメージも髪型も、当時と何ら変わるところのない石地さんだった。
「なーんでお前がここにおるんやて」
開口一番それか。
会津さん以外の参加者は、前日石地さんから開始時刻・会場・会場の位置・参加者を詳細に記したメールをもらっていた。行き届いた人だと思っていたが、どうやら違っていたようだ。学生時代から遅刻の多かった仁多苑さんに「こんだけ送っとっても遅れて来るんかお前は」というひと言が言いたかったらしい。別の意味で周到な人だ。

雨は降るし、店の前で立ち話もナンだ、というので、少し早いけれども店に入れてもらった。店内も、おばちゃんも変わらない。ご無沙汰してますと挨拶をすると「まーまー、あららら」と、どうやら覚えてくれていたらしい。そりゃぁ、夜中に顔面を割って血だらけになって入ってきた奴はなかなか忘れられないだろう。テーブルに着くとき石地さんが言った。
「途中で見たら林寮なくなっとったわ」
「林寮って?」
「松須の住んどったアパートや」
「なんやお前、わざわざ気になって見て来たんかい?」
「いや線路沿いだったやないか、途中見えるちゅうの」
たぶん、わざわざ見に行ってる。早いけど始めようかと話していると、石地さんの電話が鳴った。
「佐宗10分ほど遅れるって」「なに佐宗も来んの?」「うん、あと宝饒もギリギリまで調整したけどあかんかったて」「宝饒くんって、今どこ住んでんの?」「東京」「なに東京から呼んだのぉ?」
そうなのである。調整がついたらわざわざ東京から来てもらうことになっていた。ふとした思い付きがかなり大仰なことになってしまって、メンバーの中で一番の後輩としては申し訳ないような…

 そうこうしているうちに佐宗さん登場、まずテーブルの上に i-Phone をドカッと置いて、うっすらとはえている石地さんの口ひげを指差し「何?ちょっとでもエラそうに見せようって?それ」とまずはひと言。あぁ、佐宗さんだ。

 仁多苑さんはずっと生中を呑み続け、佐宗さんと松田は生中に次いで熱燗を二合徳利で、途中まで瓶ビールを呑んでいた石地さんも熱燗を呑み始めて、徳利の数は10本ほどになっている。会津さんは生中のあと、ビールと同じような色をした、炭酸よりもウイスキーの刺激の方が強いハイボールを呑み、そのあとは焼酎ストレートの味しかしない「焼酎をソーダで割ってレモン入れたヤツ」を呑んでいる。名前がついていないのはメニューに載ってないからだ。カウンターの一番近くの椅子に座る佐宗さんか松田が、お代わりの度に「焼酎をソーダで割ってレモン入れたヤツ!」と叫ぶ。「同じものを」と言えばいいのに、その判断もできなくなり始めているらしい。それはそうと、これ何回叫んだ?みんな一軒目で結構な量を飲んでいる。酔った頭でなんとなく違和感を覚えた。

 いい感じで出来上がったところで店を変えようということになり、石地さんは会計時にタクシーを2台呼んでもらった。どこへ行くのか訊ねると『三条木屋町』という。木屋町通は鴨川の1ブロック西、碁盤の目の東端に近い。出発点は西のはずれで、ほぼ反対側に移動することになる。
「どこいくろー」「三条木屋町だそうです」「んー」おぼつかない足取りでタクシーに向かう会津さん、タクシーに乗り込もうと身をかがめたときにそのまま転げそうになっている。慌てて介助したが、そらあんなに濃いハイボールと酎ハイを立て続けに呑んだらそうなるわな。介助しながら会津さんとふたりで乗ることになったが、走り出したら「どこいくろー」「三条木屋町」「んー」と聞いたような会話を繰り返し、そのまま寝てしまった。三条木屋町までに何度か寝言を聞き、もう一度聞いたような会話を繰り返した。

 大学の近くに松須さんがバイトしていた『ん』という居酒屋があった。身内が呑みに行くといろいろサービスで持って来てくれたが、それを自分で呑んでしまう。客よりも先に酔っ払うバイトだった。今はもうその店舗はなく、同じ系列の木屋町店に入る。そこでもひとしきり呑み、食い、喋っている。今度こそ宝饒さんをつれてくる、だの、古邑さんは北海道だけどもうすぐ本州に戻ってくるから呼べる、だの、この企画は続行されるらしい会話があったのは覚えている(どっちの店だったか覚えてないが)。会津さんと佐宗さんはなにやら辛辣な口調で言い合っているかと思ったら、その矛先を残る三人に向けてきたりする。ここらあたりに来て『りゅうせん』で感じた違和感の見当がついた。「違和感がない」ことだったのである。目の前で展開される酔態は、自分の酩酊感を含め、築数十年木造元置屋の二階北側の部屋で眺めていた様子・感覚とまったく変わらない。ほぼ二十年ぶりに再会したことに対する戸惑いだとか、感慨だとか、そういったものはまったく、微塵も、これっぽっちも、『ビタ一文も』見受けられない。ということはつまり、そこにいるみんなが卒業後確実に積み重ねてきたであろう年月が「まったく意味を成してない」ことになるのではないか?ええい、冒頭部『歳相応な』からの二文削除!

 大阪組が終電で帰って行き、残ったのは三人。もう一本ビールを追加して石地さんと話をした。会津さんは素足になって椅子の上に折り畳まった状態で寝ていて、時折目覚めて会話に加わった。

 その一本を飲み干して、もう1軒行くという石地さんと『次回』を約束してから会津さんとタクシーに乗った。ホテルまでにまた何度か会津さんの寝言を聞き、しこたま呑んだ自分も寝落ちしかける。午前0時を回った頃にホテルについて、ふらつきながら「はれぇ、カサがない?」という会津さんを部屋に送り届けた。同じホテルでよかったわ。

 翌朝は『篠突く』土砂降り、とても外を歩けるような状態ではない。1本のカサを頼りに地下鉄の駅まで行き、京都駅まで出て会津さんのカサを買った。前夜の呑みすぎによっていくらか脱水気味なふたりはとりあえずコーヒーを飲んで、帰りの切符を確保するために金券ショップに立ち寄った。朝昼兼用の食事を取った蕎麦屋で、今はもう結婚して読み方のわからない苗字になっている鞍多に前夜の写真を送る。するとすぐに「次、行くから呼んで」と返ってきた。

「鞍多今どこにいんの?」「千葉」「千葉から来るかぁ?でも、あいつなら来るか」「多分ねぇ」

 名古屋と鳥取からやって来たふたりがそんな会話をしている。きっとこれから一座は増える。増えても同じ、呑み始めればすぐに間の二十年はなかったことになるんだろう。

 午後早い時間の新幹線で帰って行く会津さんを見送り、別れ際に握手をした。

 「じゃあ、また!」

御馳走中華 歌い放題プラン

2011-06-07 08:31:47 | 洛中洛外野放図
生ビールが出てきたところで、料理を注文した。
「それと、『季節の野菜炒め』と『湯葉と野菜の葛かけ』と…」
と言いかけると、日本語はまだよくわからないので、メニュー表のそれぞれの料理名の横に振ってある番号で言ってくれといわれた。
「あー、これ、49番と48番、それと34番と27番」
「炒蔬菜、炒素□(中国簡体字・火偏に会)、干烹鶏、糖醋肉、ひとつ?」
「あ、うん、ひとつずつ」
四条大橋の西詰め、南側に古くからある北京料理店『東華菜館』本店は毎年5月から9月にかけて『鴨川納涼川床』を開催するので、4~5人で連れ立って毎年夏に何度か足を運んだ。ホールスタッフは中国人留学生が多く、そのときはたまたま日の浅い人に当たったらしい。確認されても正味の中国語なので、合ってるのかどうかよくわからない。それまで何度か行った中でそんな経験は初めてだったが、まぁ、メニューに載っているものなので、食えんモンは出てこないだろう。とはいえ、だ。

