松田先生のブログが殊の外好評でございます。
ここはひとつ、「連載をお願いしちゃおう!」ということで話を持ちかけたら、
快くOKしていただきました!
(「快く快諾していただきました」と書きそうになった。「頭痛が痛い」と同種の間違いですな)
バブルまっただ中、青春ドストライクの某青年が、京都で迎える風雲の一大スペクタクルをお見逃しなく!
題して「洛中洛外野放図」、はじまり、はじまり~
東西方向の通りをX軸、南北方向の通りをY軸としましょうか。まず交差点を示して原点を決める。例えば東西の丸太町通と南北の千本通との交差点を「千本丸太町」とし、そこが原点となる。この際、どちら向きの通りを先に言うという決まりはなく、慣例に従うことになる。曰く「烏丸丸太町」「四条烏丸」など、ただし、それぞれ逆の言い方はしないので、信号機にとっついている地名表示だとか、バスのアナウンスだとかに従えばよろしい。そこからX軸のプラス方向なら「東入ル(ヒガシイル)」、マイナス方向なら「西入ル(ニシイル)」と言い、Y軸のプラス方向は「上ル(アガル)」、マイナス方向は「下ル(サガル)」、原則北を向いて考える。
かつての朱雀大路に当たる千本通、現在は京都市街の真ん中より西よりの、メインストリートではないけれども主要道路の一つである。その一筋西が六軒町通、その西に七本松通がある。京都御苑の北端に接し、そのずっと西で南面する北野天満宮の前を通る今出川通から南に元誓願寺通、笹屋町通、一条通と細い一方通行の通りが並び、中立売通、仁和寺街道と続く。
仁和寺街道六軒町西入ル下ル、ここを住処に決めた。後で仁和寺街道七本松東入ル下ルとしても郵便が届いたところをみると、どうやら固定した住所表記ではなくやはり座標で考えられているらしい。北野の歌舞練場からそれほど離れていない千本中立売を中心とした界隈は以前西陣京極と呼ばれていた(だから現在繁華なアーケード街が『新』京極なのだそうな)殷賑(いんしん)な遊興街であり、六軒町通を中立売通から南へ向かっていくと遊郭が並んでいたという。当時の建物がいくつか残っていて、その西側、細い露地の入り組んだところに以前置屋だったという建物がそのまま建っている。置屋とはいわば芸妓の派遣所で、客を遊ばせるところではないそうだが、築数十年の木造二階建て、使い込まれた階段も廊下も黒光りをしていようかという日本家屋である。二階は廊下をはさんで東西両側に部屋が並ぶ。北側の端は一畳分押入れになっていて、その手前の一畳の板の間、つまり幅一間の廊下の突き当たりの部分を扉で仕切ったところ、の右手に当たる東側には四畳、左手の西側には三畳の部屋。京間の上にそれぞれ東・西向きに開口された出窓の下は30センチほど板張りになっているので広々としている。天井は網代(あじろ)編みになっていて、東側の四畳の部屋には床柱がそのまま残っている。おそらく以前は作り付けの違い棚か何かがあったのを取り払ったのだろうが、一階からぶち抜きになっている柱を取り去るわけにはいかない。諸々完備のワンルームマンションが林立する中、風呂なし、トイレ・炊事場共同で照明は潔く裸電球であるという、いわば劣悪な条件を丸呑みにしてまでここを選んだ、というのは元置屋とは知らないままに部屋の様子に一目惚れだったのである。その条件のおかげで家賃が破格に安いのも有難い。
西側が建物の表になる。仁和寺街道から3mほどの高低差があって、かなり勾配のきつい坂になっている幅2m強の狭い道路を挟んだ向いに老夫婦の営む旅館がある。営業している風でもなかったが、夜になると看板に灯りが入ったところを見るとやっていたのかもしれない。この旅館の脇に桜の木が立っており、生い茂る枝葉は通りを横切って向かいの塀の中にまで伸びている。ということは自分の部屋の西側の窓を開けると目の前の、手の触れられるほどのところで桜が満開となるわけだ。引っ越してきたのが三月の終わりで、西の出窓に腰掛けて膨らみつつある蕾にわくわくした。
挨拶に回ってみると学生は他に一人もおらず、場違いな感じがしないでもない。