 ここの建物はウィリアム・メレル・ヴォーリズ氏(といっても誰だかわからないが)の設計になる『スパニッシュ・バロック様式』だそうで、大正時代の俊工時そのままの姿を残している登録有形文化財なのだという。エレベータは手動式で、アメリカOTIS製(といっても何のことだかわからないが)の日本に現存する最古のものだそうである*。このどうしようもなくレトロで大正モダンな風情漂う洋館で食事をするのになんというか憧れていた。一品の値段はスープやデザート類を除いて1,200円~1万円くらい、本格中華としてはお手ごろなのであるが、なにせ普段の食事に一日1,000円もかかってない、というかかけられないようなヤツらなのである。最初の注文も1,600円を越えるものは含まれていない。間違えて高いものを持ってこられたら、食えんモンではないだろうが財布と相談の上、ということになっても困る。そこで一番年下の平田に「いざとなったらお前が残って皿洗いなとホールの掃除なと、命じられるまま働いてくるように」と因果を含めているうちに料理がやってきた。
一皿置いていくごとに料理名を言われたのだが、わからない。見てもわからないのがあったので、「どれ」とメニューを見せると「これとぉ、これ」と指差してくれた。合ってはいるようです。何品か頼んでも全部一人前である。それを4人で分けようというのだから到底足りるものではない。そのうち生ビールと中国酒で気が大きくなってくる、となると当然アレが食いたいのコレ持って来いの、ということになる。だが結局追加したものもすべて3,000円未満に収まっている。

「何かせせこましいな、もっと高いモンどう?」「んなこと言ったって、フカひれとかアワビとか、高いもん食ったことないですよ。ホントにうまいんですか」「知らんがな。そんなモン食ったことはおろかナマで本物見たこともないわ」

なにしろ北京ダックの身を食わせろとか言い出す始末である。どうやらこういうところで食事をする資格のある者はいないようで、そのような連中が憧れだけで背伸びしている。

 食うだけ食ったらもう繁華街に用はない。そのまま河原町界隈の店になだれ込むこともあったが、大概は白梅町周辺まで戻って、または誰かの下宿に行ってそのまま呑み続ける。大概はウイスキーとかカクテルとか、強めの酒をショットで飲めるようなところに行った。

ところが一時期「二次会はカラオケ」という流れになることも多かった。そんなわずらわしいことをするよりもただ酒を呑んでいるほうが好きなのだが、そうはいっても付き合いはある。『大阪で生まれた女』を歌ったりしていた。普通に歌われている普及版はディスコの帰りから始まるが、BOROによるオリジナル版は18番まであって、三十数分にも及ぶ一大叙事詩である。大阪の高校時代から始まるので、ディスコで踊り疲れるまでが結構長い。あるとき「全部歌えるか」と聞かれて、何の因果か全部知っていたので「たぶん歌える」と答えたところが、6回連続で入れられてしまった。しょうがないので歌ってはみたが、やめた方がいい、さすがにダレる。後半は歌うほうも聞くほうももうヘトヘトになっていて、間奏中ソファに倒れこんで「水…」。
メンバーがメンバーなだけにテーブルの上にソフトドリンクなんぞは置かれていない。しょうがないからビールをがぶがぶと飲んで肩で息をしていると、横から古邑さんがメニュー表でパタパタと扇ぎはじめた。「もうちょっとやぞぉ」セコンドかい。最後のほうはもう誰も聴いてやしねぇ。けれども誰も止めようともしねぇ。こうなるとこっちも意地である。アホ声を張りあげてがなり倒していると、仲のいい、というかほぼ出来上がっている男と女が隅の暗いほうで睦言を繰り始めた。
「イチャつくなァ!」
同じ曲を6回も入力した張本人である曳田は床に転がって寝落ちしている。魂が叫んだ。
おれの歌を聴けえぇ!

このあたりなんだかもう訳のわからない状態で怒り心頭に発していた。こんなもん、楽しいか?

させたヤツらが悪いのか、歌ったワタシが悪いのか、われながらアホなことをしたものである。この後二度と「大阪で生まれた女オリジナル版フルコーラス」企画が出ることはなかったが、また企画が出ても二度とすることもなかったろうが、当時コミックソングを集めていたので、クレイジーキャッツやドリフターズの「ひとりメドレー」をさせられたこともある。当時は自分でも好きでやっているような気になっていたが、後になってみるとカラオケで「楽しんだ」という感じではなく、銘銘好きな歌を歌って楽しんでいる中、一人荒行をしていたような感じがした。
おかげさまでこのころの経験が軽いトラウマとなって残っているようで、現在に至っては大のカラオケ嫌いになり、楽しそうにカラオケしている連中さんを見ては「ケッ」と思うようになってしまったのである。

 *『東華菜館』メニューと建物の詳細は東華菜館HP http://www.tohkasaikan.com/ を
参照しました。

ばかなおとこ

2011-05-13 12:28:05 | 洛中洛外野放図
 先輩からこんな話を聞いた。
 天気のいい日に自転車に乗って丸太町通りを一路西へ、午後の陽を浴びて京都御苑のベンチでゆっくりと読書をしていると、少し年上と思われる男が声をかけてきた。「京都大学で数学を専攻している」ところから自己紹介が始まり、数学という学問について、自身の研究テーマについて、一生懸命に説明されたのだという。聞いていても訳がわからないし、本を読みながら適当にあしらっていたら、名前よりも先に住所を聞かれた。なんだろうと思っていると文通をしてくれと言われて、気持ち悪いし気分も悪い、こう言ってその場を去ったそうだ。
「日暮れが美しいから帰ります」

 後輩からこんな話を聞いた。
 友達とふたり、京都御苑でのんびりと喋っていたときのこと、ジャージ姿の男が現れて「自分は同志社大学のアメフト部の者である、今から腹筋のトレーニングをしたいので、足の上に乗って押さえてほしい」ということを言ってきた。友達とふたり恐くなって逃げ帰って来たのだという。

 この違いである。ナンパ(なのか?)のあしらい方ひとつ取ってみても「日暮れが美しいから帰ります」という美しくも決然としたフレーズを残して去ることができるのと、ただうろたえて逃げ出すことしかできないのと、ここに大きく了見の差が出てしまう。3年間の経験値の差は大きい。

 同期からこんな話を聞いた。
 バイト先のエライさんがスケベったらしいヒヒ爺ぃで、なんだかんだと贈り物をちらつかせて言い寄ってくる。同じ専攻で同じ授業を取っているどっかの社長のボンが、親の金にあかせて贈り物をちらつかせて言い寄ってくる。付き合っている彼氏は一生懸命バイトをしていて、誕生日に何かプレゼントを買ってあげたいと言ってくる。そこで一計を案じ、3人にとある高級ブランドの腕時計がほしいと言い、その上で希望の商品に印をつけたカタログを一部ずつ渡したのだという。手元に全く同じ腕時計が三つ、ヒヒ爺ぃとヘナチョコぼんぼんはまだしも、一生懸命バイトをしている彼氏の稼ぎには限界がある。「だからロレックスはやめといた」という気遣い(?)を見せながら、そのうちの二つを売り飛ばし、「会うときに残ったひとつをつけてたらみんな自分が贈ったもんだと思うでしょ」。

「残してるのは彼氏にもらった分だよ」と嘯(うそぶ)いてはいるが、何のフォローにもなりはしない。ナンパどころか男のあしらい方の発想そのものがバブリーな悪魔の所業である。それはないだろうと思ったが、珍しく居酒屋でおごってもらった分がそのときの「売り上げ」から出ていたことを後になって聞かされ「あんたも共犯だよ」と言われた。そういわれたら、しょうがない。彼氏に悪いと思いながら、その件については口を閉ざすことにした。

かくも女はしたたかなのである。

 同じところで資材搬入のバイトをしていた髭もじゃの埴生は学外サークルで映画を撮っていた。同女だか京女だかの短大生何人かに出演してもらうことになり、その顔合わせで飲み会をするのだという。それがどうした、と思っていたら、スタッフの一部の都合が悪くなって人数が合わないので、同じバイト仲間の羽井戸くんと一緒にちょっと顔を貸してくれと言われた。もっと適任がいるだろう。「ほんでそれ、いつなん?」「今日の6時」「何ぃ?」そりゃそうだ、当日でなければほかを当たっとるわな。全部おごるから、お前ら一銭もいらんで、というひと言で折れた。

 当時祇園にインドの王様みたいな名前のディスコがあって、そこらあたりに出没する女たちはボディ・コンシャスなスーツを身にまとい、ぶっとい眉毛で背中まで伸ばしたストレートの黒髪の前髪を壁のようにおっ立てていた。身近にそんな格好をした女がいなかったので、テレビとかでは目にしたけれど、そんなのがほんとにいるのかと思っていた。羽井戸くんとふたりで教えられた待ち合わせ場所に行って見ると、そんなのがかたまってにぎやかなことになっている。いたんだ、こういうの。その真ん中に嬉しそうににやけた髭面と、見覚えのある何人かの男が立っている。その場に行って改めて場違いであることに気づく。それはいいけど、後姿が全部一緒やぞ、これ。

 結局前に回っても見分けがつかないまま連れて行かれたところはなじみの薄い甘いお酒中心の店で、チーズの盛り合わせだとかオードブルみたいな皿盛りだとかポッキーを氷の入ったグラスに突っ込んであるやつだとか、を前にして星座とか血液型とか心理テストとか、ドーでもええわ、そんなもん。居心地が悪くて適当に返事をしていたら話しかけられなくなったので、もっとこうさっぱりとしたもので冷酒でも呑んでいたい派の羽井戸くんとふたりバーボンのロックを注文して眺めていた。無論一番高いやつである。女の一人がコースターか何かでちょっと指を切ったらしく、ねぶっとったら治るわ、そんなモン。という程度でしかないのだが、埴生をはじめとした『こんなの大好き組』の男たちも一緒になって大仰に騒いでいる。
「ああん、もぅ。イタいーゆうねん、血ィ出てるぅーゆうねん、死んでまうーゆうねん」
「死んでまえ!」小声でつぶやく羽井戸くんに1票。
その後二次会にという話になったが、もう埴生への義理は果たした。これ以上いたらどうにかなりそうな気がしていたし、今にも暴れだしそうになっている羽井戸くんは極真空手の有段者で、暴れだすと恐い。ふたりで木屋町通のおでんやでじっくりと「おとこの呑み会」をした。結局どれだけ呑んだのか、気がつくと羽井戸くんの部屋にふたりでぶっ倒れていた。

 のちに現場で一緒になった埴生によると、顔合わせの飲み会のあとプールバーに行ってからカラオケに行き、撮影資金とするはずのお金の1/3以上を費やしたうえに撮影をすっぽかされ、挙句の果てには出演を断られてしまったのだという。結局そのときの企画は頓挫し、飲み会に参加しなかったスタッフからの突き上げを食らって資金調達のバイトに精を出しているのであった。

 かくも男はおろかなのである。

バブルの残してくれたもの

2011-05-12 12:26:06 | 洛中洛外野放図
 そのころは高いところが苦手というわけではなく、むしろ高いところから下を見下ろすのが好きだった。それがバブルの終焉とともに平気ではなくなってしまったのには、こういう経緯がある。

 電信柱に「家庭教師求ム」という広告が結び付けてあるのをよく見かけた。文言(もんごん)はこう続く。「但、京大、同志社院生に限る」。ご丁寧に「京大、同志社院生」の上には赤いインクも鮮やかにぐりぐりと二重丸が添えられている。京都市民の中では確固たる大学のランク付けがなされており、その厳格さは河合塾のボーダーランクの比ではない。大学への入学手続きを完了した時点で確定し、卒業しても生涯ついてまわるそれはヒエラルキーというよりも、もはやカーストである。学生は自らのカルマに応じたバイトをすることとなる。

 工事現場への資材搬入だとか片づけだとか、雑用全般を請け負う業者でバイトをしていた時期がある。業者と言ってもきちんとした企業体というわけではなく、暴走族あがりだというほぼ自称に近い社長が、つてのある大手業者から仕事を回してもらっているという感じだった。事務所として借りている町家に行くと社長のほかに経理と事務を担当しているという女性が一人きりで、応接セットと事務机が一つ、純然たる日本家屋の中で浮いて見える。おりしもバブル全盛のころで、建築業に携わる人はおしなべて羽振りがいい。いわば現場の半端仕事を請け負っているだけなのだが学生のバイトを10人近く使っている。もっとも、正社員は雇わずバイトだけだったが。建築資材の搬入が主なので、一現場あたりの実労時間は2~3時間ほど、ふたつ掛け持ちしたとしても半日もかからない。社長がいくらハネていたのか知らないが、それで手取りが現場一箇所当たり日給8千円、掛け持ちすれば当然その倍、というのだから、完全に経済観念がトチ狂っている。

 繁華な通りのおおきなビルが大規模な改修工事を行ったとき、上層階で使う内装材を屋上から搬入することになり、現場が動き出す前に作業を終わらせておくために日の出よりも早く屋上に上った。夏のことなのでかなり早い。クレーン業者を待っている間にだんだん明るくなってきて、向かいのホテルに陽が当たりはじめた。「おぉっ!」バイト仲間の峰元君が、向かいの一室を指差して「裸っ、裸!」と騒いでいる。そこにいた元受の現場監督1名、当方社長1名、バイト3名が一斉に色めき立って峰元君のもとに集まり、指差す先を凝視した。縦長の窓を額縁のようにしてベッドが納まっている。その白いシーツの上にでうつ伏せになって寝入る全裸の人。
『おっさんやん!』
いくらなんでも全裸の女がカーテンも引かずに寝ているわけがないのだが、夜中と呼んでも差し支えないほど早い時間から寝ぼけ眼で夜明け前の風に吹かれている男共が本能の赴くままに行動したとしても、誰にも責められはすまい。「アホっ!」「ボケっ!」「スカタン!!」峰元君は何も悪いことをしてないのにボロカスに言われている。「あれ、ウチのモンやで…」落胆した監督によると、皆で見つめていたフロアはほぼ工事関係者で占められているのだという。
 並んで朝日を浴びてたばこをふかしているうちに下の準備が整った。クレーンで吊り上げた資材を屋上に引き込まなければならない。暗黙の了解というか、その場の成り行きで峰元君が体を乗り出すことになった。命綱が手でも引きちぎれそうなほど心もとないものなので、その峰元君のベルトをバイトがつかみ、そのバイトのベルトをもう一人のバイトがつかみ、「おおきなかぶ」みたいになって作業が続く。このあたり、バイトが現場の中で完全に耐久消耗材と化してしまっているところもバブル騒乱の世相を反映していると言えなくもない。