入学式まで何日かあったので、荷物の整理をしながら方々をぶらぶらとみて回って過ごした。自転車があれば京都市街のいわゆる『碁盤の目』を端から端まで動き回るのも容易い。大学方面に行くには、近くにあるお寺の境内を通り抜けると近道になる。ここは広々とした公園になっていて、ちょっとした遊具がある。数ヵ月後には酔っ払った挙句夜中にここのジャングルジムの中に絡まっているのに気づくことになるのだが、それはまた別の話。おおむね色々の位置関係をつかみかけた頃、ここでよく見かける老人と会釈を交わすようになった。どこか古今亭志ん生に似ているそのおじいさんはいつも和服姿で、ステッキにあごを乗せるようにベンチに腰を下ろしている。ある日珍しく午後早い時間に銭湯に行くと、湯船にその人がいた。挨拶を交わして体を洗っていると、しばらくして湯船から出てきたその体中に、彩も鮮やかに花札が散らばっている。不意を突かれたようになってちょっと驚いたが、そう、ここは西陣京極である。往時は浮名を流された御仁なのだろう。
風呂上りに桜の蕾を眺めてぼんやりしていると、ノックの音がした。出てみると一番古くからここに住んでおられるというおばあさんで、サイダーを飲まないかと言う。気を使って様子を見に来てくださったようだ。
「ほなちょっと、取りに来てくれるか」
部屋についていって、サイダーを受け取るときに聞いてみた。
「この辺は、古い建物とか多いですね」
建物の由来はこのときに教えてもらった。そのほか色々と話をうかがった。
「そらあんた、にぎやかなところやったからなァ、そういう兄さんも結構多かったんやで」
そういう兄さん…
「そんなんがナ、なくなった後もナ、夜中に喧嘩の声やらしょっちゅうやったし、パンパーンて聞こえることもナ、あったけども」
『パンパーン』って、何の音?
「まぁそんなんも、十年よりももっと前のこっちゃって、いまは静かーなところです、んン」
へぇ。
「まぁなんか困ったことあったら、いつでも言うてナ」
お礼を述べて自室に引き下がった。
かくしていろいろな意味での不安とともに、京都での生活がスタートした。
ここはひとつ、「連載をお願いしちゃおう!」ということで話を持ちかけたら、
快くOKしていただきました!
(「快く快諾していただきました」と書きそうになった。「頭痛が痛い」と同種の間違いですな)
バブルまっただ中、青春ドストライクの某青年が、京都で迎える風雲の一大スペクタクルをお見逃しなく!
題して「洛中洛外野放図」、はじまり、はじまり~

東西方向の通りをX軸、南北方向の通りをY軸としましょうか。まず交差点を示して原点を決める。例えば東西の丸太町通と南北の千本通との交差点を「千本丸太町」とし、そこが原点となる。この際、どちら向きの通りを先に言うという決まりはなく、慣例に従うことになる。曰く「烏丸丸太町」「四条烏丸」など、ただし、それぞれ逆の言い方はしないので、信号機にとっついている地名表示だとか、バスのアナウンスだとかに従えばよろしい。そこからX軸のプラス方向なら「東入ル(ヒガシイル)」、マイナス方向なら「西入ル(ニシイル)」と言い、Y軸のプラス方向は「上ル(アガル)」、マイナス方向は「下ル(サガル)」、原則北を向いて考える。
かつての朱雀大路に当たる千本通、現在は京都市街の真ん中より西よりの、メインストリートではないけれども主要道路の一つである。その一筋西が六軒町通、その西に七本松通がある。京都御苑の北端に接し、そのずっと西で南面する北野天満宮の前を通る今出川通から南に元誓願寺通、笹屋町通、一条通と細い一方通行の通りが並び、中立売通、仁和寺街道と続く。