「おーい、バイトくぅーん」「へ~い」「ちょっとこっち手伝(てった)ってー」「へ~い」
と、完全に『丁稚返事』をしているバイト学生は社長と正式な雇用契約を結んでいるわけではなく、明確にシフトが組まれているわけでもない。「明日いけるかぁー?」という確認の電話が入って、行けるものが行く。現場で親しくなった職人に声をかけられて別の現場に行くこともあった。融通が利くというと聞こえはいいが、要は流浪の現場人足である。

 建物外周に組まれた足場は幅50cmもない。その上を、いろんなものを持って走り回っていた。三階から0.5×3mほどの板を何枚かおろす必要があって、上から下へ手繰(たぐ)りでおろしていくことになり、三階のフロアから板を持ち出して下に差し出すポジションについた。下から思ったよりも強く引っ張られ、足場の端で踏ん張っていた靴が滑ってしまった。「えっ」と思ったときには尻を打ち、背中を擦っていた。その直後、体に何の負荷もかかってないような感じになって、何かに掴まろうにも摑むものがない。その頼りなさといったら、何にも例えようがない。
 いろんな場面が脈絡もなく浮かんできたのを覚えているが、何が浮かんできたのかはまるで覚えてない。これが『走馬灯のように』というものか、とはいえそもそも『走馬灯』がよく分からないので、その例えがふさわしいのかどうか判断できない。体感的には結構長い時間黒々とそびえる足場と、その向こうの青い空に浮かぶふわふわとやわらかそうな白い雲の絵面を眺めているうちに背中から強く突き上げられるような衝撃があって、胸が詰まって息ができなくなった。
 空が青い。
 最初はそれしかわからなかった。息が詰まって体中が重苦しい。やがて大きな声が聞こえると思ったら、いつの間にかバイト仲間や依頼主の職人やら現場監督やら、大勢の人が取り囲むようにして上から覗き込んで、「大丈夫かぁ!」だの「わかるかぁ!」だの叫んでいる。意識はあるが呼吸ができないので「はぁふうぅ」とあえぐだけである。しばらくしてようやく呼吸できるようになり、どうにか立ち上がることもできた。下が柔らかい土だったので事なきを得たが、コンクリートやアスファルトだったらぱちんとはじけてしまっていたかもしれないと思うとぞっとする。現場監督に病院まで連れて行ってもらって検査を受けた。どこの骨にも異常はなく、現場に帰る車の中で「おまえ頑丈やなぁ」と言われた。そんな感心されてもなぁ。
 現場に帰ったらそこであがっていいと言われ、見舞金としてなにがしかのお金を包んでもらったが、そのまま現場近くの銭湯で汗を流してから喫茶店で時間をつぶし、帰りにバイト仲間たちと呑んでしまった。それでその事故とは縁が切れたと思っていたら、明確な因果関係を辿ることはできないがそのときの強打で背骨がどうにかなってしまったたらしく、後年ふとしたきっかけでぎっくり腰状態になる慢性の腰痛持ちとなり、10~15mほどの高さで自分と地面の位置関係が明確に把握できるところでは脚がふるえ冷や汗をかくという高所恐怖症が残ってしまった。

貌の創

2011-05-11 12:24:34 | 洛中洛外野放図
 佐宗さんと一緒に呑んで、居酒屋「りゅうせん」を出たときにはすでにいーぃ感じに出来上がっていた。後期試験も間近いため米谷に講義ノートのコピーを渡すことになっていたが、夜バイトが終わってから来てくれということだったので、一度帰ってまた出直すのも面倒だし、誘われたのをコレ幸いと、つなぎのつもりで呑みに出ていたのである。つなぎのつもりが本気になって、料理は美味いし、結構な量を過ごしてしまった。バイトが済んだら飯を食っているという米谷の下宿の近所にあるお好み焼き屋で待ち合わせていたから、佐宗さんと別れて嵐電の線路沿いをフラフラ辿り、御室方面へと向かって行った。意識と気持ちはあるのに体が全く追いつかず、自分でイライラするほど真っ直ぐ歩けてない。もうへべのレケレケである。やっとの思いで約束の店にたどり着いたら中で大きな声がする。何事だろうと覗いてみるとなんだかいきり立ったガタイのでかい男が米谷を怒鳴りつけていた。なにやらプイーンとバイオレンスなにおいが立ち込めている。コレはまずいんではないか?おぼつかない足取りで割って入ろうとすると「やめとけや」と言う米谷に羽交い絞めされた。そこは鮮明に覚えている。羽交い絞めされてガタイのでかいのと正対することになり、そいつが自分の横にある丸椅子の脚を摑むのが見えた。えっ、と思ったが動けない。椅子が見える。近づいてくる。米谷、離せ!

 顔面に重たい衝撃があった。そこから先は覚えていない。気がついたら嵐電の線路の上にうつぶせになっていた。かなり鼻血を流しているようで、どこかで顔を洗いたい。あたりを見ると、御室あたりのお好み焼き屋にいたはずが、なぜだか元いた「りゅうせん」のすぐ裏手だった。訳がわからない。わからないけど、とにかく顔を洗いたい。まだ開いていたのでお絞りをもらおうと思ってりゅうせんに行った。するとマスターはもとより居合わせた酔客までが騒然となり、最初のひと言は「誰にやられた?」という質問だった。鼻血を拭きたいのでお絞りをくださいというと洗面所へ行って来いと言われた。鏡を見ると、鼻の頭からあごにかけて数箇所がばっくりと割れている。何だコリャ?さわってみると何の感覚もない。洗っても拭っても血が出てくる。困ったことになったと思って出て行くとお絞りを何本か渡された。警察の、救急車の、という話になっている。椅子でぶん殴られたのは覚えているけれど、衝撃を感じたのはたしか上の方で、今割れているのは下の方で、混乱している。なんだか面倒なことは面倒だと思ったので、自転車でつんのめって顔面から突っ込んだ、という説明をした。「アホやなぁ」とか、「そんななるまで呑むからやん」とか、皆が『しょうのないアホぼん』の世話を焼くような雰囲気になってどうにかささくれ立った緊張感はなくなったものの、血は流れつづけている。こっちもどうにかせんと。自分で歩いてきたし、そのときも受け答えはしているし、救急車ではなくタクシー会社に電話をして、外科の救急当番となっている病院に送ってもらうことになった。その段になって財布がないことに気づいてタクシーは無理だというと、マスターが千円札を三枚渡してくれた。