仁和寺街道六軒町西入ル下ル、ここを住処に決めた。後で仁和寺街道七本松東入ル下ルとしても郵便が届いたところをみると、どうやら固定した住所表記ではなくやはり座標で考えられているらしい。北野の歌舞練場からそれほど離れていない千本中立売を中心とした界隈は以前西陣京極と呼ばれていた(だから現在繁華なアーケード街が『新』京極なのだそうな)殷賑(いんしん)な遊興街であり、六軒町通を中立売通から南へ向かっていくと遊郭が並んでいたという。当時の建物がいくつか残っていて、その西側、細い露地の入り組んだところに以前置屋だったという建物がそのまま建っている。置屋とはいわば芸妓の派遣所で、客を遊ばせるところではないそうだが、築数十年の木造二階建て、使い込まれた階段も廊下も黒光りをしていようかという日本家屋である。二階は廊下をはさんで東西両側に部屋が並ぶ。北側の端は一畳分押入れになっていて、その手前の一畳の板の間、つまり幅一間の廊下の突き当たりの部分を扉で仕切ったところ、の右手に当たる東側には四畳、左手の西側には三畳の部屋。京間の上にそれぞれ東・西向きに開口された出窓の下は30センチほど板張りになっているので広々としている。天井は網代(あじろ)編みになっていて、東側の四畳の部屋には床柱がそのまま残っている。おそらく以前は作り付けの違い棚か何かがあったのを取り払ったのだろうが、一階からぶち抜きになっている柱を取り去るわけにはいかない。諸々完備のワンルームマンションが林立する中、風呂なし、トイレ・炊事場共同で照明は潔く裸電球であるという、いわば劣悪な条件を丸呑みにしてまでここを選んだ、というのは元置屋とは知らないままに部屋の様子に一目惚れだったのである。その条件のおかげで家賃が破格に安いのも有難い。
西側が建物の表になる。仁和寺街道から3mほどの高低差があって、かなり勾配のきつい坂になっている幅2m強の狭い道路を挟んだ向いに老夫婦の営む旅館がある。営業している風でもなかったが、夜になると看板に灯りが入ったところを見るとやっていたのかもしれない。この旅館の脇に桜の木が立っており、生い茂る枝葉は通りを横切って向かいの塀の中にまで伸びている。ということは自分の部屋の西側の窓を開けると目の前の、手の触れられるほどのところで桜が満開となるわけだ。引っ越してきたのが三月の終わりで、西の出窓に腰掛けて膨らみつつある蕾にわくわくした。
挨拶に回ってみると学生は他に一人もおらず、場違いな感じがしないでもない。
入学式まで何日かあったので、荷物の整理をしながら方々をぶらぶらとみて回って過ごした。自転車があれば京都市街のいわゆる『碁盤の目』を端から端まで動き回るのも容易い。大学方面に行くには、近くにあるお寺の境内を通り抜けると近道になる。ここは広々とした公園になっていて、ちょっとした遊具がある。数ヵ月後には酔っ払った挙句夜中にここのジャングルジムの中に絡まっているのに気づくことになるのだが、それはまた別の話。おおむね色々の位置関係をつかみかけた頃、ここでよく見かける老人と会釈を交わすようになった。どこか古今亭志ん生に似ているそのおじいさんはいつも和服姿で、ステッキにあごを乗せるようにベンチに腰を下ろしている。ある日珍しく午後早い時間に銭湯に行くと、湯船にその人がいた。挨拶を交わして体を洗っていると、しばらくして湯船から出てきたその体中に、彩も鮮やかに花札が散らばっている。不意を突かれたようになってちょっと驚いたが、そう、ここは西陣京極である。往時は浮名を流された御仁なのだろう。
風呂上りに桜の蕾を眺めてぼんやりしていると、ノックの音がした。出てみると一番古くからここに住んでおられるというおばあさんで、サイダーを飲まないかと言う。気を使って様子を見に来てくださったようだ。
「ほなちょっと、取りに来てくれるか」
部屋についていって、サイダーを受け取るときに聞いてみた。
「この辺は、古い建物とか多いですね」
建物の由来はこのときに教えてもらった。そのほか色々と話をうかがった。
「そらあんた、にぎやかなところやったからなァ、そういう兄さんも結構多かったんやで」
そういう兄さん…
「そんなんがナ、なくなった後もナ、夜中に喧嘩の声やらしょっちゅうやったし、パンパーンて聞こえることもナ、あったけども」
『パンパーン』って、何の音?
「まぁそんなんも、十年よりももっと前のこっちゃって、いまは静かーなところです、んン」
へぇ。
「まぁなんか困ったことあったら、いつでも言うてナ」
お礼を述べて自室に引き下がった。
かくしていろいろな意味での不安とともに、京都での生活がスタートした。