 連れて行かれたのは北野天満宮と今出川通を隔てた中立売通沿いにある相馬病院で、途中まで連れて帰ってもらったようなものだった。都合22針縫われて、夜が明けたら改めて保険証を持ってくるように、料金はそのときでいいからといわれて、とっとと出て失せろとでもいうかのように追い出された。そうか。酔っ払いはこう扱われるか。惨めな気持ちで下宿まで帰ってみると鍵がかかっている。鍵は財布の小銭入れに入れてある。普段あまり鍵をかけないのに、珍しくかけた日に限って財布をなくす。まさに米朝師のいう「貧すりゃ鈍する、藁打ちゃ手ぇ打つ、便所行ったら先に人が入っとおる」というくらいに間が悪い。さらに惨めな気持ちになって七本松通を北へと向かい、今出川通の対岸にある佐宗さんの住むアパートを見上げた。幸いなことに佐宗さんはまだ起きている。

「うあっ!」
というのがドアを開けた佐宗さんの第一声である。そりゃぁそうだろう、顔面を包帯でぐるぐる巻きにした得体の知れない男が立っているのだから。麻酔で顔面が麻痺した上に包帯で締め上げられているので思うように喋れない。それでもどうにか「こいつは松田である」ということを理解してもらって中に入れてもらった。筆談でここに至る経緯を説明し、もっとも面倒なことは面倒なので自転車ですっ転んだことにしてあるが、鍵をなくして部屋に入れないのでねじ止めしてある錠前をはずすためにドライバーを貸してほしいと頼んだ。それはいいけど、明日のことにしてお前少し休め、というありがたい言葉をかけてもらい、横になった。

翌朝佐宗さんに付き添ってもらって、北野天満宮の向かい、ということは相馬病院とも中立売通を隔てて向かい合う西陣警察署(当時・現京都府上京警察署)に財布の紛失届けを出しに行った。
「事故ですか!?」
受付の警官が大きな声を出した。そう見えるのも無理はないが、なんだか佐宗さんが加害者のようになっている。申し訳ない。それからまた佐宗さんの家に行ってドライバーを借り、下宿に戻って銀行の通帳と保険証を探し出し、銀行へ行ってお金を下ろして相馬病院に向かった。麻酔が切れてから縫われたあとが痛いわ熱いわ、鼓動とともにずきずきするような不快感がある。一通り診察をしてもらい、抜糸とそれまでの通院の予定を聞いて支払いをした。昨夜はまるで蛇蝎(だかつ)のごとくに忌み嫌うような態度を取っていた同じ看護師さんなのに、なんだか妙にやさしい感じがする。そのまま下宿に帰ってひっくり返った。

 夕方に電話が鳴ったので目が覚めた。取ってみたら米谷で、ずっと電話に出ないし、何度か部屋に来てみたが留守だったから心配したと言われた。いや留守にはしてない、眠ってたんや。ひっくり返ったのがお昼前だったが、それからまる1日以上眠っていたらしい。日付が変わっていた。いいかげんむかついていたので怒鳴りつけてやりたかったが、悲しいかな思うように喋れないうえに自分でもよく分からないところもあるので、とりあえず説明を聞いてみると、こういうことらしい。

・ 相手は同じアパートに住む別の大学の男で、飲み友達である。
・ 確かに大きな声を出したがけんかではなく酒の上の勢いであった。
・ 松田が踊りこんできたときものすごい勢いだったので、そのまま殴りかかるかと思った。
・ これはやばいと思ったので米谷は松田を止め、相手は椅子を盾代わりに防御しようとした。

そのときはたんこぶを作ってぶっ倒れただけで、血は一滴も流れていなかったそうだ。謝る相手にちゃんと答えていたというけど、くどいようだが記憶にない。それから相手が帰って行ったあと、松田は米谷に講義ノートを渡すと結構な勢いで店を出て行ったらしい。またもやぶん殴りに行ったのではと心配した米谷も後を追ったが、すでに姿が見えなかった、という。

 一通りの説明を聞いて、信じようにも疑おうにも何も覚えてないのでもう丸呑みにするしかない。痛くて面倒くさいうえにイヤなことを思い出してしまうのもイヤなのでそれ以上は不問とし、当時自転車を持ってはいなかったが、自分に対しても『自転車説』を採ることにした。ずきずきする顔面をもてあましているとまた電話が鳴った。佐宗さんから聞いた鞍多が心配してかけてくれたようだ。何か食べたいものはあるかと聞かれたが、痛くて物が食えそうにない。そう答えてお礼を言った。電話を切ってしばらくするとノックの音がして、それぞれが牛乳と100%オレンジジュースと蜂蜜を持った栄地と上浦と鞍多が入ってきた。一人ずつが「たんぱく質」「ビタミン」「糖分」と言って枕元に一つずつ置いていく。
「とりあえずこれで命は繋げるっしょ」
「ええ歳して自転車で転んだアホを笑いに来たんやけどな」
「コレは笑えんなぁ」
相変わらず口は悪いが、心配してくれているのがよく分かるからとてもありがたい。しばらく話をしてまた来るわな、といって帰るときに、鞍多が小さい声で「あんた、自転車持ってないのにね」と言って笑った。それが違うことに気づいているらしいが、すまん、本人もわかってない。入れ替わるように後輩の潟澤、裏鋤、大和田、房野が来てくれた。みんな想像以上の惨状にびっくりするらしいので、だんだん面白くなってきた。そのあと1本ずつビールを持った佐宗さんと古邑さんがやってきて、目の前で飲みやがった。くっそー!悔しがるさまをサカナにされたが、無水シャンプーと体を拭くためのウエットティッシュを持って来てくれていた。

 翌日の昼前、西陣警察署から財布が届けられたという電話があった。現金、カード類、学生証、部屋の鍵、レシート、なくなっているものは何もない。届けてくれたのは白梅町に住む小学生で、拾った場所は自宅近くの空地だという。倒れていたりゅうせんのあたりは椅子の一撃をくらったお好み焼き屋と財布の見つかった白梅町のちょうど中間地点に当たる。するとお好み焼き屋を出て、白梅町でなんかあって、半分引き返してぶっ倒れたのか?ナゾは深まるばかりでございます。ともかく財布を受け取って本屋に行き、図書券を買って教えられた住所に行った。行ってみると拾ってくれた子は留守で、平日の昼間だから当たり前なのだが、対応に出られたお母さんは絶句していた。忘れていたが包帯男なのである。くどいくらいに礼を述べて診察を受けに行った。ガーゼを替えてもらって、包帯ではなくテープ止めになった。とはいえまだ顔面の半分以上が隠れている。

 試験前なので午後の授業には出席した。最初はみんなが驚いて固まる様子を面白がっていたが、しまいにだんだん嫌気がさして、最後の授業には出ずにBoxに顔を出した。そのとき居合わせた潟澤に、前日は見舞ってやりたいと思った連中が相談の上で品物の分担を決め、時間をずらして来てくれたということを教えられて、嬉しくてちょっと泣きそうになった。

 抜糸よりも先に後期試験が始まった。試験では写真つきの学生証を机の上に置いて、監視員が机間巡視して本人確認をすることになっている。試験のたびに監視員は驚いたように立ち止まり、中腰になって、顔を横にして下から覗き込んでくる。一人しつこい奴がいて、腕組みをして横に突っ立ったままじっと見ている。しょうがないのでガーゼをはがしてにっこり笑ってやった。縫合されたところはまだナマで、乾いた血も乾いてない血も糸に絡みつくようになってまだら模様を作っている。自分で見るのも気持ち悪い。そいつは顔を背けて口を手で覆い、小さな声で「すいません」と言って歩いて行った。ざまを見給え。

 どうやら無事に試験も終わり、抜糸も済むとようやく自由に口を動かせるようになった。ただ舌の一部も切れていて、治りかけたところが腫れ上がっているので、まだしばらくは思うように呑み食いできそうにない。そのうちに試験の結果が発表となって、幸い落とした単位もなく、試験の打ち上げと称して呑んで回っている連中をうらやましく思った。結局一月ちかく牛乳とオレンジジュースと蜂蜜で過ごすことになり、そのおかげで過激なダイエット効果が得られた。効果はテキメンだが、あまりおすすめはしません。それはさておき、糸を抜いた日の夜、米谷と一緒にガタイのでかいアンちくしょうがフォア・ローゼズを持って訪ねてきた。しきりにゴメンよぉ、と言ってくれるが、米谷の説明通りであるならこいつは全然悪くないのである。上記のとおりその説明を丸呑みにすることにしてあるので、結局こいつはいい奴じゃん。それ以来、そのガタイのでかい杣君とも飲み友達になった。

ようやく物が食えるようになるとまずりゅうせんに行ってお金を返し、そこで祝杯をあげてもらった。それからやたらと呑みに誘われるようになり、連日のように連れ回され、部屋に押しかけられ、乱痴気している間に次の春がやってきた。

理髪師のデッサン力

2011-04-17 16:58:00 | 洛中洛外野放図
 千本通から仁和寺街道を西に入った南側に古い散髪屋があった。木造の白いペンキ塗りの建物に入ると、正面の壁にくっつけるように白く塗られた木製のラックが置いてあって、薄手のガラスがはめ込まれた扉の奥に段を分けてバリカンやはさみ、櫛、かみそりなどの道具が整然と並んでいる。テレビもラジオも置かれていない、散髪屋というよりも診療所といった雰囲気の内装で、水色のタイルと白い壁が涼やかな清潔感を出している。東側の壁に大きな鏡が並んでいて、そちらを向いて一つきり置かれている椅子に腰を掛けて髪を切って髭を剃ってもらった客は、西側奥に据えつけられた流しまで移動して髪を洗ってもらう。古風な店主の着る白衣まで古風な感じの古風な店である。店主は寡黙なおじさんで、最初に「どんなふうにしますか」と尋ねたきり、洗髪を促すために「どうぞ」と言うまでひと言も口を利かずに仕事をする。ラジオやテレビの音も、話し声もない状態なので、手動のバリカンのスプリングがきしむキュイキュイという音、バリカンが髪を刈るショリショリという音、はさみを使うシャキシャキという音、切られた髪の毛が前掛けに落ちるぽそっという音、シェイビングフォームをあわ立てる器の中にお湯を入れるときのとぷとぷという音、陶器とブラシが立てるさわさわという音、顔に塗られた小さな泡がはじけるときのぷち、ぴちという音。段階ごとにいろいろな音が聞こえて、髭を剃る前に木製ラックの横に吊るされたなめし皮で剃刀を研ぐ、これがまた古風な中折れ式の一枚刃の剃刀で、その音が妙に冴えて聞こえる。ここのおじさんに髭を剃ってもらうと、自分で剃ったときと比べて髭の伸び具合が半日違うほどしっかりと剃刀を当ててくれる。大変にさっぱりとするが、金属アレルギーを持っているのでその後2日間ほどは痛くてさわることすら出来なかった。なので、静かでゆったりとした時間の流れる大好きな店だったが、そうおいそれと通うことはできない。

 仁和寺街道を千本通まで出て少し北に行った西側に理髪店ができた。理髪師が何人かいて、いちどきに三人の客を捌く。表に出ている料金表を見ると、カット+髭剃り+洗髪で、上のおじさんの店よりも随分と安い。安いので入ってみると、結構なボリュームの歌謡曲が有線で流れていた。北向きに三つ並んだ椅子の両端はふさがっていて、真ん中に座ると瀬戸わんや師匠そっくりの職人に当たった。三人並んで仕事をする職人たちは、それがサービスと心得ているのか店の方針なのかは知らないが、頭をいじりながらのべつ客に話しかけている。自分の当たった職人は、髪を切りながら漢方の話を滔滔(とうとう)と語っている。漢方薬の名前と効能を並べ立てているうちは別段気にもならなかったが、髭を剃りながら頬や首の皮膚をつまんで「硬い」と言い出した。若いのにこんなに硬くなっているのはいかん、と言い、しまいにはこんなに硬いのは不摂生をしているからだとか何とか説教じみたことになって、漢方を飲め、と勧める。なんだかカチンときて、半分そり残して泡をつけたまま帰ろうかと思うほど気分を害した。そこはそれきり。

 仁和寺街道から下宿の前を通る名のない路地を南に下り、突き当たったところで千本通りに向かってクランク状に曲がりくねった道なりに進んでいくと、南側にガラス張りのこぎれいな理髪店がある。東側の壁に鏡が取り付けてあって、鏡の下には折りたたみ式の洗面台ユニットが収まっている。散髪用の椅子が2台並んでいて、その間はたっぷりと取ってある。店そのものはそれほど広くはないが、広々と感じられる。店は静かで、たまに薄くラジオが流れている。表向きに大きく取られた窓からシェード越しにやわらかい陽光が入ってきて、最初のおじさんの店が涼しい感じがしたのに対して、この店は暖かい感じがする。店が新しいわりに年季の入ったおばさんが2人でやっておられて、聞けば西陣京極華やかなりし頃からある古い店だけれど、リフォームして間がないのだという答えだった。カットも髭剃りもやわらかくていねいにしてくれる。特に髭剃りあとの耳かきをしてもらっていると「ふあぁっ」と遠いところに行ってしまいそうになる。一度、髭剃りの最中に気持ちよくなって、ふと気づくと店に入ってから2時間以上経っていたことがあった。驚いているとおばさんは「目ェ覚めたか」と言って「お兄ちゃんがあんーまり気持ちよさそに寝てたもんやから」と笑った。それから「ほな、続きしよか」と言って残りの髭を剃り、耳かきをして髪を洗ってくれた。ここでもゆったりとした時間が流れる。

 大体月イチのペースで髪を切っていたが、なんだかんだでばたばたと忙しく、しばらく散髪に行けないときがあった。いいかげんうっとおしくなって無性に髪を切りたいと思ったのはこれから夏に向かおうかという晴れた暖かいお午ごろで、久しぶりに恋人と部屋にいて、何をするでもなく一緒に畳の上でうつらうつらと、西の窓からお向かいの葉桜を見上げていたときだった。デッサンがちゃんとできる人だから、任せてみても差し支えなかろう。切ってくれというといいよ、と言ったので、新聞紙とゴミ袋とはさみと櫛とを持って、共同炊事場を通り抜けて物干し台に出た。はさみといっても一般の事務用である。物干し台は建物の南側のひさしの上に据えつけられていて三畳分ほどの広さがある。町並みが古く、周りにあるのは日本家屋で裏手が駐車場になっているので、陽を遮るような高い建物はない。一面に陽を浴びてぽかぽかとしている床の上に新聞紙を敷き、その上に胡坐をかいてゴミ袋の底を丸くくりぬいた穴から頭を出す。「集中するからあまり話しかけんといて」と言うので、日光を反射してキラキラとまぶしい周りの屋根瓦を見渡しながらはさみの音を聞いていた。髪が落ちてもあとでまとめられるようにと思って新聞紙を敷いていたが、下に庭があって建物が密集していないから風が吹き抜けてゆく。切った端から飛ばされて行った。日向でビニール袋をかぶっていると少し汗ばむくらいの陽気で、うとうとしかけていると「んー、こんなもんか」と聞こえた。頭の後ろをなでてみるとかなり短い。そのまま炊事場の水道で髪を洗ってさっぱりする。さっぱりしてから食事に出かけた。

 千本通から中立売通を少し東に入ると、老夫婦がやっている太陽軒という中華料理屋があった。古い店で、古い製麺機を使って作る自家製麺がとても美味い。ラーメンを食べて、天気はいいし、時間はあるし、そのまま東向きに知恵光院通まで歩き、南に折れてぶらぶらと散歩をした。Tシャツを替えてあるが、髪の切れ端でちくちくする。途中で晩の食材を買って、午後の残りいっぱいをかけて料理を作ってもらって、その間に銭湯で体中の髪の切れ端を洗い流してきて、ゆっくりと食事をした。終電前に彼女を送って、部屋に戻ってぼんやりとビールを飲んでいると、壁に映る自分の影が目に入った。影法師の頭から長い毛が一本だけにゅーっと伸びている。形はきちんと整っていたけれど、こういうところがやっぱり素人だわな。はさみを持ったが、後ろの方なので鏡で見てもわからない。結局翌日にその一本を切ってもらって、足掛け2日がかりの長い散髪が終わった。

健脚談義

2011-04-16 16:56:23 | 洛中洛外野放図
 阪急京都線は最初の河原町駅を出発して、烏丸、大宮、西院を経て地上に出る。それから西京極を過ぎると桂川を渡ったあたりで大きく南にカーブして桂、洛西口、このあたりでJR東海道本線と国道171号線との三本が並走するような形になって、東向日、西向日、長岡天神の次にある大山崎で天王山を越えて大阪に入ると水無瀬から上牧、その次で高槻市に到着する。

 晴れた朝だった。部屋の電話が鳴る。出てみると古邑さんで「お前今日暇け?」という内容だった。(自称)九州男児の古邑さんは、なぜだか会津さんに「ポチ」と呼ばれている。由来を聞いたが酔っていたので覚えてない。だから未だにわからない。そんな名前で呼ばれても一向に意に介さないようで、意に介すどころか「息子が生まれたら『地を歩む』と書いて『ぽち』と名づける」などとのたまっていた。
「レ点が要(い)りますよ」
「つける!」
その名前が元でいじめられはしないか、それが元でグレてしまうのではないかとまだ見ぬ地歩君の将来を案じたものである。しかし後年我が家に届けられる年賀状の写真に写っているのは娘さんがふたり、安堵に胸をなでおろしている昨今であるが、ともかくその日が平日だったか休日だったか、なんだかの用事があったので最初の問いかけに「いいえ」と答えて切った。相当に早い時間だったので、ちょっとムカついて用もないのに「いいえ」と言ったのかもしれない。要するに今となっては判然としないのだが、ともかく断った。

 夕方、というか晩方に電話が鳴る。出てみるとまた古邑さんだった。相当にご機嫌な様子、かなり飲んでいると見た。普段のペースを考えるとまだ早いような時間だったが、何しろ学生である。日の高いうちから突っ走るのもままあることで、こういう電話は大抵「ここまで来い」だとか「これからお前んちに行っていいか」だとかにつながる。後ろで「あ、なになに?だれ?」と聞き覚えのある声がする。「ちょっと代わるわ」のあとに「まつだぁ?」と聞こえてきたのは会津さんの声、こちらもだいぶテンションが高くなっている。
「呑んでるよぉー」わかってます。
「どこで呑んでると思う?」知りません。
「どこですか?」
「高槻の駅前ー」はぁ?「今から帰るとこー」はぁ。
京都に戻ってきたらどこかに呼び出されるのかと思ったがそうでもないらしい。二人ともただ『今自分たちが高槻にいる』ことと『大変に疲れていて、これから電車に乗って帰る』ことを伝えたいらしい。「じゃねー」と言われて電話を切られても、なぁ。誰がどこで呑もうと知ったことではないし、そんなことをいちいち誰かに報告したこともされたこともない。

 不可解な一夜を明かして翌日Boxに行くと、古邑さんと会津さんがいて、高槻市在住の佐川先輩も揃って、この人たち、心なしか日焼けしてないか?会津さんがなにやらノートに書き付けていて、みると『高槻 Walk!』とある。Walk?? どうやら、そういうことらしい。大学からの阪急京都線の最寄り駅は河原町から数えて四駅目の西院となるが、そこから上記の道のりをてくてくてくてく、電車で行くとわずか20分ほどだが、朝早く出かけて途中某大手酒造メーカーが蒸留工場を建てようかというほど清冽な水の湧く天王山を越え、午後遅くに到着したのだそうだ。そりゃぁ疲れるだろう。前日早朝の電話で「暇です」と答えていたら、一緒に行くことになったのかしらん。参加者を聞くとあまり面識のない、すでに引退した先輩(高槻市在住)が言いだしっぺで、その先輩と同期の、こちらもあまり面識のない、もう一人の先輩(高槻市在住)と上記の三人。そのメンバーだと誘われることもなかったと思われるが、とにもかくにもよう言わなんだこっちゃ。

 百先生の言を待つまでもなく、どこかへ出かけたら必ず帰らなければならず、帰るというのは立派な用事である。歩いて帰るために朝早く京都までやって来るのもどうかと思うが、参加者五名のうち高槻市に住まう三人はまぁ、よしだ。わからないのが京都から参加の会津・古邑組で、酒を呑んで電車に乗るためだけに京都-高槻間の長大な距離を踏破したことになる。無駄なことも無駄なことをする人も大好きだが、今回のこれはちょっと仲間に入りたくない気がする。石地さんや綿部さん等、その場に居合わせた人たちとあきれ返っているのを尻目に、当の三人は「なんだか偉大なことを成し遂げた」感を漂わせながら盛り上がっていた。

 栄地と呑みながら高槻 Walk の二人に触れ、「あそこまで行くと立派だわ」という話になった。高槻市の自宅から通う栄地は「んー、歩けんことも、ないやろねぇ」と言う。その話のどこがどう琴線に触れたのかはわからないが、能面のように変化を見せない表情筋の下に熱く滾(たぎ)るものを隠し持っているこの男ならやりかねない。まさかと思いながら杯を重ねていると「ぼちぼち、帰るわ」と言い出した。すでに午前2時に近い。やりかねないとは思ったが、よもやこんな真夜中に決行しようとは思わなかった。当然引き止めたが、一度ハートに火をつけられたらもうこちらの言うことを聞き分けるような奴ではない。「アホはここにも・・・」と思いながら、勇躍仁和寺街道を西へ向かって京の闇に溶け込んでゆく後姿を見送った。

 翌日顔を合わせると、何事もなかったようにしれっとした顔をしている。聞けば、天王山を越えたのは夜が白々と明けかかろうとしているころで、夜中の山越えはさすがに「ちょっと恐かった」んだそうだ。この男のことだから街灯のあるあかるい道は避けて歩いたであろうことは想像に難くない。水無瀬の手前あたりで始発電車とすれ違うか追い越されるかして、すでに電車は動いていたが「そのまま歩ききった」のだという。家に着いたら歯を磨いて顔を洗って着替えて出かけて、1限目の授業からしっかり出ていたというのだから、もうあきれるのを通り越して感動的ですらあり、「こいつが一番立派」だと思った。その晩、立派な友の何の役にも立たない蛮勇をたたえて酒を酌み交わしたが、さすがに電車で帰って行った。

 こういう話を思い出すにつけ、良き先輩、良き友に恵まれたものであると、わが身の僥倖を嬉しく思うと同時に「類は友を呼ぶ」という諺を疑わしくも思うのであった。

幸福の基準

2011-04-15 16:54:19 | 洛中洛外野放図
「あのう」
 壁にもたれて居眠りをしかけていたら、知らない男に声をかけられた。校舎の正面入り口を入った左側は談話室のようになっていて、ソファやらテーブルやらが置いてある。そこで待ち合わせをしていた。人が多いので壁にもたれてぼんやりと人の行き来を眺めているうちに「ふあっ」となってしまったようで、そこになんだかおずおずした感じの男子学生が声をかけてきたのである。目を開けると、目の前の男は「あなたの幸福を祈らせてくれ」とかなんとか、そんなような意味合いのことを言いだした。初対面で何を言い出すんやこの男は。自分なりの基準はちゃんと持っているから実際幸福なら間に合っていたが、まぁ、祈りたいというのなら勝手にするがよろしかろう。「どうすんの」とたずねると目をつむれと言う。つむりかけてたんや、それを自分が開けさせといてからに、またつむれてかい。とは思ったが、人寄り場所で声を荒げるのもなんなので「こうかいな」とつむってやった。そのまま黙ーっているので目を開けると、相手も目をつむって口の中でモニョモニョ言っている。そおっと移動して、少し離れたところで眺めているうちに待ち合わせていた樽緒が来た。この男は「幸福とは食うものの上にある」という信条に殉じて日々を送っているような男で、その食いっぷりたるや惚れ惚れするものがある。大学の南門を出たところに『ひとみ』という喫茶店があり、ここのオムライスの大きさが尋常ではない。大盛で頼もうものなら30cmのフライパンいっぱいの代物が出てくる。それを、食いやがった。そのときは勢いもすさまじく、見ている目の前で『食ぁべよった平らげよった、いただきよった食いよった』(桂米朝師)、最後の一口を飲み込んで「どえぇーい」と言いながら皿の上にスプーンを投げ出すと、周りの席からも喝采が起こった。それから二度と行かなかったようだが、ともかくこの男も明確な基準にもとづいて幸福には不自由してないはずである。
「どないしてん」
「あの人な、なんかものっスゴ真剣に祈ったはんねん」
「何を?」
「俺の幸福」
「はぁ?ほんで、誰やねん」
「知らん」
二人で眺めていると、そのうち人だかりがし始めた。その男を中心にして人の輪ができかけている。お祈りが終わったかして目を開けると前にいるはずの人間が消えていて、かなりの人数に注目されている。耳まで真っ赤にして急ぎ足で立ち去っていく後姿を見送って散会となった。
「なんやったんや、あれ」
「俺が知るかい」
暖かい布団の中で布団の襟元を凍りつかせることもなくゆっくりと朝寝をしていられる、これに勝る幸福はないのであって、時候の好かったその頃は見ず知らずのお人に祈っていただくまでもなく、毎日至福の朝を迎え、この幸せが永久(とこしえ)に続かんことをと我が世の春を謳歌していた。実際世間も春だった。

 そう、春なんである。京都の町がノーんびりと、文字通り「長く閑(しず)かに」白い霞の下に沈む中、大学内では新歓ムードでそこいら中が喧(かまびす)しい。で、声をかけてくる奴がいる。
「きみ、新入生?もうサークルとか、決めた?」
ききき、キミてな。妙にカッチイン!とくる口調で話しかけられた。白いTシャツの上に襟元と袖口に紺とオレンジに近い赤でラインの入った白いVネックのセーターを着て、うすい水色のジーンズに白い K Swiss のスニーカーと、80年代末から90年代初頭にかけての絵に描いたような「爽やか」が、軽くパーマのかかった前髪の下でにやけて立っている。上浦も似たような格好をするけれど、にやけてないし馬ヅラなのでそれほど気になったことはない。前夜も酒に対する志を同じくする面々とすごし、新年度の学生証用に写真を撮るためとりあえずひげを剃ってはいるものの、酔いが抜けきってなさそうな風体はどう見たって新入生ではなかろう。声をかけられたこっちの方がびっくりして、相手の頭のてっぺんから足もとまで視線を往復させてから顔を見据えて「ちゃうで」と言うのが精一杯だった。
「ああっすいませぇん」
小さな声で一言残して校舎の向こう側へ走り去って行った。その速いこと、そんなに慌てることもなかろうに。

 学内のいたるところでいろんな団体が新入生を勧誘しようと躍起になっているこの時期は大学周辺の居酒屋も、繁華街の居酒屋もいわゆる「新歓コンパ」でやかましくなる。座敷ごとに一気コールが聞かれ、大声で怒鳴るもの、トイレの前の廊下で二つ折れになって通り道をふさいでいる者、表の歩道で寝転がってゴロンゴロンのたうち回っている者、いろんな大学の校歌や応援歌もがなりたてられる中、様ざまな酔態が展開される。こんなこれっぽっちの潤いも美しさもない、見苦しいだけの情景(もの)で春を感じるというのも悲しい限りであるけれど、それよりもこんな姿を見たら親御さんはさぞや悲しまれることであろう。入試のときどれだけの偏差値を取っていたのか知らないが、人としての偏差値は限りなく低い。とはいうものの他人ごとでなはないので、酒を飲めば酔っ払うし、酔っ払ってしまえばみな同じである。むしろ「人のフリ見てうらやましい」くらいなもので、要は酔ったモン勝ちな雰囲気が支配的になる。そんな中で諸先輩から一気飲みを強要されることなどなかったし、後輩にもさせたことがない。かといって、黙って静かに飲んでいるかというと決してそんなことでもなかった。何しろ先輩、同期を問わず周りにいるのが「酒を呑む」ことを第一義と考える人たちばかりなので、一気飲みについては「そんな酒があるなら自分で呑むわ」というという不文律が成立していたのである。各自の呑めるように酒を楽しんで、飲めない者はそれなりに過ごしていればよろしい。無理強いはしない、飲みたいやつは、呑め。これのみをモットーに酒席は進む。で、飲んでいる連中は酒のもたらすその場限りの多幸感と万能感に高揚していく。そんな周りの呑み方を見て覚えるのか、見て覚えてどうなるものか、それは知れないが、夏を過ぎるころになると酒が苦手とか弱いとか言っていた連中も、弱いなりにそこそこ呑めるようになって、翌日の軽い後悔を孕(はら)んだ小福を分かち合うことができるようになる。

 かくしてバブルの恩恵に浴することもなく金を持たない学生たちは、安上がりな基準で幸福を満たしていたのである。